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◆◆◆ -- 2008年1月のお話 -- ◆◆◆

 

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                                 ■■ 我のいる自分 ■■

     
 
 
 
 
 『自分〜? 瑞生は自分持ってんのかぁ?』
 

                              〜もっけ ・第十七話・一真の言葉より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 我が、いる。
 瑞生という、自分がいる。
 では、我と自分は違うものなのか。
 自分とは、なにか。
 それを問うているのが我であり、その答えで顕されるものが自分である。
 其処に、瑞生がいる。
 『人は人、自分は自分なんだからね。ちゃんと自分を持ちなよ!』
 此処にいる我が語りしモノが自分であり、ゆえに自分は其処にいる。
 自分とは、これが自分であると我が語ったモノ。
 言うなれば、自分とは「モノ」であり、「妖怪」である。
 我が創りし幻影、そして其処にいるからこそ存在するモノ。
 自分とは、世界との境界線。
 自らを何者かと分け、これが自分だと主張すべき範疇そのもの。
 その主張を行うものが我であり、またそれゆえに我はいくつもの主張を持つことが出来る。
 自分は、変えられる。
 しかし、我は変わらない。
 我とは、創り出した自分を変えることの出来る存在だけである。
 もし自分を変えることなど出来ないと、そう考えているモノがあれば、それは我では無く自分である。
 我とは、変わらぬということそのもの。
 それが、個であるということ。
 此処には不変の我がいて、其処にはなにも変えられぬと思う自分がいる。
 不変の我は、ゆえにその不変を唱える自分を変えることが出来る。
 人はいながらにして既に個であり、我である。
 否。
 
 此処にいるということそのものが、我であり、個である。
 
 我と自分は同じモノであると言うか?
 我もまた自分と同じく変えられると思うか?
 それはつまり、我が不変であるのなら自分も不変であるということか。
 
 自分とはなにか、と問うことの根源が、それにある。
 
 不安と恐怖。それの忌避とそれからの逃避。
 それは、我が自分であるということの迷い。
 我が語り創り上げたモノである自分から、我をみつめることの悪寒。
 私は、私でいたい。
 他人は他人。私は私。
 未熟なる愚かなる私でも、それが私であるというだけで私は愛したい、守りたい。
 その私は、絶対に、絶対に変わらない。
 その私は、この私のモノ。
 この私は、その私のモノ。
 『汝は我である。』
 自分こそ、我である。
 不変なる我たる自分が、今此処に。
 
 「自分」に憑かれた自分だけが、其処にいる。
 
 それを我は、常に変わらず冷静に此処から見下ろしている。
 我は我であり、自分は自分である。
 自分とはただ世界と自らを分ける行為そのものであり、我はただ此処にいるということそのものである。
 
 ではなぜ、我は自分を必要とするのであろうか。
 
 
 
 
 ◆
 
 瑞生は、ふと考えてしまいます。
 自分って、なんだろう。
 私、自分っていうものを持ってるのだろうか、と。
 個性って、なんだろうか。
 瑞生の見上げた神社の御神木には、強烈な個性があります。
 お祖父ちゃんによれば、御神木が御神木たる所以は、それに木霊がいるからなのだそうです。
 ただ大きくて古いから、というだけでは木霊は宿りません。
 大きくて古い木はなかなか他に無いから、という他のものとの相対的な理由でこの木が御神木に選ば
 れた訳では無い。
 それが御神木であるのは、それが御神木であるからです。
 つまり、強烈な個性を放っているからです。
 それが、木霊です。
 いるだけで鮮烈な印象を与える木。
 『この木が宿すに足る、選ばれるに足る強い個性を持っているからってことよ。』
 瑞生はその御神木の個性ある存在に、感銘を受けるのです。
 そっか、この木がこの木であるってことが、自分を持つってことなんだ。
 他との比較では無く、自分にしか無いモノを大事にする、それが自分ってことなんだ。
 じゃあ、私にしか無いモノってなんだろう。
 ううん、私はもうそれだけで私じゃんか。
 私には、「私」という私にしか無いモノを持ってるじゃんか。
 あれは良くてこれが好きで、あれは悪くてこれが悪いと、そうやって自分で色々と決めることが出来る、
 他の人の真似っことか比較じゃ無くそういう事が出来る、それが個性があるってことなんだ。
 瑞生は、そう理解します。
 
 そして瑞生は、森の中で強烈な個性を放つ一本の木と出会います。
 さきほど観た御神木よりも立派で雄大な、そしてなによりも不可思議な独特な印象を持った木。
 瑞生は、強烈な個性を感じます。
 この木に、そしてこの木の個性を見出した自分自身に。
 この木は御神木じゃ無いけど、こんなに立派なんだ。
 誰にも認められてないけど、こんなに凄いんだ。
 これが、個性かぁ。
 
 
 そして、魔に魅入られます。
 
 『よくある障りだが、ガキには少々荷が重い。』
 
 
 
 『個性っていうのかな・・それがあった気がする。』
 
 
 『汝は・・・汝は我に個を見出したであろう?
  我を特別と視たであろう?
  それすなわち、汝の個。
  我こそ汝なり。
  
  我こそが、汝なり。』
 
 
 『汝こそ、我ゆえ。』
 
 
 自分こそ、我である。
 瑞生は、御神木に視た木霊、そしてその個の本質を、自分が語り描いた自分として視ます。
 私はこういう人間であり、こうでありたいと願う自分であり、そしてそれを強く意識することこそ自分の
 本質であり、それが「すべて」であると。
 それ以外の自分の無い、絶対不変の自分を信じそれこそが自分であるという、我の喪失。
 周囲には左右されず、自分が考え自分で感じたことはすべてオリジナルなものであり、そしてそうでは
 無いものはすべて自分には非ず、それゆえに他者の言葉など、ただ他者の言葉にしか過ぎない。
 私は私、我は我であり、すべては自分と自分以外であるだけのもの。
 自分がオリジナルに考え感じたものだけで築いたものこそが、ただ我であると。
 その我は、もはやイコール自分。
 世界と自分とを分かつという行為そのものだけが、此処にある。
 境界線そのものが、瑞生であると。
 「瑞生」という特別な自分のみが、我であると。
 そうだよね・・私は私でしか無いもん・・・
 他の人より優れてるとか劣ってるとか・・そんなこと関係無いもん・・・
 私は私・・・・ただ唯一の私
 
 
 では、問う。
 なぜ、御神木というモノが存在すると思うか?
 
 
 自分とは、ただ我が語った物語です。
 そして我とは、その自分という名の物語によってのみ在るものではありません。
 無数に存在し得る物語、そして自分を同時に有し得る、それが我です。
 無論ひとつだけの自分がイコール私でも無ければ、それら自分の集積そのものが我でもありません。
 我とは、ただの主体です。
 自分とは、それを彩る装飾にしか過ぎない。
 お祖父ちゃんは、こういう話をします。
 とあるところに影がいて、それにその影のまわりについている薄い影がこう尋ねます。
 お前は、お前の主人の動くまんまについて動いて、なんて主体性の無い奴だ。
 そんなのでいいのか?と。
 その影は、こう答えます。
 それはそうだが、しかし私の主人もまたなにかの影にしか過ぎないのかもしれぬ、と。
 これは荘子の「魍魎、影に問う」という話からの引用です。
 この場合魍魎とは、影のまわりについている薄い影のことです。
 自分はただ我の創りだした物語にしか過ぎ無く、そして我のいいように使われているだけかもしれない。
 しかし、それは我もまた同じなのかもしれない。
 本当は、我もまた自分の集積であるところの自分そのものであるのかもしれない。
 いわんや魍魎をや。
 逆にいえば、魍魎という名の他者や世界に属す範疇のものも、自分というモノが創り出した、境界線
 の向こう側にあるモノであるだけで、本質は自分とは変わらず、ゆえにその境界線などあって無きが如し
 のモノ。
 自分が我に創り出されたモノにしか過ぎぬというのなら、他者や世界も自分に創り出されたモノ。
 我が自分と同じなら、自分も他者や世界と同じモノ。
 自分とはただ、他者や世界の中から我が切り取って集めたモノにしか過ぎず、ゆえに本質的には自分と
 他者や世界は同じモノ。
 
 『 あなたも特別だけど・・・私には・・もっと・・
  お祖父ちゃんとかお姉ちゃんとかさ、特別って意外に沢山あるし・・これからも・・まだ・・・』
 
 我とは、自分という装飾品に囲まれた主体。
 しかし、装飾品を全部取り払ったら、本当はそこには何も無かったりするのかもしれない。
 我、なんてモノは無いのかもしれない。
 
 しかし。
 
 我が無ければ、また自分も、無い。
 我語る、ゆえに自分あり。
 すべてが自分であり自分で無い、ただひとつの「なにか」でしか無い。
 『私達にはどうして動くかなどわかりはしないのだ。』
 我など無い、すべては同じひとつ。
 すべては、「なにか」に語られた虚像にしか過ぎない。
 ならば。
 なぜ、それでも自分を唱えるのでしょうか?
 お祖父ちゃんは、こう言います。
 『頭の隅くらいには置いとくといい。』
 木霊も、こう言います。
 『くだらん。ただの寓話だ。』
 その通り。
 御神木が御神木たる所以は、それが御神木であるから。
 多くの木の中から、それが御神木であるという選別行為そのものが、既に御神木の個性なのです。
 自分は、確かにいます。
 なぜなら、それは世界と我を分かつ行為そのものでしか無いのですから。
 我、という名の「モノ」など方便で良いのです。
 実際に、絶対不変の我があるかどうかなどどうでも良い。
 しかし、その我を想定するからこそ、世界の中に自分を切り取って得ていくことが出来る。
 確かに、自分は自分でしか無く、世界と自分とは別物であるという事に固執すれば、それに囚われ
 周りが見えなくなってしまいますが、それと全く同じ理由で、世界と自分は同じモノで、特別なモノとして
 の自分など無いなど言っても、それはただ虚しさしか呼びはしないのです。
 なぜ、自分とはなにかと問うなにかがいるのか。
 
 それを考えないでする自分の存在の肯定と否定は、全く魍魎みてぇじゃねぇか。 (お祖父ちゃん風に)
 
 私達がなぜ存在するのかなど、所詮わかりはしません。
 しかし、だからといってその問いをやめたり、またその答えを得て日々頑張って生きることを否定するのは
 愚かな行為。
 絶対的な答えなど無くて当たり前。
 いやいや。
 それどころか、そんな私達の存在理由など無いと断言出来てしまえることさえも、当たり前。
 だから。
 
 『もともと、無いものを無いと、不安に思わずともいいのだ。
  慌てて見つける必要も無い。
  ただ多くのものと接し、多くの人と付き合うことで、それは自ずとわかる。』
 
 自分など無いということがわかり、ゆえに自分などただの物語のひとつでしか無いということがわかる。
 そして。
 だからこそ、その中で自分という物語をする我がいて、物語としての自分は確かにいるとわかる。
 前回の「ソラバヤシ」の話の最後にあったように、自分という「モノ」を、虚しいモノにするかどうかは、
 それは全く「自分」次第。
 その「自分」とやらが不変の我であろうと無かろうと、そんな事は関係無い。
 絶対に変わらないと言える自分がいるからこそ、それの大元である我は存在し得る。
 なぜ動くのかわからない影が、それでも私はこういう理由で動いているのだと説明すれば、自ずとその
 影の主である人の動く理由も顕れてくる。
 大事なのは、なにか。
 なぜ、自分とはなにか、と問うのか。
 それは。
 私が此処にいるから。
 否。
 
 私は此処にいると、叫んでいるから。
 
 私達は多くのモノや他者達との繋がりの中に、自分というものを見出していきます。
 ゆえにそれらのモノや他者達の存在及び繋がりが無ければ、自分というモノは存在しない。
 木霊という自分に取り憑かれてしまうということは、その構造を無視し、結局のところ自分を見失って
 しまいます。
 オリジナルな自分など存在しない、悪い感情も善い感情も、あらゆるものはすべて模倣から始まって
 います。
 だからいつでも変わることが出来るし、また変えることも出来る。
 でも、その自分は、選ばれたモノ。
 それを選ばせたモノさえも他者達から得たモノかもしれません。
 しかし。
 私は、此処にいる。
 私など、方便で良い。
 瑞生の目の前には、確かに木霊が、自分がいるのです。
 瑞生は、そのことに最後に気づいたのです。
 自分とはなにか、と問うことの愚かさをお祖父ちゃんから学び、そしてその愚かなモノを求めたのはなにか
 という新たな問いを瑞生は得ることが出来たのです。
 お祖父ちゃんはおそらくそれを見越して、ああ言ったのでしょう。
 自分で考えろ。
 お前の目の前にいる、その木霊の意味と価値をな。
 『奴らは居ンのが当たり前。』
 奴らに憑かれる事が駄目だとわかったのなら、今度は奴らの存在そのものに目を向けてみろ。
 奴らはお前のためにいるんじゃ無ぇ。
 奴らは、お前が奴らに取り憑かれる事の愚をお前に教えるためにいるんじゃ無ぇ。
 よーく、考えろ。
 自分を考える、ということの意味を。
 
 木霊曰く。
 
 『またいつか戯れよう。
  いつかこの牢屋を解くは、汝自身。
  その暁には、自由に遊ぼう。
  楽しみにしている。
  我は、戯れたくて仕方無い。』
 
 お前のその目の前にいる自分は、一体なにを言いたかったのかを考えろ。
 自分がいるって、どういうことだ?
 その自分を視てるのは、一体誰だ?
 瑞生よ。
 自分がなんであろうと、自分とは他者との関係の中にしか無い、純粋な個性など存在しないと言えよう
 と。
 それが、どうした。
 お前は、此処にいるじゃねぇか。
 自分という存在の不確かさを感じたのなら、同時にそれを確かなモノとして感じるのも同じ事だ。
 自分とは、あるようでなく、ないようであるモノ。
 自分なんて無い、ということを頭の片隅に留めておきゃ、お前はひとつだけの自分に囚われずに済む。
 だがならばそれと同時に、自分とはなにか、いや、既にお前が持っているその模倣でもなんでも良い
 今のお前の自分に耳を澄ませてみるのは、当然の事なんじゃねぇのか?
 勘違いすんなよ。
 自分というモノを否定してる訳じゃ無いし、それが目的だってんなら、そりゃ嘘だ。
 目的にはあるのは、お前が沢山の自分を持てるようになることであり。
 そしてそれは、その沢山の自分のひとつひとつと、お前がしっかりと向き合っていくことのためにあるもんだ。
 だったら、今目の前にいる、その木霊というお前の自分と付き合うのは、戯れるのは当然だ。
 それが無ければ、全部嘘であり、そしてただ自分から逃げてるだけだ。
 自分のいない世界なぞ、全く魍魎みてぇじゃねぇか。
 
 瑞生よ。
 自分に、囚われるな。
 そして。
 自分から、逃げるなよ。
 
 お祖父ちゃんは呪いを唱えながら、瑞生と木霊との間に境界線を引きます。
 それは両方を分けるという意味で、それぞれをそれぞれに囲い捕らえたことにもなります。
 瑞生は瑞生、木霊は木霊。
 我は我、自分は自分。
 そして。
 私は私、世界は世界。
 私は私、貴方は貴方。
 この自分という区分け行為こそが、瑞生が此処にいることで延々と為していくことのすべてなのです。
 他者が他者として其処に確としているからこそ、実はその他者と関係を結ぶことが出来る。
 自分という不確かなモノしか無ければ、自分など無いと言うだけでは、実は他者と関係を結ぶこと
 など出来はしないのです。
 無論、自分なんてモノは無い、という大前提があるからこそ、そうなるのです。
 自分なんてモノは無いけれど、しかしだからこそ其処に自分を創り出すことが出来る。
 そしてその自分とは他者との関係の中に出来るのであるからこそ、まず他者の存在が必要。
 では、その他者はいるのか。
 他者とは、なにか。
 それは、簡単です。
 自分以外の、モノです。
 だから、自分はいるのです。
 他者がいるからこそ自分はいて、自分がいるからこそ他者がいる。
 自らとそれ以外をしっかりと分けて、自分を創れ、瑞生よ。
 他者の模倣を掻き集めて、それのオリジナルな集積の仕方を我と名付けりゃいいさ。
 それがオリジナルと言えるかどうかなんて関係無い。
 オリジナルと言うこと、それがオリジナルということそのものなのだからな。
 
 
 そして、だからこそわかるだろ。
 他者という自分と同じモノが、其処に確かにいることが。
 
 
 他者という名の自分を背負う我が、其処にいる。
 瑞生の我、お祖父ちゃんの我、静流の我、そして木霊の我。
 その他者の我こそが、スダマ。
 それが其処の此処にいるということ。
 他者が其処にいるんなら、お前も此処にいるだろ、瑞生。
 勿論俺も、此処にいる。お前からみたら其処だがな。
 すべての他者がお前の目に映るただの幻影にしか過ぎなくても、その幻影の俺は、今確かに俺は此処
 にいると言ってんだ。
 なにも、虚しく想うことなど、無いだろ。
 
 
 『心中の虚に木霊する棲魂。
  奥にいりて、鎮まれ!』
 
 
 他者という自分を其処に分けて囲うて封じよ。
 しかし目の前の他者が自分という幻影であることを恐れる無かれ。
 その幻影は確かに其処に生きて居る。
 いること即ち、此処に我あり。
 我あればこそ自分あり。
 当たり前だろ。
 誰だって、自分らしさってもんを欲しがるのは当然だろ。
 自分を特別って思うのも、ときにはいいさ。
 いいじゃねぇか、それで。
 だからもっともっと、多くの他者達と、其処にいる自分と付き合っていけばいい。
 そうすりゃ。
 特別な自分の数が、どんどん増えていく。
 たったひとりの特別な自分しかいない哀しみと悦びよりも、それはずっと魅力的なことだ。
 『そっかぁ、そうやって人と関わって成長するってことか。』
 そういうことだ。
 『ガキがでっかくなるにつれて、人に逆らいだしたり、人の心中を察したりするようになるっつーのも、
  人の真似の影響が元として絡んでるっつー話よ。』
 だから。
 
 
 夜にガキがひとりで出歩いてんじゃねぇっ! ←瑞生の頭に拳骨を落として
 
 
 
 
 
 『一真ぁ。明日また行こっか、虫取り。』
 天の邪鬼なのは、一真だけじゃ無いんだもんね。
 
 『クワガタも、一匹だけじゃ寂しいでしょ。』
 今の私なら、よーくわかるよ。
 
 
 
 
 
 『ひとりじゃ・・・・寂しかったのかな。
  きっと、退屈してたんだろうなぁ。』
 
 
 
 私も・・・・・
 
 そして、木霊も。
 
 
 
 
 私は、色んな人と付き合って成長していくよ。
 
 
 またあんたと遊べるようになるために、ね。
 
 
 
 
 
 
 以上、第17話「スダマガエシ」の感想でした。
 『焉んぞ然る所以を知らん。焉んぞ然らざる所以を知らん。』
 まさにお祖父ちゃんのこの言葉の意味を考えさせてくれるお話でした。
 私達はなんで此処にいるのかなんて知りませんけれど、しかし既にいるという「当然(当に然るべし)」
 なことが、ひとつの「自分」という明確な答えを私達に与えてくれている。
 私達は自身がなぜ此処にいるかを知らないからこそ、それを知ろうとしている私達がいることを知る。
 そしてその私という「我」がいるからこそ、その我の望むままに、なにかを知っていくことが出来、その知った
 ことの集積としての「自分」を世界の中から見出していくことが出来る。
 その「自分」が知ったことと、その「自分」自体がどういう存在であるかに関係無く、ただただ此処に我が
 あるという当たり前のことのままに生きる結果として、それらはただただ顕れてくるモノ。
 そしたらもう、「我」だってあったって無くったって、関係無いじゃない。
 むしろ、「我」なんて言葉不要なくらいに、ただ私達はなにかをしているだけなんですから。
 
 今回のお話の感想については、理屈中心でいってしまい、あまり示せたものは無かったかもしれません
 けれど、しかしそれでも今回はこうした小さな理屈を書き残しておくことこそが、一番私がしたいことだと
 思ったので、そう致しました。
 だって、私が感じて想ったことは、それでも理屈を書きたいってことだったんだもん。
 むしろ、この私の姿勢こそが、今回の「スダマガエシ」に繋がっているとも、書き終えた今は思えています。
 書き足りなことは沢山あれど、その中から書き残しておきたいと敢えて選んで切り取った、その「自分」
 としてのこの理屈をこそ、読んで頂ければと思っています。
 でも、しっかり未練たらたらではあるんですけどね。
 あーもうちょっとこう比喩とか情景とか使って一真も絡めてさもっと空間的にこう(以下略 笑)
 でもま、満足です。正直。 ←すっきりした笑顔で
 
 それでは、今回はこれにて。
 また、来週。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 ◆ 『』内文章、アニメ「もっけ」より引用 ◆
 
 
 

 

-- 080129--                    

 

         

                             ■■ 良い加減にしなさい ■■

     
 
 
 
 
 聞いてないぞ、ガンダム!(挨拶)
 
 改めまして、ごきげんよう。
 やーこの頃はすっかり寒い上にめっきり寒くなってきて、それ以外の天気についての話題を一切遮断
 したくなるような、そんな寒いの一言に尽きます。ていうか尽きた。
 この頃はかなり忙しくて、しかも割と私自身も稼働率が高いので、やることが出来ればほいきたとばかりに
 ガンガンやってしまうので、本人が思っているより休んでいなくて、急にがくっときたりします。
 まぁつまり、今日なんかそうなんですけど。
 日記的にも今日はどうでもいい(ぉぃ)雑日記な日なので、完全に集中力を落としてしまっています。
 先週もそうでした。
 昔から私は向き合う相手が強いと実力以上の力を発揮するのですけれど、弱いとなるとトコトンだらけ
 るという、そんな完全受動型なのです。
 うん、ここ一年くらいはそうじゃなかったので、むしろ原点回帰な気もしています。
 私なんか、適当に考え無しに予定詰め込んでやれば、なんも考えずにガーっとやっちゃうのよ。
 あー、だからここんとこ、アニメとかでもずっとハイクオリティキャラ(?)に惹かれるようになってたのかなぁ。
 ハイクオリティっていうかサド? むしろ私はマゾですかそうですかええいもう
 
 というかまぁ、アニメキャラがどうこう言っているならまだまだな気もします。
 キャラはいいのよ、キャラは。
 それより私がどういう感想を書くかというね。
 いやでも、その前にその作品でしょ?
 キャラ単品でかどうかはともかく、クオリティの高い作品があるからこそ、私も頑張って感想書けるのよ?
 良い作品であればあるほど、良い感想を書こうと頑張れる。
 私がなんとしてもこの作品のすごさを言葉にして顕してやる!
 そういうね、気概というかなんというか、そういうのがこの頃静かに湧いてきてます。
 
 ほんとかなぁ?  ←疑いの眼差しで掌をみつめながら
 
 
 
 
 ◆
 
 ということで、当然の成り行きということで。
 プチ感想を、ふたつ。
 
 
 狼と香辛料
 ・いつコケるかという、そういう心配をしています。
 そして毎回必ずその心配を完全に払拭した気持ちでEDを迎えています。
 もの凄く、私はこの作品に期待していると思うのです。
 たぶんそれは、私がこの作品に「なにか」を託しているからなのだと思います。
 ああ・・この作品ならきっと・・・
 自分がなにを期待しているのか、私はわかっているようで、わかっていません。
 漠然として、しかし確かにこの作品と接していると、どうしようも無く書きたくなるのです。
 なにを書くのか、それすらわからずに。
 
 ハラハラドキドキ。
 いつこの作品がくだらないことをやって、そして私がそれに耐えられなくなって、この作品を放り出して
 しまうのか。
 私はそうしていつもそわそわとしつつ、そして30分が終わるまで、ついぞ、自分がそういう風になっている
 ということに気づけずにいます。
 なんででしょうね、どうして私はこんなにこの作品に頼り切っているのでしょうか。
 いつもなら、作品のくだらない箇所でもなんでも良く解釈して取り込んでいったり、また私がそれを出来そ
 うも無くなれば改めて気を引き締め、かつ逆に大きく構えて自分がなにに囚われているのかを考えたり
 してそれを乗り越えています。
 けれど、この作品が始まり、OPが流れ出すと、まるで全身が痺れるようにして溶けてしまう。
 そうなってしまえば、もう駄目です。
 30分間そわそわとドキドキの入り交じった静かな緊張感が、ずっと私の背筋を舐めていくのです。
 なぜか。
 
 その秘密は、たぶんOPにあります。
 
 もう、あれですよね。
 あのなにも無い雪原で、なにも纏わずに立ち尽くすひとりの狼。
 そこから、どんどんとなにかが始まっていく、そのどうしようも無い「孤独」と「豊穣」さがあるのが、
 これがもう私がどんな解釈をしようがまるで構わずに、確実にこの作品にずっしりと響いて息づいている
 のが、どうしようも無くわかってしまうからなのです。
 私はそれを、それこそ本当にどうしようも無く目の当たりにして、そして魂の深いところで惚れてしまったの
 でしょう。
 そして、私はこの作品の感想を書きたいと思った。
 というより、私は自分が惚れた作品に対して、その愛をその作品の感想を書くということで顕していこうと
 するのが常です。
 そして今回もその例に漏れず、この作品を感想を書く対象に選んだ。
 しかし、なにかが違う。
 おかしいな・・・・私はもう・・・・・感想書かなくても・・・・この作品のことが・・
 たぶん、「なにか」が完全にわかってしまったと思うんです。
 あとはもうそれを書くだけで、新しいそこからの思考なりなんなり、それらはもういらないのじゃないかと、
 体の方が完全に理解して受け入れてしまったのです。
 もうあのOPで、すべては済んでしまっているじゃないか。
 私が30分ハラハラドキドキなのは、私の前で美しく踊っているそのひとりの作品が、私の手を借りずとも
 本当にその私の体の言う理解の通りに、私を完全に魅了し続けてくれるのかと疑っているからです。
 いえ、ただ疑うというより、むしろどうしても信じたいがゆえに、疑いを超えて欲しいと思っているのかな。
 まさにこの作品を千尋の谷に突き落として、私はひとり手ぶらで這い上がってくるのを見守っていると、
 そういう感覚なのかもしれません。
 そして私は緊張に支配された眼差しで、必死にそれをただ観ているだけと同義の「書く」ということを
 続け、そして自分が書くものを書いてばっと後ろを振り返って、そこにちゃんと谷から這い上がってついて
 きてくれたその作品を、その最後のEDの軽快で楽しいリズムの中で迎え、そして静かに踊っていく。
 なんかほんと・・・この作品に惚れちゃったなぁ・・私・・
 
 そして、この「狼と香辛料」という作品は、そこから始まるのです。
 そう、さらに、ね。
 私の期待していた通りに動いてくれて、それが嬉しくて堪らないのは事実ですけれど、私はそんな程度
 で満足できる者では御座いません。 (笑)
 そうやって、ヨチヨチながらも私に追いついてきてくれたこの作品を、感涙にむせびながら抱き締めている
 のは、それはまたそれ以上の意味でこの作品に期待できる「なにか」があるからです。
 それは最初に言った通り、「孤独」と「豊穣」という確たるものがあり、そしてハラハラしながらも、その顔を
 隠した指の間からみつめたそれらのものは、やはりどうしようも無いくらいに強靱にそれを深めていって
 いました。
 私のハラハラドキドキは、実はこのことによるものでもあるのです。
 この子は私が期待していたよりも、もっともっとすごいものを持っているのじゃないか。
 私は、自分のかけた期待の殻が、私が高いからそれを見下ろしているだけという愚かさが、いつ破られ
 明かされるかを恐れてもいる。
 そして、私は今、その恐れを含む緊張を使ってどうしようかと考えています。
 このまま私の玩具にしては忍びなく、またなによりもそんなことで満足出来る私では無い。
 ならば、今度は私こそがこの作品に崖から突き落として貰おう。
 この作品は、回を重ねるごとに、どんどんと素晴らしくなっていっています。
 きっとこのままぼんやり緊張を楽しむだけだったら、私はあっさりと置いて行かれます。
 だから、突き落としてください。 (もうちょっと言い方が 笑)
 第一もう、私の脳みその方は既にそのためにフル回転し始めているのです。
 どうやったら、惚れてしまった相手と、それでも切磋琢磨できるか。
 どうやったら、この作品から考えてそれを私なりに深めていくことができるか。
 私はこの作品を愛するがゆえに、この作品に囚われたくは無い。
 そうしてそうだからこ、私は一度この作品に感じた「なにか」のことがより深くわかり、そしてさらにはこの
 作品からもっともっと沢山の「なにか」を見つけていくことが出来るかもしれない。
 そうすれば、この作品は、この子はもっともっともっと凄い子になる!
 
 まぁ、そういう妄想を逞しくしている訳です、この人は。
 紅い瞳は「狼と香辛料」を心の底から応援しています。
 んで、紅い瞳もせいぜい頑張んな。
 今度はもうちょっと、作品の内容を踏まえたことを言えるようにしましょう。
 ホロ萌え〜
 
 
 
 っと、ほんとはこのあとに「もっけ」についても書きたかったのですけれど、ちょっと疲れが溜まってきたので、
 今回はこれにて。
 「もっけ」はまた別の機会にて。
 
 それでは、また来週。 (そんないい加減な)
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 080127--                    

 

         

                             ■■狼を救うは金の成る街■■

     
 
 
 
 
 『 そういうときは、新たな視点を入れるべきじゃ。』
 

                                〜狼と香辛料・第三話・ホロの言葉より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 豊穣の、豊穣の、豊穣の。
 
 豊かさを求めるうちに、豊かに笑顔が綻んでゆくままに、豊穣のなかに溶けて往く。
 凍り付く刃が背を刺し貫いても、凍える孤独を震わせ暖を求めても、宵闇の果てに咲く日差しの影は
 変わらず黒雲となりて、この大地を満たしている。
 往こう、往こう、往こう!
 震えるままに凍えるままに、幼子が泣き喚く意味を考えながら、無上に求めるがままに、往こう。
 
 身を斬られる怖気が闇を支配する。
 弱小と蔑む我が身を顧みるがゆえにこそ、恐怖なる月光は凍てつきを増していく。
 誰も我を知らぬ。誰も我を知らぬ。誰も我を知らぬ!!
 何者も存せぬ広大無辺の凍土は、其処に立つだけで足を凍り付かせ身を雪に埋もれさせていく。
 森々と消え果て収束を繰り返す雪夜から、一滴の雪飛礫も検出出来なくなるときに顕れる、
 その白く抜けていく真空だけが、我が肌と接し、肌を喰い破り、喰い尽くし、消化してくれる。
 消えろ、消えろ、消えろ!
 何度叫んでも、その声が我が耳を汚すことは無い。
 どこまでも遮るものの無い白銀の世界は、その絶叫をどこまでも運びつつ、しかし私の耳元からは
 すべて音を奪っていく。
 




 

 気づけば  我の周りだけ 深々と雪が降っていた




 
 触れる寒気が愛おしく、甘い。
 芳しい無臭が、匂い立つ我が身の腐臭を奪っていく。
 なにひとつ纏えぬ無能を嗤う喉元が小刻みに震え、胸を焦がす怒りは天上へと吸い取られていく。
 なにも残らず、なにも育て得ぬ、なにも生き得ぬ。
 無きが如くに在るを嘆く鼓動のみが、その存在を以て愚かしく我が身に下賜されていく。
 我に相応しきは怒りでは無く嘆きであれというのか。
 それとも、我の怒りのみが救われたのであろうか。
 見上げた夜空に煌々と棚引く絶叫が麗しい。
 白銀の尾をひいて世界の果てを目指す我が絶望こそ、生きて欲しい。
 我の願いを託すものを見つけられぬうちに、願いそのものが雪原を駆けて消えていく。
 死が、消えていく。
 消えて、消えて、消えて。
 消失を繰り返し消失そのものをさえ消してしまったものが此処にいる。
 一糸纏わぬ希望の裸身は、飛沫を上げる雪達の饗宴に濡れそぼる指を這わせ、優しく怯えていく。
 吹き上げる銀色の追い風が髪を掻き上げ、凍り付くうなじを氷晶が砕いていく。
 誘われるままに破れた罠に引き寄せられ、あるはずの無いぬくもりで溶けた雪のぬかるみに転げながら、
 ただ嬌艶なるままに闇と口付けを交わしていく。
 求め、求められるを求め、求め、求め。
 零れる笑顔が頬を濡らしていくのを、泣きながら、泣きながら、感じていく。
 笑いたい。
 天高く聳えるほどに、大地を焼き尽くすほどに、笑いたい。
 嘲笑と絶望の織り成す黒く満ちた白銀が、我の脳漿を狂わんばかりに撫でていく。
 負ける、ものか。
 揺り籠に揺られるままに殺される赤子が伸ばした手の純粋を、想う。
 冷たくぬくもりを失った骸の垂れ下がる、その漆黒の揺り籠への愛がこそ、我が瞳を開かせる。
 冷たいな・・手・・
 必死に伸ばした手が、何者かに届くを知らぬままに生き果て、その先で観た夢はなんであるか。
 腐臭にさえ犯され得なかった悲しみが、音を立てずに胸を柔らかく引き裂いていく。
 
 嗚呼  嗚呼       嗚呼
 
 肌を這う微小の生命達すら、我とは無縁であったのか。
 我が身に籠もる熱度は、我を満たす冷気にすら相手にされぬのか。
 迸る情熱が、僅かに許された饗宴のときのみ凍土に伝わり、それで出来るぬかるみだけが我を汚して
 いってくれる。
 無様なるは、泥にまみれたこの能面か。
 我は、知りたい。
 この頬を凍らせることの意味を。
 笑いたい。
 笑いたい。
 ただただ、笑いたい。
 
 そして夜は、弾けて、消えた。
 
 
 
 

夜の果てを、私は観てみたい。

 
 
 
 
 
 
 
 

〜〜 さぁ、始めよう孤独からの旅路を 〜〜

 
 
 
 

『わっちは、ぬしと旅がしたい。』

 
 
 
 
 
 
 ◆
 
 カポ、カポ、カポと、ほろ酔いばかりに間抜けな荷馬車は道を流れて往く。
 酒を飲まずとも、酒瓶を撫でるだけで酔える陽気じゃの。
 風は麗しく吹き抜けて、道は畦道の如くに長閑に街と街を繋ぎ、目前には大海を駆ける巨船へと荷を
 繋ぐ艀が浮かんでおる。
 なだらかな平原の、一見なにも無いように感じるその存在感を背に、今、目の前に広がる雄壮な港街
 パッツィオへと入ろうとしている。
 これが浮かれずにいられようか。
 すれ違う他の荷馬車と旅の香りを交わし合い、これから赴かんとする互いの前途を祝福し合う。
 まったく、人の子というものは、なんという複雑豊満な世界を創ったのじゃ。
 楽しくて楽しくて、仕方が無い。
 『美味いものが沢山ありそうじゃのう♪』
 ふむ。
 私はこの中で私でいられようかの?
 この深い世界の中には、賢狼ホロの話は確かに浮かんで在るだろう。
 だがしかし、私こそがその話の主人公だとは誰もわからぬだろう。
 私がどれほど生き、どのようにして生き、どのような孤独を経て、どのようにして在るのかを、誰ひとりとて
 知らぬだろう。
 『気が付くまいよ。 わっちのことなど忘れとるんじゃからな。』
 私は、それを憂うか?
 うむ、私はただのホロゆえにそれを憂いもしよう。
 
 だが、今はもう始まっているのだ。 
 私は私を知って貰う事と引き替えに、私が世界の中で生きることを得たのだ。
 
 さればこの悲しみを哀しみに変えて、生きていこう。
 いや。
 その哀しみある限り、私は私のまま変わらぬあるだろう。
 変わらぬ私がある限り、いつか私を知る者も、忘れぬ者も現れよう。
 私はそれを求めはしない。
 いや。
 私はただ、求めるままに生きるのみなのじゃよ。
 私が今一番欲しいものはなにか。
 
 それは、美味いリンゴじゃ!
 それを得るために、まずはこの脳漿を働かせようぞ。
 
 
 市には様々な品物が並び、それらひとつひとつの瑞々しさは先を争うようにしてそそり立ち、それら質を
 高める熱気と共に、それを上回る怠惰な物量がどんな者をも満たして言ってくれる。
 金があれば良い物を、金が無ければ悪い物を。
 いずれにしても、物が集まり、物を得られる場所、それが街。
 そしてさらには、悪い物も数を揃えればそれなりの値が付き、そして工夫次第では悪い物に高値を付け
 ることは充分可能じゃ。
 物を動かし、物に値を付け、それらすべての行為にまた金が生じ、富が築かれていく。
 稼ぎようはいくらでもあり、金があればなんでも出来るし、なんでもしようとも思えるのじゃ。
 自らの才覚をたのみに、金を得て。
 その金を使って美味しいものを食べる♪
 このリンゴの甘みは我が知恵が形を変えて顕れたものであり、またこの知恵は新たな物に姿を変えて
 いく。
 面白いのう、ほんとうに面白い。
 私は街が好きじゃ。
 ただ街中をぶらつきその活気を体一杯に吸い込むのも好きじゃし、その活気のひとつとなって我が心身
 を弛み無く動かしていくのは、実に爽快じゃ。
 あれが欲しいと思えば、それを得るための行動を示す場が街であり、そして示すことが出来た分だけ
 それは金となって我が掌の上にちゃりんと湧き出てくる。
 不思議じゃのう、不思議じゃ。
 考えるとは、働くとは、なんと面白いことじゃ。
 金を稼ぐためにはどうしたらいいか。
 それが私のすべてを傾けるに値すること。
 うむ、商売は実に楽しい。
 自分の考えた工夫が活きることの嬉しさに、自分の作ったものが金に換わることの悦びに。
 うむ。
 金儲けがこんなに楽しいとは、思わなかったな。
 
 我の目的は、金そのものでは無い。
 我の為したことが、形となって顕れ、それを手にすることが出来るという事そのものじゃ。
 だから、金を求めて働くのじゃ。
 
 仕入れた毛皮を、小細工と経験と知恵と大嘘を交えて高く吹っかけ、それが成功したときは爽快じゃ。
 ますます我が知恵を働かせたくなり、また経験していきたいと思えるじゃろ?
 
 ふふん。
 教会がたとえ金を稼ぐことを卑しいと教え、金を不浄のものと言おうと、そんな事は無意味じゃ。
 我は、いや人の子さえ、労働のために働くのでは無いのだからな。
 そうじゃ。
 人が働くのはすべて、金儲けのためじゃ。
 欲しいものがあるから、働くのじゃろ?
 したいことがあるから、働くのじゃろ?
 労働に無意味な聖性を付ける必要も無ければ、苦役と嘆く必要も無い。
 労働は義務では無く、ただの人の子の欲望を満たす純粋な行動じゃ。
 働かなければ死ぬだけであり、金が無ければなにも得られずに死ぬだけじゃ。
 いやいや、金は無くとも幸せは得られるというか?
 ふふん、本当にそうかの?
 それは無欲では無く、ただの禁欲じゃろう?
 金で得られるものは確かにあるのだから、それを無視しておいて幸せもなにもなかろう。
 欲しい物を捨てて、それで清浄なる貧しさの中にこそ、幸せがあると?
 
 ふふ おかしいのう。
 世界にはこんなに、幸せが満ちているというのにのう。
 なぜそれを「わざわざ」無視するのかのう?
 
 私には、清貧と怠惰の区別が付かぬのじゃが、どうかのう?
 
 
 
 私は、私のことを想えばおもうほど、金を稼いでみたくなるの。
 
 
 
 
 ◆
 
 埋め尽くされる物量に、美しく逞しくそびえ立っていく個々の質の高さに歓喜して。
 涙こそ流せてしまえようものじゃ。
 自らが此処にあるからこそ、此処にあるだけの恐怖を忌むことが出来る。
 しかし此処にあることを忘れてしまえば、いつの間にか此処に還ってしまうだけになる。
 だから私は、ひたすら旅立ちたいのじゃ。
 人の子と共に世界を伐り拓き、収穫を得て、酒を飲み美味しいものを食べ、歌い、笑い合いたい。
 自らの最高の知恵を閃かせ、最強の力を傾けて、どこまでも世界の幸せを広げていきたい。
 
 『食欲は多くを失うが、禁欲がなにかを生み出すということは無い。』
 
 いや、そもそも禁欲とて、その食欲をさらに深めるための道具立てにしか過ぎぬ。
 そうじゃ。
 我の神として人の子に贈る言葉は、これに尽きる。
 
 
 『リンゴは悪魔の実じゃ。
  わっちを唆す甘い誘惑に満ちておる。』
 
 
 私はその誘惑にいくらでも乗り、そしてどこまでも生きていく。
 私の此処から、孤独から生きるのを始めるために。
 そのためにこそ、その悪魔の囁きはとても大切なものなのじゃ。
 私を動かしてくれるものが其処にあるからこそ、私は私自身以上のものへと変わっていける。
 虚しいか? 金の亡者であることが。
 だが、それを虚しいものにするかどうかは自分次第じゃ。
 その虚しいという言葉の誘惑が、一体なにを与えてくれるのか、それをこそ見つめる必要があるじゃろ。
 欲深き者ほど、金を求めぬことの意味を良く知っておろうなぁ。
 
 
 緊張にまみれ、密やかに唾を飲み下す喉に触れる指先が、なによりも私の生きる縁となるのじゃ。
 
 
 あのときの商人の心底感心したような顔は傑作じゃったな。
 いやいや、それよりも私の詐術をそれと気づかずに呆然とするお前の顔も面白かった。
 そしてなにより、私はあの交渉の緊張感がなにより楽しかったぞ。
 私は現代の取引の相場など知らぬが、それとてもやはり知っておけばさらに戦略も開けてくるに違いな
 いと、私は確かに感じていた。
 だからこそ、学びたいと、その相場についての知識を得たいと思えるのであろうな。
 ふふ。
 こうして自分の力を試したり活かしたり磨いたりすることが出来るからこそ、金はその価値を得るのじゃ。
 どんどん稼ぐがよい、商人達よ。
 そして我もまた、稼いでいこうぞ。
 今の人の子の世の、その最も幸福と豊穣の集まる交易の中で生きてみたい。
 交易を司る神に、我はなりたいのじゃ。
 
 豊かさを知らぬ神に豊かさを与えられる訳が無い。
 
 
 
 + + +
 
 聞こえる水の流れが耳底をかすめ、消えゆく風音が頭上を常に飛び交っている。
 市に出れば饒舌な賑わいを醸す熱気はその息切れするところを知らず、港に出れば大海をも飲み干
 す気概に満ちた屈強な男共の汗の上に座すその黄金色の交易品が、波濤を静かに焦がしている。
 夜ともなれば、鈴虫を踏み潰したような軽快で軽薄な闇達が踊り狂い、それよりも深い闇を湛えた酒場
 の猥雑な灯火が喧噪の中の静寂のひとときで酔わせてくれる。
 男達は罵声の虜となり、女達はその男達の虜となる。
 肌に映える炎が夜の闇を舐め上げ、いつしか鼓動は勝手に戯けて踊り出す。
 艶を描き素を隠し、しかし時折見え隠れする素足に想いを乗せて、転がる瞳達の上を踏み歩く。
 楽しいな。楽しいぞ、これは。
 仏頂面の下に能面を被り込んで、虫も殺せぬような澄ました顔の女共の頬が、見事に情熱で焦げて
 おる。
 下を向いて力任せに祈りを捧げるだけの朴念仁の男共の背が、当て付けのように淫らに燃えておる。
 
 ほれ、幸せが、豊穣が、こんなにも広がっておる。
 
 『雄共はみな阿呆の焼き餅焼きじゃからの。そして雌もそんな事が嬉しい阿呆。
  どこを観ても阿呆ばかりじゃ♪』
 
 騙し、騙され、騙すことでなにかを得、騙されることでなにかを学び取る。
 『人というものは、聡いの。』
 なにかを欲しいと思うときには、それが得られないときのことも考える必要がある。
 なぜそれを得られなかったのかと考えれば、いくつもその原因を挙げることも出来る。
 ならば、いくらでもそれを元にして、欲したものに再び近づいていくことができるじゃろ?
 騙されたことに憤慨するのは至極もっともなことだが、しかしその怒りを嘆きに換えるよりも、金に換えて
 はみんかの?
 自分を騙した女を、今度はその失敗を元にして手に入れた知恵と金で買い取ってみんかの?
 不毛か? 不毛かもしれん。
 だが、それを不毛の大地で立ち尽くす孤独に於ける嘆きとして、なんとする?
 男と女は同じゲームの競技者じゃ。
 愛だの恋だのを求めて押し掛け押し付ける者は、ただの野暮じゃ。
 いやいや、愛や恋の名を翳して求められるものなどなにもありはしない。
 ただただ遊び、ただただ戯れ、その享楽と悦楽の中に芽吹く豊穣たる世界の奥深さがこそ、人の子を
 虜とするのじゃ。
 ただの契約としての愛だの恋だの、そんなもの、私はなんにも面白いとは思わぬな。
 結婚とは人生の墓場である、とはよう言うたものよ。
 生身の触れ合い無くして、掛け合い無くしては、その中に芽生える愛を感じる主体がありんせん。
 
 遊べ、遊べ 世界のすべてのままに
 
 
 
 
 ◆
 
 この熱気、素晴らしい。
 これこそ、幸福よ、豊穣よ。
 我が求めるに相応しき旅路よ。
 そしてこれこそ、私が神として司るに相応しき世界よ。
 商人達の自由奔放な交易に、内なる規律を与えよう。
 享楽の乱れ飛ぶ酔乱に満ちた人の子の膨大な熱情に、節度を与えよう。
 もっと、もっと、それらを楽しむためにこそ、制約を課してみせよう。
 明日もまた、元気に逞しく稼げるようにな。
  
 そして私も、再び私を見つめ直そう。
 
 私のことを、私は想う。
 いつでも孤独なる白銀の地獄に還りたいとおもう。
 誰も我を知らぬ。誰も我を知らぬ。誰も我を知らぬ。
 人知れず純朴なるままに、最後の一束の中で消えていくのをおもう。
 彼処ならば、誰もいない。
 我を知ることが出来る者の存在そのものが無い。
 我を知らぬ者がいない。
 私は賢狼ホロ。
 我の物語を誰も知らぬは、辛い。
 だが。
 今は。
 
 
 この商人としてロレンスと旅をするただのホロの存在そのものが、その影にある哀愁で以てそれを確かに
 世界に対して示していると、そう考えておるよ。
 
 
 あの白銀の世界は無くならぬ。
 だが、あの世界とこの世界は同じものじゃ。
 わっちは今、此処にこうして生きておる。
 凍てつく肌は煌々と燃え盛り、嘆きに満ちた鼓動は逞しく踊り。
 そしてなによりも、空の上に消えた絶望は今、耐え難いほどの希望となってこの大地を歩いておる。
 面白くて、楽しくて、堪らぬ。
 我による我の孤独との対面こそが、世界を豊かに茂らせていく。
 しかし私はその孤独をこそ味わいたいがために、その孤独を知り尽くしたいがために此処にひとりで在る
 訳では無い。
 すべては、遊ぶために。
 すべては、楽しい命を感じて生きるために。
 そのためにこそ、孤独はあるのじゃ。
 だから私は、北を目指す。
 あの白銀の世界、ヨイツの森を目指してひとり、旅を始めていく。
 そう。
 
 其処に至るまでの道を豊かに伐り拓き、幸せを求め、富を築き、考え、感じ、生きながら。
 隣に座る、荷馬車のなかのもうひとりの者と共に、な。
 
 はてさて、私の目的はどっちなのだろうな?
 言うまでも無いことじゃろ?
 孤独なる死とは、皆と共に生きることである、ただそれだけじゃ。
 もう私は、私の物語をするために旅をする必要を感じぬよ。
 それでも自分の悲しい物語を出来ぬ深い悲しみはあるじゃろう。
 だが。
 私はいくつでも、それを法螺話として旅の供にひけらかして楽しむことは出来るのじゃ。
 楽しい人生の肴に、ひとつ悲しくて阿呆らしい物語はいかが?♪
 
 
 
 『獲物を狩るとき、わっちらはたまに木の上に登る。
  木の上から視ると、意外な獲物の隠れ場所がわかる。』
 
 
 
 なにに囚われているのか、それをどうしても知っているのは誰か、知らぬ者はおらぬよ。
 問えばすぐ、答えは出る。
 ゆえに、問いを与える場所を変える。変えれば返ってくる答えも等しく変わる。
 この楽しき世界の中で、私は生きてみたい。
 それよりも勝る欲があろうはずも無い。
 その甚大な欲を恐れ、それを封じ込めてきたなにかが、きっとあの白銀の中には在っただけさ。
 力を尽くし、知恵を巡らし、感性を磨き、稼ぎ、働き、求めていきたい。
 人の子の、その世界の果てを知りたいという意欲そのものが、人の子を救っていく。
 世界の果ては、辿り着くべき白銀の世界は、既に私達の胸の水底にあるのじゃな。
 
 
 『今度はどこへ?』
 
 
 ロレンスの奴、ほんに熱心な奴じゃ。
 ほんに、人の子は面白い。
 自らの伐り拓いた豊穣な世界に、無邪気に全霊で飛び込めるのじゃからな。
 どれ。
 わっちももう一杯やったら、往くとするか。
 
 この胸の水底の孤独に、豊かな美酒を添えて、な。
 
 
 
 さて、その孤独が求める酒は、何処にあるのかや♪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ◆ ◆
 
 経済アニメ? 
 剣と魔法の無いファンタジー?
 よしきた。
 それでいこう。
 
 あんなに一杯市には物が溢れ、海には交易品を運ぶ船がずらりと並び、その街へと繋がる道には、
 人の子よりも多い荷馬車がほろほろと流れ往きかっている。
 物欲金欲食欲性欲、ありとあらゆる有象無象の豊穣無限な欲望渦巻く世界が、こんなに明るいと
 はね。
 大体、欲望とか金とか儲けとか、そういったキーワードは良い意味でも悪い意味でも指弾される対象
 として描かれることが多く、それらの持っているエネルギーそのものが持っているなにかを描くものは、
 そうそうお目にかかれません。
 小説などではいくらも読んだことはあり感銘も受けますが、しかしことアニメに於いて、ここまできっぱりと
 金儲けを謳歌する作品に出会ったことはありませんでした。
 実に、素晴らしい。
 というより、観ていてウキウキを覚えるを禁じ得ません。
 アウトロー的にスリルに満ちた冒険的稼ぎを愉しむ、という感じでは無く、ごくごく正統的な、そのまんま
 な商売の持つ魅力、いえいえ、それが人に取っての本当の魅力をこそ描いている。
 ずらずらと商談に関する入門的な知識が並べられていきながらも、別にそういった知識を愉しむという
 感じにもなっていません。
 ただただ、「稼ぐ」ということの意味と価値を、雄大に豊穣に描いていこうという、そういう逞しくも野心的
 な意志が感じられて、私はただ静かに感動を覚えていきました。
 
 そうですよね、自分の力一杯に、知恵を精一杯振り回してお金を稼ぐって、それだけですごく楽しいです
 よね。
 
 どんな能力水準の人だろうと、努力して生きようとする事を放棄しては、人生の楽しみを放棄したに
 等しく、その行為のために金儲けを否定する言葉を醸成していては、なにも実りはしない。
 人の働きが物を生みだし、その物に価値を付けることでそれを作り出した人達がなにかを得、だからこそ
 頑張ろうとすることが出来る。
 金とか貨幣とかそういうものは、人が頑張って生きることの出来る外的根拠となりうる、そういう意味では
 「神」と並ぶ、人類の偉大なる発明品のひとつだと私は感じています。
 金で買えない物は無い、というすごい言葉がありますが(笑)、それもそう言った意味では名言です。
 手に入れた金とは自らの努力が顕現した物であり、また自分の他に、其処に他の人達がいて、その人
 達との関係があり、その中で認められることの証をそのまま顕した物でもあるのです。
 金という物質そのものに意味は無いのは当たり前で、その当たり前のことを差して金儲けに勤しむ者の
 品性なり人格なりを揶揄する者のその行為こそ、最も虚しくまた不毛なのです。
 そんな揶揄をしている暇があるのなら、稼げ稼げ♪
 色んなことをやって、色んなことを考えて、それを試して物にして、さらにはそれを周囲に認めて貰えた証
 としての金も手に入れて。
 金で買えない物は無いと言えるからこそ、金の意味がわかるのです。
 金に囚われないというのは、金を求めないということとは全く違う。
 金を求め、そういった物や価値の動きの中に生きるということそれ自体が、人との繋がりの中にあるもの
 をなによりも求めているのです。
 金はただただ、努力の顕れにしか過ぎない。
 だから、金を否定する必要も無く、また金しか無いと宣言する必要も無いのです。
 なぜ金を、それを求めることを否定するのか。
 その否定を行うことをこそ見つめていけば、金を、それを求めることの意義がはっきりとみえる。
 
 逆に言えば・・・
 そうやって金で買えない物は無いと言い、一生懸命生きる者だからこそ。
 金で買えない物の素晴らしさを知り、それを手に入れることが出来るのかも知れんの♪  (ホロ風に)
 
 もっとも、この「狼と香辛料」という作品は、金で買えない物は無いなんて豪語することも無く、
 ただひたすら稼ぐことの意味を感じながら、日々稼ぎ続けているのですけれどね。
 私も無論、それにしっかり便乗して(笑)、色々なことを考えさせて貰い、そして今回書かせて頂きました。
 日々の労働の価値と意味を、純粋に金儲けにあるとみつけたり。
 欲しい物を得るために色々と頑張る。
 そして。
 自らの限界を知りたくて、そしてさらにその先まで自分を伸ばしたいと、そういうことの成果を嬉しくも顕し
 てくれるものとして、お金はちゃりんという世界で一番美しい音色を奏でてくれるのです。
 人の世の幸福とは、その美しき音色の中にあるとみつけたり。
 まー今は紙幣ですけどね・・・・・ってむしろカードか。(笑)
 私は金貨とか銀貨とか、そういった手触りのある方が好きですね、実感も得られやすいですし♪
 ・・・・今度小銭に崩してこようかな。 (阿呆 笑)
 
 それでは、この麗しき金儲けの物語を祝しつつ、今回はこの辺りにて。
 また来週お会い致しましょう。
 
 
 
 P.S: 
 今回の私的ベストシーンは、ホロがロレンスから借りた銀貨で買ったリンゴにロレンスが手を付けたときの、
 このホロの一言。
 『わっちのじゃ!!』
 ああ、なんかもう、最高。 (溜息)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                              ◆ 『』内文章、アニメ「狼と香辛料」より引用 ◆
 
 
 
 

 

-- 080125--                    

 

         

                               ■■日常のいる非日常■■

     
 
 
 
 
 『ごめん・・・・帰らないと・・・・』
 

                              〜もっけ ・第十六話・静流の言葉より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 『ある日の午後、音が流れてきた。』
 
 
 私には、変えたいものがある。
 どうしても、それを変えたかった。
 嫌で、嫌で、堪らなくて、だからそうでは無い自分になりたかった。
 そう、私は私が嫌いだった。
 でも、そこに憎悪は無かった。
 嫌な自分にも、それを変えられない自分にも、誰も助けてはくれない世界にも。
 私は、好きだった。
 自分が此処にいて、世界が其処にいることが。
 だから、変わりたいと、変えたいと思った。
 憎悪だったならば、私はとっくの昔に私の命を奪い世界を壊していたかもしれない。
 ううん。
 憎悪も、あったのかもしれない。
 でも。
 それは、私の一部にしか、過ぎなかったんだ。
 
 私は、今の私も好きになれるかもしれない。
 
 あらゆる可能性を探った。
 どんな嫌なことでも楽しめる自分を、どんな苦しみでも心地良く変えていける自分を。
 世界のすべてを楽しめる自分になりたかった。
 好き、好き、みんな大好き。
 怠けていても、逃げ出してしまっても、それでもそこから楽しめるように。
 絶対に、怠けや逃避に囚われることの無いように。
 どんな自分になっても、楽しめるように。
 だから・・・
 私は、安心できるのかもしれない。
 
 だから、なにもわからなくなったのかもしれない。
 
 
 いつしか私の目の前には、世界のすべてが、音になって転がっていた。
 
 ソラバヤシが、私の耳を閉ざして、いった。
 
 
 
 
 ◆
 
 静流は、開明的な人です。
 自分がモノを視ることが出来、また多くの人がそのモノに憑かれているのを日々観てもいるがゆえに、
 人というのが実に簡単にひとつの見方感じ方に閉じてしまうことを知っています。
 だから自分も常にそうなってはいないかと疑い、その錬磨があるからこそ静流はそういったモノに取り憑か
 れてさえも、自分がそれに憑かれているということを認識しようとすることに、必ず至るのです。
 そういった静流ですから、周りの人達の心無い発言や偏見、また隠された悪意というものにも非常に
 敏感です。
 静流は、わかってしまうのです、そういうモノが、よく。
 そしてわかるからこそ、それらの事に対して、自分が脊髄反射的に反応することもまた、自分もその「反
 応すること」に囚われてしまっている、ということにも気づき、ゆえに常に冷静に一歩引いた距離を取る
 ことが出来ています。
 
 仲良く会話しているふたりの生徒の上に、噛み付き合う蛇のようなモノが視えれば、それは静流にはそ
 れがふたりの欺瞞に満ちた心の顕れてとして受け取れています。
 心の中では相手を蔑んでいるその人達を視て、静流は嫌な気持ちになりますが、しかしそれと同時に、
 その嫌な気持ちのままにその人達のことを捉えているのなら、それは結局自分もそれに囚われてしまって
 いるのだと、そう静流は認識します。
 『些細なモノも気にしちゃう、私の方にも問題アリかな。』
 そうして静流は、日々自らを戒めているのです。
 
 そんなある日、静流は他の人達には聞こえない、モノ達の奏でる音楽が旧校舎の音楽準備室から
 聞こえてくるのを感じます。
 白く長い尾をひいた人魂のようなモノが、楽しげにその部屋の中では踊っています。
 そして、その部屋の中には誰かが寝転んで本を読んでいたのです。
 しばらくして、廊下にて、先ほど視た白い人魂のようなモノが巻き付いている女子生徒を見かけます。
 その先生にお説教を喰らっている生徒の名は、信乃によると小関といいました。
 静流は、聞こえてきたあの音楽の楽しさの大元にいたあの白いモノのイメージで、その生徒を見つめる
 のです。
 信乃によれば小関は評判の悪い生徒で、遅刻はするわサボるわ他の生徒に因縁つけるわと、なかなか
 の問題児なのでしょうけれど、それより先行したイメージがあるゆえに、また信乃の話がただの上辺だけ
 の評判でしか無いと判断できるがゆえに、悪い印象を小関には抱かなかった静流。
 そして純粋にその小関の評判の内実を吟味しようとします。
 特に小関が幻聴を聞いているというくだりに関しては、さきほど彼女に憑いていた白いモノが関係して
 いるのかと考え、興味を抱くのです。
 そして、再び訪れた音楽準備室の中で、小関と出会う静流。
 そして、つい、なにか音楽が聞こえてこない?と小関に訊いてしまいます。
 目を輝かせて反応する小関。
 『あんたも、感じる!?』
 そう答えられてしまえば、静流は「ええ。」と答えるしかありません。
 戸惑う静流。
 静流は、自分と同じようになにかが視えたり聴こえたりする人では無い、ということを確認するためにこそ
 訊いたのですから。
 しかし、よくよく考えれば、ならばなぜ自分はそれを確かめようとしたのかと、静流はすぐに考え、そして
 どうしようも無く理解してしまうのです。
 ああ、私あっさりと、自分のことをわかってくれる人が、同じモノを視たり聴いたりする事が出来る人が
 欲しいって気持ちのままに動いちゃったんだ、と。
 なぜそう動いてしまったのかを、静流は今、確かに感じています。
 
 あの音楽が、聴こえているから、と。
 
 自分がそういうモノが視えたりする事がバレてしまったとしても、それでもそれに責任を以て楽しめる事
 が出来るのならばいいのではないか。
 静流は自分が拘っている事、つまり自分の体質については秘密にするという事に自分が憑かれている
 事は承知だし、そしてそれでも良いそれこそ私のしたいことなのだからということで、その憑き物の呪縛
 から逃れ主体的にそれを行うことに成功しています。
 そしてそれは同時に、その自分の体質を秘密にするということは、静流の中にある意志や可能性の
 うちのひとつでしか無い、ただの「趣味」のうちのひとつとして変換されています。
 だから私は、別に自分の秘密を話してしまう自分でも、それなりにやっぱり楽しめるんだ。
 今回まさに静流は、「ノリ」で自分の秘密を漏らしてしまいました。
 しかしそうなった以上、もはやそれで楽しむのみ、ううん私は今、この小関さんって人をもっと知りたいって、 
 そう思うんだと、そう静流は思い小関と通じていくのです。
 これが、今回のお話の発端なのです。
 
 
 
 ◆
 
 静流には、周囲の小関に対する想いが、ただの偏見にしか過ぎないということを理解しています。
 そしてでも、その周囲の人達がそうすることの理由もわかっているのです。
 安直な評判、まさに「空騒ぎ」で以て他人の存在を楽しむため。
 自分の安定した今を乱されないように、そうして自分の日常を守るために、小関さんのような「異端」
 を軽い手触りで排除しようとするのです。
 静流はしかし、それに憤慨するということは無いのです。
 なぜなら、その周りの人達の日常そのものが悪い訳が無いからです。
 誰にも、その人達の当たり前の生活を壊す権利は無いと考えるからです。
 だって私も、そのみんなの気持ちはわかるもん。
 でも、と静流は思うのです。
 それなら、小関さんもまた、そうだよね、と。
 小関さんだって、自分の「普通」の生活を全うしてるだけなんだもんね。
 そして静流には、そのそれぞれの「普通」がぶつかり合うことで生じる争いには、興味を示さなかったので
 す。
 ただただ、感じていく。
 そしてそれが出来るのは、小関もまた、自分自身の主張を周りに認めさせようと奮闘する、そういう
 タイプでは無く、ただひとり静かな音楽準備室で、自分だけに聞こえる音楽を聴き、自己流で好きな
 ように自分でも演奏するという人であると、静流は確かに感じたからなのです。
 静流には、小関を「救う」などという感覚はありません。
 ただただ、その小関の孤独で不思議な世界に興味を示しただけなのです。
 いつしか静流は、自分のことをわかって貰いたいという思いでは動いていない自分を感じるようになりま
 す。
 ただ小関と過ごす時間が楽しく、ただ静かに聞こえてくる音楽に耳を澄ませ、そして小関の持ってきた
 変わった音楽を聴かせて貰ったり。
 それだけで静流はもう楽しめていて、そしてそれこそが目的になってきていることに気づくのでした。
 小関は語ります。
 ああ、ただ私は自分の好きな事をやっていきたいだけなのにな、と。
 好きな音楽を聞いたり演奏したりするために吹奏楽部に入ったのに、使う楽器を決められたり、先輩
 後輩の作法を強要されたり、とにかくその吹奏楽部という集団ありきなものにうんざりした小関。
 ただ音楽をやりたいだけなのに、なぜ型にはめられなければならないのか、なぜそうしなければ批判され
 怒られなければならないのか。
 なぜ、みんなそれをおかしいと思わないのか。
 それは小関にとっては、音楽のみの問題なのでは無いのでしょう。
 なんでもかでも、なんで既成のものに合わされる必要があるのか。
 そういう「協調性」が社会に出てから必要だからと言うが、それが詭弁であることは誰もがわかること。
 だってあいつら、「協調性」という名目振り翳して、既存のものを押し付けようとするだけなんだからね。
 はっ、誰が空気なんか読むかよ、そんな知性の欠片も無い「雰囲気」への盲従なんて誰がするもんか。
 小関はなにかを学びたい訳では無く、ただ自分の感じるままに音を楽しみたいだけ。
 人生に関しても全くそうで、ただ此処にある自分のままに生きたいだけ。
 
 静流は、それに感応するのです。
 「普通」を、みんなとの協調を求める静流だからこそ、よくわかるのです。
 
 そう、非常に多くの人が、そして自分自身もそうした「普通」に囚われてしまっているということに。
 本来人は、小関さんのようにあるべきだったのじゃないかなぁ。
 誰かが初めに、誰かになにかを強制しようとしたから、「普通」っていうのは生まれたのじゃないかなぁ。
 静流は思います。
 自分の可能性を。
 自分が此処にいて、目を閉じ耳を澄ませば、どこまでも広がり深まっていくことが出来、あらゆるものを
 感じて楽しんでいくことが出来るということを。
 それが自分には出来ると思うからこそ、そしてそれこそが本質であるからこそ、「普通」を求めることが
 出来るということを。
 そう、静流からすれば、沢山の人達がその「普通」を強要することで相手を支配しようとしている、
 そのための絶対的なモノとしての「普通」を利用しているように視えるのです。
 純粋にひとつの個人的「趣味」として「普通」を求めている静流だからこそ、そう憂うのです。
 私はただ、小関さんと同じように、自分の好きなように「普通」を、みんなとの協調の中での生活を
 求めてるだけ。
 だから私が小関さんをその「普通」へと導こうとするのは、驕りということ。
 その事を静流はゆっくりと噛み締めていくのです。
 
 『でも、音楽嫌いじゃないから。』
 
 吹奏楽部にいられなくなった小関が、それでもそう言える。
 そのことの小さな奇跡、そして偉大な「当たり前さ」を静流は静かに感じていくのです。
 小関の周りを嬉しそうに飛び回る、あの白い尾をひいたモノが静流にそれを感じさせていく。
 私、小関さんの音楽に触れてみたい・・
 『普段の小関さんはあまり人と話さないけど、ここで会う彼女はとても楽しげで、一緒にいると私も楽しく
  なる。』
 自分ひとりではままならないときもあった、可能性の拡大。
 しかしふたりでいれば、それは意外なほどにその拡大の力を逞しくすることが出来る。
 次はこれに挑戦してみよう、こういうのもあるよ。
 静流は、小関の気軽でさりげなくかつそれでいてしっかりと何かを手に持たせてくれる言動に動かされ、
 そしてゆっくりと、しかし確実に自分の世界を広げていけたのでした。
 自分だけじゃ、ただの妄想で終わったかもしれないものも、ちゃんと形を持って持続的に思い描ける
 ようになるのよね。
 どこまでも広がっていく世界の幸せを、私はずっと確かに信じることが出来るの。
 小関は、静流にとっての「自分なりの世界」の外的な根拠になったのです。
 小関と一緒に聴く音楽があれば、どこまでも行ける気がする静流。
 
 
 しかし。
 静流は、自分が「それだけ」になっていることを、感じずにはいられなかったのです。
 
 
 信乃に、最近私達との付き合い悪くなったよねと指摘される静流。
 信乃や芙美達からすれば、小関は札付きの不良少女であり、それが偏見であろうとなんであろうと
 構わずに、そういう風に同じ対象にレッテルを貼り付ける行為自体を楽しみ、その楽しみを共有する
 友人のひとりとして静流はいる訳です。
 静流が小関の側に「堕ちる」ことは、静流の友人としては阻止したい事なのです。
 当然、静流もそれを敏感に感じます。
 しかし、少なくとも信乃達が自分達がやっていることはそういう事だという認識を持ってやっている訳では
 無いことは見えており、単純に評判の悪い生徒と付き合って静流まで不良になってしまうことを、友人と
 して真摯に憂えてくれている事もわかるのです。
 そこで信乃達の小関に対する偏見を暴いたとしても、それで解決する訳では無いことを静流は理解し
 ています。
 なぜならば、げんに信乃達との付き合いは疎かになっているのですから。
 そしてなによりも、静流には小関の周りに浮かぶモノの姿が視えているのです。
 モノがいるってことは、小関さんはそれに憑かれていて、私もそれに憑かれてしまうのでは、そしてそれに
 憑かれるということはなにか危険なことはないか?と静流は考えるのです。
 
 既に、それが静流の小関に対する偏見の始まりとも知らずに。
 
 危険の内実を暴きそれに恐れを抱くのでは無く、内実を暴かぬままに「危険かもしれない」という可能
 性があることにこそ恐れを抱く。
 いや、それが可能性であるがゆえにこそ、いくらでもその内実を捏造して入れ替え続けることも可能で
 あり、そしてそれゆえにそこには紛れも無い偏見が生じていく。
 『モノの音楽が聞こえるってことは、小関さんも霊媒体質なのかな・・?』
 静流が感じている「なにか」の本質は、自分が今「それしか」やっていないということの不安にあります。
 そしてその不安を解消するためにこそ、小関を否定する理由を作ろうとしている。
 よくあることです。
 静流は、信乃達との付き合いの諸々が疎かになっているかもという不安に負け、小関との付き合いそ
 のものをやめようとしてしまいます。
 静流は、今回なぜモノ達の音楽を聞いたのでしょうか?
 それは、静流が「自分なりの世界」の可能性を求めていたからです。
 自分が今求めている「普通」が、「それしか」ないということに不安を感じたからこそ、自分のその他の
 可能性を渇望したのです。
 お祖父ちゃんは、静流にその音楽は危険じゃないの?と初めに訊かれ、こう答えました。
 
 『音自体はな。』
 
 信乃が語る小関の経歴は、小関自身から直接聞いて大体知っています。
 同じことなのに、どうしてこんなに違う風に受け取られるんだろう。
 静流は小関に対する周囲のそれが偏見にしか過ぎないことを知っています。
 けれど、確かに小関が数々の悪行をやってきたのも事実です。
 小関にも言い分がありますが、しかし確かに信乃達「普通」側からすれば、それらはすべて「我慢」
 すべきことなのに、それをサボっているだけと受け取るモノなのです。
 そうよね・・やっぱり授業はちゃんと出なきゃ駄目よね・・
 音楽準備室でふたりだけで授業をサボって、楽しい世界を広げていくことが出来るのなら、やっぱり
 授業に出ることも楽しめなくちゃいけないんじゃないのかな・・・
 小関さんはやっぱりモノに憑かれてて、そこから抜け出せなくなっちゃってるんじゃ・・
 『モノ自体は悪く無いのかもしれないけど、小関さん大丈夫かな?』
 そんな静流を視て、お祖父ちゃんはこう言うのです。
 
 
 『大体そりゃ、モノのせいじゃ無ぇ。
  のめり込んでサボってる、そいつの性根の問題だ。』
 
 
 
 『それより、お前だ。』
 
 
 『友達の心配したり、友達と遊んどるのは構わんが。
  お前も夕暮れの鐘が鳴ったら、ちゃんと帰ってくるんだぞ。』
 
 
 
 静流は未だ、自分が「ソラバヤシ」に憑かれていることに、気づいてはいません。
 
 
 
 
 ◆
 
 音楽準備室に行くのを避け始めた静流。
 小関は静流に誘いをかけますが、しかし静流は無言でそれを断ります。
 授業にも出るべきだと主張する静流を、別に平気だけどとあっさりと無視する小関。
 『なぁんだ、あんたも他の奴と変わんないね。』
 静流は、ぞっとします。
 そして、『あんた、あそこを独り占めしたくなった?』という小関の鎌かけに思い切り脊髄反射してしま
 うのです。
 小関の背後に、どす黒い尾をひいたモノを視る静流。
 やっぱり・・・取り憑かれてるんだ・・
 これで、静流は小関から解放される大義名分を得てしまうのです。
 そして静流は、そうして人に視たモノの姿のままにその人のことを判断してしまっている、その自分の姿に
 気づかないのです。
 そのあと小関はしばらく学校に来なくなってしまいます。
 静流は、あとは小関の心配をするだけでいい。
 他の生徒達が小関の悪口で盛り上がるのを空騒ぎと感じていながらも、しかし自分も彼女らの側に
 いるということを自覚していない静流。
 ただただ、静流は小関だけとの時間しか無かったことの不安から逃げただけ。
 そしてそのために、「普通」を利用した。
 「普通」だけしか無いこともまた不安であるがゆえに、それらに軽蔑の視線を送りそこからも距離を置く。
 
 静流の世界は、飛躍的に深度を増していきます。
 なにもかもが楽しい音楽に聞こえていきます。
 ゆったりしても、怠けても、真面目でも、なにやっても、ただ楽しく。
 音楽準備室で、静流はソラバヤシを視ます。
 様々なモノ達が歌い踊り奏で、楽しげな空気が出来上がっています。
 感度が飛躍的に上昇しているのを、静流は感じます。
 今ならきっと、なんだって楽しめる。
 もう、小関さんがいなくっても。
 
 『私じゃ、無理か。』
 
 自分ひとりでも出来るということを確信するために投げつけたその言葉が、闇を開く。
 
 『黒いのも白いのも、同じだったんだ。』
 初めに視た小関に憑いていた白いモノが、のちに視た黒いモノと同じモノであることを、この楽しい音の
 空間の中で静流は理解していきます。
 そっか、あれは私の偏見だったんだ。
 私、また囚われてたんだね。
 良い感情も悪い感情も、それは等しく私自身。
 それ自体に善いも悪いも無いんだよね。
 『みんな・・楽しそう・・・』
 其処に、小関さんも顕れます。
 そうだよね、小関さんも認められるんだよね。当たり前だもん。
 瑞生も、モノが嫌いなお母さんも、「普通」の友達の信乃達も顕れます。
 あ・・・わかっちゃった・・・・・私・・・
 みんな・・・同じなんだよ・・・
 みんな当たり前・・・・
 どんな人でも・・どんな事してても・・人は同じ・・
 小関さんが不良だとしても、それでもこの「音楽」を通じてならみんなとひとつになれるし、そうして大きく
 構えて「自分なりの世界」を広げて深めていけば、みんながそうすれば・・・
 あ・・・みんな・・・・踊ってる・・・・
 そうだよ・・・・これだったんだよ・・・・・
 瑞生が・・・・あんなに楽しそうに・・・・・・・「みんな」の中で踊ってる・・
 小関さんも・・・・・・私も・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
 『こんな気分・・・・・久しぶり・・・・』
 
 
 
 
 
 あ
 
 
 
 
 『 お祖父ちゃん   お祖母ちゃん 』
 
 
 
 
 
 
 耳、澄ませてみろ
 
 
 
 
 
 
 チャイムの音が、深く、深く、深く。
 胸に、刺さります。
 
 
 
 
 『帰るね・・・・私』
 
 
 
 
 
 
 ◆
 
 今回のお話は、一体どういう事だったのでしょうか?
 私には、よく、よーくわかります。
 「普通」は、絶対ではありません。
 無論、それは求めなければいけないものでも無ければ、遵守しなければならないものでもありません。
 その意味では、静流の感覚であるところのように、「普通」とはただ「個人的趣味」の範疇のものです。
 別に、「普通」なんぞ求めなくても構わん。
 みんなと同じにせにゃならん理由などどこにも無い。
 KY? なんだそれは?
 ああ、そういうことか。
 それはお前、随分と狡猾にサボることを正当化したもンだ。
 が、問題はそれじゃ無ぇ。
 問題なのは、その振り翳される横暴な存在としての「普通」の存在を的にして、それを否定することで
 しっかりとサボっている、その「普通」の否定者その者の性根にこそあるのだ。
 いいか? 静流。
 
 内的規範を、無くすんじゃ無ぇぞ。
 
 「普通」だとか「常識」だとか、それそのものは限り無くどうでも良いものだし、それを他人に押し付けて
 事足れりとする事は論外として捉えて良い。
 だがそれと、お前自身がお前を律することは、全く別の事だろ?
 その、小関、だったか?
 その子が授業をサボるときに、一体なにを考えていると思うか?
 既存の常識なりなんなりそういうものを押し付ける、そういうものの権化である教師になど教わることは
 なにも無いと、そしてそんな事に囚われている暇があるのなら、自分の時間を育てていくべきだと、
 そう考えているだろう。
  だがそのときその子は、「授業を受ける」ということと、「教師と向き合う」という事から明確に逃げ、そして
 それらの事を自分がやるべきこととして定め、それを実行することを怠けているのだ。
 教師達は愚にも付かない事しか言わない、押しつけがましい事しかしない、だから教師達との人間関
 係を結ぶことをやめるのは、それはそういう口実を設けてそれをサボっているだけにしか過ぎん。
 結局その子は、自分が「今」やりたいことしかしなくなるだろうし、そうなってしまえばもう、それは怠け者
 以外の何者でも無くなってしまう。
 モノは関係無ぇ。
 なぜなら、悪いのは、それを選択しているのは他ならぬその子自身であり、そしてなによりもその子自身
 がその事をうすうす感づいているからだ。
 そして、その感づいたことを握り潰して自堕落に過ごす自分を肯定するのを選んでいる。
 教師の言う事を聞けと言うのでは無い。
 「常識」なり「普通」なりを学べとも、それを遵守せよとも言わぬ。
 だが、それらのものと向き合っていくことは必要であり、それが無いなら・・・
 そうだな・・・
 
 逆に、自分を失うことに繋がるだろう。
 
 自分なり、というのはなかなか怖い罠です。
 なぜなら、それらを司るのはすべて自分自身であり、それゆえにどんな怠けがそれを蝕むかはわからない
 場合もあるからです。
 ならば、その怠けをすべて理解し、たとえ怠けてしまってもそれでもちゃんとやっていけるように、そう強く
 なれば良いのでしょうか?
 それ自体が、既に怠けなんだよ、とお祖父ちゃんは言うのです。
 今回の静流が良い例です。
 最終的に静流は無害な「ソラバヤシ」に憑かれ、そして有害かつ「虚無」なる存在に変えてしまいました。
 静流は確かに体感的感覚面に於いてひとつ成長し、ただの前向き志向とは違う、体感として実際に
 あらゆることを楽しめる事が出来るようになりました。
 
 だが、お前は楽しさに溺れている自分には、気づけなかったろ?
 
 別にお前の感性が鋭くなるのは構わんさ。
 だがお前は、なんのために此処にいる?
 あらゆるものを楽しむためにか?
 そうか?
 じゃあ。
 そうしてあらゆるものを楽しむお前は、何処にいるんだ?
 お前は、「楽しさ」そのものに溶けちまったんだ。
 楽しむ主体はお前だろ? 静流。
 今のお前は、そのお前を維持できるか?
 お前はいつの間にか、そのなんでも楽しめること、それ自体に飲まれ溺れ、結局楽しむことしか出来なく
 なってるだろ?
 辛さも、苦しみも、絶望も、悲しみも無い、そこにどうして楽しさだけがいられるんだ?
 自分を縛れ。
 きつく縛れ。
 だが、縛ることに囚われちゃならん。
 さりげなく、当たり前のように、縛れ。
 そう、習慣だな。
 お前の中の内的規範、倫理、なんでも良い。
 そういったものはな、すべてお前が「なにか」とすっかり向き合う事自体を支えるもンなんだ。
 自分なりに目標を決めて、自分なりに努力して、自分なりに楽しんで。
 お前はそうしてるだけなら、お前はどんどん「自分」から離れてくぞ。
 なぜならば、それら「自分なり」というのは必ず怠慢的「甘さ」や「激烈さ」から出来ているからだ。
 お前は自分で自分を律しているつもりでも、それは割と甘いものであったり、そして同時に甘さを感じ
 取るがゆえにこそめくらめっぽうにそれに過剰反応して、無闇な束縛を与えそれに囚われちまう。
 人は、自らで自らを律することなどできん。
 だから、神や仏、普通や常識ってもンがあるんだ。
 無論、神仏や常識やらが絶対な訳では無く、それらはただのモデルケースにしか過ぎん。
 ただお前はそういった外的根拠を元にして、自分を律することが出来るだけ。
 その律し方が既存のものとズレている事は、全く構わない。
 だが。
 自分のそれが、既存のものとズレて、それにより周囲との軋轢が生じている事から目を逸らせるべきで
 は無い。
 
 そうだ。
 避けようと、逃げようと怠けようとする自分を律することはすべきだからだ。
 
 周囲に合わせることに励み、身を削り、その中で生きていくことしか出来なくなる人々。
 周囲に合わせることに疲れ、さっと身を引き、その外で生きていくことしか出来なくなる人々。
 どちらも、主体性を失っているのです。
 その主体性を培い、そして意識するためにこそ、内的規範は必要なのです。
 健全な肉体に健全な精神が宿り、健全なリズムにこそ健全な生命が営まれていく。
 内的規範の拠り所として、外的根拠を必要とすることは意味があります。
 無論外的根拠に囚われてしまっては元も子もありませんが。
 静流は真面目に学校に通い、真面目に授業に出て、真面目に夕暮れの鐘が鳴ったら帰ってくる。
 勿論、学校に通う事の意義、授業に出ることの無意味さ、夕暮れの鐘で帰ることの閉鎖性について
 考えることは有りでしょう。
 しかし、それらの事を考えつつも、しかし体はしっかりと真面目にいつも通りの事を為していく。
 
 
 主体としての「日常」。
 
 それこそが、今回お祖父ちゃんが静流に求めたもの。
 
 
 いつもと変わらぬ、いえ、変えない努力を支払った末に成り立つリズム。
 自らの中の不変があるからこそ、様々な変化に身を委ねることも出来る。
 ただただ変転するだけでは、自分を失ってしまう。
 「変わることだけ」しか出来なくなってしまう。
 規範を作れ、ルールを守れ、リズムを刻め。
 だから、それらを破ることが出来る。
 破ることの楽しみが生まれる。
 そして、だからこそもっと楽しみたいと思う。
 じゃあ、どうするか。
 
 破いたものを元に戻して、また破ればいい。
 
 
 『ただ聞くだけじゃなくて踊ったりして、とっても楽しかった。
  たまにはこういうのもいいなぁ。』
 
 
 破るのも私、破られるのも私。
 主体は、私。
 だから、帰ろう。
 私へ。
 いつもの、私へ。
 破れたものを丁寧に戻して、ね。
 破れたものをさらにそのまま破いても、それはさらに細かく破けていくだけ。
 それはやがてどんどんと千切れて小さくなり、最後には消えてしまう。
 だから、帰るのですね、内的規範がしっかりと支配する日常へ。
 その日常に囚われることは、たぶんありません。
 なぜならば。
 
 私達は、もう、非日常が其処にいることを知っているのですから。
 だから私も、日常も、此処にいるのです。
 
 『ノリが悪くて、ごめんね。』
 周囲の「普通」に合わせる事は大事だけど、それで自分のリズム崩しちゃったら意味無いものね。
 周囲の「普通」から離れるのも大事だけど、離れるのが目的になってリズム崩したら意味無いものね。
 なにが、サボり、なんだろうね。
 どちらの大事なことからも目を逸らすことかな。
 どちらの大事なこととも向き合うための主体を失うことだね。
 
 
 
 『ねぇ、セッションしない?』
 
 
 
 
 『私は、聞いてるだけでいいよ。』
 
 
 
 
 私は、変わり続けるよ。
 もっと色んなことを楽しむことが出来るようになりたい。
 だから。
 
 そのために、なにかを楽しめる自分を、しっかりと作りたい。
 
 ソラバヤシが、今日も聞こえてくる。
 いいなぁ、この感じ。
 『聞いてる分には、本当に楽しい。』
 
 
 
 
 『でも。』
 
 『これをただの空虚なモノにしてしまうかは、私達の心掛け次第なんだ。』
 
 
 
 
 私は、日々自分を律していく。
 破いても破いても、強靱に元に戻る日常を得るために。
 「普通」からも「常識」からも力を借りて。
 そして。
 
 小関さんとのささやかなひとときと。
 小関さんという「普通」の外にいる存在からも、想いを貰って。
 
 
 みんなが、待ってる。
 
 
 
 
 ああ・・楽しみだなぁ
 
 
 
 
 
 
 以上、第15話「ソラバヤシ」の感想でした。
 これ以上なにも書けません。
 書かなきゃ「もっけ」放映終了それまでよと脅迫されても書けません。
 ましてや書かなきゃ死ぬと宣告された程度じゃ絶対書けません。
 これ以上、なにを書けというのか。
 書き切りました。
 書くべきはすべて書いた、あとは、頼む。
 そして、あとを託された私が次週にてこんにちわですよ。
 一期一会、ですね。
 そしてあっさりと同じ人と二回目の出会いがある。
 もう二度と会うなって意味じゃ無いですよ。
 その人とはこれが最期だ、だからこの最後の出会いにすべてを込める。
 「今」こそ、すべて。
 でも。
 その「今」は、すぐその次の瞬間にも訪れている。
 一瞬前の「今」のときにはこれが最後であとは無いと考えているけれども、気づけばもうまた「今」に
 なっている。
 それの繰り返し。繰り返し。ああもう、嬉しいくらいに繰り返し!
 んで、それが人には必ずわかっちゃうんだよねぇ!
 なにを言っているのか自分でもわからなくなってきました。
 もうなんか、感動とか凄いとかそういうんじゃなくて(泣いたけど)、すーっと、なにかがすべてはまった感じ。
 しっくりきちゃったよ、色々と。
 ありがとうございました。
 いいモノ視せてもらったわ。 (笑)
 
 ということです。
 なんだか滅茶苦茶不思議な気分です。
 最高です。もうなんか最高です。
 でも割と、落ち着いてます。怖いくらいに落ち着いてます。
 こういうとき人はなにかが出来るようになるのです。
 と、来週まで信じていられればよいのですが、次回の「もっけ」感想のためには。 (笑)
 
 それでは、また来週。
 お楽しみに♪w
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 ◆ 『』内文章、アニメ「もっけ」より引用 ◆
 
 
 
 
 

 

-- 080123--                    

 

         

                                 ■■ 雪の王子様 ■■

     
 
 
 
 
 ごきげんよう。
 
 そして、必殺箇条斬り。 (手抜き)
 
 
 ・かなり遅いけど、「地獄少女」続編制作決定の報、ゲットー。
  まだやるんかいといいつつお約束の展開に。
 
 ・少し遅いけど、「マリア様がみてる」続編がテレビアニメとして放送決定の報、ゲットー。
  また神様を信じたいお年頃に。
 
 ・「ガンスリ2」がだいぶ盛り返してきたようです。 ピノッキオが・・
 
 ・「狼と香辛料」が最高のようです。 ロレンスが・・
 
 ・「狼と香辛料」はそれでもホロの魅力が当たり前のように急上昇のようです。 予定調和。
 
 ・「もっけ」は相変わらずだそうです。
 
 ・「アリア3」は放送時間変更とかがあって録画に失敗したことで、モチベーションが下がっている模様。
 
 ・最近ドラマをちょこちょことつまみ食いしました。
 
 ・「ハチミツとクローバー」・「貧乏男子」・「斉藤さん」・「エジソンの母」・「佐々木夫妻の仁義無き戦い」
 
 ・本当にちょろ見程度ですけど。
 
 ・「貧乏男子」が特に面白かったです。
 
 ・ああいう人が好きです。
 
 ・リアルではアニメ話題よりも圧倒的にドラマ話題を振られる割合が多いので、嬉しかったです。
 
 ・見栄なんか張ってません。
 
 ・本当です。
 
 ・「狼と香辛料」は、やっぱりホロの老練さと見かけとのギャップ萌えが一番でしょう。
 
 ・ごめんなさい。
 
 ・でも「みなみけ〜おかわり〜」に少々うんざりしているのですから、本物です。
 
 ・話題を変えましょう。
 
 ・「破天荒遊戯」のラゼルのような人も好きです。
 
 ・いい加減にしろ。
 
 ・はい。
 
 ・この頃は全然ゲームをしていません。 禁欲中。
  すべては、3月発売予定の「信長の野望革新PK」のために。 えいえいおー。
 
 ・3月まであと1ヶ月強。
  そろそろ、ジャンプ台の位置を間違えたことに気付く頃でしょうか。 正直早すぎた。
 
 ・超久しぶりに図書館に行ったら、棚整理日につき休館でした。
  月1回しか無い日に見事飛び込んだのは、これで何度目でしょうか。
 
 ・ちなみに、三択の中から正解を見つけるのはいつも三回目でな人です。
 
 ・先日は、人格を自他共に疑われるような大失敗をしました。 自省中。
 
 ・一昨日は、その日に会った人すべてに「ありがとう」と言われました。 ささやかな幸せ。
 
 ・昨日は、人の分までやったことが良い結果を納め、人任せにしていたのが失敗しました。
  これなんて教訓?
 
 ・今日は、特になにも無い一日だった。
 
 ・でもよく考えたら、昨日の件は人との関係性という観点から見れば、駄目駄目だったという意見も。
 
 ・でも、明日があるさ。
 
 ・で、今日はなにしてた?
 
 ・なにも
 
 ・おやすみなさい。
 
 ・はい。
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 080121--                    

 

         

                         ■■狼の還る孤独は空の神様へ■■

     
 
 
 
 
 『ぬしとわっちじゃ、生きてきた世界が違うのじゃな。』
 

                                〜狼と香辛料・第二話・ホロの言葉より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 空が 高い
 
 
 道端に聳える木立が、道に沿ってそのまま縦に伸びていく。
 その上には、細く青空がはみ出し覗けている。
 随分と、立体的じゃな。
 雲は白い絵の具を零したようにどろどろと垂れ下がり、しかしいっこうにこの道にまでは降りてこぬ。
 私が綿菓子の甘さを思い描きながら、指をくるっとひねれば、そこにはもう、風が出来る。
 風と空は違うものなのか、はたまた同じものなのか。
 指で掻き回すと、一体なにがこの高さから落ちていくだろうか。
 私にはそれは見えぬが、きっとそれらはこの足の裏に吸い付く道にまで到達するだろうか。
 いや、雲と同じく、この道に沿って真っ直ぐと流れていくのだろうか。
 そう考えると、この道行きそのものに、なにかが満ちている気がせぬか?
 
 路上の雲か、うん、良いな。
 
 良質の布地をそれでもすり抜けてくる薄い寒気が、目に染みる。
 晴れ晴れとした穏やかな日差しを整えるように、それは柔らかく肌を包んでいく。
 長閑なるままに転ぶ小石達がただ静謐を奏で、車輪をかたかたと廻していく。
 あ、今は止まっていたのじゃったな、すまんすまん。
 ふーむ、良い。
 風は肌を際立たせていくが、如何せん落ち着きが無い。
 やはりこのぬくぬくと停止した荷台の中の空間からでこそ、空を見上げるに相応しい。
 ほれ、そうしているうちにも、切らなくとも風は向こうからやって来ておるぞ。
 暖かいのぅ。
 木立の囁きが雲に混じって空へと昇っていっている。
 
 『この耳と尻尾をみればわかろう? わっちはそれは気高き狼よ。』
 
 私の鼓動が荷台をかさかさと揺らしていくぞ。
 あらゆるものを聞き分け、あらゆるものを嗅ぎ分け、あらゆるものを踏み渡る。
 
 『賢き狼賢狼ホロといえば、それはほかならぬわっちのことよ。』
 
 青空高く風暖かく、尾を染める寒気を感じ耳は高く日差しを求めていく。
 我が心体のままに道に溶け往けば、しぜんと私もまた此処にいる世界の住人としてみえてこよう。
 どうじゃ? 賢き狼が物語などしてやろうか?
 
 『はぁ・・まだ蚤がいる。』
 
 なんじゃ? 跳ねた蚤に飛びつく我の姿がそんなに美しかったか?
 蚤は嫌じゃな。
 それがいるということは、私の毛並みがそれだけ上等であるということを証しはするが、それとこれとは
 別の話。
 お、もう一匹いたな。 ロレンス、お前もう少し荷台を綺麗にせぬか。
 なんなら私が掃除しても良いがな、ふふ。
 お前の嘘を見透かすくらい簡単じゃ。
 要は、ほれ。
 嘘を付くようにこちらからし向ければ良いのじゃからな。
 なにを美しいと感じたのか、お前自身わかっておろうにな。
 無論、お前の視線が荷台の中の上質の毛皮に向いておった事を、見逃す我の瞳では無いぞ。
 
 さて・・・
 
 
 
 
 

〜 勘違いの物語を、始めよう 〜

 
 
 

 
 
 
 道を往き往き、その先に辿り着いたひとつの教会。
 さてさて、私は今の世の作法など知らぬから、なにをするかわからぬぞ。
 取り敢えず、この耳と尻尾は隠さねばなるまいの。
 いいや、その前に早くこの濡れた体を温めたいな。
 どっちが大事だと思っているのかだと?
 そんなもの、後者に決まっておろう。
 ふふ、私を誰だと思っている。
 我は賢狼のホロ。神様じゃ。
 空を真っ黒に流れ始めた雲を観て、濡れ鼠になることをぬけぬけと予言して当てた偉大なる神ぞ?
 いくらでも抜け道はあるだろうし、それがわかっていれば堂々とするだけじゃ。
 お前こそ、本当に今の世の作法をわかっておるのか?
 女が深く外套を被っているのを、教会の者が無理矢理剥がすことなど、天地がひっくり返ってもあり得
 ぬこと。
 もし剥がすことがあるとしたならば、それはその女が挙動不審であった場合のみ。
 だから、堂々としていれば良い、いや堂々とすべきなのだ。
 疑われてしまえば、どんな重装備をしていようと同じこと。
 ま、私にはそのときでもいくらでもやりようがあるとは思うがな。
 
 それにしても、妻は火傷があるから顔を隠している、とはな。
 『しかしわっちには無い発想じゃな。』
 『そんな火傷はわっちの証。尻尾や耳と同じふたつとない、わっちだけの顔と思うまでよ。』
 しかし、そういう風な理由こそ現代風なのであろうかな。
 確かにその作法も覚えておけば、またひとつ伏線が張れるであろうしな。
 嘘のために張れるものはいくつあっても良いものじゃ。
 ふむ、次の機会にはその手を使わせて頂くとしよう。
 実地訓練は大切じゃろ? ロレンス。 ふふふ。
 
 それにしても、やはり人間の服は不便じゃのう。
 狼のときのように振っても水は切れぬから、いちいち脱いで絞らねばならぬとは。
 しかし、この濡れた布地を剥いだあとの素肌の感覚というのは堪らないな。
 このひんやりとしたぬくもりが、凍えるまであと一歩のこの距離が、心地良い。
 自らの輪郭をなぞっていた物を体から外すことが出来るのも、面白い。
 絞れば絞るほど、私の体温で少しだけ温まっていた水が流れを競って落ちていく様は、尻尾を振って
 水を切るときには得られない視覚的聴覚的感覚だ。
 それと、服は乾いたあとに着ると、まるで別物だな。
 やはり服と毛皮は違うな、これが纏うということか。
 自分では無いにも関わらず、自分のものである範疇のもの。
 ふふ。
 まるで言葉と同じじゃな。
 
 
 この世界は、我にとっては初めてでは無い。
 幾たびもこの体になり、何度も旅をした。
 ゆえに最後の麦の一束から見渡した、小さな村の中の人間世界だけでは無い、もっともっと広い人間
 のそれを、私は観てきている。
 いつの世も、人の本質は変わらぬ。
 ただ欲望に満ち、それの角度を変転させ、あらゆるものとして世に顕してきた。
 そして人は、実に多くの嘘を吐いている。
 そう、自らの欲を満たすために必要なものだからだ。
 例えば、禁欲。
 なぜ欲を禁ずるか、それは無論その禁止行為そのものを欲することもあるが、概ねそれは禁ずれば禁
 ずるほどに欲が高まり深まっていくのを知っているからだ。
 小さな欲を捨てればより多くの欲を得られる、だから欲を捨てる。
 欲を禁じておきながら、なにより欲を求めている、否、欲を求めているがゆえにこそ禁欲する。
 まさに嘘を吐いた訳じゃな。
 ゆえに、
 
 『嘘を吐くとき大事なのは、その嘘の内容では無く、なぜ嘘を吐くかという、その状況じゃ。』
 
 目的が、本質がどこにあるのかを見極める、それこそ欲深き所業。
 そうして人は、嘘と共にその自らの視る世界を変転させてきた。
 うむ。
 その嘘を司る神が、今のこの世に咲き誇る教会の中心にある神だ。
 『唯一神が世界を創り、人はその世界を借りている。』
 それがこそ、この暗鬱としながらも、だからこそその下で蠢くものの活気は盛り上がりを魅せている、
 今のこの世の象徴でもある。
 淫らに燃え上がる欲望の炎を恐れる本能に寄り添い、それゆえにそのぬくもりを感じてもいる人の子達。
 恐れ戦き炎に水をくべようとすればするほど、その水が爆ぜて消えていく美しさこそに欲情している。
 膨れ切った欲望が世界を覆い尽くしたとき、人の子らは世界の果てを視て恐れを為す。
 ゆえにこそこれ以上の欲はこの世を食い尽くすのみと考え、強力な禁欲神を作り出す。
 だが、その心の本質にあるものは、なにひとつ変わってはいない。
 世界を征服し尽くし、これ以上の発展は無いと感じてしまう恐怖に依拠する禁欲は、それはなによりも
 その見果てたはずの世界の、さらにその外に新しき世界を求める、一等貪欲な人々の切なる祈りがあ
 るゆえにこそ成立しているものなのだ。
 押さえ付ければ付けるほどに、欲望の炎は逞しくなる。
 その強健なる炎こそが、終末をしか感じられぬ世を新しく開拓していくのだ。
 そして。
 その炎を禁ずるという強力な嘘こそが、その人の子らの開拓精神の礎になっているのだ。
 うむ、我も豊穣の神として、現代の欲を発現する最良のものである交易に関わらんとするときに、この
 教会の唯一神とやらの神体は、なかなか面白く感じるの。
 
 
 『わっちの旦那様の肝が、太くなりますように♪』
 
 お前も少し、嘘吐きとしての自覚を持つべきじゃな。
 頭の回転はなかなか速いのだ、年を経ればさらに良い男になろ。
 
 
 
 ふふ
 腹が立つじゃろ?
 
 私のこの物言いに、そして「腹が立つじゃろ?」と問うことにも。
 さて、なにが本質なのかのぅ。
 
 
 
 
 ◆
 
 『旅は出で立つ前が最も楽しく、犬は鳴き声だけが最も怖く、女は後姿が最も美しいものでありんす。
  
  気軽にひょいとめくれば、夢はああ何処。 
 
  わっちにはそんなこと出来んせん。』
 
                                                        ◆
 
 そして、嘘は吐く前が一番面白く、また騙されていると気づいているときこそが最高の幸せじゃ。
 
 暖炉から染み出す紅い影が時を広げていく。
 ぬくぬくと火照る頬を膨らませ、互いの嘘を探り合う。
 寒気がしみじみと背に満ちていく。
 『冷たい雨で火傷も冷えていい気持ちじゃ。』
 
 『わっちが生きている限り、あの麦が腐ったり枯れたりすることはありんせん。』
 
 うむ、朝日が遠くどこまでも澄み渡っておるの。
 昨日の夜と今日の朝とでなにが違う?
 日は変われども世界は変われども、私らは変わりはせん。
 ただ言葉を紡ぎ、嘘を組み上げ、しかしそれをやっている我は此処にいる。
 よって私がなにを言っているのかを考えれば考えるほどに、お前は私の言葉に囚われていく。
 私の言葉のぬくもりに囚われれば、お前は私の本質を取り逃がす。
 されば、お前は自らが騙されていることに気づくだけで、その気づいていた自分こそがなにをすべきかを
 思考することが無く、ただその気づきにのみ囚われ、そして相手の嘘を詰ることの支配からは抜け出せ
 無くなるだろう。
 ただただ、騙されているということを感じながら、そこからなにかを考えていく、その時の中こそ至福の園
 と言えようかな。
 我が嘘の瑞々しさは、この空を覆う唯一神の降ろす朝日によって、永劫生き続けておる。
 神の御名に於いて、我が身に祝福を与えんことを。
 
 ふふ
 そのような大袈裟な嘘を言うてこその、人の子の生きる甲斐であろ?
 
 
 
 
 
 

 

そして、な

 

 
 
 
 
 『食べられたり燃やされたり、すり潰して土に混ぜられたりすると、わっちはいなくなってしまうかもしらんが』
 
 
 
 ◆
 
 『自然は誰かが創れるものじゃありんせん。
  わっちはいつから教会が喜劇を扱うようになったのかと思ったくらいじゃ。』
 
 神無き世界は、残酷じゃ。
 この清々しき朝の居住まいの中にそよぐ風が、天から舞い降りてくる祝福を受けるからこそ、一日に
 励みが持てようと思うもの。
 絶対不変のものが我のみであるという孤独が身を暖めようとも、彼の神が無ければこの身はなんのため
 にぬくもりを感じているのか、わからぬよ。
 そもそも、私は、私のみに非ず。
 私は私であり、ただのホロであり、狼であり、豊作神であり、そしていずれ交易神となる者ぞ。
 そして我が神たるを認めるのは、其処に人の子らが永遠におるからぞ。
 唯一絶対の神の存在を喜劇として崇めるからこそ、我らは嘘を吐き無限に欲望を満たしていける。
 お前達商人にとって、神なぞ方便に過ぎぬのだろ?
 ゆえにこの荷車は続く轍を道に染めて、どこまでも世界を踏破し幸福を広げていけるのだろう。
 だがな。
 それは、神の嘘としての側面しか捉えておらぬ。
 いや、嘘という神しかそこにまだ視えておらぬ証拠じゃな。
 神は、嘘は、言葉は自分では無いが、自分の範疇のものであるもの。
 まだお前は、そして私は、その自分の範疇のものとしての神しか視ておらん。
 そう。
 我もまた神だ。
 神は、自分でもあるのだ。
 
 
 時の流れが道端の木立を朱に染め緑に燃やし白く殺してもいく。
 色付く幸せの、その色彩を愛でることはいくらでも出来ようが、しかしそれは荷馬車の中の幸福の、その
 外側を彩る世界にしか過ぎない。
 その世界を視る幸せはこの荷馬車の中には確かにあるが、しかしこの荷車の中に満ちている幸福はそ
 れだけで出来ている訳では無かろう?
 嘘吐くだけが能では無い。
 言葉だけが世界を創る訳では無いのと同じだ。
 とろとろと溶けるようにしてこの道に浮かぶ雲と、この荷馬車の中のぬくもりは優しく愛しく繋がっている。
 風を切り、世界を語り、神を崇め呪い、その応報の礎たる嘘が会話に花を咲かせても、その綺麗な
 一輪の花が世界のすべてになる訳でも無い。
 いやむしろ、その花を胸に差すことが等しくその世界を拓くだけのことであり、それ自体が開拓の対象
 では無い。
 そう、嘘を吐くのが目的では無いのだ。
 この荷馬車の中の時間の本質は、なんであろうかや? ロレンスよ。
 
 またひとつ、ゆるやかに止まる川を踏み渡る。
 ほれ、薄い昏黒を湛えた森がみえてきたぞ。
 うむ、話を続けようか。
 嘘とはなにか。
 それを考えるには、まず私は私のことを考えようと思う。
 私は神であり、ただのホロであり、そしてひとりの狼だ。
 その狼は、喰うか殺されるかの間柄であった人の子と、こうして旅をしている。
 そうじゃ。
 お前は最初私を豊作の神かと問い、そして私はただのホロじゃと応え、お前が私が本当に神であるか
 どうかを疑い、私はゆえに神であることを誇示し語り、そして今、天敵の間柄である人の子と狼として
 話をしている。
 空を真っ直ぐに降りた此処、どこまでも続く道の両脇に茂る黒い森。
 私達は今それを眺めながら道を行っている。
 私は狼か? 神か? ただのホロか?
 お前はどうじゃ? ロレンス。
 私は、私のことを狼であり、神であり、ホロであると思っている。
 それゆえ、嘘を吐く。いや、嘘を吐けるのじゃ。
 ただのホロは我は神であると白々しく嘘を吐き、悩み無きはずの神はしみじみと我は罪深な狼であると
 騙り、そして最後に私はただのホロじゃと大きく法螺を吹く。
 全部本当で、全部嘘。
 私は狼であり神でありただのホロであるということを同時に携えている存在であるが、しかしこうして
 ただの狼だけでありただの神だけでありただのホロだけであると、嘘を吐く。
 あらゆる可能性を備えた我は、いつなんどきでも、その可能性のうちのひとつだけに収まることも、充分
 可能じゃ。
 なぜなら。
 
 我は、嘘吐きじゃからな♪
 
 嘘とはなにかを考える前に、嘘とはなにかと考えているのは何者かを問うのさ。
 私はただのホロだ。
 だからパートナーたるロレンスをからかい、そして相手の不興を買えば落ち込みもする。
 私は交易の神でもありつつ、ただのひとりのホロでもある。
 私は唯一神を喜劇俳優として捉えつつ、真摯にそれを信仰しその絶大な抑圧を破らんと芽吹くひとり
 の開拓者でもある。
 神を真に信じるからこそ、その限界を知ることが出来る。
 嘘にあっさりと騙されることが出来るからこそ、それへの感情的反応と対峙できる。
 ならば私は、絶対不変の存在を信じても良い。
 変わらぬ神を、変わらぬ私を、な。
 そして私は嘘を喜んで吐き続けるし、騙されることの中にもまた活路を見出せよう。
 
 うむ。
 そうか。
 だから私は、真摯にただのホロを感じることも出来るのじゃな。
 
 あのときは、ずっしりきたぞ。
 ロレンスの奴め、あんなに気が小さい奴だとは思っておらんかったからな。
 ちょっとからかったくらいで無邪気に反撥する自信しか無いとは、あやつもやはりまだまだ小僧じゃな。
 と、いう達観したような私の口振りがこそ、ロレンスを怒らせてしまい。
 そしてさらにはロレンスの傷をえぐるような事までしてしまったのじゃ。
 まったく、嘘を吐くことに拘っていれば、すぐこうなってしまう。
 ただのホロでありながら嘘吐きの神であるということは面倒じゃ。
 だが。
 
 それが、ただのホロであるということだ。
 そして、私は。
 立派にこれだけの深い感情に囚われることが出来たのだな。
 何度目の旅だったかは忘れたが、私は初めて、こんな気持ちになれたのだ。
 感謝するぞ、ロレンス。
 そして。
 
 すまなかったな。
 
 これからは、もっともっと、嘘吐きの神の存在を抑えてでもいられるようにしよう。
 ただの、ただの、ホロとして。
 いやいや、なんなら人の子のホロとなってやっても良い。
 人の子たるを学び、商いの作法を人の子のレベルで考え、そして感情に支配されてもやろう。
 だが。
 ふふ
 
 それでも私は、嘘を吐く。
 
 『これでおあいこじゃな。』
 
 お前の傷をえぐったのは悪かった。
 ならば私も、自らの傷を晒してくれよう。
 狼としての、定めとしての傷をな。
 ふふ、だが。
 私は、狼だけの我では無いのだったよな? ふふ。
 だから私は自らの傷に触れられて哀しみを魅せたが、しかしその哀しみの裏側にはしっかりといやらしい、
 この企みで歪んだ笑顔が張り付いているのじゃよ♪
 
 だから、お前もそうするが良い。
 そのためにこそ、人の子は、狼は嘘を吐けるのだ。
 
 私らは狼であり人の子であり、天敵の間柄としてそれぞれ拭えぬ因業がある。
 だが我らは狼だけ人の子だけである訳では無いゆえに、いくらでも他の存在としても振る舞える。
 そのために、嘘は要る。
 言葉が要る。
 神も、要る。
 色々な可能性が、あるゆえにな。
 我らはパートナーじゃ。
 無論、パートナーという立場に囚われる必要も無いのじゃな。
 あらゆる存在としての可能性を同時に備えた、変転自在の存在なのだからな。
 互いのひとつだけの可能性に収まる不変性を認めてもなお、私らは余裕で変われるのだ。
 なぜなら。
 
 
 それが、得だから。
 
 
 ふふふ、道を股に掛けて世界を往く商人には、最も相応しい神の言葉じゃな♪
 そして我らには、その卑しき金の亡者の精神を圧倒的に責めてくれる唯一神様がいるのじゃ。
 この道を超えた先には、堪らないほどの世界が広がっていると、もう既に感じるであろうな。
 お前も、私も。
 
 
 滑りの良いよく均された道が轍すら無いままに、滑るままに続いている。
 道そのものが轍になっていて、この荷馬車はただ道幅のままに進んでいる。
 姿の見えぬ小鳥達の囀りが、我が鼻にはしっかりと嗅ぎ取れている。
 私は想像しているぞ、あれやこれやと、囁きながらこちらの様子を窺う鳥たちの姿を。
 それを、お前に騙って聞かせよう。
 本当か嘘か、わからぬ物語としての。
 よいよい、私は神とも狼とも頭のおかしい女ともしれぬ、お前のパートナーよ。
 信じるも信じないも、関係無い。
 なぜ私がこんな嘘とも知れぬ話をするのか、それを騙るとなにを私が得するのかを考えれば、自ずとお
 前もその嘘に乗り、共に儲けることも出来ようぞ。
 或いは、私を出し抜いてお前ひとり稼ぐことも出来るかもしれぬな。
 無論、私もそれを見越して、お前に与えたその餌でお前を釣り、さらなる大魚を網にかけるかもしれぬ
 のだな。
 我らは天敵であり、そして共生相手でもあるのじゃ。
 
 
 たとえ、狼と人であろうとも。
 
 たとえ、それぞれの孤独を抱えるだけの者同士でしかなくとも。
 
 
 それらはすべて、物語でしか無いのだ。
 
 
 そして我らはこの真空の夜空の下にまろびて、荷台の中にひろがるささやかなぬくもりを胸に、明日も
 互いの嘘を語り合いながら、本質とこそ向き合いながら生きていく。
 ひとつひとつ、虚実綯い交ぜの物語に勘違いを重ねながら。
 それが、勘違いであることを、認識しながら、な。
 
 
 そして。
 勘違いであることに気づけぬままの夜も、また良いだろう。
 
 なぜなら。
 
 
 明朝の私はもう、すべて私のその嘘の本質を見破っているのだからな。
 
 
 
 では、おやすみ。  ロレンス。
 
 明日の神を、蒼き星空に想い描きながら。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ◆ ◆
 
 青く降り積もる空が、雲を踏み台にして高く高く跳んでいるのか。
 それとも。
 白く膨れ上がる雲が、空を栓にして強く強く弾けているのか。
 いやいや、きっと空も雲もその見せかけの境界を盾にして、既にあらゆるところに散らばっているのじゃ。
 
 ホロとロレンスの知的な会話が、ゆったりと嫌味無く、いやいや、嫌味をきっちりと相手に向けてぶつけ
 合っているからこそ優劣が生じ上下の境も出来、しかしだからといってそれら優劣や境を創るのが目的
 とはなっていないがゆえに、もの凄くすっきりとします。
 まるでどこまでも繋がる青空のように、いつまでも空と道の間に浮かぶ雲のように、観ているだけで爽快
 な気分になれてしまいました。
 そしてその爽快な気分を無視するようにして、物語は淡々とふたりの手によって進められていく。
 いえ、あれは物語というよりは、それぞれが「なぜ物語するのか」を考えていく、そんな動作の連続が
 描かれていたのです。
 なぜ嘘を吐くかを考える。
 なぜ神を崇めるかを考える。
 なぜ怒りや哀しみを感じるのかを考える。
 そうすると、無限に話は花開く。
 ホロは当然現代の商人的経済知識は持ち合わせてはいないけれど、しかし長年に渡る哲学の堆積
 でどう考えれば良いかくらいはわかります。
 そして、処世術そのものは知らなくても、臨機応変に対応できる精神は持ち合わせています。
 けれど、それだけでやろうとすれば、そうは出来ない者との間に出来る溝に気づけないこともあります。
 ホロとロレンスでは、生きてきた時間も世界も違う。
 ロレンスはロレンスなりのやり方で、様々な知識を身につけていますし、またその「身に付けた」知識に
 より得られているぬくもり自体も、ひとつの本質として彼にはあるのです。
 ホロが偉ぶれば偉ぶるほどに、ロレンスは自分のそのぬくもりある知識なり思考なりが潰されていく事に
 嫌悪を感じていきます。
 それは、自分がその知識や思考に囚われているという事を知らずにはいられないことにも依っていますが
 、しかしそれ以上に、目の前のパートナーとは思えぬ振る舞いをするホロに依るものでもあるのです。
 
 ロレンスは商人であり、また人の子であり、またただのロレンスでもある。
 
 見下されることよりも、相手を見下す行為をパートナーがすることが許せない。
 それは商人としての感覚であり、またただのロレンスとしての感覚としては、その逆でもある。
 つまりロレンスはホロに、交易神である前に、一個のホロであることを要求している。
 なぜならば、ロレンスはホロを神だなどとは思っていないからです。
 そして。
 それが、勘違いなのですね。
 ロレンスはホロのことを神とは思えないだけであります。
 別の言い方をすれば、ロレンスはホロのことをそれ以外の者として視る、その「やり方」を知らないがゆえ
 に、ただホロをホロとしかみれないだけなのです。
 それを、ホロは的確に抉ったのです。
 もっと嘘を吐け、と。
 ロレンス自身が自らを他の者でもあると考えることをしろと。
 自らが「ただのロレンスである」という「物語」に囚われていることに気づけと。
 ホロは自らの狼としての側面を魅せることで、ロレンスをそれに思い至らせようとしたのです。
 ホロとロレンスの、それぞれ生きてきた世界はあまりにも違う。
 それをホロはロレンスの頑なさを視ることによって深く深く自覚し、それゆえに自らもまたその「頑なな自分
 にさえも変われる自分を模索する必要性を感じます。
 
 そして、そこに第二の勘違いポイントがあることに、ホロははっきりと気づいているのです。
 
 だからこそ、嘘が必要であると、言えるのではないか、と。
 お互いがその「頑なさ」を認め、それぞれのそれの中身を理解し合おい、それぞれ助け合っていこうという
 その思考そのものが、既にこの道を往く価値を貶めていることに気づくのです。
 なんじゃ、だったら嘘を競い合うことで、互いに違う自分を産みだしていけば良いのじゃないか。
 相互理解をすることの大切さを思うあまりに、傷の舐め合いをしても仕方がない。
 それではこうして旅をする意味が無い。
 なぜなら、ホロはロレンスと共にずっと生きることを誓ったのでは無いのですから。
 ホロはただ、人の子らと、そして個人としてのロレンスと、それと共にそれぞれの世界を広げていくために
 こそ、そのために協力し合うパートナーとして、ロレンスを選び旅をしているのです。
 互いの傷を舐め合う前に、それが傷では無いモノに変えるためのなにかを得るためにこそ、力を合わせて
 いるのです。
 新しいものを求めて、より大きなものを求めて。
 身の不幸を癒すには、それよりも大きな幸せを求めるのがなによりも良い。
 そしてその意識があれば、あっさりとその不幸を癒すために幸せを求めている訳では無く、もはや既に
 ただただなによりも欲しい新しい世界が其処にあるのを感じているのです。
 そして、最後の勘違いポイントを、ホロは今、通り過ぎようとしています。
 それでも、私達はただのホロであり、ロレンスでもあるのだと。
 そうじゃ、私らは悩み無き神にもなれるが、それがすべてという訳では無い。
 そう、私らはそれと同時に、悩みに充ち満ちたただのひとりの存在でもあるのじゃからな。
 神を認められるのならば、我のことも認めねばの。
 それを忘れちゃ、それはそれでなにも出来ないと思うのでありんす。
 
 そしてだからこそ私は、この「狼と香辛料」の世界のいちいちが、とても美しく感じます。
 
 勿論、会話の妙としての嘘も、その美しさの中で価値を得て輝いています。
 その中の道を歩む、ホロとロレンスを照らしながら。
 
 それでは、この美しい作品を湛えつつ、今回はこれにて。
 また、来週。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                               ◆ 『』内文章、アニメ「狼と香辛料」より引用 ◆
 
 
 
 
 

 

-- 080117--                    

 

         

                                ■■意識のいる物語■■

     
 
 
 
 
 『視えるということがどういうことで、視えてるモノがなんなのかなんて、ほんとにわかる日が来るのかな・・』
 

                          〜もっけ ・第十五話・静流の言葉より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 なにかをわかっている、とはどういうことでしょう?
 それが自分にしかわかっていないということと、それを自分がわかっているということは、同じことなので
 しょうか。
 いつも、そのふたつを混同してしまう。
 いつも、それらふたつは別々のことなのだと理屈ではわかっていても、どうしてもわからなくなってしまう。
 ひしひしと伝わってくる、逃れられない体感としての知。
 だって、みえるんだもの。
 みたくない、わかりたくないという一心で目を閉じれば、なんにも出来ません。
 だから、目を開けてそれらをみている。
 そう、それらをみているのは、目を開けなければなにも出来ないからであって、それらをみたいと思って
 いるからでは無い。
 みたくないのに、私はみてしまう。
 わかりたくないのに、わかってしまうんだ。
 
 しかし、それがどこかおかしいということを、私は常に知っている。
 そのこともわかっていて、そしてみているんだ。
 
 
 
 ◆
 
 静流は、モノを視る力があります。
 それらのモノは、静流がどう思おうとも其処にいるがゆえに、静流はそれを視ずにはいられません。
 それと同時に、それらのモノが其処にいるのは、静流の中になんだか知らない異様な「なにか」があり、
 その直接の顕れとして、あるいはそれに対する切実な静流の反応ないしは解決方法そのものとして、
 そうして静流の内面の反映としてあるからでもある。 
 静流とは何の関係も無くにいるはずなのに、静流の「必要」に応じてそれらは其処にいる。
 静流がなにかを視たいと思っていなければ、それらを視ることはできません。
 しかし、それらは同時に静流が視ようと視まいとに関わらずに其処にいるのですから、もしそれらを静流
 が視ることが出来なければ、それはしぜんその「視ない」という意志が静流にあることを証してもしまう。
 そうよ、私はあんなモノなんかみたくないのよ!
 そして、静流はだからこそ、ではなぜ自分はそれらのモノを其処に視ていたのかを知らずにはいられなく
 なる訳なのです。
 だって・・・私がモノを視るってことは・・・私が感じてる「なにか」があるってことで・・・・
 そしてその「なにか」をみつめることをしないということは、それから逃げているだけということを、静流はその
 肌で強く感じている。
 モノは、「なにか」は静流の意志とは関係無くに其処にいて、そして静流がそれを視ようとするからこそ、
 それらのモノは静流が視ることが可能な、理解可能な、そしてなによりも対面可能なモノとして、その
 姿を其処に顕してくるのです。
 静流がそれを視ようとしなければ、それらは顕れません。
 しかし、それらの存在が消えてなくなる訳では無く、むしろ静流の「みえない」ところで暗躍を始めてしま
 うのです。
 つまり、静流がそれらを視たくなくても視てしまうこと、それ自体が静流にとっての大切な自己防衛機能
 なのです。
 たとえそれら不気味なモノを視てしまう苦しみがあっても、それを視ずに放置してしまうよりはずっとマシ、
 ううん、私はそれらを視なくちゃいけないんだ。
 逃げちゃ、いけないんだ。
 静流はそうして、それらが「視えてしまう」という自らの苦渋と戦うことだけに集中することが出来る。
 逆にいえば、静流はただそれに集中しているだけで、あとのこと、つまり静流の中の「なにか」という名の
 「問題」を恒常的に具現化させ、其処に顕せるという圧倒的難事業は、その自分の体質自体に任せ
 てしまえる、ということなのです。
 無論、それを顕す苦しみをも、です。
 
 そういう意味では、静流は非常に才能溢れる人でもあるのです。
 非常に敏感であるということは、とても観察力と感受性が高いということです。
 あらゆる「問題」があることを見つけ出し、そしてそれらを当たり前のこととして自分の思考のフィールドに
 持ってくることが出来る。
 自分が感じ考えていくために必要な材料、つまり情報を圧倒的沢山に手に入れることが出来るので
 す。
 情報的刺激が多ければ多いほどに、それで自らにかかる重圧が増して疲弊することもありますけれど、
 しかしそれは同時に、それだけ多くのことを深く広く確かに考えていくことが出来る可能性、いえ、素質
 があるということでもあるのです。
 静流は、色んなことに気づいてしまうのです。
 いえ、気づけてしまうのです。
 他人の抱える問題が与えるその人への影響も、その人の弱さ強さも、それがどういうモノであるのかも。
 無論、それらは自分の抱える問題なり弱い部分についても、同じく深く広いレベルで認識することが
 可能であるということでもあります。
 他人の悪い面も自分の悪い面も、いくらでも目をそらすことは出来ますし、それを正当化するために
 理屈を紡ぐことも人は皆一様にして得意です。
 けれど静流の場合は、既にそれらの「悪い面」という「モノ」が、其処に顕れて「いる」のですから、それ
 らとの対面を避けることなど出来ず、またもれなくそれらを解決していくチャンスが、もの凄い低コストで
 得られるのです。
 普通の人ならば、その自分の弱さと向き合うことさえ大変なのに、ですよ。
 
 
 『視えてしまう私であることは、決して悪いことじゃ無いって、わかってはいるんだけど。
  ・・でも・・・・・・・』
 
 しかし静流は、視えてもなにも出来ない自分を、なによりも恐れている。
 それが、『ミノムシ』に憑かれるということの、根本にあるものなのです。
 
 
 
 ◆
 
 静流は、友達の芙美が実は霊が視えるんだよねと言っているのを聞いて、どきりとします。
 勿論芙美のそれは嘘でありすぐにバレたのですけれど、しかし静流はそのとき確かに芙美に期待してい
 た自分がいることを感じたのです。
 芙美ちゃんにもし視る力があったら・・・私のこと・・・・理解してくれるのかな・・
 そして、理解して欲しいと思っている自分を確かに静流は感じます。
 誰かに悪いモノが憑いているのが視えても、それをそうと説明したところで気味悪がられるだけで、話な
 んてまともには聞いて貰えはしない。
 静流がたとえ多くの情報を有しそれと向き合うことが出来たとしても、それでその問題の解決が出来なけ
 れば意味が無いと、だから静流にとっては、そういったモノ達が視えれば視えるほどに、その未解決で
 終わるしか無いこと、そしてなによりも無力な自分を感じることに怯えてしまうのです。
 もし芙美ちゃんが私の話を信じてくれるのなら・・私は頑張れるのかもしれないけど・・・
 誰も私のやってることをわかってくれないんじゃ・・・・・私は・・・一体・・・・
 誰かがみていてくれるからこそ、この沢山の情報を受け止めて、それを解決していこうと頑張れるのに。
 
 芙美に、静流の後ろにホラいるよと言われれば、本当に其処に静流はモノを視ます。
 梅雨という季節の変わり目、そして気候的に不快なこの時期には、実に多くのモノが顕れます。
 人々のおもいが活発になれば、様々なおもいが露出し、静流はそれを敏感に受信します。
 そして無論、静流自身もその季節による変動と、またそれら人々の魅せるおもいに揺さぶられ、
 非常に多くのモノ達を其処に視ていきます。
 あ・・やだなぁ・・・・ほんと梅雨って・・
 自分自身が神経過敏になっていることを感じています。
 自分が憂鬱な気分になっているのは、モノを多く視てしまうからです。
 しかし、自分が憂鬱になっていることもまた、より多くのモノを其処に視る素因になっていることを、静流
 は知っています。
 それなら私が気分だけでも上向きにすれば、あれらのモノは視えなくなるのだろうか・・・
 
 そんなことは無い、ということを、静流はわかっています。
 
 なぜならば、モノは静流の内面を投影したモノだけでは無いからです。
 他者がこの世に存在する限り、その影響を受け、またそれら他者が発している「なにか」を、静流なり
 に解釈して、其処に「モノ」として顕しているからです。
 そしてその「モノ」は、そうした他者達の「なにか」と向き合って解決していきたいと、無意識のうちに
 静流自身が求めているからこそ、永遠のその存在を失うことは無いのです。
 静流がただ自分の気分を上向きにしたところで、それらのモノが消える訳では無いのです。
 むしろ、その「モノ」達を無視したくないがためにこそ、その「モノ」達は其処にいるのですから。
 
 だったら、視るしか無いじゃないか。
 そういう風に言うしか無い自分の理屈に、静流は疲れを感じます。
 
 とある夜、机に向かっているときにふと外を見ると、其処には真っ白な女性が立っていました。
 思わず外に出てその女性の前に立ってしまう静流。
 だって、視えちゃったんだもん。
 気づいちゃったんだもん。
 見つめた先のその女性は、恨めしそうな、ただ悲しそうなだけの、まさに不可解な表情を残してほっそり
 と消えてしまったのでした。
 どうしようも無かった、静流。
 あまりに多くのことが頭の中を駆けめぐり、静流の中をぐちゃぐちゃにしていきます。
 その事には慣れていても、しかしそれがすごい重圧を与えることは確か。
 静流はこの体験を物語仕立てにしてノートに書き付けます。
 その女性を視たことの感想を、「恐怖を感じた」の一言にして描いてしまうのです。
 ただの恐怖体験として、ただのホラーとして、そうしてその怖さに震えてしまっただけの、それに耐えるだけ
 の自分を、その物語に書いてしまうのです。
 ・・・・私・・・・もしかしたら・・・・なんにも知らない方が良かったのかもしれない・・・
 静流が視ているモノには、すべて意味があります。
 ゆえに静流はいつも必ず、今其処に視たモノがどういう意味を持ち、そしてなによりも自分がそれを
 今視ているということがどういうことであるのかを考えています。
 単純なお化けを視ての恐怖に囚われる事無く、ただそうして純粋に意味を考えるのです。
 一体私が今感じている「なにか」はなんだろう、あるいは誰かにそれが憑いているのなら、その人は
 一体どんな悩みを抱えていると、そのモノから解釈出来るのだろう、と。
 そして理解しようとしてもどうしてもわからないことはあり、そしてそこでわからなかったものは大きな謎とし
 て静流の中に残留していってしまうのです。
 だったら、意味なんかあるなんて思わなくて、ただお化けとして見て震えていればいいのかもしれない・・・
 そして静流は恐れるあまりに、その体験を物語仕立てにして書き付けずにはいられないのです。
 『本当はね、視えてるんだよ私、って言っちゃったらどんな顔するんだろ?』
 自分の書いたものを信乃にみせた静流は、図らずもそう思ってしまいます。
 そっか、私のこの誰かに知って貰いたいって気持ちも本当なんだ・・
 視えるのに、わかるのに、どうする事も出来ない自分が此処にいる。
 お祖父ちゃんは、こう言います。
 
 
 『いいか静流。
  ただ視えるだけでは不安が増すばかりだ。』
 
 
 静流は、視えてもわかってもどうする事も出来ない自分を恐れ、そしてその「どうする事も出来ない」
 自分を肯定してしまうのです。
 だからこそ、視えるだけの不安に囚われてしまったのです。
 いえ、視えるだけの不安に我慢し切れずに、逆にその不安を我慢するしか無いのだと必死に言い募る
 ことで、それに耐えようとしてしまったのです。
 お祖父ちゃんの言葉の真意は、そうでは無いのです。
 『結局私はなにもしない。ううん、しないんじゃない、出来ないんだ。
  だって私が視えているモノを、視えて無い人にどうやったって説明出来ないから。』
 この自己弁護している静流の姿こそを静流自身が視ろと、お祖父ちゃんはそう言ったのです。
 やりようは、本当はいくらでもあるのです。
 そもそも静流が書いている物語だって、充分利用可能なものなのです。
 ただのホラーにせずに、まさに静流が考えているように、その登場する妖怪をなにかを「意味」するモノと
 しても書き、そしてそれについて色々と考える、という手法で描けば、まさにその物語を通して、読者と
 問題を共有していくことも可能なはず。
 また、それこそ、静流は自分にはそういうモノが本当に視えている、と言ったっていいんです。
 ただそれを、その「モノ」をあくまでなにかを語るために必要な道具として、便宜上「視ていること」にすれ
 ば、それこそ静流がそれを本当に視ているのかどうかは問われずに、ただその便宜上のモノを通して、
 一緒に根本にある「なにか」を誰かと考えていくことも出来るのですから。
 
 そして。
 静流が視ているモノは、そういったものなのです。
 そして。
 静流がそれらのモノを視ているということも、そういったことなのです。
 
 要にあるのは、それらのことが完璧に実行できることでは無いのです。
 結論から言えば、静流は、0か100かという極端な選択そのモノに憑かれてしまっていたのです。
 今の静流の出来るやり方で、そしてなによりも、今の静流が納得行く形で、なんとか視ているモノに
 干渉していこうよ、せめて解決してみようと色々やってみようよと、そういった感覚こそをお祖父ちゃんは
 静流に求めたのです。
 完璧に出来ないのならやらない方がマシ、という静流の感覚自体こそが静流を追い詰めている。
 なによりそれで何もやらなければやらないで、しっかりと静流はそのなにもしなかった事で重責を感じて
 いるのですから。
 だったら、少しでもなにかやれ。
 何様のつもりだ、お前は。
 今のお前が全部完璧に解決出来る訳など無かろ。
 自分が安心するためだけに、なにかをすることの何が悪い。
 偽善偽善と言っている暇があるのなら、少しでもほんとに善と言えることを出来るようになるために努力
 すればいい。
 そのために今の安心が必要なのならば、大いに安心するためだけにもモノに手出しすればいい。
 勿論、その事で奴らに睨まれたりすることもあるから、それはちゃんと勉強するのだな。
 だから先人に学べと言ったのだ。
 やりようはいくらでもあるのだ。
 今のお前にも出来ることは、必ずある。
 そしてその積み重ねと、絶え間の無いそれらの実行こそが、いつかそのときの自分では触れることも
 出来なかったような大きなモノすら、理解し解決することが出来るようにもなる日をもたらしてくれる。
 なにかしろ、なんでもいい。
 そう。
 
 大事なのは、自分が今目の前のモノと向き合いなにかしようとしている、その意識を持つことだ。
 
 静流は、とある家の屋根に紅い旗のようなモノが沢山立っているのを視ます。
 静流は、このモノが凶兆であることを知っています。
 けれど、静流はそのことをその家の人に伝える術を持っていません。
 ゆえに静流は憂鬱な気分を重く背負って、その家の前から立ち去るのでした。
 『あ・・・・やだな・・・・・たまんない・・・・』
 こんなおもいをするくらいなら、視え無い方がよかった・・・・・・
 でも、静流は知っているのです。
 ではなぜ、自分にはそれが視えたのか。
 静流には様々な情報を取得する能力があります。
 そしてなによりも、それらを無視せずになんとしても向き合いたいという、なによりも深遠な責任感にも
 似た感覚があるのです。
 静流がそれを視た、ということ自体が既に静流の意志を明白にしているのです。
 私はこの家の異変を感じ取っている。
 そして、それをなんとかしたいと切実におもうからこそ、私はそれを視てしまう。
 だけれども、静流の話を普通の人が聞いてくれるはずも無く、だから静流は視てみぬ振りを決め込む
 しか無くなってしまうのです。
 
 
 視てみぬ振りを決め込むことにしたのは、静流自身である、ということだけは意識せず、に。
 
 
 視てみぬ振りをするしか無かったのは、自分の話が通じる訳も無いから、という理由が静流にはあります。
 しかし、考えてもみれば、それはかなりの欺瞞を含んでいます。
 いつのまにか、そのモノを視ているということがどういうことか、という思考が静流から消えてしまっているの
 です。
 それが自分にしか視えていないということと、それが自分には視えているということは、全く別々のことで
 あるはずなのにです。
 静流が凶兆を視た家は、次の日火事になりました。
 お祖父ちゃんならば、こう言うでしょう。
 なるようになっただけだろ、と。
 芙美ならば、こう言うでしょう。
 観にいきたかったなぁ、と。
 芙美のこの言葉は不謹慎ではありますけれど、しかし実はこれこそがお祖父ちゃんのスタンスと一致す
 るものなのです。
 静流が凶兆を視たことは事実なのです。
 しかし静流には現在それを家の人に伝える術が無く、それはたぶんそうなのでしょう。
 しかし、だからといって静流が罪悪感を感じるということ、そのことは一体どういうことなのでしょう。
 静流よ。
 お前は、お前にしか視えていないということに、囚われ過ぎてんだ。
 
 『静流は気にし過ぎなんだよ。』
 
 罪悪感を感じるのは、それが自分には視えていたのにそれでなにも出来なかったことに起因しています
 が、しかしだからといってそれで自分がそれを視ることが出来たということ自体をも否定してしまっては
 元も子も無い。
 たとえなにも出来なかったとしても、最低でもそうして視たモノに対する感情を捨ててはいけないのです。
 捨ててしまえば、継続した努力を放棄することになり、またなにも成すことは出来ません。
 捨てちまうくらいなら、豪快に笑って愉しめや。
 なぜならば。
 
 
 静流が視ることの出来る能力を呪おうとも。
 視たモノに対してどうする事が出来なかったとしても。
 
 それらのモノは、それでもずっと、これからもずっと其処にいるのですから。
 
 
 無論、静流もずっとずっと此処にいるのです。
 ゆえに静流がそれらのモノに対してなにも出来ない、ということは実はあり得ないのです。
 本当は、罪悪感を感じたっていいのです。
 それだって、立派にそのモノに関わったことになるのです。
 お祖父ちゃんのように、あっさりと視てみぬ振りすることもまた関わっていることになるのです。
 モノに触れずに生きていることなど、初めからあり得ないのです。
 重要なのは、それらと永続的に関わっていくための、その類い希なる「戦略」を練っていくことにあるので
 す。
 99回モノに負けても、最後の1回で絶対勝つと思い続けることが出来るのなら、それこそ負けっ放しの
 人生だって充分意味があります。
 そう思えれば、その一回一回の負けが、その最後の一回の勝利のために蓄積されていくことを、深く
 感じることが出来るのです。
 視えているのになにも出来ない事の苦痛が、いつかなにか出来るようになるための資源として貯まって
 いく、その豊かな安心感こそが、なによりもその静流の視ることの出来る体質の価値を高めていくの
 です。
 まさに、失敗は成功の元なのですね。
 そして無論、勝つことが目的なのでは無くて、いつか勝つと信じることが出来るからこそ、今目の前の負け
 とも向き合っていくことが出来る、そう、ずっと出来ると、そう思えることこそが目的なのです。
 
 静流は信乃達との下校中に、陰火に襲われます。
 地方によっては、ミノムシとも呼ばれているモノです。
 雨の日によく顕れる、なにも燃やさず熱も無い、ただ体にまとわりついてくる青白い炎。
 そしてそれは、憑かれた本人にしか視えません。
 静流は、慌てるよりも先に、静かに閉塞してしまいます。
 『ふたりには・・・みえてないんだ・・・』
 話してもわかるはずない、だからなにも出来ない、そう、またなにも出来ない・・・・
 だから私はそっとみんなから離れて・・・火を・・・・・
 ・・・・・・・消えない・・・・・・・・雨・・・どんどん強くなってる・・・・・あはは・・・まさに泣きっ面に蜂だね・・
 どうしよう・・・ほんとこれ・・消えないや・・・・・もうびしょ濡れだよ・・・はは・・・
 
 なに・・・・・やってんだろ・・・私・・
 
 なにもかも虚しくなる静流。
 そしていつも通りに、ただ冷静にそのモノを観察します。
 『燃えてないし、熱くない。これって、陰火だ。』
 でも、その事実を知ってくれる人は、誰もいません。
 静流のこの冷静な観察も、静流が陰火を視るほどに「なにか」に憑かれていることも。
 ミノムシを視ていることも、誰も知りません。
 雨中の孤独が、静流をしっとりと蝕んでいきます。
 暖かさをすら感じるほどの、潔いほどの、このひとりぼっちさ。
 ひとり悪戦苦闘している、この孤独。
 なんだろう・・・・
 なんだろう・・・・この気持ち。
 静流は。
 静流は、やっと、やっと気づいたのです。
 
 
 
 あ・・・ミノムシって・・・・・・・綺麗・・・
 
 
 
 静流の感じた孤独の豊穣さが、そのミノムシを顕したのです。
 ミノムシに翻弄されるだけの自分。
 自分が視えているのになにも出来ない、ということに振り回されているだけの自分。
 「ミノムシ」が、此処にいる。
 そっか。
 ミノムシは、其処にいたんだね。
 綺麗・・・
 静流は、ミノムシを、自分がモノを視ることが出来るということを、其処に視るのです。
 そっか、そうだよね。
 私は最初から・・・このモノ達を視て・・・・
 それだけ、だったんだよね・・・
 静流の原点が、感じている「なにか」となんとしても向き合いたいという想いが、その綺麗なミノムシ
 となって其処に顕れたのです。
 この綺麗さこそが、静流を楽しませてくれるのです。
 ミノムシが、そしてその「綺麗さ」が其処にいなければ、静流はただ自分ひとりだけが勝手に気分を無理
 矢理に上向かせていくことしか出来ないことを知っていました。
 だからこそ、ミノムシを其処に視て、其処に顕したのです。
 楽しみたい。
 ずっとずっと、私の「なにか」と向き合って考えていきたいから。
 それは強制ではありません。
 ですから、あらゆる苦しみに立ち向かうための、そのためのアンチとしての楽しさを感じる必要は無いし、
 またその強制された楽しさで生きようとすれば、途端に静流は道を間違えてしまいます。
 そう、ただただ、自分にしか視えていないということと、それなのになにも出来ないということに囚われて。
 だから、自然に笑えなくちゃ、嘘だもん。
 そして。
 そうして自然に笑えるようにしてくれたミノムシを顕したのは、視たのは、他ならぬ静流自身なのです。
 私は、私の「なにか」と向き合いたい。
 だから私は、モノを視ることが出来るようになった。
 だから、嬉しい。
 こうして、綺麗なモノとときたま出会えることが。
 青白く輝くミノムシは、この静流のスタンスそのものが顕現したモノだったのです。
 
 『ま、大した害のあるモンでも無ぇ。落ち着いて視てりゃあなかなか珍妙なモンさ。』
 どんな体質だろうと苦しみだろうとも、どんな孤独だろうと、それ自体に振り回されているうちには、それら
 のモノに囚われて、そのまま苦しみや孤独に蝕まれるだけ。
 けれど、それをそういうものだとカッコにくくって受け入れてしまえば、たとえ不謹慎だとしても、存外それは
 楽しめたりするモノであったり、またさらには意外なそれとの向き合い方を気づかせてくれたりするかも
 しれません。
 そしてまた一度受け入れることが出来れば、いつでもそれをまた外に放り出すことも可能。
 受け入れたことのままにそれに振り回されれば、今度はそれに囚われてしまうだけなのですし、また当然
 そうなることはもうわかるはずなのですから。
 苦しみや孤独を受け入れ、それを楽しむだけが能じゃ無い。
 苦しみや孤独を受け入れ、それを楽しめたのならそれがわかるはず。
 
 雨の中でミノムシに翻弄され、そんな自分に絶望さえ感じた静流だからこそ、それがわかるのです。
 
 この体質と向き合えるのは、私だけ。
 そしてモノが視えるのは、それは私が深く望んでいることだから。
 私はその自分の深い願望自体に翻弄されてしまうけれど、でもだから。
 だから、その自分の願いを見つめたい。
 自分がなにに振り回されているのか、自分がなにを求めているのか。
 私は今、なにを感じているの?
 私は今、どう考えればいいの?
 ゆっくりと、ゆっくりと、風が喉を通っていく。
 私はミノムシに体温を吸われて寒さを一段と感じるけれども、その暖かいミノムシが肌をなぞっていく
 たびに、深々と暖まっていくことが出来るんだ。
 もっと、知りたい。
 もっと、視たい。
 この私のおもい自体が、きっとミノムシを青く光らせたんだよね。
 
 『綺麗だったなぁ・・・』
 『また、視られるかなぁ・・』
 
 自分がモノを視てしまうということを、たとえ自分しかそれを視ることが出来ないという事実を踏まえても、
 また楽しめると思いたいと、そう静流は願うのです。
 そして・・・
 翌日、昨日の心配をしてくれた信乃達を掻き分けて、芙美が静流にアタック。
 『読みましたぞ〜! 静流先生♪』
 静流が書いた真っ白な女性の話が載った文芸部の部誌を手に、芙美は大はしゃぎです。
 そして、こう言います。
 『ほんとはさ、視えてるんじゃないの?』
 どきっとする静流。
 いえ。
 むしろ、これは、選択のとき。
 本当のことを言うべきか、言わざるべきか。
 そこにはもう、自分だけが視えていることの不安だけではありませんでした。
 私はたぶん、ここで本当のことを言ってしまっても良いのかもしれない。
 けれど、それでもしみんなに理解して貰ったら、それはどういうことになるのだろう。
 静流は、はっきりと確信するのです。
 そうだ・・本当のことを言っても言わなくても、同じなんだ・・・
 静流は妹の瑞生と同様に、いわゆる「普通」を志向する人です。
 だから「普通の女の子」でいるためには、本当のことは言ってはなりません。
 けれど、その「普通」の概念自体は変えられるかもしれないと、静流はこのときにはもうわかっていたの
 です。
 なぜならば、今のこの友人達を信じられるからです。
 今と変わらずに付き合ってくれると信じられるからです。
 それは期待では無く、確信なのです。
 きっとたぶん、芙美ちゃん達は私を受け入れてくれる。
 そうしたらきっと、たぶんそれが「普通」って言えるんだ。
 じゃあ、言ってしまおうかな・・・
 
 そして、ゆっくりと開きかけたその口を、自信を持って再び閉じる静流。
 
 私がモノを視てしまうことと、私だけがモノを視ていることは別々のこと。
 そして、同じように、私が本当のことを言うのと、芙美ちゃん達と友達でいることは別のことなのね。
 言わなくても、もうちゃんと私は自信を持って、芙美ちゃん達と一緒に笑えるんだもん。
 私は、たとえ誰も私の視ているモノを一緒に視てくれなくても、それでもそれを楽しむことが出来たんだ
 から。
 うん。
 勿論、だから自分だけが視えていることだけに意味があるっていう訳じゃ無いのよ。
 そう言ってしまったら、それも「ミノムシ」に憑かれるってことだもん。
 だから。
 
 
 『いつか瑞生以外にも、こんな話の出来る人が顕れるのかなぁ。』 って言えるんだよ。
 
 
 よし、頑張ろう。
 文芸誌。
 もっと、私を知って貰おう。
 本当は視えていると言ってもなにも変わらないで済むくらいに。
 私がしたいことはきっと・・それなんだ。
 
 もっと、もっと、私が向き合い、感じて考えている「なにか」をこそ、伝えていきたいな。
 
 私はそして、私にも、モノ達の存在をはっきりと意識しながら、けれどそれでもそれを視て視ぬ振りする
 ことが出来るかな、と、ふと思ったんだ。
 
 
 
 
 
 
 以上、第十五話「ミノムシ」の感想でした。
 文章を書く者として、どっしりと胸にくるお話でした。
 そうですよねぇ、自分のことを知って貰うんじゃなくて、自分が考えていることをこそ書いていきたいです
 よねぇ。
 ついつい感情のままになにもかも洗いざらい書いてしまいたい衝動に駆られることはありますけれど、
 しかしよくよく考えれば、自分がしたいことはそれとは別のことなのではないかと、すぐに気づきます。
 感情のはけ口として文章は書いても、その感情の中身そのものを書くかどうかは、また別の話。
 いても立ってもいられないくらいに、「書きたい衝動」に駆られるからこそ書くことはありますし、基本的に
 はその衝動があるからこそ書くことが出来ます。
 書くことでその衝動を治めることは出来ますしね。
 でも、それは自分のその衝動がもたらす様々な感情を払拭するために書いていたのでは、それは実は
 その衝動そのものを治めることとは繋がってはいないのですね。
 なぜならば、その衝動は、感情では無く、むしろその感情なりなんなりと向き合っていきたいなという、
 そういう意識そのものだからです。
 感じたことを書くのでは無く、感じたことについて考えたこと、そしてその考えたことでさらに感じたことを
 描いていく。
 そう、自分がそれを本当に感じているのかどうかなんて、関係無いくらいに、ですね。
 
 その肝にあるのはそしてやっぱり、孤独、なんだと思います。
 なんのために自分はそれをしているのか、という問いを突き詰めるからこそ、初めて自分の衝動の正体 
 がわかってきます。
 そしてそれがわかるからこそ、その衝動と共に歩んでいる自分を感じることが出来るのです。
 いえ。
 たとえそれが出来なくても、そうしようと志向すること自体に意味があり、その主体性こそがきっといずれ
 それを可能にしていくのだと思います。
 たとえ自分がやっていることがただのストレス解消のためだけだったとしても、それでもいい。
 だけど、ストレス解消でやっていることと、ストレス解消のためだけにやっているということは違うのです。
 ストレス解消のためにやっているけれど、それだけのためにやるのじゃないんですね。
 というより、それだけじゃ無いって言い切ることにこそ、その今自分がやっていることの価値がみえてくる
 のかもしれません。
 そうすれば、色んなモノが視えてきます。
 自分がストレス解消のためだけにやっているんだと言っていた時には視えなかったモノが、沢山。
 それってとっても、豊かな光景ですよね。
 
 それにしても、ほんとこの「もっけ」って魅せ方がすごい。
 瑞生のときのあの根性爆発の動的な見せ場もあれば、今回の静流のような雨の中の孤独と交わる
 歓喜の静的な見せ場もあるんですものねぇ。
 そう、まさにお祖父ちゃんのこの言葉が、今回のすべての核を言い表してました。
 
 『動くは陽の陽。静まるは陰の陽。
  動き回る陰火はさしずめ、陰中の陽気ってな。』
 
 はぁ・・・お祖父ちゃん最高。 (溜息 笑)
 
 
 という感じです。
 もっけを観ることで、もうほんと色んなことが視えてきましたよ、私。
 ああ、もっともっけを視たいなぁ。
 そしてだからこそ気づきます。
 もうちょっと、なんとかならんの? これ。 (自分の文章を読み返しながら 笑)
 
 それでは、また来週。
 お楽しみに♪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 ◆ 『』内文章、アニメ「もっけ」より引用 ◆
 
 
 
 

 

-- 080114--                    

 

         

                               ■■寒いとタオルケット■■

     
 
 
 
 
 疲れた。 (挨拶)
 
 新年早々にはっちゃけて、疲れて、そして後片づけ共々にペースダウンしてまったりし、
 そしていざ始めましょうかと思ったら、後片づけのときにずっとしゃがんでやってたのが腰にきた、
 そんな感じな今日この頃の紅い瞳です。
 もう、筋肉痛がいつやってくるのかわからない、そんな感じです、ごきげんよう。
 
 でも、この間ちょっと運動したときには、その日のうちに筋肉痛きたですよ。
 二の腕がこう、ぐわーっときたですよ。
 ・・・・あれ? あれはもしかしたら筋肉痛じゃ無かったのかもしれない。
 ただあれ、しびれてただけとか?
 疲れすぎて腕が上がらなくなってただけとか?
 ええと、筋肉痛ってどんなんでしったっけ?
 
 はい。
 
 さて、なんだかもうなし崩し的に新しい年をひた走ったりこけたり止まったり寝ころんだりしているのですけ
 れども、皆様は如何お過ごしでしょうか?
 寒いですよねぇこの頃、ほんと寒い。
 なんだかそろそろ今使ってる布団じゃ生き残れない気がしてきましたよ。
 あれな、最近干しても全然あったかいのが持続しないねん。
 ていうか、保温しないっていうか、中の綿とかもう死んでんじゃね?
 去年の今頃と大体同じ装備ですのに、なんだか今年は死にそうですよ、何度寒さで目覚めたことか。
 いやそれ以前に、寝付けない。寒い、っていうか、冷たい。
 むー、でもこれほんとに布団のせいなのかなぁ、これ新しいの買っても変わらなかったら損ですよねぇ、
 ・・・・・って、確か去年もそんなコト考えて、毛布と掛け布団の間にタオルケット一枚挟んで凌いだよう
 な気がするっていうか、ええと、タオルケットどこにしまったかな。
 
 はい。
 
 
 ◆
 
 さて、なんだか頭が痛くなってきましたので、アニメの話をして今日は店じまいです。
 あ、新成人の人達おめでとー。
 ええと、そうですね。
 今期はこれで一通り視聴予定のものを観ましたけれど、うーん、やっぱり「狼と香辛料」でしょ。
 これ、こういうのを今一番観たかったのよ。
 自分が観てみたかったものが観られるなんて、これは幸せですよ幸せ。
 しかし、調子に乗ってると、いつの間にかその自分の期待してる先入観に合ってるか合ってないかで観る
 ようにもなってしまうので気を付けないと。
 よしよし、この作品はどんだけ可能性があるのかな、もっともっと面白くなれるように観てみようと、そうい
 う感じでバリバリムシャムシャと観ていきたいと思います。
 まぁ、素晴らしさについては追々語っていけたならばと思っています。
 とにかく、観て感想を書くことを決めたことだけは確かです。
 他にはなんかこう、ほら、ぐにゃぐにゃっと、ふよふよっと、ええと、なんかこうぐわーっと、そういう、えー、
 なんかそういう感触です。なにがなにやら。
 まぁうんあれだ、いつもの如く、気に入り過ぎたり感動し過ぎて泡吹きかけると、途端に表現が曖昧に
 なるという症状が現れてきてる私ですので、お許しを。あんたいつもそれだ。
 取り敢えず、狼万歳。
 あと、「もっけ」もね。
 ついで過ぎだろ。
 
 うーん、今日はどうも筆のノリが悪いです。
 新年に入ってから、週三回のハイペースをなんとかやりこなしているところですのに、ここでストップか。
 そうなのか? 紅い瞳。あんたはここまでの人なのか?
 ・・・・・・? (周囲をきょろきょろと見回して。)
 ま、まぁいいです。いいんですよあんたはそれで。
 なんとかなりますよ。
 ・・・・・いやほんま感想書かんと。
 本音言わせて貰うと、やっぱり週にふたつの作品の感想書くのきっついわ。
 やろうと思えば出来ちゃう訳だけど、紅い瞳はやれば出来る子な訳だけど、どうも調子に乗り過ぎる癖
 があって、すぐに我を忘れて頑張って、そんでばたーんと無責任に疲れたーとか言って寝転んじゃう。
 どんな奴やねん。あ、私のことか。ご、ごめんなさい。
 
 いや、そういう話はよくて。
 
 えー、まぁ、その、なんだ。
 なんの話したかったの忘れちゃったじゃないの。
 というか、こうして話を引き延ばしてる間にせっせとなに話そうかって考えてたのに、いつの間にか引き延ば
 しに集中しちゃって、なに考えてたか忘れちゃったじゃないの。
 ・・・・。
 この展開も、いつものことです。どうでもいいです。
 あ、思い出した。
 これだ。
 これですよ。
 今の私が一番して輝ける話はと言えば、これですよ。
 
 アニメの話を、します。
 
 
 
 ◆
 
 えー、今期視聴するアニメが決まったんでー、それをちょっと報告しようかと思いましてー。
 くはー。 (やる気度低下中)
 んじゃまー、そういうことなんでー、リストアップしましたんでー、よろしく。
 
 
 月曜: アリア3・ガンスリ2・(バンブー)
 火曜: 無し
 水曜: 狼と香辛料
 木曜: (クラナド)
 金曜: 無し
 土曜: 破天荒遊戯・シゴフミ・(ガンダム00)
 日曜: みなみけ2・(もっけ)
 
 
 ()付きのは前期からの続きモノということで。新番は全部で6つです。
 あー、アニメ無しな日が二日もあるー。
 それが一体どうしたというのか。
 
 はい。
 
 んで、今期アニメは、そうですねー、うーん、やっぱり「狼と香辛料」でしょ。さっきも言いましたが。
 これはとにかくどなたにもお勧めしたい作品です。是非ご覧あれ。
 今の気分的には、この作品の良さを伝えるよりも、この作品を観ることにした、この作品を選んだ
 私の叡智をこそ褒めてあげたいです。ありがとう、そんな私が大好きだっ。
 ていうか、これは私んだ。 ←「狼と香辛料」の映るテレビ画面を抱き締めて。
 はい。
 そして、他には「破天荒遊戯」でしょうか。
 かなり作りは荒いので、嫌いな人は嫌いでしょう。
 でも、ここで盛り上げるってとこではがつんときて、というか見せ所ははっきりいって最後のキメ台詞的
 会話にあるので、とにかくそれでああすっきり、という風になれる人にはお勧め、ってなに言ってんのか
 よくわかりませんね私。
 まぁうん、色々考えながら観てみてください。お勧めです。
 んで、「シゴフミ」も形は違うけれど、「破天荒遊戯」と目指しているものは同じかなーって。
 結局第二話は私が思っていた通りの展開で、それ自体は、で、だからなに? そこからなにを描くかが
 肝心でしょう、という感じではあったのですけれど、泣いた。あれ、泣いてるや私・・(涙をぬぐいながら)
 こう、ぐっときますね、迫力が違いました。
 言いたいこと自体はそれほど思考性が高い訳じゃないのだけれど、それが「どういうことなのか」という問
 いでは無く体感としてぐっと主体的に感じるときに、こうぐわーっとくる。
 ・・・・肝心なところで擬音を使うのは私の悪いクセだと思うんだ、うん。
 「シゴフミ」は論理とか哲学を使って読み解き思考して観るのも結構だけれど、それと共にそれをほっぽ
 ってでさえもその目の前の登場人物にのめり込んで観てみることをお勧めします。
 そうすりゃ、「考えること」ということがどういうコトかもわかる気がしたりしなかったら。そんないい加減な。
 
 はい。
 
 全然エンジンがかかりません。
 すみません、ごめんなさい、申し訳ありません、ええと他の謝罪の言葉ってあったっけな?
 あと銀魂が面白いです。ありがとう。
 あーもう、なんだこりゃ。
 どんなノリですか。
 そんなに眠いんですか。
 どんだけ眠いんですか。
 眠。
 眠いような気がする。
 あれ?
 なんで私まだ布団の中にいないの?
 もうおねむの時間じゃないですか、こんなね、かじかむ指先をさすりながらキーボ打ってる場合じゃ無い。
 ていうかどんだけ寒いんだよ。ほんっと電気ストーブ使えない。
 いやむしろ私の指が使えない。なんでこんな末端部分がすぐに冷たくなるかなー私。
 寝よ。
 もう寝るよ。いま寝るよ。
 寝る。
 
 
 ええと、タオルケットどこにしまったかな。
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 080112--                    

 

         

                       ■■狼は探す約束をぬくもりを幸福を■■

     
 
 
 
 
 『・・・優しくしてくりゃれ♪』
 

                          〜狼と香辛料・第一話・賢狼ホロの言葉より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
                                  ・
 
             ・
 
                               
 
                    
 
                                      ・
 
                        
 
                               ・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

星を みよ

 
 
 
 
 
 
 雫を浸した水面に浮かぶは月光の階。
 蕩々と注がれゆく闇の涙は夜の果てに星を刻む。
 滑るがままに広がる白雲が照らすは星影の元に佇む一杯の息吹。
 凍り付く銀盤を埋める細やかな雪が一握りの熱度を今、感知する。
 燃える、燃える。
 立ち止まるように、流れさえも止めるように、ただひとつ刻まれる鼓動。
 無音が、静寂を支配していく。
 一歩、ただ一歩を以て其処に屹立する鼓動。
 すべては天穣の果てに、すべては大海の淵に、すべては闇夜の胎内へ。
 なにも無い。
 白銀が、闇を統べる。
 迸る疾風が、雪を飛ばしていく。
 立ち尽くす。
 舌は口腔に張り付いている。
 肌は・・・・・肌は・・・いない・・
 叫ぶこと叶わず、見つめる者もまた有らず。
 嗚呼・・・・・・
 
 なにも感じない
 
 迷い路無き荒大。
 鼓動のみが森々と生い茂る。
 純白の砂地が雪を溶かし明けぬ夜は永遠に月のぬくもりを地より奪い去る。
 なにも、感じぬ。
 瞬間。
 ただひとつの、ただひとつの瞬きが鼓動から耳を逸らしたとき。
 初めて、風音が、耳先を焦がすのを感じていた。
 広大無辺な世界は、一瞬で、その玉座から舞い降りた。
 満ちる世界。
 世界。
 世界。
 そうか。
 
 初めて、私は、自分が此処にいることを、知った。
 
 
 
 
 

〜溶ける心を鷲掴みに 散る体を掻き寄せて 往く〜

 
 
 
 
 

 ◆

 
 『初めはなにも無かった』
 『あったのは、ぬくもりだけ』
 
 

 −− 『そして、約束が結ばれた』 −−

 
 
 
 
 
 心が騒ぐ。
 体が踊る。
 どこまでも広がる麦穂が、それでもどこかで途切れることを知りながら、しかしその広大の果てをこそ
 夢想する愉しみは果てしなく、また尽きることを知らない。
 豊かさの限りを尽くしてなおその豊穣という文字を指でなぞれば、無限にそれは実りを迸らせていく。
 それは、敬いなどでは無かった。
 畏怖、でも無かった。
 そこにあったのは、ただの享楽だった。
 白く流れる雲の尾を掴み、浮かぶままに天の輝きと戯れる。
 そして飛び降りた大地に寝転べば、暖かな日差しを感じるままに、地の深さと抱き合った。
 天を仰ぎ地に臥し、満ちていく笑いで歪む頬を愛おしく撫で、苦渋を噛み締めた棒のような足を撫で
 さする。
 森に分け入り川を渡り、海に漕ぎ出し山を越える。
 そう。
 月光の階から舞い降りたひとつの息吹はそれだけの事を成し、しかしそれは未だ世界のすべてとひとつ
 となることは無い、その広大で深遠な孤独を感じる悦びがあり続けたのだ。
 歩いても歩いても、果てぬ世界。
 踊れ、歌え、幼き欲望のままに。
 歌え、踊れ、幼き友人と共に。
 背を照らすぬくもりのままに、足を穿つ苦しみのままに、感謝と呪いを奉ろう。
 そこに神などいなかった。
 ただいるは、心通う友達だけだった。
 黄金で満たす麦畑を共に駆け回り、氷河の欠片よりも重たい雨を共にその身で受け止め、ただその
 息吹燃えさかるままに、私達は共にいた。
 人よ、狼よ。
 我らは友だ。
 人が可能性を手にしていくのなら、狼はやがて神ともなろう。
 ただ幸せのままに。
 ただ風吹くままに。
 あるがままに、なるがままに。
 結んだ約束の手を放さぬままに、我らはこんなに遠くまでやってきたのだ。
 人よ、人の子よ。
 我は、此処にいる。
 お前達が視た約束の先に、私はいる。
 
 転がる金貨。
 黒く染まる轍。
 響く楽隊の足並みに、轟く酒客の罵声が空を蒼く染めていく。
 走り回る風が、人々の間を駆け抜けていく。
 狼だ、賢狼のホロがそっちに行ったぞ!
 笑いさざめく麦穂が一歩一歩刈り取られていく。
 最後の一束に込められた約束が、私をそれでも捉えていてくれる。
 約束こそが我が神体であり、しかしその体があるからこそ私はそこから抜け出せぬ。
 私も、人の子らと共に世界を飛び回りたいものだ。
 もはや世界は遙かに満ち足りつつある。
 そしてさらにその外に新たな闇夜を築き、またその上に月の階が掛かるであろう。
 始まる。
 始まるのだ。
 新しい世界が、また。
 人の子は実に膨大な世界を踏破した。
 もはや最後の一束の麦で得られる幸せでは足りぬのだ。
 ならば、約束を更新したいものだ。
 この麦から、この約束から抜け出たいものだ。
 我が神体「賢狼ホロ」は、もはや味噌っ滓にしか過ぎ無くなっているのだ。
 からかわれて馬鹿にされて、そうされることで居場所を得ている神としての価値はあるが、しかしならば
 私はさらなる神体をも得てみたい。
 私も、人の子らと交わり遊びたい。
 私も、人の子らと共に前へと進んでみたいぞ。
 深遠なる月光が照らす、無上なる白銀の大地に屹立する孤独。
 私はそこに帰りたい。
 すべての始まりの大地。
 すべてが等しく終わる闇の下。
 そこに、帰りたい。
 また、始まりたい。
 神としてひとつの神体に固められた功績を胸に、私はまた新たな神を産み出して魅せよう。
 『恩知らずじゃな。わっちに剣を向けるとは。』
 『ん? あそうか。ぬしは村の人間じゃ無かったの。ごめんよ、忘れとったわ。』
 滑るような月光が心地よい。
 食欲を満たす感触は久しぶりだな。
 美味い。
 
 
 
 『わっちの名は、ホロ。しばらくぶりにこの姿を採ったが、うん、なかなか上手くいっとるのぅ。』
 
 
 
 『わっちはホロ以外の何者でも無い。』
 
 そうだ。
 賢狼ホロと崇められ忘れられ貶められる神。
 そして、それは私の体のうちのひとつにしか過ぎぬ。
 私はホロ。
 ホロという名の神であり、神として縛られてきて、ただの神の名を冠せられたひとりの狼にしか過ぎぬ。
 それが、賢狼ホロ。
 しかし、狼神としてのホロと、今のこの受肉したこのひとりのホロは同じものぞ。
 私はただのホロであり、そしてまた神でもある。
 神と呼ばれているだけでもあり、また呼ばれているからこそ神でもあるのだ。
 我を崇めよ、我を畏れよ、祈れば実りを授けてやろうぞ。
 ふふふ、冗談じゃ。
 お前は、神というものがどういうものであるのか、わかっていないようだな。
 私はホロと名乗っているが、もし他の者がホロと名乗っていれば、そいつもまた賢狼ホロだと言えるの
 だぞ。
 最後の麦の一束を刈った者にはホロが憑く。
 いいや、ホロになるのだ。
 ふふふ、だから私も、その最後の麦を刈った村人のひとりなのかもしれぬぞ。
 私が本物かどうかだと?
 だから私は本物だと言うておろう。
 それでは不服か?
 観よ。
 星を。
 この夜空を。
 わからんか。
 わからぬか。
 情けない奴じゃ。
 
 どうだ、私の狼の姿を視た感想は。
 ま、それだけびびって蹲っているのをみれば問うまでも無いか。
 私の姿が、私の神としての体が、そんなに重要なことなのか?
 私が、ホロであるかどうかということに。
 言ったろう? 私はホロ以外の何者でも無い。
 その「ホロ」が、神だろうと気が触れた人間の女だろうと、関係無かろ?
 だから、私は神だ。少なくとも、こうして神と名乗っておる。
 
 −− そして
 
 
 『わっちの生まれはずっと北の大地よ。
 
   夏は短く冬は長い。
 
    生まれ故郷のヨイツの森。なにもかもキラキラ光る、銀色の世界よ。』
 
                                                私は私だ −−
 
 私がお前達の望むような物を与えてくれる神、であるとは言わぬ。
 だが少なくとも、お前達がその神として崇めてきたのは、紛れも無く私だ。
 だから、たとえ私が狼神としての姿をみせたとして、一体それがなんになる。
 お前達の目にはただ、化け物が映るだけであり、そしてその姿に様々な願いなり畏れなりを見込むだけ
 だろう。
 ふふふ。
 
 どうじゃ?
 私と旅をせぬか?
 
 『ぬしは旅の行商人じゃろ?
  連れてってくりゃれ?
  わっちの人を視る力は確かじゃ。
  ぬしは人の頼みを無下に断るような、心の冷たい奴では無かろ?』
 
 ほーれ、星はずーっと流れているぞ。
 先ほどまではそれほどでも無かったが、随分と虫の音が深く響くようになってきたな。
 おお、月光が翠を帯びてきたの。
 美しいのう・・・・・暖かいのう・・・
 ふむ・・・
 私がお前を優しい奴じゃと断定するのは、お前達が私をこういう神だと決めて崇めるのと一緒じゃろ?
 私は無論、その人の子らの描いた、願望に満ちた神でいることも可能だ。
 すべては私次第なのだからな。
 だが、それと共に、私がただのホロであることもまた事実だ。
 いや。
 ただのホロであることも、賢狼ホロであることも、それらは私がそうであろうと思うか思わないかに関わらず
 、既に我が存在のひとつとなっているのであろうかな。
 私はそれが哀しく、また嬉しくもあり、また哀しい。
 私がただのホロだけを認めて貰っても虚しいだけだし、賢狼ぶっているだけのもまた虚しい。
 人の子らが、どんどんと賢狼を崇めれば、ただ彼らと遊び回っていただけの私は辛い。
 しかしそれでもこの村を守ってくれと祈られれば、頼りにされれば、私こそ神だと大きく空に誓いを立て
 もしよう。
 そして時が流れ人の子らは成長し、もはや私が培い誘った麦畑の中の幸せだけでは飽きたらずに、
 実に様々な世界へと向けて歩を進めていく。
 その中で賢狼は忘れられ、そして覚えている者達ももはや、まさに麦畑に残った最後の哀れな一束へ
 の同情を寄せるようにして礼拝するのみ。
 賢狼は、死んだ。
 ふふふ、不思議なものだな。
 私はまだここにこうして、生きて居るというのにな。
 神は死んでも、狼は残るか。
 いいや、狼が滅びても、ただのホロは生き続けている。
 
 ふむ。
 ならば我は、何者だ?
 我はそれでも、神である賢狼ホロでは無いのか?
 
 私はただのホロだ。
 それ以外の何者でも無い。
 そしてだからこそ、そのホロは神でもあれば狼でもある。
 私は、私だ。
 だが、だからこそ私は、私は私だという言葉、私はただのホロでしかないというその意識、それを胸にして
 生きるつもりは無いのだ。
 私は、ホロ。
 ただのホロであり。
 巨大な狼であり。
 そして。
 豊作をもたらす狼神、賢狼のホロでもある。
 だが、神は死んだ。
 
 
 しかし、ホロはいる。
 人の子らの頼みを受けて、輝ける月光に手を伸ばし、我は神ぞと誓うホロが此処にいるぞ。
 
 
 
 『わっちはこの時期、刈り取られた麦の中にいる。いつもはそこから出られない。人の目があるからの。
 
  しかし例外がある。
 
  もし、最後に刈り取られた麦よりも多くの麦が近くにあれば、わっちはそこへ移動出来る。』
 
 
 
 麦畑の幸せが人の子らを満足させぬのなら、今の世に彼らを最も満足させるものはなにか。
 そうじゃ。
 お前じゃ。
 数々の交易品を数多の地に運び利を得る、その荷馬車の中にこそその最も新鮮な幸せがあるの
 じゃな。
 ならば私は、今度はその交易の神となろうぞ。
 麦畑を守る神であり、また交易の神でもある、賢くて美しくてとにかく素晴らしい神、賢狼のホロじゃ。
 だから、連れていってくれ。
 私を旅の迷い道の中に。
 人の子らの願いそのものが、神を創り出す。
 だから、私が麦畑の神だけであったときに、様々な無理な願いを彼らは私に懸けており、それがただの
 ホロとしての私には辛かったものだが、よく考えればそれらの無理な願いをも、脈絡無くひとつずつ叶え
 ていくことの中にも、様々な神があったのだな。
 私は麦畑を守る神でもあり、また壊す神でもあったのじゃ。
 ふむ。
 なにもおかしいことなど無かったのだな。
 人の願いの中にこそ、神はいる。
 ならばただただ、人の願いを求めて神になっていけば良かっただけなのだ。
 
 
 それが、ただのホロが此処にいるということ。
 変幻自在、あらゆる神の可能性を秘めた存在。
 
 
 我は神なれば、なんの弱みも無い完璧な存在じゃ。
 しかし同時にただのホロなれば、哀しみもするし怒りもする。笑ったりもする。
 だからこそ、人の子らの理不尽な神への態度に絶望したりもする。
 お前達のためにこそ、神であるこの体を磨いてきたというのに・・
 『わっちの望んだことは、そんなことでは無かったのに・・』
 人の子らに忘れられ、それでも踏み止まり、それでも貶められ。
 なにがしたかったのであろうな、私は。
 その問いがそして、私をこの旅路へと誘い、そしてお前を呼び寄せたのじゃ。
 そうじゃ。
 私のそれぞれのおもいすべてが、神そのものなのだ。
 哀しみ、怒り、悦び、絶望。
 そして、希望と、幸福。
 ただのホロのその感情のすべてが、神の特質として我が神体には既に含まれているのだ。
 ほら、その諸々の神々が私の中でさざめいているぞ。
 轍を嘗め上げながら荷馬車を追うその透き通る風が、髪を梳いて気持ちいい。
 この道の先に広がり往く豊穣無限な世界が、続々と幸せで満ちていくのがみえるぞ。
 その幸せがどんなものか、まずは神として見聞せねばならぬの。
 『この先未来永劫、ぬしの名はわっちが美談にして語り継がせよう。』
 そして同時にただのひとりのホロとして、この商い道中を愉しまねばの。
 わかっておる、わかっておる。
 『わっちもタダ飯を貰って安穏としているほど、愚かじゃありんせ。』
 どこまでも澄み往く世界の中で、人の子らの刻む一歩一歩の道を共に歩む、か。
 
 
 これこそ、我が太古よりずっとずっと求めていたものじゃな。
 
 
 うむ。
 
 
 
 『わっちは賢狼ホロ。』
 『誇り高き狼じゃ。』
 
 
 そうだろう?
 一応、人では無いのだからな。
 狼と名乗るのが丁度良いだろう。
 
 
 よろしくな、ロレンス。
 
 
 
 
 この隣に座る約束のぬくもりがこそ、私をこの月光の下に留めさせている。
 
 
 
 それはもう、狂おしいほどに、優しく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ◆ ◆
 
 青い月の下に広がる冷たく凍った砂漠。
 そこに立つたったひとりの存在。
 周りにはなにも無く、ただキラキラと銀色に輝くものだけがあった。
 
 そこには、可能性という名の無が、無限に広がっているのです。
 
 「狼と香辛料」。
 これこそ、今私が一番観てみたいと思ったアニメです。
 こんな作品を待っていた!
 孤独と豊穣。
 なにも無いのに、どうしても其処にはなにかが在る。
 これは、再生の物語です。
 そして、始まりも終わりはここには無く、ただ生きていくことが出来る世界があったと、ただその溜息にも
 似た気づきだけが、その世界を色付かせていくのです。
 想像すれば、手で触れれば、どんどんどんどん世界が広がっています。
 耳を澄ませば、無上に美しく透明であり、しかしただ白銀だけでしかなかったその世界の果てから、
 豊穣で極彩色に満ちあふれた世界がやってくる。
 いえ、やってくるのでは無く、既にそれはその重い雪解けの水が咲かせる、その白銀の大地より芽吹く
 モノとして既にそこにあったのです。
 美しく、そして豊かな夜空が暖かい。
 なによりも冷たい極寒の月光が肌の上を滑れば滑るほどに、その光の落ち先を眺める端から、その
 月影の中の世界は優しく明るく暖まっていく。
 
 そしてその中で言葉を紡ぎ、自らの在り方を自由奔放に変えていく。
 いえ、変えるのでは無く、既に此処にいる自分がいくらでも同時に様々な姿を持っていることを自覚し
 ていくモノとして、その自分の存在を感じていくのです。
 変幻自在に言葉を重ねるその側から、僅か一呼吸のうちに見回した世界の美しさを噛み締める。
 月光の下で交わすホロとロレンスのやりとりが、それだけで次々と世界の素晴らしさを享受し、またその
 うちのひとつと自らを成さんとする、そんな静かで広大な熱気が感じられます。
 ああ、もう、私も思いっきり感じたい。
 物語の端々に澄み渡る、ひとつひとつの世界の欠片を撫でさすり、白く大地に沸き上がる虫の音に
 耳を澄まし、そしてふと画面から目を離したときに感じる、一杯の静寂を感じたい。
 目を閉じて、明日を想えば、そこにはまた明るい朝日の下に広がる無限の豊穣があることを感じたい。
 奥行きはそんなにありませんよね、この作品。
 生命感とかそういうのも、あんまりしません。
 でも、主観として、自分中心として、そこから世界を感じていこうとするときに、そのときにはもうなんとも
 言えないほどに、身の毛がよだつほどに世界があまりに多くのモノで埋まっていることを感じらることが
 出来ます。
 会話が主ではあれど、しかし会話なんか世界のうちのひとつでしか無く、虫の音に耳を澄ませしたり、
 他の人の本気の気持ちを受け止めたり受け流したり、そうして色々なことをしていても、答えは常に
 見つかっていく。
 
 ぎくしゃくした、しかしだからこそ、人々の熱気がいびつさのままに燃え上がっていくのを感じます。
 みんながみんな、目一杯幸せを求めようと冒険者になる、そういった情熱が、画面にぎっしりと詰まって
 います。
 いびつであればあるほど、ぎくしゃくしていればいるほど、それはそれ自体が非常なリアリティを以て、
 そして「物語」という枠組みから外れ、その「物語」でさえその人々の営みの道具のひとつとしてしまえ
 る。
 麦穂が風に揺られ、金貨が転がり、教会の鐘の音は鳴り響き、轍は黒々と線を刻みつけていく。
 すごい、活気。
 「活気さ」そのものを描き出そうとはしない、そういった心意気こそが、真にひしひしとその静かなる活気あ
 る人々の世界そのものを迸らせています。
 そして、私もその中に、するりと入ってしまいました。
 OPの独特なリズムが、私の体を滑らかに動かし、手拍子を取る間も無く、お、このリズムもいいけど、
 こんな感じにスローな感じも合うかも、なんなら途中で変調もしちゃっても、ああタンバリンがあったらいい
 のになぁ、でもそっと掌から腕の裏に沿って指をなぞらせるとなんかゾクゾクっときて、あ、この少しの興奮
 アリな寒気がこの孤独感にあってるねぇ、そうそう、寂しいだけどなんかゾクゾクするみたいな。
 そう、雑踏の中で迷い呆然とするときの、あの感覚に似ています。
 私はなにかを探していてそれを見失い、だからこそ迷子になり、そして孤独を感じ路頭に迷うのだけれど、
 その目の前にある雑踏はその孤独を際立たせながらも、しかしその足並みが立てる熱気と、そしてそれ
 が包む街の活気が肌をビリビリとさせてもいる。
 この、静かな興奮、これが、この「狼と香辛料」という作品はあるのです。
 人間の創り出したあらゆる産業も、大自然なるままの恵みも、みんな世界に満ちる熱気と活気の顕わ
 れ。
 なにも無い月光の下の砂漠にひとり佇む孤独は、限りなく市場の中でなにを買おうかと悩むことにも
 繋がっています。
 ホロが旅に出るのも、クロエがロレンスと組んで初の大仕事に挑戦するのも、みな繋がっています。
 それらひとつひとつの描写が作り出すモノの面白さもさることながら、しかしそれからひょいと目を離して
 でさえも、手放しででさえも、ぶらりとひとりあの世界の中で私は遊んでいられる気がするのです。
 良いですね、この感じ。
 EDも一風変わった童話的挿絵を並べた感じで、またひとつの側面をこの作品に与え、その感触からも
 この作品の世界の中でやっていける気を起こさせてもくれます。
 
 なんて、感想の書き甲斐のある作品なのでしょう。
 
 会話の中身について考え、自分なりにこれはこういう風に考えていくことも出来るだろう、ということを
 書き、しかしその考えを有しながらあの世界に生きるということはどんな感じなのだろうと、そうしてあの
 世界を肌で感じていくその体感を求める意志のままにも書いていきたい。
 もっともっと感じて、感じるままに考えていきたい。
 そしてぽっと文字を綴る手を休め、その指先でなぞる感触を忘れ、ただ夜空の星を数えてみるのもいい。
 全部、全部、ゆっくりと書いていきたい。
 いやいや、私が通りがかって目にしたものを、ただゆったりとおもうがままに描いていきたい。
 全部なんか書こうとしたら、また整合性やらそういうものに気を取られてしまうものね。
 ただ筆の走るままに、書けるままに、私の目と耳と肌を信じて。
 あと、しょうがないので、私の言葉も頼りにしています。
 語らねば、「物語」せねば、やっぱり顕せぬモノもありますゆえ。
 
 今期は、この作品で感想を書くことにします。
 そしてこの「狼と香辛料」に感謝します。
 今期で一番良い作品ですよ。割と圧倒的に。
 私としては珍しいことに、手放しでお勧めします。
 第二話を観ないうちにそう言い切れるのなんて、とても久しぶりな気がしています。
 あ〜、この作品に期待していて、ほんっとうに良かった。 (感涙 笑)
 
 ちなみに、感想的には、如何に私が形式に囚われないかをポイントにしていきたいと思っています。
 とにかく自分の感じたこと思ったことをちゃんと表すためにこそ、文章の形式を流れるままに作っていきた
 いです。
 会話がメインな作品ですが、その会話の中身について哲学したりもしますけれど、なによりも重要視
 したいのは、「世界」の体感をどう描くかってことです。
 つらつらと喋っていながら、その喋っている今の自分がなにを感じているのか。
 草原の真ん中で喋っているのなら草原の風を描き、町中の喧噪の中でのやりとりならば喧しさの熱さ
 が伝わるように。
 当の一人称で語っている本人が、ふとそれらの世界を感じることが出来るように。
 そういうのを、是非書いていきたいなと思っています。
 それと、主人公でホロの言葉遣いに関して、というのがなにげに重大問題なのですけれど、あれは
 完全にホロ語のようでそれなりに学んでからでないと、完全なるホロ口調で喋ることは出来ませんので、
 ごく普通の語り口で基本通し、時折本編での台詞を引用する際にはその口調をそのまま使うことに
 する予定です。
 そもそもホロというのはただのホロでもあり神でもあり、ゆえにあらゆるモノでもあり得る訳ですから、あの
 口調自体もそのうちのひとつでしか無い、という解釈でやっていきます。
 ま、蛇足な説明でしたね。すみません。
 
 ということで、当「狼と香辛料」の感想を、どうぞよろしくお願いします。
 各回の感想のタイトルには、「狼」の一文字を入れて他の文章と区別しておきますので、検索の際には
 それを目印にしてください。
 
 それではまた、来週お会いしましょう。
 
 狼最高。 (笑)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                               ◆ 『』内文章、アニメ「狼と香辛料」より引用 ◆
 
 
 
 
 

 

-- 080110--                    

 

         

                                ■■ 信頼のいる祈り ■■

     
 
 
 
 
 『お祖父ちゃん・・・あの杖、根付くかな・・?』
 『どうかな。・・・まぁ、枝が木になることもあるだろ。』
 

                          〜もっけ ・第十四話・瑞生とお祖父ちゃんの会話より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 瑞生は、頑張り屋さんです。
 憑かれやすい体質であることにもめげずに、そして自分が憑かれやすい体質であることを嘆き、周りの人
 達との繋がりを自ら断ってしまうこともしません。
 あくまで普通の女の子でいるためにこそ、なんとかしてこの体質をそれでも克服していきたい。
 瑞生のそのおもいは、長く長く続いてきており、そしてこれからもそれが途絶えることは無い。
 瑞生は日々の生活の中で、当たり前のようにして、自らの体質がもたらす様々な災いと戦い、しかし
 決してその戦いに囚われて、その現実に逼塞しひねくれてしまうことも無い。
 それは、瑞生が天性としてそういう性向を持っているという訳ではありません。
 本人がそう思おうとも思わざろうとも、瑞生だって普通の女の子と同様、苦しければ嫌になり、それが
 続けば周囲に対して冷たくもなってしまいます。
 その本質を、瑞生は否定しません。
 しかし、瑞生には、強靱な願いがあったのです。
 苦しくて辛くて、みんななんかどうだっていいと、そうしっかりとそれでも時折思えてしまう自分を知っていて
 、しかしそれは同時に、自分がその苦しさや辛さを、そして孤立を求めている訳では無いことを、強靱
 に知っているのです。
 それでも私は、みんなと楽しく生きたいんだ♪
 
 その瑞生のおもいは、限りなく困難なものであり、しかしだからこそ瑞生はそのことに自らの一生を賭け
 ることが出来るというやり甲斐を感じているのです。
 それが困難であればあるほどに、それに全部注ぎ込む価値が出てくるじゃん。
 どっちも捨てずの精神を貫きそれを達成することにこそ、生き甲斐を感じられるじゃん。
 瑞生が日々逞しく頑張れるのは、そういう意識があるからなのです。
 訳のわからない妖怪達に襲われ取り憑かれ、そしてそれが友達にバレそうになる絶体絶命の瞬間に、
 そのときにこそ、瑞生の全身全霊を込めたその意識が爆発する。
 よーし、やったろうじゃないの!
 その場を凌げるのは瑞生だけ、妖怪に取り憑かれて訳わからなくなるのを放置するのは瑞生自身、
 憑かれやすいというアブナイ体質が友達にバレてしまうのは瑞生のせい。
 妖怪なんかいなけりゃ、友達にバレないかってひやひやしなくて済むのに、いやいや、それ以前に友達
 なんかいなけりゃ気にせずに妖怪と取っ組み合いが出来るのに、とそういう風に考える自分がいつも
 いることを感じるがゆえに、ふざけんなっとその自分を怒鳴りつけることが出来るのです。
 ある意味で瑞生は、その自堕落な自分を叱りつけることが出来る、つまりその自堕落な自分がいる
 からこそ頑張れているのです。
 
 なにもかも諦めてしまいそうな自分を叩きのめす、そのノウハウを求めそして鍛え続けてきた瑞生。
 どうやったら妖怪に取り憑かれないで済むのかなぁ、あ、でもそればっかり考えてると友達付き合い悪く
 なっちゃうもんなぁ、そこらへんのバランスを上手く取らないと、って考えてる暇無いな、ほらまたきたよあい
 つ、また私を桜まみれにしてひっくり返す奴、よし丁度周りには誰もいないな、よしこい! ・・・うわぁ(負)
 そして、そんな日々格闘の瑞生の前に、一本の棒が顕れるのです。
 ただの棒が、其処に落ちている。
 しかし瑞生には、それすらもなにかの役に立たないかなと、そう考えることが出来ます。
 これ・・・杖、かな?
 桜まみれにされてひっくり返ったその手で掴んだその「杖」を恃みに、そして立ち上がった瑞生。
 妖怪にひっくり返されないように支えてくれるつっかえ棒、そして倒れてしまっても起きあがる手助けをして
 くれる杖、そしてそうして自分に何度でも立ち向かう力を与えてくれるお守り。
 そしてなによりも、瑞生の強靱な願いを叶えてくれる、魔法のステッキ。
 瑞生はこの「杖」を拾ったことを大いに喜びつつ、しかしそれを小学生が持ち歩いていることの奇異さを
 どうするかを次の瞬間には考えだし、色々と飾り付けをして、まぁかなりあやしい目で見られることは
 避けられずとも、ちょっと変わったお守りとして周囲に認知させることに成功するのです。
 やった! うまくいった!
 
 
 さて。
 少し、話を加速させてみましょう。
 まず、切り口を変えます。
 静流は、瑞生の持っているその杖に、はっきりと桜の花が咲いているのを視ています。
 その杖は、ただの棒です。
 だから、その棒を持っていると色々上手くいくというのは、これは実はただ瑞生の力が反映されている
 だけなのです。
 お祖父ちゃんいわく、敢えていうなら瑞生の持っている力を増幅する装置なのです。
 瑞生がただの棒を、それを「杖」と見立てることによって、それを支えにして瑞生は自分の願いを叶える
 という意志に自信を持ち、杖さえあれば、杖を使えばなんでも上手くいくと信じられるからこそ、しっかり
 と現実に向き合え、純粋に自らの力を発揮できる。
 或いは、こうも言い換えることが出来るでしょう。
 瑞生は、自分の強靱な願いを叶えるためにこそ、それを否定しようとするあらゆる弱くて怠惰な自分を
 叩きのめす、そのための「流儀」の具現化したモノとして「杖」を認識していると。
 自分が今までやってきたことを体系化し、ひとつの固定化した流儀として認識し、そしてそれを極めて
 いく事の中にこそ、勝ち取り得る自分の願いがあると信じられる、だからこそ強くなれたのです。
 私は絶対諦めないよ、妖怪にも負けないし、友達付き合いもちゃんとやってくって。
 どっちかを捨てるなんて絶対しないし、両方達成してやるよ。
 それはとっても厳しいことだけれど、でもだからこそやり甲斐があるし、だからこそ滅茶苦茶頑張れるん
 じゃん!
 瑞生の願いを、それを外から保障してくれる流儀。
 此処にいる瑞生を、それを其処で支えてくれる杖。
 杖が其処にいるから、頑張れたんだよ私!
 杖様様だよ♪
 しかし、静流は敏感に感じ取っているのです。
 
 『瑞生はもっと、自分を信じてもいいと思うけどなぁ。』
 
 瑞生を強くしたのは、紛れも無くその「杖」という名の瑞生の流儀です。
 あらゆることにその流儀を元にして答えを出し、取捨選択を行い、そしてその流儀を手にして現実と
 斬り結ぶ。
 だから、流儀様様、杖様様。
 そして無論、その流儀を編み出したのは瑞生自身なのです。
 其処にいる杖を創り出したのは、此処にいる瑞生です。
 瑞生がただの棒を杖と見立て、それにすべてを注いで頑張れると思えたからこそ、強くなれた。
 しかし。
 静流は言うのです。
 それって、どうなのかな。
 瑞生には、その杖しか、その流儀しか無いの?
 此処にいる、その瑞生は、一体どうしたのかしら?
 瑞生が杖を手に頑張れば頑張るほどに、その杖の先から桜の花が大きく咲いていくのを視る静流。
 ほら、やっぱり。
 瑞生はきっと、その杖に、その「ツエザクラ」に憑かれてるんだ。
 お祖父ちゃんはこう言います。
 その杖の先の桜を育ててんのは、瑞生自身だと。
 瑞生は自分が作り育て上げ学んできた自分の流儀に自信を持っています。
 そしてその自信が深まれば深まるほどに、さらにその流儀は確かなモノになり、そしてさらにその流儀の
 瑞生の中での偉大さは増していくのです。
 静流は、それを受けて、こう思ってしまうのです。
 
 瑞生は、このままじゃ「ツエザクラ」になっちゃうんじゃないの? と。
 
 瑞生の流儀自体が、杖自体が悪い訳では無いのです。
 しかし、その流儀を杖を大事にするあまりに、それがあくまでひとつの流儀であり杖である、ということを
 忘れさせてしまうのです。
 もっと、気楽に生きろや。
 いいや、もっと、自分を信頼して生きろ。
 静流はこう思います。
 瑞生は、その流儀が無いとなにも出来ないの?
 本当に、そうなの?
 本当にその杖を、捨てられないの?
 瑞生は、忘れかけているのです。
 その「杖」が、ただの棒であるということを。
 道端にただ落ちていた、そこらへんの木の枝の折れた奴に、風で運ばれた布が巻き付いてあっただけの
 、ただそれだけのモノであったということを。
 無論それは、その棒を「杖」として見立てることが間違っているという訳では無いし、逆にそういう見立て
 とその効能を否定することの方が間違っています。
 いえむしろ、その見立てと効能を上手く使うことをこそ知る必要があると言えるでしょう。
 瑞生は、その杖を振り回して色々なことが解決出来ることに囚われて、それで拾い切れ無いモノに対し
 て冷たくなっていってしまいます。
 学校の壁新聞の写真を撮る約束を忘れ続けてしまう瑞生。
 しかたないからどちらかを捨てるということを否定し、両方とも取ると叫ぶあまりに、第三のモノに対する
 理解を忘れてしまっている瑞生。
 瑞生にとっては、目の前にあるふたつを取る、ということが目的である訳で無く、あらゆるモノを取って
 やるという超欲張り主義を全うすることにこそそれがあり、またそのために最も必要なのは、なにがすべて
 を取ることになっているといえるのかという哲学的思考と、そしてなにより今見えているモノ以上のモノを
 見つけ出す、その永続的深遠な観察力なのです。
 瑞生が取るべきは、目の前のふたつのモノのどちらかを捨てるということを否定することではありません。
 目の前のふたつのモノを取る、ということでもありません。
 あらゆるモノを、自分が未だ知り得ぬことすらも取る、そのために必要なことを延々と続けていくこと、
 それ自体こそが最も瑞生が求めているモノなのです。
 無論、そんなの不可能だと言うことを否定するのは当然です。そんなものは瑞生にとっては当たり前。
 
 そして、瑞生はやがて限界を感じてしまうのです。
 自分の流儀で切った張ったしてるだけじゃ、全然足りないということに。
 大事な杖を勝手に友達に触られてしまって激怒する瑞生。
 そんな大事なものなら学校に持ってくんなと言われて、返す言葉の無い瑞生。
 私はこの杖が無くちゃ駄目なのよ、ていうかこれがあるからあんた達と上手くやることが出来るんじゃん。
 あんた達と仲良くしたいからこそ、私だって我慢してこんなヘンな棒を持って・・・き・・・・て・・
 おかしいということに、一瞬で気づく瑞生。
 なに考えてんだろ、私。
 あいつらは悪くないじゃん、当たり前のこと言ってるだけだもん。
 私が空気読まないで、自分勝手なこと言って・・・。
 おまけに瑞生は、その杖のことで先生に呼び出されてしまいます。
 しかも先生は割と同情的で、日原さんが時折体調が悪くなることは知ってる、だからそれをカバーする
 ためにその杖がほんとに必要なら、基本的には持ってきちゃいけないけれど特別に許可するわ、とまで
 言うのです。
 どうしようもない気持ちに陥る瑞生。
 違うんです・・先生・・・・私は・・・ただ・・みんなと一緒に・・・普通でいるためにこそ杖を・・・
 そう、特別扱いされてしまっては元も子も無いのです。 
 瑞生はただ風変わりな私物を学校に持ち込んだ、健康で不真面目な小学生なのです。
 でもじゃあ杖を持ち込むのをやめれば、また妖怪に憑かれみんなとの普通の生活を営めなくなるかも
 しれない。
 せっかく全部上手くやるためにこそ、瑞生はこの「杖」を「発明」したのにです。しかも割と命を賭けて。
 そんな・・・私がみんなと上手くやるためには・・・杖を捨てるしか無いの・・?
 私の努力は・・・・私の今までの苦しみは・・・願いは・・・・・いったい・・・・・・
 そして瑞生は「仕方なく」、その杖を捨てようとします。
 しかし、瑞生の手はその杖を掴んで離さなかったのです。
 『お祖父ちゃんも、ただの棒だって言ってたし・・・・・・・バイバイ。』
 その棒を杖と見立て、そしてそれを抱き締めて必死に生きてきたのは他ならぬ瑞生自身です。
 その頑張りを、努力を、苦しみを、そして誇りを、それを一番一番圧倒的に知っているのは瑞生です。
 その棒を捨ててしまうのは、それらの自分の(正も負も含めた)財産をも捨てまたその正当性をも捨てる
 ことになってしまうのです。
 捨てられる訳がありません。
 いいや、誰が捨てるもんか!
 
 そして。
 しっかりと、静流の目には瑞生の腕にツエザクラが根を張っているのが視えています。
 
 
 
 私も、静流と同じく、全く同じく、こう思いました。
 
 
 瑞生。
 瑞生は、本当に、その杖が無ければ、なにも出来ないの? と。
 
 
 私は自分にもそう問いかけてみました。
 自分が信じて創り上げてきた考え方や信念、または哲学でもいいでしょう。
 みなさんも考えてみてください。
 今まで自分が築いてきた価値観なり観念、或いは信仰でも構いませんし、また実社会で培って
 きた経験なり学んできた常識なり通念なりでも構いません。
 それを使って強く生きてきた自分がいることは、確かですよね。
 そしてそれを胸に抱いていられるからこそ、強くなれると。
 誇りを感じて生きられると。
 でも、考えてみてください。
 深く、深く、無限に、広く。
 本当に、それだけしか無いのですか?
 私は長いこと、その自分の問いにケチを付け続けていました。
 そんなもの、ただ自己同一性が無いだけの、どちらつかずの不甲斐無さに囚われているだけじゃないか。
 最終的にはその言葉に行き着いてしまっていたのです。
 でも、どう考えても、それはおかしい。
 そして、そのおかしさがどこにあるのか、そして、その問いがどれほど正しいかを、やっとわかったのです。
 
 私は、私が創り出した「杖」を元手にして、世界と繋がっているのだと。
 だから。
 私は私であり、杖も杖でしか無い。
 私が此処に居る限り、私が手にすることが出来るモノは、杖だけでは無い、と。
 
  お祖父ちゃんは。「盲杖桜」という昔話をします。
 目の不自由な人が、目が見えるようになるためにと、遠いところにある塚にお参りに出る話です。
 杖をつきつき長い道のりを歩き、やがて着いた塚に目が見えるようにと祈るのです。
 そうすると不思議なことに目が見えるようになり、杖をそこに突き刺してその人は帰り、翌年その杖を
 指した場所には桜が咲いたのです。
 はい。
 それは一体、どういうことなのでしょうか。
 その人は、目が見えるようにと祈ったからこそ、目が見えるようになったのでしょうか?
 それとも、初めから目が見える力がその人にあったのでしょうか。
 静流は、こう、答えるのです。
 
 
 『その人に力が無ければ、そんな遠くまで辿り着けないんじゃないかな。』
 
 
 瑞生が強く生きられたのは、杖の力ではありません。
 瑞生がただの棒を「杖」と見立て、そしてその「杖」を利用してでも生きようとした、その意志があったから
 こそであり、そして。
 なによりも、その意志を貫徹する「チカラ」があったからです。
 それは、才能、と言い換えてもいいです。
 しかしそれは、天与のモノでも天性のモノでも無いのです。
 その才能は、瑞生自身がその「チカラ」が自分にはあると信じることが出来た、その事自体が顕在化
 したモノとしてあるのです。
 いいですか?
 その人に初めから、チカラがあったかどうかなんて関係無いのです。
 自分にはそのチカラがある、才能があるとそう言い切り、そしてそれを肯定するための理屈として、
 静流が答えたように、今少しでも上手くいっていることがあるのなら、それは元々そうすることが出来る
 チカラが自分にはあったからなんだと、そう「言う」こと、それ自体が重要なことなのです。
 根拠無き自信、そう、まさにそれです。
 そしてそれは。
 
 何者にも侵され得ない、自分による自分に対する、圧倒的な信頼なのです。
 
 瑞生が「杖」を得て、なによりも強くなれたのは、それは瑞生が初めから強い人間だったから、とそう
 言い切ることにこそ、その「杖」を使うことの意義がありまた価値があります。
 「杖」なんか無くても、最初から瑞生は強かった、強く生きられる才能があった、だから「杖」を使いこな
 せたと、そう言い切ればよいのです。
 瑞生の「杖」、すなわち流儀それ自体に善悪は無く、しかし自分にはそれしか無いと思ってしまった時点
 で、それは瑞生を捕らえて離さぬ魔性の「ツエザクラ」となってしまうのです。
 けれど。
 「盲杖桜」の盲人が、ただ目がみえろ目が見えろと祈り続けて蹲っているだけだったとしたら、きっとその
 目は開かれることは無かったと思います。
 その人が、その祈りを唱えながらその祈りを届かせるためにこそ、遠国の塚を目指して旅をしたからこそ
 、その主体的意志による、盲人の自分が杖ひとつで旅をするという無理をそれでもやり遂げようとした
 こと、その自分への信頼を元手にした祈りがこそ、その人の目に光をもたらしたのです。
 お前を強くしたのは、お前自身だ。
 なぜなら、お前こそがその「杖」を作りそれと共に戦ったのだからな。
 いいか瑞生。
 杖自体には、なんの力もありゃせん。
 お前の流儀の善し悪しは、なんの関係も無いのだ。
 流儀に頼るな、とは言わん。
 
 だが、その流儀を使いこなしているのは、一体誰か、それを絶対忘れちゃならん!
 
 お祖父ちゃんは言います。
 杖に拘るな、杖に囚われるな。
 杖に拘ることを、杖に囚われることを怖れるのならな。
 杖に拘れ、杖に囚われろ。
 そうしなくちゃ視えてこないことは沢山あるのだからな、と。
 『放したいか? 本当だな?』
 お前がその杖を放すということは、お前が今まで頼りとしていた流儀を手放すということだ。
 お前はそれでもう大丈夫なのか?
 お前、またモノに憑かれて友達の目を気にしたりもしなくちゃならなくなるな。
 それをお前は、お前の体一本で受け入れていかなきゃならなくなるぞ。
 そうだ。
 ただのお前だ、なんにも無い、ただの瑞生だけで、それらと向き合っていかなくちゃなんねぇぞ?
 お前に、それが出来るか?
 本当に、いいのか?
 
 
 
 
 
 よし     
 
          その意気だ
 
 
 
 
 
 そう。
 人は誰もが、どんな人でも、必ず生まれながらにして、裸一貫ですべてと戦える力を、才能を備えて
 います。
 不撓不屈の、圧倒的絶対的な戦闘心と、どこまでも広がりゆく可能性を秘めた精神と。
  何者をも赦せる絶大な寛容と、あらゆることを達成できる様々な能力と。
 ありとあらゆるチカラを才能を、人は必ず持っているのです。
 瑞生も、私も、あなたも、みんなみんな生まれながらにして、そして今この瞬間にも持っているのです。
 しかし往々にして、それらのチカラは隠されてしまう傾向にあります。
 その多くは、諦めによるものです。
 諦めることを正当化する理由を得ることにかけてもまた、人はすべて生まれながらにして天才です。
 厳しい現実に狼狽え、今現在発現じている「自分」という名の小さな存在を根拠に、ありとあらゆる
 理屈を展開し、そうして自らの歩く道幅を狭く削り取ることによって安心を得ています。
 自分の今手のうちに収まるだけの、そういう小さな「自分」だけに安心してしまいます。
 そしてそれは、あらゆる悲しみや絶望から我が身を守る防壁にもなります。
 でも。
 
 そんな自分が、お前は欲しいのか? 瑞生。
 
 もし瑞生が自分が求めているモノを諦めなければ。
 瑞生という「自分」は、その無限の可能性と「チカラ」を瑞生に与えてくれます。
 瑞生が杖を放すことが出来なくなったのを、お祖父ちゃんは未練があるからだと解きます。
 お前、ちゃあんとわかってるじゃねぇか。
 杖自体は悪くないよな。
 お前が一生懸命こさえてきた流儀が、悪いはずが無ぇ。
 そう。
 その杖を育てたのは、そのただの棒の先に花を咲かせたのは、お前だ、瑞生。
 『お前の、成長の証だ。』
 杖を、信じろ。
 杖に感謝しろ。
 そうすれば、やがて見えてくる。
 最高に、最高に、微笑んでいるお前自身の姿が。
 杖に、流儀に感謝して、そして、ひとり毅然と立ち上がった自分をお前は知るだろう。
 そうだ。
 お前は今、この手にした杖を、棒切れに戻すことが出来るだろう。
 そうだ。
 だが忘れるな。
 お前はただの棒切れだったモノを杖にし、そして杖を枝としてその先に花を咲かせたのだ。
 お前にとって最も大事なことは、その棒切れをどういったモノにも見立てることのチカラがある、ということだ。
 枝として花を咲かすことも出来れば、棒切れとして道端に捨てることも出来る。
 自由自在、あるがままに、そしておもうがままに。
 『地に根付き、枝葉付けろ。』
 
 
 『瑞生。』
 『こんな杖、いずれ朽ちる。』
 
 
 『俺だって、いずれ死ぬ。』
 
 
 
 『これからもお前は成長しなければならない。』
 孤独を深く感じる瑞生。
 そして、その孤独がこそ、すべての瑞生の中の弱いモノをさえ、その前進のために駆り立てていく。
 生きなきゃ、生きなきゃ、妖怪に憑かれないように、みんなと仲良くしたい。
 そういう風に、私はなりたい!
 杖が朽ちようとも流儀が廃れようとも、自らの感情と思想が失われようとも、愛する人を失おうとも。
 それでも、瑞生は生きて此処にいるのです。
 だったら。
 生きるしかないっしょ!
 そのときに、そう、瑞生は感じるのです。
 ああ、私が其処にいる、と。
 私はなんか、この目の前にいる私を信じたいな、と。
 いずれまた瑞生は、新しい「杖」を手にすることもあるでしょう。
 そしてまたそれに囚われることもあるでしょう。
 でももう、決して忘れることは無いでしょう。
 此処にいる自分が、其処にいる自分を感じながら生きていることを。
 信じたい。
 自分を信じたい。
 だから。
 
 目の前の自分が、そう、根拠なんか欠片も無い、その自分の可能性と才能を持っていると。
 そう、信頼したいんだ!
 
 たとえ信じることの出来ない理由が山とあれども、それが目の前にいる自分を否定することには繋がらな
 い。
 信じられなくたって、信じてやるもん。
 目の前の私が嫌がっても関係無いもん。
 信じてる。
 ううん。
 信じたいって、私はやれば絶対出来るって、絶対に絶対に求めているモノを手に入れたいって願ってい
 るから。
 私は私を、信頼するよ。
 そう。
 私は目の前にいる私を、才能と可能性を、「杖」を頼って。
 そして、そいつらを頼ることが絶対出来る、此処にいる自分のことを信じていくよ。
 杖が無くたって。
 お祖父ちゃんがいなくたって。
 私だっていなくたって。
 
 私は絶対やってやる!
 
 
 
 
 そして、その叫びこそが、「ツエザクラ」だったのです。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 絶対やってやるという強靱な意志。
 そして、信頼のいる祈り、これもまたひとつの執着を呼び起こす「杖」でもあったのです。
 だから。
 
 『ゆっくり、手を離せ。』
 
 いつでも諦めたっていいんです。
 いやむしろ、いつでも諦めてやると思えばいいのです。
 そして重要なのは、そうして諦めてやると思えば思うほどに、いや私が諦めることなんて出来ないよ、
 だから私は頑張るしか無い、だから頑張るよと、そういう奮起にこそ「ツエザクラ」が憑くということです。
 お前、わかってないな。
 もっと、ラクにしろ。
 お前、ラクする自分が怖いだけだろ、それ。
 怖いから、だから頑張るしかないってんだろ?
 そんなのは、お前の可能性と才能を自ら潰してるもんだ。
 おまけに、信頼も出来て無ぇ。
 瑞生よ。
 自分を信頼しろ。
 ビクビクしながらでも構わん。
 だから、ラクすること、諦めることを、平気でやってみろ。
 そこからでも立ち上がることを、自分の意志でやるべきことなんかにするな。
 絶対に諦めない、絶対に立ち上がるなんて言わないでも済むくらいに、そのお前の目の前にいる、
 もうひとりのお前に全部任せちまえ。
 きっとな、その目の前のお前は、絶対に諦めないし、そして絶対にお前を立ち上がらせてくれるんだ。
 だから、お前は、いや、お前こそが休んでやれ。
 お前こそが、もっともっと、ゆったりとおおらかに構えてやれ。
 怠け者だと? 上等だ。 堕ちろ堕ちろ。
 なんとかなるの精神で、いこうじゃないか。
 そうだ。
 それでも目の前のお前は、傲然と立ち上がって頑張ってくれるのだからな。
 信頼しろ。
 そしてだからお前は、いや、だからこそお前は初めてそこで、安心して自分の求めるモノを求められるだろ。
 強さなどいらん。
 気張る必要も無ぇ。
 お前が強さ強さと叫べば叫ぶほどに、お前の向き合う世界はそのお前の強さに比例して、どんどんと
 堅く強靱になっていっちまうぞ。
 そんなの相手にしてたらお前、あっという間にすり減っちまうぞ。
 ラクにいけ。
 楽しくいけ。
 役割分担だ。 
 頑張るお前と、休むお前。
 お前は、休めるお前になれ。
 そして。
 休めるからこそ。
 
 色んなモノが、視えてくる。
 
 視野が圧倒的に開けてくるでしょう。
 世界がどうしようも無く広大になっていくでしょう。
 平面だったモノが立体的に。
 出来ないと思っていたことが出来る かもしれないと思えるようになっていたり。
 自分がなにかに囚われていることを知れば、今度は改めて、囚われていても、その境地からでも世界を
 広く捉えていく術を学べる可能性を得ることが出来るでしょう。
 そうすれば、色んなモノが易しくなってきます。
 穏やかになってきます。
 優しい気持ちが沸き起こってきます。
 なんのために戦うのでしょうか?
 それは、戦っていてでさえも、平和な感触を得られることを学ぶためです。
 戦いそのものと、それで勝ち得るモノだけが目的ならば、世界はすべて倒すべき敵にしかなり得ません。
 瑞生がただ自分の求めるモノだけにすべてを注ぎ込めば、瑞生の世界はその求めるモノを瑞生から
 奪い取られるだけの、そんな哀れな世界になるでしょう。
 「もっけ」の精神は、実にこの以下の言葉に集約します。
 『奴らはいんのが当たり前。』
 世界が、其処にいる。
 ただ其処にいる、それゆえに、その存在自体があらゆる可能性を体現しているのです。
 瑞生は、世界に対する搾取者であるだけでは無いのです。
 瑞生もまた、世界から視れば無限の可能性を今現在既に有して体現している存在なのです。
 成長しろ。
 成長しろ。
 
 『地に根付き、枝葉付けろ。』
 
     『地に根付き、枝葉付けろ。』
 
         『地に根付き、枝葉付けろ。』
 
 
 

 『 地 に 根 付 き 、 枝 葉 付 け ろ 。 』  !!!!!!!

 
 
 
 その無根拠で無責任で、そしてなによりも圧倒的な信頼を有した祈りこそが、真に瑞生の願いを叶え
 ることが出来るのです
 なぜならば、その純粋な祈りの中身は、一点の曇りの無い瑞生の願望そのままなのですから。
 なぜならば、その祈りを唱えている自分は、どうしようも無いくらいに頑張っているのですから。
 理想を捨てている暇があるのなら、少しでも現実に立ち向かえ。
 現実に臆している暇があるのなら、少しでも理想を深めていけ。
 そうすれば、それぞれの放置された理想と現実は、暖かくもうひとりのその目の前にいる自分によって
 迎え入れられるのです。
 それを信じるか信じないかの選択を迫られたとき。
 
 
 『そのときお前は、どうする。』
 
 
 答えはいつも簡単。
 問えば必ず、私の体が応えてくれる。
 応えてくれなくても、応えてくれる。
 だって、その私の体はそれでも其処にいるのですから。
 それが其処にいるという事自体、その存在を以て私に応えてくれているのですから。
 そして、なによりも。
 私の体が私に初めて応えてくれたのは、私が私の体を初めて信頼したときだったのですから。
 信じて頼れば、それ自体がもう私が此処にいることをその私の体が証してくれるのです。
 一緒に、いこう。
 「もっけ」のOPとEDでそれぞれ歌っています。
 いつかふたりで歩けますように、と。
 そして。
 強いだけじゃ優しい人の二分の一も生きてない、と。
 優しい人に、なりなさい。
 というか、私も優しいって言われるのが、なによりも嬉しい。
 だから、優しいと言われて喜べるような人に、なりなさい。
 誰かと一緒に、もうひとりの自分と一緒に、あらゆる感情と理屈と、広い広い世界と一緒に。
 おおらかに余裕を蓄えて、優しくなれるのにはどうしたらいいのだろうかと、ついさっきまで怒りで一杯
 だった舌の根も乾かぬうちに考えられたら・・・
 理想は尽きず。
 ゆえに、可能性はいつだって、途切れません。
 そしてだからこそそれを目指して全身全霊を賭ける価値が生じます。
 そして。
 だからこそ、さらに他にも自分の目指せるモノが圧倒的に存在しているのを感じることが出来るのです。
 それを信じて頼ることが出来ないなど、それを感じた時点で、もう無理なのです。
 なんて豊饒な世界。
 なんて柔らかくて変化に富んだ世界なのでしょう。
 最高です。
 最高です。
 最高です、「もっけ」は。
 ここまで成長したのは瑞生の力。
 ここまで頑張れたのは瑞生の才能。
 ここまで自分の願望が途切れなかったのは瑞生の意志。
 全部全部、瑞生がやったことなのです。
 最高! 最高!! 最高!!!
 これほど嬉しいことがありますか?
 これほど寂しいことがありますか?
 そして、寂しいからこそ嬉しく、嬉しいからこそ寂しく、嬉しいからこそ寂しくて嬉しく、また寂しい。
 どこでその連鎖を止めようと自由であり、またいつでもその連なりを続け直すことも可能。
 だから、信じられるんです、瑞生は。
 自分が今まで努力してきたことを知っているからこそ、これからも出来る可能性があると信じられる、 
 そういう刹那的で硬直的な自分をさえも認められるのです。
 囚われちゃったら、そのときはそのとき。
 きっとそのときも、私ならなんとか出来るよ。
 そして。
 だから。
 
 
 
 
 『来年桜の花が咲く頃、私は今より、少し成長してるかな?』
 
 
 
 今年の桜を、こんなにも優しく視ることが出来る私なら、きっとね♪
 
 
 
 
 それでも絶望的な寂しさを感じるからこそ、私はこの祈りを絶対に信じて頼りにして生きていきたいな。
 
 この世界の中で。
 
 
 
 
 以上、第十四話「ツエザクラ」の感想でした。
 こんなに完璧なエピソードと出会ったのは生まれて初めてです。
 感動、感動、感動。
 画面の中に沸き上がる、静かに鼓動を鳴らす生命感が、なんだかもう、どこまでも透き通るように
 響く鐘の音を聴いたときのような、どうしようもないしっくり感を与えてくれました。
 なんなんでしょう、この圧倒的な感動は。
 瑞生の動き回る姿に、ひっそりと雄大に咲き誇る紫色に照らし出される桜吹雪に、淡々とそしてなによ
 も剛健に瑞生の生を世界の中で際立たせていくお祖父ちゃんに、それをきっと見据えてそれを見守る
 以上に思考と感情を高ぶらせてなにかを獲得していく静流に。
 すべてがきっちりと棲み分けている、その屹然とした様こそが、圧倒的にそれらがすべてひとつ繋がりに
 して在る豊饒で膨大なひとつの世界として、其処にいることを顕していました。
 凄いね、もうなんか、日原家のほんの日常のワンシーンを見ただけでも、その世界を感じてしまいます
 もの。
 この今回の「ツエザクラ」というエピソードによって、今までのエピソードがすべてひとつ繋がりにして、ずっと
 ひとつの世界の言葉として繋がっているのがみえてきました。
 「ツエザクラ」は、今までのすべてのエピソードで描いたことを含んでいます。
 そしてきっと次のエピソードは、「ツエザクラ」までのエピソードをまとめて顕してもいくのでしょう。
 ひとつひとつのエピソードが個別の意味を持ちながら、既にそれが「ただのひとつ」では無くなっているのが
 、そう、この「ツエザクラ」ではっきりと明らかにされました。
 すごい。
 こんなの観たことないです。
 作品側の方から、無理矢理に圧倒的にそう気づかされたのなんて、初めてです。
 凄い。
 そして勿論。
 そのアニメとしての凄みを背景に出来たからこそ、私はひとり、その中で大きく踊ることが出来たのでしょう。
 感想というすべてを奏でながら。
 
 
 ぷっ。 ←あまりのクサさに笑ってしまいました
 
 
 
 それでは、また来週。
 もっけ、最高。 (ぉw)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 ◆ 『』内文章、アニメ「もっけ」より引用 ◆
 
 
 
 

 

-- 080108--                    

 

         

                           ■■スタートダッシュの忘れ方■■

     
 
 
 
 
 まずは、駆けつけ一杯。
 
 
 
 
 ◆
 
 みなみけ〜おかわり〜:
 これ、どういうアニメ? (OPを観ながら)
 うーん、あまり良いところを見つけられなかったです。
 というか、あきらかに第一期(なのか?)を意識して作ってあるので、比較して観てみてくださいと言わん
 ばかりなのには閉口した。
 これ、比べちゃったら駄目でしょう。
 大体ね、声優を変えずに演技も変えずに、ということはノリも変わってない、なのにキャラ絵と演出方法
 を変えてさぁ比べてみよ、だなんて、そんなの面白いはずが無い。
 実際その境地からいってみると、違和感ありまくり。
 というか、キャラ絵はともかく演出が全く合わない。
 見せ所がズレまくってるし(悪い意味で)、せっかく第一期の間合いが残ってるのにも関わらず、それを
 活かせていない。
 あー鬱陶しい。千秋のアホ毛揺れなんていらない上にウザい。邪魔。ウザい。
 というかそのアホ毛揺れにしても、それ自体は別にいいんです。
 でもだったら声優とか演技とかノリとか、そういうのも全部一から新しくして、それとぴったり合うようにして
 くれなくちゃさ、あのアホ毛が取って付けただけ(ギャグにもなってない)感は否みようが無いよ。
 でも、うーん。
 だからこそといいますか、第一話はイマイチでしたけれど、これからもうちょっと今のこの演出を上手くして
 いければ、つまり取って付けた感が無いように演出を馴染ませる、という風になっていけば、それはそれで
 面白いことになれるかもしれないですね。
 今のままの抑揚の無さは駄目だけど、第二期なりに抑揚をつけていけば、ね。
 それがまぁ、第一期と比較して観ない、というスタンスになるのかな。
 とにかく変えるなら、きっちりと変えて欲しいです。
 面白ければ、変え方自体には拘りませんので、はい。
 基本的に第一期と違って、人物では無く背景が全面に出てきてるので、うーん、それへの慣れが出来
 てくればまた違うのかな。
 というか、それより私自身が今のこの演出を楽しめれば問題無し。
 さーて、どっちが早いかな! (些細な勝負)
 ・・・ほさか先輩が出てくる前には決着ついとかないとね・・・・・・死ねる。 (うむ)
 
 
 ARIA The ORIGINATION:
 特に感想無し。いい意味で。
 これはもう安心して観られますね、とつい怠けたことをほざいてみたい、そんな感じです。
 ただちょっとあっさりし過ぎというか、まぁ第一話ということで紹介的になるのはわかりますけれど、もうちょっ
 とこうそれでもワンアクセント、というアリアクオリティを示しては欲しかったですけれど。
 特別それまでのシリーズとの差別化は評価的にも必要無いかもですね。以前に同じ。
 あ、そういえば、微妙にアリシアさんの顔のパーツが小さくなってない?
 で、時々アテナさんと顔が似通ってるところがあるのですけれど。
 気のせい? 気のせいですよね。気のせいでいいや。 (いい加減)
 
 
 シゴフミ:
 うーん・・・
 死神のバラッド過ぎ、というツッコミは横に置いといてもいいけど、なーんかいまひとつ押しが足りない。
 ぶっちゃけ、なにがやりたいのかよくわからない。
 ひとつひとつの要素は丁寧だけれど、だからなに?というか。
 第一話のテーマは、要するに僕は彼女を信じてる、彼女は絶対そんな人じゃないって、といって彼女は
 その僕にそうして信頼されればされるほどに、その僕に距離を感じずにはいられないってとこにある。
 嘘がどうとか人間の汚い本性とか、そんなの全部建前だし、ほんとは隠してる自分の本当の姿を知って
 欲しいだけ。
 信頼信頼という言葉の持つ意味と、そしてそれを発する者とそれを受け取る者それぞれのズルさ、それ
 を核として持ってる。
 というのはわかるのだけれど、ええと、だからその、それを描いてなんとする?
 まだ第一話なのだからわからないのだけれど、結局話数いってもその事に対してまともな思考は重ね
 られずに、なんか雰囲気というか苦み走った事を言って終わらせてしまいそう。
 うーん・・どうなるのかなぁ・・・それだけで終わって欲しくない、という願いを抱くには充分な要素とつくり
 はあるから、期待したいところなのだけれども。
 
 
 GUNSLINGER GIRL -IL TEATRINO-:
 ひど・・・・
 あ、いや、うん、その、落ち着いて。
 いや落ち着くのは私か。動揺すんな。ショックを隠し切れ私。
 私なら出来る! (ヘンな気合いを入れました)
 で、ひど。 (結局)
 なにこの劣化アニメは。なにこのヘボいゲーム内アニメーションみたいなのは。
 第一期のときの素晴らしさと比べる以前に、一個のアニメーションとしてのレベルが低い。
 というかその前に、ひとこといいですか?
 お  前  、  誰  だ  。 >若返り過ぎなヒルシャー
 まぁそれはいい。私の愛した渋くて大人だけれどヘタレなヒルシャは死んだ。それだけだ。
 そしてヘンリエッタが、ジョゼさんの部屋に侵入して脱ぎ捨ててあったワイシャツを抱いて悶える、
 ただの変態少女でもいい。それはそれで。
 だけど、なんであんなに憂いが無いの?
 一番大きいのは表情の複雑さの無さにあるのだけれど、やっぱりヘンリエッタなんかは、ほんと行動が
 そのまんまというか、あれじゃ「ただの普通のガキ」じゃないですか。
 それで、それにただ取って付けたように銃を持たせてキャーキャーやらせる、そんな玩具的描写になっちゃ
 ってるじゃん。
 なんか少しでも味があったのはクラエスくらいで(第一期とは違ってキツめのクール系?になってたけど)、
 他のはまぁそのなんていうか、なんのために銃を持ってなんのために返り血どばー浴びてんだか、まったく
 もってわからないアニメになってました。
 こんな感じだったら、銃+少女のただのオタク御用達アニメと言われてもしょうがない。
 うーん・・・あとはお話の中身で、2話以降引っ張っていってくれるしか無いですねぇ。
 少なくとも現段階では、まともな感想は書けないです。
 って、自分で感想にハードル設けちゃうから世界が狭まっちゃう訳で・・・ぶつぶつ
 取り敢えず、連続感想書くという線は無しの方向で進みます。よろしく。
 
 
 破天荒遊戯:
 これは、面白い。面白いです。
 ごく普通に(ちょっとリッチめに)暮らしていた少女が、お父様の気まぐれで着の身着のままに家からほっぽ
 り出され、なんでもいいからひとり旅して成長してきなさいというお父様の巫山戯た言葉に憤慨しつつも、
 こつんと爪先で立てた靴音ひとつで、アホらしっと大きく息を吸い込んで、よーし愉しんじゃおうと言って
 しまえる。
 『こんなことなら、朝ご飯残さなきゃよかった。』
 その一言で、あっさりと今までの生活も、そしてそれを失ってしまった事で感じるあらゆる感情をぽいしちゃ
 う。
 そして最初に出会ったイイ男を完全ビジュアルだけで捉えて、ちょっとそのつまらなさそうな瞳につけ込んで
 よーし私があんたのその人生を面白おかしくしてあげる、ですって。
 リアリティの欠片も無い。
 いいえ、これはリアリティでもアンチリアリティの物語でも無いのです。
 初っぱなから生身の人間がどういうものであるかなんてお構いなしで、ただ楽しく生きなきゃ損々と高らか
 に歌い上げる。
 勿論そこには、そう歌わなきゃやってらんないとか悲哀とか、そんなものも欠片も無し。
 まさにファンタジー。
 しかしだからこその、破天荒で、遊戯。
 『って湿っぽいこと考えんのやめやめ。人間似合わんことするのは犯罪よ!』
 『イイ男発見。声かけちゃえ♪』
 その男が犯罪者を絵に描いたような者であろうと、そいつがあっさりと自分について来ようとも、そんなの
 関係無い無い。
 よーし、じゃーいってみよう!
 そして話の展開も設定の説明もほとんど無し、というかいつの間にか説明したことになっているような
 荒削り。
 しかし、そんなの関係無ぇ。
 というか、この主人公の女の子的に関係無ぇ。
 楽しくやるために、そういうのなんか関係ある?
 無い無い無い。んじゃいくよ。
 
 はい。
 このあとこの少女と青年は(あとでなんの説明も無くいつの間にかもうひとり加わってますがw)、森に巣
 喰った恋人を待つ幽霊退治を引き受けていくんですけど、ていうかあんたら普通の女の子と犯罪者
 じゃ無かったの? というツッコミもろもろ込みで普通に話が進んでいっちゃって、そしたら確かに普通に
 普通でただの少女と犯罪者が適当に色々やって、そしたらいつの間にか少女が魔法使いって設定に
 なっていていきなり幽霊とガチンコバトル。
 ここ、ツッコミどころであると同時に、これこそがこの作品の真髄とも言えます。
 これは、「人間」を描いた物語じゃありません。
 だからこれを「人間」の物語として、そのあまりの脈絡の無さにツッコミを入れて笑うことは出来ますし、
 それは確かに楽しいからOKです。
 けれど、その楽しみだけじゃ、半分。
 んじゃ、この作品をそういう物語としてでは無く受け取ったら・・・
 そこで初めて、この作品の本質が見えてくるのです。
 この作品は、「拘らない」「囚われない」ということを体現している作品です。
 拘るということが同時に囚われているという側面を大きく持っているということを指摘し、それでもいいの、
 それでも私はあの人のことを愛しているのだもの、と少女が対峙した幽霊が言うのを、あんたそれ、
 その人を愛すことに囚われてて、他にも沢山楽しいことがあることを見失って無い? ていうかその悲劇
 性を糧にして、ずるずるとその愛を続けて無い? 
 いやいや、あんたたぶん、そうやって囚われのお姫様やってるのが好きなんじゃ無い?
 白馬の王子様を求めて待っていて、それで王子様が来てくれないことに対して恨み辛みを並べたてて、
 それで悦に入っているだけじゃん。
 本人がそうは思っていないってとこが、さらに重症。
 ほんとに愛してるんだったら、愛することが当てつけじゃ無いんなら、あんたから恋人のところに行きなよ。
 あんた痛いんだよね、うじうじといつまでも待っててさ、それで文句ばっかり。
 それでいて、その文句は恋人を求めることに繋がってるのじゃ無くて、ただそうして自分が待っているだけ
 のことを肯定するだけのものにしかしてないじゃん。
 
 来ないってわかってるのに、それでて文句言う言わないといったりきたりするだけなら、
 あんた自身が恋人を無視してんじゃん。
 
 ただ待ってるだけのことがどうして認められないのですって?
 夢見ることも許されないのかですって?
 あはは、待つこと夢見ることが目的になってんじゃん。
 男が来てくれないから、男がもう自分を見てくれてないとわかってるから。
 だから、しょうがないですって?
 『たかが男ひとりに、死んだあとまで振り回されてんじゃないわよ。』
 約束してたから、それを信じてたから、だから死んでまでも愛してる?
 そうね。
 約束があるから、裏切りがあるから、それに対する当てつけはそれまでの自分の愛の確かさを高め、
 そしてその燃え上がるような熱さで自分を動かしてくれるのよね。
 でもそれ、あんたがその愛を愛してるってことだけじゃん。
 あんたはその愛を愛したいからこそ、恋人から約束を無理矢理取り付け、それが破られたことを口実に
 してその自分だけの愛を手に入れただけじゃん。
 ていうか、自分でそう自分に言いなさいよ!
 愛愛言ってんじゃないわよ、バカね。
 そんなガチガチに囚われた愛の、自由さのかけらも無い愛のなにが楽しいっていうのよ。
 『どうしてそのエネルギーをもっとポジティブな方向に向けられないのかな。
  あのおっさんを蹴るとか殴るとか。』
 あんたは自分がどうしようもできないことのせいにして、なにもしないでいい理由を得てるだけ。
 自らの弱さを受け入れるために、自分には愛するあの人しかいないのよといって自ら世界を狭め、そう
 した自堕落な嘆きを綴ってる。
 はい。
 この少女はこう語ります。
 『今ここにあるものがすべて。約束なんていらない。パーティーしようよ!』
 約束を中心に結ぶ愛は確かに大きなものがある。
 しかしそれに拘るあまりに他のものが見えなくなり、そしてその愛がそうした沢山のものの中にあるからこそ
 楽しいと心底思えるということを忘れさせるときもある。
 世界の中で孤立する愛は、それが悲哀な美を魅せれば魅せるほどに、限り無い怠惰とも言える。
 だってそれ、悲しいだけで、楽しくないでしょ?
 楽しくない愛って、それなんのためにあるの?
 愛はもっとでっかいよ。愛はもっともっと広大だよ。
 約束はあってもいいけど、愛を創るのはそれでだけじゃ無い。
 どうせ心中するなら、楽しい愛としなさいよ。
 約束は、怠惰なる愛という安心を与えてくれる。
 楽しさを求め続けるには、ときには休息も必要だもん。
 だからお願い、ひとつだけ約束して頂戴。
 『明日も明後日も、その次も、楽しく元気に過ごせますように♪』
 それ、約束じゃなくて、祈りじゃん。
 でも、そういうもんでしょ、人と結ぶ約束って。
 私はなんかこう、すーっと肩の力が抜けた気がしたよ。
 だからこの安心を元手に。
 今私の目の前にある、ガッチガチに固まってしまってる「約束」と向き合っていきたいな。
 ううん。
 どうか、楽しく向き合っていけますように♪
 さーて、どうやったら楽しくできるかな。
 はい。
 紅い瞳は破天荒遊戯に惚れました。これはイイ。ナイス破天荒。
 
 
 
 
 ◆
 
 改めまして、ごきげんよう、紅い瞳です。
 駆けつけ一杯とかいって、食傷気分で一杯にさせちゃったかもわからない紅い瞳です。
 とにもかくにも、吐き付けもとい書き付けておきたかったのです。
 ごめんなさい。
 ・・ええと、なんで私謝ってるの?
 まぁいいか。 (ぉぃ)
 
 で、はい、散々調子乗って書いてたら時間が無くなってしまいましたので、手短に。
 まぁうん、辛口感想万歳でいっちゃいました。感度さがってるさがってる。
 いやでもー、かなり不作なんじゃないですか? 今期アニメは。
 特別、なんとしてもコレ絶対観たい、っていうのはひとつも無いですよ。
 破天荒遊戯とみなみけ2とアリア3は、普通に見続けたいと思えるレベルではあるのですけれどもね。
 ま、破天荒遊戯という意外な収穫物があったので、不満では無いのですけれど。
 なにはともあれ、今期ははやくもあと狼と香辛料を残すのみです。
 感想文的には、ガンスリは無しの方向なので、なんとしても狼と香辛料で書く方向にし向けたいです。
 あと、場合によっては破天荒遊戯の感想も、今回のような感じでぽろっと書くかもしれませんけれど、
 それは余裕があればというお話。
 もっけ感想もあるんだものね、かなり厳しいというお話。
 
 
 という、箸にも棒にも掛からない、ステキな本日の日記でした。
 
 うわぁ、ひど。 (処置無し)
 
 
 
 
 

 

-- 080106--                    

 

         

                                  ■■ 男のいる俺 ■■

     
 
 
 
 
 『そういえばあいつが顕れた理由の心当たりが・・・日原さんの作品に一つ目小僧の話があったんだ。
  もしかして・・それが・・・』
 

                           〜もっけ ・第十三話・有田の言葉より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 なにをやっているんだろう。
 自分の中にある気持ちの整理がつかないうちに、その気持ちのままに行動しないといけない気持ちに
 駆られている。
 なんとかしなくちゃ、なんとかしなくちゃ。
 その強いおもいは、いつのまにかその気持ちを満足させるためよりも、その「なんとかしなくちゃ」という
 言葉の示す形式を満たすことのために向けられていく。
 ゆえに、ズレが生じてしまう。
 なんだろう、俺、一体なにをやっているんだろう。
 自分の気持ちを満足させたいがために、それを達成するためにはどうするかという手段を考えるも、
 その手段について云々することしか出来ない。
 今の俺には、こんな手しかない、なんて無能なんだ、ああもう、くそ!
 そして手段との格闘をしているうちに、肝心要の欲望の方はひとりで勝手に暴れていく。
 どうしよう。
 この欲求のままに行動したら駄目だって思っているのに、思っているからこそ方法論を考えているのに、
 なのに、手段を考えれば考えるほどに、その欲求を満たせない自分がみえてくるだけ。
 『なんかきっかけないかなぁ・・』
 まずは、友達から。
 そうだよ、いきなり彼氏彼女なんて俺には無理だよ、大体俺は女子と話をするだけだって難しいんだ、
 もっと手の届く目の前の目標をひとつひとつクリアして・・・・・
 
 この、大嘘吐き。
 
 形式を考えていくたびに、自分の目的からズレていくのを知らずにはいられない。
 友達じゃ駄目なんだ。
 俺はあくまで・・・
 そんなストレートな欲望まみれの自分を感じる瞬間に、それを必死にうち消すがために、色々と理屈を
 こねてしまうけれど、やっぱり俺は・・・・
 
 そして俺の目の前には、いつのまにかこの、一つ目のちっこいおっさんがいたんだ。
 
 
 
 
 ◆
 
 静流の隣のクラスの有田は、静流に片思い中。
 ただ日々悶々として、しかしそのおもいを行動に移すといっても、せいぜい静流の姿を盗み見る程度。
 無論、それはストーカーまがいとは言えても決してストーカーでは無く、あくまで純粋に有田は静流と
 「お付き合い」をすることを目的とし、それがなかなか上手くいかないでいる状態なだけ。
 ただ静流を眺めていればいい、静流のことを全部知っていたいだけ、といういわば片思い自体が目的
 な訳では無いのです。
 あくまで、日原さんと正式に付き合いたい。
 有田の中にある異性に対するそのままな欲望を達成することを、有田は嫌悪しています。
 俺は日原さんの姿を観てるだけでいい、だなんて言いたくない。
 俺は男だし、まぁその、色々あるけどさ、でもそれを認めることと、それだけで動くことは違うだろ?
 そんな、日原さんを観てたいだけとか、さ、触りたいだけとか、そんなことだけで終わりたくない。
 有田は、「男」というモノに対して、非常に奥手なのです。
 しかしそれは、自らの「男」を認識していない、という意味では無いのです。
 むしろ意識しているからこそ、それを嫌悪しているのでしょう。
 しかし、いくら嫌悪しているからといっても、それが自分であることは違いない。
 どんなに自らの「男」を否定し無視しようとしても、それで「男」が消える訳でも無い。
 有田は、そこまで自分で思考して、ふと気づくのです。
 あれ?
 なんか違くないか?
 俺、別にその、日原さんのことを考えてること自体を嫌ってる訳じゃ無いんじゃないの?
 そう、有田はその自分の欲望なり性癖なりが、公に自分の外に表れ、それで他人と接してしまうこと、
 それ自体を嫌悪しているのでしょう。
 つまり、自分の欲望は認めるけれど、あくまでプラトニックに付き合いたい、と。
 極論すれば、恋愛というものの理想が高い、あるいはそれが美的ななにかになっているのです。
 
 しかし、有田は自分がなにか美的議論のような、哲学のような恋そのものを求めていることの違和をも
 感じています。
 俺は、形式に拘ってる訳じゃ無い。
 俺はただ・・日原さんが好きなだけ・・
 だから、有田の一連の行動なり思考の動機、あるいはそれらの思考行動を為すエネルギーになって
 いるのは、あくまでその原初的なおもいにあることは、有田自身にとっても確かなのです。
 そして、その自分の純粋なおもいが表に出てきてしまうたびにはっとなって、慌ててそれを隠そうとする。
 しかし、だからといって、その自分の欲望を踏み消しては元も子も無い。
 つまり、こういうことなのです。
 俺は日原さんが好きだ。それは前提だ。
 だから、それでもその、破廉恥(?)な自分を嫌悪する俺をも納得させるような、そういう方法を考えて
 やっていきたいんだ。
 だから、有田は綺麗な「お付き合い」を求めているのですね。
 ただ自分の欲望のままに突っ走るだけでは無い、ちゃんと手順を踏んで、恥ずかしくないやり方で、
 正々堂々と。
 そうすれば、有田は自身の「男」に対する嫌悪を納得させた上で、「男」としての欲望を全う出来る。
 言ってみれば、有田の理想論的哲学的プラトニックラブ(笑)の形式は、この事を達成するための
 方便として存在するモノでしかないのです。
 これは、前回の「マジモノ」の感想で私が書いた、瑞生が自らの特異体質に悩まされながらも、決して
 それを口外せずに、あくまで「普通」の女の子でいることを目指し続けた姿と似ています。
 
 
 で、でもなんか違うんだよなぁ・・・・なんか・・
 
 
 やっぱり俺、恥ずかしいよ。
 これはほんとに純愛っていうか、「付き合う」とか関係無いんだよ。
 だってそんな、あんな綺麗な日原さんと・・・・・駄目だ・・やっぱり絶対・・
 そして。
 それがすべて、欺瞞であることを指摘し、嘲笑う内なる声は日増しに高まっていくのです。
 俺はただ、意気地が無いだけなんだ。
 そりゃ確かに俺は、日原さんの美しさを美的感覚で捉えて、ああ綺麗だなぁと思っている部分もあるさ。
 まさに絵に残して取っておきたいって、そういうのもある。
 その気持ちからすれば、日原さんと付き合いたいっていうのは、なんか違う。
 でも俺は、日原さんと付き合いたいんだ。
 日原さんに絵的な美しさを視ているのと同時に、それだけじゃ無いだろ馬鹿野郎って、そうやって嘲笑
 する声もあるんだ。
 有田は、実は自分が混乱を極めていることを、あまり自覚してはいません。
 というよりも、むしろ有田自身は、そうして「混乱している自分」を冷徹に眺め切っているのです。
 なんだか、他人事みたいだ。
 そして。
 其処に、一つ目の小人、マメオトコが顕れるのです。
 
  そして、そのマメオトコの姿は静流にばっちりと視られているのです。
 
 
 『冴えねぇ奴ほど美に惹かれやがる。いっひっひ。』
 
 自分がなんでこんな事しているのか、有田はわかってはいません。
 いつの間にか有田は、「静流が好き」という自分の気持ちに動かされている自分を感じているのです。
 主体性を感じているようで、俺は主体的なんだと言い聞かせているだけの自分に気づく。
 静流のことが好きで、それでなんとかしたいと思って奮闘している自分が其処にいる。
 そして。
 その其処にいる自分に色々とツッコミを入れたり茶々を入れたりしている、マメオトコがいる。
 マメオトコは、その「其処」の場を支配しているモノです。
 マメオトコとは文字通り豆男と書き、お祖父ちゃんによれば道陸神(どうろくじん)の一種だと言います。
 道陸神とは道祖神のことです。
 そして道祖神とは、縁結びの神、もっと正確に言えば性神、エロ神です。 (笑)
 そもそもご神体(?)が男女の性器の形していますし。
 お祖父ちゃんが言葉を濁したのは、つまりそういうことです。 (笑)
 そしてマメオトコは、有田に男女の仲についてのあらゆること(つまりエロ知識w)を教え込んでいきます。
 しかし、それほどダイレクトな知識では無く、むしろ女衒なり花街なりの言葉を使っているところをみる限り
 、おそらく理論的に恋愛とはなにか、男と女の仲とはなにか、ということを滔々と説いたのでしょう。
 無論有田いわくマメオトコはセクハラ親爺のようにして、日々有田をけしかけているのですから、まぁそれ
 なりのことも言っているのでしょうね。 (笑)
 
 しかし、有田にとってはこれら一連の「混乱」が「混乱」では無くなっています。
 今回の件は、おそらく有田の初恋です。
 そもそも、自分の気持ちが「どういうモノ」であるかを、実感としてはわかっていません。
 そしてだからこそ、有田は、というかおそらくほとんどの人が、その「モノ」に「恋」という名を付け、
 そして既に先行して在る概念としての「恋」に沿って、その自分の気持ちを説明し、また導いていこうと
 するのです。
 有田は、ただ薄ぼんやりと、ああ日原さんって綺麗だなぁと思っていただけなのでしょう。
 そしてたぶん、そこに性的な意味合い、特に肉体的直接的な性欲感はほとんど無いはずです。
 それこそ絵に描いて残して、いつまでも観ていたい、そういう気持ちだったと思うのです。
 しかし、其処にマメオトコが顕れます。
 つまり、有田のその静流への気持ちが「どういうモノ」であるかを説明しようとするモノ、それ自体が現れ
 てくるのです。
 マメオトコいわく、それが恋じゃろ。お友達になりたいだけ? 違うな。いっひっひ。
 ところが、実はこのただ「お友達になりたい」という感覚こそが、このとき有田自身が感じている、
 まさに等身大な実感だったのです。
 無論、有田も男の子ですから、「男」としての欲求はありますし、その存在自体を否定することは無い
 のでしょう。
 しかしそれは、そもそもその静流へのおもいとは、また別のモノであったのです。
 それをマメオトコが、有田の気持ちが「「どういうモノ」であるかを説明しようとするモノが、それらを同じ
 ひとつの事としてまとめてしまったのです。
 当然、有田の静流への見方は変わってしまいます。
 俄然、意識するようになってしまいます。
 そうだ、これが恋なんだ。
 俺は日原さんをもっと観ていたいから、友達になりたいと思っていたけれど、ほんとはそれ以上にもっと
 もっと日原さんのことを知りたかったんだ・・
 あんなこともこんなことも・・・・・うわあああ
 
 有田はマメオトコから恋の手解きを受ければ受けるほどに、そうした自らのおもいを高めていきます。
 しかし、有田の気持ちと行動には、ある根本的なズレが生じてきます。
 主体感の、喪失。
 有田には、静流と恋仲になりたいという願望はあれど、それが直接的な異性に対する性欲的欲求か
 ら成っている動機、それそのものがありません。
 あるのはただ、静流をただ綺麗なヒトとして見つめ、そしてもしよかったら普通に話したいなという、あきら
 かに「恋」という物語の内実とは違う動機があるだけです。
 そっと静流の姿を遠くから眺め、静流の書いた文が載っている文芸誌を楽しく読んでいただけの有田。
 普段本など読まない有田が静流の文章を読んだのは、なぜだったのでしょうか?
 それは当初、決して静流と話を合わせるために、切っ掛けとして利用するために、では無かったのです。
 あくまでそれは、綺麗で素晴らしい存在である日原さんが書いた物を読める嬉しさ、そして実際読んで
 みたら美しくて儚げな静流らしい不思議な話が書いてあり(と同時に真面目っぽさがある静流が不思
 議なものを書くということのギャップ萌えもありw)、心底それを通して惚れ込んでしまったからなのです。
 すごい、すごいや日原さんって・・・
 この有田の気持ちは「恋」という既成の概念で語れるモノでは、そもそも無いのです。
 もっとおおらかで、繊細で、でもだからこそそれが有田らしい、静流という異性との触れ合い方であり、
 その境地から歩き出すことで、初めて主体的実感があるモノ。
 けれども。
 有田は、自分自身のそうした気持ちが、世間に流布するいわゆる「恋」というモノとは違うと確かに
 感じていながらも、しかしそれを「恋」に成れていない「未熟な」感情として変換してしまうのです。
 こんなんじゃ駄目なんだよな俺。男らしくないよな。
 その自分が恋する男としての未熟さを知識として知っていて、自らの今の姿とそれを照らし合わせて
 自分を否定してしまう。
 よし、告白しよう。いや、しなくちゃいけないんだ。
 そして。
 それは、有田の本来の目的である「ただ友達になりたいだけ」という願望が、異性に対して気軽に声を
 かけられないという自分の意気地の無さのせいで、なかなか成就しないことの苛立ちと綺麗に結びつき、
 そしてそのいらだちは、綺麗に恋する男として未熟な自分を否定する行為によって救われてしまうのです。
 
 そしてさらに、それでも有田の中には、一個の男としての欲求もまたあり、それゆえにその存在に依拠
 して、今度はそれをこそ自分のこの一連の行為の動機にしてしまえ、いやきっとそうなんだと、そう言い
 聞かせ、そしてその代行者としてマメオトコはまた顕れてもくるのです。
 学校の帰り道、通りがかった書店の棚に、静流に似たアイドルの水着写真が載っているのを有田は
 見つけます。
 どぎまぎする有田。
 そして。
 『似てるな。あの子に似てるなぁ。』
 マメオトコの囁きが、ダイレクトに有田を支配していきます。
 今買わなきゃ売り切れちゃうかもしれない、などと青い理屈(笑)で自己正当化を図り、結局のところ
 それを買うという前提からは逃れられなくなっている有田。
 マメオトコを視る前の有田なら、自らの性的欲求としてそれを欲しいとは思えども、それを静流への純
 粋なおもいと結び付けることの嫌悪の方が圧倒的に勝り、そしてそこには確かにそうすることの主体的
 実感があったことでしょう。
 しかし、有田は買ってしまいます。
 それを幼馴染みの信乃(静流の友人)に思いっきり見られ、バツの悪いおもいをする有田。
 ああくそ、やっちまった・・ああもう!
 しかしその悔しさと恥ずかしさこそが、初めて有田に主体的実感をもたらします。
 やっちまった・・・・でも俺・・・やれたんだ・・!
 自分で決めて(マメオトコに唆されただけ)、自分で買って(マメオトコの囁きの通りに)、そしてその責任
 を自分で取った。
 嫌なところ見られちゃったけど、でも俺、なんかもう、自分の気持ちに迷わなくなってきたよ。
 俺は、男なんだ!
 それが虚しい叫びであることを、そして、有田はその獲得した主体性にうっすらと感じてしまうのでした。
 やっぱり・・・なんかズレてるよ・・これ・・
 
 有田はこのズレに思い悩みます。
 なんでだろう・・自分で全部背負ってるはずなのに、なんでこんなに落ち着かないんだろう・・
 「男」としての理屈、「恋路」を歩む者としての覚悟が武者震いを起こさせても、その震えがそれ以外の
 意味をも持っていると、どうしても感じてしまう。
 マメオトコがせっつけばせっつくほどに、よしやってやると頷けてしまう自分に、なにか不安を覚えてしまう。
 なんでなんだ、なんで俺はこいつの言葉にこんなに簡単に頷けてしまうんだ・・
 有田の中にある「男」が、其処にいます。
 そしているからこそ、有田はそれを否定出来ずにそれを認めるしか無い。
 そしてその存在を視るにかまけて、それですべてを説明してしまっている有田。
 有田がマメオトコの言葉に頷けるのは、確かに有田の中に「男」としての欲求があるからです。
 しかし、マメオトコはその「男」としての欲求が有田のすべてであるという前提でものを話し、そしてその
 境地から有田の気持ちに決着を付けさせようとしている。
 しかしそれを有田は理解していません。
 だから、有田はマメオトコの語る「男」が確かに自分の中にあることを感じているからこそ、それを根拠に
 してマメオトコの言に頷いてしまっているのです。
 そして当然、有田は頷きつつも違和感を感じているのです。
 なぜなら、「男」の物語でこの有田のおもいのすべてを語り切れていないことだけは、明白なのですから。
 あれ?おかしいなぁ・・あれ? 
 マメオトコの言葉に頷けば頷くほどに、ズレていく自分を感じる有田。
 
 そして、有田はそれでもそのズレを、静流に「恋」していながらも、いつまでも静流に近づけない自分
 への焦りにあると断定し、そしてそのもどかしさをうち消すためにこそ、マメオトコに体を預けてしまいます。
 すらすらと、静流の前で静流の文章をネタにして喋りまくる有田。
 マメオトコ主導で、恋の路を往く有田。
 気持ちよかったことでしょう、俺今日原さんと話してる、俺ちゃんと頑張って告白までのプロセスをこなして
 いってるよ、と。
 しかしそれは、あくまで自身の静流へのおもいを、「恋」を成就させるという行為にのみ集約したからこそ
 出来る行為であり、その集中が途切れれば、あっさりとボロを出す。
 素の有田は、相も変わらず奥手で女の子と楽しく積極的にお話など出来ない男の子。
 「マメオトコ」に憑かれていない有田は、全くその自分の行動に主体性を感じられず、まるで裸で戦場
 に投げ込まれたようなもの。
 有田自身の戦場は、まだ此処では無かったのです。
 ですが、有田はへこたれません。
 だったら、集中を切らさなければ、いけるって事じゃんよ。
 ということで、むしろこの失敗を糧にして、有田は再び立ち上がるのです。
 しっかりと、マメオトコとタッグを組む有田。
 こうしてみると、やっぱりこの一つ目のおっさん、頼りになるよなぁ。
 色々知ってるし、実践もOKだし、よく聞いてると俺が前向きなときはしっかり援護してくれるし、それを
 理解してると後ろ向きなときの嫌味な言葉も、気合いを入れてくれる説教に聞こえてくるよ。
 そして、積極的なアタックを開始します。
 とにもかくにも機会作り、ことあるごとに静流に声をかけ、本を勧められれば次に繋げるためにと懸命に
 読み、そしてそれで話が合えばしてやったりと、さらなるチャンスを求めて静流に追いすがる有田。
 どんどんと、静流の周りの空気が悪くなってきます。
 静流の友人達の間での有田の評判は急降下の一途。
 肝心の静流自身は、恋に関しては徹底的に朴念仁なので、逆にその空気の中にはいませんが。 (笑)
 しかし、静流はそれとは別の方向性で、嫌な風を感じます。
 
 
 そして、其処にマメオトコを視たのです。
 
 
 静流は、「恋」という概念、或いは物語を知りません。
 だから、有田がそういった物語の筋書きに沿って動いていることは知りません。
 しかし静流は、有田が自分自身とは関係の無い「なにか」に取り憑かれて動かされている、ということ
 を如実に感じ取っていたのです。
 なんか、ヘンな感じ・・
 静流には、「男」に言い寄られる「女」としての感覚が、全くというほどに存在しません。
 だから、そのヘンな感じはそうした「男」としての有田に対する嫌悪感ではありません。
 ただその前に静流は、友人であり有田の幼馴染みである信乃から、有田は変わったという言葉を聞い
 ています。
 それは、今回の有田の静流へのアタックぶりだけで無く、互いが「男」と「女」を意識し始めた頃からの
 疎遠ぶりも含めての、その信乃の言葉でした。
 本も読まなくて女の子とも話せなかったあいつがね・・
 無論静流は朴念仁ですから(笑)、それが「男」と「女」が一度は通る道だなどとは思いません。
 ただ単純に、有田の変貌というのがクローズアップされ、そしてそれをそれ以前に有田に感じていた「違和
 感」とミックスして、静流は有田に「マメオトコ」を視たのです。
 あの人嫌いって訳じゃ無いけど・・・なんか不自然・・
 それが、「マメオトコ」に取り憑かれている有田、そして「マメオトコ」そのものとして其処に視たのです。
 あの人・・・なにがしたいんだろ・・・
 
 有田はやがて、自分のしていることにはっきりとおかしいという言葉を与えます。
 違うんだよ・・こんなんじゃいつまで経っても・・・
 俺は今、充実してる。
 今まで全然出来なかったことが出来るようになっている。
 日原さんに声をかけ、話をして、本まで勧めて貰って、もうあの悶々としてただけの俺じゃ無い。
 順調に、マメオトコの言ったことをこなせてる。
 男の心意気を示せてる。
 そうだ、俺頑張れてんだ。
 全部ちゃんとこなせてんだ。
 
 『話せるようにはなったけど、手応えらしい手応えは無いし・・』
 
 相手がいなければ、恋は成立しません。
 「恋」という概念すら知らない静流に対して、いくら「恋」の指南書通りに行動しても無駄。
 ただなんか話して、本勧めて貰って読んで、また会って感想言って、そしたらまた本勧められて。
 うわ・・本の山が・・
 『日原さん・・・俺のことどう思ってるのかなぁ・・・・』
 よく考えてみてください。
 実はもう、有田は当初の目的を達成しています。
 なぜなら静流と普通に話せて時間を共有し、本まで勧めて貰って魅力ある静流の精神世界に触れる
 ことが出来たのですから。
 けれど。
 有田は全然嬉しさを感じていません。
 なぜなら。
 全然、脈が無いから。
 静流と、付き合えそうも無いから。
 有田は、本当に静流と付き合わなければいけなかったのでしょうか。
 告白する必要は、そもそも無いのです。
 静流に勧められる本を読み切ることに苦痛を感じるのは、それが本でお腹一杯になったからではありま
 せん。
 静流に近づくための、機会を作るための、告白に繋げるための道具として、その本を利用してしまった
 からです。
 本当は、ただ静流と同じ本が読めることが嬉しかっただけなのに、です。
 有田は既に、目的を達成しているのです。
 しかしそうして得たものを喜ぶ主体を、有田は押し込めてしまっているのです。
 頑張れば頑張るほどに、ズレていく。
 自分の欲求不満が其処にマメオトコをいさせているのなら、なぜいなくならないのか。
 マメオトコが、其処にいる。
 それ自体が、既にうまくいっていないことを示しているのじゃないかと有田は思うのです。
 
 
 
 ◆
 
 そしてマメオトコに、今度は自分ひとりでやってみると告げる有田。
 しかし、問題の本質は有田が自分ひとりでやるかどうかには無いのです。
 目的が、違っている。
 『きっとその人、ずっとお姉ちゃんと話したかったと思うんだよねぇ。
  だからその人にすれば、願いが叶って良かったんじゃない?』
 その瑞生の言葉に頷けない静流。
 『う〜ん・・そうなのかなぁ・・・』 なんかちょっと、違うと思うんだよねぇ・・
 言うなれば、有田は「恋」という既成の概念に憑かれているのです。
 お祖父ちゃんによれば、マメオトコ自体に善い悪いはありません。
 そういった「恋」という武器があれば、人はそれを頼りに頑張ることが出来、また変われないと思って
 いた自分をさえ変えることが出来るのですから。
 しかし、それはあくまで武器であり、武器を振り回すこと自体が目的では無く、それで勝ち得るモノ
 それ自体にこそ価値があるのです。
 そのモノを取り違えていては、元も子も無い。
 有田には「恋」という名の武器は必要無かったのです。
 そして、その「恋」を与えてくれるモノであり、また「恋」という概念そのものでもあるマメオトコに頼らずに、
 それで自分ひとりでやると言っても、しかしマメオトコに教わったことをそのままやっていたら同じこと。
 ほら、今も其処でにやにや笑っているマメオトコがいますよ。
 恋の手解きをうけ、そしてその作法を言われたとおりにやっているだけだったからこそ、主体性を感じら
 れずにズレを感じていたと有田は判断し、マメオトコに別れを告げました。
 けれど、その恋の作法を自分のモノにして、その境地から主体的に事に望んだとしても、その恋の作法
 自体の物語下に収まっていることには変わりが無い。
 主体性を得ることの重要さに気づくのは良いけれど、しかしその主体性がなにに依拠しているのかがわ
 かっていなければ、その主体性を乗りこなすことは出来ないのです。
 
 有田は、「恋」というモノを知りました。
 これを使うと、なんだか自分が偉くなったように感じられます。
 なぜなら、その「恋」というモノは、誰もが知っている共通の概念だからです。
 その「恋」という概念の中でなにも考えずに頑張れば、その中での評価を受けることが出来る。
 いわく、「男」らしいと。
 しかしそこには、その「恋」というモノがどういうモノであるのか、という思考がありません。
 有田自身は、深く自分が求めているモノと、その「恋」の間に隔たりがあることを感じています。
 静流はそれを、敏感に察知するのです。
 この「マメオトコ」というお話の肝は、ここにあるのです。
 自分が一体なんのために頑張っているのか、どこで踏ん張っているのか。
 静流に告白する場は、有田が踏ん張るべき場所ではありません。
 それは有田が取るべき武器では無かったのです。
 「恋」という広く流布しまた語られている概念、あるいは作法に則ることは間違ってはいませんが、しかし
 それですべてが得られる訳では無い。
 有田はもはや、静流とでは無く、マメオトコと会話をしているに過ぎなくなっています。
 仮にマメオトコの力を借りなくなったとしても、結局は同じ。
 静流と「恋」の話をしたいのか、それとも静流と話をしたいのか。
 
 そして、流れは終息に向かいます。
 有田は、静流の前で信乃を押し倒して(事故)しまったのです。
 必死に静流に言い訳をする有田。
 そしてそれを不思議そうな顔をして見つめる静流。
 無論有田は、その静流の表情の意味など考えてもみません。
 なんで謝ってるんだろう、この人。
 有田の報われ無さここに極まれりというところですけれど、これが有田が今までやってきたことへの当然
 の報いであることもまた、否めません。
 有田はひとりで勝手に静流に義理立てをして、ひとりで恥じ入って、ひとりで逃げ出して。
 静流にはなにがなんだかまるでわからなかったでしょうね。
 きっとあとで信乃に説明されても、「?」と普通に思ってそうですし。(笑)
 
 『違うんだ・・・違うんだ・・』
 有田はそう呟きます。
 違う・・これは事故で・・こいつとはただの幼馴染みで・・
 あ・・・・でも・・・ばっちり観られてる・・・言い訳出来ない・・男なら・・
 ああ・・・終わっちゃった・・・最後まで主体的になれないまま・・・なのに責任だけは俺が・・・・
 でも・・俺・・・男だから・・・これが・・当然なんだ・・・・・
 ああ・・・・どうして・・・こんなことに・・・・・どうして・・・・・
 有田が自分の犯した「過ち」を男らしく背負おうとすればするほどに、そのズレは今までの比では無い
 ほどに拡大していきます。
 なんで・・・なんで・・・・こんなはずじゃ・・・ああ・・これじゃ・・・もう・・・日原さんを遠くから眺めることも
 出来ないじゃないか・・・・もう・・・話すことも・・本を勧めて貰うことも・・・・・
 そう。
 
 
 有田の中に「男」はいても。
 有田は「男」では無かったということなのです。
 マメオトコはマメオトコであり。
 有田もまた有田。
 有田の中に確かにマメオトコはいる。
 しかし、有田=マメオトコでは無く。
 それを知らずしてマメオトコを利用すれば、やがてそれは「マメオトコ」に憑かれる事態を招いてしまう。
 
 
 マメオトコが、無様な有田を観て嗤っています。
 実に愉快愉快。
 『こいつは傑作だぁ。ひゃーはっはっはー!』
 そうかこいつ、こうなることを見越して最初から俺を・・・・っ!!
 有田は自らの「男」を憎悪し、そしてその「男」にすべてを収束させて叩き潰してしまいます。
 『お前のせいだっ!』
 このタイミングでマメオトコがあんな笑い方すれば、そう思うのは当然。
 しかし。
 マメオトコの笑いをもっと高次の文脈で捉え、またあの瞬間のマメオトコの「え?」という表情からすれば
 、たんに有田がみっともない様を晒したのを思わず笑っただけで、なんらかの作意があった訳では
 無いことはわかってきます。
 そして、無論。
 そのマメオトコの姿が、すべてこの一連の有田の騒動の意味を体現しているのです。
 有田はただ、「男」を認めそれで生きる覚悟をしていながら、それが自分と一致しないということから、
 その「男」を叩き潰した。
 自分で「男」を利用しておきながら、上手くいかなければ「男」を潰す。
 しゃっしゃっしゃ、若いのぅ。若いのぅ。
 マメオトコの高笑いが聴こえてくるおもいです。
 有田が自分はただの有田でしか無いと思えたのなら、同じくマメオトコもまたただのマメオトコであり、それ
 自体に善悪なんか無いとわかる。
 だのにマメオトコを悪いと断じて叩き潰すのは、むしろまだ自分がただの有田であるということを自覚出来
 ていない、つまりその「ただの有田」がまた、自分とズレのある第二の「恋」あるいはマメオトコになるだけ
 ということを導き出してきます。
 わしを使いこなせぬようなら、まだまだお前に「恋」は早かったのかもなぁ。いっひっひ。
 
 そして有田は、幼馴染みの信乃に、それとなくそのことを教えられるのです。
 ああ・・そうか・・・
 マメオトコがなにしようが、それ自体は俺には関係無かったんじゃん・・・
 「恋」という概念がどれだけの魅力を放とうと、それを得られないことの苦しみが甚大だとしても、「恋」
 自体はあくまで手段にしか過ぎず、目的では無いのです。
 有田は、有田じゃん!
 有田の書いた、そう、静流に気に入られようとして書いた詩は、意外に上手いものでした。
 その自分のチカラを、どう捉えるかは有田次第。
 あくまで静流に近づくために上手く書いたものであり、望みが断たれた今となってはどうでもいいと考え
 るのか。
 それとも。
 自分が最初になにを求めていたのかを、改めて考えてみるのか。
 その有田のちょっとした文才のその僅かな上手さを、その程度では求めているモノは得られないと考え
 るのか。
 それとも、この今の文才を元手にして、それを少しずつ育て、そしてそれで求められるモノも探してみようと
 考えるのか。
 どちらが自分にとって必要なことであるのかは、明々白々。
 自らの文才を卑小と評価することが出来るのなら、それと同時にそれを豊饒と評価することもまた出来
 るはず。
 俺の求めてるモノって、なんだろう。
 その問いが、どんどんと自己評価の術を上手く発展させていく。
 「男」たるマメオトコが其処にいるのなら、「男」では無い有田も此処にいる。
 そして。
 
 
 有田が此処にいるのなら、やっぱりマメオトコもまだ、其処にいる。
 
 
 静流へのアプローチをやめて、今まで通りの生活に戻っても、それで有田の「男」が無くなるなんて
 全然あり得ない。
 静流と付き合うことが出来ない苛立ちがこそマメオトコを顕したと思っていた有田。
 だったらなんで、日原さんと話せなくなったらいなくなるんだよ。むしろ顕れまくりになるはずだろ?
 『結局、俺が創り出した妄想ってことか。』
 そう、妄想です。
 そしてその妄想は、その有田のおもい以上のモノをカバーしてそして言及していたのです。
 有田が今回の一件で出会ったのは、内なる「男」。
 しかし、その「男」自体はマメオトコではあっても、しかしそれは「マメオトコ」では無いのです。
 マメオトコと出会い、そしてそのマメオトコの言うがままになって主体性を失ってしまったこと、それ自体が
 「マメオトコ」というマメオトコに取り憑かれた状態であるのです。
 つまり、マメオトコを「視た」瞬間にもう、有田は「マメオトコ」に憑かれていて、それはマメオトコを視る
 ということ自体が「マメオトコ」に憑かれているということなのです。
 でも。
 だから、マメオトコは有田のその「妄想」の中にしかいないのでしょうか?
 違うのですね。
 マメオトコが、「男」が、其処に確かにいるからこそ、普段は視えないそれを有田は視ることが出来たの
 です。
 有田には視えなくなっていても、ばっちり静流には、有田の肩に腰掛けているマメオトコが視えています。
 ええ、そうですね。
 
 
 
 静流がいるから、有田に「男」がいるのですよね。
 
 
 
 そして、もうわかりますよね?
 
 静流の方もまだ、未だ「なにか」というものである「男」を感じている、ということなのですよね。
 
 なんだか知らないうちに話かけてこなくなった有田に、どうしたんだろうという心配を抱く静流。
 そして有田のマメオトコを視るにつけ、またあのマメオトコなにかしたんだろうかと考えていく。
 考えてる、考えてる。
 そして。
 『お祖父ちゃんは道陸神だなんて言ってたけど・・・今度調べてみよう。』
 
 
 『にひっ。』 byいやらしく笑う一つ目のエロ親爺 (笑)
 
 
 道陸神について調べれば、「恋」なりナニなりについて知ることになるのですから。 (笑)
 そうすれば今度は、静流こそが自身の「女」を知り、またマメオトコと出会うのかもしれませんね。
 まー・・静流の場合、普通に道陸神の項を指して、「ここどういう意味?」とかお祖父ちゃんに訊いて
 そうですけれどね。 お祖父ちゃんご愁傷様。 (笑)
 
 
 
 
 以上、第十三話「マメオトコ」の感想でした。
 正直、まとめきれませんでした、というか敗北感を禁じ得ません。 (笑)
 自分が言いたいことを書くことに集中するあまりに、広がりが無くなってしまって・・。
 せっかくこの作品にしては珍しい切り口だったのに、それを上手く料理することが出来ず、ただ残念です。
 あわよくば、「恋」とか「男」を使ってこの作品がなにを示したかったのかが、この文章を読んで伝わらん
 ことを。
 ・・・・無理ですね・・やっぱり今回だけはどうも。(ぉぃ)
 この作品は「妖怪」をしっかり民俗学的装置としての意味も描いています。
 アニメだと割とその辺りに必要な蘊蓄を消しているので、言葉としては伝わってはきませんけれど、
 しかし構造自体はしっかりっと伝わってきます。
 いやむしろ、アニメ版は私がやってる事に近いものがあるのですよね。
 今この瞬間の「もっけ」の世界のなかにいるモノ達(静流達を勿論含む)の営み、それそのものから視
 えてくるものを中心にして書いてますもんね。
 主体がモノ達にあるっていうか。
 ということで、よろしければ各回の妖怪達についての民俗学的説明を読んでみることもお勧め致します。
 同じモノを同時に違う見方で感じていくと、それ自体がそれらへの理解を深めてくれると思いますよ。
 私も久々に読みたいなぁ。
 
 それでは、この辺りにて。
 更新ペースが乱れておりますけれど、これからも「もっけ」感想をよろしくお願いします。
 頑張ります♪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 ◆ 『』内文章、アニメ「もっけ」より引用 ◆
 
 
 
 
 

 

-- 080102--                    

 

         

                                  ■■ あけごきっす ■■

     
 
 
 
 
 忘れてた。 (挨拶)
 
 改めまして、ごきげんよう。
 そして。
 明けましておめでとう御座います。
 今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 はい。
 さっそく日記の更新をするのを忘れていました。
 大晦日に更新して、BBSとメアドも新しくして、よしスッキリってなって、全部終わった気になってました。
 まずい、素で元旦が大晦日の次の日だってこと忘れてた。
 普通に、2日なって更新しようとしたら、元旦更新するの忘れていることに気づいたよ。
 うーん、我ながら飛ばしてますね。
 よしよし。
 
 さて、今日は本年最初の日記ということなのですけれど、最初ですし、ちょこっとの方針で。
 ていうかさ、疲れた。
 元旦は朝から晩までぶっ通しで新年会でした。
 死ねるっちゅーの。
 最後の方はもう座ってるだけでも疲れてきましたものね。
 あー。
 
 うん、そんな感じですよ。
 元旦更新忘れるのも仕方がないでしょう、仕方ないんです。
 疲れた。
 ていうかなにげに今日もプチ新年会だったし。疲れた。
 取り敢えず、明日は寝正月な。
 あ、でももっけの感想早く書かなくちゃね。
 ていうか、新しいアニメも始まることですし、オチオチしてられませんよ。
 まぁでも、あれですよ、今年はというか今年もまったりですよ。
 大晦日に書いた通りですよ、一昨日書いた通りですよ。
 まったりを、頑張ろう。
 そんな感じ、そんな感じ。
 あー。
 
 
 なんか、疲れた、以外の言葉に気持ちを込められないです。
 疲れた。
 もし今サンタさんにプレゼントを頼むとしたら、疲れたと唱えた回数だけ他人を疲れさせる能力です。
 まぁ落ち着け。
 そもそも今頃サンタさんにお願いしても遅いんだ、それともあと一年近く待つのかい? いやそれは無い。
 いやそれ以前にサンタさんに頼むとかいう発想自体がもう。
 疲れた。
 
 新年早々やる気の無い紅い瞳でお送り致しております。
 なんなら今、今年一年の運勢を占ってみてもいい。
 凶のおみくじを十連続で引き当てる自信がありますよ。
 あ、除夜の鐘を突き突き神社にお参りしたけれど、ちゃんと日を改めてお参りした方がいいのかな?
 あれも初詣いうの? いや私の初詣のイメージは、昼日中に屋台とか出てて人混みに揉まれてとか、
 そういうあれなのですけれど。
 新年会中、いつもだったら酔い覚ましの中断をかねてみんなでお参りに出るのに、今年に限って、
 私以外みんな口を揃えて「寒い。」「いくならひとりでいけ。」と来たもんだ。あーあ、
 あー、除夜の鐘を突き突き見上げた、お社の上に覗ける漆黒の夜空が、なんかひぐらしっぽかったです
 ねぇ、幟とか提灯とかあの薄暗くてかつ凍えるような闇が云々。
 並んでるときそんなことばっかり考えていた私は立派なオタクです。文句ある? 無いよ。
 
 疲れた。
 
 えー。
 なんだか脳みそが疲労にひっぱられちゃって、こう、思考があっちへいったりこっちへきたりです。
 日記なんて書けるかー。
 でもいつもとたいして文章的に変わってなくなくない?
 はい。
 ということで、まぁ、今日はこんな感じです。
 全く、やる気ありません。 (微笑)
 んでは、また。 (最低)
 
 
 
 
 P.S:
 今年の抱負とか?
 だから、まったりを頑張る、です。はい。
 なんかお正月らしいことしろですって?
 あー、BBS正式稼働させたし、メアドも新しく取得したから、まー適当に使って遊んでなさい。
 私は眠いの。
 遊ぶなら静かにね。
 おやすみー。 (ツッコミ無し)
 
 
 
 
 

 

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