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◆◆◆ -- 2007年12月のお話 -- ◆◆◆

 

-- 071231--                    

 

         

                                 ■■白い雪だから ■■

     
 
 
 
 
 大晦日ですね。
 
 ぽん、と。
 そんな感じで、あっという間にこの日に辿り着いたおもいです。
 もう一年終わっちゃうの?という実感よりは、どちらかというと、もう明日には来年が始まるんだなぁという、
 なんだか間の抜けたような、そしてちょっと寄る辺無い、少し空白感のするおもいです。
 例えるなら、静かに雪降る夜に、ただぼーっと歩いていたら、いつの間にか家に着いていたような。
 時間の流れが早すぎると、そうぼやくほどになにかに焦っていた訳でも無く、また来るべくして来た一年
 の終わりという、そういうなにかをやり終えた感も無いです。
 割と、真っ白。
 不思議な気持ちです。
 たぶん、このサイトを始めてから、一番あっさりした大晦日です。
 言ってみれば、「大晦日」という特別な一日をこのまま素通りしてしまいそうな勢いです。
 
 それは、困る。
 
 困る。
 困るのですよ。
 紅い瞳的に。
 しん、しん、しん。
 まさに降り積もる雪が次々と音を奪っていくような静寂。
 大晦日は、特別なのです。
 なにかしないと、なにかしないとと、年末になって大慌てになって、あわわわと慌てふためいて、そして
 取るものも取り敢えずに、大急ぎでなんだかそれっぽいことを演じてみる。
 それが、意外に様になっていたりして、お、これもしかして結構いけるんじゃん? と周りの顔色を窺い
 ながらも、そのうちに調子に乗り出して、そして結局はなんだかんだでひとりで大晦日的な盛り上がり
 を魅せている。
 これが、毎年のこの魔術師の工房の恒例の罰ゲームもとい行事なのです。
 にも関わらず、しん。
 静まりかえっている。
 でも。
 よく考えたら、この静まりかえりようもまた、ある意味大晦日らしいのじゃないか。
 圧倒的な静寂に包まれ、そしてそこに響き渡る除夜の鐘。
 それと共に賑々しさを見せ始める一年の始まりの夜。
 いいじゃないですか。
 この熱さを孕んだ静寂というのも、また。
 
 でも。
 だからこそ、それをひっくり返すカタルシスが、ある。
 
 むしろ、今年こそ、紅い瞳の本領が試される。
 今までは、なんだかんだで結局ノリでそれなりに盛り上がってしまいました。
 なんてことは無いなんにも無い一年を、無理矢理にこじつけて大いに屁理屈を語り上げてみせました。
 ならば、今年もいってみましょう。
 ノリがあろうとなかろうと、それは関係無い。
 静かであるのならば、静かなるままに語り出す。
 こじつけて屁理屈を垂れ流し、大法螺を酸欠になるくらい吹いてやりましょう。
 その心意気こそが、一年の終わりである今日このときを飾るに相応しいものでありましょう。
 スタイルは違えども、状況は異なれども、しかしだからこそ、融通無碍に応じてみせましょう。
 
 紅い瞳、参ります。
 
 
 
 
 ◆
 
 なんか上で気持ち悪いことを言っている人のことは気にしないでください。
 たんにネタが無いところに、大晦日の雰囲気が手伝って絶妙な回転がかかっただけですから。
 むしろ、空回りした上に滑ってます。
 どこまでもな。
 
 さて。
 本日は今年最後の更新ということで、適当に、しかしどことなく妙に気合いを入れて頑張っていきたい
 と思います。
 
 
 今年は、正直大変でした。
 主に、リアルの方が。
 正確に言うと、去年が最悪で、そして今年はその最悪が起こした爪痕と向き合った初めの年、という
 感じでした。
 紅い瞳が、リアルのことをこうして言うのは反則なような気もしますし、正直なにげにこうしてさらっと語って
 しまっている自分に驚いています。
 大晦日の特別な雰囲気が私にそうさせたのでしょうか、そうに違いない。(心のこもってない棒読み)
 実際、「紅い瞳」という存在は現実がどうたらこうたらと愚痴を言ったり嘆いたりするキャラでは無く、
 ただあっけらかんと馬鹿みたいにやりたいこと言いたいことをやってきたことの中に生きているモノですし、
 だからしょっちゅうあんた存在自体嘘臭いんだよねといわれて、えへへとにやけてみせたりすることが出来る
 、そういう楽しさがあったからこそ、私は紅い瞳だったと思うんですよね、って楽しいのかそれ。うん。・・・・。
 で、まぁ、ほんとに冗談抜きで、そういう紅い瞳であるからこそ、出来ること言えることもあり、そしてさらに
 は、私自身この「紅い瞳」から学び得たことは多くありました。ぇ、冗談でしょ? ・・・・・。・・・・・・・・。
 
 ですからね、なにが言いたいかというとですね。
 今年は、私としては、なにかこう、この「紅い瞳」という存在に、初めて感謝したいなぁと、そういうおもいが
 この大晦日にどっと吹き出てきている、ということなのです。
 すっごい恥ずかしくて痛いこと言ってますけど、もう少し我慢して頂戴。ツッコミはあとで。
 日記を書いて、チャットではっちゃけて、また日記書いて、はっちゃけて。
 ときにはまったりだったりアンニュイだったり、ていうかお前日記に「やる気無い」って書かなかった日なんて
 ないだろ、まぁいいじゃん、とかそういうぬるいひとり押し問答を続けたり。
 私は、すごくそれが、ほっとした。
 いいえ、ほっとした、というより。
 そういう紅い瞳を認められ、なにやってんのちゃんとやりなさいとツッコミを入れることが出来るのが、
 それがね、自分がそう出来ることがひとつの自分の支えになっていたのです。
 ひとりでボケてツッコミいれて、まさにひとり遊びなのですけれど、でも、私にとってはもう「紅い瞳」は
 「紅い瞳」ですし。
 そしてなによりも「紅い瞳」に付き合ってくださり見守ってもくださる方々と共にあるモノです。
 私が「紅い瞳」に感謝するのは、その方々への感謝にも通じていることなのです。
 うん。
 こういう風にぶっちゃけちゃうのは、やっぱり反則ですよね。
 紅い瞳は、ただひたすらやりたいことやって言いたいこといって、そして時々むかつくほどにそれっぽく偉そう
 なことを言ってツッコミの集中砲火(放置プレイも含めてw)をあびたりする、だからこその紅い瞳。
 だのに、ぶっちゃけこうして私が紅い瞳の中の人的なことを、こうして「紅い瞳」として言ってしまうのは、
 それこそ反則。
 
 でもですね。
 よーく考えるとですね。
 紅い瞳っていうのは、なによりも、ぶっちゃけキャラなんだと思うんですよ。
 正直過ぎて笑えてしまうくらいに、素直過ぎて言われた方が困ってしまうくらいに、そしてさらには平気で
 嘘ついたり腹黒だったりアンニュイだったり、どこが素直やねんと怒られてはえへへと笑って、そしてごめん
 なさいとぺこりと土下座したその額についた土の落ちぬうちにもうまた豪快に土下座したりとか、んでまた
 バレバレな嘘ついたりとかぶっちゃけたりとか、まぁ、うん。
 だから、なんでもあり、ってほんと文字通りなんですよ、紅い瞳ってきっと。
 とあるキャラクターが自らをキャラクターとして語り出すのは滅茶苦茶反則ですけれど、そういう作品って
 普通にありますし、私はそういうの結構好きだし。
 うん、紅い瞳ごときがそういう立派な作品のキャラだとは言いません。ツッコミは最後にまとめて頂きます。
 
 そう。
 だから私は、なんかもう、紅い瞳が好きです。
 私は私が好きです。言っちゃった。
 私はだから、これからも紅い瞳を追いかけていきたいですし、そしてまたいつでも紅い瞳のままに、縦横
 無尽に、そして腹が立つほどにまったりしたりやる気を無くしたりとしていきたいなって、そう思っているので
 す。
 だから私は、あんまり紅い瞳という存在を、私の玩具だとは思っていませんし、それ以上に「キャラ」だと
 も実は思っていません。
 むしろ、ネット上の「紅い瞳」とリアルの「私」を分けているようにみせながら、その実それはただのひとつ
 の私という一人称でまとめられる、全くひとつの存在だと言えます。
 「紅い瞳」がどんなに中の人ぶって「紅い瞳」というキャラについて説明しても、でもその説明を口にして
 いい気になっているのは、他ならぬ「紅い瞳」なんですから。
 あるいはこうも言えますでしょうか。
 存在するのは、紅い瞳だけです。
 その紅い瞳が、なんか中の人のことを語ってるだけなんです。
 少なくとも、魔術師の工房というこの世界では。
 無論。
 こうして今語っているのも、立派なひとつの「紅い瞳」なのです。
 あ、勿論この「立派」というのは紅い瞳自身のことじゃないですよ。
 紅い瞳はヘタレですからねーただの。そこ間違えないように。 たぶん誰ひとり間違えないけど。しくしく。
 
 
 はい。
 ツッコミ入れたって。 (容赦なく)
 
 
 
 ◆
 
 なんでこんな事を語ったかというと、それは次のお話に繋がるからなのです。だと思います。
 ちゃうねん、今思いついたんやないで。
 はい。
 アニメの話をします。
 いいですか?
 ここのサイトとアニメを切り離すなんて、人間から酸素を奪うようなものですよ。
 空気読めなくなるようなものですよ。読めても読みませんが。むしろ空気捏造する勢いですが。よし。
 話が逸れました。
 アニメの話です。
 なんかもう、なにもかもアニメの話にしてまとめてしまいたいお年頃です。
 紅い瞳です。
 今日は久しぶりにらき☆すた観てたら、つかさが前より面白いって感じるようになっていたとです。
 つかさです。
 あと瀬戸の花嫁も観て、吹いた。完敗。勝てる気がしません。
 
 話が逸れました。
 
 なんかもう、いちいち文章の構成考えるのが面倒になってきました。
 ぶっちゃけ、「話が逸れました。」と打ち込んでる間に、めっちゃ次どうしようと考えてましたけど、やめ。
 単刀直入に。
 今年はもうなんか、以下のアニメ中心でした、はい。
 
 ・まなびストレート
 ・オーバードライブ
 ・怪物王女
 ・ひぐらし解
 
 あともっけもあるんですけど、これは影響を受けたというよりは、影響を受けた作品からの影響を元に、
 それをどうやってこのもっけを通して言葉にしていくか、というものとしてある感じ。
 そういうテキストとしては、今年最良作品です、もっけは。
 んで、アニメ作品として面白かったのは他にもいくつかありますけど、私的に大きな影響をばっちり受けた
 のは、たぶん上のこの4つです。
 むー?
 不満ですか?
 お前のその面白かったって作品もちゃんと書けですって?
 しゃーない。覚えてるだけでも書きますです。
 
 ・らき☆すた
 ・瀬戸の花嫁
 ・ダーカーザンブラック
 ・みなみけ
 
 他にもなんかあったような気もしますけど、まぁそんな程度な扱いのものなら書くまでもあるまいて。うむ。
 
 で。
 今年はまなストで全開でまっすぐGo!で始まって、ほんといいもん観させて貰ってでほんまにという案配
 で、とにかく「元気」というエンジンがかかること、またかけることの大切さをまなびました。
 なんかこう書くと嘘っぽいのですけれど、大掃除のときに改めて見返していたらやっぱり同じ感想しか
 思いつかなかったので打つ手無しです。OK、クールにいこうぜ。
 とにかく主体性の意識とかなんとか、そういう方法論的に自分を奮い立たせていく、個別の方法を得て
 いくことの大切さ、おそらくこの作品と出会った頃から私は「愉しむ」という言葉をよく使うようになったと
 思うのですけれど、それはつまりその自分がなにかを愉しむということを目的とし、またそれを前提とする
 ことで、様々なものがみえてくるし、また意外に出来ることはあったりすることに気が付ける、そういう
 主体的に生きるための方法論を得た成果でもあったのですね。
 自分が愉しむためにはなんだって出来る、それはたとえ今この瞬間に愉しめないと思っているものでさえ
 同じであり、ゆえに愉しめないものをどうやったら愉しむことが出来るかと考えることの方が、それを愉しめ
 無い理由を紡ぐよりも何倍も価値がある。
 そしてだからこそ、なぜ自分が今、それを愉しむことが出来ないのかをなによりも解明していく必要が
 あるのだし、その過程に於いては、実はその「愉しめないということ」そのもの自体をも愉しむ、つまり
 自分が今愉しめていないのはどうやら確実のようだけれど、よしわかった、それでもいい、それでもいい
 けれど、しかし待っててよ、それ絶対に愉しくしてみせるから、それまではしっかり愉しめ無さを味わうから
 、だから待っててよ、と、そうして自分が待つことの出来る「余裕」を勝ち得るという意味での、その
 「愉しめないということ」そのもの自体を愉しむ行為が出来るのです。
 
 そしてオーバードライブでは、今度は「愉しい」というキーワード自体をも、それが無くても生きられるよう
 な、そんな熱さを、むしろその「愉しい」という言葉を求めるために必要な大元の熱情を、魂を、それを
 ただ受動的に感じ取るだけでは無く、それをどうやって自ら掴み取ることが出来るのか、ということを
 考えさせられました。
 愉しいっていうのが目的なのはいいけれど、じゃあ、なんで愉しさを求めるの?
 それってどれくらいの欲求の強さなの?
 それってもしかして、もの凄く巨大な欲望なのじゃないの?
 少なくとも、私は自分のその欲の大きさを知らない。
 身体的に、まさにドライブがかった状態でそれに乗っかっていけば、確かにどこまでも行ける気がする。
 この作品を観ていた当初、私は確かにその乗り心地のあまりの良さに興奮したけれど、でもそれと同時
 に、じゃあこの興奮はどこから来てるんだろう、もしこの興奮が無かったらどうなるんだろう、そして。
 この興奮が無ければ、私はなにもできないの?
 初めから興奮があるのならそれでいい、でも興奮が無いのならそこからどうやって始めればいいのか。
 ゆえに、この作品もまたまなストと同様に、この興奮を生み出すにはどうしたらいいのか、ということに集
 約する作品になったのでした。
 
 そして。
 怪物王女。
 めためたにやられました。
 まさに、跪けって感じです。 (私が)
 なんていうかもう・・・よくわかんないな。
 うーん、そうですねぇ。
 一番近い言い方で言えば、ゼロになったというか、奈落の底に突き落とされて、四の五の言わずに自力
 でそこから這い上がってこい言われたような、そんな感じ。
 感想を書くことについて、その構成やらなんなり後付け的に云々してはいたけれど、結局その中身で
 一体自分がなにをやっていたのかは、今でもよくわからないんです。
 なーにをやってたんでしょね、私はあの半年間。
 それまで私が築き上げたんだか塵も積もれば山と成したのだかわからない、そんな有象無象ななにか
 を元にして感想を書く、なーんてことが一切出来なかったのは確か。
 そして、その私が培ってきていたはずのものの妨害にすらあいながら、もう無我夢中だったような。
 とにかくおまえ、色々道具持ってるみたいだけど、それ全部没収な。
 んで、ナイフ一本やるからそれで半年間サバイバルな。
 うん、そう、ちょっとそこのジャングルで。
 みたいな。
 なんか途中からナイフも折れてたような気がするんです。
 結局それで、生き残ったのは、「私は此処にいる」、というものでした。
 なんかね、すかーんとなにかが抜けたような、いい音がしてました。カキーンだと打ち過ぎ打たれすぎ。
 此処にいるって、どういうことなんだろ。
 それを、徹底して考えたような気がします。
 いえ、此処にいるっていうことから見上げた世界は、一体どういうことになるんだろって。
 たぶん、自分が此処にいる、という言葉を胸に抱き締めるのが重要なんじゃ無いのだと思います。
 ただ、あらゆることを主体的に行っているのは、他ならぬ此処にいる私、ということなだけなんだと思う。
 拘ることに拘らず、拘らないことにも拘らない。
 なんだってアリで、やっぱりナシなものも普通にあったりする。
 拘ったり、拘らなかったり、拘ったり。
 自由自在。
 つまりは。
 愉しいと感じることも。
 それを生み出す熱情を得ることも。
 みんなみんな、此処にいる私が為すこと。
 だから、なんでもアリで、なにもかもナシ。
 それが、「余裕」。
 そー、まだ上手く言葉に出来無いんですよねぇ。
 それは実は今、もっけの感想で実用化(?)を図っているところなのですよねぇ。ほんとか?・・・。
 ただ言えることは。
 んじゃ、またアニメで考えてこう、ってことをね、自信を持って言えるようになったってことかな。
 
 そんな感じでね、なんかこう、ほわっとしたんですよね、私。
 アニメファンとして、思い切り宙に浮き上がって、そしてなんというか、アニメ自身に対する愛着からは
 離れていきながらも、しかしその分飛躍的にアニメとの付き合いは、もうこれは腐れ縁的に続いていくの
 だろなと思うようになってきて。
 だったらたぶん、またぞろ愛着もじっくり出てくるのじゃないの?
 やっぱりそこは、焦らずしかし急いで、過激にまったりとして、とっくりとアニメに向き合っていきましょうよ、
 というノリになってきたのですね。
 だからですね、微妙というか面白いというか、そんな距離感が今の私にはあります。
 愛着が湧いてはいないから、いつでもふらっと離れられるような気がするのに、なぜか普通にまだ此処に
 いるみたいな、だからとまどってよーし来期からは絶対超愛せるアニメ見つけるもんねとか、皮算用まっし
 ぐらなことを放言したりして、どうせまたあとですごすご撤回するのかもしれないし、見栄張って私はあなた
 を世界最高に愛してます(棒読み)とか言うのかもしれないし、言わないのかもしれない。
 そして、なんだかんだで、普通に愛してたりするかもしれない。
 それをなんか、色々な意味で余裕を持って信じられる私が今、此処にいます。
 そして。
 なんかですね、そういうときにこう、このひぐらし解が、この作品の価値が、やっと初めてわかったのです。
 
 初めは、どろどろのぐちゃぐちゃ。
 なにがなんだかわからずに闇雲で、寄らば斬るとわめき散らす疑心暗鬼。
 ただそれでも生きたいわかりたいという願いは消えず、しかしその願いを保つ術を知らずに、かえって
 それが叶えられないことの重圧に耐えきれずに、自滅を繰り返す。
 短絡的かつ、浅薄。
 キレやすいにもほどがあり、同情せよというにはあまりにも思考が浅すぎる。
 そしてなによりも、深みと広がりが、無い。
 私は、ひぐらしの第一期を観たとき、そうこき下ろしました。
 なんだこれ、なにこのオタクが悦びそうな自虐と自嘲と自己正当化の権化は。
 そう、思いました。
 みるべきところは、どろどろぐちゃのお見事な狂気っぷりくらいかなと、本気で思っていました。
 でも。
 ひぐらし解をみて、やっと意味がわかったのです。
 ひぐらし解は、一転絵に描いたような努力と根性と希望のお話です。
 そして、これと第一期を組み合わせると、あっという間に、ひとつの重大な価値がその姿を現すのです。
 
 ああ、これは、救いじゃないか。
 
 ひぐらし第一期の登場人物は、本当にどうしようも無いキャラばかりです。
 すぐにキレるし、またそのキレやすさを糊塗するために描かれた、その「同情の余地のある」キレる原因
 自体がもう浅すぎて堪らず、観ているこっちが痛々しさを感じられないほどのものなのでした。
 フォローしようとしているその姿自体がまた浅ましいと。
 では、彼らは、だから救われないのでしょうか?
 そこに、ひとつ私は視点が足りなかったことに気づいたのです。
 ひぐらし第2期を初めみたとき、実は私はこのときもこう思ったのです。
 軽い、軽すぎる、あまりにも簡単になにもかもが上手くいきすぎている、と。
 みんなで力を合わせて運命をねじ伏せる、その言葉をあまりにもあっさりと実現し過ぎている。
 しかし、それが、私の見誤りの原因なのでした。
 
 目的が、違うのじゃないか。
 
 これは、ひぐらしのキャラのような、他愛の無い苦境に立たされただけでどうにもならなくなる人間でも、
 それでもその運命に逼塞することで無く、そこから、その運命に翻弄される弱き人間の境地からこそ、
 そこから脱する力を振り絞ろうという、その弱き人間達のための、そしてその弱き人間達こそが唱えるこ
 とが出来る巨大な「希望」を、その「意思表示」を獲得することこそが、この作品の目的なのじゃないか。
 私は今まで、このひぐらしという作品に大変な人気があることには、その残酷的描写と、また私が非難
 したオタク的自己逼塞の快感に悶えることが可能であることがその因にあると思っていました。
 しかし、それだけでは足りなかったのです。
 いえむしろ、これはそういった低劣(というのは言い過ぎか)な愉しみもありえながらも、しかしそれを飲み込
 むほどに、この作品がそれだけ「弱くて愚かな」人間達がそれでも前に進むためにこそある、だからこそ、
 これほどの人気があると改めて理解したのです。
 弱くても愚かでもいいんだよ、だからゆっくりでもいいから、確かに此処から前を向いて、希望を信じて
 進もうよ。
 私は、これほど視聴者のこうした類い希なる前進意識に寄り添う作品を知りません。
 私が好きなまなストやらカレイドやらは、確かに前進意識は高い作品ですが、それは決して私達の側
 には来てくれず、ただ私達より遙か先でその背中を魅せてくれているだけです。
 しかしひぐらしは、第一期で、人間とはこうも業の深い生き物なのだよと嘯いてみせて、しかしよくよく見
 ればそれは非常に短絡的なものでしか無く、私などからすれば甘すぎるとしか思えないようなことを描い
 てみせた。
 けれど、その嘯きは、その愚かな人間の本質を描き出したのは、少なくともその嘯きに頷くことが真摯に
 出来るキャラ、及びをそれを観る人間達自身なのです。
 私自身は、どのキャラにも同情出来ませんし、それどころかどのキャラにも「人間的深み」を一切感じ
 ません。
 しかし、ならばあのキャラに同情しそしてまた自分もあのキャラ達と同じなんだと思える者達にとっては、
 まさにあのひぐらしのキャラ達こそ等身大の人間そのものなのです。
 深みがどうとか、そんなことはなんの関係も無いのです。
 そして、その等身大のキャラ達が、それでも必死になって足掻き、足掻き、信じられないくらいに足掻き、
 そして、嘘みたいに希望を唱え強靱な意志を示し、そして戦い未来を勝ち取っていく。
 このキャラ達に等身大さを感じられた人が、これに感応しないはずはありません。
 実際私も、それがわかってからは、滅茶苦茶感動しましたもの。
 私にも勿論、圭ちゃんや魅音、レナや梨花ちゃまのような「なにか」はしっかりといますもの。
 たとえそれらの個別のキャラ的なものを認めなくても、それらがいることは確かなのです。
 
 だから、わかる。一度わかると、もう止まらない。
 
 いくつでもケチを付けられることは、私自身が一番よくわかります。
 こんな簡単にいく訳ない、いくらアニメだからって荒唐無稽すぎる、単純すぎる、大体こんなにぽんぽん
 簡単に希望を抱ける訳無い、云々。
 で、だから?
 もう、そう言い切れてしまう「余裕」が断然私にはあったのです。
 言い換えれば、この圧倒的な感動に逆らう「余裕」は無かったのです。
 だって、観てると虚しくなってくるんですもん、ケチをつけてる自分が。
 どんだけ馬鹿なんだって、既に感動を覚え始めている自分を感じるたびにね。
 この作品の与えてくれる凄まじい感動に乗り切ることと、わかりきってるヘボい部分にケチつけて悦に入る
 ことのどっちが大事なのか、それがわからないはずもない。
 そもそも、感動はこの作品が与えてくれるものなのか、それとも私がこの作品から「なにか」を受け取って
 それを感動に変換しているのか。
 与えてくれるものだとばかり思っていれば、いくらでも感動できない自分を正当化出来、それを元に
 作品をけなすことが出来ます。
 私は、ひぐらしに限らず、あらゆる作品は必ずその感動の元になる「なにか」を発していると思っています
 し、ゆえにそれを生かすか殺すかはすべて此処にいる私達次第なのだとも思っています。
 そして、私達自身がその「なにか」に手をつけ感動を得ようと努力し始めれば。
 やがてその「なにか」は、膨大な感動のエネルギーを私達に与えてくれるようになるのです。
 無論、そのエネルギーを発する「なにか」を私達に与えてくれたのは。
 其処にいる、その作品なのです。
 
 そして逆にいえば、それは、私達がたとえどんなに状態になろうとも、そしてたとえどんな人間であろうと
 も、必ずその境地から向き合うことが出来る、そしてなによりも向き合ってくれる作品はあり続けるのだ
 ということです。
 もし自分が前向きに考えることがどうしても出来ないときに、ただひたすら前を向いて突っ走ることの出来
 る、そういう意味での天才キャラと共に歩くことが出来るでしょうか?
 ええ、たぶん私はそれでも歩くことは出来ます。
 それだけの自信がありますし、たとえその自信さえ失っても意地でもついていきます。
 なぜならば。
 この世界の中には、必ず、そうしてそれでもついていくことが出来ない私にさえも、しっかりと向き合ってく
 れる作品があると、そう信じることが出来るからです。
 自分が前向きでいられるときには、ひぐらしなんて作品は、言葉は悪いですけれど、私からすれば駄作
 です。
 しかし、どうしても前向きになれないときには、ひぐらしは類い希なる救いを与えてくれる作品でもありま
 す。
 けれど。
 それは同時に、私はそれでも絶対に前向きになれる自分があることを知っていますし、だからこそ、
 前向きになれないときにこそ価値が発生するというひぐらしは、永遠に私にとっては駄作になってしまう、
 と、そういうことには、実はならなかったのです。
 関係、無いんですよ、私がそれでも前向きで居続けられることなんて。
 それでも、どんな状況でも前向きになれる私の中にも、そう、もう一度言いますが、それでも、前向きに
 なろうと必死になって色々なものを失っている自分がいることを、私は知っています。
 苦しければ苦しいほど頑張れる、いえ、頑張れてしまうんです、私は。
 でもそれは、どうしようも無い疲弊を、そしていつのまにか私からある意味での「可能性」を奪ってしまって
 いるのです。
 頑張れてしまうことに囚われてしまうんですね。
 強い自分しか知らなくなってしまうんですよね。
 なぜなら、頑張れる強い自分が誇らしいから。
 そうでは無い人間や存在を、知らず知らずのうちに蔑み、反面教師として利用しているから。
 
 だから、ひぐらしは必要なのです。
 そう。
 それを駄作と蔑むために、では無く。
 駄作と蔑んで悦に入る、そういった狭い自分の世界から脱するためにこそ、です。
 
 私が一体なにを犠牲にして失ってしまっているのか、一体どうやってその喪失を自ら正当化しているのか
 、自らの欺瞞を暴くことの必要性が、ひぐらしを通してひしひしと伝わってきました。
 私がひぐらしで感動出来ないという事自体に、私がなにかを考える余地がある。
 なぜ私はひぐらしを否定するの?
 ひぐらしを否定することでなにが得られるというの?
 それで得るものは一体私にどれだけの価値があるというの?
 そして。
 そんな御託を並べている暇があるんなら、さっさとひぐらし観て感動しろ、このばかやろう。
 無理矢理感動することのいやらしさをおもう前に、ひとつでも感動に近づける努力をすればいい。
 だって、大事なのは「感動している」状態そのものなんですから。
 動機なんて、入り口なんて、関係無いじゃないですか。
 感動しちまえば、こっちのもんでさぁ、いっひっひ。・・・・。
 そして、感動しているからこそ、こうして色々とぐだぐだと考えることにぬくもりある価値が出てくるのだと
 思う。
 だから色々と、改めてひぐらしのなかで、私らしく考えていくことも出来るんです。
 ひぐらしの良いところを、ひぐらしのすごいところを、もっともっと、言葉にして顕したい。
 そして、私は。
 
 ようやっと、素直に、ぶっちゃけて、ひぐらしにゆったりと受け入れられていく私を感じることが出来た。
 
 全く、紅い瞳ったらなんて面倒くさい子なんでしょね。
 ここまでしなくちゃ素直になれないなんて。
 ええいもう、このツンデレっ子め。
 んじゃまぁ、そういうことで。
 ひぐらし論については、来年ね、来年。 (ぁ)
 えー、ついでに今期アニメのまとめ感想も、来年だ。
 あはははは、実は大掃除も終わらなかったんだよねー今年は。
 テキパキ片づいたのは最初だけでしたー! 
 もうみんなまとめて年越しだぁっっ!
 よし。
 ナイス大崩壊。 (微笑)
 あと、私の今年ラストアニメは、「遙かなる時空の中で 舞一夜」。
 意外。 (自分で言うな)
 んでも、信じられないくらいに感動した。
 なにこの素晴らしき感情は。
 とくとくと流れる涙を、私は止めることができないままに、私はこの一年をさっさと終わらせてしまいました
 とさ。
 めでたしめでたし。
 
 
 ええ、そういう観点でね、今年一年は私的に一番なにが大きく変わったかというと、こういったアニメファン
 として、そしてアニメ感想書きとしてのスタイルの幅なのです。
 いえ、むしろ今まで漠然とわかっていたことに、ようやっと確とした理屈を以て応じられるようになったという
 か。
 んだから、なんていうのかな、もっともっとアニメを広いレベルで捉え、なによりその中で活動してみたいな
 って思うですよ。
 ひぐらしの大人気ぶり、そしてその盛り上がりなど、そういったアニメの存在自体とそれを受け取る人達
 が醸し出す熱気そのものをもっともっと感じて、そして来年は今までよりもさらに積極的にそういう方向
 性を愉しんで創り出していきたいと思っています。
 アニメのアカデミックな文化だけで無く、それとオタ文化を含めた、そういう総合的な熱気そのものとして
 のアニメ文化には、興味がありますです。
 そして、アニメファンとしての感想書きとしての紅い瞳が変われば。
 私も変わる。
 そして。
 私が変われば。
 世界も、変わる。
 なぜならば。
 世界を変えられるとおもえる私が、此処にいるから。
 
 はい。
 綺麗にオチ付きました。
 OKOK、グッジョブ。
 そんな訳で、今夜のお話はこの辺りにしておくのがよろしいかと存じます。
 今年一年、色々とありがとう御座いました。
 魔術師の工房に来てくださった方々すべてに、篤く御礼申し上げます。
 とても、励みになりました。
 来年もどうぞどうぞ、よろしくお願い申し上げます。
 
 頑張りますよ。
 紅い瞳は頑張りますよ。
 来年も、愉しくハッピーに、ね。
 
 んで、普通にまったりと、ね。 (笑)
 
 
 
 あ、あと。
 もうどんだけ遅くなっているんだということなのですけれど、今更ですけれど、BBSとメアドを復活させまし
 たです。
 BBSは弐式を正式に本家に昇格させまして、そしてそれはつまりただ昇格させただけでまだデザインとか
 アイコンとかのUPは全然ですので、取り敢えず形だけのものですけれど、どうぞご利用くださいませ。
 メアドに関しては、新アド取得しました。
 トップページと涼風道標に掲示してありますので、どうぞこちらもご利用くださいな。
 ふぅ、なんとか今年中に間に合ったー!
 
 
 それでは。
 
 
 良いお年を♪
 
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 071229--                    

 

         

                                ■■普通のいる自立 ■■

     
 
 
 
 
 『お祖父ちゃんは急ぐときには気を付けろって言う。モノに対する警戒心が薄くなるから。』
 

                           〜もっけ ・第十二話・瑞生の言葉より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 普通、というモノを意識しています。
 「みんなと一緒」、もしくは「みんなと同じ」ということを意識しています。
 あるいは、「みんなと同じ場所」を、と。
 せっかくみんなで頑張ってやろうっと思えたんだから、ひとりだけ自分の都合で足を引っ張る訳には
 いかない。
 たとえ誰にも言えない事情があろうとも、そのためには歯を食いしばってみんなに付いていく。
 それが、普通。
 どれほど苦しくても、その普通を満たすためにこそ努力を重ね、そしてそのせいで他の人の何倍も
 苦労しなくてはならなくても、それを理不尽だと感じても、そのみんなと共有する普通が其処にあるから
 こそ、だからこそ頑張れる。
 もし普通が無かったら・・・
 普通とは、一番簡単で、単純明快な指標。
 ひとりひとりの個別の関係性を築いていくことは大切なことだけれど、しかしそれはとても大変なコト。
 だから誰もがある程度納得できるモデルをつくり、みんながそれを通してひとつになれ、そして理解し合う
 ことが出来るようになれれば、いくぶん楽になれる。
 でも、それならその普通を満たすことの方が、はるかに苦しいことだったとしたら・・
 
 それでも貴方は、普通を求めますか?
 
 
 
 ◆
 
 瑞生は、憑かれやすい体質です。
 憑かれれば熱を出したり怪我をしたり気を失ったりと、様々な身体症状を示してしまいます。
 おまけに、他の人からみれば、それは何も無いところで転ぶような滑稽さに映ります。
 瑞生は、自分が憑かれやすい体質であることを誰にも言いません。
 ですから、瑞生は極力、その自分の不自然な動作なり状態なりを、自然な様に繕わなければなりま
 せん。
 そもそも、自分が憑かれやすい体質だなどと言っても信じて貰える可能性は低く、仮に信じて貰えれば
 逆に決定的に差別の目で見られる可能性が高まります。
 無論、頭のおかしい子として。
 あいつ、ドジな奴だとは思ってたけど、実はアレだったんだな。
 それだけは絶対に避けるべき事態。
 とはいえ、それ自体はそれほど難しいことでも無いのです。
 なぜなら、瑞生が自分のドジっぷりは、ただのドジだからの一言ですませればいいし、遅刻なりなんなり
 そういうのが多いのも自分が怠け者だと思わせればいいし、そして言い訳のつかないくらいの発作症状
 をみられてしまったとしても、医学的見地の事柄(てんかんとか)として説明するのは充分可能ですし、
 またそれで間違っている訳でもありません。
 おまけにその際に瑞生が妖怪妖怪と口走ってしまったとしても、熱なりなんなりにうなされて一時的に
 錯乱しているだけといって処理して貰えるのです。
 無論、長期的にそういうことを言い続ければ、精神病患者的扱いを受けかねない訳ですけれども。
 そして、瑞生はそう扱われることを絶対に避けるためにこそ、絶対に憑かれやすい体質であることを
 口外せずに、そしてそのままやっていくのです。
 
 なぜなら、瑞生はみんなと一緒に今まで通り、普通に生きたいのだから。
 
 瑞生は始めから、自分が憑かれやすい体質であることを口外し、そしてそれを受け入れて貰いみんな
 の中に居場所を与えて貰うことを望んではいません。
 瑞生は、自分の体質を そのまま認めてはいないのですから。
 いつか絶対治してやる、だから治る日を信じてそのときに戻れる場所をちゃんと残しとかなきゃいけない
 んだ。
 
 普通の生活を、私の目の前から消す訳にはいかないんだ!
 
 もし瑞生が憑かれやすい体質をカミングアウトし、それで色々と周りの人に優しくされたとしても、それは
 結局のところ腫れ物に触るような感じになることは否め無く、それでは周りの人との距離を感じずには
 いられなくなるでしょう。
 私はこの体質が無ければ、ただの普通の女の子なんだよっ!
 瑞生は、もしかしたらこの体質自体は嫌っている訳では無いのかもしれません。
 そして瑞生自身、自らの体質を差別的に捉えているのではありません。
 そりゃ憑かれると熱とか出たり色々他の人に迷惑かけちゃったりして大変だし、実際どれほどこの体質
 を恨んだか知らないよ?
 でもさ・・これが私なんだし・・・これも私なんだって思えたら、逆にこの私を守ってあげられるのは、やっぱ
 り私なんだって思っちゃって・・
 だから瑞生は、恨んでしまう自分の体質を、それも自分だからこそ愛することも出来ているのでしょう。
 しかし、それはその愛する自分の体質と共に、世界の中に孤立していくのを選ぶという意味では無いの
 です。
 愛しているからこそ、だからこそ、孤立なんかさせない!
 瑞生は、自分の体を切り刻んだりはしません。
 けれど、自らの憑かれやすい体質を口外することも無いのです。
 なぜならば、それでは世界の中で、みんなの中で孤立してしまうのだから。
 
 憑かれないようになりたいよ。
 でも、今はこういう体質なんだから、それが私なんだから、やっぱり愛したいよ。
 だから、頑張るんだ、この体質と共に。
 でもさ。
 それだけじゃ駄目なんだよね。
 それだと、私にはその私の愛する体質だけになっちゃうんだもん。
 この体質を愛したのは、この体質と心中するためじゃ無いもん。
 この体質と一緒に、この世界の中に生きていくためだもん。
 だから、みんなに受け入れられるように、そういう形にしてなんとか持っていかなくちゃ。
 世界の中で、私のこの特異体質を認めてって叫んでも、それは大切なことかもしれないけれど、
 でも、私はその前に、まだ私にはずっとずっとやれることがあるって思うんだ。
 大事なのは、この体質をみんなに認めて貰うことじゃ無い。
 私が、そう私こそが認めて貰うことが大事なんだ。
 うん、「憑かれやすい体質の私」は、もうお祖父ちゃんやお姉ちゃん達に受け入れて貰ってるんだもん。
 充分だよ。
 だからね、私はそうして認めて貰っているからこそ、それをぽんと、放り出すんだ。
 私は私。
 まだまだずっと、普通の女の子でいられるんだ!
 だから、私は、お祖父ちゃんやお姉ちゃん達に認められた私は、その普通の女の子を目指し続ける
 んだよ。
 
 瑞生が求めているのは、可能性なのです。
 瑞生の母が「ケサランパサラン」の回で望んでいたような、「普通の女の子」としての生活を瑞生も
 また純粋に望んでいるのです。
 そしてそれは、でも実際にはそれは難しいよね、だからお母さんはああいってるけど、しょうがないから
 妖怪まみれに生きていくしかないんだよ、という諦め的受け入れを誘発するものでもありません。
 瑞生にとっては、たとえ厳しい現実があろうとも、その普通の生活の中に生き続けることは、もはや
 絶対的な、そしてなによりも当たり前の行為の連続なのです。
 このまま無理矢理普通の女の子を演じ続けても、絶対保たないよ、と瑞生は毎日のように思っていま
 す。
 しかしそれと同時に瑞生はあっさりとそれをはね除ける強靱な意志を有し続けているのです。
 
 
 
 ◆
 
 学校で、クラス対抗の凧揚げ大会をやることになり、瑞生は高津と風間と共にクラス代表として
 凧作りに勤しんでいます。
 けれど、その頃丁度、町中のとある橋にマジモノが憑きます。
 マジモノとは、呪物と書きます。
 人のあらゆる想いが込められたモノ、多くは人形(ひとがた)の物がそれに当たります。
 そして今回のこのマジモノはかなり強力なモノのようだとお祖父ちゃんは言います。
 困ったことになったのは、瑞生です。
 なぜならその橋は、学校への通り道でもあり友達の家に行くにも通らざるを得ない橋なのです。
 そこを通らなければ、大きく迂回しなければならない。
 おまけに瑞生は凧揚げの練習場を探していて、どう考えてもその橋のある河原がそれに最適の場所。
 瑞生としては、その橋をみて、こりゃ駄目だ絶対憑かれると体感し、そしてその気持ちをしっかりと胸に
 しています。
 お祖父ちゃんにはもう、あっさりとそのマジモノを祓うことを拒否されています。
 お祖父ちゃんはこう言いました。
 『お前がラクしたいだけだろ。』
 その通り。
 奴らは居んのが当たり前。
 『てめぇが面倒なら、片っ端から除けなきゃなんねぇのか?』
 瑞生にどんな事情があろうと、マジモノは其処にいるべくしているのです。
 それを瑞生の都合で、しかも回り道すればいいだけの話を、それをせずして除祓しろというのは無礼な
 話。
 お祖父ちゃん曰く、『近づかなきゃ別になんもしねぇんだ、そうしとけ。』
 
 でも、瑞生はそれをわかった上で、敢えて頼んだのです。
 
 うん、わかってるよ私だって。
 よく、よく、わかってるよ。
 でも回り道してたら、出来ないことって沢山あるんだよ。
 ひとりだけ回り道したりしてたら、みんなにも迷惑かけちゃうし。
 それをカバーするくらいに私が頑張ればいいんだけど、それだって限界はあるよ。
 人の2倍3倍努力すれば、それらのマイナスを隠せるのかもしれないけど、ううん、今までずっとそうして
 きたけど・・・ずっとこれを続けてたら・・・
 瑞生にとっては、これは前提なのです。
 お祖父ちゃんからすれば、ひとこと、こういうことでしょう。
 だったら、他の奴らなんか関係なくすりゃいいじゃねぇか。
 お前はいちいち他の奴らを気にしすぎなんだ、と。
 しかし、これに瑞生は頷く訳にはいかないのです。
 それじゃ、みんなと一緒にいられなくなるじゃん。
 それじゃ、普通じゃ無いじゃん。
 みんなと一緒でいること、あくまで普通の生活を営むためにこそ、瑞生は必死に自分の体質を隠し、
 そしてなんとかみんなについていったのです。
 それを、そんなに苦しいんだったら普通に拘るのやめればいいじゃねぇか、と言われたら元も子も無い。
 私だって好きで苦しんでるんじゃないもん。
 でもどうしても普通に暮らさなきゃいけないって思うから、だから頑張ってるのに。
 それをそんなもんさっさと捨てちまえって言われたら・・
 自分だけが、なんでこんなに苦労しなくちゃいけないんだろ・・
 こんなに頑張ってるのに・・その頑張りすらも認めては貰えないだなんて・・・
 
 瑞生が求めているのは、瑞生が普通を求め続けることの支援です。
 瑞生は普通の女の子であることを絶対に諦めず、そのために多大な労苦を自らに強いています。
 なんで私だけ、という理不尽なおもいは当然あるでしょう。
 他の人にとっては当たり前なことを、なんで自分だけがこんなに努力しなければ得られないのか。
 でもそれでも瑞生は敢えて、その普通を求めることを自分の「欲」だとして、だからそれを求め続ける事
 を自らの責任として胸に納めて戦っているのです。
 それなのに、あっさりと、お前が好きでやってるんだから文句言うな、と言われれば瑞生の立つ瀬はあり
 ません。
 瑞生自身、自分にそう言い聞かせて踏ん張っているのですから。
 確かに普通というモノを求めることが、誰からに強制された絶対的なモノでは無いのですけれど、しかし
 だからといってそれを必死に求めていることを認められないのは哀しすぎる。
 つまり、瑞生が自らの欲求として自己責任で求めているモノとして、その「普通」を敢えて定義している
 こと、その事自体を認めてくれとは口が裂けても言わないけれど、しかしその代わりに非常に努力して
 いること自体は認めて欲しい、ということ。
 むしろ、その普通を求めて頑張っているということを支援して欲しいがための方便として、こういった瑞生
 の理屈はあるのかもしれません。
 それを、お祖父ちゃんは突っぱねます。
 
 おまえ。
 
 憑かれてんぞ。
 
 
 わかってねぇだろ。
 
 
 ・
 ・
 ・
 
 
 瑞生には、ひとつだけ足りないものがあります。
 それは、自らを俯瞰的に視る力です。
 瑞生の想い自体は、極めて自然なものです。
 しかし、そこには、ではなぜ自分がその普通をそこまでして求めるのか、という「問い」がありません。
 そしてなにより、その問いをあらゆる形に変化させて持続し、そして生み出される沢山の答え達を
 保存し維持する「余裕」が無いのです。
 こうと決まったら、そのひとつの答えでしかモノを視られない。
 お祖父ちゃんが瑞生の求めを突っぱねた理由は、それを瑞生の中に喚起する必要性を感じたから
 でしょう。
 瑞生。
 普通を求めることは悪いことじゃ無い。
 そして俺は、お前に普通をそのまま与えてやれる事は出来んし、また出来たとしても与えるつもりは無ぇ。
 いいか瑞生。
 お前、自分がなにを求めているのか、もう一度良くみてみろ。
 お前がどれだけ努力してるだとか、どれだけ苦しんでるだとか、そういうことはお前が一番わかっている
 以上、一旦それを他人に理解して貰おうとすることを停止してみろ。
 お前は気づいて無ぇだろ。
 お前の今の意識は、いつのまにやらお前が求めるモノから遠ざかり、そういった他の者への不満を晴らす
 ことで一杯になっちまってるぞ。
 いいか瑞生。
 理不尽だろうが辛かろうが、それの良い悪いを判じるのと、その判じたままに行動することに拘るのは
 別のことだ。
 言行一致に勤しむあまりに、いつしかお前は自分の言葉に囚われ、その境地からしか思考と行動が
 出来なくなっちまってるんだ。
 お前、友達の足引っ張ることが申し訳無いって思うだろ?
 その上、自分だけがそれだけでは無いモノに取り憑かれるという、もっと辛いことも我慢しなくちゃならん
 ことに我慢出来なくなってきてるだろ?
 
 そして、この今の自分の状態こそが不本意であることを、感じずにはいられないのだろ?
 
 しかし瑞生はそれでも自分の理屈や言葉で自分を想うことをやめらない。
 なぜなのでしょうか。
 答えは簡単です。
 瑞生が、普通から離れつつあるからです。
 普通であるとはなにか。
 それは、瑞生が唱えたような理屈など無くとも、既に当たり前のように普通であることです。
 つまり、瑞生は瑞生自身の理屈を初めから唱えていた訳では無いということです。
 瑞生はずっとずっと、自分が自らに強いてきた労苦を当たり前だと思ってきたのですし、それを疑うことな
 ど無かったのです。
 辛いけどそれが当たり前、みんなと違ってもそれも当たり前、でもみんなと一緒にいたいから、だから
 頑張る、ただそれだけのことだったのです。
 しかし、そういう自分のことを、それ自体を他の人達のそれと比べて、自分は普通じゃ無い、おかしいと
 、理不尽だと、そういう言葉を唱え始めたのです。
 瑞生の受ける理不尽がそうであるという理屈を突き詰めれば詰めるほど、それは確かに瑞生が理不尽
 な境遇に落とされていることを証していくのです。
 そして。
 それでも、瑞生は普通を求めて動き続けている自分を感じています。
 なんなのこれ。
 どうして私、まだ動いてるんだろ・・
 
 では。
 瑞生は自分のこの境遇が理不尽なものであると考えたからこそ、こうなってしまったのでしょうか?
 
 いいえ、そうでは無い。
 
 
 瑞生はお祖父ちゃんにはねつけられても、それでもなんとかして普通を全うしようとします。
 『仕方ない、やっぱり回り道しかないか。』
 懸命に走り、そして遅刻してしまい、それをえへへと笑って誤魔化す瑞生。
 無論、自分は憑かれやすい体質で、今ちょうどいつも通ってる橋が渡ると障りがあるので、回り道しな
 くちゃいけなかったんですごめんなさい、などとは言いません。
 もっともお祖父ちゃんに言わせれば、それも言い訳にはならんだろ、障るとわかってるんなら早めに家を
 出るのが当たり前、その努力を怠ったたのだからな、ということになります。
 そして瑞生はもしお祖父ちゃんにそう言われたら、そうなんだけどね・・と複雑に頷くことしか出来ないで
 しょう。
 なんで私だけ、早起きしなくちゃいけないのよ・・・
 それでも瑞生は、そんな不満を死んでもみんなの前で口にはしませんし、そして勿論自分の中ででも
 その不満はくっきりと噛み殺してしまうのです。
 しかしそれは、簡単には死なずに、まさに澱のようにして瑞生の心に沈み重なっていくモノ。
 でも、瑞生はそれでも普通を目指します。
 放課後、高津と風間と共に凧揚げの練習をあの橋のある河原ですることになり、大きく動揺します。
 ヤバイ、あの橋はヤバイ。
 だから、橋は駄目だよと強く言います。
 しかしだからといって他に良い場所が無いことは変わらずで、だから瑞生としてはここですっぱりと思考を
 切り替えるのです。
 よし、河原にいくよ。
 橋を渡らないで済む方法を考えなくちゃ。
 そしてかなり不自然ではあるけれども、やむを得ず高津と風間に先に行って貰い、自分は自転車で
 大きく迂回して別の橋を渡ることにしたのです。
 出来るだけ早く、風間達を待たせないように、不自然さを忘れさせるくらいにあっさりと追いついて。
 でもそれと同時に、なんでこんな面倒なことを、と瑞生は同時に感じている。
 そして。
 なによりもそれと同時に、でもそれ以上に風間達に面倒な付き合いさせちゃってるんだから、私が頑張
 んなきゃと、そう強く想い、そしてその想いだけがこそペダルを踏みつける力を増していかせることが出来
 るのです。
 
 このあたりから、色々なことが瑞生にみえてくるような気が、私はします。
 
 橋の前を、よしこれから大回りしてこの橋の向こう側に行くんだという気合いを入れたとき、丁度その
 ときにまだ橋のこちら側、つまり瑞生の目の前で高津と風間が橋のマジモノに障られ、高津が転んだ
 拍子に凧を川に落としてしまうのを瑞生は目撃してしまいます。
 そんな・・
 瑞生がどんなに頑張っても、それとはなんの関係も無しに、その瑞生の努力中に他の人達が辛い目に
 合ってしまう。
 その事故は橋に憑いてるマジモノのせいではあるけれど、でも私がこんな面倒なことしてなければ・・
 よく考えれば、それはおかしいですし、この件はマジモノという概念を除けば、ただたんに高津が不注意
 で凧を流してしまったというだけであり、むしろ瑞生はそれを責める権利さえあります。
 しかしそれはマジモノという概念を有する瑞生にとっては、状況の一部でしか無いことであり、それとても
 そういう状況になる始めを作ったのは、瑞生の「我が儘」にあることは明白なのです。
 日原があんなヘンなこと言うから、ちょっと調子が狂っちまったんだよ。
 高津ならいとも簡単にそう言いそうです。
 が。
 
 瑞生にとっては、そう風間に言われるからこそ罪悪感を感じるのでは無いのです。
 
 このお話の肝がそろそろみえてきました。
 瑞生にとっては、高津がどう言う理屈を言うかでは無いし、またそれが理不尽な理屈であると瑞生自身
 理解しようとも、それ自体は関係無い。
 これは、瑞生のプライドの問題なのです。
 つまり、瑞生にとっての「普通」とは、このプライドを満たすモノそのものの状況を指しているのです。
 お祖父ちゃんなら即、そりゃ高津って子の不注意だろ、と言って終わりですけれど、瑞生は違う。
 たとえ高津の不注意だとしても、それだけで全部を片づける訳にはいかないよ。
 
 事態はさらに深まります。
 言いようの無い気持ちに囚われつつも、しかしだからこそ逆に瑞生は奮い立ちます。
 高津達に迷惑かけちゃったんだから、その分を取り返さなくっちゃ。
 理屈は色々付けられるし、お祖父ちゃんだったらすっぱりとそのうちのひとつを採用して過ごしちゃうんだ
 ろうけど、私は駄目だ。
 だって私は、みんなと一緒にいたいんだもん。
 みんなに私も普通だって認めて貰いたいんだもん!
 『渡れるようになるまでは、我慢我慢。なんとかやってみるよ。』
 それがやせ我慢にしか過ぎなかろうと、それでも我慢することに変わりは無いのです。
 よし、河原はあぶない。
 山にしよう。
 よく考えたら、河原以外にもっと他を探すことに力を入れれば良かったんだよ。
 探せばきっとあるよ、誰も苦労しなくて済む場所がさ。
 みんなでそれを探しにいこうよ!
 瑞生は自分の中で、そうひっそりと囁きます。
 しかし。
 山に凧揚げに適した場所は見つからず、へとへとに疲れ切った高津は自転車で石を踏んだ拍子に
 凧を破いてしまいます。
 『ああめんどくせぇ。もういい、凧揚げなんてやめだやめだ!』
 瑞生の中には、お祖父ちゃんが唱えるような高津批判の理屈が沸き上がります。
 しかし、それと同時にじゃあこういう状況にしたのは誰?という言葉が強烈に顕れてくるのです。
 私が高津達を引き回さなきゃ、私が心の中で求めたみんなが苦労しないで済む場所なんか探さなきゃ、
 こんなことにはならなかったのに。
 それは、理不尽ではありません。
 なぜなら。
 瑞生は誰にも、そのみんなが苦労しないで済む場所を探すということを伝えてはいませんし、また自分
 だけが特別な苦労をしているということを口外していませんし、また絶対に口外しないと決めているの
 だから。
 あくまで、高津達にとってはこの状況は不自然な状況、つまり瑞生のなんだか知らない「我が儘」に
 振り回された状況であるべきで、また瑞生こそがそういう「普通」な状況を絶対に目の前の其処に守り
 残していこうとしているのです。
 無論、そういう瑞生の理屈は既に瑞生が「普通」では無いことを示しています。
 なぜならば、お祖父ちゃんが唱えそうな高津批判は、確かに自分の特異体質を肯定し、それを口外
 しない以上その我が儘を貫き通す、という普通からの離脱を示していますけれど、しかしよく考えて
 みると、それは瑞生がその理屈をあくまでマジモノ及び自らの特異体質を前提としてモノを考えている、
 既にそれ自体が自らを特別扱いしているということで普通からは離れてしまっているようにみえるのです。
 ですから、お祖父ちゃんの高津批判的な言葉は極端ではありますけれど、しかしひとつの姿勢としては
 むしろこちらの方が普通ではあるのです。
 お前、よく考えてみろ。
 お前はただ我が儘な小学生なんだろ?
 だがそれと、高津って子がいい加減な子であることは全然別なことだろ?
 瑞生。
 お前はなにを求めてんだ?
 お前が自分の求めてるモノを懸命に求めることと、それで起きる障害は切り離して考えろ。
 いやむしろ、起きる障害のせいにして、自分が求めているモノを否定してるのが誰か、よく考えろ。
 お前が普通を求めることは、誰にも否定できはせん。
 無論、お前自身にもだ。
 障害のせいにするな、自分のせいにするな。
 誰かのせいにするな。
 
 
 
 だったら、ぬけぬけと高津って子を怒鳴りつけて、喧嘩でもなんでもして、しっかり普通の子になれや。
 そうすりゃ、自分がどうすればよかったかを、そのときこそ身を以て知ることが出来んだろ。
 
 
 
 どうだ?
 
 視えたか?
 
 お前の憑かれてるモノが。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 静流。
 そう、静流です。
 静流は妖怪が、モノが視えます。
 そしてお話の冒頭で、今回の肝であるマジモノを視たのは静流です。
 静流はマジモノを見つめつつ、しかしそれを我慢して橋を渡り切ります。
 渡り切ったあとの静流の表情は、鮮烈です。
 橋の手前で、欄干にずらりと居並ぶマジモノを見つけ、しかし橋を渡らない訳にはいかず、そしてなに
 よりもマジモノを視るのが嫌だからといって回り道する自分を忌避し、そして意を決して橋を渡った静流。
 そして、マジモノへの嫌悪に耐えることで一杯だったはずの自分が、その強固な自分の中に、しっかりと
 それだけでは無いモノが入り込んでいたことを感じていたのです。
 ああ、嫌だな・・私を視てる・・
 マジモノは、すがるような視線で静流に喰らいつき、静流はそれを感じながらもただマジモノという妖怪に
 対する嫌悪に耐えることのみで橋を渡り切ろうとしている自分に、そのバツの悪さを感じてしまう。
 渡り切ったのちに、その嫌悪を脱した安堵の溜息と、そして。
 そのバツの悪さから来る罪悪感と。
 そして、なんで私だけこんな想いをしなくちゃいけないんだろ、という哀しみと。
 そして。
 その哀しみに囚われることで、自分が視ているモノを無視しようとしている自分に対する小さな怒りの籠
 もるその表情を、静流は魅せてくれたのです。
 
 静流と瑞生は、雛人形展に飾られている立派な雛壇を見ます。
 お祖父ちゃんによれば、これはその昔子が早死にしてしまう家の者がそれを憂え、家が傾くほどに金を
 かけて当代一の名工に作らせたものなのだそうです。
 そしてお祖父ちゃんはこうも言います。
 それで子供が早死にしてしまうことを止められたことは無く、無論止められる訳も無ぇ。
 だがその哀しみを乗り越えて、それでもなんとかしようとしたその家の者の情熱と。
 そして、なによりもその心意気と共に当代一の名工が精魂込めて創り上げた大作は、こうして残って
 いるのだ、と。
 つまり、その家の人達の強い意志と、世間つまり「普通」に属する中の一番の人の能力が噛み合って
 出来ることの中にこそ、それを視る他の人達に類い希なる感動と勇気を与えるのだろう、ということ。
 お祖父ちゃんは、その家が早死にの家系であることは運命だろと言います。
 そしてそれに対して足掻くこと、そして足掻くことしか出来ないのは定めだろと言います。
 
 だから、定めという「言葉」に囚われるな、ということなのです。
 
 静流は言います。
 それがたとえ定めだ運命だと「言える」ことが出来たとしても、人はただがむしゃらに生きるだけ。
 というか、当の運命を背負っている人達自身は、ただ精一杯生き抜くだけなんじゃないのかな、と。
 運命とは、あってなきが如しのモノ。
 瑞生が瑞生であること、静流が静流であること、私が私であること、それはそもそも変えられません。
 それもまた運命です。
 それなら、私は私であることを哀しんだり、儚んだりする必要があるのでしょうか?
 ええ、ありますよね。
 だから、そのために「運命」という言葉があるのです。
 そして、あらゆるそういった哀しみや儚さや、そして理不尽なり辛苦なりの存在を証す理屈もまた在るの
 です。
 
 
 でも。
 それらが在ることと。
 それらと。
 そして、私が此処に居ることとは、全く別のことなんだ。
 
 
 雛壇を見た帰り道、ふたりは道端の岩肌に咲く一輪の花をみつけます。
 人工的に組まれた石の隙間に咲く花は、動く生物では無いという花自身の運命と共に、さらにまわり
 を石に囲まれ根を伸ばすことさえ出来ないという定めを負っています。
 
 そっか。
 
 
 『でも、ちゃんと綺麗に咲いてるよね。』
 
 
 
 
 閃く瑞生。
 そうだよ。そうじゃんか!
 瑞生は、自分があまりにも自分が求めているモノのことを知らないことに気づきます。
 瑞生は、みんなと一緒にいられないことに不安を感じています。
 みんなと同じじゃ無いことを怖れ、普通から外れることを怖れるあまりに、みんなのことを気遣い、そして
 そのために色々なものを詰め込んで考えていっています。
 でも。
 それだけじゃ、なかったんだ。
 ううん、それらの大元には、もっともっと凄いモノがあったんだよ!
 瑞生は、ついに気づいたのです。
 私は、たとえそれでも、普通になりたいって。
 私のこれは、普通から外れることの恐怖もあるのかもしれない。
 でも、それ以上に、これは私のプライドの問題なんだ。
 逃げない。
 逃げたくない。
 逃げたりなんか、するもんか!
 自分の特異体質を全部告白して、誰かに同情的に守って貰うのが嫌だ。
 私もみんなと一緒がいい、対等でいたいんだ。
 そのためには、なんだってするよ。
 そうだよ、これが、これこそが私の大元にあるモノだったんだよ。
 私だけがそんな努力をしなければならない理不尽な「運命」があろうと、そんなこと関係無い。
 私はもう、逃げない。
 絶対に、絶対に、私の求める普通を守りきってみせる。
 
 
 そう。
 
 やっと瑞生は、自分に憑いているモノがなんなのかを、感じ取ったのです。
 
 
 瑞生にとって重要なのは、普通の生活を送ること、ただそれだけのこと。
 それがたとえ、みんなから外れることの恐怖から逃れたいという後ろ向きな欲求だったのだとしても、それ
 を自分だけが強いられることの理不尽に腹を立てようとも、そんなことは関係無い。
 それは全部、別のこと。
 普通の生活を送るには、そのために一番良いことはなにか。
 そのためには、なぜ自分が普通をそれほど求めるのかを問う必要がある。
 なぜ私は、こんなに普通に拘るんだろ。
 うん。
 わかるよ。
 逃げたくないから。
 そう。
 
 負けたく、ないからなんだよ。
 
 路傍の花の哀れに逼塞するという事でも無い。
 無論、その花の哀れを叫んで憐れみを乞う訳でも無い。
 ただただ、美しく綺麗に、愉しく幸せに生きるためにはどうしたらいいかを考えるだけ。
 周りを石に囲まれているのが嫌なら、その石を打ち砕くことを考えるだけ。
 そして簡単には壊せないことを悟れば、他の方法を考える。
 その繰り返し、繰り返し。
 そしてそれを永遠に続ける意志があるからこそ、「余裕」が生まれてくる。
 お祖父ちゃんは、それを瑞生に示していたのです。
 お前がお前の求めるままに生きてきゃ、いくらでもやりようがあるのがわかってくるだろ。
 そして瑞生は、敢然と瑞生の中に閃かせるのです。
 そうか。
 逃げ切れないんなら、向かっていけばいいんだ、と。
 瑞生はこれまで、憑かれることを怖れ、憑かれそうな場所をよけることを学んできました。
 其処に行かなきゃ憑かれることも無く、普通に生きることが出来る。
 だからまずどうやったら憑かれないかを学び、そしてそれを実践する過程で生じる障害を、どうやって
 克服するかを考えてきました。
 しかし、瑞生がモノをよけることを中心に考えていけば、しぜん行動に制限が生じてきてしまいます。
 そしていつのまにか、その行動の制限の中で四苦八苦することに疲れ、そしてまたその範囲内での行
 動と思考に取り憑かれてしまったのです。
 それが、「マジモノ」。
 自らの思考に取り憑かれた状態。
 言行一致することに囚われた姿。
 
 だから、やめた。
 それだけに拘るのを。
 
 モノをよけることを前提とせず、それと同じくそれらに立ち向かっていくことも必要なんだと、瑞生ははっき
 りと自覚するのです。
 向き合わなくちゃ、そうしなくちゃ保たないよ。
 そして、逆にいえば、向き合えばそれだけ「可能性」が広がってくんだ。
 もし私があの橋を自力で渡ることが出来れば、そもそもなんにも問題なんか無かったんだもん。
 普通でいられる。
 ううん。
 
 立ち向かう勇気があるからこそ、普通だって言えるんだよ。
 
 静流は、向き合うことを避けることが出来ません。
 なぜなら、モノが視えることを避けるには、目をつぶって生活しなければならないからです。
 そんなのは無理な話。
 そして瑞生は憑かれやすい体質だけれども、それはそういうモノがいる場所を避けて通ればなんとか
 なります。
 だから、瑞生はそのことに安住していました。
 避けて通ればいいだけなんだからラクだよね、という厳しい皮肉を向けられることも含めて。
 瑞生はその皮肉に対する哀しみに囚われることで、やはり結果的にその避けて通るという前提からは
 出ることがなかったのですから。
 それが「マジモノ」に憑かれるということ。
 
 そしてそれは・・・・
 
 
 
 
 ◆
 
 瑞生は、橋の前に立ちます。
 私は、凧揚げするんだ。
 絶対、絶対に。
 私のうしろには、「普通」な高津と風間がいてくれる。
 だからもう、逃げられない。
 退路は、断った。
 取り憑かれる訳にはいかない。
 私の体質がバレるのは絶対駄目。
 だから、逃げる、この橋は迂回するって、私はいつも考えてた。
 だから、逃げない。
 なんだかわかんないけど、逃げたくない。
 逃げることの賢さを知っているからこそ、逃げてるだけの私と向き合いたい。
 馬鹿でもいいよ、無茶でもいいよ、だけど私は今、逃げたくない。
 戦いたいんだ。
 普通にいたいから、普通から逃げたくないから、その大事な目的のために、マジモノから逃げた。
 それは決して臆病だったからとは言わないよ、自分でも。
 それ自体は正しいことだって思うもん。
 勇気ある撤退って奴? ちょっと違うかな。
 うん。
 だからね。
 私はさ。
 そうやって逃げる勇気も持てて、それで向き合うことが出来たモノとそうして戦えた。
 だから。
 だから。
 
 
 私は、その私を信じてる。
 なにかと戦うことの出来る私を、ぐっと、ぐっと、信じてるんだ。
 
 
 瑞生の求めているモノの本質はそこにあるのです。
 なにかと戦うことが本質であり、ゆえにならば今度はマジモノと正面切って戦ってみよう。
 いいえ、それどころか、もしこれに勝てば大きな可能性が広がっていることに気づいたのです。
 たとえそれが絶対に割れない石でも、ぶん殴る。
 ぶん殴ることに意味があるとか、そんなのも関係無く、ぶん殴る。
 絶対に、負けない。
 橋に向かって駆け出す瑞生。
 
 『高津!風間! 私がこれから橋を渡るから、渡り終わるまでここで待ってて。』
 『なにがあっても、ここから動かないでよ。』
 
 普通が、待っているから。
 『渡ってやる!』
 そしてその一心に囚われた瞬間に、瑞生は足に障られます。
 転倒する瑞生。
 一心不乱なその瑞生は、まさにマジモノそのもの。
 ゆえに、「マジモノ」。
 自分が、色んなモノに囚われていることを知ります。
 色んな言い訳や理屈や、逃避と怠惰を以てあらゆることから逃げようとしていると。
 そしてなによりも、誰かに助けて欲しいと願っていることを。
 瑞生は這い蹲りながら、次々に「マジモノ」に憑かれていきます。
 私だって・・私だって・・・みんなと同じになりたかったよ・・
 なんで私だけ・・私だけ・・・
 
 でも・・・・助けて・・・・・・
 
 私を・・ひとりに・・・しないで
 
 橋に響き渡る無数のそのすがるような叫び。
 マジモノが、「マジモノ」が、すがるようにして救いを、普通を求める瑞生が、此処にいます。
 そうです。
 瑞生の求めているのは、普通という名のプライドある生です。
 普通を求めるというのは、絶対に負けてたまるかという戦いの意志の表明に等しいのです。
 
 
 『 憑 か れ て 、 た ま る か ぁ っ ! 』
 
 
 閃きの中で、さらにまたひとつ閃く瑞生。
 石の挾間に咲く花を見た瞬間に鳴り響いた、あのOPの初めのフレーズは、たとえその姿を消していて
 も、再びこの立ち上がった瑞生の背を照らすかのように、その続きを奏でていました。
 実に感動的な音遣いです。
 たとえ憑かれても這い蹲っても駄目になっても、それでも絶対に諦めない。
 諦める理由を無限に諳んじることが出来ても、それを踏みつけて立ち上がる。
 だって、負けたくないんだもん!
 それが、瑞生の望む普通への回帰。
 そして。
 
 その瑞生を見つめるマジモノ達もまた、瑞生と同じ存在だったのです。
 
 瑞生の中にあらゆる負の感情や理屈も。
 それはすべて、その普通への回帰を目指しているのです。
 だったら、あんたらも連れてかないとね。
 一緒に、いこう。
 そして瑞生は、全身に走る痛みにうめきながらも、遂に橋を渡り切ったのでした。
 
 『無茶しおって、気合いだけでなんとかなるもんじゃねぇぞ。』
 うん、結局渡ったあとに気を失っちゃったもんね。
 また高津達に迷惑かけちゃったし、お祖父ちゃんにも・・
 『で、どうだったんだ? 奴らと向き合ってみて。』
 『んー、なにか悪さするっていうより、すがってくるって感じだったかも。』
 お祖父ちゃんと瑞生のその会話をきいて、そっとうつむく静流。
 私はあのマジモノ達を無視して通り過ぎちゃったんだよね。
 
 そして、お祖父ちゃんは、それを笑って済ましたのでした。
 
 
 後日、あの橋のそばから、捨てられた雛人形が見つかったのでした。
 実はお祖父ちゃんはこの人形達が障っていたとわかっていたのでしょう。
 そして瑞生達の推測通り、ほんとは祓うこと自体は簡単で、すぐに祓うことも出来たのでしょう。
 だったらなんですぐに祓わなかったのでしょうか。
 それは。
 奴らは居んのが当たり前、だから。
 そして、奴らはいること自体に既に意味があんのさ。
 静流は、こう説明してみせます。
 
 
 『人知れず供養しちゃうとさ、私達としてはいいかもしんないけど、
  お雛様達としては自分達の捨てられた状況を、みんなに知って貰えないもんね。』
 
 
 近いうちに橋の下で町内の奉仕活動が行われることを知っていたお祖父ちゃんは、そのときに人形達
 がみつかれば、それらが無惨に「捨てられている」ということをみなが知り、そうしてみんなのいる場所、
 つまり「普通」の空間内に於いて同情され、そしてその正当化された哀しみを公に祀って貰うことが
 出来る、ということをも知っていたのです。
 そうしなきゃ、報われんだろ、奴らも。
 あくまでみんなに認められる形での、その「普通」への接続こそが、真なる幸せに繋がっていく。
 瑞生の凄まじい努力への報酬は、ただただその「普通」の中での正当な居場所の確保にこそある。
 雛人形の受けた仕打ちは、しっかりと公表されるべき事柄。
 瑞生の特異体質は明かされるモノでは無いけれど、しかし瑞生が普通であることを続けることは認め
 られるべき事柄。
 瑞生の努力は、ふたつの側面を持っているのです。
 憑かれやすいという体質を我慢し、それでも敢えて普通を維持する努力は、そんなものは認めてくれ
 無くてもいい。
 けれど。
 それとはなんの関係も無く、ただただみんなと愉しくやっていこうとしていること、凧作りを頑張ってやって
 いることは、ちゃんと認めて欲しい。
 それが、瑞生にとっての普通なのです。
 もっとも、その努力の成果が必ず実る訳では無いことを、しっかりと最後に示すのです。
 
 そして。
 だからこそ。
 瑞生には。
 自分の中にある負的な感情や理屈、逃避・怠慢・自己正当化なるモノが息づいているのを知り、
 そしてそれをすら、もうゆったりと受け入れる自分の気づきがあるのでした。
 
 
 『あー! 逃げてる!』
 
 
 それを視ている静流が。
 それを感じている瑞生が。
 
 此処にいます。
 
 
 
 
 以上、第十二話「マジモノ」の感想でした。
 長文乱文失礼しました。
 かなり複雑なお話だったので、それをひとつの筋の通った話にまとめることに苦労した分、その苦労に
 取り憑かれて、かえってその筋が通る範囲でしか語れない、という本末転倒な文章になってしまい
 ました。
 まさに「マジモノ」に憑かれたおもいです。 (笑)
 少々筆の走るままに任せ過ぎてしまったようで、もう少し構成を意識するべきでした。反省。
 今回のこの「マジモノ」の素晴らしさを伝えきれず、残念なことしきりですし。
 「マジモノ」自体の構成はもう滅茶苦茶素晴らしい、というかなんでこんなこと出来るのというレベル
 ですので、作り手としての嫉妬も感じています。 (笑)
 まぁそれは置いといて。
 とにかく今回はいくつか中心点があるので、どの点から入ってみても面白いでしょうし、今回の私のよう
 に同時にすべてをカバーして訳わからなくなったりすのも乙なものでしょう。 (ぉぃぉぃ)
 静流がなにを想っていたのか、マジモノという妖怪についての考察、お祖父ちゃんの言いたかったこと、
 そして無論瑞生の理屈など、視点は沢山ありますでしょう。
 無論今回のメインである瑞生についての描き方について、すべてを注いで観てみても充分すごい。
 あの石の狭間に咲く花を見つけたシーンから、橋の上で憑かれるもんかぁっと叫んで立ち上がるシーン
 までが、意味的にひとつにつながり、そして音楽的にも見事繋がっているのが最高でした。
 花を見つけて閃いて、その閃きを元にしつつ、というか閃き状態のままに橋に踏み込んで、そしてその
 閃き状態が途切れそうにならんばかりに取り憑かれ、でもしかし、憑かれてたまるかなっと一閃する
 瞬間に途切れていた音が見事に復活再生。最高の演出ですよ、もう。
 しかもその復活再生の冒頭の歌詞が、これですよ?
 『夜空を照らして ずっと笑っててて あなたがひとりで歩けますように』
 これが、今回のお話が示した強靱な意志ですよね。
 普通の象徴たる高津と風間を背にして、いえ、橋の手前で待っていて貰う。
 瑞生ひとりで、意地でもその普通に辿り着いてみせるから。
 これですよね、これですよ。
 これ以上、私になにが書けるというのか、いや書けない。
 だが、ひとこと。
 道端に咲く花の普遍的美しさを求めるからこそ、ひとり立ち上がることが出来るのだ、と。
 
 ということで、今回はこれで失礼致します。
 次回は30日放送なのですけれど、それについての感想は年明け後になりそうです。
 出来れば第一週のうちにUpしようと思っています。
 それでは、今年のもっけ感想はここまで。
 また来年、お会い致しましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 ◆ 『』内文章、アニメ「もっけ」より引用 ◆
 
 
 

 

-- 071227--                    

 

         

                                  ■■ っていうかさ ■■

     
 
 風邪っぴき、MAX。 (挨拶)
 年々風邪の症状が重くなってきているヘタレです、ごきげんよう。
 いやいや全然ご機嫌じゃないですよ。
 ようやっと忙しさにも一段落ついて、はしゃぎ切ろうとしたらその前にエネルギー切れですか。どんだけ〜。
 あ、もう結構前からひいてるですよ、風邪。
 確か、先週のこの雑日記をUpした次の日辺りから初期症状出てましたもんね。
 おいおいおい、なんでそんな空気読んでるのよ。
 あー、空気を渡り歩いて伝染するのですから、当然ですか。
 
 あ、また熱上がってきた。
 でもね、なかなか熱上がらなかったですよ、初め。
 ずーっと初期症状の喉のガラガラと鼻づまりと、それと全身のダルさが続いてて、で、熱計っても平熱よ
 りも少し高い程度だったりで、なにこの生殺し状態とか、むしろ熱上げることに熱を入れていたような感じ
 です。
 んで、くるときにはくるもので。
 無理無理無理無理、一気に平熱ライン突破!
 37度、37.5度、さ、38度・・・も、もう保ちませんっ!
 ・・・・。
 馬鹿は風邪ひかないけど、馬鹿だから悪化させるというのはあるかもしれないと、馬鹿は風邪ひかない
 という定説を疑うよりは現実味を帯びてきている今日この頃です。
 まぁ熱で朦朧として、現実感が薄れ始めているのですけれどね、ええ。
 もう自分でもなに言ってるのかわかってないような気がするのですけれどね、ええ。
 
 ↑
 というようなことを、日曜日辺りに書いてました。
 ちなみに今日は、木曜日です。
 今は暴れないで大人しくしていれば治る状態です、っていうかこれもう治ってますねたぶん。
 ご心配をおかけしました。色々な意味で。
 大体ね、まだあのうわごとを日曜に書いていた時点では、もっけの感想を書けてなくて焦っていたのに
 も関わらず、それを忘れてあんなこと書いていたりして、なんかもう自分でも心配です。大丈夫か?
 しかもなんかね、風邪の症状も落ち着いて、いざもっけの感想の続きを書こうかと思ってファイル開いた
 らですね、そのファイルのもっけの文章の途中から、あんなうわごとがそのまま繋げて書かれているのを
 見つけたのですからね。
 なんだこれ。
 私的には違うファイルに書いていると思っていたはずなのですよね。
 それがね、まぁ、うん、なんの脈絡も無くもっけ話から風邪話になってますしね。
 当時の混迷ぶりが窺われますよね。
 心の底から。
 ◆
 さてと、忙しかったりゲームしてたり風邪ひいたりゲームしてたりで、すっかり更新ペースが狂ってしまい
 ました。
 今のところ、この年末にこそ頑張って更新していきたいと思っていますから、ギリギリいつもの更新ペース
 を維持したまま年を越せると思います。
 終わり良ければすべて良し。
 良いんです。
 はい。
 今年も例年通り、年末に静かに開き直っているこの管理人でお送り致しております。
 で、今年は比較的年末こそは忙しくは無いので、更新に打ち込みますけれど、内容自体が盛り上が
 る訳ではありませんので、もうなんか更新回数をこなすだけで一杯一杯ですから、忙しさと関係無く
 そんなもんですから私なんて、駄目人間ですから、ええとまぁそれは置いといて。
 今日はなんのお話を致しましょうか。
  まぁその、風邪ひいてるときに咳をしつつ笑ったり、笑い過ぎてゲホゲホやってしまったりとか、そういう
 状況で、このサイト様を読んでいました。
 こちらです。 (サイト名は無い模様)
 シュールなガンダム00でばっちり捕まって(私の中では刹那はもうあのイメージから離れられないw)、
 C.C.とゼロが可愛いギアスとハルヒがなんか可哀想な子だけど可愛いハルヒでがっちりと捕まって、
 そして過去ログにあるローゼン漫画で、ばっさりとやられました。
 駄目、もう駄目。この銀様哀れ過ぎて可愛い過ぎて駄目。
 ・・なんだか最近こういう系に可愛さを感じるのはどうしたことでしょうか。知るかそんなもん。
 無能な銀様を堪能したい方は是非ご覧あれ。 あと薔薇水晶もなんか変な味出してます。(ぇ)
 あ、あと京極夏彦の「魍魎の匣」がいつのまにか実写化しとる。
 大丈夫かなこれ。大丈夫じゃないよねこれ。姑獲鳥の夏のはひどすぎたし。
 しかしご縁があれば観てみたいものです。
 えっと、まぁ、こういう感じです。
 ◆
 今日は出来るだけ手短にやるつもりでしたのに、どうやったら手短に出来るかなと考えている間に、なん
 だかこうしてつらつらと書き連ねてしまいました。
 ほら、よくあるじゃないですか、電話してるときとかに手元にあったメモ紙にぐるぐるなんか書いちゃったりと
 か、そういうノリです、そういう。
 ということで、なんだか今日は書く気が起きませんので、今日もだろとツッコミを入れる程度で終わらせて
 頂きたいと思います。
 おやすみなさい。
 いや待て。
 ひとつ忘れていることがありました。
 もうあれですよ、1月からは新しいアニメが始まりますよ。
 それについて、ちょっと書いてみたいと思います。
 で、ざーっと新しく始まるアニメを調べてみたところ、以前にリストアップした作品以外にめぼしいものは
 無い模様。
 おそらく今から新しく情報出ることも無いでしょうから、ほぼこれで決定でしょう。
 ということで、再びリストアップ。
 
 狼と香辛料
 GUNSLINGER GIRL -IL TEATRINO-
 みなみけ〜おかわり〜
 ARIA The ORIGINATION
 破天荒遊戯
 シゴフミ
                             計6作品
 期待順にしてみました。
 6作品ですか、少ないですね、少ない。
 おまけに続編モノが3つもです。
 ならば質に期待したいところです、質に。
 もう前からしつこいくらいに言っていますけれど、わたしゃ狼と香辛料に大期待ですのです。
 というか、是非この作品には面白くなって欲しい、ああ私この作品を観ることを選んでほんとに良かったな
 ぁうっとり、と思えるような作品になって欲しいなぁ、うっとり。
 なんででしょうね、なんでこんなにこの作品に魅力を感じているのか、いまいち解らない私です。
 むー、ガンスリ・みなみけ・アリアが面白いのは続編なのだからある程度わかっていて、でも続編モノに
 期待して来期のひとシーズンをそれで終えてしまうのは哀しいじゃん、だから来期発のアニメにさ是非
 頑張って貰いたいじゃない、っていう感覚を含めてもわからない。
 でもさ、久しぶりだよね。
 前作も原作も知らない作品で、ここまで期待したくなっちゃう作品てさ。
 なんかこう、私的にアニメを渇望してるときって、やっぱりこう、なんかきゅぴーんとくるものがあるんだろね。
 なんか知んないけど、これくるよこれ絶対くるよ、っていう、それは実は確信とかじゃなくって、ただそういう
 風に言っているうちになんかその気になっ・・・・・・・・・・・ノリいいだけなのな、私って。
 はぁ。
 まぁ。
 いいじゃん。
 実際観て面白ければ、それでいいじゃん。 (なんだかいきなりやる気ダウン)
 でもま、一番近いとこでは怪物王女のときもなんかそんな感じだったしさ、いやむしろ怪物王女のとき
 よりも強い感覚かなこれ。
 だからそういうときって、たとえ初見で印象悪くても、こう、ぐいーんと感度が上がってきて、絶対これ愉し
 んで観てやるっていう意気込みまみれになってきて、で、それで愉しくなってくると、もう、それがすごいそ
 の作品に対しての愛着を私に抱かせてくんだよね。
 ローゼンとか、古くは灰羽とかもそうでした。好きで好きで堪らなくなる。
 だから、そーゆーときは、というかそういう作品と出会ったら、やっぱりその感想を書きたいなーって思うし、
 近年はその書きたいなーくらいで終わってたがゆえに結局感想書かないままに終わっちゃったことも
 あるし、それであとでどれだけ涙したことか、で、だから今度はそれ以前のように、たとえつまらないという
 第一印象を受けても、絶対に愉しくなるはず、いやまず感想を書くという前提から考えてみようって、
 そういう感じでこの狼と香辛料と向き合えたらいいなって、そう願っています。 (夜空のお星様に)
 
 んでも、正直キツいのよ。
 だってさ、たぶんガンスリの感想は90パーくらいの確率で書くでしょ?(たぶんぐちょぐちょのめちょめちょの
 体感まみれの一人称ちっくに)
 んで、なんかもっけが2クール仕様みたいじゃない?
 てことは、1月もまだまだもっけで感想は続く訳。
 んー。。
 じゃさ、なにかね?
 狼と香辛料の感想絶対書くとか粋がっちゃってるこの人は、なら1月からは感想3つ掛け持ちだね☆って、
 自分で自分に言い聞かせなくちゃなんない訳?
 ・・どんな顔していいか、ふつーにわかんねー・・・・
 無理でしょ。無理ですか。いや無理でしょう普通に考えて。
 なら、普通を超えろ。無理いうな。無理ですか。いや無理でしょう普通に考えて。
 答えは、出ない。 (放送が始まればなんとかなりますなんとか)
 まーそのうん、なんとかなりますよ。
 なんとかしてみせようほととぎす。
 まぁうん。
 なんか書くはずのことがまだあったはずなのですけれど、はっきりと忘れてしまったので、無理です。
 思い出せないというか、あまり思い出す気がないというか。
 ないない、書くことなんかなかったなかった。はいはい。
 おわり。
 P.S:
 えー今後の予定。
 本日27日木曜にこの雑日記をUpして、早ければ29日土曜遅くても30日日曜にもっけ感想をUpして、
 んで、31日に本年最後の更新をしてフィニッシュ、という感じです。お疲れ様でした。
 今期アニメとかぼちぼち終わってますけど、その辺りのこととかもまとめて最後の更新のときに書いてみ
 ようと思ってます。
 ひぐらしも第三期決定したものな、わたしも頑張らんと。 (よくわからない理屈)
 なんかもう、文章は無駄に長いのに内容的にはしっかり手短なことばっかりですみません。
 今年はもうなんかすみません。
 来年もきっともうなんか、すみません。 (先手)
 P.S2:
 この頃知人友人あるいは知人の知人友人の友人に、そうリアルの方のね、その人達がやたらブログ
 やサイトやってたりするのが私に発覚してきてます。なにこの芋蔓式。
 や、正確にいうと芋蔓じゃないんですよ。だって全然みんなそれぞれは関係無い人ばっかりだし。
 で、なんかやたらヲタ率が高いの。これどういうこと?
 ちなみに今までの私のリアル知人友人の中で、オタクと言える人はひとりしかいません。
 この人とも最近付き合い出し(というか一時期離れてたんだけど再会みたいな)たんだけどね、再会
 したらオタになってましたみたいなね、なんだこれ。
 まぁ、オタ発覚したのは友人レベルじゃ無く知人レベルの人の方が多いんですけどね。
 でまぁ、うちふたりほどがジャストアニメヲタでビンゴな訳なのですよ。なんだこれ。
 しかも私なんかぬるオタ以外の何者でも無いくらいの真打ちですよ。なんだこれ。
 お前がなんだこれ。
 なんでこんな、今まで気づかないんだ。
 ていうかまぁ、付き合い深い訳じゃ無いから当たり前といえばそうなんだけど、なにげにしびれる。
 で、うちひとりは直接ブログやってるから是非観てねー言われたから観てるんですけど、もうひとりの
 人は直接では無くて人づてに実はあの人ブログやってるんだよねー知ってた?あんまし人には言ってな
 いけど別に観てもいいらしいからさ観てみなよ、とか言われて観てるのですよ。
 あれな、絶対口止めされてるっぽい。
 むしろほんとに別に観てもいいけどって言われたのかもしれないけど、それって空気読め的な、隠すつもり
 は無いけどあんまし言いふらすなよという意味であることが濃厚。良心的に考えて。
 あ。 
 なんか萌える。
 こういうのなんか萌える。覗きっぽい。
 その人とは関係的にいうと友人の友人という感じで、一応私とも面識があり、まぁ程良く距離もある
 しで、まぁ後腐れも無いし(ぉぃ)。
 というか、このくらいの距離の人の(割と本音で)考えていることを読むのって、なんか強烈にくる。
 でまぁ、そういう感じでむらむらときながら読んで(変態)いたらですね。
 まぁうん、ちょっと、そっかぁ、ってなって。
 結構ネット的というかオタク的というか、論理的なんだけど内容が無いみたいな、文章としてはしっかり
 してるんだけどね、という感じでまぁうん、って感じだったのですけれど。
 でも、なんか新鮮。
 とあるアニメを褒めてたんですよね。
 私はあんまし評価しなかったアニメ。
 そのときに、くん、ってきた。くん、ってどんな擬音だ。
 ああ、なにやってんだ私って。
 そうじゃん、言葉は流麗なのに朴訥で、だけど、言ってることは確かにそうじゃん。
 音楽の使い方とか演出とか、確かにその、作り手側の意識で語られがちなことをね、そういう意識で
 語りそうな語り口だったその人がね、あっさりとそうじゃない、いち視聴者としての、しかもかなりオタ的な
 感覚から離れた素直なね、そういう観点から、あっさりと音楽の素晴らしさと演出のすごみをね、論理
 的に説明していたの。
 やられた、って思った。
 私が忘れてたのは、これだ。
 書き手の、リアルがあるってことを、忘れてた。
 たぶんね、その人のリアルの顔を知らない人が書いていたら、私は気づけなかったかもしれない。
 でも私はこの文章の書き手の顔を知っていて、そしてオタでは無い顔をしっかり知っている。
 だからこうして、ぽっと当たり前のように素直に照らし出された感想を、オタ的発想では無い感覚で
 捉えることが出来てるんだって、そう信じることが出来る。
 うんまぁ、そういうこと。
 あの人の顔を思い浮かべながら読むと、色んなことがわかるなぁって。
 それは実は、書き手の立場もそうだけど「読み手」の立場も同じ。
 私の文章をもしあの人が読んだらどう読むんだろ。
 私の文章を私が知っている人達が読んだら、どんな風に読むだろ。
 それをね、想像しながら書ける楽しみが、結構文章にはあるし、そういうのが割と新しい視点を与えて
 くれたりもする。
 うん、そんな感じだ。
 つまりはただ、私ももうちょい落ち着いてアニメ観ようってことだ。
 うんうん。
 私アニメ好きやし。
 負けてらんないのよ。
 やー・・・勝負事と違うし・・ (頭をぽりぽりかきながら)
 おしまい。
 だぁーっ! (布団に突っ伏して)

 

-- 071225--                    

 

         

                                ■■静寂のいる豊饒 ■■

     
 
 
 
 
 『師走に入り年の瀬に向かって、多くのモノは鳴りを潜めている。
  だから、私の目には街は静かだ。』
 

                           〜もっけ ・第十一話・静流の言葉より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 モノには、こだわりが生じます。
 長い間それを使っていると愛着が湧きますし、それの持つ使い慣れたがゆえの利便性を排除しても
 なお、それがたとえ道具としての機能さえ失ったとしても、それを持ち続けたいと願うことさえあります。
 それはきっと、そのモノに対する思い入れであると同時に、そうやってひとつひとつのモノに対して、真摯
 な、そして直に接している感触を得ている、その自分を感じられるがゆえのことなのでしょう。
 モノが、其処にいる。
 つまり、物の怪であり、勿怪(もっけ)。
 使い古したモノを、私は大切におもいます。
 そのとき私は、自分がそれを長年使い続けているという事自体の愛着を越えて、もはやそこに生命
 を持つモノとして、一個の独立した存在としてそれを捉えている。
 それは「愛着」の象徴として顕れたのでは無いのです。
 ただそれはずっと、私と共に其処にいた。
 そのモノが有する道具としての機能の善し悪しでも無く、またたんなる愛着でも無い、その「なにか」。
 それがこそ、私の気持ちを、そのモノに対して向かわせるのです。
 
 新しいモノを、目の前に控えながら。
 
 
 
 ◆
 
 静流は、ダイマナコという妖怪と出会います。
 ダイマナコとは、大眼と書くのでしょう。
 この妖怪は、師走の忙しい時期に人々の元にやってきて、様々な厄を振りまく厄神です。
 そしてそれは、新しい年を迎えてやってくる様々な神様の先鞭を付けるために人々に厄災をばらまき、
 それで人々の居住まいを正させるのです。
 しかし今では、ダイマナコを迎え、そしてそれを追い払うことで居住まいを正すという古い作法を守る
 人々も少なくなり、そしてダイマナコを感得する者も珍しくなっています。
 そしてそれでもダイマナコは律儀にやってきて。
 そして静流もまた、毎年その姿を視ているのです。
 
 
 はい。
 物語はこの静流とダイマナコの出会いから始まります。
 つまり、静流はダイマナコを視たのです。
 ではなぜ、静流はダイマナコを視たのでしょうか。
 一体静流は、「なに」をその背景に感じたのでしょうか。
 
 
 私は、あんまり流行に詳しくない。
 新しいモノがどっと押し寄せてくると不安になる。
 でもね、その不安が恐ろしいとか、あるいは新しいモノとそれでも出会っていくための勇気が欲しいとか、
 そういうことでも無いの。
 ただね、どういうことなのかなって、おもって。
 私は流行の服とかに興味は無いしよくも知らないけれど、そのことに不安を感じてはいない。
 だから芙美ちゃん達が色んな新しいことを知っていると感心する。
 へぇー、すごいね、芙美ちゃん。
 私にはわからなかったよ。
 別にそれで私だけ遅れてるとか、そういう劣等感みたいのは無いし、逆に私は私だって我を張ることも
 無い。
 ただ・・
 服とかそういうモノの場合はまだいいけれど、私はもっと沢山、そうしていつのまにか古いモノを失って
 しまっているってこと、あるのじゃないかな、って。
 私は、今着てるこの服が好き。
 デザインとか着心地とか、そういうのはあんまり関係無いかな。
 私の持ってたいくつかの服は、瑞生にお下がりとしてあげちゃったけど、あのときおもったのは、ああ、次の
 持ち主が決まって良かったなぁ、捨てなくて済んで良かったなぁって、そういうものだったの。
 私はなにかが不要になったときは、いつもそう感じちゃう。
 どうしたらこれを、ただ捨てるだけのことにしないで済むかなって、誰か貰ってくれないかなって、そういう
 風に考えるんだ。
 うん、それはね、リサイクル精神とか、あとはそれを作ってくれた人への罪悪感とか、そういうのでも無い
 んだ。
 たとえば、魚の煮付けを食べきれなくて残すしか無くなったときに、それは魚の命がどうこうとか、こういう
 ものを食べたくても食べられない貧しい子達に申し訳無いとか、そういうことを考える訳じゃ無いのよ。
 なんていうのかな、その「魚の煮付けさん」に、申し訳無い気がするんだよね。
 だって、私の目の前にいるのは、生きている魚でも、アフリカの貧しい子達でも無いし、これを作って
 くれたお祖母ちゃんでも無くて、魚の煮付けという料理そのモノなんだもん。
 
 でもね、それはだから捨ててはいけない、というのとはちょっと違う。
 
 捨てることは、不要になったことは、もう前提としてあって。
 だから私は、その別れを惜しむだけなのだと思う。
 むしろ、その別れの時間そのものを愛するというのかな。
 ずっとそのモノと付き合って、それを捨てるのは心苦しいのだけれど、でも、それとそれを捨てなければ
 いけない事とは、全然別のことなのよ。
 だから私は、もう着られなくなった服はそれなりに処分するし、お腹を壊してまで魚の煮付けを無理矢
 理食べようとはしないんだ。
 でも・・・
 そのことを・・やっぱりどこかで、寂しく思っている私がいるの。
 
 
 静流にとって、あらゆる付き合いのあるモノは、命あるモノなのです。
 それは古き習慣なり文化なりについても、同じことなのです。
 それを皮膚感覚で感じているゆえに、そういうことは静流にとっては理屈では無い。
 お正月に飾る門松なりなんなり、そういった風習もそれを彩る様々な器物そのモノについても、静流は
 それが毎年飾られ行われることに、深い愛情を感じることが出来ます。
 それは無論、新しいモノへの反発でも、それを迎え入れなければならない不安とは関係の無い愛、
 つまり一年間物置の中に仕舞われていたそれらの正月を彩るモノ達が、こうしてまたしっかりその仕事を
 果たしているその姿に、そっと手を触れて愛おしくおもうことにあるのです。
 そのときこの風習は文化は、確かに静流の目の前で生きている、と言えるのです。
 しかし、もはや死んで失われてしまった文化達も、数多くいるのです。
 静流が知らなくても、時代の流れに飲まれ、非常に沢山のモノ達が人知れず姿を消していっている。
 静流は、決して保守派でも無ければ懐古主義者でも無く、ましてや原理主義者でもありません。
 文化そのものの存続こそが重要とは考えていませんし、その復活を願うこともありません。
 静流はただ、今実行している、今最も実感を得ているその「モノ」、それとの付き合いをただ続け、
 ひたすらその付き合いの中に生きているだけなのですし、それがもう不要と感じるときがくれば、おそらく
 すっぱりと綺麗に「別れ」としてそれらを捨て去ることでしょう。
 
 静流にとって、文化とはモノとは、「必要」なのです。
 
 繰り返しますが、それはその利便性とかそういう面に於ける意味だけではありません。
 それとの肌を通した付き合いそのものが、大きくその「必要」の内訳を占めている。 
 そもそも古い文化的風習なりなんなり、そういったモノが直接的に利益を静流達に与えているものは、
 それそのものの利便性なり合理性なりが直接関与してある訳ではありません。
 つまり、今のこの時代にはそれらはすべて迷信以外の何者でも無い、科学的根拠とその利益の無い
 ものであること甚だしいモノばかりだということです。
 ゆえに、静流がそれらの迷信的古い文化の意味を、昔ながらのそれとして受け取っていることなどあり
 得なく、またそれゆえに静流は原理主義でも懐古主義でも無いのです。
 静流は、お正月を彩る様々なモノが大好きです。
 そう、ただ好きなのです。
 おせち料理のそれぞれの品目の意味は、ただの駄洒落にしか過ぎません。
 豆はまめまめしさを表し、昆布巻きは「喜ぶ」から来ている。
 そんなものを食べたところで、まめまめしくなれる訳でも無ければ、嬉しい気持ちになれる訳でも無い。
 
 けれど。
 それとはなんの関係も無く、そっかぁそうかもね、と自発的にそれらを受け入れ、美味しく頂くことが出来
 ることは確か。
 いやむしろ、そうやってそれらを愉しむ「余裕」こそが、それらが副次的に静流達に与えてくれるもので
 あり、それゆえに既にそうした「余裕」をそれらの存在によって与えられることが出来るという、文化的
 背景が静流にはあるからこそ、そう言えることなのです。
 すなわち、おせち料理が其処にいる。
 先祖代々そうしてきた、という実感そのものに浸れる静流ではありません。
 けれど、自分が今こうしてそれらのモノを愉しく受け取ることが出来ることの、ただそのことの後押しとして、
 そういった先祖代々続いていることだからという言葉が有効になってくるのです。
 先祖代々続いたモノを子々孫々伝えることが目的でおせちを食べたり注連縄を飾ったりするのでは無
 く、只今その目の前に「先祖代々続いているモノ」があるからこそ、それを今純粋に愉しんでいるだけ。
 そして、それは子々孫々に自分も伝えていこうと、そうふっと思える悦びこそが余裕を以て浮かんでくる
 からこそ、子々孫々に伝える価値と、そして「必要」が生まれてくる。
 
 逆にいえば、静流の興味の無いモノは、そのまま消えていくだけということ。
 
 それらの文化なりモノを愉しめ愛することが出来たからこそ、それを後世に残したいと思えるのであり、
 初めからそれを残すことを目的とする文化なりモノなど不要。
 文化とは、偶然の産物です。
 その生まれも、そしてそれの存続も含めて。
 
 しかし、静流は今まで自分がそう理解してきたことへの、僅かながらの懐疑を抱くのです。
 このモノ達は・・私が愉しんであげられなければ、存在できないのかな・・
 だってさ・・・このモノ達は・・・いやこのヒト達は・・・私とは関係無く存在しているはずなのに・・・
 
 
 
 
 ◆
 
 静流は正月の準備を整えていきます。
 お祖母ちゃんと一緒におせちを作り、また家々を飾る数々のお正月の器物を眺めながら、静流は
 こう思います。
 『注連縄や門松もいつか飾られなくなるときがくるのかなぁ。』
 そう思うと、静流は自分がこういったモノ達を守り、そしてそれらの文化を続けていかなくてはと感じる
 ようになり始めます。
 私が覚えていなければ、こういうモノは無くなっちゃう。
 『忘れてはいけないことって、沢山あるような気がする。』
 除夜の鐘の音を、きっと見据える静流。
 自らが守り継承する文化の、その担い手である自覚。
 そして年が明けると。
 
 
 『でも、こんなに沢山いると、緊張するな・・』
 
 
 初詣に来た神社に、神様の団体さんを視てしまう静流。
 年の瀬の静まり様に比べてのこの賑々しさは、いつも緊張を静流に与えます。
 なんだろう、この気持ち。
 これだけのモノを記憶し、これだけのモノを守り続けることが出来る、その嬉しさは逞しいはずなのに、
 その重圧とはまったく違う、その「なにか」が静流の背にのしかかります。
 なんだろう、この背徳感は。
 本当にこのモノ達は、私がいなくちゃ、私が覚えていなくちゃ消えてしまうのかな・・
 なんだか凄く・・・自分が驕っているような・・この気持ちはなんだろう・・
 文化なり風習なり、それを残そうと思うことを目的にして、それらと接している自分の姿に、やがて静流は
 ゆっくりと気づいていくのです。
 残そうと思うから、私が覚えていないと消えてしまうから、だから私はこの文化と付き合っているの?
 私はそうしてこのモノ達が消えてしまうことが、ただ寂しいだけなんじゃ・・・
 だから、静流は自分でも気づかぬうちに、その事とはなんの関係も無く、それらの文化の各行事を
 既に愉しんでいる自分を見つけようと躍起になっていることに気づくのです。
 愉しむことと、それを残すことは、別なのじゃないのかな。
 
 静流は、それらのモノを残すのは自分だという自覚の元に、それらの行事を愉しんでいこうとしていまし
 た。
 そのこと自体がどうこうよりも、それは実は静流にとっては、ひどく違和感のある行為でありました。
 静流がその文化と向き合いそれを好むのは、ただそれらが今其処に生きているモノとして感じている
 からであり、それ以上でもそれ以外のものでも無いのです。
 ならば、それらが其処で生きているかどうかは、そもそも静流がそれを覚えているかどうかとは、本来
 関係無く、また関係があってはいけないものなのではないか。
 それらのモノ達の生き死にを、自分が左右していると考えていることに、大きな不安を静流は感じて
 いるのです。
 生きるべきは生き、死ぬべきは死に。
 そして使うべきは使い、捨てるべきは捨てる。
 そのことに関する純粋な体感こそが、それらのモノとの関係を静流との間に成し、そしてだからこそそうし
 て静流はそれらのモノを視ているはず。
 静流は、大きな勘違いをしていたのです。
 
 
 あれらのモノは確かに静流が其処に視なければ、存在しないモノ。
 しかし、ならば。
 静流が其処にそれらのモノを視るということは、既にそれらが其処に存在しているからという、根本的
 な感覚が前提としてあるからなのではないか。
 
 
 すべてが静流の記憶と想いの中にしか生きられないモノなのならば、初めからそれらのモノは静流の
 目の前の其処にはいないのです。
 静流が視るからこそ、それらは其処にいるのかもしれない。
 けれど、それらのモノが実は初めから其処にいるからこそ、静流はそれらを視ることができる。
 そして、視ることができるからこそ、それらはやっぱりそこに顕れる。
 静流が、私達があなた達のことを覚えていないとあなた達は消えちゃうんだねと言うと、ダイマナコは
 こう答えるのです。
 『それはあなた達も同じでしょう?』 と。
 静流は、それに頷いてしまいます。
 もし私が誰からも忘れられてしまったら・・私は・・・
 どうしようも無く、不安に駆られる静流。
 
 
 
 しかし。
 お祖父ちゃんはこう言います。
 『そんなこたぁ無ぇだろ。』と。
 
 
 
 静流の存在が、それで無くなる訳ではありません。
 誰からも忘れられようと、静流が此処に存在していることに変わりはありません。
 ただただ、その存在を視る者によって、その姿が変わっていくだけ。
 『別のもんが来るだけだ。』
 文化や風習は、時間が経てば経つほどに、それらから直接得られる実感が失われていきます。
 そしてやがては、新しい文化や風習がその代わりにやってきます。
 いいか静流。
 大事なのは、文化や風習そのものじゃ無ぇ。
 文化や風習やそれらのモノが、そこにいるってことがどういうことかってことだ。
 お前、妖怪を視るだろ?
 ありゃあお前、なんで怪獣じゃ無くて妖怪なんだ?
 お前が怪獣で無く妖怪を視ることには意味があるだろう。
 だがな、他の者はあれを怪獣なり怪物なり神経過敏なだけと、そう「説明」するだろ?
 場合によっちゃ、お前だって今からだって急にあれらのモノが怪獣なり他のものなりに視えたり、あるいは
 目にみえる形では無いモノとして、感じられてくるかもしれん。
 お前、妖怪に拘ってるか?
 違うのだろ?
 お前にそれを妖怪とみせている、その背景にある「なにか」こそが、お前が向き合っているモノそのもの
 だろ?
 お前がそのなにかを妖怪と視るのは、たまたまそれがそのときの自分に最も適していたからだろ?
 そういう意味でならお前がそれを怪獣で無く妖怪と視るのは意味があるが、しかしそれを妖怪として
 視ることが適さないとなった時点で、それはたちまち意味を失うのだ。
 だがそれは、おかしいことか?
 わしらはいつも、あれらを妖怪とは呼ばずに「モノ」と呼んでいるじゃないか。
 
 それらの「モノ」は、決して無くなったりはせん。
 固有の形あるモノは消えても、それが「其処にいるもの」としての「モノ」は消えんのだ。
 
 新しいモノ達は次々と顕れてきます。
 静流の知らない、いえ、いたけれど静流が知らなかっただけのモノ達が。
 全く新しいモノと、静流が知らなかっただけのモノは、実は同じ。
 静流が失われていく自分が守らねばならない古いモノ達の多さに感じた不安と、新しいモノが次々と
 押し寄せてくることへの畏怖は、同じモノ。
 それらはすべて、本質ではありゃせん。
 古いモノが消えても、「モノ」は消えん。
 新しいモノが来て、すぐにその「モノ」を顕すからだ。
 
 
 『そんときにゃ、付き合い方を一から考え直さなにゃならん。
  生半にはいかんだろうな。
  哀しみや辛さも大きかろう。
  
  だがそうした変化こそ、俺らが生きている証でもあるのよ。』
 
 
 
 
 ◆
 
 うん。
 そうだよね。
 でもね。
 私はね。
 それだけじゃ、足りないんだ。
 
 私も、そう思います。
 静流にとって切実なことはなんでしょうか。
 新しいことが押し寄せてきて、それらに対する方策を一から考えなくちゃいけないことでしょうか。
 古いことが失われ消えていき、それらに対する背徳感を真摯に考え詰めていくことでしょうか。
 違う、のですね。
 静流が切実に感じていることは、ただひとつ。
 
 
 それらのモノが、そこにいて、そして実際に伝わってくるその存在感との今この瞬間の交流そのもの。
 
 
 ダイマナコと話しててね、なんかほっとしちゃった。
 まだなんか、頬がびりびりして、薄く緊張してるんだけど。
 すごく、このダイマナコというモノがなにかを顕しているということ、つまりその存在そのものが、私が今まで
 考えていたようなことを体現して在るのかと感じられて、私の言動ひとつひとつが、ダイマナコになにか
 影響を与えてしまうような気がして。
 私の言葉が、想いが、ダイマナコを創って動かして生かしているって、それでもまだ強く感じてるの。
 
 
 −−
     だからね、それでもいいかなって・・・
 
      そう思ったらね、なんだか、ぐっと、ほっとしてきたんだ。
                                    −−
 
 
 ほら、私、もう普通にオオマナコと話をしてる。
 普通の人と話すようにね。
 でも、うっすらと私の背中には緊張感が漂っている。
 このモノを、ううん、この人を私の目の前に存在させているのは私だってね。
 でも、この緊張感こそが、こうしてびりびり来てるからこそ、私はダイマナコを視ることが出来てる。
 ううん。
 この緊張感は、ほんとはそれだけのものじゃないのよ。
 目の前に、いるはずのない、だって妖怪よ? そんなお化けが目の前に確かにいて、そして私達と
 普通に喋ってる、そのことが、そしてその当のダイマナコがそこにいるってことに、もうしっかり緊張を
 感じているのよ。
 うん。
 私達は、確かにダイマナコの命を握っているのかもしれない。
 だから。
 
 
 『よく覚えておきますよ。
    あなた達みたいな厄神を。
         覚えておきますよ。』
 
 
 だって、今私は確かに、そこにダイマナコを視てるんだもの。
 
 
 ダイマナコは別れ際に、静流達に罵ってくれと頼みます。
 女子中学生になに頼んでるんだって話ですけれど(笑)、しかし厄神として忌み嫌われるからこその
 厄神であり、それをお元気でだなんて優しく労られては立場が無いというモノ。
 だから、罵ってください。(ぉぃぉぃ 笑)
 そう、理屈ではそうなのです。
 罵られるからこその、厄神です。
 そうして罵られ人々の記憶に残ることで消えないで済むのです。
 だから、静流は罵った。
 
 − でもそれって、なんか変 −
 
 それを静流自身が一番感じています。
 そして。
 瑞生の方は、あっさりと本気で罵ってみせます。
 だって厄神なんだよ? いるだけで厄を振りまく疫病神なんだから、さっさとどっか行っちゃってよね!
 「ダイマナコ」を感得しているのは、瑞生の方なのです。
 瑞生は実際にダイマナコに憑かれ目を勝手に使われた経緯もあり、まさに厄神としてのダイマナコに
 対しての恨み辛みはぐっとあるのです。
 おまけに、別れ際に渋る静流にしつこく罵ってくれと迫るダイマナコ(すごい構図w)にいらっとしてもいた
 のですからね。
 その罵りはポーズでもなんでも無い、本物なのです。
 
 
 
 で  も 。
 
 
 
 『っと、こんな感じ?』 by瑞生
 
 瑞生は本気で罵りました。
 でも本気で罵ったのは。
 ダイマナコの話、つまり静流が理解したダイマナコの存在の話を聞いて、それに納得したからでもあるの
 です。
 瑞生はダイマナコに憑かれて感得し。
 そして。
 静流もまた、ダイマナコを視て感得したのです。
 だって、ダイマナコは其処にいるもの。
 そんな、いきなり罵れだなんて、いくら妖怪にだからってそうそう簡単には言えないよ。
 この感じ、普通だよね。
 この戸惑いがあることこそ、其処にはっきりと「他者」を感じていることこそ、それこそが静流が其処に
 なにかが「いる」のを視ているということなのです。
 モノが生きて、其処にいる。
 静流が感じている「なにか」を、命ある他者として感得する。
 ダイマナコという名の、その妖怪という「システム」を理解したとしても、単なる厄神として忌み嫌うことに
 真摯になれたとしても。
 ダイマナコという「モノ」が其処にいる、ということは変わらないのです。
 
 
 『いつかまた会えるかどうかわからないけれど、私はきっと雪を見るたびにこの冬を思い出す。』
 
 
 存在が、いる、ということの不可思議さ。
 ダイマナコがどれほど自分の妖怪としての性質を語ろうとも、「その」ダイマナコはそれとは関係ありつつも
 、完全に関係無くに此処にいる。
  文化や風習への愛着があるゆえにそれを捨てずに守りきることも、やがては来る新しき文化や風習に
 備えることも、それらはすべてその文化や風習が「其処にいる」ということを超えるモノでは無い。
 いえ。
 それらのモノが、確かに其処にいるからこそ。
 それをしっかりと感じ、それに憑かれ、それを視ることが出来るからこそ。
 それらを守り続けたり捨てたりすることが出来るのかもしれません。
 静流がそれらのモノを其処に視ていることの意味が、それにこそあるのです。
 妖怪は理論であり迷信であり、そしてそれと全く同時にそれらのいずれでも無い、ただの存在して居る
 モノとして、静流の前にいる。
 だから、静流はそれと肌を通して付き合うことが出来、それゆえに、それら自身との交流の中からしっと
 りと「別れ」を生み出していくことが出来るのでしょう。
 暖かい静寂に包まれた年の瀬が、またやってくる一年後を遙か向こうにみながら、つい先ほどまでその
 年の瀬を歩いていた自分を、静流は感じていくのでした。
 新しい年の始まりの中、で。
 
 
 『私ども自体はいずれ消えるでしょう。
  でもそれは、めでたくも、あるのです。』  byダイマナコ
 
 
 
 
 
 以上、第十一話「ダイマナコ」の感想でした。
 静流の表情が、すべてだったと私は思います。
 お話自体は割とオーソドックスなもので、これまた比較的にわかりやすい言葉でまとめられていましたけ
 れど、それらの随所に於ける静流の表情が、それらの言葉が示すことの内実、そしてなによりもその
 言葉を受けて今此処に生きている存在のなんたるかを、複雑無上に其処に顕していました。
 言葉の通りの、語られた言葉を表すための言語としての表情では無く、それらの言葉を見せ付けられた
 者が、膨大な世界の中に落とし込まれたその言葉の波紋を受けて魅せた、その世界の中にいる者と
 しての表情。
 だから、静流の表情をみてください。
 ああいったお話の理屈が語られたとき、ヒトは一体どうなるのか。
 ただ頷くだけでも無く、ただ反発するだけで無く、ただただ生きていることのままに、その言葉をきいている。
 私の今回の感想は、ほとんどあらすじを捉えていませんし、かなり解釈の部分も正統的な線から逸脱
 しています。
 しかしそれは、まさに今回のお話を受けて、そのお話が示された世界の中で生きている私がこそみせた
 表情として、複雑無上に顕した表情として魅せた解釈であり感想なのです。
 静流の顔をみてください。
 静流のひとつひとつの声音を聴き取ってみてください。
 何度でも、何度でも、違う印象を受けるはずです。
 私は正直、静流がなにを考えていたのかは、全くわかりませんでした。
 あのひとつひとつの表情の「意味」を解釈した途端、あっという間にその解釈だけでは足りないということ
 がわかるばかりでした。
 しかし、なぜそうなのかは、今回のお話を観た瞬間から、私にはわかっていました。
 静流は。
 
 そう、静流は、自分自身自分がなにを想っているのかを、わかっていないのです。
 
 というより。
 これはわかるとかわからないとかじゃ無いのですよね。
 わかることとわからないことが滅茶苦茶に頭の中体の中を巡り周り、ひとつの統一した理論ですべてを
 しっかりと考え始めた途端、ぽっかりとその外側にそれとは違う理論や、それら理論をてんで突き放した
 諸々の感情が押し寄せてきて、そして押し寄せるまもなくそれらはあっさりと静流の中に居着き、そして
 そのままぎっしりと生活を始めたのです。
 これほど賑やかな瞬間を、静流は、私は知らない。
 とっても、とっても、豊かなんだね。
 ひとつの理屈できっかりと語り切ることも出来れば、別のところでは全く違う理論にも頷けるし、また
 批判も出来、そういう思考をうっちゃって、ただ寂しいとか悲しいとかだるいとか、それでもなんだかぞくぞく
 する興奮もあったりとか、もうそれが完全完璧に共存して在ってしまっている。
 だから、静流のあの表情は、実に多彩でかつ根源にあるものが多様なモノであるのです。
 ダイマナコを見送ったときの静流の抱いた感慨は、とてもとても、一筋縄でまとめられるようなものでは無
 かったのです。
 いやいや。
 一筋縄で語ることすらも、出来てしまうほどに、静流の世界はもはや豊かになっていたのですね。
 
 褒め称える言葉は、もう必要無いですね。
 ありがとう御座います。
 もっけに感謝します。
 本当に、面白かったです。
 
 それではまた、次週お会い致しましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 ◆ 『』内文章、アニメ「もっけ」より引用 ◆
 
 

 

-- 071219--                    

 

         

                                ■■遅れてきた萌え ■■

     
 
 
 
 
 寒風吹き荒び、しかし雲は流れず重くに垂れ込み、その空を見上げれば届き得ぬ光に伸ばす
 この手にのみ力がこもりゆき、震えながらも襟を正すこの指先はぬくもりのままにただ凍りつき。
 
 ごきげんよう。
 アンニュイなセリフがここまで似合わないとは思っていなかった紅い瞳です、こんばんわ。
 ちょっと、驚きました。
 さて。
 ここのところ少々色々と忙しく、落ち着いて生活感に浸ることが出来なくて、なかなか上擦った物言い
 が出来なく、ただぼーっとなすがままでしたけれど。
 そろそろ落ち着いて参りました。
 別にだからと言って頑張ってはしゃぐなんてことはしませんけれど、はしゃぎたい気分では御座います。
 そしてなにかしらはしゃいでいるうちに、そんな笑顔満載安売り大バーゲンな自分をふと感じて、
 あ、なんかこれいいなぁこの感じ、とぽっと思ったりして、その暖かな感慨を胸に静かにこたつの中で
 ぬくまっていたりするのです。
 でも悲しいかな、いま我が家にはおこたが無いのですね。
 
 ならはしゃぎ切るしかないじゃないか! (某自由人に振り回されっぱな人風に)
 
 そんな感じです。困ったな、どうしよう。
 いまさらこんな年の瀬も迫りつつある今日この頃になってはしゃぎ始めたところで、あ、なんか売れ残りの
 花火頑張って燃やしてるなみたいな、ええー遊んでるんじゃなくて燃やしてるの花火みたいな、というか
 そろそろ「〜みたいな」という表現をネット上でも見なくなってきて、さすがに心配になってきたりしている
 のですけれど、皆様はご自分が使用していた流行の表現みたいなものを、いつまでも使うこだわりなぞ
 お持ちでしょうか? いや私には無い。
 ・・・・。
 でもそれはたぶんね、それがもうかつての流行のモノだったということを忘れちゃってて、普通に自分の
 素の表現の仕方に溶け込んじゃってるから、そう思うだけだったりするのかもしれませんよね。
 言葉なんて、そういうものなのですよ。
 ・・・・。
 なにをしたり顔で語っていますか。
 話が逸れているじゃないですか。
 こっちだって、好きなアニメ話を我慢してこんなにはしゃいでいるのに。
 まったく、けしからん。
 
 ・・・・。
 あれ? なんの話でしたっけ?
 
 そうそう、お酒買いました。
 末廣の「初しぼり純米原酒生」というお酒です。
 大晦日にじっくり飲もうと思っていたのですよー。
 初しぼりって、冬にいいんですよね? (質問)
 私は不勉強なものですから、いつが飲み頃とかわかっていないのですけれど、今回は人づてにそう聞いた
 もので、しっかり季節遅れにならないよう頑張りました、えへん。
 秋の旬モノである、同じく末廣の「ひやおろし純米酒」を冬になってこそこそ買ったりしていた私からすれ
 ば上出来です。
 褒めるといいよ☆ (石を投げるのはやめてください。)
 が。
 と言っているそばから、購入したあとで他の人に「でも初しぼりだったら早めに飲んだ方がいいよ。」と
 言われて、なら大晦日に飲もうとしてそのために生きてきた私は死ぬしかないじゃないか!、とか冗談
 で言いつつ満更でも無い感じに(落ち込んで)なっていたりしたけれど、私は元気です。
 もうなんか自分の中では大晦日用で決まりになっているので、その固定観念を崩せるほど私は器用
 では無いのだよワト○ンくんとか思っ・・・・なんかこういう引用ばっかりしてると、自分の頭の回転が別方
 向にむけてばかり早くなっているように感じるのですけれど、気のせいでしょうか? 気のせいです。
 
 というかですね、最近ちょっと飲み過ぎ気味な上に、これからもまたちょっと飲む機会が多いので、
 出来るだけ今の時期の酒量は抑えておきたいのです。
 だからこれはせっかくですので、味は変わっていない変わっていないと呪文を唱えながら、その想いの分
 だけむしろ良い方に美味しく変わっているはずさと信じて(盲信)、このお酒は大晦日までお預けなので
 す。
 
 とかいいつつ、コレをクリスマス用にあっさり買ってしまっている自分がいます。
 
 コレのリーベとビターを買いました。
 リーベは以前に飲んだことあって、ビールはあまり好きじゃないけれどこれは別格と、ひとり太鼓判を押し
 ていたので。
 で、私はどうもその辺の普通のビールが薄く感じられるようで、濃ければ美味しいようなので、
 それなら海外のビールの方がいいよとまた人様に(そそのかされて)言われて、じゃ試してみましょうという
 ことになり。
 
 コレコレを買ってしまいました。クリスマス用に。
 
 前者のはExtra Stoutのを買いました。
 ビールといえば、私的にはアイルランドとドイツでしょう、とよく調べもせずに直感だけで買いました。
 うん、買い物はさ、調べてもいいけど、前知識一切なしで、こういうチャレンジングな感じで自分なりに
 選んでみるのも、それはそれで面白いのですよね。
 最初はどれを飲んで良いかわからないものだし、でだから調べてみる訳だけど、結局は飲んでみなけれ
 ば美味しいかどうかはわかりませんものね。
 調べることもありますけれど、それにはあまり拘っていません。
 蘊蓄とか知ってると、またより美味しく感じられたりもしますしね。
 調べて得することも勿論ありますので、それもまたそれで。
 ゆえにまずは、挑戦。
 お酒もアニメも、それに関しては割とチャレンジャーです。
 それ以外は奥手です。石橋を叩き壊してほらやっぱりねと言って迂回するいい感じなヘタレです。
 で。
 これだけクリスマスクリスマスという感じでお盛んなのですけれども。
 どんだけ飲む気なんだよということですけれども。
 
 
 クリスマスは、ひとりですので。
 
 
 それ以上は言いません。
 察しなさい。(微笑)
 
 
 
 
 ◆
 
 ちなみに大晦日はひとりじゃ無いので、安心してください。
 まだなんとかやっていけそうです。
 あ、そういえばここのところ立て続けに月桂冠「甘口派」とか沢の鶴「しぼりたて生貯蔵酒」とかの、
 かなりリーズナブルなものを飲む機会があったのですけれど、うーん、これはやっぱり晩酌的に飲む
 って感じで、きっかりこれ一本を愉しむために飲む、という感じにはなれませんね。
 でも、かなり安かったのですけれど、木戸酒造の「但馬杜氏 原酒」というのは結構深みがあってまぁ
 まぁでしたから、値段で判断するのはまだまだ勿体無い気がしています。
 大体、私だって四合瓶で5000も6000もするクラス(あるいはそれ以上)のはまだ飲んで無いですけれど
 、それ以下の価格帯のものでも充分美味しく感じられているのですものね。
 たんに知らぬが仏とも言いますけれど。・・・・。
 
 
 
 さて。
 
 
 
 すっかりお酒のお話に華を咲かせてしまいました。
 当魔術師の工房は、別にお酒サイトでは御座いませんし、勿論アニメレビューサイトでも御座いません。
 純粋な日記サイトで御座います。
 今日は目一杯はしゃいでいる私の姿をご覧にいれようと、ただそれだけを考えてパソを起動したりして
 いました。
 
 なので、アニメの話をします。
 
 
 
 
 ◆
 
 ツッコミは、いりません。 (挨拶)
 さて。
 なんかさぁ。
 この頃、萌えがきた。
 
 はい。
 今、この私の言葉を聞いた人の反応は二分されますよね。
 紅い瞳が萌えたら終わりだろ、と言って踵を返した人。
 そして、またそんなぬるヲタがなにを言ってるかどうせポーズだけだろ、と鼻で嗤った人。
 ふふ。
 ふ、ふふふ。
 
 ふふふふふふふ。
 
 気持ち悪い。
 いやでも、そんな感じ。
 なんていうか、萌えです。
 なにかこう、心の底をくすぐられるような。
 なんだか、恥ずかしいような、だからこそ気持ちいいみたいな。
 あ、なんかこれわかるなぁ、みたいな。
 アニメ作品自体でもキャラでもそうなんだけど、それの解釈とか感情移入とか、そういう側面から入った
 、その作品への「愛」とは、またちょっと違うなにかが、きた。
 たぶんこれ、アニメを見始めてから、初めてのことだと思います。
 紅い瞳も、ようやっと堕ちたか、と言ってくださる方々、ありがとうありがとう御座います。
 んー。
 なんだろ、この居心地の悪さは。
 でもなんか、その居心地の悪さを認められる自分がいることが、心地よい。
 私はたぶん生涯自分をオタクと名乗ることはしないし、それこそあけっぴろげに自分の趣味的なことを
 そのまま宣言することも無いでしょう。
 でも、今までもなにかしらの形で、その自分が「アニメを好き」ということを周りには伝えてきたし、それは
 様々な欺瞞や策略(笑)を用いて、オブラートに包んだ形のものであって、だから正確なものでは無いの
 だけれど。
 でも、そうやって自分のことを、少しずつでも周りとの協調の中に伝えていこうと出来ることは、やっぱり
 嬉しいなって、そう思う。
 だから私は、いわゆるカミングアウト的なやり方で、ぶっちゃけ私オタクなんです、なんてことは言わない。
 でも、いやいやアニメっていうのは意外に面白いものなんですよ、ほら宮崎駿の作品なんか海外で
 色々評価されてるじゃないですか、アニメなんて元々は子供のものだって、ついこの間までほとんどの
 人が見向きもしなかったでしょ? それって結構そういう周囲の評価に囚われてて、その純粋な「目の前
 にあるもの」と付き合ってこなかったという意味だと思うんですよね。
 あ、勿論だから逆に宮崎作品が海外で評価を得ていること自体は、それは別にどうだってよいことだと
 思うんですよ、むしろ重要なのはそのことで、今言ったように自分がアニメに偏見をただ持っているだけ、
 ということを知るってことが大切だと思うのですよ。
 そうして改めてアニメを観てみると、意外に面白いものって結構あるかもしれませんよ?
 私は結構、意外な面白さをアニメは持ってる、というか今まで意図的にそれを知ろうとしていなかった
 自分のことにも気づけたりして、なかなか興味深かったです。
  
 と、言うようなことをぬけぬけと言うわけです、この人は。
 
 でもアニメが萌えとかいって正直キモいし、オタクなんてなんなのあれ?と言われたら仰る通りですと
 答えるしか無いはずだけれども、でもそれはそれなんですよね、本当は。
 キモいのは確かだけど、キモさだけしか感じられない、あるいは感じようとしないだけなのじゃないかな、
 ってさ。
 別にそこで変に、オタクだって自分のやりたいこと一生懸命やってるんだよ、それを批判することは間違っ
 てるし、そういう自分の狭い心をこそ恥ずかしいと思いなよ、だなんてことは言いませんし、言うつもりも
 ありません。
 だって、オタクはオタクじゃん。
 それを一番わかってるのが、当のオタクなのですし。
 確かにそれを全部自分的に大肯定して、どどーんと公開して、それで自分の居場所をみんなの中に
 作ってこう! っていうのは非常に大事なことだし、それはそれで良いことだと思います。
 けれど、じゃあそれが私の一番したいことかというと、それは実は違くて。
 もしそうやって「自分の一番したいこと」をぶっちゃけてカミングアウトすることが一番大切なことなのなら、
 私はだから自分のすべてをそのままぶっちゃけずに、でも別の形で伝えていくということこそを愉しみたい
 、ということを、これをもう完全にぶっちゃけてカミングアウトしたいなって思うのですよね。
 この頃の「げんしけん2」を観てると、なにかこう、色々と考えさせられるのですよ。
 あれは面白い。
 
 で、だから、なんていうのかな?
 それだとなんだか居心地悪いっていうの、あると思いますよ。
 なんかもう全部ぶっちゃけたい、みたいなこともあると思いますよ。
 でもそこで、ちょこんと我慢すると、なんだか私的に、それこそ居心地いい。
 萌えは、あるんですよ、私の中にも。
 でもなんか、だからこそ、それが私の中に秘められてあることこそが、その居心地のよさを支えている
 気がするのですよね。
 というか、正直自分のすべてをそのままぶっちゃけても、きっとそれに賛同してくれる人達としか、その居心
 地のいい場所が作れなくて、むしろそれがその他の人達との壁を作っちゃうというか。
 だからそういったあけっぴろげでいつつ、実はなによりも閉鎖的なオタクライフって、それはなんか私的には
 違うなーって、そう思うのですよね。
 無論、私の趣味的には合わないというだけの話ですけれど。
 だから、私の中に秘められてるその萌えとかそういうのは、秘めるのが目的では無く、むしろそれをその
 外にしっかりと根付かせるためにこそ秘められているとも言えるし、それは結構しんどい作業だけれど、
 だからこそ、この自分の中にある萌えという静かな情熱が、それを後押ししてくれている、そんな気も
 し始めています、最近。
 だから。
 
 
 前より、もっともっとアニメのことが好きになったような気がします。
 
 
 このセリフを言いたいがために、今日の更新はあったと思います。
 そんな、絶好調の紅い瞳でお送り致しました。
 今度はちゃんと熱の籠もった萌えっぷりを披露できたならばと思っていますが、そう思った瞬間に普通に
 「気持ち悪い。」という言葉が響いてきましたので、あっさりと鞘に収めることにしました。
 あんた一体なにがしたいの。
 
 いやだってあなた、萌えって表現するの結構難しいよ?
 結局萌え萌えいうしか無いじゃん、ていうか、「萌え」の一言にすべてが凝縮されているからこその、
 だからこその萌えなんじゃないの? とか、まぁ、うん。
 
 この萌えは、私の心にしまっておきます。 (結局)
 
 
 
 
 お疲れ様でした。 (自他共々)
 
 
 
 
 
 

 

-- 071216--                    

 

         

                              ■■ 孤独のいる可能性 ■■

     
 
 
 
 
 『たとえお姉ちゃんと遠く離れても・・私はきっと独りでも・・・寂しくない・・・
  ・・・・うん・・・・・・寂しくない・・・・・・・・』
 

                           〜もっけ ・第十話・瑞生の言葉より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 妖怪は、います。
 其処と、そして此処に。
 妖怪は其処にいて、「妖怪」が此処にいる。
 目の前の妖怪に囚われることで、「妖怪」に取り憑かれてしまう。
 そこになにかがいて、ここに私がいる。
 
 瑞生はいつも、なにかを感じています。
 その「なにか」がなんであるかを瑞生自身はわかってはいませんけれど、しかしその存在を知覚すると
 同時に、その瑞生の目の前には必ず妖怪が現れます。
 瑞生がその「なにか」を感知したこと自体、或いはその「なにか」を瑞生なりに受け取り、それを形にして
 表したモノが妖怪である、とも言えます。
 しかし、だからといって、その妖怪がただの瑞生の想像の産物であると、ただ言い切ってしまうのは早計
 です。
 なぜならば、その妖怪が其処に顕れて出てくるのは、瑞生の意志とは全く関係無いからなのです。
 例えばなにか辛いことを経験し、「あ、嫌だなぁ・・」という感慨を抱いてしまうのは、それは不可抗力と
 いうものであり、その嫌だなぁという感慨は瑞生の意志とは関係の無いところから発生してくるからなの
 です。
 
 
 
 ◆
 
 瑞生は、静流が実は今のこの田舎から出て東京に戻りたがっているのではないかと疑います。
 静流とその友人達のその会話をつい聞いてしまい、瑞生はさっと、嫌な気分に囚われてしまいます。
 私は今の生活が好きだけど・・ずっとこのまま続いてくれればいいと思っているけれど・・
 それは・・私だけなのかな
 瑞生は妖怪や霊などに取り憑かれてしまうという自らの特異体質に翻弄されながらも、しかしなんとか
 頑張ってそれとの付き合いを覚え始めています。
 それは、刺激の少ない田舎町でゆったりとした時間を過ごし、そしてなによりも頼りになるお祖父ちゃんと
 自分と同じ境遇のお姉ちゃんに守って貰えるからこそなのでした。
 もしお姉ちゃんが東京に行ってしまったら・・・
 瑞生は、それでもきっと自分は強く生きていける、生きてくんだと言えることを知っています。
 でも・・・お姉ちゃん・・
 自分がそうした強い意識を持つことは出来ても、それを共有できる人がいなければ、それを支えてくれる
 人がいなければ、例え能力的に自立が可能だったとしても、その孤独感を拭い去ることは出来ない。
 それが、瑞生の感じ取った「なにか」の因子のひとつとなって顕れます。
 得体の知れない黒い影が、瑞生に取り憑くのです。
 このまま、この気持ちのままに沈めたら・・・
 その黒い妖怪に覆い被され、そしてすっかり取り憑かれかける瑞生。
 しかし、瑞生はここでひとつ、こう感じているのです。
 
 これは、自分の感情だけの問題じゃ無いんだ、と。
 
 瑞生が感じ取った「なにか」は、決して孤独感だけから成っているモノではありません。
 実は、この孤独感の象徴たる黒い影には、妖怪としての名前がありません。
 少なくとも瑞生は知らないでしょうし、またこの妖怪が瑞生に取り憑くことがその妖怪としての本質では
 無いのです。
 つまり、この黒い影は「妖怪」では無い。
 瑞生にまとわりつく「状況」の、そのトータルな姿では無いのです。
 この黒い影は、実は、「其処にいるというコト」そのものを表したモノなのです。
 もっと言えば、目の前にいたはずの誰かが「いなくなってしまった事」、ということを表してもいる。
 つまり瑞生の背に覆い被さったモノは、「静流が目の前からいなくなってしまう事」ということそのものを
 表しているのですし、また同時に静流の「不在」そのものを表しているとも言えます。
 それでも、それが黒い影として確かに其処に在るように感じているということは、「不在」を感じている、
 つまり「無」を感じているということです。
 いるべきはずの其処に誰もいない。
 「いるべきはずの其処に誰もいない」が、其処にいる。
 その感覚的「矛盾」が、瑞生の孤独感に対する態度を維持出来ない要因になっている。
 なんでだろう・・なんであなた其処にいるの・・
 それはただの孤独感だけであるはずなのに、その孤独を感じている自分だけが此処にいるはずなのに、
 どうしてもその孤独感が目の前の其処にいるようにしか感じられない。
 どこかからやってくる恐怖と不安が、よりその目の前の黒い影の重みを鮮明にしていきます。
 それはつまり。
 瑞生が感じている「なにか」は、決してその瑞生の内面的に発生した孤独感だけでは無いものであり、
 またそれゆえにもっと広がりと深さのあるモノが、その孤独感の背景に広がっているということを、瑞生に
 示しているのです。
 瑞生は確かに孤独を感じているけれど、実はそれ以上に「孤独」なのです。
 同じ孤独という二文字を使って受け取っているそれは、実は瑞生が認識している以上の広がりと深さ
 を持っているモノであると、瑞生はその自身の認識のさらに一段上の段階で感じているのです。
 そう、無意識ながらに。
 
 そして、顕れたのが、カマイタチなのです。
 顕れたカマイタチは、その黒い影を瑞生の目の前から追い払います。
 瑞生は、静流の存在の喪失により孤独を感じましたが、しかし瑞生が感じた「なにか」は、その孤独感
 を含みながらのそれ以上の「なにか」でした。
 ゆえに孤独を感じ、そのことの顕れとして黒い影を背負いつつも、しかし瑞生の感じた「なにか」は、
 さらに其処にカマイタチを呼び寄せたのです。
 今回瑞生が取り憑かれた「なにか」は、「カマイタチ」。
 黒い影とカマイタチの絡み合った複雑な「なにか」にこそ、瑞生は取り憑かれたのです。
 そして今回、鮮明に瑞生が感じていたその「なにか」を表すモノが、既にこの時点で顕れている。
 黒い影と、そしてカマイタチが、其処にいるということ。
 つまり、語弊を恐れずに言えば、自らの苦悩が目の前にそれとして存在している、つまり自分とは
 離れたモノとして確かにいる、ということこそに、瑞生の憑かれた「なにか」の根元が描かれているのです。
 
 そしてそれは、「いない」がいる、ということに繋がっています。
 いるはずの静流がいない、ということが、いる。
 瑞生にとっては、誰もいないという孤独そのものが問題なのでは無いのです。
 わかりやすく言いましょう。
 瑞生は、自分ひとりでもしっかり頑張れると、そう言えてしまう自分を恐ろしく感じているのです。
 お姉ちゃんがいなくたって頑張れる。
 私だってもう、お姉ちゃんがいなくたって・・・・
 ・・・・・どうして私・・・・頑張れちゃうんだろう・・・
 静流という存在は、確かに血肉を持って目の前にいたはずなのに、それなのに、それを失ってもまだ
 頑張れると思えてしまう自分が恐ろしい。
 ゆえに孤独そのものが恐ろしいのでは無く、孤独がそういったことを呼び込んできてしまうゆえに、その
 孤独の背景に控えているモノを、その孤独を其処に視ながら恐れてしまうのです。
 だって、それは其処にいるんだもん。
 
 カマイタチとしばし遊ぶ瑞生。
 瑞生にとっては、カマイタチこそは失われるべき静流なるモノと同じ存在です。
 自分の目の前から「いなくなってしまうモノ」として顕れたカマイタチ。
 それが確かに目の前にいるという矛盾、そしてその「矛盾」に取り憑かれる瑞生。
 なんでだろう・・どうせみんなとはいつかお別れするのに・・どうして一緒にいるんだろう・・
 みんな私を置いて出ていっちゃうのにさ・・・・
 そして、瑞生はわかっているのです。
 カマイタチを其処に感じた時点で、既にそのつぶやきこそ自分が乗り越えるべきモノであるということを、
 つまりそのカマイタチとそれでも仲良くなる事こそ自分がすべきこと、さらにいえばその瑞生の無意識な
 る意志こそがカマイタチを召還したともいえるのです。
 いつかは別れなくちゃいけない、でもだからってそれを理由にして今を見ない訳にはいかないんだもん・・
 それゆえに、カマイタチはよりリアリティを持って瑞生の前に顕れてくる。
 瑞生とは全然違う存在として、やがては瑞生からは離れていくモノとして。
 無論、瑞生はそういった造形を意識的に施しているのでは無く、そういった構造を持ったカマイタチという
 存在が、ほぼ自動的に瑞生によってその目の前に生成されていっているのです。
 なぜなら、瑞生はただそのカマイタチと遊んでいる意識しか無いのですから。
 しかし瑞生はその深いところで、すべてそういった構造を感じて、自然にそれを反映したカマイタチを現出
 させている。
 そして、瑞生がカマイタチを目の前に作り出したのは。
 それが、そこにいるモノ、との付き合いを自ら学ぶために、だったのです。
 
 お祖父ちゃんは、瑞生がまた「なにか」に感づいたことに気付きます。
 『お前、イタチ臭いな。』
 瑞生はそのイタチは悪い奴じゃ無いから大丈夫といいますが、しかし瑞生がそのカマイタチを感じたこと
 自体が、既に瑞生がその「なにか」と直面したことを如実に表しているのです。
 では、その瑞生の「なにか」とは一体なんなのでしょうか。
 カマイタチは、人知れず人を切り裂く妖怪です。
 けれど今現在、カマイタチの一族にはそれを可能とする霊威が薄れてきています。
 人を切り裂けないカマイタチは、ただのイタチ。
 この造形は、まっすぐに静流のそれに該当します。
 若い女の子だったら誰でも都会に出てみたいと思うのに、それをしないでいるのはどうなのかな。
 カマイタチが失われた自分の力を回復しようと瑞生相手に躍起になる姿は、そのまま瑞生の視たその
 「静流像」にリンクしているのです。
 では、瑞生はなにをすればいいのか。
 瑞生はその自らの深い意識のどこかで、既にその答えを得、ゆえにその答えを元にして、カマイタチを
 造形していました。
 すなわち、だったらそのカマイタチと仲良くなれれば、いいんでしょ?
 瑞生の目の前に顕れたカマイタチのその頑張る姿は、しっかりと瑞生にとって、「無駄なあがき」という
 文脈で以て受け止められていきます。
 なぜカマイタチは人を切るのかと、そのカマイタチの弟分に瑞生は訊きます。
 元々この力はカマイタチだけのものでは無く、神様やら精霊やら、そういったモノの力と密接に結びついて
 いるもの。
 だから人を切れないのは自分達だけの問題では無く、ゆえに自分達が頑張らなくては駄目なんだと。
 しかし今では多くのカマイタチが技の復活を諦め、おとなしく慎ましく生活している、とも。
 そのカマイタチの孤軍奮闘ぶりを理解し受け止める手前で、瑞生はそのほかのそうでは無いカマイタチ
 を正しいと脈絡付け、その観点からその頑張っているカマイタチのことを道化的なものとして、生ぬるく
 見守ることにしたのです。
 だってしょうがないじゃん、神様だってもう力くれないんだし、そもそもそれを遊びに使ってたあんた達も
 悪いんだしさ、ほかのイタチも、狐や狸だってもうゆっくり気楽に暮らしてるんだからさ、あんたも頑固に
 なってたりしないでゆったりすればいいじゃん、ほら、お団子あるよ、食べる?
 
 『もしかしたらあいつ、口では大きいこと言ってるけど、ほんとは術なんて出来ないのかも。』
 
 そして瑞生は、そのカマイタチと静流を会わせようとするのです。
 瑞生の魂胆が手に取るようにわかるおもいですよね。
 (あくまで瑞生視点による)静流的なモノをそうやってある意味見下すことによって受け入れ、そして自
 分のそれに対する立ち位置を確立しようとする瑞生。
 お祖父ちゃんはそれを、あっさりと見抜いてしまいます。
 『そう都合良くいくと思うなよ。』
 カマイタチと一緒にいると、ほかの妖怪なり霊なりに憑かれなくて済むからまだ付き合っているという瑞生
 に、お祖父ちゃんはそうぴしゃりと言うのです。
 おめぇ、逃げてるだけだろ。
 そしてそんなものは、すぐにバレるぞ。
 カマイタチを其処に感じた、お前自身にな。
 カマイタチを其処にいるモノとして確かに感じれば感じるほどに、瑞生は静流との別離に対して距離を
 置くことにリアリティと自信を感じることが出来る。
 だってカマイタチは其処にいるじゃん、私の自分勝手な妄想じゃ無いんだよ?
 だからさ、私はそいつとちゃんと向き合って、それでさ、現実的に付き合い方を覚えていこうと思って。
 
 
 なら、なんでお前、カマイタチを其処にいさせたんだ?
 
 
 瑞生がカマイタチを感じた時点で、それは既になにかが始まっていることを示しています。
 カマイタチには、火を見せて火事の予兆を示すというもうひとつの力があります。
 お前のカマイタチは、その力をもう失ってるだろ?
 いや、今の時代、すべてのカマイタチがその力を無くしてしまってる。
 カマイタチ自身が、いえ、カマイタチが存在しているそれ自体が、既になんらかの警告を孕んでいます。
 なぜ、カマイタチを感じたのか。
 なぜ、カマイタチを其処にいさせたのか。
 それは瑞生には、カマイタチを利用して、静流がこの町から出ていくことの必然性、あるいは正当性を
 否定したかった切実な願望があったからです。
 そしてそれは、「カマイタチが其処にいる」ということで、そうしてしまうことが本来的に間違っている事を
 瑞生が自覚していることを表してもいる。
 お姉ちゃんが町から出ていくことは否定しちゃいけないってわかってるし、そして怖いことに、私はそうやっ
 て我慢出来ちゃうんだよ・・・だって・・・それが其処にいるんだもん・・・認めない訳にはいかないじゃん
 そして、瑞生は、その「不条理」に対して精一杯抵抗するためにこそ、カマイタチという其処にいるモノに
 対して、それを言ってはいけない静流に対しての代わりに、その自分が認めたモノを静かに侮辱して
 破壊していくのです。
 そして。
 カマイタチは、そのことをこそ、警告する力を持っているべき存在。
 カマイタチは、自分の存在を顕在化させた者に対して、その自らの顕された存在を以て警告する。
 そして、その警告する力を持たないカマイタチが顕れたとき。
 
 
 それを顕した者は、「カマイタチ」に憑かれるのです。
 
 
 
 ◆
 
 カマイタチはさ、頑張ってるよね。
 すごいなぁって、思う。
 でも、寂しいな。
 なんでそんなに頑張らなくちゃいけないの?
 もっと私とゆっくり遊ぼうよ。
 カマイタチのことをすごいと思えば思うほど、私は切なくなる。
 だからね、私はカマイタチが力を取り戻すのを手伝ってあげることにしたんだ。
 カマイタチがすごいのはほんとだもん、私だって応援してあげたいし、だから素直に手伝ってあげる。
 でも・・・
 きっとカマイタチはその力を得てしまったら、私の前から消えちゃうんだ。
 私をばっさり斬って、高笑いして、風に乗ってどこかに・・・
 私は・・それはなんか違うって・・・おもってる・・
 なんでみんな、そんなに自分だけ頑張るの?
 その人を斬る能力って、あんただけのものじゃないって、あんた言ったじゃん?
 だったら、あんただけが頑張って、その技を復活させることを背負わなくたっていいじゃない。
 みんなもう諦めて山でゆっくり暮らしてるんだもん、あんただってそうしたっていいんだよ。
 でも、うん、そうだよね。
 そう言うことじゃ、無いんだもんね。
 あんたは、だから寂しいんだよね。
 そんな事したら、ほんとにその技はこの世界から無くなっちゃうんだもんね。
 あんたはそれが、寂しいんだよね。
 そう・・・わかるんだ・・私も・・
 そうやって頑張らなくちゃ、色んなものは変わって消えてしまっちゃうんだ・・
 だから私が頑張らなくちゃって、みんなが駄目でも私だけでもって・・・
 
 だから、頑張れるんだよね!
 
 そして私は、あんたがそうやって頑張ってる姿を眺めることが出来る。
 あんたは怒るかもしれないけれど、私はあんたがそうやっていつまでも出来ない技を出来るように努力
 し続けているその姿、それをずっと変わらずに見続けていたいんだ。
 だから、技なんて復活しなくていいんだ。
 ただそうやって、頑張り続けることが出来るだけで。
 そうすれば私も、いつまでもあんたと一緒にいられるもん。
 『出来なくても、私はぜーんぜん気にしてないよ。』
 『まぁそんなに必死にやんなくてもいーんじゃない?』
 あ、ごめんごめん、必死にやってもいいんだよ、私はそれもちゃんと見ててあげるからさ。
 頑張んなさいよ。
 私の、目の前で、ずっと。
 
 そして
 
 
 
 
 『 黙れ!! 
          調子に乗るな! 
                     俺は貴様と延々馴れ合うつもりは無いわっっ!!』
 
 
 
 
 
 このカマイタチの叫びこそ、瑞生自身の叫び。
 そして、この叫びを耳にすることで感じる、その「孤独」さこそが、瑞生に憑いたモノだったのです。
 それが、「カマイタチ」に憑かれるということ。
 目の前に誰かがいることで感じる、その虚無なる、「孤独」。
 
 そして。
 
 その「孤独」は。
 
 「カマイタチ」であって、カマイタチでは、無い。
 
 
 
 瑞生の目の前には、それでも、そう、それでも、カマイタチはいるのです。
 
 
 
 
 ◆
 
 カマイタチは、ただ無我夢中で失われた技を取り戻そうとしている。
 そこには、他の仲間がどうだとか、プライドだとか、本当はそういう事は一切無く、ただただ片手間に後付
 け的に自分のしていることを、その言葉で飾っているだけ。
 それがカマイタチのやっていることの本質では、決して無い。
 カマイタチはただただ、自分のやりたいことをやっているだけ。
 それをどう読み解くかは、ただそれを観ている瑞生が決めるだけのことであり、それゆえに、それは同時に
 瑞生にとっての解釈にしか過ぎず、そしてそれはカマイタチ自身にとってはなんの関係も無い解釈にし
 か過ぎないのです。
 馬鹿にするなっ。馬鹿にするな! 馬鹿にするなっっ!!
 カマイタチの叫びは、同時にカマイタチ自身が自分が此処にこうしていることをも教えてくれます。
 そうだ、俺はそう叫ばなければなにも出来ない奴なんだ。
 こうして自分に対しても他人に対しても強く叫ばなければ、いつも自分のやりたくない事ばかり、楽なこと
 ばかりしてしまう。
 俺の本性は怠け者だ。
 だから俺は、頑固なのだ。
 その怠けを否定するためにこそ、そのためにこそ、意志を貫く強靱な言葉を綴るのだ。
 ゆえにカマイタチには、瑞生の言葉はたとえ真であったとしても、毒にしかならない言葉。
 
 そして。
 そのカマイタチの存在を感じているのが、瑞生自身なのです。
 『ごめんお姉ちゃん・・・・いつも・・・失敗ばっかで・・・・・ごめん・・・・』
 瑞生の言葉が、続々とカマイタチを其処に描き出していきます。
 瑞生の目の前にいるモノは、なんなのか。
 それを瑞生は深く感じとっていましたし、そしてそれが瑞生が感じていた「なにか」の正体なのです。
 瑞生が感じていたのは、絶対的に自分の思い通りにならない他者。
 そして、それと離れないためにはどうしたらいいのかと、徹底的に思い悩むことこそが、「カマイタチ」の
 正体。
 瑞生はカマイタチを使って、静流との関係改善のための方策をシミュレートしていたのでもありますし、
 またそれだけでも無い。
 
 瑞生は、そうしたすべての事柄にこそ囚われ、そして憑かれている自分をこそ観てもいたのです。
 
 「カマイタチ」の幅は、さらに奥行きを持っています。
 瑞生は実は、カマイタチでもあります。
 カマイタチ的なモノがどういうモノであるのか、その体感を通して思考してもいるのです。
 カマイタチもまた、なにかに囚われてたんだ。
 カマイタチはなんだかんだ言って、そうやって強く叫ばなくちゃいけない事に囚われ、そしてそのことにもムキ
 になるゆえに、自分がその技の復活に拘るということが、それだけでカマイタチ自身の世界を狭めてしま
 っていることをも感じたのです。 
 瑞生のカマイタチを逆上させた言葉は、ある意味で正しい。
 前回の「エンエンラ」の感想でも書きましたけれど、とあるひとつの事にのめり込む事自体は良いけれど、
 しかしそのことが引き起こすあらゆる弊害を認めないと、そのうち多くのモノを見失ってしまうのです。
 カマイタチには技の復活に命を賭けることも出来れば、実は同時にそれ以外のモノにも同じくらい命を
 賭けることの出来る可能性が、常にあり続けています。
 それは決して、だからそのいくつかの可能性の中から、その技の復活に賭けるという可能性を選んだの
 だし、だからこそそれに大きな価値が生じる、ということでは無いのです。
 それは既に、そのことが自体がもう、「憑かれて」いるのです。
 その、技の復活にすべてを賭けるということ、そのものに。
 なぜなら、結果的にそれは、その技の復活にすべてを賭けることの正当性を得るためにこそ、つまり
 当て馬として他の選択肢としての可能性を存在させただけなのですから。
 どんなに他の可能性を見つめて、それを感じることが出来たとしても、それで満足してひとつの可能性
 だけにのめり込むのなら、それは最初からそうしているのと同じこと。
 
 ううん、むしろ、私は最初からそうしようとしていたんだ。
 
 瑞生は、わかっていたのですね、そのことを。
 カマイタチの、失われたもうひとつの能力である警告能力。
 それは、「失われた能力」として、確かに其処にあったのです。
 つまり、瑞生はその能力失っているカマイタチを其処に感じることで、その能力、すなわち警告能力が
 失われている事そのもの自体を認識しようとしたのです。
 私、またなにかに囚われてる・・・だから・・・・「なにか」を感じたんだ・・・
 自分がなにかひとつの事にのめり込もうとしている事を正当化するためにこそ、カマイタチを召喚した。
 カマイタチを認めて、その上でも尚自分がのめり込もうとしているモノを認めることが出来るのなら、それ
 はやっぱりそれにのめり込んでもよいんだという事になれる。
 しかし。
 そのカマイタチには、能力が欠けていた。
 人を斬る能力と、そして人になにかを気づかせる能力。
 人を斬る能力を復活させることにのめり込むカマイタチと、自分がなにかにのめり込もうとしていることに
 気づかないでいる瑞生。
 そのふたつを、瑞生は同時に感じたのですよね。
 なにかにのめり込んでいる者を否定しつつ、しかし否定することにこそのめり込んでいる自分に気づく瑞
 生が、此処にいます。
 
 
 だったら、両方じゃん。
 両方。
 
 
 怠惰な自分と向き合うことを怖れ、ただ厳しく律することでしか強くなれない自分。
 怠惰な自分を無条件で肯定することに溺れ、ただそうするためにすべてを受け入れようとする自分。
 どっちも、駄目なんじゃん。
 両方、駄目。
 だから、両方と同時に向き合ってく。
 そのためにこそ、目の前に、カマイタチがいるのです。
 誰もいないということが、いる。
 お姉ちゃんが私と一緒にいてくれようとくれなくても、それとは関係無くに私はひとりでやっていけるよう
 にならなくちゃいけない。
 でも、今度はそのこととも関係無く、お姉ちゃんという存在はこの世界に永遠にあるんだから、やっぱり 
 私はお姉ちゃんと一緒にいたいって思うし、そう思うのは当然なんだ。
 だから、一緒にいられなくちゃ寂しいと思うのも、当然なんだ。
 でも。
 それは結局その寂しさを認めることにしか、なってないんだ。
 ううん、最初から私は、そうやって寂しいって言いたかっただけだったんだろうね。
 寂しいよ・・・
 そのことは変わらないよ・・・・
 でも
 
 そう言うことが、それが私の全部だなんて、絶対に言えないよ。
 だって。
 お姉ちゃんが、其処にいるんだから。
 
 
 
 『ほんとに、独りぼっちだ。』
 
 
 
 独りだから、誰かと出会える。
 そして誰もいないからこそ、目の前に「誰かがいるはず」の「無」がある。
 其処は、目の前は、そういう場所でありモノなのです。
 瑞生の背に再び取り憑いた黒い影は、強大な重みを以て瑞生にのしかかってきます。
 カマイタチの「いない」今、その重みを防ぐ手だてを瑞生は思いつくことは無く、またそれはつまり瑞生にそ
 れをはねのけたいという願望がもはや無いということを示しています。
 けれど。
 
 
 瑞生には、カマイタチが、います。
 
 
 瑞生は、カマイタチをしっかりと感じ、そして目の前の其処に顕していたのですから。
 その背にのしかかる深遠なる孤独が、瑞生の此処にいるというのなら。
 瑞生は。
 そう、なにより瑞生自身がこそ、その孤独があってでさえも、いいえ、全くその孤独に囚われ瑞生自身
 がのめり込んでしまったとしても、それと同時にいつも必ず、瑞生の目の前の其処に誰かをいさせても
 いるのです。
 孤独を感じるからこそ、なによりもその誰かの存在を感じられる、のでは実は無いのです。
 そうであるのならば、それは既に瑞生の願望的意志を孕んだ、「カマイタチ」が生み出すモノでしか無い。
 それに憑かれれば、やがてはすべての「他者」は自分を此処に感じるための当て馬としてしか、其処に
 存在することが出来なくなってしまうのです。
 カマイタチは、其処にいます。
 最初から、瑞生とはなんの関係も無く、ただ其処に。
 
 だからこそ、そのカマイタチに助けて貰うことが出来るのです。
 
 助けて貰うためにこそ、カマイタチは其処にいる。
 瑞生は生きたいと、不安に押し潰されずに、しかし不安がある自分とも向き合って、どうしても生きたい
 と思うからこそ、目の前の其処にカマイタチを呼び出した。
 なぜ、そうしたいのか。
 答えは、簡単。
 
 
 
 
 カマイタチと、静流と、みんなと一緒に、生きたいからに決まっているでしょう。
 
 
 
 
 目の前の其処にいる誰かが、たとえ自分の内側にあるモノにしか過ぎなくても、そんなことは関係が無く、
 ゆえに徹底的に其処にいる誰かは、絶対的に自分の外に存在しているという、唯物的観念のままに、
 その他者の姿を認識していくのみ。
 黒い影に押し潰される間一髪。
 カマイタチが、なによりも凄まじい力を発揮して、その瑞生の目の前に降臨します。
 すべてを圧倒的に切り裂く強大不変の鎌を生やし、炯々と光る眼を研ぎ澄まし、なによりも確信に
 満ち足りた体躯を駆って、その黒い孤独を切り裂く、誰か。
 これこそが、瑞生の、圧倒的な、なによりも深くて凄い、願いと意志の姿。
 求めて、求めて、ひたすらのめり込んで。
 それに囚われ取り憑かれすべてを見失って。
 それでも、そうだからこそ。
 いいえ、そんな接続の言葉はいりません。
 ただただ、その瑞生のカマイタチは、瑞生の孤独を切り裂いたのです。
 瑞生の孤独とは、そして瑞生がのめり込んだモノとはなんの関係も無くに。
 そっか。
 間違いなんか、どこにも無かったんだ。
 どこから行っても、どこへ行っても、それは必ず繋がるんだ。
 そう。
 此処と、其処へ。
 鎌を振り上げ、禍々しく絶叫するカマイタチ。
 これぞ、「カマイタチ」。
 
 『どうだ! みたか!! これが俺の鎌だっ!! 』
 
 そして。
 その瑞生の小さくて強い友人は、瑞生の目の前から去っていくのです。
 
 瑞生は。
 それを、はっきりと、みたのです。
 
 
 
 
 
 
 『すごいな・・・・・・・・あいつ。』
 
 
 
 
 
 うん
 
 
 
 
 
 『大事な・・痛みだから。』
 
 
 
 
 
 
 
 悲しくて、嬉しくて、寂しくて、凄くて、苦しくて、ほっとしてて、痛くて、よくわからなくて。
 悲しいからこそ嬉しい訳でも無くて、痛いからこそ誰かを其処に感じられるのでも無い。
 みんな、同じなんだ。
 悲しいし、寂しい。
 痛いし、よくわからないし。
 だからこそ頑張れるって思うたびに強くなれて。
 だから、どうしようも無く、寂しい。
 
 お姉ちゃん
 
 
 『でもね、ひとりで寂しい人って、ふたりやみんなでいても寂しい気がするんだよね。』
 
 
 うん、お姉ちゃんの言う通り。
 私はひとりでも寂しくない。
 寂しくないって言わないと、寂しいから。
 だから、寂しいんだ。
 
 
 でもね。
 
 だからふたりやみんなでいても寂しいのだし。
 
 
 だから
 
 
 寂しくても、それと同じくらい楽しいことも嬉しいこともあるってことなんじゃないかなって、おもう。
 
 
 
 ひとりでいるときに寂しくないとしか言えなかったら、ふたりやみんなでいるときもやっぱり寂しくないとしか
 言えないって思うんだ。
 寂しくないとしか言えないからこそ、寂しいことしか私の此処には無い。
 だって、寂しさしか感じられないからこそ、踏ん張って寂しくないって言うんだもん。
 
 だからね、お姉ちゃん。
 私は、寂しくないって言うよ。
 だって、そう言えばもう逃げられないでしょ?
 私の此処には、寂しさしかないってことから。
 私はそれと向き合うもん。
 寂しさを感じるためにこそ、寂しくないって、無意識にでも叫び続けるよ。
 だから、その寂しさは、孤独は私の目の前の其処に顕れる。
 だから。
 私も、此処にいる。
 寂しさがいるからこそ、やっぱり嬉しさや楽しさがいる可能性も、あるんだよ。
 
 寂しさを嬉しさや楽しさに変える前に、私はそのままの嬉しさや楽しさを見つけたい。
 
 静流は自分の話を、また変なこと言っちゃったねと評します。
 けれど瑞生は。
 『ううん、わかるよ。
  うん、なんとなくわかるような気がする。』
 と答えます。
 たとえお姉ちゃんがいなくなってしまったとしても。
 お姉ちゃんがいないというモノは、其処にいるよ。
 そしてお姉ちゃんは、この世界のどこかに必ずいる。
 ううん。
 すべてが、此処と、其処なんだよ。
 お姉ちゃんと私の繋がりは、絶対に消えたりしないんだ。
 どんなことがあってもね。
 そう。
 瑞生は、まずそうであると言うところから始めることに、成功したのです。
 瑞生の目の前の其処に、静流がいる限り、瑞生はそこから始め続けることが出来るのです。
 そして。
 瑞生の目の前の其処とは、つまり。
 瑞生の外に広がる、その世界すべて、なのでした。
 
 
 
 以上、第十話「カマイタチ」の感想でした。
 正直私がこの作品を観て感じた「なにか」についてすべて書けたかというと、かなり怪しいと言わざるを
 得ません。
 瑞生のようにしっかりと妖怪として顕せる才能が欲しいなぁ、だなんて空恐ろしいことをつい考えてしまい
 ます。(笑)
 けれど、私は今回のお話を観てもの凄く自分の中の「なにか」を刺激されましたし、またその刺激によっ
 て震えた手のままにこうして書き付けることは出来ました。
 そのことは、嬉しく思っています。
 これだけの素晴らしい作品に対して、しっかりと感応出来た自分が嬉しいです。
 勿論、その喜びの表現さえも未熟ではありましたけれども、ただもう今は自分の下手な文章を読んで
 いてでさえも、えへへへと微笑むことが出来てしまう感じです。
 ああ、なんでこんなもっけって凄いんだろ。
 この作品はその中身についてもさることながら、その中身自体がひとつのその「なにか」の表現として出来
 ているものです。
 つまり、「なにか」を表すということ、そのもの自体が、この「もっけ」という作品なのだと思います。
 ですから、同じく自分の感じた「なにか」を描き出そうとしている私にとっては、「もっけ」はそれ自体がもう
 憧れの的になっています。
 なんでこんな、鮮やかに表現出来ちゃうんだろ、うっとり、みたいな。(笑)
 
 という感じです。
 もうなんだか毎週もっけの放送を楽しみにしているのに、その感想を書くのがその分だけプレッシャーに
 なってのし掛かってきている昨今ですけれど(笑)、これからも頑張って楽しんでいこうと思います。
 楽しむのを頑張るという不自然さが、こう、また色々と私を刺激してくれるものですよ、結構。(笑)
 では、「カマイタチ」に敬意と感謝の念を送りつつ、今回はこの辺りにて。
 
 また、来週。
 
 
 
 
 
 
 
                                 ◆ 『』内文章、アニメ「もっけ」より引用 ◆
 
 
 

 

-- 071210--                    

 

         

                                  ■■ オサレ日記 ■■

     
 
 
 
 
 はう゛ぁないす、ざびー。 (挨拶)
 
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 先週の日記でアンニュイ卒業を宣言した覚えが不覚にもありますので、今週からはアッパーな感じで、
 ハイテンションかつどことなく壊れたようなまったりなような、やる気の無いのを頑張ってやる気あるように
 みせたりとか、そういう風にして大変見苦しい感じでお送りしたいと思います。
 でもね、思ったのですけれど、アンニュイってなんですか?
 語の意味としては倦怠とか退屈とか、そういう感じでふぅっと溜息を優雅に吐く、そんなオサレな感じの
 ことですよね、アンニュイて。
 あー、なんかそれ私と違うわ。
 倦怠でも退屈でも無いし、ましてやオサレだなんて、いやオサレはいいとして。
 優雅さなんか全然無いものね。
 ただやる気無い無いいってゴロゴロしてるだけだものね。
 別に、倦怠とか退屈とかでも無いし、ただやる気無いだけなのね。
 無気力ともちょっと違うのね、なんていうのかな、やる気無い。
 ていうか、やる気無い。
 
 うん、わかったよ。
 やる気無いんですよ、私。
 というかですね、やる気無い無いと言っているだけですべてを済まそうとしているだけなのですよ。
 むしろネタがそれしか思いつかないから、苦肉の策としてそういう風にして言っているだけなのですよ。
 たぶんそうです。きっと。そうであって欲しい。
 いやいや、ネタがどうとか考えている時点でおかしいよそれ。
 日記のネタなんていちいち考えるなよ、そんなこと。
 もっとざっくばらんにいこうぜ! 兄弟。
 ちなみに私の萌え属性は姉弟です。
 ん? なにも言ってませんよ? なに言ってんですか、話続けますよ?
 でね、とかいいつつ、毎週この雑日記を書くときには、すごく頭を抱え込んじゃっててね。
 ざっくばらんてあんた、そんなに簡単に言うけれどなに書けばいいんですか。
 わかりませんよわかりません、そんなの全然わからない。
 大体ね、そんなに書くことありますか? 一週間に一回もそもそも書きたいことなんてありますか?
 無い無い、そんなの無いですよ、というか私ってば元々シャイ(古)で人見知りで、自己顕示欲なんて
 もってのほか、むしろ人知れず引き籠もってるうちに朽ちていくがいいさ(私が)、と高笑いできちゃう、
 そんなよくわからない人ですよ?
 それが、なんですか、毎週欠かさずなんか書いちゃって。
 ていうか、紅い瞳ってなに? なにこのバカみたいなコ。ていうかバカ。
 
 ふぅ。 (ゴロゴロしながら)
 
 まぁうん、あれです、紅い瞳を否定とかしちゃ駄目です。
 自己否定は駄目です、それはなあかんねん。
 いやむしろ今のは笑うとこみたいな、そういうところです。
 全然笑えませんけども。だってほんとにバカだもの。
 あ、だから笑えるのか。
 紅い瞳、笑います。
 あはははは。
 
 ふぅ。 (ゴロゴロしながら)
 
 駄目だな、ネタなんか浮かんでこない。
 私、日記の才能無いのかな。
 才能無いのに、もうこのサイト4年だか5年やってますよ。どうしてくれますか。
 いやもほんと、申し訳御座いません。 (4年だか5年もこのサイトに付き合ってくれてるすべての方々へ)
 ・・・。
 謝っちゃってるよ。謝っちゃってるよ、この人。
 ほんとうに、大丈夫ですか、あなた。
 あなたが謝ってどうするのですか。
 あなたはここの管理人です。
 ちょっと気取って工房主とか言っていたときもあるけれど、恥ずかしくなってすぐに元に戻したヘタレでしょ。
 いやヘタレかどうかは置いといて。ヘタレなのは決定事項ですし。
 うんまぁ、その、なんていうのかな。
 バカならバカで、ヘタレならヘタレで、いいじゃない。
 いやよくない。
 そう。
 そう、それですよ。
 その葛藤とかですね、それをこう、なんかそれっぽく、こう、書く訳ですよ。
 あなたここの管理人なんですから。
 やる気無いのも、その管理人の特質のうちのひとつなのですから。
 そんで、それに対して真面目に(?)頭を悩ませていたり、可憐に心を痛めていたり、まるで他人事の
 ようにああはいはいとか言っていたり、そういうことを書けばいいのですよ。
 
 大体ね、あなたは記事の質に拘りすぎ。
 チラ裏で結構じゃないですか。
 どんどん、訪問者の方に来て損したって思わせればいいじゃないの。
 電気代無駄にさせたっていいじゃないの。
 で、そういうことを自分で言っているのはバカらしい訳で、だからはいチラ裏駄目です、頑張りますはい、
 って、お客様は神様ですはい、ってそうやって頑張ればいいだけの話。
 でもさ。
 あなた、元々、そうやって人様のサイトを取捨選択するの、好きじゃ無かったじゃん?
 よく、ネットには雑多なサイトで玉石混交で、なかにはこれでよくUpする気になれるなと思うサイトがある、
 みたいなことを平気で言っている人がいて、あなたはサイト始める前から、そういう言葉に頷けなかった。
 だから、それでいいんですよ。
 チラ裏で。
 自分でチラ裏だってわかってても、そしてわかってなくても。
 大体ね、それがチラ裏だっていうのは、あくまでそれを見ている他の人達の評価基準によるものでしか
 無い訳で、じゃあネットっていうのはそういう人達の評価基準のためにあるのか、っていったらそれはもう
 全然違うのであって。
 参加資格が無いからこその、ネットであって。
 その事と、自分が自分のサイトに磨きをかけることは全然別のこと。
 
 最近ね、リアルの方の友人にブログをやっている人がいてね。
 その人が結構自分のサイトに自信を持てなくなっていて、とかくネット上の評価基準を気にする発言
 ばかりで、なんかすごく寂しくなっちゃってね。
 自分の文章は痛くないかとか、幼稚なこと言ってないかだとか、絵を描けば書いたで、下手じゃないだ
 ろうかとか、キャラの絵を描けば描いたで、こんなのでこのキャラのファンに失礼じゃないかとか、まぁ
 ここまでくるとちょっと逆に腹が立ちますけどw、とにかくなんか、色々気にしすぎてて、八方塞がりになって
 いるみたいなのね。
 うん、そりゃ痛いさ、ていうか幼稚っていうか言ってること矛盾だらけだし、おまけになにが言いたいのか
 もわからんよこれ、それに絵はまぁ下手だね確かにお世辞にも上手いとはいえないね、ああうん、確かに
 なかにはこれを見て怒り狂うコアなオタの人もいるだろね。
 私はそう思ったし、実際ここまでストレートじゃないけど、近いことは言ったのね。
 そしたらさ、じゃあブログやめる、とか言うの。
 予想はしてたよ。
 だから、言ってやりました。
 じゃあ、やめなよ。
 って。
 で、たぶん友人はそれでやめるにやめられなくなったらしく、逆に新たな悩みを抱えた様子。
 つまり、ブログをやめることは、やめたのね。
 きっとさ。
 ここでやめちゃう人って、ネット上には沢山いたはずなんだよね。
 そう、ネット以外でも、ブログなりサイトなりに関すること以外にも、こういうことは沢山ある。
 じゃあやめろよ、と言われてやめることしか出来ない人って、思っている以上に沢山いる。
 そして。
 私自身も、知らず知らずのうちに、そういう事に部分的にでも浸食されてたりする。
 気がつくと、周りの目ばかり気にしていたり。
 ついつい、それのせいにしてそれをやめることを考え始めたり。
 
 私はずっとね、そうずっと。
 こういう事に対して、だからこそ自分が頑張れる、頑張らなくちゃいけない理屈をね、このサイトで描き
 続けていたと思う。
 つい周りの評価のせいにしてしまうからこそ、今度は周りを無視しますか?
 その周囲の視線に耐えることが怖いからこそ、オンリーワンな自分に安住しますか?
 答えはノー。
 断然、ノーだった。 ずっと、ずっと。
 それは今も、まったくもって変わりません。
 つい周りの評価のせいにして、逃げることを考えてしまうからこそ、今度はそうして逃げてしまう自分とこそ
 向き合って、改めてその周囲の評価とも付き合っていきたいし。
 またその評価の中にこそ私が生きる道があって、そしてだからこそオンリーワンでは無くナンバーワンを
 目指すことにこそ、私が頑張れる理屈と、そしてその価値があると、そう考え続けることが出来た。
 だからこそ、頑張れた。
 サイトだって、オンリーワンどころかほとんど唯我独尊なのにww、それでも結構その作り手である私自
 身は他のサイト様と結構ネチネチと比較して、一喜一憂してたりするものw
 でも。
 そういうことが、誰にでも出来る訳では無い。
 少なくとも、不可能とは言わないけれど、現状厳しい人達は沢山いる。
 もう随分前からだけど、私はそのことを念頭に置きつつ、自分の文章を考えています。
 それは政治的な具体的解決策を考えながらである以上に、そのことが、自分がそれでも頑張れる理
 屈にとってどういう意味があるのか、ということを考えています。
 カッコつけて言えば、文学的に。
 ・・・。
 無理ですね、わたしにゃまだこの言葉は早すぎますね。
 あー、文学ってなんだろ。哲学とは違うんやろか。
 
 でもま。
 重要なのは。
 その文学とやらにも、下手なのと上手いのがある、ということだよね。
 たぶんきっと、もう既に、私は下手な文学を書けてると思うし。
 そして。
 誰もがもう、生まれながらにして、立派な文学を書けているのだと、私はそう思います。
 チラ裏精神、万歳。
 そして、ゆえにその先へ。
 
 
 
 よし、埋まった。 (今回の更新分が)
 
 
 
 
 ◆
 
 サッカーのクラブワールドカップが始まったよー。
 なんだか私は全試合観るつもりで普通にいます。
 盛り上がっちゃってます、っていうか既にできあがっちゃってます。いぇー!
 日記なんか書いてられるかってんだ、ばーろー。
 サッカーね、サッカー。
 んー、ほんと、長いことボール蹴って無いですよねー。
 サッカーやったのなんて、もうゲーム以外じゃなきゃ無いものね、ここ数年。
 うわ寂しい。
 ということで、プレイすることを考えると寂しいだけなので、あくまで観る方に特化してサッカー的に
 盛り上がってやるゼ!、みたいなもうなんだかやけっぱち以外のなにものでも無い展開です。
 よーし、浦和きたきた。次はミランだよミラン!
 なんか、思ってたよりずっと良いサッカーしてました、浦和。
 ミランに通じるかどうかは知りませんけれど、どうせ散るならとにかく真っ向勝負してきてください。
 最近、以前と比べてじっくり観て細かいプレイとかを褒めるというか、そういう技巧的なところに関する
 玄人ファン的な見方をしなくなってきて、とにかく頑張ってるところを熱く応援しよーっみたいな、そういう
 熱血サポ指向に変わりつつあります。
 ワイタケレとか、普通に応援してたもんね。びっくりや。
 ま、これはこれで熱いのでよいと思います。
 これはこれで、美味しいです。 (お酒が)
 
 
 ◆
 
 戦国BASARA2英雄伝、買ってしまいまいた。
 
 あれー? 次はロープレ買うつもりだったんだけどナー。どうしてかナー。
 発売日から一週間以内に買ったのは、戦国無双のエンパイア以来ですね。
 ほんと好きね、こういう系のゲーム。
 で、内容はというと、そうですね、私的には無双より好きかな、というところ。
 とにかく設定というかキャラのぶっ壊れ方が徹底していて、それでちゃんとキャラも立ってるし、無双は
 妙に史実を意識しているあまりにそっちにキャラ性が持っていかれちゃってて(悲劇性みたいなのはあって
 それはそれで良いんだけど)、ただゲームとしてすかっとしたいときは、やっぱりこっちのBASARAの熱い
 感じの方が面白いかな。
 
 キャラ的には、お市が地獄少女以外の何者でも無かったり(声優も同じ)、本多忠勝がロボだったり(
 ステージ終了後の画面でバックパックをがしょーんと開いて飛び立つしw)と、まぁ他にもいろいろあり
 過ぎたりするので、ここではちょっと全部書いている余裕はありません。
 あと本願寺とかザビーとか、やばすぎw
 全体的に華があって熱さがあってて、それに結構売り文句通りにスタイリッシュなとこもあって、キャラの
 話とかも変にヒネてなくて真っ直ぐに熱くて、熱くて、ていうか熱くて、まぁそんな感じ。
 うまく書けないですね。
 んー、あと肝心のプレイ感覚か。
 無双に比べると敵兵が少ないので切ってる感じは少ないけれど、決まった場所では特定の敵を倒さな
 い限り延々と敵兵が出てくるので、コツさえ飲み込めば無双以上に斬るのを楽しめたりします。
 そういえば光秀もすっかり変態になってましたねぇ。
 サドだかマゾだかただの殺人狂だかわかんないくらいに、なんか斬ってるのがほんと楽しそうで、なんかも
 うこっちまで愉s(以下削除)。
 
 でも不満点がひとつあって。
 二人プレイできるモードが限定されてるのが、あまりに詐欺臭くて唖然としたね。
 普通二人プレイ可っていったら、メインのモードが出来るのは当然って考えるよねぇ。
 それが、出来ないし。
 二人プレイ出来るからこそ、英雄伝出るの待って買ったのにさ。
 でもま、ひとりプレイに限っていえば、内容自体は非常に満足のいくものなので、まぁ許してあげましょ。
 ちなみに紅い瞳のお気に入りキャラは、モトチカの兄貴ですw
 
 
 うわ、ほんと中身無いな、このゲームレビュー。
 
 
 
 ってな訳で、今夜はこれにて、バイバイ!
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 071207--                    

 

         

                                 ■■ 風のいる前進 ■■

     
 
 
 
 
 『不思議ですね。
  日原さんの作品は、なにかがわかったような気がします。』
 

                           〜もっけ ・第九話・佐保の言葉より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 葛城佐保は、理屈屋です。
 理屈をこねて、しかしそうして理屈をこねる事でなにかと折り合いを付けている訳でも無く、ただそうして
 自分のそのハンドメイドな「世界の識り方」と、それを使って得られる実感を得るためにこそ、理屈をこね
 ている。
 だからその理屈は決して屁理屈であってはならなく、あらゆる形に於いて整合性と納得させる力を持って
 いる理論で無くてはなりません。
 ただそれは、自分を納得させるための、方便としての理屈なのではありません。
 あくまで、純粋にその理屈を元にして、すべてのものを読み解いていける感覚がただ嬉しく、しかし
 その嬉しさを目的としている意識は無く、ただただ色々なものを識りたい、もっと沢山のことを理解出来
 るようになりたいと、ただその純粋な願望で以て、佐保は動いているのです。
 だからこれは、実は「妖怪」ではありません。
 佐保は、静流が視た煙に憑かれているのでは無く、佐保自身から立ち上らせている煙によって、視界
 を遮られているのみなのです。
 この霧のような煙は晴らす必要はあれども、祓う必要は無いモノ。
 なぜならば。
 晴らす必要があるという事は、晴らす「対象」として煙は確かに其処に在り。
 そしてそれ以上に、煙を晴らすのは、その向こうになにかを見たい己の願望があるゆえであり、つまり、
 その煙が在るからこそその先を見たいと思える自分が此処に居る、ということになるのだから。
 煙は常に我が身のうちに、そして体より出てはその度に晴らしていくモノ。
 その繰り返しこそが、自分の「思想」をさらに深い段階へと導いてくれる。
 
 エンエンラ、という可能性への導き手が、其処に居るのです。
 
 
 ◆
 
 葛城佐保は、静流のクラスメイトの芙美が、高校の文化祭を見に行ったときに知り合った人で、オカル
 ト好きな芙美に色々と手解きしたりしている伝手で、芙美から静流のお祖父ちゃんがその辺りの事に
 造詣深いというのを聞きつけ、芙美を通して知り合った、静流の年上の友人に当たります。
 静流は当初、友達の友達ということで、綺麗なヒトだなぁという感想を抱くそのままに佐保を見ていまし
 たけれど、自分を介してお祖父ちゃんと接触を図り、そして自らの願望を叶えていくひとりのしっかりと
 した女性、としてその視点を置き換えていきます。
 あっちの世界の話にはいい顔しないお祖父ちゃんから、ちゃんと話を聞き出して、それもちゃんと正々堂
 々なやり方で、凄く真面目で・・カッコいいなぁ。
 静流には、そういった羨望の眼差しもあり、また同時にその佐保の「熱意」を応援する立場から、お祖
 父ちゃんから話聞けるといいな、そして聞けることになると一緒に喜んだりもします。
 
 佐保は、知識を欲しています。
 あちらの世界、つまり妖怪や霊関連の話、そしてつまり静流や瑞生が直面しているモノについてです。
 けれど、除祓を頼むとかそれに準ずる知識を得ようというのでは無いのです。
 あくまで知識としての妖怪、或いは、「世界説明」としての妖怪について、色々とお祖父ちゃんに訊ねる
 のです。
 そのために必要な歴史的宗教的知識も修めようと努め、そして今まではその知識の集積の果てに
 見えてきたモノを自己流に解釈していたのを、今度はもっと自分よりもそういったものに詳しい人の説明
 も聞いてみたいと、まさにひとつの学問としてあちらの世界について識ろうとするのです。
 しかし、それは実は純粋な学問的興味とは、やや違うのです。
 親しかった叔母(もしくは伯母)が亡くなり、あの叔母がどんなことを生前考えていたのかと、そういった
 ことに対する切実な疑問、それに答えるために、当時目の前を漂っていた焼香の煙を、その叔母の思
 念に見立てる着想を、佐保は得ていました。
 この世にある煙なるものは、すべてその燃えた物の想いなり魂なり、そういったものが形を変えて漂い
 出てきたモノなのではないだろうか、いや、それだけでは無く、つまりそういったものはすべてこの世界に
 ちゃんと満ちて残っているのではないか。
 
 そして佐保は、その煙への愛にはしかし、囚われなかったのです。
 
 私には、わからないことが沢山ある。
 叔母さんのことだって、あんなに親しかったのに知らない事の方が実はきっと多いんだ、ううん、だから
 私は自分が知らないという事すらほんとは知らない位置にいるんだ。
 私は、自分が未熟だということにすら気づけないんだ。
 それは佐保にとってなによりも苦痛で戸惑いであり、そして或いは無上にストレスを与えるモノ。
 自分は此処にこうして存在していて、そして様々な存在と触れ合い多くの影響を受けているのに、
 それをしっかりと受け取り読み取り、さらにそこから知識や理解を広げていくことが全く出来ない。
 まっくらな闇が、佐保を包んでいました。
 知りたい、わかりたい、でも、わからないのよ、なんにも。
 わからないわからないと、ただ怒りを込めて呟く佐保の姿が目に浮かんでくるようです。
 佐保に先行してあったのは、この自身の感情、そして自身の姿。
 親しかった叔母についてなにも知らなかったという悔しさ混じりの罪悪感、それを元にした贖罪にも似た
 知識の探求を、佐保はしかし選びませんでした。
 それは、自分がなにもわからずに苦しんでいるという、その自分自身の苦しみこそが中心にあり、そして
 それについての解決策を求めていく過程に、その理解すべき対象のひとつとして叔母の件は捉えられて
 いたのですから。
 
 煙が佐保にすべてを教えてくれるのでは無く、煙こそが佐保の知的欲求という名の「煙」自身である。
 知りたくて堪らない欲求、それが自分の現在の知識や理解力を越えたものになってしまっているときに
 は、それはすべて知りたいのにわかりたいのにわからない、という「煙」になってしまう。
 ですから、佐保はその煙と対決し、打ち倒す存在として捉えることも、またその「わからない」という「煙」
 自体を愛して事を収めてしまうことも出来たはず。
 けれど佐保は、その自らの暴走している知的欲求に、真っ向から応えていこうとしたのです。
 わからないのなら、わかろうとする努力を。
 それが出来れば苦労はしないと呟くのなら、苦労して苦労して努力し続けるのみ。
 だって、識りたいんだもの。
 佐保にとって大切なものは明らかな訳であり、ならばそのためにこそ、この自分の果てしない欲求を使え
 ばいい。
 その過大な欲求そのものが「煙」となって自分を苦しめていても、それは本来自分の中にある、当たり
 前の知りたいという欲求なのだから、悪いのは「煙」自身では無く、わからないものがありすぎる自分の
 未熟さ自身なのだと、そう強く意識して佐保はひたすらその欲求に応えていくのです。
 とても、強い人だと思います。
 自らの弱さを知るゆえに、なんとしてもそれを正して強くなろうとする意志だけは、強大無比な人。
 それは全く正しいことであると思いますし、またこれを指して「妖怪」に憑かれている、というのは全く見当
 違いと言わざるを得ませんし、また私も頷けません。
 佐保はただただ、主体的な人。
 識りたい、という自分の欲求の責任を取る人なのです。
 そして、「わからない」ということを識ることで、飛躍的にその「わからないこと」のすべてひとつひとつが、
 あっさりとわかってくることを知ります。
 色々な知識を学び、それについての解釈を懸命に考えて、それでもわからないという「煙」は無限に
 視界を覆い続けていて、しかしそれは。
 
 それだけ、「わかることのできる」可能性としての「煙」が、其処に広がっているのを無言で示している。
 
 今はわからないけれど、わかればこんなに沢山のことを識ることになるんだよ。
 そして気づけば、あの叔母が亡くなった日と比べて、もう随分と色んなことがわかってきてるんだよ。
 それがまだこの「煙」のごくごく僅かなものでしか無いという意識は凄まじく、けれどその苦痛そのものが
 ダイレクトに私の知的欲求を刺激してくれるの。
 わかりたい、わかりたい、もっともっと、わかりたい。
 わからないのにわかりたいと思えば、さらにわからないものは増えその苦痛も増していく。
 けれど、この胸の中には、確かにこのなにかをわかりたいという欲求が芽生え続けてくれている。
 この苦しみが、この緊張が、これこそが、心地良いのよ。
 苦しいからこそ、頑張れる。
 わからないからこそ、わかることができる。
 佐保は、そういう人なのです。
 
 
 しかし、佐保にとっては、そもそもその自分の行為が純粋な学問的探求で済むものでは無いという
 ことは明白。
 いくら知識を蓄え理論を構築しても、まだまだ「わからない」という欲求は尽きることは無く、その事自体
 が嬉しく、またそれゆえにまだまだ頑張れるのではあるのですけれど、しかしそれは同時にもの凄い
 重圧を佐保に与えてもいます。
 お祖父ちゃんはこう言います。
 あれじゃ息が詰まってしょうがないだろう、と。
 佐保は、あるひとつの事柄についての探求を忘れています。
 なぜ自分が、これほどあちらの世界について、ことに煙や霧といったものを中心に据えて色々なモノを
 理解していこうとするのか。
 なぜ、自分にとってこれだけ力を尽くすことが出来るモノが、これらなのか。
 佐保にとって必要なのは、この問いに対する具体的な答えなどではありません。
 その問いを自分に投げかけることで、自分がただそうした理論を唱えているだけの、生身の人間である
 ということを自身に気づかせることこそが、重要なのです。
 
 なぜ佐保はこんなに一生懸命なのか。
 興味があるからというのなら、なぜ興味を持ったそのことだけで、すべてを語りそしてその語りにすべてを
 注いでしまおうとするのか。
 佐保は、そうしている自分の存在が此処に居ることを忘れています。
 ゆえに佐保は、時折自分が周囲から孤立していることを知り、また感じます。
 そして、自分自身は、周囲との繋がりを断つことを目的としてあちらの世界にのめり込もうとしている訳
 では無いにも関わらず、自分のやっていることは結果的に自らの孤立を招いていることに気づく。
 いえ、そもそも、佐保はなにが識りたかったのでしょうか?
 佐保はいつの間にか、「煙」を中心とした世界の読み解き方に拘るあまりに、肝心のその観察すべき
 対象である、其処にある、いや、そっち側からすれば此処にある、それぞれの存在達を見失っていた
 のです。
 つまり、佐保は、世界説明を優先するあまりに、その説明に当てはまらないモノの存在をすべて無視
 してしまっていたのです。
 それでは、その佐保の世界説明で語れる世界の広さなど、たかが知れている。
 そしてそれは、佐保が読み解きたかった世界とは、似て非なるもの。
 あまりに知りたいモノが大きすぎて、かえって自分で手掴み出来る範囲に限定して通じる説明の中に
 閉じ籠もってしまったのです。
 語れば語るほどに世界が狭まっていく感じを、佐保はその肌でうっすらと感じています。
 それは、語れば語るほどに世界を知的に支配することが出来ていく感覚と一体となっています。
 狭ければ狭いほど、その世界をすべて知り尽くしている感覚は得やすいもの。
 ですから、佐保は自分のやり方で世界を語れたときの喜びが、同時になにかをまたひとつ切り捨てたこと
 に繋がっているということを、心のどこかで感じているのです。
 佐保の、あの滲むような儚さ。
 あれだけ強靱な言葉を口に出しながら、なぜかその言葉を語る佐保自身は脆くみえる。
 頑張れば頑張るほどに、私のしたかった事が出来無くなっていく。
 佐保の「煙」にはもうひとつ、こういった意味もまた、あったのでした。
 
 
 
 静流もまた、そんな佐保を視て、煙り出してきます。
 結論から言うと、静流は佐保に対して怒りや悔しさの念を抱くのです。
 佐保さんは理想論ばっかりで現実を知らない、本当にあちらの世界が見える人の苦しみなんてわから
 ないからこそ、あんなに堂々とあちらの世界が見たいだなんていえて、その上、もしそれがとてつもない
 ほどの苦しみだったらどうします?という私の質問に対して、あんなにあっさりと、苦しいからこそ頑張る
 べきなんじゃないですか? なんて言えるの・・
 そして静流は、その自分の気持ちをうちに燻らせ、またそして、そう考える自分は、やっぱり本当は「未熟
 」で間違ってることなんじゃないかと、そう思うことにすべてを注ぎ、その「煙」を自分の周りに纏ってしまい
 ます。
 佐保さんはすごい・・・すごい人で、勉強家で強くて、やっぱりすごい人。
 たぶんほんとは、佐保さんがもし私のように実際に妖怪とかが見えるようになったとしても、やっぱり今と
 変わらずに力強い探求心を示すんじゃないのかな・・
 私は・・そんな佐保さんを見るのが、言葉を聞くのが辛い・・
 私だって・・頑張ってるのに・・・・でも・・・それでもどうにもならない事は・・あるんだもん・・・
 佐保さんをみてると、自分が情けなくなる・・
 どうしても佐保さんに対して、良い感情が抱けなくなってしまう自分が・・・
 佐保さんはすごい人だってわかっているのに、それなのに感情のままに、佐保さんを貶しちゃう・・・
 気づくと、佐保さんの粗ばかり探している私がいる。
 佐保さんだってきっと私と同じ状況になったら、私と同じように考えるはず。
 だから、今佐保さんが言ってる言葉は、佐保さんが私と同じようになってから聞こうと、そんな事ばかり・・
 嫌に・・・・・なっちゃう・・
 そんなことしたって意味無いのにね・・今の佐保さんを無視することなんて・・
 佐保さんを否定することでしか、今の私を肯定することが出来ないなんて・・・・
 おかしいってわかってる・・・・なのに・・・どうしたらいいのかわからない・・・
 静流は佐保のようになろうと、初め純粋に考えます。
 私も佐保さんみたいに、もっともっとちゃんと勉強しよう。
 静流はただ、佐保のようになりたかったのです。
 そしてそれ以上に。
 
 静流は、今まで自分が会ったことの無いタイプである佐保に、見合う自分になりたかったのです。
 
 一番初めに佐保の話を聞いたとき、静流はこう感じていました。
 あ、嫌だな、あちらの世界が見える人の気も知らないでこんな事言ってるんだもん、と。
 しかしその瞬間に、静流はこうも感じたのです。
 でもこの人は、もしかしたら本当にあちらの世界が見えても、今と変わらないこと言えるのじゃないかと。
 それは、静流にとって、ひとつの希望でもあったのです。
 なぜなら、もし佐保がそういう人間だったら、自分も佐保を目指して頑張れるのですから。
 佐保さんが出来るんなら、私だって!
 静流には、確かにそういった気骨はあります。
 静流はそして早速、佐保に勧められた本を熱心に読み、佐保について考えを巡らし、そして佐保を肯
 定することに入れ込み始めるのです。
 静流は、わかっていたのです。
 それが全く、正しい姿勢であるということを。
 そして、静流はこれ以降もその意識を捨てることはしなかったのです。
 静流はやがて、佐保と同じことをしていても、実際にあちらの世界が見えている自分にはどうなることで
 も無くなっていくということを、本を読めば読むほど、佐保の言葉を聞けば聞くほどに理解していきます。
 佐保の言葉はただの理想論と化し、そして実際目の前の現実に挑んでいる静流自身にとっては、
 そのような理想論はその現実をどうにかする役には立たないのだ、と。
 それなら・・佐保さんの姿は、私にとっては煩わしいだけ・・・・・・のはずなのに・・・・
 静流は、この時点でもまだ、確かにまだわかり続けているのです。
 それでも、佐保を目指すことが正しいということを。
 それしか正しいモノが無いという絶望を感じながら、それでいて、どうしてもそれでもそれが正しいモノで
 あってくれているという希望でもあることを、深く感じているのです。
 そして、改めて、気づくのです。
 
 
 
 私、なにやってるんだろ。
 
 
 
 
 ◆
 
 佐保さんに勧められた本、とても面白かった。
 見えていない人達がどうこうでは無く、ひとつの思想として、面白かった。
 というよりね、たぶんこれは、私が「視る」という事と、同じものなんだ。
 なにか、ぼやっとしたものがあって。
 それがなんなのかわからなくて、人は色々とそれに対して説明する。
 それが、佐保さんから借りた本の中身。
 でね、私が妖怪を其処に視るのはね、既にそのなにかぼやっとしたものに、「妖怪」という形を与えて、
 そして理解しているのよ。
 視る、っていう行為が、もう私にとっては説明的なのよね。
 だからね、私、根本的な勘違いをしていたの。
 お祖父ちゃんはこう私に言っていた。
 『視えるお前にはくだらんだろ。』って。
 私、そのとき確かにそう思っていた。
 でも、そう思っちゃいけないと思っていた。
 でね、だからそう思っちゃいけない理由は、そう思っている愚かな私が居るから、それを否定するため
 だけにあったんだ。
 たぶん、それが原因。
 
 私が、佐保さんの言動をくだらないって言わないのは、そう言ってしまう自分が恥ずかしいからじゃ無い。
 
 そう、そうなのよ。
 私はただ恥ずかしいから、必死に背伸びして佐保さんを認めて、佐保さんに追いつこうとしていたのよ。
 そうであっては、いけなかったのよね。
 私、ほんとにわからなかったんだよ。
 瑞生に、『お姉ちゃん間違ってないよ。』と言われるまで。
 私は・・・確かに未熟。
 あまりにも色んなことを知らない。
 でも、そうだからこそ色んなことを純粋に知りたいと思うのであって、決して今の自分の未熟さをそのまま
 否定するために、その知的欲求を否定するなんてことはしてはいけなかったのよ。
 私は未熟だけれど、未熟じゃ無い。
 未熟であることは認めて、だからこそ頑張ろうと思えて、そう思える私はだから、未熟じゃ無い。
 私ね・・・悔しかった・・
 佐保さんのように言えない自分が・・・情けなくて・・・
 だからね、つい、私はどうせ未熟なんだ、私は駄目な人間なんだって、そういって色々諦めようとする
 ことで、色々決着をつけようとしていたの。
 佐保さんがあちらの世界を見る事が出来て、それでもそれらについての興味を失わなくなったとしても、
 その事自体は、私がそれでどうするかとは関係が無かった。
 私と佐保さんを比べることに、意味なんて無い。
 というよりむしろ、私が未熟だからこそ、こうして目に映るあちらの世界と生きている自分が後ろ向きに
 なりがちになってしまうのじゃ無いと、そう思うのよ。
 ううん、違うの。
 ほんとはね、佐保さんだってきっと私と同じ立場に立ったら、やっぱり私と同じ事になると思うのが良くて、
 そして、でもそれはだから私が頑張らなくても良い理由になるのでは決して無くて、そうでは無くて。
 それは逆に、私が頑張れる自信になるのじゃないかなって。
 私は佐保さんより劣っている訳じゃ無い、私だってちゃんと頑張れてる、辛くても後ろ向きになりがちでも、
 絶望さえ感じても、そして、佐保さんみたいな人をつい色眼鏡で見てしまっても、それでも・・・
 
 それでも私は、ちゃんと、ちゃんと、頑張れてる。
 
 
 ゆえに静流は未熟であって、未熟で無いのです。
 今の静流それ自体が、既に充分正しいのです。
 そう、無条件にですね。
 そしてならば、静流は佐保を否定する理由は何処にも無いことを、そして佐保を否定しない理由が、
 ちゃんと此処にあったことに思い至るのです。
 仮に佐保が本当に静流のような体質になっても今と同じような事が言えたとして、それでも静流はそれ
 を佐保のひとつの「才能」として認め、純粋に自分のそれと比べることの愚を悟ります。
 それは佐保さんがそういうのが得意だからであって、それが不得手な私と比べたって、それは私自身の
 評価には繋がらないんだ。
 佐保の得意なモノと比べるに値するは、静流の得意なモノのみ。
 そうすれば、静流はちゃんと、佐保と対等の場所に居られる自分を感じることが出来るのです。
 どんなに苦しくてそれに負けちゃって、ぐずぐず考えちゃったとしても、それでも私にはなにかそれとは関係
 無くちゃんと出来ることがあるはずなのね。
 静流の「煙」は、そうやって自分の不得手なモノ、負の部分で以て、自分の価値をすべて量ってしまう
 ことにあったのです。
 そしてその「煙」は、静流の他の可能性、そして今此処に居る静流のすべてを静流に見失わせてしま
 っていたのです。
 不得手なモノは不得手なモノ、それはそれでやっぱりまだ頑張るけれど、でもそれだけをなんとかしな
 くちゃと思い詰めるあまりに、それしか無くなってしまったとしたら・・それは・・・まるで・・・
 
 
 『「エンエンラ」。』
 
 
 佐保もまた、同じ。
 佐保は自分の得意なモノに拘るあまりに、それ以外の可能性を見失っていました。
 前のめりになり、ただあと一歩あと一歩と、見えないゴールまでの一歩の距離にすべてを賭けるあまりに
 、そのために全力を出し切り疲弊の極みに追い込まれることになる。
 前へ、前へ、ただ前へ。
 佐保のその立体感無き前進は、やがて進むべき道を痩せ細らせ、やがてはゴールを奪ってしまう。
 佐保は、世界を識りたい。
 しかし、識れば識るほどに、世界は狭まっていく。
 なぜか。
 それは、世界を識ることしかしなかったから。
 世界を識ろうとしている、識りたくて堪らない欲求に身をうち震わせている自分が此処に居るという、
 なによりもその実感在る主体こそが、世界を識ることが出来る。
 その主体は今、あらゆるモノと接しそして影響を受けています。
 そしてなによりも、無限の可能性とリンクしています。
 あらゆる方向に、深さに、そして今の自分の考え方とは真っ向から対立するものとさえ。
 佐保は、感じています。
 自分のこういう話を聞いてくれるのが静流だけで、そして自分は静流を強く欲していることを。
 他人を、他者を、自分以外のなにかを確かに求めているのです。
 初めそれは、静流と自分が似ているという感覚から始まったものでした。
 しかし、話していくうちに静流は自分とは違く、そして自分が話し過ぎればさっと離れていってしまう事を
 知ってしまった。
 佐保は、怖かったのです。
 お願いです、日原さん。
 私をひとりにしないで。
 お願いですから、もし私のこういった話がお嫌でしたら出来るだけ控えます、だから・・・
 佐保は。
 自分の話よりも、静流の存在を優先します。
 そして。
 瞬時に。
 それが間違っていることに。
 静流と、同時に気づくのです。
 
 
 『佐保さんはあちらを視ようとするあまり、煙の網のようなものに囚われて、周りが見えなくなってるんじゃ
  ないでしょうか?
  でも、こちらがみえなくてはあちらだって視えませんよ。』
 
 『これからはこっちのモノもしっかり視ていきましょう。
  私もご一緒しますから!』
 
 
 
 
 
 
 ひとつの煙が晴れて。
 そしてそのひとつの晴れ間が、やがてひとつの風を巻き起こす。
 
 
 
 
 
 
 
 『・・・・・・面白いです・・・・』
 
 
 『その見方、捉え方! 羨ましい! やっぱり日原さんは面白い方です。
  あなたとお知り合いになれて、本当に良かった!』
 
 
 
 佐保は静流の言葉を、ひとつの「思想」として捉えます。
 佐保自身が今まで紡いできた理論が、それがどれだけ一本道なものだったかを、佐保は体感します。
 そうか・・・そうすれば・・この理論はより深まっていくのだわ!
 私は、佐保が理屈屋であることを否定する気はありません。
 無論、佐保が自らの理論を中心にして世界と接していくことを、間違っているだなんて微塵も思わない。
 ただただ、理論のままに。
 そして。
 やるならば、徹底的に、です。
 その理論を磨くやり方はひとつだけでは無いし、そしてまた、全く違うやり方え磨くことで、それは飛躍的
 な幅を得ることができる。
 ならば、その理論を徹底的に極めるというのなら、まずそういった未知なる磨き方をも探求すべきだった
 という事なのです。
 静流の言葉は、佐保にとっては全くの異質で、それを佐保の理論の内側に取り込み消化し、その文脈
 で理解してしまえば、ごくごくつまらぬ戯言にしか過ぎなくなる。
 しかしそれを、外からぶつける、つまり佐保の理論と同格のモノとみなし、そしてそれとぶつけ合わせる事
 によって、佐保自らが自身の理論を見つめ直すことが出来たならば・・
 佐保は、自分では気づけなかった、その自らの「思想」の「欠点」に気づくことが出来るのです。
 そうか・・あちらをみるにはまずこちらから・・ですか
 大気に満ちている霊気は、ただ漂っているだけでは無く、私達自身の中にも流れている訳で、それな
 ら、ええと、その私達の日々の営み自体にも霊気が見込め、それをさらに深めて解釈し(以下中略)、
 そうですよね、うん、これは考えてみる価値がありますね!
 ありがとう御座います、日原さん!
 
 
 ほら、ちゃんとあなたの良いところを視てくれた人がいたよ、静流。
 
 
 静流は勿論、佐保に言った言葉を、理論とか思想とかそういったモノとしていったつもりは無いです。
 けれど、そこで気づくのです。
 あ、そっか、私、いつのまにか佐保さんを見下していたんだ・・
 自らの言葉を、ひとつの「思想」なり理論なりとして、つまり、静流個人の考えとして言ったのでは無く、
 いつのまにか、それが正しくてみんなそうあるべきなのだ、という意味で実は言っていたことに、静流は
 気づいたのです。
 それは佐保に対しても、そして静流自身に対しても、です。
 だから、静流はその自らの個人としての考え方、「思想」として理論として、そうして自分からは離れて
 あるモノとして、自分が編み出した言葉に対する認識を改めるのです。
 そうすればきっと、風は吹く。
 そのそれだけしか正しいモノが無いという「煙」を、晴らすための。風が。
 自らの辛い現実に囚われ、しかしそれでも歯を食いしばって生きるんだ、という力強い「現実論」は、
 ほんとはそれだけが正しいと思うからこそ、佐保のような「理想論」を無視することが出来、まただから
 こそ自分自身をその「現実論」でしか読み解けない恐ろしい世界の中に閉じ込めてしまっているのだと、
 静流は静かに感じていくのです。
 だから、私の「現実論」は、やっぱりただのひとつの理論であって、それは佐保さんの「理想論」と全くの
 対等。
 そして、そうだからこそ。
 私は、もっと自由になれるんだ。
 自由に自分の直面する現実と向き合えて、そして佐保さんのような「理想論」からも、沢山のことを
 学んでいくことが出来るんだ。
 本だってなんだって、だから、私に不要なモノなんて、無かったんだよ。
 
 
 佐保は佐保の煙に巻かれながら、それでも前を向いて歩いていく。
 静流は静流の煙に巻かれながら、それでも前を向いて歩いていく。
 そして、そのふたりが並んで立って歩いているからこそ。
 その間には、風が吹く。
 佐保は静流の考え方を聞いて、より自分の考えを立体的に深めていく。
 静流は佐保の考え方を聞いて、より自分の考えを立体的に深めていく。
 そして。
 
 
 
 『もし、少しでも佐保さんの風になれるなら、私は、嬉しい。』
 
 
 
 きっと佐保も、そう思っていたのでしょう。
 風穴をあけるためにこそ、考えた。
 色々なものにあけ、そしてそれは自分や、みんなのために。
 自らの「思想」の発端、なにかを知りたいわかりたいという欲求の根元は、必ずそういうものなのだと、
 このふたりを観ていると、ふと、強く私は感じました。
 知って理解したモノを、誰かに伝えたい。
 それは自己表現であると同時に、そうした伝える相手に新たな視点を与えてあげられたらいいな、という
 願望も孕んでいるのでしょう。
 いえ。
 
 それはきっと、全く同じモノなのでしょう。
 
 
 『私は、佐保さんから教わる世界に、夢中になっていた。』
 静流は確かに、そう思っていた自分を識っているのですから。
 
 
 
 
 
 以上、第九話「エンエンラ」の感想でした。
 静流と佐保を通して、なにを伝えたかったのかがよくわかるお話でした。
 もし宜しければその辺り、この感想を読んでくださった方々にも、改めて自分なりのこの「エンエンラ」の
 話の解釈を深めていって頂けたならばと思います。
 勿論、私のこの感想を読んだことをお忘れ無いうちに、です。 (笑)
 それでは、今回はこれにて。
 大変有意義な時間を過ごせたことを、この作品に感謝致します。
 
 また次週お会い致しましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 ◆ 『』内文章、アニメ「もっけ」より引用 ◆
 
 
 
 

 

-- 071203--                    

 

         

                               ■■ 大人のいないモノ ■■

     
 
 
 
 
 師走です。
 ごきげんよう。
 
 冬ですね、冬。
 もうなんか、普通にコートが無いと死にます。
 そろそろ新しいコートが欲しいと思うのだけれど、というか冬前に買うつもりだったのに、なんだか色々出費
 があったりしているうちに買いそびれていて、それでいよいよとなってきたので意を決して買おうとするも、
 そういうときに限って、気に入った物が見つからないという、そしてついつい寒さに負けて適当に買ってしま
 うという、今持ってるコートはそれなんですけれど、ええと、こういうときはどうしたらいいのかナーなんて、
 普通に子供丸出しなコトを言っています。
 寒い。
 寒すぎます。
 もうちょっと、抑えて。
 わかったから、わかったから冬将軍様。
 私の負けで御座います。
 もうなんか、ここのところずっと負けっぱなしのような気がします。
 負け犬で、年越し。
 その前に、クリスマス。
 いぇーい。
 ・・・・。
 雪よ降れ降れー。
 世界を滅ぼすほどにな。
 
 黒い クリスマス
 
 
 さて、蜜柑でも食べますか。
 
 
 ◆
 
 最近自分でも日記の書き出しのネタに困っているこの有様、まったく、ネタにこと欠いて訳わからない
 ダークなこと言ってお茶を濁したりして、ほんと、いけない子。
 まったく、けしからん。
 うん、よくわかりませんね。
 そろそろアンニュイにも飽きてきたのですけれど、だからといって、熱血必中!狙い撃つぜ!みたいな
 熱い魂が迸ったりする訳でも無く、まぁ魂が迸ったら死んじゃう訳ですけれど、そんなときはまったり
 おこたで蜜柑なのですよとゆるゆると言いながら、実はおこたは今年から無かったりする訳で、まだ新しく
 購入する予定も立っていない訳で、案外無くてもいける訳で、別に必需品では無い訳で、と、そういう
 思考の方向性をゆるゆると高めていっている感じからして、もうこの子はおこた卒業かなとふと思ったり
 します。
 でもそれ、リアル子供時代のときにもそう思った気がしますので、説得力はあまり御座いません。
 ほら、私もちっさい頃は普通にアニメ観てわーわー言ってまして、でもそのうち卒業したりして、でもまた
 なんか帰ってきたりしてと、そういう前科がありますものね。
 きっと、近いうちに第三次おこた萌えが発生するのでしょうね。
 言ってから思いましたけれど、第三次おこた萌えってなんですか。
 萌えに回数とかあるんですか。 なんなんですか。
 
 
 ◆
 
 おまえがなんなんだ、このばかやろう、という感じです。ごめんなさい。
 大人しくアニメのお話をします。
 私にリアル生活を日記風に書き記す気が全く無いのがいけないのです。
 というか、この日記でまでリアルのことを考えたく無い、というのが正しい気がするのです。
 つまり、現実逃避。
 もう随分長いことこんな感じですよね。
 昔はもうちょっとだけ日記っぽいことをいい加減に書いていた気がしますけれど、今はなんかそんな気分
 になれないような気がします。気がしますばっかりな気がします。
 実はたんにアニメのことばっかり考えているから、他のことを考えられないだけなのかもしれません。
 もうなんか普通にリアルでもアニメのコトばっかり考えていて、現実逃避全開なのかもしれません。
 どっちなんですか、はっきりしてください。
 だが、断る。
 
 (フォローもツッコミも無しで次にいきます。いかせてください。)
 
 今日はアニメのお話をします。
 長らく放置プレイを敢行していたというかやっぱり放置していただけの、今期アニメについて、なにかもそ
 もそと語ってみようと思います。
 ひとつひとつのアニメについて、事細かにと見せかけて普通に印象オンリーなことを言ったりと、実に多彩
 な言葉のマジックで貴方を夢の世界へと誘って差し上げましょう。
 そろそろ、疲れて参りました。 
 
 
 ■バンブーブレード
 ・つまらなくは無いけれど、特別面白くも無い。
 というより、もうちょっと面白くしようっていう、全体的な統一感が欲しいところ。
 あれじゃキャラ萌えにも足りない気がする。キャラの顔見せ程度に留まっている。
 まぁ、その中途半端な仮入部(?)的な案配が逆に良い味を出してはいるけれど。
 無論テーマがどうとか作品自体の持つエネルギーとか、そういうのはもう全然期待していないので、だか
 ら私的にはもうちょっとこう、キャラの魅せ方とか濃く突き詰めてやってみようよと思うのだけれど、やっぱり
 いいやこれはこれでいいんだよ、みたいな感じでなぜか収まってしまう。・・・?
 ま、これはこれでいいでしょ。良い意味で。
 
 ■スケッチブック
 ・駄目ですね。残念ながら、評価点をひとつも見つけられなかった私がひとつも駄目ですね。
 ARIAみたく、「当たり前のコト」を改めて深く感じ直してみるというのでは無く、「当たり前のコト」を字面
 的に当たり前に「当たり前だ。」と言って普通に確認するだけの作業のなにが面白いのか。
 私的には作品内で語られるほとんどすべてのその「当たり前のコト」に対して語られる言葉に対して、
 どう反応すればよいかわからなかったし、実際作品内でもその「当たり前のコト」に対する素晴らしさ
 は一切描かれてはいなかった。どないせぇちゅうねん。
 目の前のモノを「当たり前のコト」として主体的に感じるままでは無く、それはそのままほっとこう、そして
 私もなにも変わりませんでした、っていう、なんだかほんとになにがやりたいのかわからない感じ。
 でも・・・んー・・やっぱりよくわからないけれど・・・そういう自他共に対する放置プレイ(?)にも、それな
 りの魅力はあるんだろうし、またそれがこの作品の魅力なのだろうなぁ・・・・私にはわかんないけど。
 あー・・でもなんかわかりかけの気配も・・・・でも上手く言葉にできな・・・・・やめとこ。
 
 ■げんしけん2
 ・ちょっと下品。もうちょい丁寧にやれば良い気が。
 赤裸々さ加減は第一期のときと同じだけど、それを単発にしすぎているというか、ただのネタに貶めてい
 るところがある。
 悪くは無いのだけれど、それだと全体を通したときに素通り感を感じちゃう。
 ただでさえOVA分だけ第一期との間に時間的隔たりがあるのだから、せめて新しく語られることだけは
 丁寧に文脈の中で語って魅せて欲しい。
 まぁ、結構面白いですけどね。
 
 ■クラナド
 ・感動の押し付け以下のこれみよがしな「感動」という名の固形物をぶつけてくる。
 ちょっとそれであーあという痛さを感じたし、実際欠片も感動できないのだけれど、普通に泣いてる私
 がいるのはどういうことなのか問いたい。問い詰めたい。
 あのね、この作品の感動っていうのは、ぜーんぶ登場人物のキャラの中で自己完結しちゃってて、
 こうこうこうだから、こういうケースだと人は感動する訳ですていうか感動しろ、と登場人物が正々堂々
 言っているのだもの(言っている本人自体感動している)、それで感動できる人がいるのならそれはそれ
 ですごいコトだけれど少なくとも私にはそこまでは出来ない。
 私の涙はたぶんそれとは全然関係無いところにあって、そしてもしこの作品を評価するとしたのなら、
 それもこの無体な感動セールスぶりにでは無く、違うところにある。
 んー、なんていうか、感情移入とは違うけど、我が事として考えるみたいな、えーなんか違うかもだけど、
 自分の経験とか今の状況とか、そういうものの中で、ちょっぴりその推し付けなハッピーケースと似てる
 ものを引き合わせて、そしてあくまで自分のことを想って泣く、みたいな。うわなんか寂しいなこれ。
 一番可哀想なキャラである風子は、全然風子自身の内面について語って無くて、だからこそそれを観た
 他のキャラはおいおいと勝手に色々風子の内心を思い遣って泣いて感動していて、で、だからたぶん
 私もその風子の立場に勝手になったりしてね、要するに、誰かに自分の事を泣いて悲しんで欲しいとか、
 いやむしろ自分で自分を悲しんでやりたいです! みたいな、なんだかもう、痛い以外のなにものでも
 無くなってきたね、この私。
 うん、泣けるうちに泣いておこう。(ぉぃ)
 
 ■もやしもん
 ・これはいいアニメですね。
 菌の存在理由が果てしなくわからないアニメですけれど、なんかもっとこう、それ使って哲学っぽい事す
 るのかなと思っていたのですが秒殺されましたね、うん、菌はいいよ菌は、時々なに言ってるのか聞き取
 れない事があるけれど、まぁOK。(よくない)
 基本的には、農大っぽい雰囲気を一杯醸し出してのキャンパスライフアニメな訳で、なにかテーマがあっ
 てそれを考えるためにキャラが居てという訳では無くて、ただ農大の中にキャラがいてなんかやってる、
 という感じなのでひたすら気楽で無軌道でそのまんま、という感じで、普通に楽しい。
 男キャラの泥臭さと女キャラのそれとの距離のおきっぷりとか(でもやっぱり農大にちゃんといる)、まぁそう
 いうキャラの関係性では無くキャラ単体そのものが面白く、うん、それ以外言いようが無いですね。
 あと私的にはお酒のお話が出てくると、にやりとしたままその笑顔が30分間もとに戻らなくなったり、
 なんならその後までいけますぜみたいなノリで、普通に美味しいです。 (お酒が)
 
 ■ブルードロップ
 ・最近の私のアニメ的直感の鈍り具合を測るに最適な作品へとグレードダウン。あれ?
 あまりにも丁寧さが無い。突発的過ぎ。そしてその突発さから逆に大元の感情を推し量るにも、他の
 それとの脈絡があまりに無さ過ぎて、結果私としましては敗北感を禁じ得ぬことではありますけれど、
 つまりこれは「萌え」てりゃいいんだよお前らなんか、という事なのかなぁ、と薄ぼんやりと思ってしまいまし
 た。
 ひどい、というよりは、なんでこんな事になってしまったんだろうという、正体不明のがっかり感で一杯。
 なんていうかね、そのまんまなんですよね、そのまんま。
 なんか色々悩みがあって、それをつらつらと考えて、でもそんな事考えてたってしょうがないじゃん、ぱー
 っと遊んで忘れちゃおうよ!、っていうのがほんと文字通りなだけで終わっているというか、たとえばそう
 いう結論しか出せない自分を見つめてなにかを感じるとか、そういう客観性なりまた他者にもそうした視
 線をぶつけてみたりする緻密で(どろどろ系のw)血の通った関係性を見込んだりする事が無い。
 かといって、そのぱーっと遊んで忘れちゃおうよ、っていう言葉がこの作品の「言いたい事」なのでも無く、
 むしろなにが言いたいとかどうこうよりも、なにも言いたい事が無いんじゃないの?この作品、という感じが
 強くしました。
 色々伏線とか張ったり萌え意識したりしてるけど、そういうのが全部それそのものが目的になっている
 という感じで、ああつまりそういうことなんだなと理解した、というのが現在にこの作品に対する私の感想
 のすべてです。
 
 ■ガンダム00
 ・もうちょっとマジメにテーマを突き詰めんかい。
 種と種運命のときも思ったんだけど、自分達の事を「テロリスト」の一言で終わらすな。
 大体、ソレスタルビーイングだっけ?、その組織の存在がすべての人間にとってうざいのは、その存在が
 正しいからであり、その正しさを実行する事に力を尽くさずに怠ける、あらゆる存在と概念が人間には
 あるからなんだよね。
 だったら、ソレが全人類の敵なのは当然だし、それを「テロリスト」なんて、その「善良な」全人類にとって
 都合の良い存在に貶められていながら、自らもその文脈に納得して自らを語り出そうなんて、情けない。
 なんのためのソレですか。なんのためのガンダムですか。ていうかなんのために全世界敵に回してん?
 「戦争をする理由」を掲げるすべての存在と概念をぶっ潰す、それが、ソレスタルビーイング。
 仕方がない話合いじゃ決着つかないこともあるだから戦争になる哀しいかなそれが人間という種族の業
 なのだよそれを理解せずにただ戦争絶対禁止と唱えて戦争に武力介入し無闇に混乱を招きいらぬ
 損害を引き起こすソレスタルビーイングこそ人類の敵いや平和の敵なのだ、云々。
 でも戦争してんの、あんた達だし。
 それが、重要な事だし、それが、すべての原因。
 ソレはそこをこそ、というかそういう仕組みをこそ破壊し、その「破壊」するという意志表示こそが、まず
 初めに「平和ありき」から始める思想を主体的に体現している存在。
 戦争をしているのは、あくまで私達自身。
 それを自覚せずにいる、その無責任な「戦争の肯定」こそが、当たり前なことなんだけど、それこそが
 平和の敵。
 ソレの揚げ足を取ることはいくらでも可能だし、ソレの存在を全肯定する事それ自体が良い訳でも無い。
 でも、それを口実にしてソレを叩き戦争を継続しようという、人間の深いところに満遍なく染み渡って
 いる「怠惰」という名の平和の敵を描き出すことが、この作品のテーマだと思う。
 思うんだけど、なんだか最近弱腰になっているのか、その辺りに妙な妥協点というか馴れ合いみたいな
 のが見えてきてる気がする。特に刹那とかロックオンとか。どっか違うとこいっちゃいそう。
 
 ■しおんの王
 ・なにを語ればいいのかわからない感じ。
 方向性が見えないといえば見えないし、既にもうこの感じで取り敢えず色々と消化していきませう、とい
 うノリが感じられなくも無い。
 ぶっちゃけ、特徴が無い。
 おっ、ってくるものが無い。
 ただ漫然と観てしまって、ひどく感想の持ちにくい時間を30分過ごしてしまいがち。
 内容の方は、ただ設定を消化していっているだけで、なんにもふくらみも無いし、ただその設定自体は
 そこそこ面白いから、それこそダイジェスト風味に一応は楽しめる。
 でも・・・・これにはもうちょっとなにか、求めたい。
 もう相当話数も進んでいて、今更路線変更など無いと思うけれど、ほんのもう少しだけでも各キャラの
 いわゆる「内面描写」だけでもしっかりやれば、見違えるほどに濃い作品になると思う。
 
 ■もっけ
 ・まぁ、最高ですね。
 
 ■みなみけ
 ・一時期はどうなることかと思ったけれど、持ち直した。
 というよりも、私がこの作品の持ってるリズムを理解したから、ついていくことが出来たみたいな。
 正直、面白いエピソードとそうでないエピソードの差がはっきりしてあるし、せっかくノリノリの展開で、次
 どうやって畳みかけてくれるのかしらと期待に胸を膨らませていると、ちょいっと、なんかどうでもいいよう
 な小ネタエピソードを挟んで見事に勢いを削ぎ落としちゃったりする訳。
 あれもしかしてスタッフはわざとやってるのかな? そっちのがカオスな感じがしていいとか。
 まぁね、それは確かにありますけどね、あの勢いで笑い続けた日には私死ねますしね、腹筋が違う意味
 で割れたりしそうですしねおまけになんかはみ出てきそうですし、わからなくは無い。
 だがしかし、この欲求は収めかねる。
 みなみけで、死ぬほど笑い続けたい。
 瀕死状態でEDに辿り着いてみたい。
 だって、あの次女おかしすぎ。もうなんか三女のツッコミだけでは足りん気がしてきた。
 それに、ほさか。
 ナイス変態。でもカッコイイ。だが変態。
 このままの展開じゃ、わたしゃ笑っても笑い切れないよ、ほんと。
 是非是非、みなみけには徹底的かつ容赦無くボケ倒した上にツッコミでトドメを刺し続けて頂きたい。
 私からの、ささやかなお願いです。
 暇っていうな。これでも結構忙しいの。
 
 
 と、いう感じになりました。
 あとひとつ語っていない作品があるのですけれど、それがなにかわかりますか? わかる訳無いな。
 ひぐらしです。ひぐらしのなく頃に解。
 あれね、あれな、あれはな、長いねん。
 色々書きたいこともあるのだけれど、それを全部書いたら途端に疲れますので、それはもっと余裕が
 あるときに書くか、それとも年末のどさくさに紛れて適当に書いたものをUpして、ちゃんと書いたことに
 してしまうおそれが御座いますので、ご注意ください。
 ま、そういうことなのです。
 ひぐらしは、今期ちょっと別格。
 ちなみに、もっけは神格。意味わかんない。
 なんだか最近私の表現がベタになってきているのかオリジナリティに溢れすぎてるのか、いまいち自分で
 もわからなくなってきていますが、私は元気です。
 
 はい。
 
 
 
 
 ◆
 
 棚上げ状態になっていた、アニメ「スクールデイズ」の最終話を観た。
 
 想像していた以上のものだった。
 鳥肌が立って、正直、微動だにも出来なかった。
 ああ、やっぱりね。
 そう頷く自分を無視出来ないことだけは鮮明に、そしてあとは圧倒的な闇で覆われてしまった。
 誠氏ね。
 すごく、嫌な言葉。
 ネットではこの言葉が大氾濫して、本気なんだかネタなんだかわからないくらいに、その言葉中心で
 語られる事が多いこの作品に対して、私は何度も屈した。
 私だって、「誠」はひどいと思うし、無論「世界」や「言葉」も最低だと思う。
 でも、それがひどく原始的感情にしか過ぎない嫌悪の思いであるということは、ずっと私の中にあった。
 「誠」の愚かさを詰り上げ、「世界」や「言葉」を醒めた目で吐き捨てるようにして蔑んで、一体それは
 どういう事なのだろうかと、私はそうして彼と彼女らを責める言葉を堆く積み上げながらも、ずっとずっと
 考え続けていた。
 それってやっぱり、そう言う私達も彼と彼女らと同じって事になるのじゃないの?
 なぜ「世界」や「言葉」は、「誠」を詰ったのか。
 なぜ「誠」は、それでも「世界」や「言葉」に対して非道を為し続けたのか。
 その問いは、彼ら彼女ら自身には一切無かった。
 それが、この問いに対する答えだ。
 お互いがお互いの行動思考に対して、「なぜ?」の問いを一切持たなかったからゆえに、惨劇は起きた。
 ならば、それと全く同じスタンスでこの作品の登場人物達を蔑む私達もまた、蔑まれるに値する存在
 なのだ。
 
 わかりやすいのは、「誠」を見つめる「世界」や「言葉」自身についてだ。
 彼女らは、明らかに「誠」の愚かさを速攻で見抜き、そしてさらにそれがどこから来ているのかを、どうし
 ようも無く見抜いている。
 「誠」は、生まれながらにして愚かなのだ。
 むしろ「誠」とは「愚か」という事そのものなのだ。
 そのとき、彼女らはどうしたのか。
 ただそれを、詰った。
 「誠」が愚かなのは「誠」のせいだけなのか?
 「誠」が愚かなのをわかっていたのなら、なぜそれを改善する努力を為さずに、真っ向から批判するだけ
 して、最後にすべてを壊してしまったのか。
 それは実に簡単なことだった。
 私は「世界」や「言葉」は愚かでは無かったと思う。
 しかし、罪な人達だと思う。
 なぜなら、「誠」が愚かである事を充分に見抜いていながら、そしてそれを更正させる事が出来るのは
 自分達しか居ないとさえ確信していながら、その困難さを想像しただけで震え上がり、あっさりとそれに
 蓋をしてしまったからだ。
 自分達がすべき事を見なかった事にして、ただ「誠」の愚かさを責めた。
 自分達がそうしているという自覚を得れば得るほどに、それから逃げ、そしてすべてその「誠」の「愚かさ」
 の更正を「誠」ひとりに押し付け、自分はただその「愚かさ」に翻弄されるいち被害者として振る舞った。
 ここで、そんな「誠」の「愚かさ」を私達が背負う謂われは無いし、なんでそこまでしなくちゃいけないの
 だと、彼女らは平然と言ってのけるだろう。
 それが、彼女らの罪。
 「誠」を愛するという事がどういうことか、「誠」の「彼女」としての自覚を放り出して、ただその「彼女」の
 名だけを得ようとする罪。
 
 「誠」は多少なりとも、その自分の愚かさに対して自覚があり、それに対してもの凄い苦悩を抱いている。
 なんとかしなくちゃ、なんとかしなければと必死に足掻いている。
 けれど、「誠」はその自らの足掻きに対する自覚が欠如していた。
 あっさりと、そういった事を諦めてしまうのだ。
 「誠」の罪はそれだ。
 なにが悪いことでなにをしていないのかをわかっていながら、それらがどれだけ重大な事なのか、またそれ
 を修正しないでいることがどれほどの問題を引き起こすのかを、「誠」は全く自覚しておらず、また時が
 経つにつれ自分がどんどんと追い込まれるにつれ、もうどうでもいいよと、誰が見ても気が狂わんばかり
 のほどのその無責任な放り出し方をしてしまう。
 「愚か」といえば、罪であるほどの愚かさだ。
 
 そして、こういったお互いの構図を、「誠」は知り得ずに、しかし「世界」と「言葉」は気づいていた。
 結論から言えば、「世界」と「言葉」はすべて知りつつ、それを自ら解決する勇気と決断を持てず逃げ、
 それゆえにこの惨劇は起きてしまったのだ。
 原因は「誠」にあるが、それを知りつつも放置してただその被害を受けたことにのみ反応する「世界」と
 「言葉」こそが、この惨劇の展開を許したのだ。
 だが無論、これを良い悪いの話にして貶めるのなら、そうした者達もまた「誠」や「世界」「言葉」と全く
 同じレベルの存在にしか過ぎなくなるだろう。
 私は、この作品が好きだ。
 なぜなら、こういった構造自体に対する諦めが一切無いから。
 「世界」や「言葉」がすべてを知りつつも、それを解決する事の困難の「あまりの重さ」に打ち負け、
 それゆえ「どうすることもできなく」しかし懸命にその「現実」の中で生き抜き、それでも力及ばずに惨劇
 に走った・・・・・・などとは、絶対にこの作品は言わない。
 この作品を悲劇として受け取る人は中にはいるかもしれないが、実際この作品を素直に受け取った場
 合、実は馬鹿にして虚仮にして蔑むモノとして捉えるのが最も多く、またそれが正しい気がする。
 努力しても力及ばずに、哀れにも破滅を選んでしまわずにはいられない、そういった悲劇の物語として
 「納得」した時点で、私はこの作品の存在価値は全くのゼロになると感じた。
 馬鹿馬鹿しい、アホらしい、そうした感想を持つ、或いは持てるということは、実は果てしなく希望がある
 と考える。
 なぜならば。
 
 自分達が、「誠」や「世界」「言葉」達と同じ状況になったときにも、それを馬鹿馬鹿しいと思わなけれ
 ばならないという義務が発生するからだ。
 
 この作品に悲劇性を見込み、それに「納得」した者は、逆にその義務の発生を怖れるがゆえにこそ、
 この作品を愚かだと蔑まずにただ哀れむに留まるのだろう。
 それは結局は「誠」と「世界」「言葉」と同じこと。
 彼と彼女らと同じ状況になったときに、しかたがないこうするしか無いんだ、といって「諦め」的に受け入れ
 てしまうのだから。
 だったら、この作品は徹底的に馬鹿にするべきだ。
 唾を吐きかけたっていい。
 でも、そうしたからには、必ず彼と彼女らのようにはなってはいけないと、心掛ける必要がある。
 「誠」を馬鹿にしたのなら、絶対に「誠」のようにはならないように心掛け、「世界」「言葉」に関しても
 そうだろう。
 そして、なによりも。
 この「スクールデイズ」という作品が展開したモノが魅せてくれた、その究極の馬鹿馬鹿しさの構造自体
 をこそ馬鹿にしなければ、遠からずそれぞれ馬鹿にしたキャラと大差の無い結果に終わるだろう。
 「誠」を馬鹿にしたのならば、その「誠」の愚かさを理解しそれに憑かれている「誠」をこそ見つめ、だから
 こそその「愚かさ」を正して「誠」にそれを与えてやるのは、それを見ている自分だという覚悟があるべき。
 「世界」「言葉」を馬鹿にしたのならば、まずは自らの愚かさを徹底的に顧みる覚悟があるべき。
 それらが無ければ、「誠」と「世界」や「言葉」を馬鹿にする意味は全く無くなるのだ。
 だが、それはもう充分希望だと思う。
 そうして、自らが「当事者」として、なんとか「客観的」に見て全体的に「解決」していこうという気概だけ
 は在り続けるのだから。
 それを放棄する諦めなんぞより、ずっとそちらの方が素晴らしい。
 自分がなにも出来ないなら人を批判するな、という言葉を私は好まない。
 なぜならそれは、それを自覚して批判しないでいるということは、同時に自分がなにもしなくてよいことを
 ただ肯定するだけのことにしかならないから。
 そんな最低なことになるくらいならば、無責任にガンガン批判したらいい。
 間違いだらけでも、自分がやれば全然出来ないことでも構いやしない。
 そうやって厚顔無恥に言葉を刻み続け行動し続ける中にこそ、初めてなにかが出来るようになる可能
 性が出てくると思う。
 だって批判したからには、絶対自分もその分だけなにか出来るようにならなくちゃって、そう思い懸ける事
 が出来るもんね。
 
 既に頑張らなくちゃいけない現実に、そう、色々な形で「スクールデイズ」的な時間に私らはもう生きて
 いるのだから。
 
 そして・・
 「誠」のような自覚の無い愚かさを戒め、自らを鍛えること以上に。
 「世界」や「言葉」のように逃げずに、「誠」の「愚かさ」を受け止め自らが主体的にそれを更正させよ
 うとする事と。
 そしてなによりも、その「誠」と「世界」や「言葉」達の間の問題を絶対に解決するという意志と、そして
 それにはもの凄い困難と苦痛がある事をしっかりと認め、それゆえにそのためのゆとりを得ようとするモノ
 こそ、大人、というものなのじゃないかな。
 そのためにこそだったら私は「癒し」ってのは必要だねと思うのだけれど、それはまた別のお話ということで。
 
 
 
 それでは、今日はこの辺りにて。
 来週からは、アンニュイやめよう。
 ・・・。
 まったりで、いこう。
 
 
 
 
 
 

 

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