+
+
+
+
+

◆◆◆ -- 2009年6月のお話 -- ◆◆◆

 

-- 090630--                    

 

         

                                ■■ もうひとこえ~ ■■

     
 
 
 
 
 真夏日を飛び越えて猛暑日を記録している今日この頃、皆様如何お過ごしでしょうか。
 ごきげんよう、紅い瞳です。 もう死にます。
 
 しかしこれだけ暑くても、あまり蒸し暑く無いのが幸いです。
 っていうか、雨あんまり降って無いんですけどいいんですか?、神様の中の人。
 さりげにまだ六月だというのに、雨降った日は十日を超えて無いですよ。
 あ、夜とか降ってたかもしらんけど、私の頭が本格的に程良くボケてるのかもしらんけど。
 それにしても猛暑日て。
 なんかもう、やる気なさげに歩いてらっしゃる中高生さん達を見てると、はやく夏休みにしてあげて、
 って感じになってきますけど、あれ?、今夏休みとかっていつからになってるのとか、もう全然わかんない
 っていうか隔世の感というか、通り道に母校があるんですけど懐かしいような、あれなんでこの時間に
 誰も生徒いないのみたいな、ええといいのかな私ここの卒業生ってことで、でも卒業証書どこにしまった
 か覚えてないけどいいですか、たぶん押し入れの中にあるけどいいですかみたいな。
 
 そろそろエンジンかかってきたので、いいですか。
 
 
 
 さて、まぁ、またまた前回のアレの話。
 今度はダーカーザンのアンバーで書きました。
 ・・・・。
 嘘です。
 Upしただけです、書いたのはずっと昔です。
 ええと、元ファイルは07年の12月1日が更新日になってるから、約1年半前に書いたものらしいです。
 ・・・・いやなんかファイル整理してたら出てきまして、ええ。
 あ。
 それ見つけたときは、リアルで「あ。」って言ったものね。
 完璧に忘れてたものね、書いてたの。
 だけどそう、確か書いたときは、なぜだかよく覚えてないけど、まだこれは早いって思ってたんだよね確か。
 で、時機を窺っているうちに忘れてたんですよねお約束ですね。
 でまぁ、見つけて、そして読んでみたら、あら不思議、なんかこれ今Upするしかないじゃんみたいな、
 こう紅い瞳にアホ毛が生えてたらそれがぴぴっと反応するような、そんな感じになりまして。
 いやこれほんと、あのときは早かったわ、今Upするのがベストで正解だわこれ、というかよっしこれで
 もう一個なんか書こうと思ってた奴の代わりになるわこれ、おいしいなぁこれ、という感じになりまして、ええ。
 で、まぁ、うん。
 
 愛だろ、愛。
 
 色恋沙汰そのものじゃあ無くて、そういうものの渦中にありながら、その向こうにあるなにかを見つめて
 いこうとする事自体の愛、みたいな、相変わらずなに言ってんだ私。
 んでも、書いてて震えが止まらなくなるあの感じ、そうそう、それだよそれ、そういうのをまぁ、うん、
 「愛」という言葉をひとことも使わずにやれたときのあの感じ。
 それをこれからやっていきたいなぁ、というまぁひとつの大きな動機になりました。
 動機っていうか、指針っていうか目標?
 今自分が書こうとしているものを、一体どういう自分の姿勢で書くか、それがなんかこう、決まってきた
 気がします。
 すべては狼のために。
 来期は「狼と香辛料Ⅱ」の感想を全霊で書かせて頂きますので、どうぞよろしくお願いします。
 よし。
 準備完了♪ 
 
 
 
 
 ◆
 
 あれ?なんか調子出ないですね今日。
 エンジンかけた瞬間にエンストしてるのに、気付かずにハンドル握ってる感じですね。
 まぁいいや、アニメの話してればそのうち調子乗ってくるでしょう。
 まぁそうすると長文化する弊害を巻き起こす訳ですけれど、実は今日は最初から長文化する事は
 決まっているのだよ、沢山書くことあるのだよ、それを最初から感じていたからこそそれを読む人達の
 気持ちになってうんざりがっかりしていたのだよ、ああ可哀想に可哀想だけどでも涙を拭いて書かねば
 ならないときもあるのだよ諸君、という感じで段々調子も出てくる訳だ。
 ごめんなさい。 (土下座)
 
 と、額に土つけながら、早速いきます。
 まずはまだ書いてなかった今期アニメの最終回の感想を書きます。
 残っているのは、けいおん、リスパラ、ポリフォニカ、夏のあらしの4つですけど、ポリフォニカと夏のあらし
 はまだ観ていないので、今日はけいおんとリスパラを書きます。残りはまたいずれ。
 では早速。
 
 
 けいおん!:
 月が紅い。 byむぎちゃん
 うーん、うんうん。
 ・・・・・。
 くはぁ・・・・・
 うん。
 楽しい。
 こんなに楽しい作品は久しぶり。
 もうね、今期一番の作品はこれだよって言ったげる。
 すっごい面白かった!
 なにがどう面白かったかという以前に、これを面白いというのだよという感じ。
 唯で始まって唯が歩き回って遊び回って、唯があー楽しかったーって言えて、最高。
 あの子が精一杯楽しんでいる事が出来ただけで、この作品は完成の完璧ですよ。
 こっちまで、にやけちゃう。
 唯が楽しんで、唯が謝って、唯が感謝して、唯が泣いて笑って。
 最高じゃないの。
 こういうアニメこそ、大好きだーっと全開で叫びたい。
 唯というひとりの人間がちゃんと唯らしく生きられる事というのは、唯が自分勝手に生きることでも、
 抑圧されることでも無く。
 ただ唯が楽しめて、みんなと一緒に楽しめて、楽しむために謝れて、みんなと一緒に楽しもうと頑張れる
 からこそただひとりの唯のままでもほがらかに笑えて、それが、唯が唯らしく、けどどうしたらいいのかほん
 とはわからなくてびくびくだった、その小さくて弱い唯を大きく支えて連れていってくれるものがきっとある
 って信じられた、その唯の素直な、そして誰もが持っている誰もが抱き締めたくなるような、その暖かく
 も切実な希望が、ばっちり輝いて。
 涙出てきた。
 ぽろぽろ、ぽろぽろ、止める気がまるで起きない。
 
 『みんな唯が大好きだよ。』 byりっちゃん
 
 ああもう、唯ちゃんのこの守ったげたい応援したげたい、一緒に笑い合いたいって気持ちにさせてくれる、
 その感覚が全身を貫いて堪らない。
 この子のためならなんでも出来る、とそう気負い立つ自分の力がそっと抜けて、まぁいいか、もっとゆっく
 りいこうか、みたいな、憂的に唯を守って応援してあげたいって気概で自分が強く頑張れる気にさせて
 くれながら、でも同時に自分も唯的にもっとまったりゆっくりと笑えていくような、これはほんとに二重の
 嬉しさを観る者に与えてくれたんじゃないかな。
 だから、憂やけいおん部の面々も、唯の保護者的な感覚を持つことが出来る嬉しさがありながら、
 けれどそれだけでは無く、彼女達もまた唯によって自分の中の「そのまま」を楽しく認めて発露させて
 いくことが出来るようになっていく。
 そう、この作品は、唯がみんなに受け入れられていくという、そういう作品じゃあ無い。
 唯を巡る周りの人達が、どうやって唯を受け入れていくかという手順を踏まえながらも、それが出来た
 瞬間にあっさりとそれを投げ出して、私も唯みたくもっと素直にやればいいのかも、そもそも受け入れて
 貰うなんて事もう考えなくてもいいのかも、というそういう気づきと全く新しい自分の在り方に至る
 作品だと思う。
 唯のために自分が頑張れるのは嬉しい。私もそうよ。
 だけど、それだけじゃあ「唯に見つめられている自分」というものを無視してしまっている。
 だから憂には全然悲愴感は無いし、なにより憂自身は自分がどこまでも頑張れる事よりも、
 唯の圧倒的な暖かさがあること、それ自体に一番一番助けられまた守られていることを自覚してる。
 だから。
 唯も信じられたんだよ。
 いつけいおん部への出禁を命じられるかと、ほんとは内心びくびくで、自分が他の人とリズムやペースが
 違うから迷惑かけちゃうって事をなによりも誰よりも自覚していた唯が、それでも自分らしさをひとつも
 引っ込めずに正々堂々と唯らしさを無防備に晒し続けることが出来たのは、唯が誰にも、その人の
 「自分」らしく生きる事をその人から奪いたくないと思っていたのだからね。
 みんな、みんならしく生きていいんだよー。
 唯が最後で泣きじゃくってみんなにいつも迷惑かけてごめんね、と言ったのは。
 みんな誰もが、みんなに謝りたいって思っているから。
 唯の謝罪は、みんなの気持ちを代弁するもの。
 そしてそれは、その謝罪が出来るのは、その謝罪もまた、自分らしさみんならしさに含まれているから。
 それは決して、謝らなくちゃいけないから、じゃ無く、謝りたいからなんだよね。
 私、ちゃんとみんなの事見てるから、私だけが私らしく生きていい訳じゃ無いから。
 みんなも、みんならしく生きていいんだからね、だから、ごめんね、迷惑かけちゃって。
 はぁ。
 唯だってみんなに迷惑かけられてんですからね、唯だって、みんなのこと大好きなんですもんね。
 その唯の泣きじゃくる姿見た私達が、泣けないなんてこと、ないんだから。
 最高です。
 つーかもう、けいおん全部でまるごと最高!
 ふわふわタイム♪ やっぱ歌ってる唯ちゃん最高にカッコイイ!
 最高にあったかい時間をありがとう♪♪
 
 けいおん、大好き~♪ by唯ちゃん
 
 もう一曲っ! (第二期を是非お願いします 笑)
 
 
 
 リストランテ・パラディーゾ:
 あれ?なんか趣旨変わってない?
 最後の最後でいきなり主人公のニコレッタの成長物語になっちゃったよ?
 主人公なのに・・・・・・あ、ほんとはそれが普通か。
 主人公ではあったけど、決して主役では無かったニコレッタに焦点を当てて来たのは、作品をまとめる
 という意味では確かに文字通り劇的な効果があったけれど、せっかくの男達の供宴が添え物みたいな
 感じになってしまったので、少し寂しかったかなぁ。
 まぁ、それはおいといて。
 この作品で一番感じたのは、この作品に出てくる男達って、なんか「若い」よね、ってことなの。
 それがなにかこう、大人というのは器用な子供である、ということに繋がっているような感じがして、
 その「若さ」をクローズアップさせているのが、違和感以外の、その繋がりの感じを与えてくれるのが
 面白かった。
 二十年とさらりと言えてしまう枯れ紳士クラウディオも、「年相応」の所作に満ち満ちているけれど、
 なにかこう、その「年相応」というなにかの殻を破らせようという、そういう作者の意図を感じられた。
 や、たんに作者がクラウディオの年齢の男の事を知らない視点で書いてるだけなのかもしれないけど、
 ただ、むしろあれだけ男達に喋らせて丸裸にさせてしまうことで、そのクラウディオの年齢の男の、その
 「年相応」ぶりというものが、ただ子供が時間をかけて作った器用な殻にしか過ぎない、ということを
 焙り出しているようにもみえる。
 だから、すごくね、良い意味で平均的というか、平らに均されている感じがするの、この作品の人間
 関係が。
 年が関係無いというか、みんな対等に素でやりあっているというか、ニコレッタと同世代の友達の夫が
 ニコレッタの恋するクラウディオの同年代のヴィートだったり。
 そりゃ恋人夫婦同士で本気になれば年なんか関係無い。
 年の差で生じる問題と、そのふたりの魂自体の交流の問題は別問題。
 そういうものをあっさりとクリアするために、むしろクラウディオの二十年とあっさり言える態度があるのかも。
 年上の男達の中に入っていく憧れから、ひとりひとりの男との素の付き合いに変わっていく様と、
 母と娘の葛藤から、ひとりの女同士としての対面へとじっくり描き出していった様はまさに同じこと。
 ・・・・・・。
 あ、だからあの最終回はあれで良かったのか。納得。
 母と娘から女と女へ、それが出来たからこその、ひとりの素の女と女でもある母と娘の関係を改めて
 やり直していくことも出来る。
 うん、だから、年上の男と年下の女からひとりの男と女へ、それが出来たからこその、今度は改めて、
 その年の差というすべての「社会的なもの」を含む、完全まるまる全部の、そのクラウディオの姿が
 ニコレッタには鮮やかに暖かに見えてきたのかもしれないね。
 だって、そっちの方が断然楽しいもの。
 年の差を無視するより、年の差をも愉しめた方が、よっぽど健全だもの。
 うん、面白かった。
 これを観ながら飲むブランデーの味は、またひとしおでした。 ワインじゃ無くてごめん。(笑)
 
 
 
 
 ◆
 
 さて、さて、さて。
 来期アニメ直前話。
 っていうかもうひとつ始まってますけどね。
 ということで、その始まった作品ひとつのちょい感想と、改めて少なくとも第一話はチェックしてみる
 作品のリストをどうぞ。
 
 
 ■うみものがたり
 ■うみねこのなく頃に
 ■青い花
 ■大正野球娘。
 ■化物語
 ■CANAAN
 ■懺・さよなら絶望先生
 ■GA 芸術家アートデザインクラス
 ■狼と香辛料Ⅱ
 
 前回のリストからいくつか減ったり増えたりしたけれど、一応減り方向に傾いたので良し。
 勿論ここから第一話観て容赦なく切っていくから、覚悟しといてよね!(結局切れない事とか)
 そして今期の継続作が8作品なので、なにも切らずにこれと足すと全17作品になるようです。
 全然今期から減って無いっていうか増えてますね。 全然思い通りにいきませんね。
 ということなので、頑張ってガンガン切っていこうと思います!
 うん、頑張ろう。
 
 
 うみものがたり ~あなたがいてくれたコト~
 ひゃー。
 ひゃっこい。
 これはいいアニメ。
 みーんな、愛してるっ♪
 主人公の女の子は、ぽやぽやしてる割にはさらさらしてて、暖かいっていうよりはやっぱり軽やかで、
 だから妹のしっかりさがあっても無くても、普通にお姉ちゃんひとりでも生きているって感覚がすごく出て
 いて、むしろ逆にその妹の焦りというか不安というか、お姉ちゃん無しでは生きてはいけない感触が
 、これはしっかり鮮やかに出ていて気持ちいい。
 それにあの怨念娘wも、主人公のぽやぽやさらさらの正論っぷりにいずれ服従するコトになるのかと
 予想出来ながらも、むしろ逆にその怨念っぷりの気持ち良さが、その怨念娘の生命力を活き活きと
 顕していて爽快だったり。
 最初観たとき、あ、これけいおんと似てる、マリン(姉)とウリン(妹)は唯と憂だね、夏音(怨念娘)は
 さしずめ澪と梓を足してさわちゃんの執念で割ったような感じだねwと思ったけど、結構違う。
 公式サイトのマリンのキャラ説明に、「全ての人達を受け入れる優しさをもつ女の子」ってあったけど、
 それって、みんなをマリンと同じような優しい気持ちにひとつにまとめるって意味じゃ無くて、しっかりだけ
 ど臆病な妹のしっかり臆病さをそのまま、怨念娘の怨念っぷりをそのまま受け入れてそれとして生かして
 いけると、そういう感じを現時点では印象として受けて、非常に綺麗な感じ。
 海の中には色んな生物がそのままいて、勿論毒を持った生物もいてw、だけどそれはそのままで。
 だから、マリンを見習うのでは無く、他の子達が他の子達が持っているもののままに、さりとてそれに
 囚われることも無くすっきり生きていく話になると面白いなぁ。
 ・・・・でもこれ魔法少女モノみたいなんですよね、第一話では微塵もそんな感じ無かったけど。
 だからかえって、これからが想像を絶します。一体どうなるんじゃろ。楽しみ楽しみ。
 音楽のしなやかな奥深さ、ひとつひとつの情景の鮮烈さが、書き割りのような背景の中で躍動する
 生命のように、しっとりと、けれど爽やかに魅せてくれるこの作品は、それだけでも観るに値する一品
 です。
 
 
 
 
 と、いうところでしょうか、今日は。
 うん、いや、その。
 なんかほんとに長くなっちゃうので、、タユタマの感想は後日に、ということにさせて頂こうかなと。
 というか、もうタユタマの感想は半分以上書いたんですけど、長い。
 上のとくっつけたら長いとかすら言えなくなる。
 長さが気になって思う様書ける自信が無くなってきた。
 なので、解決策として、タユタマの感想のみUpは後日と、そうですね、半分以上は出来てるので、
 明後日くらいにはUp出来るでしょうけれど、もう一日だけ空けて、金曜日にUpということにさせて頂き
 ます。
 どうぞ、ご了承のほどお願い申し上げます、っていうかタユタマ感想待っててくれてた人、ほんとにごめん。
 その分、容赦なく遠慮無く訳わかんないものをめっちゃくちゃ書かせて頂きます♪
 ・・・・私が真面目にやるってそういうコトみたい、たぶんw
 
 
 
 それでは、また。
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 090626--                    

 

         

                            ■■ 魔女と呼ばれずとも ■■

     
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ふっ
 
 
 
 
 
 
 笑顔が、よぎった。
 どこを?
 目の前を?
 それとも、体の中を?
 
 
 
 
 * * * * * *
 
 
 白と黒って、どっちが好き?
 私はね、白が好き。
 なんでかなぁ、ずっと、ずっと、そういうのが当たり前だったからかな。
 なんでもかんでも潔白で正直で、そう在るために尽くす力や知恵だけが本物だって、そう思っていたの
 よね。
 うん、疑問なんか感じる余地は無かった。
 ううん、それ以前に疑問を感じる自分の事なんて想定出来なかったわ。
 疑えそうでいて、疑えない。
 ええ、そうよね、疑うこと自体は難しい事では無いの。
 いくらでも、それはおかしいことだ、という理由を作る事は出来る。
 でも、それに頷く事が出来るかというと、それはね、絶対に出来なかったし、またそれがあまりにも絶対
 過ぎるほどの確信としてあったから、やっぱり私は、疑わなかったし、疑えなかった。
 私は白が好き。
 白を好きになれって教え込まれもしたし、周りの人間の大部分が同じように白が好きなのが当然でいた
 し、それでね、それでもやっぱりこの世界には白じゃなくて黒が好きな人達も居てね、じゃあそういう人達
 はなんだろうって、そう考えることは出来るの。
 うん、そうよ。
 そう考えることが出来る事と、そう考え、考えを進め新たな答えに辿り着き、その答えの通りに自分の好
 みを変えたり、或いは自分とは違う好みの人達を肯定することが出来る事は、全くの別物なの。
 私は、自分が白が絶対と教え込まれようと、周りのほとんどの人間が白を絶対としようと、それらを理由
 として、今現在こうして自分が白を好む事を肯定しようなんて、これっぽっちも思わない。
 そしてね、いつも私はどうしようも無く、いいえ、ほとんど悲しいくらいに必ず、この世界での少数派であ
 る黒を好む人達を肯定する事に全力を傾けていた。
 だって私は、誰かに好きになれって言われたから、白が好きなんじゃ無いもの。
 だったら、黒が好きである事が悪いっていうのを一応は感じている私にとっては、その事実をどう扱おうと
 それは全部私が決める事で、初めて私の好悪の情になるって、そう確信していた。
 黒が嫌いなら、ただ嫌いって言えば、ただそれだけでいい。
 黒が嫌いなのは、世界がそれが正しいと言っているからじゃ無い。
 だから、私が黒を嫌う事と、私が黒を好きと言っている人達を否定する事は、違うんだ。
 
 私は白が好きで、そして、黒を好きと言う人が好きなのよ。
 
 たぶん、もうほんとはね、私にはこの自分の好み自体を疑う必要は無いの。
 そんなところで、迷っていちゃ、いけなかったのよ。
 
 
 
 ◆
 
 自分の気持ちに嘘をつくのは、嫌。
 だから、なんとかして、正確に自分の気持ちを言い表そうとする。
 でも、言葉では上手く伝わらない。
 そして、上手く伝わらないからこそ、より言葉に磨きをかけていこうとするとね、いつしか、なんで自分が
 こうやって言葉を磨いているのか、わからなくなっちゃう。
 ううん、わかってはいるのよ、きっと。
 言葉の上では、ね。
 どんなに言葉を磨いても、どんなに正直に自分の事を伝えようとしてもね、それ自体が相手に自分の
 気持ちが伝わるかどうかという事とは、関係無かったの。
 だってね、私、ほんとに自分の気持ちを伝えたいって、思っていなかったから。
 いいえ、そもそもその私の気持ちってなんだったのか、ほんとはわかっているようで、わかっていなかった。
 私は、あの人が好き。
 だから、私はその自分の好きという気持ちを伝えたかったの?
 その伝えるという行為自体が、私がしたかったことなの?
 たぶん違う、ということは、なぜか良くわかっちゃった。
 私はあの人のことが好きだけど、そのことがあの人にわかっても、なんにもならないって思ったから。
 あはは、別に見栄を張ってるって訳じゃないのよ。
 ただそう、我が儘なだけ。
 私は、あの人の事を沢山知っている。
 私はあの人の事情のせいにして、自分の気持ちを伝えないで良い理由を得ている。
 そして私は、そんな自分の姿を、きっちりと自覚している。
 あの人の事情のせいにして気持ちを伝えない事に終始するつもりなんて、勿論無い。
 私は考えた。
 だったらなぜあの人のせいにするの?
 答えはね、一瞬で出るの。
 
 
 私は、あの人の事が好き、ということに、すべてを賭けることが出来ないんだ、って。
 
 
 私は白が好き。
 だから、黒は嫌い。
 それなのに、黒が好きな人のことが好き。
 私にとって、一体どっちが大事なのかな?
 白? それとも黒が好きな人?
 わからなかった。
 なによりも、なんでそんな選択をしなくちゃいけないのかってことが。
 私には、さっぱりわからなかったのよ。
 なにも・・・・・・うん、ほんとになんにもよ。
 黒が好きな人に、黒の悪さを説き白を好きになれと伝えた。
 無意味な事だけが、淡々と伝わって返ってきた。
 ううん、無意味とかそういうことじゃなくて、それは私自身が白を好きでいる事を否定するのと同じ事をし
 ているんだってことが、ただ無感動にわかっただけのこと。
 そう・・・・
 それがわかるからこそ・・・・
 私はただ純粋に、馬鹿みたいに平気な顔して、あの人に、好き、と言い続けた。
 えへへ、何度も、睨まれちゃったわ。
 だって冗談にしか聞こえないものね。
 それがわかるからこそ私も巫山戯てそう言ってた訳だし、それで感じる哀しみを孕んだ虚しさを感じること
 こそが害悪だってこともわかってた。
 私に、そんな虚しい哀しみに沈んでいる暇は無いのよね。
 私はあの人のことが好き。
 それなのに、正直にそう言葉にして伝えれば、冗談言うなと睨まれるようにしちゃったのは、私自身。
 そしてそれを望んだのは、私。
 そうしなくてはいけなかった理由を何億と積み上げることが出来て、そしてそれをぱちんと指で弾いて崩
 すことに余念は無かった。
 馬鹿みたいとも思わなかったし、それが当然とも思わなかった。
 ただ、そうして積み上がったものを無造作に突き崩していくだけだった。
 
 ほんとにあの人のこと、好きなのかな。
 その疑問が自然に出てくるのを、待っていた。
 まるで獲物を見つけて猛る狼のようにして、その疑問を打ち倒すためにと、そんな大嘘をつきながら、
 それでもそうだったらいいのにと自然に呟いている自分をこそ、私は見つめていた。
 会いたかった・・・誰よりも・・・・誰よりも・・・
 多くのものを観て感じて考えて、それでも変わらぬこの気持ちの確かさを感じるのは、そうしてなにかを
 確信している自分が其処にいることを知りたかったから。
 ええ、そうよ。
 それは、それが私であることのままに、あの人を愛したかったからじゃ無いの。
 逆ね。
 あの人を愛しているから、それが私であることのままでいる訳にはいかないと、なにより強く言葉にして
 自覚したかったからなのよ。
 
 あの人の前で、思い切り巫山戯たわ。
 あの人の事を愛している私を、道化のようにして演じて魅せたわ。
 それに無邪気に憤るあの人と、そしてその分かり切った反応を受けてなにかを確信する私。
 そのふたつを、私が冷静に感じるためにこそ、私は道化を巫山戯てやったのよ。
 そう・・・巫山戯てね・・・・・決して真面目に道化を演じることは出来なかったのよ・・・・
 
 
 だって、道化になりたい訳じゃ無いんだもん。
 
 
 私は・・・・
 そう・・・
 そうして冷静な自分を求めてしまう事と、そしてその通りに冷静になってしまう自分を憎んで・・・・
 でも・・・そうして自分を憎んでいる私こそが・・・・・同時にそうして憎まれている私自身であると感じて・・
 どう転んでも、こういった私の独り遊びな空回りは、すべて私の中のあの人への気持ちだけは絶対に
 消えないことを示してた。
 不思議なことに、どんなに道化ても、あの人のことを憎むような役を演じることは出来なかった。
 良いとか悪いとかじゃ無いよね、きっと。
 どうしてか、わかる?
 
 
 ×
  ×
     『彼もね、一度だけ本気で笑ってくれたことがある。』
 
     『とびっきり、抜けるような笑顔だった。』
 
 
 
 『そのとき、思ったの。』
 
 『ああ、こりゃやられたなって。』
 
 
 『私はきっと、この人のためならなんだって出来るなって。』
 
 
 
                          『あの笑顔がもう一度見られるなら、なんだって。』
                                                       ×
                                                        ×
 
 
 あんな顔されちゃね。
 どうしようもないわよ。
 あーもう、どうしようも無い。
 だって、愛してるからこそ、それを理由にしてなんでも出来るなんて、絶対言えないのよ? 私。
 だから私は逆に、この人のためになら、絶対にこの人のためになら何でも出来るだなんて言えないなって。
 でもね、だからだったのよ。
 それは、憎しみとか恨みとかとは、もう全く絶対に繋がらないってことだった。
 あの人のためにならなんだって出来ると、本気のような顔して嘯いて、それは演技であって、そしてね。
 演技である事が、道化であることそれ自体が既に、私の本音になっていたのよね。
 あの人のためにならなんでも出来るなんて嘘、出来ないからこそそう言っただけ。
 でも・・・わざわざそう言ったのは・・・・・なぜかしらね?
 ふふふ・・
 自分がなんで今、こんなに悩み苦しんでいるのかがわからなくなっているのを、強く感じていたからよ。
 私は、あの笑顔に惚れちゃったわ。
 理屈? ええ、あるわよ。
 圧倒的な白の中で黒に生きる哀しさや清々しさ、それに対する同情と羨望と、そして自らの奮起。
 私はそういうの、全然否定しないよ。
 いっくらでも、私はあの人が好きな理由を説明出来るよ。
 私はあの人が好き。
 私はそれを口にする。
 その気持ちが、それを口にすることが、どれだけの困難をもたらすかを感じながら。
 そして、その困難を乗り越えて辿り着くあの人の笑顔が、なによりも遠い場所にある事を知りながら。
 私はあの人に頬を張られる。
 私は、あの人に嫌われるために、あの人に好きって言わなくちゃいけない。
 そう。
 あの人の、あの私が大好きな笑顔が見られるんだったら、なんだって出来るのよ。
 私の中の気持ちを言葉にすると、それは全部、嘘にしかなれない。
 それでも、私は言葉を紡ぐ。
 あの笑顔を見るためを思えばこそ、ね。
 つまりね。
 
 あの人の笑顔を見るのが目的だって思えば、私がしたい事のすべてを正当化出来るって事なのよ。
 
 うん、嫌な言い方をすればね、これはあの人の笑顔が目的なのじゃ無くて、その自分のしていることを
 正当化する事こそが目的ってことになるのよね。
 でも、あの人の笑顔が見たいっていうのは嘘じゃ無い。
 ううん、そうじゃ無いのよ。
 
 
 だからこそ、そうだからこそ、あの人の笑顔が目的っていう、嘘にしかなれないはずの言葉を、本当の事
 として道化ながら正々堂々と、あの人に伝えることが出来るのよ。
 
 
 目的、なんて嫌らしい言葉を敢えて使ったのは、そういうこと。
 あの人のためにならなんでも出来る、なんていうあり得ないことは、やっぱりあり得ない。
 だって私は、白が好きで黒が嫌いだから。あり得ないのよ、それ。
 私は一生あの人に嫌われる運命。
 詩的な表現は嫌いじゃないけど、こんな言葉しか言えないんじゃ、少し嫌になるわね。
 でも、私達にはやっぱり、言葉しか無い。
 それが、たとえ口にするだけですべてを滅茶苦茶にするものであったとしても、私達はその滅茶苦茶に
 なってしまったものを逆様にして、なんとか目的を達成していくのよ。
 何重にも無様にねじれて、言っている本人さえもうその言葉の出所を見失ってしまったとしても、やっぱ
 りその言葉が言葉としてそれでも持っていてくれる意味は、ちゃんと其処に在ってくれるのよ。
 それって嬉しいこととも言えるし、悲しいことだとも言える。
 言葉が其処にあれば、いつも私はどんな最悪な状況でも希望を持てる。
 でもそれは同時にね。
 その言葉を口にするだけで、もうその言葉自体が持っている意味だけは、絶対に消すことが出来ないん
 だってことにもなる。
 あの人のことが好きって絶対に思えることって、それは嬉しいことでもあり、悲しいことでもある。
 あの人のことを嫌いになれればどんなにいいだろう、だなんて、絶対に絶対に思えないんだからね。
 私があの人を好きと言い続ければ、それはずっとずっと変わらないままにある。
 好き、という言葉が在るから、私はずっと好きと言い続けられるのにね。
 それはね、恨めるようでいて、やっぱりどうしても、恨めないこと。
 うん、たぶんね。
 私があの人への好きって気持ちを失ったとしても、それは変わらないはず。
 きっとあの人へのその気持ちを失ったのは、その好きという言葉を言い続けるのに必要なことだったんだ
 なぁって、まるで他人事のように、それでもそう、しっかりと思えてしまうんだから。
 不思議よね、自分でも怖いくらいよ。
 どんな才能よねそれ、って。
 なんていうのかな、わかっちゃうのよ、どんなに無駄な言葉を示しても、それがどんなに予想通りの駄目
 な結果をもたらしても、それを逆様に繋ぎ合わせれば、必ず私は此処に戻ってくることが出来るって
 いうことをね。
 それでもあの人は、私の頬を張る。
 わかっていても、どんなにそれを予測し切っていても、やっぱりそれは悲しいし、そして、悔しい。
 ああ、また私なにも出来なかった、あんなにちゃんと一から全部分解して理解して、どうしてそうなって
 しまうのかさえ解読出来てたのに、どうして私はいつもきっちりあと百歩分くらい、それをなんとかして解決
 する自分のその姿に届かないのかな?
 理屈は全部わかっているのに、もしかしたら、どうすればいいのかさえもわかっているのに・・・
 どうして私は・・・あの人と・・・
 
 そのたびに、だからわかるのよ、ああ、私の目的地はどうしてもあの人にならないんだな、って。
 
 目的地になれない、じゃ無いんだ。
 たぶん私は、どんどん、どんどん、あの人から離れていっている私のことを、許してる。
 むしろ、そうして愛するあの人から離れていく自分の姿に溺れてしまっている。
 あの人は、私のすべてじゃ無い。
 私には沢山沢山、やらなければならないことがある。
 でも、そのやらなければならないことって、一体なんのために存在したんだろうって思う。
 私はね、どうしてもそういったものが、私のあの人への気持ちのためにあるとは思えなかった。
 逆、なんじゃないかって、思うのよ、やっぱり。
 沢山の者を愛せるようになったから、一番難しいあの人へ挑むことが出来るの?
 違うんだ。
 あの人が好きだから、だから、どんな困難で多くのものにも向かっていくことが出来たのよ。
 だから、あの人は、あの人への私の気持ちは、私のこの存在そのものの、恩人。
 大事じゃ無いものなんて、ひとつも無い。
 だから、あの人のためにすべてを賭けるなんて、あり得なかった。
 そのことを哀しく感じることはあったけれど、その哀しみが主体になることなんて、絶対無かった。
 私は辛い目に合うたびに、あの人のことを想った。
 『ずっと会いたかった・・・ずっと、ずっと・・・ずっと会いたかった・・』
 なにもかも捨てて、あの人と手を取り合って静かに過ごすことを、何度も夢に見た。
 でもそれは、必ず夜空に輝く星の下で観る、儚いゆえに甘美で、そしてささやかで小さな夢だった。
 ええ。
 決してそれは、真昼の陽の下で強く願い続ける夢にはならなかった。
 ううん、敢えてここで、夢にはなれなかった、と言い換えようか。
 私は、哀しんでる。
 すごく、すごく、とても深くね。
 たぶんそれは絶対に、語っちゃいけないことなんだって想うのよ。
 だからね、それは私が願うべき、叶えるべきモノにはなれなかったのよ。
 私は沢山のものたちのために、一杯いっぱいしてあげたいことがあった。
 でもね。
 そう・・・
 ほんとはね・・・・・・・
 実はそれも、同じなのよ。
 

 
 その真昼の夢を叶えたいと強く言葉にすればするほどに、
 

                - それはすっかり逆様になって -

 
                                                          夜空の星の下で囁く甘美な夢の礎に変化してしまう。
 
 
 あはは。
 ここまで言ってきたこと、滅茶苦茶になっちゃったね。
 全然わかってないのよ、私は私のこと。
 私はきっと、最期の最後まで、あの人のために死ぬのか、自分のために死ぬのかがわからない。
 でも、それがわからない原因だけは、鮮明にわかっているの。
 うん、簡単よ。
 私にそれをわかる気が無いからよ。
 あっちへいったりこっちへきたり、逆様にしたり元に戻してみたり、そうした揺さぶりの内実だけは全部丁寧
 になぞっていて、わからないことなんて無かったから。
 わかっちゃうのよ、色んなこと。
 ずっとずっと、激しく考えちゃうから。
 私にとって必要なこと、ううん、私が生きるってことは、たぶん馬鹿みたいに必死に、その死にたくなるほ
 どの思考の血脈を、私と、そして私の周りのものと繋げていく自体にあるって思うから。
 その思考が、いったいどこから強制されてくるのか、それを考える意味は、私のこの生にとっては無いと、
 どこか私の体の中で透明になってわかって浸みてくるんだよ。
 うん、私、逃げてる。
 でもね、たぶんこれも、同じこと。
 自分の思考自体に盲目になることと、見つけ出した思考の源自体に盲目になることは、その盲目に
 なるという事では、全く同じでしょ?
 
 「私が生きること」と、「あの人のために生きること」の、違うところは、どこ?
 
 なにかを激しく考えるっていうことが、イコール私が生きるということ。
 考えれば考えるほどに、私はあの人のことを想う。
 私が考えるから、私はあの人のことを想う事が出来る訳?
 むかっと、くるのよね、その質問はさ。
 そんな質問するから、私は思いっ切り、この言葉を突き付ける。
 「もしそのために、私かあなたが闇に消えてしまうとしたら、どうする?」
 選べる訳無いでしょ?
 というより・・・
 そんな選択を以てしか自分に迫れないのが、情けなくなってくるわ。
 どうしてかしらね・・
 どうして・・そんなことを気にしなくてはいけないのかしらね・・・
 情けないって思っているのに、その選択肢を思い浮かべることをやめられない。
 私が先か、あなたが先か。
 どうでも、いいはずなのにね。
 言葉が既に其処に在るから、こうなってしまうのよね。
 でも・・・・
 だから、言える。
 
 あの人のことが、好きだって。
 
 
 ごめんね・・
 馬鹿なことに付き合わせちゃって・・・・
 でも・・・
 
 
 
 『ちゃんと・・・・言わなくちゃ・・』
 
 
 
 そうよね・・・
 まだ・・
 私は、考えられるんだ。
 愛を、もう喪くしてしまったかもしれないとさえ、思っていても。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
               ◆ 『』内文章、アニメ「DARKER THAN BLACK-黒の契約者-」より引用 ◆
 
 
 

 

-- 090623--                    

 

         

                              ■■ あとがきに続け! ■■

     
 
 
 
 
 あとがきは後に書くものです。 (挨拶)
 
 
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 雨とか降ってますけど私は元気です、雷が降っても笑っていられる(頭の中の)お天気ぶりです。
 そわそわ。
 ううー、そわそわ。
 脳みそを1パーセントも使った形跡のみられない心理状態です。
 いえーい、雨、雨~♪
 まぁ落ち着け。
 
 ・・・・。
 現在充電中です、むしろ電力生産中。
 びりびりなのです。
 うきうきなのです、どきどきなのです。
 頭を下敷きでこすって静電気絶賛育成中なのです。
 いや。
 なんかね、ノリが無い。
 がーっとこう、盛り上がりに欠ける。
 だからね、この辺りでいっちょうどげんかせんと、っていうことに相成りまして。
 このところ、自分の中をほじくり回しているのです、掻き回せ、抉り倒せ!
 とにかくね、バラバラなんです、こう、今までとは違うものをとか言う空回りな気負いじゃ無いんですけど。
 なんかこう、全分解してみたいんです、バラバラなんです、情報増えて無いなおい。
 ゼロからやり直すっていうか、今までやってきたものの総体である私自身が、そのままゼロからやるって
 どうなるんだろう、どうなっちゃうんだろ、そう思ってるうちにもう駆け出しちゃって。
 これっぽちも、今までのやり方を踏襲しようだなんて思っちゃいない。
 若気の至りに縋ったり、過去を取り戻せみたいなリハビリ根性も無い。
 いえーい。
 全部知るかー!
 そういう感じにね、じわじわ振り切れた。
 気付いたら、振り切れてた。
 もう知らん、もう知らないぞ私は。
 
 それで書いた、前回更新のアレを。
 
 ・・・・。
 うわ、全然ゼロじゃねーっていうか、今の私が崩れたままそのままロックオンして撃っちゃったみたいな、
 わけわかんねー、でも当たった、なんか当たった、なんかきた。
 あー、今の私がゼロになると、こういう感じのものがゼロじゃ無く残るのかー、みたいな。
 相当ゼロ方向に振り切れて書いたはずなんだけど、あんましゼロじゃ無かったっていうか、ほとんど意識
 とか我慢とかセーブとかしてないし、実際そういう感じにもなってないんだけど、逆にほんとに恥ずかしげ
 も無く全力出してアレかい、みたいな、そんな感じある。 うへえ。
 上手い下手はどーでもいいのよ。
 私のまんま、素っ裸のまんま書けてるかどうか。
 そういう意味ではまだまだ、自分の中へのダイブが足りてない。
 うん。
 まぁ、わかる人にはわかったでしょうけどさ、前回のあの「桜夜秘抄」っていうアレはさ、マリみての
 二条乃梨子で書きましたんだけどさ。
 マリみて知ってる人でも、最後の一言読むまでわかんなかった人いるかもですけど、つか最後まで
 読んでこれ乃梨子じゃねーよと言う人もざらにいるかもですけど。
 まぁ、乃梨子かどうかはともかく、あれは乃梨子「で」書いたんですけど。
 乃梨子を使ってなにかを書く、っていう意味ではまぁ、50点満点中50点でした。
 んだけども、(自分で)ご指摘のように乃梨子を書くという意味ではまぁ、50点満点中0点でした。
 100点満点にすると50点!
 さぁ、その50点をみつめてみよう。
 
 ・・・・。
 駄目じゃー。 (机に突っ伏して)
 
 乃梨子「を」書く、というのは実は半分くらいは乃梨子「で」書くのうちにも入ってて。
 前回のアレはね、そういう意味では乃梨子「で」ちゃんと書けていたとは言い難く、ただ乃梨子の設定
 を多少使って書けただけというか、ぶっちゃけ乃梨子に成り切って、その上で私らしく書きたいものを
 乃梨子で書けたかとは全然言えない。
 乃梨子力が足りない。乃梨子分が足りない。
 そうなんだよなー、って。
 私に今足りないのは、それなんだよなーって。
 愛というか思い入れというか、感情移入とは違う、成り切りが無いというか。
 まずは、乃梨子になる。
 べつにそれは、アニメが提出してきた「乃梨子」とはイコールじゃあ無い。
 私がアニメ観て感じて震えた、その「乃梨子」なだけ。
 だから、私のアレを読んでこれ乃梨子違う言われても、それはそれこれはこれ。
 で、その私の感じて震えた「乃梨子」になって、そうなるからこそ必然的に「なにか」が見えてくるし、
 その「なにか」のままに書き出せるようになる。
 そう、その乃梨子のままに。
 だけどどーも今の私は、そうする力が減少してる気がする。
 まず「なにか」ありきで、でもそれは私の「なにか」であって、その「なにか」を無理矢理先行させて、
 乃梨子にそれを語らせているだけ。
 そういう意味では、書いてて気持ち悪い。
 すらすら書けないもの、乃梨子のままに。
 私が無理して乃梨子っぽく書いてみせてるだけだから。
 「乃梨子」が書かなくちゃー意味が無い。
 そういう意味では、私が乃梨子「で」書くというのは、乃梨子「が」書くということと同じこと。
 
 でもね、今回はこれでいーんじゃないかとも思う。
 
 むしろ、今私は「なにか」を書きたくて堪らないんだけど、そのための方法論がまだ上手く発掘出来て
 無いよーな気がするんだよね。
 アレ、感覚的にはたぶん、マリみて4期の乃梨子じゃー無い。
 第二期の、志摩子さんと会って変わり始めてきた乃梨子なんじゃよ。
 私は第四期に触発されて、その第四期の乃梨子で書こうと思ってたのになんでかなー?
 でも気付いたら第二期の乃梨子的になってた。 なんでやねん。
 でもね。
 それが、私のやりたいことだったんだよ。
 第四期の乃梨子を観て、イコール第四期の乃梨子で書こうと思ったっていうのはたぶん間違い。
 ほんとはきっと、第四期の乃梨子を観て、だからこそ第四期の乃梨子を見終えた「乃梨子」を
 書こうとしたんだよ、私は。
 だから正確に言うと、第二期の乃梨子を書いた訳じゃ無くて、第四期の乃梨子が第二期的な乃梨子
 的感慨を改めて感じた、その第四期の「乃梨子」を書いたんだよ。
 あー。
 その「乃梨子」、私に似てるって。
 
 
 あーなんか。
 私の白薔薇書きたいなーって思ったんだ。
 
 
 色んなことがわかってきた。
 まぁほんと、色々ね。
 アニメの見方愉しみ方も変わってきた。
 ひとつのアニメにじゃ無く、沢山のアニメを愉しめる方法を育ててきた。
 そしてだから。
 私的に今やっと、そうしてこれたからこそ。
 ひとつのアニメを純粋に愉しむ事に、今まで以上の価値が生まれてきたのかな、って。
 自分が無条件にそのまま良いと思った作品、それに身を投じることを、ここまでやってやっとやる価値が
 出てきたような。
 主体的に、色々な作品を愉しみ楽しめるようになったからこそ、その中でこそ、私がそのまま愛せる
 作品とフェアに向き合えるようになったというか。
 んや、なったというか。
 これから、今、なろうとしているというか。 
 そわそわ。
 どきどき。
 これが今の私の欲求。
 とめどない、衝動。 
 バラバラ。
 わけわかんねー。
 そのままの歪な、乃梨子の皮を被った紛れも無い乃梨子で書いてみた。
 あわわ、恥ずかしい。
 色んな意味で恥ずかしい。
 顔が赤くなったり青くなったりした。
 
 
 
 あー。
 なんか。
 
 久しぶりだよ、この感覚。
 
 
 
 恥ずかしついでに喩えるならば。
 今までのは、子供の恋。
 今のはきっと、大人の恋。
 純真無垢に、どろどろに恋せよ人類の勢いだったその恋が、どろどろのしがらみに囚われて、囚われた
 ままなにも考えずに剥けていく爛れた恋に。
 だけど、恋という意味では全く同じ。
 だけど、中身は随分違う恋。
 同じで違う。
 だけど。
 
 この今の欲求と、衝動は、昔感じたものと、まるっきり同じ。
 そわそわ、どきどき。
 うー、いい感じになって参りましたよーっ!
 
 
 
 ・・・・・どうしよう、なに言ってるかわかんないぞ。
 
 
 
 
 ◆
 
 あとがき終了ー。
 恥ずかしいので、ちゃっちゃと次いきます次。
 来期アニメ、どうすんの?
 そりゃ狼です。
 
 狼だー! 狼がきたぞー!
 
 いやまだきてませんけどね、「狼と香辛料Ⅱ」はTVKだと7月8日深夜からですからね、再来週から
 ですからね、まだだぞ、まだだぞー。
 まぁ、狼少年ってツンデレですよね。
 もしくはM。
 ・・・・。
 余計な妄想が逞しくなったので、次いきます次。
 
 で、来期はもう狼の狼による狼のためのシーズンになることは疑いが無いことですので(紅い瞳視点)、
 まぁなにも心配はしていないのですけれどね、でも狼はキャラデザの人が代わったりして少し心配
 なのですけれどね、公式サイトの絵だけだとよくわからないんですよね違うような違わないような。
 まぁいいや、所詮狼です。
 なにはともあれ狼です。
 当魔術師の工房及び不肖この紅い瞳めは、来期は全身全力でアニメ「狼と香辛料Ⅱ」を
 応援していきます。
 勿論、お勧めの大推奨で御座います。
 他の作品ですか?
 うーん、狼ばかりみててあんまり気になっていないのですけれどね、以前リストアップした作品以外の
 ものはなさそうですし、あまりこれだ、というのはなさそうですね、狼以外。
 まーうん、敢えていえば。
 うみものがたりと、うみねこのなく頃にと、化物語、それとCANAANかなぁ。
 来期はね、ちょっと少数精鋭でいってみようかなって思ってる。
 だから、色々削っていくことに力点を置いてみようかなって。
 出来れば10作品以内に抑えたい。
 つか・・・・
 そういえば、今期のって2クール作品っていくつになったんだろ?
 
 ・・・・・。
 忘れてた。 (汗)
 
 まだわからない作品もあるけれど、今のところ私が把握したり予想出来る作品は以下の通り。
 
 ・シャングリラ
 ・蒼天航路
 ・銀魂
 ・パンドラハーツ
 ・Phantom
 ・涼宮ハルヒの憂鬱
 ・鋼の錬金術師
 ・咲
 
 全部でこの8作品が、来期も続けて放送されそう。
 そして来期は10作品以下に抑えたいとのことですので、狼分を引くと・・・・
 来期新しく視聴出来るのは、1作品となりました♪
 
 
 がしゃーん。 ←ちゃぶ台返し
 
 
 ちょっと、ちょっと今期、半分しか終わらなかったの?
 今期視聴してたのは全16作品ですからそうなるよ、そうなったよ。
 まずい、これは予想を裏切る戦況です。
 というか、無理ですねこれは。10作品無理ですねこれ。
 まぁうん。
 善処します。
 
 
 
 
 
 
 
 ◆
 
 さて、無責任に次いきます次。
 ああー、紫陽花が綺麗な季節ですよね。
 ウチとこにも、紫陽花がばらっと咲いていて、雨の日も晴れの日もそりゃー美しきこと紫陽花の如しで
 御座います。 紫陽花です。
 青紫、赤紫、それにちょっぴり白のもあって、それを見るだけでも心和む今日この頃の毎日です。
 次いきます次。
 えーまー、うん、来期はね、別に期待してないとかじゃ無くて、狼に全部持っていかれてしまっただけで、
 狼分にそっくり期待している訳ですので、まぁうん、心配無い。
 はい。
 なので、大人しく今期終了したアニメの感想をちょろちょろっと始めさせて頂きたいなって。
 今回だけで全部の作品を語ることは出来ないし、まだ終わっていない作品も御座いますので、まぁ
 ちょろちょろっと。
 では、やります。
 
 
 
 東のエデン:
 なんだろうなぁこの違和感は。
 前に書いたちょこっと感想でもその違和感について語ったんだけど、未だそれは晴れずっていうか、まぁ
 最終回じゃ作品は終わらなくて(それ最終回?)、劇場版二作品で完結らしいけど、私はテレビアニメ
 としての作品の完結にしか興味が無いので、これはこれでお終いで、そしてそのお終いに至っても、
 違和感はむしろ深まるばかり。
 なんだろ、なんか、うーん、巫山戯てる気がするの、この作品。
 べつに現実的かリアルかどうかとか、そんなんどーでもいい。
 だけど、ニートだなんだの問題を使って、なにか別のことを言おうとしているように見えながら、それを
 徹底せずに、或いは出来ずに、ニートの話を隠れ蓑に利用して隠れちゃってる気がするの。
 あの最終回観て、異常に中途半端な気がしたもん。
 ストーリー的にまとまってるかどうかじゃ無く、あんた、一体「どっち」をやりたい?、みたいな。
 ニートなどの諸問題を考えたいの? それともそれを「なにか」を抽象化するために描いて、その「なにか
 」こそをやりたかったの?
 キャラ自身がそれに揺れるならともかく、この作品自体が、なんというか非常にサボっていうだけのよう
 に感じる。
 この不安定さそのものを売りにしてるんなら、駄作だね、この作品は。 洒落てるだけさ。
 中途半端。
 やるなら徹底的に、「なにか」をやりなよ。
 中途半端な感情論や感傷論で、結局理想論を開き直り的に受け入れるだけのような、せっかく
 ニート問題をただの雇用問題にして捉えることはしなかったんだから、そんな馬鹿な狭いことはやめな
 よ。
 それはべつに、現実論を考えろ、ってことじゃないよ。
 一番考えるべき「問い」はなにか。
 この作品に一番必要で、本来要だったものは、根本を問う、哲学だったと思う。
 現実のアンチとしての理想など形を変えた「現状肯定」にしか過ぎないし。
 うん、「理想」を抱えそれを見つめながら、今のこの現実の中にそのままいることは同じなんだから。
 「現実」とはなにか。
 その「問い」を深めなかったこの作品は、「なにか」を考えるためのアピールにも、パフォーマンスにも
 なれなかったと、敢えてここで断言しておきます。
 これじゃ、こういう問題がある「かもしれない」、という愉しみしか無いじゃない。
 だから。
 劇場版でなんて一部のファン限定に逃げないで、テレビアニメで正々堂々と続編をやれ、続編を。
 勝負はこっからだぜ、ジョニー♪ 
 
 
 黒神:
 この作品も、東のエデンと同じタイプ。
 なんだけど、なんだろ、こっちはこっちで激しく好き。
 同じことやってるんだけどなぁ、最近の私の趣味なのかなぁ。
 こっちはこっちで、既成の秩序だなんだに囚われる、その自分の運命への囚われっぷりをどうするか、
 ということなんだけど、あっさり最終的には戦いに身を投じることに終わって、その戦いの後始末を
 しただけのような感じ。
 テーマ的なことに対する問いの深めはゼロ。
 ただそのテーマ的なものの前で、動き回るだけ。
 ただ。
 こっちは吹っ切れてる。
 同じなんだけどね、東のエデンと、「現状肯定」している訳だしね戦いながら現実の中に存在してる
 訳だし。
 だけど、こっちはやっぱり別の意味で吹っ切れてる。
 そういう自分を生きる、覚悟がある。
 元々私はそういうの嫌いなんだけどねー、最近それもありかというか、それを否定するだけじゃ駄目だ
 っていう感じになってきてるのかな私。
 だからね、この作品自体に賛同を示すつもりは無いし、この作品の通りに生きたいだなんて欠片も
 思わない。
 でも・・・今の私は・・・・
 長く、目の前にある自分のテーマと、向き合い続けたい。
 東のエデンは、目の前にある自分のテーマを、今自分が此処に居続けるためのエッセンスとしてだけ
 利用しているから、なんか嫌だった。
 だけどこの黒神は、あくまでその目の前のテーマと最後まで向き合い、戦い続けていた。
 それが、その事自体が、なんだかとても、嬉しかった。
 戦いに逃げてるよさ、この作品は、だから肯定なんかしやしないさ。
 おもっきし囚われてるよ、この作品は、だからこの作品の潔さ自体に共感なんかせんよ。
 だから、戦いに逃げている、戦いに囚われているとみるからこそ、この作品の戦闘性そのものに、
 武士道的な感覚に殉ずる気持ちは欠片も無い。
 でも。
 戦いに逃げてしまってまでも、戦いに色々なものに囚われてしまっていてまでも、それでも目の前の
 ものから目を背けずに、必死に向き合い続けていく、それそのもの自体は、とてもとても、同意できる。
 だから最近、こういう勝負モノ(?)に私なりの理解を示せるようになってきたかなぁ。
 今まではただ、戦いに逃げ込むこと囚われることの是非ばかり論じていたんだけどさ。
 すごく、ものすごく、感じたよ、この作品にはさ。
 熱くて、そしてなによりも静謐な、そのクロの紅い瞳に、永遠を。
 そのクロを見つめてきた慶太の感覚に、ずしんときたよ。
 ありがとう。
 ま、東のエデンは、そういう自分の日常維持のエッセンスとして戦いを使ってたけど、そもそもその日常
 っていうのは、そうして自分の目の前のものと圧倒的に長く付き合っていくための鎧みたいなものでも
 ある訳で、逆に黒神のそれは刹那的で、長く戦い続けるための事を合理的に突き詰めるなら、東の
 エデンをゆっくり愉しめる方が、ずっと合理的で永遠ではある、という事でもあるけど。
 でも、だから。
 だからこそ、その東のエデンを愉しむ日常が、その日常のため自体にある訳では無いということを、
 忘れずにしっかりと思い出させてくれるからこそ。
 黒神に、ありがとう。
 
 
 戦国BASARA:
 まったく、この子は・・・・
 なんという、お祭りぶり。
 ああ、これか、こういうことがやりたかったのかぁ、この子は。
 ほんと、騙された。
 完璧に騙された。
 今度こそ完璧に騙された。
 バサラ最高。
 今までしてきたバサラ否定は、すべてそのことを私に思い知らしめるため。
 やっばい。
 これはやっばい。
 いくらでも否定批判は出来るのに、それが全部透けていく。
 有り余る、フィーバー。
 誰が散っても生き残っても、それ自体が祭の夜空を彩る紅蓮の花火。
 おまけに、最終回で、長宗我部のアニキと毛利元就初登場ですか。
 これは物語じゃー無い。
 お祭りじゃ!
 これぞバサラ。
 こんなに戦国BASARAらしいことは無いじゃない。 
 戦場の華。
 戦国の紅い闇。
 軽佻浮薄に、大言壮語を誰でも吐ける、そんなお祭り騒ぎの夜がきましたよっと。
 これ、政略戦略いらないじゃないの。
 武将の熱気も色気も必要無いじゃないの。
 すべてがこの最終回の夜宴に繋がっていく。
 ああ、これ、第二期ありな、やっぱりアリな、第二期。
 これたぶん、秀吉を一期に出さなかったのは最初から第二期に出すがためでしょ。
 ザビーとか本願寺とか放送的にマズイのをあっさり処理したのも、すべてはそのためぞ。(たぶん)
 んで、色々と武将を散らせて削ったことによって、整理もつきやすくなり。
 そして最後の最後に、最大最強の色モノ(ちょっとネジが飛んでるコスプレ親父ぉぃw)キャラ、第六
 天魔王信長が消えたことで。
 第二期は、より政略戦略モノをやりやすくなったんじゃね?
 そして、たっぷりその政略戦略をやって。
 それを第二期の最終回で、さっぱり散らす。
 そして、その花火が美しいのは。
 きっちり政略軍略の、その豪気さと雄大さと意外性そのものの香りが染み込んでいるからじゃん。
 それはこの第一期の最終回が、そうだったから。
 誠に天晴れなる信長包囲網じゃ!
 うん、戦国BASARA、万歳。 (真顔で)
 
 
 
 と、いうとことまででしょうか、本日は。
 ぐだぐだやな。
 では、そういうことで、残りはまたいずれ。
 ほなー。
 
 
 
 
 
 

 

-- 090619--                    

 

         

                                  ■■ 桜夜秘抄 ■■

     
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 私は、馬鹿が嫌いだった。
 
 
 
 
 
 
 
 黒く塗られた靴を履いて、爪先を地面から高々と上げながら、歩く動作を感じさせないほどにして
 歩いた。
 水飛沫が落ち所を見失い、肩を寄せ合いながら、じっとりと地上を見下ろしていた。
 曇天。
 かさかさと触れる襟のこそばゆさが、いっこうにその新鮮さを失わない。
 止めどなく流れる歩みのままに、闊歩していた。
 歩くこと、まるで不動の如く。
 歩いているという意識無く、ただ逍遥を重ねた。
 魔神。
 悪魔のように純真な、その雷よりも重い拳が、今にも目の前に振り下ろされてくるような感覚だった。
 軋む奥歯。
 歯軋りなどしてはいないのに、びりびりとそれは劈く、エナメル質の鳴動だった。
 体中が、ひとつひとつの素材に分けられていくような感触。
 痛みも苦しみも無く、それはただの分類だった。
 ラテン語かギリシャ語か、少なくとも日本語でも英語でも無い、見慣れぬ文字列で綴られた、
 一枚一枚の紅いレッテルが、全身隈無く貼り巡らされていく。
 その文字は、読めない。
 その紅い札が胸に貼られているのを見て、それがこの隆起した胸そのものの名なのか、
 その奥にある拍動を重ねる機関室のなのか、はたまたそこにあるとされる儚い世界の名称であるのか、
 わからなかった。
 風が戦ぐ。
 立ち止まるたびに、その真偽不明の名の記された紅い魔物達は、囁くようにして揺れた。
 視界が紅い。
 とぼとぼと、降りしきる雨の残影のようにして、黒い人影が地面に刺さっている。
 その横を通り過ぎるたびに、ひとつずつ、息を止める。
 無視。
 無視するために、どれだけの力を使っただろうか。
 
 気付けば舗装された道を一歩外れ、砂利の中に立っていた。
 空が遠い。
 もやもやと膜が掛かったような重苦しさがありながら、背後にある植え込みの緑は鮮烈だった。
 目を上げれば、白い壁がある。
 見上げれば見上げるほどに、その壁は縦にでは無く、横に広がっていった。
 簡単に、見越すことが出来た。
 なのに、気付いたときには、その白い壁はぐるりと横に広がり切り、あっさりと周囲を取り囲んでいた。
 小さな植え込みだけと、一緒に閉じ込められた。
 その植え込みの向こうには、壁の存在に気付かぬほどに茫洋とした道がある。
 そこへ、戻りたいとは、思わなかった。
 この壁と、ひとつになりたいと思った。
 緑に濡れる。
 深緑の爽やかで、滑りを帯びたその繊細な光が、背を嘗める。
 どこまでもいける気がした。
 溶けること能わず、ただくっきりと記された黒い足跡の上に埋まる、漆黒の靴先に込められた、
 この体の冷酷がなによりも鮮彩だった。
 
 
 
 
 
 
 ◆
 
 自分が女である、という意識はほとんど無かった。
 かといって、男であるという意識は、全く無かった。
 気付けば周りには、女があった。
 女の中に放り込まれた。
 でもそのとき私には、そもそも男と女の違いなど、ほとんど感じてはいなかった。
 馬鹿か、馬鹿では無いか。
 ただそれだけの違いしか、無かった。
 女の向こうに、男がみえた。
 女と一緒にその向こうにいる男を見つめたとき、男ほど馬鹿なものは無く思えて、けれどその思考自体
 になんの自覚も感じ無いがゆえに、すぐにその視点の座る場所は移動された。
 男を見つめる女の中で、女を見つめた。
 馬鹿だった。
 女ほど馬鹿なものは無かった。
 けれど、そう思えた瞬間に、男と女はさらりと消えた。
 みんな、馬鹿じゃないか。
 それぞれが、それぞれに、痛烈に馬鹿だった。
 女と男に囚われてでしか得られない、馬鹿の選抜技法もまた愚かなものだった。
 男も女も関係無い。
 男も女も馬鹿だ。
 それぞれに、それぞれの流儀を以て馬鹿だった。
 女は女だから女とは男は違うという意味で、男は馬鹿だと言える訳では無い。
 男は男だから男とは女は違うという意味で、女は馬鹿だと言える訳では無い。
 男は、男として馬鹿だった。
 女は、女として馬鹿だった。
 あいつも、こいつも、あの人も、この人も、ただのひとつも同じやり方を持たない、完全自己流の馬鹿さ
 加減を魂込めて披瀝していた。
 みんな馬鹿だ。
 等しく馬鹿だ。
 馬鹿の種類はすべて違っても、馬鹿であるという意味に於いては、同じ。
 
 無視しよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 桜舞う夜。
 闇。
 その闇の中で、桜がみえる不思議。
 光など無いはずなのに、桜自体が光を発している訳では無いのに。
 乾いた夜風が森々と木立の群影を浮かび上がらせていく。
 光を発しているのは。
 輝く、この黒い瞳。
 その瞳の孕む光の是非を問う気持ちにはなれなかった。
 幻影に、幽玄に、細く棚引く桜吹雪。
 荒れた石畳のように蔓延る桜の木の根が、ぎゅうぎゅうと押し込めるように、周囲に命の光源を振り蒔
 いている。
 ぼう
 ぼう
 松明のように煩わしく燃えながら、灯籠の如く虚ろに翳る月の光。
 その光は、分厚い夜陰に紛れ囲われて、この艶やかな漆黒の地には降り立て無い。
 なのに、次々と静かな音色を奏でながら、夜の世界の被造物達はその月明かりと脈動を共にしていた。
 触れない。
 なのに。
 どうしても、触りたい。
 触りたいと感じる、この胸の熱さのままに、濡れる指先を抱き締めて。
 桜色の影の中に、誰かいる。
 馬鹿みたい。
 必死に馬鹿さを探そうとしているだけの、虚しい呟きがこそ闇に溶けていく。
 特別なことでは無かった。
 なんだろうか。
 この胸の静まりようは。
 あまりにも素晴らしい演目に晒されて、拍手すら出来ずに魅入っているかのよう。
 微動だに出来無い。
 動いている暇さえ惜しい。
 
 
 
 いつのまにか、馬鹿であることを問いたくなっていた。
 どうしてあんたはそう馬鹿なんだ、どうしてあなたは馬鹿でいられるんだ。
 気付いたら、ひとりひとりに問い詰めたくて堪らなくなっていた。
 無視していたのに。
 問うことなど考えもしなかったくせに。
 どうして。
 どうして、馬鹿なのよ。
 知りたくなった。
 なにもかも、知りたくなった。
 馬鹿では無い人を見つけるたびに、その人が馬鹿であることがわかっていった。
 そうした馬鹿な人をさらに知るたびに、その馬鹿さが良く知っている馬鹿さであることがわかっていった。
 その馬鹿さは、この胸の奥底に広がるなにかと、繋がっている。
 馬鹿だと思っていた人を問い詰めるたびに、その人が圧倒的に馬鹿であることがわかっていった。
 そうしてその圧倒的さを知るたびに、その馬鹿さが全く知らない馬鹿さであることがわかっていった。
 その圧倒的な馬鹿さは、この胸の奥底に広がるなにかとは、まるで繋がっていなかった。
 
 
 
 だから。
 繋がりたいと、思ったんだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 ◆ ◆

 
 
 その人の馬鹿さを理解することは、その人を知ることと同義だった。
 なぜ、その馬鹿のままで生きられるのだろう。
 
 私には、耐えられないのに。
 
 どうして、あなたはそれでも生きられるの?
 私は、知りたかった。
 馬鹿さに耐えられないからこそ、馬鹿を無視していただけだったのだから。
 圧倒的だった。
 どうしようも無い馬鹿さに囚われながら、それでも生きていられるその人達は圧倒的だった。
 怖かった。
 その人達に、圧倒的に劣っている自分のことが。
 怖かった。
 その人達を、いつまでも無視することでしか自分を守れないことが。
 その恐怖が、ひしひしと私を蝕んでいく。
 耐えられなかった。
 その事に、最も耐えられなかった。
 知りたかった。
 どうして、男と女に拘るの?
 そうして、わかった。
 よくよく見れば、簡単なことだった。
 誰も、男や女であることに拘ってなどいなかった。
 そのままなんだ。
 そのまま、やれば良かったんだ。
 その中で、自分は女だ男だと言って、その女論や男論を適当に真剣に実践することもやれば良かった
 だけの事だった。
 それは、女のためでも、男のためでも無い。
 女論者男論者のためにでも無い。
 ただ、自分のためにだ。
 私は、男の中に入って、そのまま男らしく生きていけることも可能だということを感じていた。
 女の中で、そのまま女らしく生きている今の自分を感じれば感じるほどに、それは充実した実感に
 変わっていった。
 女らしく生きようだなんて、今も欠片も思わない。
 だけど、女らしく生きねばならないと拳を振り上げる勢いの馬鹿な女のことを、無視することはもう、
 せずに済んでいた。
 女論自体の馬鹿さ自体と、その馬鹿さを背負って生きることの力強さは、全然別のことだった。
 
 女は馬鹿だ。
 それは、男がいて、男とは違うからだという理由では無い。
 女は女として充分馬鹿だ。
 色々なモノから目を背けて、覆い隠して。
 でも。
 そうした愚かな自分をすべて背負って、そのまま生きられる、その強靱さに溢れていた。
 自分が馬鹿であるという事をわかっていない馬鹿さの中で、圧倒的に生きることが出来ていた。
 そのくせ、すぐに弱音を吐く。
 なのに、その弱音を共有することで癒される事以上に。
 その弱音自体を、駆け引きの材料として、自分の領分を保守し、さらに上昇を遂げる事さえ出来て
 しまう。
 私は驚いた。
 馬鹿なのに、なんてすごいのだろうと。
 
 
 なのに。
 どうして。
 こんなに驚いているのに。
 
 こんなにそれは、私に安堵をもたらすのだろうか。
 
 
 私の中にも、その素質がある。
 みんな、当たり前の事をしているだけだった。
 なんだかとても、気楽になれた私がいる。
 私は、自分の賢さに逼塞することでしか、この鋭い瞳の力を維持できなかった。
 もっと、簡単なことから始めて良かったのに。
 目の前の女の後れ毛がさらりと揺れる。
 高飛車で強気で、弱虫で意地っ張りで、なのにするすると頭の回転は止まらないそいつは、私の瞳の
 愚かな値踏みを一足飛びに飛び越えて、私の胸の奥底の住人にあっさりと収まっていった。
 友達だった。
 馬鹿な奴と扱き下ろす事が出来るたびに、実は私以上に賢い女であることもわかっていった。
 なんだ、たんに私の瞳のレベル自体が低かっただけじゃないか。
 私はそいつの御陰で、馬鹿になれた。
 馬鹿に、戻れた。
 なんにも、知らなかった。
 ただそれだけだった。
 わかった。
 わかっていく。
 あの子の姿を見つめるたびに、尋常ならざるほどに、私の世界は広がっていった。
 その中で暴虐に振り下ろす私の論理をそれでも目の前の女に突き刺しながら、それを軽やかに鮮やか
 にかわされていくことに、嬉しさを覚えながら。
 やられる。
 いつまでも自前の拳に縋り付くだけなら、私はこいつに負けてしまう。
 
 
 そのたびに私は、素直になれた。
 素の自分の、最も根源的で、最も初歩的な、そして一番幼稚なままの言葉のままに。
 私はあの子と勝負する。
 
 
 あの子の見た目のレベルに合わせる、なんて考えているうちはまだまだ。
 私の論理のレベルを落とすということは、論理への依存度を減らすというだけのこと。
 論理のレベルを落としたところで、論理への依存度が変わらねば同じこと。
 どの論理の段階でも、その論理を口にする事自体の、膨大な広がりがある。
 あの子だけで無く、沢山の人達と出会い、見つめ合った。
 みんな違った。
 楽しくなってきた。
 その人達の中には、自分とは違うというだけで色眼鏡をかけて見つめてきながら、その自分の行為の
 愚かさのままに、私と向き合うことが出来る人達がいたのだから。
 斬新だった。
 新鮮だった。
 なによりも、その人達の行為を愚かしいと思いながらも、その思いのままにでも、その人達と向き合えて
 いける私がいるなんて。
 無視し続けるのでは無く、罵倒し倒すのでは無く。
 どうしてその人は、その愚かなままで生きられるのだろうかと、それを真摯に見つめていく事が出来た。
 馬鹿であるか、そうで無いか、それは関係無いのかもしれなかった。
 みんな、生きている。
 それぞれの、それぞれにしか無い、圧倒的な馬鹿さの中で。
 みんな違うんだ。
 そして、その差異を受け入れていく事が出来ること、それ自体にも意味は無いんだ。
 なぜなら、その差異であることを認めずに無視していくだけの人もまた、私が見つめていきたい、私とは
 違う人なのだから。
 なにか秘密があるんだろう。
 私にはわからない、辿り着けない、とっても不思議なモノがあるんだろう。
 
 私は、それを全部、知りたい。
 私にはわからない、辿り着けない、とっても不思議なモノだからこそ無視する、なんて事はあり得ない。
 
 
 
 人と話すのが楽しくなったんだ。
 ゆったりと、しんなりと、甘く囁くように、私は静かに落ち着けたんだ。
 人の事が知りたいと思う事自体は、本質なんかじゃ無かったよ。
 それは。
 あくまで、口実なんだ。
 私は・・ただ・・・・
 
 
 
 
 
 みんなと一緒に、楽しく生きてみたくなったんだ。
 
 
 
 
 あったかくて。
 雅で。
 優しくて。
 綺麗で。
 賢くて。
 
 愛しくて。
 
 
 
 
 
 
 
 ああ
 
 私
 
 
 つくづく人間の事が好きなんだって、やっぱりそう思ったんだよ。
 
 
 
 
 
 
 
 また一緒に、桜の夜の宴を踊ろうよ、志摩子さん  --
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 090616--                    

 

         

                                ■■ 梅雨だれ一番 ■■

     
 
 
 
 
 はい、ごきげんよう、皆様の紅い瞳です。
 
 さてと、今日のラインナップは以下の通りになっております。
 お酒の話。
 本の話。
 来期アニメの話。
 タユタマの感想。
 です。
 さくさくっといかせて頂きます。
 どうぞよろしくお願い致します。
 
 
 
 ◆
 
 純米吟醸生原酒「李白」:
 酒造好適米「雄町」使用。それに蔓薔薇の花酵母を使用。ほんのり花の香り(がする気がする)。
 某人のお土産で頂いて、そのまま某人を含む何人かと美味しく頂きました。
 お話、というか議論っぽく白熱してるときに出されて、話しながら飲んでいたので、どういう味だったか
 よく覚えていないていたらくなのですけれど、お、美味しいなこれ、でなんでしたっけ、そうそうそれでね、
 あれ?これ旨いな、うん、で話の続きですけど、みたいな感じで割りと色々と美味しく邪魔してくれる
 お酒ではありました。 
 
 純米原酒「酒一筋 梅錦」:
 純米原酒と純米吟醸の両方の表記があったんですけど・・・え、どっち?w
 純米吟醸原酒、ってことなの? よくわかりませんけれど、まぁいいや。
 と、そう思えるほどに美味しかったです。
 ほっとする。
 ああ、日本酒にしか無い感覚ですねぇこれ、味も濃くて変化もあるし、だけどほんわりと香るように
 口の中で薄く広がって溶けていって、柔らかく優しいお酒でした。
 そんなに高くも無かったし、これは定番酒にしたいくらい。 まぁ定番は持たないですけど。
 お酒が好きな人にちょっとプレゼントするときに、いつも迷ってたんですよね、八海山とかはありきたり
 過ぎるし贈る側の個性が無いし、そうするとこのお酒は私が手軽に贈れるお酒としては、実に選びたい
 お酒になりました。 これはいいお酒。
 
 純米大吟醸「花春 夢の香」:
 つるつるっとしてまろやかで、だけど飲みやすいままにじっくりと味わえる、なかなかレベルの高いお酒。
 飲んだ最初はじわっとくる辛味の手応えがあるけれど、飲んでいくうちに段々と甘くなり、辛味がその
 甘味に包まれていくような感触でした。
 ちょっと良い事があったときにご褒美的に買ったのですけれど、うん、まさにそういうときにぴったりな、
 個性があって華やかなお酒でした。 ありがと♪
 
 それと、カシャーサというお酒を飲みました。
 ブラジルの蒸留酒です。 ラベルに書いてありました、原産国ブラジルって。
 初めて見たお酒なので、ほんとはジンを買おうと思っていたのですけれど、つい代わりに手を伸ばして
 しまいました。
 で、飲んだ感想ですけれど、最初の口当たりはテキーラに似た吸い付くような飲みやすさがあって、
 ブランデーやウイスキーのような刺々しさは無し。
 でも香りは全然違って、アップルパイのような甘く囲い込むような香りで、味もしんなりと甘い。
 飲みにくさが欠片も無いので、これは調子に乗っていると、あっという間に酔い潰れコースですね。
 ちびちびと舐めるお酒として蒸留酒は飲んでるので、ちょと用途とは外れてしまいますけれど、美味しい
 お酒ではありましたね。
 
 
 ◆
 
 岩井三四二「踊る陰陽師 山科卿醒笑譚」:
 時代モノ特に歴史モノというと、とかく「厳しさ」というものが前面なり底面なりに流れて、その感触の
 中での物語を噛み締める、という類のものなのだけれど、この作品はそれをくすりと笑い上げ、なーに
 を馬鹿なことを言いますのやら、いくらでも抜け道はありますのや、どれひとつ教えて差し上げまひょか、
 と軽やかに当たり前に言ってそのまま済んでしまう。
 現実の厳しさや大上段から切って落とす理をさらりと示しながら、だからこそそれを見つめ、それと接し
 ている実際の私達だからこそ、いくらでも上手くサボれるだろうと、そして実際にひとつひとつ目を逸らさ
 ずにサボるポイントを見つけて、だからこそ馬鹿正直に「厳しさ」に身を投じることさえも、時に苦無く
 出来ることも出来るし、それゆえに「厳しさ」や「苦しみ」は決して本質では無く、その「厳しさ」や
 「苦しみ」でさえもあっさりと利用して生きられる、それが生活というものだと語る。
 この作品は、そう、融通ということを描いた作品なのでしょうね。
 
 乙一「夏と花火と私の死体」:
 駄作マイナス1。 つまり駄作と言われる前に救いがひとつ。
 基本的にはなんてことは無い、大したことの無い作品で、作者が17歳当時の作品ということで、
 17歳としては上手い作品かもしれないけれど、それは本当に17歳としてはの話であって、なにも知らなけ
 れば全然特色の無い、むしろあまり意味の無い作品。
 そういう意味では、この作品を評するには、読み手が「17歳の書き手」として読む必要があるし、
 それこそ書き手にとって意味のある作品であって、それはそのままの読み手には全く意味が無い事だし、
 普通に考えて17歳以下の読み手が読んでも、この作品を自分が「書けるか書けないか」という事を
 考えなければ、やはり特に評するところの無い作品だと思う。 書き手は書き手、読み手は読み手。
 そういう意味では、読み手として私はこの作品は特に評価するに値しない作品だと思うし、勿論作者も
 17歳だからどうこうという評には、耳を傾けないかと思う。
 ただ一点を除いては。
 解説にも書いてあって、ひどく同意したけれど、主人公の「私」の視点は自由自在。
 殺された自分の死体そのものが「私」なのでは無く、その「私」の視点そのものが死体に潜り込んだり、
 あるいは空の上に移動したり、すっと自分を殺した幼馴染みの幼い兄妹の隣に座ったりする。
 それは決して幽霊とかそういう感じでは無く、解説の書き手の小野不由美(「十二国記」の作者)も
 書いていたように、それは「神」の視座というようなものだったり。
 私的にはこれは唯一神的な神では無くて、すべてのものには仏性が宿る的な八百万の神様的な、
 偏在する「自分」を、主人公の「私」としてひとつのものにしたような感じがしました。
 あらゆるものが、それをみてる。 あらゆるものに、みられてる。
 その視線の集まる中心点にいる、あの兄妹のどうしようも無い鮮烈さが、だから初めて見えてくる。
 これは面白い。
 面白いから、駄作だなんて、どうしても言えません、はい。
 むしろ傑作。 上手さなんてどうでも良いのよ。
 
 乙一「ZOO」:
 短編集。
 うーん。
 コメディだったりホラーだったりスリリングだったり、それらの中にぴりっと染みこませた裏表の無さとか、
 そういうのは面白くてちょっぴりな味わいがあって良いのだけれど。
 一冊の本として読んだ場合、物足りない。
 どの話も、短編小説としての珠玉さが無く、アイデア勝負的なアクセサリーに毛が生えた、その毛の
 生え具合に面白さがある程度で、うーん、いまいち評価出来ませんでした。
 なにより、透明さが無いのが痛い。
 片手間で書いた閑話休題的な作品の集まりなので、まぁ、そういう愉しみ方でなら充分面白いの
 ですけれどね。
 
 乙一「暗黒童話」:
 よくわかる。
 わかりすぎて、だから逆にわかることしかわからない、このもどかしさ。
 主人公の菜深はなにひとつわかっていないけれど、菜深自身にはきっちりとわかっているものがあって、
 それを積み重ねて築いた自らの防壁の隙間から世界を見つめていく、その覚悟を決めただけ。
 清々しい。
 絶対に、自分の目の前の世界には、消えることの無い澱のような暗黒が、ごとりと転がっているのだから。
 菜深は自分がわかっているということを、なによりもわかっている。
 自分の見つめた世界の、その表面を深くなぞって撫でて、そして深くわかって。
 そのわかり理解したことがそして、その世界の表面でしか無いことを、なによりも体感して。
 そこで、おしまい。
 自分が、その理解した世界の表面の隙間から、その圧倒的に不可侵の世界の内部を覗き見るだけ
 で精一杯の、今の自分の存在を感じながら、この物語は幕を降ろすのです。
 怖い。
 とてつも無く怖いホラー映画の、序章だけを見て映画館を出て家に帰って普通の生活を始める、
 それ自体の恐怖。
 事件は解決しても、なにも終わらない。
 映画の冒頭で、なぜかエンドで流れるはずのスタッフロールが流れて、そこで目を閉じただけなのだから。
 誰がなんの役をやるのか、どういう関係になるのかがわかっただけ。
 ただ、それだけ。
 その役がどういう役なのか、その関係がどういう意味なのかは、本質的にわからない。
 物語が菜深のこれみよがしの前向きな、自己完結的な締めで終わるからこそ、そのあとがきでの
 作者の語りの平穏さまったりぐだぐださが、さらには真っ正直さが、なによりも菜深の覆い隠した恐怖の
 暗黒があることを示していました。
 ちょ、散々のらくら語ったあとに、関係者各位にご挨拶とか、そんなことしないでぇー!
 怖い、怖すぎます、そんな当たり前な本の閉じさせ方、ちょ、やめて、ホラ話に付き合わせてしまって
 申し訳ありませんなんて書かないでぇー!
 こんなの、怖くて本を閉じられません。
 
 
 ◆
 
 うみものがたり ~あなたがいてくれたコト~
 やっぱり水色癒される~☆
 暖かいよりは爽やかな優しさと、哀しみとか苦しみとか戦いとか、そういうエッセンスで清められて、
 すーっとそのままバタ足無しで泳げてしまいそうな、そんな滑らかさを感じられる、気がする。
 とにかく、そのままやって欲しいな。
 無理になにかを語りだそうとかじゃ無くて、人と空と海のままに、さっぱりやれば、それだけでもう充分、
 「心」じゃないの。
 海だよ、海。 静かに深く、やってこうぜ♪
 面白くなって欲しい作品な、これは。
 
 うみねこのなく頃に
 「推理は可能か、不可能か。」
 ・・・・・なにそれ面白そう。(どきどき)
 永遠の拷問とか大量殺人とか、それでいて「推理」可能か不可能かなんて、もうなんていうか、
 やる気満々ですよね。
 一体なにをどうやってくれるのか、非常に楽しみです。
 
 青い花
 べ、べつに百合だっていう理由だけで選んだ訳じゃないんだからねっ!
 
 大正野球娘。
 チャットで話題になったので、ちょと拝見。
 「咲」と「けいおん」を合わせたような感じになってくれるといいなぁ。
 
 化物語
 うわ、なにこの萌えキャラ絵。
 もうちょっとシビアな感じの絵になるかと思ってたからびっくりだー。
 でもびっくりついでにがっくりいきそうだったところを、やっぱりタイトルが助けてくれたー。
 化物語。
 ふむふむ、概要によると、怪異とは世界そのもの、ですか、ふむふむ。
 「化け物」という世界「語り」を組み込んで物語にする訳ですね、京極夏彦的じゃな。
 で、それを、この絵でやるんかい。
 うわ、逆に面白そう。
 「萌え」という「語り」の装置へのアプローチの仕方の、その影に隠れるモノがどんなものか、
 是非観てみたいです。
 んや、というか、だからこその、萌えキャラ絵で綴られた、その人間の主体をやって欲しいというかなんと
 いうか。
 期待してます。
 
 CANAAN
 「月姫」っぽい絵だな思ってたら原案の人が同じだったというお話。 あれ?原案と絵は関係ないか。
 まぁうん、適当にカッコ良くミステリアスにやってくれれば、カッコ良いミステリアス分が補給出来れば
 それでいいので、まぁせいぜい頑張ってください。
 とか言ってる私の鼻を豪快にあかしてくださることを、この作品には望みます。
 事前情報遮断して、待ってます。 なにかやらかしてくださいな。
 
 プリンセスラバー
 1シーズンにつき1つは選ぶ、急に可愛い子がきたので、分。
 可愛いだけじゃないところを見せてやれ、的な、そういうお高く止まって私を失望させないでくださいね、
 的な、そういう私のあくなき無礼さをどうか叩きのめしてやってくだされ。 Mだな、Mなんだなお前。
 ・・・・まぁ、うん、頑張って。 (お互いに)
 
 かなめも:
 だ、だから、べつに一升瓶だから選んだって訳じゃないって言ってるでしょっ!
 
 GA 芸術科アートデザインクラス
 お勧め頂いたので。
 面白くなれ、面白くなれ~。
 来期のギャグコメ分を賄っておくれ~。
 
 よくわかる現代魔法:
 べ、べつに魔h(以下略)。
 
 狼と香辛料Ⅱ
 狼>>>>絶対的>>>>来期アニメの総重量。
 
 
 
 ◆
 
 ともだちともだち~きょうぞんぞん~♪。
 タユタマ第10話まで観ました。
 化け物として排除出来ないと悟ったので、今度は友達としてましろを受け入れることにした、か。
 とにもかくにも、アメリにとって重要なのは「日常」であって、裕理との今まで通りの日常を取り戻すため
 に、ましろを化け物として排除しようとすると色々と駄目なこと無理なことがわかって、じゃあこうしよう、
 ましろを友達として見ればこの日常は続くんでしょ、じゃあそうしましょうと、無表情のまま笑顔でましろ
 と友達ごっこを始めるアメリ。
 あーそれ一番上手くいかないパターンだわ、っていうかすぐにボロが出るっていうか、それはアメリ自身の
 ましろへの憎悪を高める効果があることを確認するだけっていうか、そういう意味では、アメリがましろを
 友達としてなんの脈絡も無く受け入れる行為は、ましろの存在を排除するしないに関わらず、「無視」
 して「日常」を生きようとする、そのアメリの戦いの覚悟を決めさせるためには有効ではありますね。
 
 押して駄目なら引いてみろ。
 アメリさんにとっては、ましろさんは押し潰したり引きずり倒したりする対象でしかない。
 
 でも当のアメリにとっては、そうしているという意識は無い。
 無いからこそ、よりアメリの覚悟にとっては有効になる。
 アメリがましろを受け入れようとしたのは、ただ裕理との日常を取り戻し、その中で裕理に嫌われない
 やり方で、ましろと対等の位置で裕理にアプローチを仕掛けるため、ただそれだけのため。
 それはましろの存在を認めている訳では無く、ただ利用しているだけ。
 そしてそのましろを利用しているだけというのを、アメリ自身は感じずにはいられないからこそ、引け目
 というか、それを嫌う裕理に対してこそ自信が持てず、そうしてもたもたしてる間にましろに裕理が持って
 かれたら、そりゃーどうしようもなくなっちゃうよね。
 改めて、「共存」という言葉に意味が出てくる。
 問題を整理すると。
 アメリはただ裕理との今までの日常を取り戻すためにこそ、ましろの存在を認めた。
 だから、ましろの存在を認めたからこそ、そのましろを含む新しい裕理との日常を得た訳では無い。
 日常ありきのましろの存在。
 だからそのアメリの望む日常を脅かす行為をましろがするために、アメリのその日常は軋む。
 その軋みを元手と口実にして、アメリは改めてましろ憎悪に身を委ねることが出来てしまう。
 つまり。
 ましろが存在する限り、アメリは日常を手に出来ない。
 そしてアメリがその日常を求める限り、ましろは存在を許されない。
 
 では、ましろの存在が許される、その新しい日常をアメリはどうすれば手に入れる事が出来るのか?
 
 ふむ、だいぶ構図がはっきりしてきたね。
 アメリは日常を守りたい。
 これを侵すましろは、アメリにとっては自分勝手な存在。
 日常の敵、平和の敵、社会の敵。 化け物。
 ましろは人間「社会」に入りたい。
 その「社会」を独占するアメリは、ましろにとっては自分勝手な存在。
 だけど、ましろにとっては、人間「社会」は「人間」社会でもあって、社会は人間のものであるという
 引け目があるからこそ、アメリの事を気にしない訳にはいかない。
 日常の敵、平和の敵、社会の敵。 それは私。
 恋せよ乙女、愛せよ少女。
 なにに恋するん? なにを愛するん?
 恋している自分に? 愛する人だけとの世界を?
 それが大事だと言えるのは、恋そのものを愛そのものを大事だと思えるときだけじゃないかな。
 ましろだって恋してるのに愛してるのに、アメリにそれがわからないはずも無い。
 恋と愛の大切さがわかるからこそ、アメリはましろをなによりも理解出るでしょうに。
 自分が、そうなんだから。
 ましろが恋敵であることと、ましろがひとりの女の子として存在していることは別のこと。
 この作品のテーマを、恋愛論と絡めてやったのは非常に有意義なことだと思うし、より問題点を明確
 に引き出す効果があったと思う。
 でもそれは、恋愛と理想のどっちが大事か、を考えさせ選ばせるためじゃ無い。
 
 この作品は、恋愛と理想のどっちが大事かという選択に囚われてしまう、その私達自身が、
 どうやったら恋愛と理想を融合させ前に進むことが出来るか、を考えさせる作品なんだと思います。
 
 そういう意味では、裕理しゃんも裕理しゃんなんですよね。
 朴念仁のド阿呆ではあるけれど、それ以上に裕理も色々と逃げている。
 そもそも、裕理にはましろの共存思想をちゃんと理解している節も、積極的主体性も無いような
 気がするし。
 あれ、言い訳に使ってますよね? アメリとの距離感を図るために「共存」って言葉を。
 大義名分振り翳して逃げ回ってる、ちっこい男の子がそこにいる。
 その裕理とアメリというふたりの人間が、「共存」という飾り物を振り翳して、陰湿泥沼バトルを繰り広げ
 ている。
 そういう人間ドラマとしての面白さを出したのは秀逸。
 でも。
 この作品の主人公ってこれ、裕理じゃ無くて、ましろなのよね。
 ましろは、そのふたりの人間の様を敏感に、そして痛切に痛烈に感じてる。
 痛いよ。
 悲しいよ。
 とっても、悲しいよ。
 自分が裕理とアメリの日常をかき乱してしまったから?
 それもある。
 でもそれ以上に、そう思うことしか出来ない自分がこそ、一番一番悲しい。
 アメリのために裕理のために、そのために潔く身を退こうと切に考えてしまう、その「正しさ」に身を委ねて
 自らのやらねばならない、いえ、キクラミという神様が果たさなければならない、ましというひとりの女の子
 を人間「社会」にちゃんと存在させるという義務から逃げている。
 そしてその義務を実行するのは、そのひとりの女の子たるましろ自身。
 神様たるキクラミ様こそ、一番正しいことを知っている。
 なのに、ひとりの女の子として存在するましろは、目の前の既存のものに囚われて、逃げようとする。
 その悲しみは、キクラミ様の悲しみ。
 でも。
 
 涙を流しているのは、それでも人間と共に生きたいと思っている、たったひとりのましろなんです。
 
 このアニメ作品が、今こうして放送されていることの意義を、はっきりと感じます。
 社会のせいにするな、誰かのせいにするな。
 それは、社会のために誰かのためにという口実を使って、自分がそれでも社会の中で誰かと共に生きて
 良いということの自認と、生きなければいけないという責務から逃げるな、ということなのでしょう。
 正直、アメリの悲しみは楽ちんです。
 裕理なんて、アメリからすればちょろいものです、ほんとは。
 だって裕理はましろに逃げてるだけなんですから。
 そして、ましろの、自ら身を退かねばいけないというそれ自体の悲しみも、同等の楽ちんさです。
 身を退くなんて自分だけ苦しみを背負って消えるだけなんて、ちょろいものです、ほんとは。
 だってそういう風に「潔く」言えるましろの「美しさ」は、受け入れて貰えるのですから。
 だから。
 その「美しさ」だけしか受け入れて貰えないましろの悲しみこそ、大きいのです。
 そして。
 その「美しく受け入れられる」自分にしがみつく、その自分がこそなにより悔しい。
 
 それは、アメリも同じでしょうに。
 なにをたかが裕理一匹にそこまで振り回されとんねん。
 悔しいじゃん、それ。
 
 それはべつにアメリに裕理を捨てろということじゃー無い。
 それは、アメリにアメリ自身を捨てるなと言ってるだけよ。
 裕理か、自分か。
 だからその選択に振り回されてるっつーの。
 裕理も、自分も。
 そう言える、そう考えて頑張っていける自分自身の獲得こその意味があるし、そうした自分を見つける
 ことが出来るからこそ、アメリはそれと全く同じましろがいるということも見つめることが出来るはず。
 なんかましろ退場フラグがびんびんに立ってて怖いんですけれどね、逆にアメリの完全黒化フラグには
 あまり実感を得ないのよね。
 だってアメリはなにが正しいかわかってるもん、あれ。
 正しさを押し切って、裕理への想いが大切だと無言で叫んで、そうして応龍に心を委ねてしまったけれど
 、うん、だからかな、だからこそ、感じたよ。
 おもいっきり、やればいいよ。
 アメリは、ましろへの憎悪にでは無く、裕理への想いに無意識にけじめを付けようとしているように見える。
 なにが本質なのかは、わかってるような感じがする。
 本当に、綺麗になりたくなったんじゃないかな。
 吐き出したいもの全部吐き出して、その吐き出した想いこそが本質なんだとまで叫んで。
 さぁキクラミに教えてやろうぜ。現実ってもんを! by応龍
 それですっぱり、その叫びの大嘘を終わりにしようって。
 愛せよ乙女、恋せよ少女。
 この作品は、うん。
 アメリとましろという、ふたりの女の子が、「自分」を見つけ出すための作品でもある訳だね。
 そういう意味では、アメリはいい感じに自分を掘り下げてほじくり回していていい感じになってきている
 けれど、逆にましろの方が心配だ、あー心配だ。
 ましろの方が、一枚多いもんね、被ってるものが。
 アメリとましろとでは、存在する疲労度とその速度が全然違うし。
 ましろがやばい。
 裕理が退魔(?)の力みたいなのに目覚め始めて、そしたらよく考えたらましろも化け物なのでまとめて
 排除されちゃうんじゃないのみたいな、うわそこまで抽象化するか、みたいになってきてるけど。
 ましろ的にはわかってた、わかってたことなんだけど、でも人間はきっと人間であることを越えられないと
 いうのを感じて、その諦めの悲しさを正当化させるかのように、裕理に触ることすらも出来なくなって
 いったら・・・・
 そいや妻とか言いながら未だに閨も共にしとらんのじゃろ、と鵺たんに強烈なツッコミを入れられてたし、
 あーこれはむしろましろたん黒化とかいう思いもよらない展開になるのも面白いかもなー。
 
 でもそれで、実はほんとは。
 ましろはアメリと対等になれるかも。
 ましろの加速度的な存在するための疲労速度も無くなるかも。
 愛とか恋って。
 生きる力になるってことよ。
 
 ましろは白くなり過ぎた果てにアメリ的に黒化して、お上品な潔さをかなぐり捨てて。
 アメリは黒くなり過ぎた果てにましろ的に白化して、お上品な潔さをやっと獲得して。
 互いが、互いにあったり無いものを捨てたり得たり。
 その繰り返し、そしてその循環こそが。
 互いが互いの存在を認めていく、誰もが共に生きられ生存可能な社会を産み出すのじゃないかな。
 
 アメリとましろ。
 
 このふたりが友達になるにはどうしたらいいんじゃろ。
 
 それ以上のテーマは、この作品には無い気がする。
 
 
 
 『この胸は 時々石になる 固く閉じる でもそれは 君といれば開く 花に換わる』 byED
 
 涙をこぼさずにはいられない、毎回毎回ね。
 この歌が流れると、心が閉じて開くを繰り返してやまない。
 これは、裕理と出会ったましろの想い。
 嬉しいよ、嬉しいよ。
 『幸せと不幸せの数が同じならば、今すごく幸せだから覚悟しなきゃ』と歌う。
 そしてそれは。
 
 『君に会えた この運命は なにを失ってもいいくらい。』 byED
 
 と換わる。
 なんなのよこれ、なんで、どうしてこんな・・・・
 涙が止まるほどに閉じていく。
 溜まっていく、溜まっていく、私の胸の中に、溢れ出さんばかりに暖かい、縋り付くような涙が。
 不幸せが幸せに、幸せが幸せに換わるために不幸せに、換わっていく。
 
 悲しみと喜びがあるから。
 そして。
 
 私と、あなたが、いるから。
 
 
 『誰かのために生きる そんな幸せをみつけた
  独りじゃないっていう 言葉じゃない愛という 約束』 byED
 
 
 
 裕理がいるから、アメリがいるから。
 ましろはその人達と、悲しみと喜びの循環と。
 そして、その人達のために頑張ったりその人達にもましろのために頑張って貰えるからこそ。
 自分とその人達の存在させることが出来ていく。
 それは、アメリも全く同じ事ゆえに。
 
 そのましろとアメリの、共存が可能になっていく、のでは無く。
 そのましろとアメリが共存可能ゆえに、ましろとアメリが、それぞれそこにいることに愛が生まれてくる。
 
 
 
 とまぁ、そんな感じです。
 なに言ってるかわかりませんけれど、わかってやってください。 (無茶な)
 ちなみにタユタマはまだ最終回じゃないですからね、これ。
 まだあと2、3話あると思います。
 ・・・・さすがにこれで2クールとかだったら、すごいですけどね。
 
 
 では、今日はこの辺りで。
 くはー、また調子乗って書きすぎたわい。 ←肩を叩きながら
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 090612--                    

 

         

                                  ■■ アニメ魂 2 ■■

     
 
 
 
 
 はい、ごきげんよう紅い瞳です。
 
 今日は前回の続きでアニメの感想をやらせて頂きます。
 それだけしかやらないので、寄り道は致しません。
 あ、でも今日いいことあった。
 しばらくやっていたことの結果が出て、それが良いことになりそうな気配。
 今日は良い日。
 お祝いじゃ!
 ということなので、さらりと純米大吟醸「花春 夢の香」っていうのを買ってきちゃった。
 だって美味しそうだったんだもん、ブルーのボトルで、私の好きな福島会津のお酒なんだもん、
 美味しそうなんだもん。
 お酒をひとつ、買いました。
 今日はそれをさらに美味しく飲むために、アニメの感想を書きます。
 この感想を書き終わったら、お酒飲むんだぁ・・・
 飲んだお酒の感想は、まだ書いてなかった他のお酒の感想と共に次回書きます。
 
 で、アニメ感想書くんでしたっけ?
 
 
 
 
 ◆
 
 東のエデン:
 面白く無い、訳では無いのだけれど。
 物語としては、スリリングで面白いのだけれど。
 キャラ達の、特にヒロイン(?)の咲の表情とかは細かく良くやっているのだけれど。
 なんというかな、作品的に全体的に。
 わざとらしい。
 なんだろう、この深い違和感は。
 やりたいことは大いにわかるのだけど、でも、それをやるためにこういう物語を使っていいのかというか、
 こういうことをしていいのか、というか、なんだろう、ひどく自己完結的ななにかを感じる。
 こういうのはさ、この作品を観ている人達こそが、考えてやるべきことなのじゃないの?
 視聴者が考えてやるべきことを、作品のキャラ自体がやって作品もそれを大きく援護、その結果、
 すべてがアニメの中に押し込まれて、それでなんだか良い気持ちがした上で、もやもやなままでいられる
 自分を肯定していける、みたいな。
 なんか、違う。
 こういう作品があること自体は歓迎だけれど、この作品自体を応援する気にはなれない。
 社会とか政治とか個人とか、そういう言葉から喚起出来る諸問題をどう繋げて考えるか、その主体を
 自分では無く、作品の中のキャラに都合良くさせて、その結果から色々なものを繋げて考えていたら、
 なんというか、あまり良いことだとは思えない。
 面白いけれど、つまらない。
 どうせやるなら、もっと抽象化した方が・・・・とか考えてる時点で、私はこの作品を正当に評価して
 いないということだけはわかりました。
 頑張ろう。

 
 黒神:
 これは興奮する。
 馬鹿みたいにそのまんまで、てらいもけれんも無い、ただただ戦って勝って、さらりと人情な話を組み込
 んで。
 なのに、時代劇的な紋切りなぐだぐだ感は無く、爽快な流れがあっさりとすべてを運んでいく。
 その流れの中に、観る者をそして立たせてくれる。
 流れの中で立ち止まり、流れる水をこの体が切っていくだけのことが、なにより気持ちいい。
 主人公の慶太も相棒のクロも、クロの兄の黎真も、すべてを捨てて来ているのに、それはあくまで結果
 的にであって、彼らの中にはどこにもすべてを捨ててきたという覚悟は無く、また彼らの外にもその切実
 な哀しみがまるで存在しない。
 すごい。
 徹底的に、戦っている。
 戦って、ただあるがままに、前に進んでいる。
 不思議。
 こんなに捨てているのに、こんなに戦っているだけしかなくなっているのに。
 それなのに、彼らに不幸の気配も無ければ、不幸を感じられないほどに浅い内面しか持ち得ないという
 訳でも無い。
 そして驚いたことに、彼らの誰も、戦いに執着していない。
 ただただ、あるがまま。
 それなのに、どうしてこんなに人間らしい微笑みを持てるのだろう。
 どうしてそんなに真っ直ぐな涙が流せるのだろう。
 優しさも、怒りも、ここには全部ある。
 私のリアルの友人で、非オタでアニメなど全然観ない人が、たまたま夜中につけた画面に映ったこの
 作品に魅せられ、そして絶賛していた気持ちが、少しだけわかった気がした。
 あいや、友人とは見方が全然違うかもしれませんけれどね、それは秘密です。

 
 バサラ:
 失敗。
 完全に、進み方を間違えた。
 小さく目の前にあるもの出来るものだけを積み上げて、全体からの視点と自分がやっていること
 やろうとしていることへの眼差しを完全に欠いた結果が、これ。
 おかしいな、出だしは最高の出来だったのに。
 むしろ出だしでサービスしたから、あとは地道に目先の事だけやってけばいいでしょうという、確信犯的
 なものを感じる。
 小さい。
 燃えも萌えも、どっちも見事に小さい。
 こういう系の作品には、そのはっちゃけぶりをひたすら楽しむのと、ひとりの人間としての熱さに惚れるのと
 いうふたつの楽しみ方があると思うけれど、これは見事にどっちも中途半端。
 どっちにも、振り切れてない。
 出だしは、どっちにも振り切れていたからこそ、最高だったのに。
 こういう作品は止まっちゃったら終わりでしょ、この作品は最初の出だしから先に全く進んでいないし。
 武将同士の関係とかも、微妙。
 裏に秘められた、滲み出る心情があるのはわかるけれど、わかる以上のものが無く、ただそれが「わかる」
 という程度の萌え(もしくは燃え)しか発生しない。 これは貧相だよあまりにも。
 もっとこうさぁ、どうしようもない、果てしなく死にたくなるようなさ、そういうのが欲しい。
 ・・・・。
 まぁ、光秀さんが死に物狂いではっちゃけてるのが、唯一の救いですけれど。

 
 ハルヒ:
 ハルヒ可愛いよハルヒ。
 それくらいか、マジで。
 ただ淡々とやって消化しているだけのような感じがして、なんだかこう、驚きが無い。
 話の順番って、やはりかなり重要。
 この作品がよもやここまで平坦に感じられるとは、これはむしろ逆に第一期(?)のときの構成力が
 格段に優れていたと言えようか。
 話の並びそれ自体がギャグになっていたからこその、ハルヒのはっちゃけぶりとキョンのツッコミが
 活きているというのがよくわかった。
 ギャグコメディとしては、現在の並び方ではなんら面白味を感じない。
 というか、ハルヒという作品は原作に於いてはギャグコメディはなかったということか。いや読んでなかったし。
 そういう意味では・・・・・この第二期(?)が、第一期の徹底否定だというのがみえてくる。
 原作のハルヒはハルヒ、アニメのハルヒもハルヒ、としてちゃんとそれぞれが成立していたのに、原作の
 のままの並び順でアニメ化することで、アニメのハルヒとしてあったハルヒを抹殺している。 
 これは、アニメとしての「涼宮ハルヒの憂鬱」のファンには由々しきこと。
 なのに、「ただ順番を変えただけ」ということで、あまりアニメファンが騒ぐことは無い。
 ハガレンのように完全再アニメ化なら、その「再アニメ化されたアニメ版のハルヒ」という第三のハルヒ
 としてならまだ受け入れられるけれど、この第二期ハルヒは第一期を完全否定して第一期になろうとし
 ている。
 それは、問題。 大問題。
 いい加減、原作版とアニメ版のそれぞれの「オリジナル」の価値をちゃんと認めないと、いずれ原作ファン
 しかそのアニメを観なくなってしまうかもしれない。
 原作ファンには原作があるけれど、アニメファンにはアニメ版しかないことをお忘れ無きよう。
 原作ファンに配慮してという考え方は、根本的に間違っている気がする。
 原作ファンならおもわずにやりと出来る、というものを入れることは別に構わないとは思いますけれどね。
 ・・・・。
 まぁ、ぶっちゃけそうも言えるというだけで、観る側がそう考えて観なければ、全然問題無いのですけれど
 ね。 (ぇ)

 
 ポリフォニカ:
 なんでかわからないけれど、面白い。
 キャラ萌え・・・・じゃあ無いんだけど、なんだかこう、萌えとは違う、なんかこう、もやもやっとした爽やかさ
 がある。
 んー、EDとかそれが顕著かな。
 言葉とか感情とかどうでもいいし、なにも考える必要も無ければ、頭の中を空にして耳を澄ます必要
 も無い。
 ただ観ていると、さらさらと気持ちいい。
 だけど、ただ画面をぼーっとして観ているだけだと、なにも感じない。
 ちゃんと観て、なにかを観ようとして、なんでもいいから適当に手に取って、それなりにそれなりのことを
 考えたり考えなかったり、それで、充分。
 ひどく、生活感がする。
 すべてがほどほどに適度で、ありのままだったりありのままじゃなかったり、だけどひとつ、その中に自分
 の手を入れないと回らないというか。
 それが、なんか、EDのコーティに全部顕れてきている気がする。
 コーティが可愛いとか、単純とか、そんなんじゃ無く。
 なんだか、ほっとする。
 色んなこと考えたり考えなかったり、色々なことしたりしなかったりする、その当たり前さに。
 ほっとする。
 優しいけれどヘタレなフォロンの前で憤慨して、前のめりになりかけるコーティが、その憤慨と前のめりに
 すべてを注ぐ前に、そっと、けれどなによりも広く深く納まっていく、その目の前のフォロンとの日常を
 当たり前に活きていく、それを見つめる私が、静かに鎮まっていく気がします。

 
 ハガレン:
 もうちょっとしっかり作っても罰は当たらない気がする。
 かなり飛ばしているけれど、一話一話自体の作りを疎かにしてしまうと、第一期(?)の劣化焼き直し
 にしかならない。
 とにもかくにも、感情移入が非常にしにくい。
 言いたいことだけをささっといっちゃって、それを追う形でお話に肉付けしているから、なんともいえない
 作品との遠距離感を感じてしまう。
 なんというか、エドやアルと一緒に考えたり感じていく感じじゃ無くて、作品もしくは作者にエドやアルを
 使って説教されているような、そういう不快さを感じる。
 いやあの、エドやアルを神格化しちゃ駄目でしょ。
 彼らの言ってることやってる事自体は非常に愚かなことだし、その愚かさを視聴者たる私達が見つめて
 考えて、エドとアルと共に思考しつつも、融合せずにきっちりと向き合っていける凄みがあったからこそなの
 に、その愚かなものをそのままそれが正しいことなんだって言われちゃったら、お話にならない。
 ハガレンはハガレンのままでは駄目なもの、それゆえのハガレンであるのに。
 まぁ・・・だからこそ、この第二期はより原作的ではあるのですけれどね。
 私は第一期アニメ版と原作は両方とも観たし読んでるけれど、アニメは原作のおかしさをよく反芻して
 描き出していたと思うし、そういう意味では原作はあまり評価していない。
 なにがどうおかしいのかは、ここでは割愛。 めんどくさい。
 で、おまけにこの第二期は、原作のストーリーとしては堅実によくまとまっている、その良さが綺麗に
 漏れているからこそ、よりそのおかしさだけがクローズアップされて出てきてしまう。
 どうせなら全く逆に、ストーリーだけきっちりして、お話として面白くすれば良いのに、と思う。
 でもま、ダイジェスト風に原作を楽しむという意味でなら、お手軽で良いのですけれどね。

 
 夏のあらし:
 うへぇ。
 飽きた。
 と、一言呟いて、次を待っている状態。
 ここからなにをやっていくのか、というのを期待して良いのかどうかもわからないくらいに、ひたすら待機。
 というよりむしろ、ここからなにかをやって欲しい。
 今語れるのはそれだけだ。
 とか言っていたら、なんど1クールで終了だそうで。
 ・・・・ど、どうしようあらしさん。(汗)

 
 咲:
 シンプルで実にいい。興奮した!
 勝負を中心にして、勝負を中心にすることで、それでおしまい。
 ちょこまかと余計なことやっていても、必ずそこに落とし込まれていく。
 麻雀やって、麻雀に勝って、負けて。
 駆け引きもすべて含めて、その勝負に向けてどう動いていくか、そのちょこまかの先に真剣勝負が
 描かれ出していき、気持ちいい。
 うん、まぁ、それくらいかな。
 それだけで、充分。
 そして、その勝負の中身が、麻雀知識ゼロの私でも充分わかる、それ以上に興奮出来てしまうほど
 に大変素晴らしく描かれていて、これは好きな作品のうちのひとつに数えられます。
 
 
 
 
 
 後ろむき: 4つ
 興奮: 2つ
 ほんとはたぶん萌え: 1つ
 やる気無し: 1つ
 
 
 
 そんなに早くお酒飲みたいんか、あんた。 
 
 はい。
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 090609--                    

 

         

                                    ■■ アニメ魂 ■■

     
 
 
 
 
 すっかり梅雨模様となって参りました今日この頃、皆様如何お過ごしでしょうか。
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 
 一週間もものを書かないでいると、ほんとにものを書くという行為を忘れ、じゃなかった、新鮮に感じ
 られます。
 あれ?どうやって書くんだっけ?、とついつい自分の手法を思い返してなぞってしまおうとするのですが、
 でも感じた新鮮のままにそのまま書き出す方が、新しくて良いような気もするので、なるがままに
 そのまま書き出すことが出来ます。
 たんに自分の手法を思い返してやるのが面倒なのかもしれません。
 そして気づいたらいつも通りのものを書いているのかもしれません。
 この人はあまり変わりません。
 
 さて。
 今日はなにを書くのかは決まっているのですけれど、迷っています。
 迷っているけれど、決まっています。
 書くのはアニメについて。
 でもそれをどう書こうか、アニメの何について書こうかと迷っています。
 迷っていますけれど、アニメで書くことは決まっています。
 そうですね、最初は私がアニメの感想を書くということはどういうことか、というそんなの知るかという
 一言で片づけられるもので書こうとしたのですけれど、一言で片づけられるものに尾鰭と背鰭をつけて
 大増量して書いて差し上げようとしていたのですけれど、でもそれはたんに今私が観ているアニメに
 対して上手く感想が書けないことで、自信を失いかけていることへの修正、としてあるようなものに感じ
 られましたので、やめです、やめやめ。
 そしてやめた勢いで反対方向に振り切れて、そのまま今期アニメの感想を意地でも書いてしまいたい
 衝動にそっと身を浸している今現在の私です、ごきげんよう。
 
 (しばらくお待ちください)
 
 雨、降っています。
 しとしと。
 さめざめ。
 静かですねぇ、PCの動作音とキーボードを叩く音しか聞こえません。
 アニメのことで頭が一杯だー、と椅子の背もたれに体重を預けて、ごろんとしている私がいます。
 私がアニメの感想を書くということはどういうことか、という問いに対して、いくらでも答えられそう。
 そう思えて、うっすらと頭の中に言葉を浮かべて重ねて、そうして指先で綴る言葉を目の前に顕現
 させる手前で、そっと。
 優しい想いで、消す。
 それは優しいままに、残酷で。
 けれどその残酷さの犠牲の上で、すべての優しさは成り立っているのだよワト○ン君、としたり顔で
 悠々と頷ける私の頷き加減にこそ、私は今日一日の生活のぬくもりを感じます。
 言葉の重みよりも、言葉に艶のあるぬくもりを。
 そんなことを平気で素知らぬ顔で書いている今夜の私に乾杯です。
 というか、雨うるさいよ。 (いつのまにかざぁざぁ降り)
 
 (しばらくお待ちください)
 
 それでですね。
 そう、アニメのお話なのです。
 どれだけ本題に辿り着くまでに時間かかっているのですか。
 ということで、そろそろ脇目も振らずにアニメします。
 アニメです。
 脇目も振らずにアニメの感想書きます。
 やっぱりもうアニメの感想書かないと私は駄目です。
 たぶん死ぬ。
 
 
 
 
 ◆
 
 シャングリラ:
 ぞくぞくする。
 次から次へと展開していく新しい事態の連続が、丁寧では無いけれど決していい加減では無くて、
 次になにが来るんだろうという期待感と、その期待感に膨らむ胸を押さえて待てる、そんな余裕感も
 漂っている。
 個別の要素の目新しさでは無く、この展開の連続性こそが一番面白い。
 感覚としては、紙芝居に近い。
 これは各キャラの掘り下げをやっていたりすると、そのキャラの重力に囚われて出来なかったことなのかも
 しれない。
 登場人物達の内面の浅い軽さでは無く、内面を語らない軽快さが、シビアにこの作品のリズム感と
 どこかあっさりと突き抜けたアホ臭さで、全体にしっかりとした薄い枷を填めている。
 そして。
 だからその枷に填められている、その語られない内面そのものが、語られない硬質な固い塊のまま、
 剥き出しで時折浮上してくる。
 それがこの作品のリズムを乱すこと無く、或いは乱すという要素として、よくわからない作品の各要素
 とも合わせて割と整然と組み込まれているところに、このシャングリラという作品を評価する基準がある
 のかもしれません。

 
 蒼天航路:
 面白い。
 サクサク進んでいるので、原作の呆れを通り越して感動してしまうくらいの破格さは感じられないけれど
 、その分原作よりも、歴史の激動の流れそのものに身を浸した気分になれる。
 曹操がかなり俯瞰的な立場に立っているからこそ、その曹操の指し示す指先にあるものを見つめていく
 視点で、より俯瞰的に、そしてまさに曹操の視点でそのときそのときの歴史の出来事を見つめていく
 事が出来る。
 そういう意味では、原作の曹操はより人間的であり、かつ同時に俯瞰的神の視点の中にもある、その
 人間として破格の存在であるその凄みと深遠さを見る、思想的な見方の要素が強かったものを、
 アニメでは完全に割り切って、あくまで曹操の視点を使っての歴史解説作品に仕立ててきた感じ。
 これは非常に取っつきやすい三国志アニメ。
 一応演義では無く史実準拠なので(無論アニメ的表現はありますけど)、三国志の時代の政治の
 流れを知りたい人には、お勧め。
 そして逆に、各人物の思想性がほとんど剥奪されかけているので、その意味では原作ファンには、
 原作と同じような愉しみ方を求めている人には、お勧めできないかもしれません。
 
 
 タユタマ:
 アニメには、まだ誰も知らない面白さがあるということを、最も身近な場所から教えてくれるような、
 当たり前すぎて、だからこそわからなかったその本質的な凄さに気付かせてくれる作品ナンバーワン。
 難しいことはなにひとつやっていない。せいぜいアメリの心情を静かにかつさりげなく表現しているだけ。 
 だけど、シンプルだからこそオーソドックスだからこそ良いという訳でも無く、そこは着目点では無い。
 この作品こそ、視聴者の観る力が問われている。
 そのときのそのキャラの言動は、一体どういうことになるのか、なりえるのかと、それを作品の言葉を
 使わずに考えていくことで、ひとつの主体的な思想をこのアニメを観ることで自分の中にこそ築いて
 いくことが出来る。
 たとえば、ましろのいう人間との共存思想を深めるにはどう考えれば良いのか、ましろ自身がどう考えて
 いけばよいのか、美冬が自分の問題点として考える喚起すべきものはなにか、アメリはどう自分の弱さ
 を認識し受け入れていくかどう自分にプラスにしていくのか、あるいはそもそもましろや美冬やアメリの
 言動をそのまま突き詰めていったらどうなるのか、ましろとはなにか美冬とはなにかアメリとはなにか、
 それらを主人公たる祐理の存在感の無さを使って、ひとりひとりのキャラについて考えていける。
 勿論、各キャラにとっての祐理の存在というものを大きく捉えながらそれを行っていくことで、このタユタマ
 という作品の枠組みにも意味が出てくる。
 おまけに、アメリやましろの表情の機微がさりげに充実した思考素材を提供してくれている。
 読み解くのでは無く、読んで考えることに大きく意義のあるこの作品を、さらにはちょこまかと良く動く
 可愛く楽しいキャラ達が支えてくれる。
 読み解いたものに浸りつつ、でもその境地は一体どういうことになるのだろう、どういうことになれるのだ
 ろうと、キャラ達のしっとりとしてどこか落ち着いた心情のままに、改めていちから考えていくために、
 今期この作品は最もお勧めの作品です。

 
 リストランテ:
 紳士。だけど、人間的。
 人間的だけど、紳士。
 そう表記してしまうと、なんだか全然違う気がする。
 カッコ良さを追求している訳でも、カッコ良さを演じる人間臭さを描き出している訳でも無いから、
 紳士的でも人間的でも無く、紳士で人間、人間で紳士、であることを描こうとしている訳でも無い。
 なんというか。
 ひとりひとりの男が、自分語りをしているような気がする。
 美麗という訳でも無く、素直にという訳でも無く、ただありとあらゆる自分のままに、大いに、そして静か
 にゆっくりと語っている。
 時間はたくさんあります、まぁそう焦らずに、と言わんばかりに。
 アニメの放送中に全部を語り切る素振りさえ見せず、片手間に色々なことをやりながら、遠回しにも
 直裁にも、嘘も本当も、ただそれを情報の伝達という事では無く、生活のひとつとしてやっている。
 無論、背中で語っている、という訳でも無い。 それは彼らを観る側の思考的楽しみ方。
 彼らは、自分で語っている。
 実に良く喋る。
 そして、その喋りの中にこそ、ひとつひとつの彼らの仕草の、優雅でかつしんみりとしたいい表情が見えて
 くる。
 語る言葉の中身にでは無く、その語る唇に、動かす指先に、そしてその向ける眼差しの陰影にこそ、
 彼らの紳士でも人間でも無い、そのまま丸ごと全部の魅力が詰まっている。
 その彼らが、ちょっとしたいい話、をやる。
 それが萌え。
 そして主人公のニコレッタが、書店のポップのようにさりげなくその魅力の感想を書き添えていく。
 よくもまぁこんなにも魅力的な男共を創り出したものです、この作品はほんとうにもう。

 
 銀魂:
 おかしい。
 銀魂がおかしい。
 今ならこれで終了してしまっても、悲しくない。
 割とすんなり、まぁいいかって思えてしまう。
 もしかして、わざとやっている?
 いつ終わってもいいように、今まで終わったら心に大きな穴が空きそうな想いで観ていたファンへの
 心配り?
 つまり、つまらない。
 はっきりいって、最近のは面白くない。
 ギャグが単発すぎるし、オチが甘い。
 これじゃあ銀魂ブランドは与えられない。
 ネタ切れ? 銀魂にはネタ切れなど存在しない。
 ぐだぐだそのものをギャグにしているのだから、笑える意味で始末が悪い。
 だが明らかに今の銀魂は、ぐだぐだをギャグに昇華する技術が衰え、ネタをそのまま提出して、指先で
 ちょこっとイジっているだけのレベル。
 もっと根本的に、もっと全身全霊で笑いをやって欲しい。
 ギャグの単発そのものは、まだ面白いのだから、それをどう繋げて爆笑の渦にするか、それが問題。
 敢えて言おう、今の銀魂では笑えないと。
 
 
 パンドラ:
 もぞもぞする。
 現在私の観たいものがほぼすべて埋め込まれていて、けれどそれがいっこうにひとつの作品として像を
 結んで顕れてきてくれないことを、もどかしく、しかしそれ以上にそっと深く抱き締めて自分だけのものと
 してしまいたくなる。
 言葉は小難しくは無く、その理屈として導き出した答え自体は目新しいものでは無い、むしろ非常に
 良く知られた言葉がほとんど。
 でもそれを、それをオズが、そのオズがその言葉を発することに絶大な威力がある。
 そして常にオズには、アリスとレイブンがぶつりぶつりと音を立てながら、まるで心を穿つかのようにして
 繋がってついてくる。
 オズの言葉ひとつがアリスとレイブンに大きく影響を与え、そして、そのふたりの発する言葉自体とは
 完全に切れた、オズだけの世界の中で、オズはひとり叫ぶ。
 ひとりは、嫌だ、と。
 まさか、オズが素直にそう言うとは思っていなかった。
 オズはすべてを背負って大らかに笑っていく、アイドルになると思っていたから。
 でもだからこそ、燃えた。
 そのオズが、明らかに自分の中に深い孤独を控えていながら大きく笑うそのオズが、ひとりは寂しいと。
 オズはその絶叫に逃げ込んだりはしなかった。
 オズはオズの言葉で、使い古された言葉だろうがなんだろうが、自分の叫びの満ちる言葉を大上段に
 振りかぶって、そして全身全霊で、振り下ろした。
 その言葉を振り翳す意味を知らず、けれどオズは確かに、ひとりの寂しさを知っていた。
 その弱いオズがいることと、その弱いオズのままに生きることは、確かに違っていた。
 ひとりは嫌だと叫ぶ弱いオズがいるということは、なによりも。
 オズのひとりを生きる覚悟が出来る、その強いオズこそが。
 誰かと、目の前の誰かと出会える絶対的な可能性を描き出していた。
 アリスが、いる。
 同じひとりの寂しさを知り、その寂しさ苦しさと絶望に身を浸した、そのひとりのオズとアリスが背中を合わ
 せて、暖炉の前の暖かい光の中で、冷たく濡れて座っていた。
 アリスの眼差しが、ひとりのオズを捉えたことの、そのアリスにとってのぬくもりが、大きく、その沈みながら
 も微笑むオズの横顔に浮かんでいた。
 オズが感じたものを知りたいと感じたアリスのそのオズの背中に向けられた背中が、それを語っている。

 
 けいおん:
 『お姉ちゃんって、あったかくって気持ちいいよねぇ。』
 『ゴロゴロしてるお姉ちゃん、可愛いよぉ。』  by憂
 一番最初にこの作品の感想を書いたときも、唯が唯のまままったりゆったりはっちゃけていって、そのまま
 楽しくやっていけるような作品になったら素晴らしいなぁ(意訳)、という感じだったのが、ほんとにそうなって
 びっくりだ。
 変に真面目に感化されて青春青春されるよりも、むしろ唯以外がいかに唯を受け入れ、そして自らが
 唯を楽しんでいくことが出来るか、あるいは唯を楽しむことが出来るという形での成長があった方が
 面白いよなぁと思っていたら、ほんとにそうなってびっくりだ。
 画面全部で、唯のまったりワールドを支援してる。
 というかむしろ、律や紬なんかは唯に感化されて、自分の引き出しの数では無く中身を深めてる。
 実に楽しそうだ。
 澪は律に振り回されてるだけでは済まずに、唯で駄目押し、そして少し脈有りと思っていた紬にまで
 裏切られ(笑)、それであーあーと悩むも、その悩み自体は決して本質じゃ無くて、それをどう自分に
 とってプラスなものにしていけるかという、その観点から自分なりにそれを受け入れ、またそれを受け入れ
 られないちっぽけな自分自身ともまた向き合うその様自体が、今度は唯達にこそ楽しまれていく。
 萌え萌えきゅん☆
 そして第二の澪とも言える梓が、シビアに唯達にツッコミを入れるその姿を見つめることで、澪は自分が
 拘っていたものがどういうものなのかを理解していく。
 真面目にやること自体に意味は無く、良い演奏が出来ることそれ自体が大事なんだな、と。
 澪にとっての真面目さとは、ただたんに素のままの自分の自信のなさと、それで直接唯達と接すること
 の出来ないもどかしさの反動、でしかないことが、澪は梓を見つめることで、そして梓は自分と同じ
 タイプであるはずの澪が楽しんでいる様をみることで、澪と同じ感慨を抱いていく。
 唯と律と紬の、それぞれの本質なり実像なりを、振り回されながらもみつめていこうとしていく。
 そして、そのふたりの境地をはるか越えたところにいるのが、憂。 唯の妹。
 そりゃ、真面目でしっかり者の憂ちゃんにとって、まったり天然のお姉ちゃんが可愛くて仕方無いのは、
 当然ったら当然。
 自分のしてることやってること考えてること、そのためにお姉ちゃんがいる訳じゃ無い。
 だからこそ、全く逆に、自分のしてることやってること考えてることに、自分で自信が持てる。
 だって、お姉ちゃんあったかいんだもん。
 そして勿論、唯も憂ちゃんの事が大好き。
 それは憂が唯のために色々やってくれるから、じゃ無い。
 憂自身の屈託の無い笑顔こそが、憂のお姉ちゃん想いの行動のすべてに暖かさを与えていますよね。

 
 ファントム:
 なんだろう、随分といい加減になってきているような。
 特にクロウに唆されて以降のツヴァイがみっともない。
 むしろクロウを主人公にして、その狡猾さで以て求めているもの自体を描き出した方が有意義だ。
 それほどツヴァイが、アレだ。
 透け透けというか、もう全然考えていないというか、自分の欲望を突っ走って良いという口実を得た
 途端にノンストップで。
 アインもアインで、色々ツヴァイのせいにして、マッドサイエンティストとの凶悪なだけの繋がりを見つめ
 直すことを諦めることばかりに身を浸している。
 それが、現実よ。
 馬鹿馬鹿しい。
 これは明らかに作り手の作意。
 あるいは、このこれ見よがしの現実ぶりを敢えて見せつけることで、それが現実だと言い切って、それ以
 外のものが見えているという紛れも無い現実の自分から目を逸らしている、その青臭さを描き出そうとし
 ているのか。
 少なくとも、クロウはこれが現実だなんて事を言っていない。
 クロウはいくつかの物語を提示し、その中でどれを選ぶのかはあなた自身が選ぶことだと言っている。
 あまつさえ、それをあなた自身が主体的に選んで欲しいとまで言っている。
 にも関わらず、ツヴァイはその物語のひとつを選び出し、それが現実的な選択だと嘯く。
 その現実的な選択というのは、ツヴァイにとって一番困難が現時点では少ない、というただの自らの
 単一の欲望準拠のものでしかない。
 無論、クロウはツヴァイがそうすることを見越してはいた。
 ツヴァイがツヴァイ自身の一次的な欲望に身を浸すだけの限り、ツヴァイの選択はクロウが用意した、
 ツヴァイ自身が限定した現実の道しか選択できることは無い。
 クロウのような遣り手は好きだけれど、だからこそ、ツヴァイの騙されっぷりと、その騙される自分を利用
 して好き放題に暴れるだけのツヴァイのその様が、腹立たしい。
 全然主体的では無い。
 主体的であるはずだと、ただ自分の主体性を疑っている、その自分を踏み潰すことに主体性を感じて
 いるだけだ。
 それを、そのツヴァイを敢えて描くことで、そのツヴァイの様からなにかを考えさせようとしているのなら、
 この作品はやはり、傑作になるでしょう。
 
 
 
 と、いうあたりにしておきましょう、今回は。
 これで半分ですし、残りは近いうちに、まぁ今週中にはUpしようと思っています。 
 ちなみに感想の並び順は、私のとこでの放送順です。月曜からスタートということで。
 ・・・と思ってたら、東のエデン書くの忘れてたことに気付きまして。エデンは次回ね次回。
 あー、しかしもう。
 もー、コンパクトにまとめられたのは最初だけで、どんどん長くなってくよー。
 まぁ、書いてるうちに調子出てきたとも言える訳ですけれど。
 コンパクトにまとめるためには、やる気出てくる前にやめるのがコツ。 なんだってー。
 
 はい。
 では、また次回。
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 090603--                    

 

         

                                  ■■ もういっかい ■■

     
 
 
 
 
 一週間でやる気が切れました。
 
 
 あ、ごきげんよう。
 前回の更新の最後でやる気が出てきて、それが尽きました。
 一週間で一周回って、振り出しです。
 やる気無。
 だけど最低一週間に一回は更新しなくちゃというおもいが、こうして私に筆を持たせています。
 こういうときにロクなものが書けたためしは無いのですけれど、でもそういうときにこそ書くことに意味が
 あるといいますか、日記は書くこと自体に意味があるというか、今回も散々書こうか書くまいか悩んだ
 末にこうして書いてしまっている次第です。
 やる気無。
 やる気無いというより、書く気が起きない。
 なにを書いても気に入らないというか、そんなこと言ったらいつも平気で書き綴ってる日記はどうなのさ、
 ということで読み返したりしてみると、全然駄目、あれ?これ今までの全然駄目じゃない?、と後ろ向き
 というかむしろ冷静な判断が出来てしまって、日記書くのやめようかむしろサイトやめようかとか、
 そういうところまで行ってしまいます。
 
 ていうか、なんで私サイトやってるんだろ?
 
 紅い瞳が大変お見苦しいことを言い始めましたけれど、見て見ぬ振りをしてくださいますよう。
 はい、なんで私サイトやってるんでしょう?
 いえ、この問いはむしろ、どうして私は自分がなぜサイトをやっているのかと問うのか、という問いに変換
 してみることにしてみましょう。
 だって、なんでサイトやってるのかなんて、わかりませんから。
 気づいたらやってますし、やらなくちゃいけないと思っていますし、仮にこうこうこういう理由でサイトを
 やっていると言ってそれに納得出来たとしても、ではどうしてその納得でサイトをやっていけるのか、という
 問いには答えられないと思います。
 そういう意味では、サイトをやる理由というのはいくらでもあると思いますし、増えたり減ったりもしている
 ような気がします。
 サイトをやる理由が、イコール私がなぜ今この瞬間にサイトをやっているかという問いの答えにはなり
 ません。
 私がサイトをやる理由というのはたぶん、私がサイトをやめようかと考える理由と、全く同じ階層のもの。
 逆に考えると、私がサイトをやめたいという気持ちが少しあったからこそ、私は自分がサイトをやっている
 理由を考えるのでしょう。
 そうすることで、サイトをやめたいという気持ちを、サイトをやっている理由と同格のものとして捉えること
 で、正当化しようと思っているのでしょう。
 
 んでも、それは同時に、だからこそ私がサイトをやる理由の価値も確認出来ることになる。
 
 サイトをやめる理由が考えられれば、それと同じくサイトをやる理由も同じ階層で考えられ、そうすること
 で、今まで実はサイトをやる理由というものがあっても、それに実感を得ることが出来なかったのが、
 出来るようにもなる。
 なる、というかなりやすくもなる。
 
 この頃色々と落ち着かなくて、色々となにもやる気起きなくなって、で、そういうときは無理矢理にでも
 他のサイト様を見学させて頂くのが良いのですけれど、今度は逆に他のサイト様の素晴らしさに目を
 奪われて、あ、これは駄目だ、私駄目だ、もう駄目無理、これ以上下手なこと書けない書きたくない、
 恥晒したくない、となってマイナススパイラル。
 安定性が無いというか中身が無いというか、なんというか堅実性が無い。
 なにを書いているかわからない以前に、自分の文章を読むとそういう劣等感がある。
 でも、私がその劣等感を感じることと、その劣等感を克服するためになにかを書くかどうかは、全く別の
 こと。
 私だって、人並にカッコつけたいもの、ぴしっとしたいもの、しゃんとせなあかん、綺麗なきちんとしたモノ
 書きたいよ。
 だから、私のだらっとした、すっかすかの文章見てると、恥ずかしいやら悲しいやら虚しいやら、それはもう、
 顔が赤くなったり青くなったりする以前に土気色になってしまうような、そういう負い目的な劣等感が
 あります。
 ネットで、きちっとした文章を読むと、特にそうなる。
 恥ずかしい。
 みっともない。
 もっとしゃんとせなあかん。
 
 でも。
 
 その恥ずかしさを克服するために、自分がそういう「視線」に認められるために、私は文章を書いている
 訳じゃ無い。
 サイトは私にとって、社会的な自己実現の場でも無ければ、自己同一を果たすための道具でも無い。
 だってそんなのは、リアルでいくらでも出来るのですから。
 
 不安になると、落ち着きが無くなると。
 自信が無くなると、どうしてもそれを忘れて、そうした「恥」の意識に逃げ込んでしまいたくなる。
 いえたぶん、私が私から目を背けてしまいたくなるときこそ、そうした自分以外の世界や社会の「視線」
 を頼ってしまうのだと思うのです。
 その「視線」を私が私と向き合うために利用出来るのなら良いのですけれど、私から目を背けるために
 こそ「視線」に逃げ込んでいるのですから、そうはなかなかならない。
 そして、私が私自身から目を逸らすのは。
 「視線」に認められないのが、怖いから。
 独りが、怖いから。
 どうして?
 それはたぶん、私が私自身を見つめ過ぎて、私が私という「ひとり」であることが怖くなったから。
 私が私であることが怖くなったからこそ、その恐怖を消そうと足掻いて、そして「独り」は嫌だといって、
 誰かとの繋がりに逃げ込もうとする。
 
 ある意味これって、悪いことではあるけれど、チャンスでもある気がしてる。
 
 前は良くわかんなかったんですけれど。
 これってつまり、私が「ひとり」を恐れるってことは、それだけ私が私の「ひとり」ということに肉薄しているって
 事なんじゃないかな。
 一生懸命に動き回れば疲れる、疲れるってことはそれだけ動いてるってことですから。
 私は元来これでも「恥」の意識が大きくて、人様の目を気にして、如何に自分の感じる恥による緊張
 を緩和出来ないかと考えて、それでたぶん、その最もプラスなやり方として、その緊張を興奮に変える、
 つまり恥ずかしいという緊張状態は、イコールそれだけ膨大な情報に触れている、だからそれらの情報
 をものに出来れば、きっとすごい力になると考えていた。
 でも、これは根本的に間違っていたような気が、最近しています。
 恥は恥。
 緊張は緊張。
 だから、素直に恥ずかしがればいい。
 正直に緊張すればいい。
 だからこそ、恥を緊張を感じることと、それらを克服するために行動するかどうかは、全く別のことだと
 言える。
 それを、恥を緊張を興奮に換えて自分のプラスにするというのは、根本的には誤魔化しにしか過ぎず、
 結局のところ、恥を恥として、緊張を緊張として認め受け入れることが出来ていないことになってしまって
 いる。
 だから、恥と緊張の、それぞれのそれとしての価値が、わからない。
 恥は恥。
 恥ずかしい。
 だから恥ずかしくないように行動したい、行動しなくちゃいけないと思い、そう行動する。
 それは必要なことで、そして、だからこそ、その思いと行動は本質では無い。
 本質では無いからこそ、リラックスして、恥の克服運動がゆっくり大らかに出来るのでしょう。
 無理して恥を興奮に換える必要も無ければ、恥ずかしさをなにかをやめる理由にする必要も無い。
 だから、自分のやっていることを恥ずかしいことじゃ無いと開き直る事なんかしないでいいし、勿論、 
 恥ずかしさだけを見つめて思い詰めて追い詰められた末にダイブする事なんかあり得ない。
 
 
 あー、恥ずかしい。
 恥ずかしくて、恥ずかしさのあまりに死んでしまいそう。
 
 そう思いながら、あっさりとたっぷりとこうして、書いている私が、今此処にいます。
 
 
 
 Mじゃないからね、Mじゃないからねこれ。 (たぶん)
 
 
 
 
 ◆
 
 そもそもですね、私は私のことを、というか私のままに書きたいのですね。
 だいたいですね、きっちりかっちりした文章を書くこと自体には本質なぞありはしないのに、それがあると
 して書いている場合はつまり、そうした綺麗な文章を書くこと自体では無い、他のなにかを求めてそう
 いうものを書いている。
 私にとって文章は、いえ、少なくともサイトで書く私の文章は「メッセージ」では無い。
 ひとつの形式に則り、議論を深めていくためのものとして、いわゆる論文的なものとして書いている訳で
 も無い。
 むしろ、全く逆。
 あらゆるものに拘らない、拘らないからこそ、あれもこれもにも手を出して拘っていく。
 私らしく、私らしくなく、それが私が私で書くってこと。
 だから、ねぇ。
 どっちかっていうと、始まりはそういうきっちりかっちりした文章と、それをなにかを果たすために書く行為へ
 のアンチとしてあったのですよ、私のそれは。
 なのにこうして、恥の意識を感じる。
 不安になる。
 自信が無くなる。
 だから、私がサイトをやる理由というのが、気になり出す。
 でも、そのときにぽつぽつと挙がってくる理由というのは、ただそれと同じ階層にある、サイトをやめる理由
 に対抗するためのそれでしか無い。
 結局それは、きっちりかっちりした文章に対する、負い目的な「恥」を克服することでしか無い。
 そんなのは、本質じゃ無い。
 私は私。
 恥が恥なら、私も私。
 関係無い。
 恥があろうとなかろうと、私はサイトをやっている。
 恥の意識のままに、開き直ろうと克服しようと、私はサイトをやっている。
 ある意味、チャンス。
 今までは、アニメの連続感想に於いて、私は私のままに書いてきた。
 そういう意味では、他の雑日記などでは、逆に「恥」の意識を持って書いていました。
 そして今こうして、やる気が出せない。
 「恥」の意識が増大してきて、なのに。
 それでもこうして、書いている。
 ゆっくりと大らかに、そして確かに少しずつ、この雑日記でも私のままに書くものも、そう、「それも」書くこ
 とが出来ていけるかもしれない。
 
 
 そんな感じで、今色んなサイト様やブログを読ませて頂いております。
 なんだろう、楽しんでやっているものが、一番やっぱり面白いですね。
 愛というか力というか、そういうのを読むまでもなく感じられる文章が、これまたやっぱり一番素晴らしいと
 思います。
 説得力とか、そんなものいらないよ。
 むしろ、説得「されたがり」すぎな気がします、最近のサイト読みブログ読みの方達は。
 説得や納得より、感動とか感激とかの方が、よっぽど主体的というか、書き手に甘えない、読み手とし
 ての自分の「確立」にはむしろ大きく寄与するのではないかと。
 論として合っているかどうかや、それが社会的常識的に合っているかどうか、そういったただの「選別」を
 基準にした納得は、これは読み手の「創造力」に貢献しないどころか、むしろ主軸に置いてしまうことで
 それを大きく損なってしまう気がしています。
 それってある意味、空気読め的なことと、根本にあるのは同じことです。
 論理は論理でしかなく、社会的常識的なものもただそれでしかない。
 書くこと以上に、読むことは難しい。
 私もこの頃、社会的常識的に合っているかどうかはともかく、論の組み立ての正しさや読みやすいかど
 うかとか、そういうなにか私の「納得」出来るものにばかり目が行ってしまいがちです。
 誰か私を説得して、私を納得させて頂戴。
 感動させて欲しいとも、感激させて欲しいとも私は思いませんし、感動や感激を求めてものを読んだり
 観たりすることも滅多に私はありません。
 感動や感激は読んだ結果でのことにしか過ぎない。
 なのになぜ、今、説得させて欲しいと納得させて欲しいと?
 なぜ今、説得や納得を結果では無く、目的としてしまうのか。
 
 
 あなたに出来ることよりも、あなたにしか出来ないことを。
 
 
 私が、私にしか出来ないことから、逃げているから。
 私が果たさねばならない、私という読み手の責務から目を逸らしているから。
 代わりは、いないのに。
 代わりがいない事が恐ろしいからこそ、目を逸らす。
 自分の価値を貶める。
 「私」の「ひとり」の存在を認めない。
 私はひとりしかいないのに。
 代わりはないのに、そんな無責任な。
 「私」という「ひとり」が、この世界に人の数だけ存在するからこそ、こんなに沢山の違う言葉が読めるの
 に。
 みんながそれぞれ、自分の「私」と向き合い、それに基づいたものを書くからこそ、それを読む他の人の
 「私」も輝くのに。
 だからむしろ、私が私にしか出来ないことをやる責任が、私にはある。
 説得や納得を求めて文章を読むのは、それは私にしか出来ないことでは、無い。
 それは、誰にでも出来る、かつ誰でもいい読み手しか生み出さない。
 書き手は読み手でもありますし、きっとそうした読み手の意識を持って書いていくことに、今私が一番
 実感を得られる、私がこのサイトをやっている理由があるのかもしれませんね。
 読み手を説得するために納得させるために書くのじゃ無く。
 読んだ結果、読み手の「私」を感じさせられるものを書いていく。
 出来れば、私の文章を読んでくれた人に、その人が自身のその人にしか無い「私」と向き合う切っ掛け
 を与えられたなら本望で御座います。
 まぁ願望ですけどね、野望ですけどね、本能寺ですけれどね。 (周囲を警戒しながら)
 
 
 だから、ま。
 気楽にだらだらと、やる気の無い、素のままの自分でやっていきます。
 いい加減で、適当で、自分勝手で、滅茶苦茶で。
 せやけどほんまはちょっと恥ずかしいねん。
 そういう感じで、アホにバカをやっていきます。
 私らしく、私らしくなく。
 真面目に、不真面目に、頑張ったり、やる気無くしたりしていきまっす。
 
 うん。
 その上でこそ、自分に出来ることや、基本やら型やら、説得やら納得やらのものをやっていくことに、
 利用価値が出てくるので御座いますよ。
 
 
 たぶん。 ←自信なさげに
 
 
 
 追記:
 この日記をUpする直前に、時々読ませて頂いているブログ様で同じような記事がUpされていて、しかも
 綺麗にきっちりかっちりなそれはお見事な文章で、ああもう。
 ああもう、すっごいうごうごと蠢く私の心中をお察し申し上げます。 ええい狼狽えるな。
 ああもう。
 悶えて、悶えた挙げ句に、そっとそのままこの日記をUpする私がいれば、ウチのサイトは安泰だね。
 と言いつつ、こんな追記をしている私は見苦しい。
 いや追記してもしなくても、見苦しい。
 よし。 (よくない)
 
 
 
 
 ◆
 
 最後に、タユタマ感想。
 第8話まで観ました。
 自分に出来ること、ってなんだろう。
 どれをとっても、誰にも勝てない。
 美冬みたいにリーダーシップがある訳でもないし、アメリみたに明るい訳でもないし、ましろみたいに
 とんでもない力がある訳でも無い。
 ゆみなは、誰にも勝てない女の子。
 実際は、優しかったり素直だったりと、いくらでもゆみなの特性というのはあるといえばあるのですけれど、
 でもゆみな自身からすれば、それは特性とすら呼べないもので、またそれらをゆみなの特性として、
 他の者に勝るものとして賞賛されても、ゆみなは嬉しくないどころか、逆に追い込まれていくのでしょう。
 そしてきっとそれは、他の者に勝るものとして、美冬的なアメリ的なましろ的なそれを手に入れたとしても、
 ゆみなにとっては本質的に同じことなのでしょう。
 ゆみなは美冬的なアメリ的なましろ的なそれを持っていないからこそ、それを持っていないことが問題と
 思っていても、いざそれらのものを手に入れたときに、問題の本質はそこには無いことに気づくはずです。
 自分の特性を磨くこと、自分の出来ることをやっていくこと、それ自体は決して本質的なことでは無い。
 ただそういうことを出来ない、していない自分を見つめて、だから出来るようになろう、そうしようと思う
 ことで、自分を紛らわせようとしているだけ。
 
 ゆみなはただ、裕理の力になりたいだけなのに。
 ゆみなはただ、裕理の力になりたいと思える、そのゆみななだけなのに。
 
 ゆみながどんなにリーダーシップを取れるようになっても、明るくなっても、とんでも無い力を手に入れて
 も、それはなんの関係も無い。
 ゆみなにとっての問題は、裕理の力になることが出来ないことでも無く、他の誰と比べても能力が劣って
 いることでも無い。
 ゆみなが直面している理由は、そうした自分の「想い」によってでしか、自分の存在を認め感じることが
 出来ないという、それ自体なのです。
 ゆみなはほんとはただ、裕理に愛されたい。
 だからこそ、祐理の力になりたいということが出てきたのですから、本末転倒なのです。
 愛されたい、認められたい、でもゆみながましろとアメリと違うところは、裕理に愛されたいということと、
 自分が此処に存在していると自覚を得ることを、ひとつ切り離しているところにあります。
 ゆみなは言います。
 出会えたことが、奇跡なんだと。
 祐理の力になれるかどうか、祐理に愛されるかどうか、それらの大元にある、祐理との出会いという縁
 そのものの中に、ゆみなはゆみなは感じようとすることに、そのゆみなの問題の帰結を見つけていきます。
 そして、だからこそ。
 
 ゆみなが、ゆみなに出来ることを、愛しくやっていく価値が発生していくのです。
 
 ゆみながゆみなに出来ることをやっていくことが、ゆみなを此処に存在させる訳じゃ無い。
 ゆみながゆみなに出来ることをやっていくことが、すべてを解決してくれる訳が無い。
 ゆみながゆみなに出来ることをやっていくことは、ただゆみながゆみなに出来ることをやっていくことにしか
 過ぎない。
 それはただの、ゆみなの日常、生活そのものです。
 ただただ当たり前のこと。
 当たり前のことを求めて、必死になったとて、それはなににもならないどころか、それに囚われて、本当に
 ゆみながしなければならない、見つめなければならないものから外れていってしまいます。
 ゆみなには、ゆみなにしか出来ないこと、ゆみなこそがやらなければならないことがある。
 その象徴として、鳳凰がいる。
 鳳凰は、ゆみなにしか扱えないし、ゆみなが放っておけばそれなりの結果が出る。
 鳳凰は、ゆみなにしか見えない問題そのもの、ゆみな自身なのです。
 そして、そう前提として捉えるからこそ、そのゆみな自身のゆみなが全責任を負うものとして、まずは、
 自分に出来ることからやっていこうという言葉に、自信と愛と、そしてその行動を以てゆみなの存在が
 認められていくことに繋がっていくのです。
 狼狽え、戸惑い、焦り、悩み、はわわと迷って、色々なものに囚われ振り回されて。
 だけど、ゆみなはそうしてゆっくりと静かに、この世界の此処に今この瞬間にいるということを自覚していく
 のですね。
 目の前にあるものはすべて現実。
 そして、その膨大な現実の中で、小さな現実を築いてそこに引き籠もってしまいながらも、それを続ける
 あまりに、それだけでは駄目だということを、あっさりと深く理解していくゆみな。
 目を閉じても現実は途切れない。
 自分に出来ることだけをやっても、なにも解決しない。
 諦めたら終わり、開き直ったら、終わり。
 ゆみなの愛が、その終わりこそを許さずに、きっと強く見据えて目を閉じさせない。
 弱いからこそ、卑小だからこそ、その自分の弱さ卑小さにじっくり囚われて、すべてを自分がこの巨大な
 世界に大きく生きていくために受け入れていくのです。
 弱さに卑小さに逼塞しない、弱いまま卑小なままに強く大きなものを求めていくゆみなさんに、拍手。
 
 
 そしてアメリさんですけど。
 ひしひしと伝わってくる、その自分の気持ちがひび割れていく感触。
 無数に入っていく小さなひびのラインをなぞりながら、溜息を吐きながらその崩壊寸前の自分の気持ち
 の輪郭を抱き締めている。
 そのままひび割れごと締め壊してしまいたい衝動だけが、そのどんどんと入っていくひびを見つめるだけ
 しか出来ない自分を此処にいさせてくれる。
 壊したい。
 目の前のそれを、壊したい。
 そのひび割れたモノ自体を壊してしまえば、きっとまた今まで通りのそのモノは還ってくる。
 でも。
 全部は、壊せない。
 なにもかもを滅茶苦茶になんか、出来ない、したくない、絶対。
 アメリに残る、細い細い、心の琴線とも言える、一本の線。
 それは可能性と呼べる代物では無かったのかもしれない。
 まだ自分にもチャンスはあるという言葉が、もうチャンスなんか無いという事を受け入れるための言葉に
 しか過ぎないことを噛み締めながら、ただアメリはひび割れていくその目の前の自分を見つめている。
 時間は止まらない、崩壊は止まらない。
 そしてアメリは、目の前のモノを壊そうと思うからこそ壊さずに済んでいる。
 けれど、壊そうと思うのは。
 このままでは、崩壊することを、知っているから。
 自分で終わらせるために、では無く。
 その崩壊そのものを、壊したいがために。
 私はまだ、その私の気持ちを一杯に満たしたことも無いのに・・・
 それなのに・・・あんなに・・・・あんなにひびが・・・・・
 
 なにもかも、無かったことにしちゃわない?
 祐理にそう言うアメリの心に、ヒビが入る。
 その一言が、アメリ自身の気持ちの崩壊を加速させることをどうしようも無く感じながら、その一回の
 加速だけで、この崩壊が止まらないかと期待しながら。
 その罪な期待が、一回、二回、三回と崩壊の加速度を上げていく。
 アメリの演技には、熱が籠もらない。
 もはや、演技せずにはいられない、日常を演ずることでしか日常に留まれない、その全くの日常の
 崩壊の途上で生きている。
 惨憺たる有様。
 ヒビ割れは止まらない。
 もはやましろを抹殺しただけでは止まらないことを確信すればするほど、アメリは追い詰められている
 自分を見つめている、その自分の存在を感じている。
 アメリは演技しています。
 今まで通りの明るいアメリ様を、そして、その日常的なアメリを演じずには居られない、その追い詰められ
 て「どうしようもない」アメリ自身を。
 演じています、そしてアメリは悲劇のヒロインぶりを感じ演じることしか出来ない、今の自分の状態にこそ
 、最も焦っています。
 アメリは、諦めていません、全然。
 崩壊の限りを尽くしながら、ヒビ割れ全開で完全崩壊まであと一歩のところまで迫っているのに、
 まるで漸近線を描くかのように、アメリは一切の停止の無いままに、崩壊の一途を永遠に続けながら、
 崩壊に至らない自分を生きているのです。
 アメリは、その崩壊そのものの苦しみに耐えていません。
 アメリは今にも壊れそうな自分が壊れないことに、不思議さすら覚えていることでしょう。
 アメリは、何度でも裕理にトライ出来る自分に狼狽えながらも、そうしてそれでも壊れない自分を
 少しずつ利用し始めています。
 アメリは応龍に唆され操られているようで、しっかり応龍を利用しています。
 
 もう、駄目、もう駄目。
 
 そう呟きつつ、その呟きを溜息に換えて、アメリは日常のアメリを演じる場所に移っていく。
 アメリに応龍を利用している自覚は無いし、あってもいけない。
 なぜなら、ましろを化け物扱いして無かったことにしようとしている自分が、同じく化け物の応龍を利用す
 ることなど出来ないのだから。
 あくまでアメリは、日常のアメリの演じ手。
 その日常のアメリの生活に、化け物は存在すら許されない。
 けれど。
 日常のアメリの演じ手としての、そのアメリ自身の目の前には。
 紛れも無く、化け物がいる。
 化け物と抱き合う裕理がいる。
 その目の前の現実があるからこそ、アメリは日常のアメリを演じた。
 翻せばそれは、その日常のアメリがいること自体が、そのどうしようも無い目の前の現実の存在を肯定
 してしまう。
 そのことに、アメリは気づいてしまいます。
 日常に拘れば拘るほど、その日常は非現実なものとしてしか、その存在を許されなくなっていく。
 壊すしか・・・・ないじゃない・・・・
 アメリの過ごした、受け入れられた日常は既に亡く、ただもう、アメリの演技の中にしかその日常は無く
 なっていた。
 アメリにとって、日常は本質では無かったはずなのに。
 でもアメリにとっては、裕理への想いに素直に向き合えなかったからこそ、日常という隠れ蓑はそれでも
 アメリと祐理を繋いでくれる、大切なものであったはずなのに。
 祐理とそのまま繋がれるのなら、アメリにとっては日常などいらなかったはずなのに。
 私が・・・素直になれなかったから・・・・いけなかったの・・・?
 素直になれないだけで祐理の事が大好きなアメリはいる。
 そのアメリの祐理への向き合い方として、日常はあったのに。
 わかってたわよ、私だってそれじゃいけないって、いつかは必ず素直にならなくちゃいけないって・・・
 だけど・・・もう少しだけ・・待って欲しかったのよ・・・・もうちょっとだけ・・・そうすればきっと私だって・・・
 もう少しだけ・・・・日常の生活の中で祐理と向き合えていたら・・・・素直に・・・ゆっくりなれたかも・・・
 
 
 それが、アメリの疵。
 
 いえ、それが、アメリのヒビの本質。
 
 
 勝負のときです、アメリさん。
 人生の転機、祐理さんへのあなたの想いの正念場ですよ。
 日常に守られていただけのアメリ。
 いつかは日常に守られずに、ちゃんと自分として祐と向き合っていけるはずと思っていたアメリ。
 じゃあ、日常が奪われたら?
 ある日突然、今までのやり方が通じなくなったら?
 そのとき、あなたは祐理さんへの想いを維持できますか?
 祐理さんへの想いを支えていたのは、日常じゃ無い、アメリ自身です。
 でもそのアメリ自身が日常に頼って、日常が消えたからといってなにもしなければ、祐理への想いに
 ヒビが入り始めるのは当然です。
 世界は動き出した、アメリにアメリにしか出来ないことの責任を負う瞬間がきただけのこと。
 今こそ日常を捨てるとき。
 いいえ。
 日常が無くても、アメリが此処にそれでも生きているという自覚を以て、祐理と向き合うべきとき。
 日常は初めから、アメリがよしと思えるその瞬間の、その遙か手前で途切れることが決まっていたもの。
 なぜなら、日常は有限で、そして。
 きっと、アメリさんの日常への依存は無限だったのだから。
 アメリがこれでよしと言えるときなんて、ほんとは一生無かったはず。
 素直に祐理と向き合えるようになるまで日常のままにいさせて、というアメリの意志は、そのときが来ない
 限りずっと日常のままでいて良いということになるのですから。
 ましろとゆみなは、日常を失ってもなお、圧倒的に不器用に、けれど絶対に諦めずに自分の求める
 ものと向き合っています。
 アメリは・・・・・・うん。
 アメリは、全然諦めてないじゃないの。
 アメリももう、実は日常を奪われていながら、日常に拘り続けているという「作法」で以て、祐理への
 想いを諦めずに、既にこれだけ必死に生きているじゃないの。
 ましろとゆみなも、そこから始まったのです。
 そして現在ましろとゆみなが採用している作法と、アメリの作法に、その有効性という意味で差がある
 だけ。
 
 だから、アメリとましろとゆみなは、対等でしょ。
 
 アメリはただ考えて、悩んで、苦しんで、その悩み苦しみの体当たりな思考で、誰よりも冴えた作法を
 体得していけばいいだけなのですから。
 
 それは、ましろもゆみなも同じ事。
 どうやったら祐理を落とせるか、ただそれだけでしょ。 (そういうことになりますよね?)
 
 
 そしてそれが。
 アメリの、新しい日常に繋がっていけるのじゃないかな。
 その日常の中でこそ、アメリがアメリの出来ることに尽くす価値と有効性が、出てくるよね、きっと。
 それはすべて。
 アメリが、アメリにしか出来ないことと向き合うからこそ、出来るようになることなのだと、私は思います。
 
 
 
 それにしても鵺たんがノリノリであるw
 シュノーケルセット持って泉戸家のお風呂に遊びに来るわ、モバイルモバイルで最先端ぶりを発揮して
 みたりとか、自分の力を遺憾なく発揮して、立派に人間「社会」を楽しんでいるのが楽しい、っていうか
 むしろ現代版神様もやる気満々というか、すごいなこの子ww
 完全にひとり勝ち状態ですね、まさに。 自分の売り込みまでしちゃって、あっぱれ鵺たんw
 わしに不可能は無し、底なーしの可能性じゃ、モバイルモバイル。 by鵺
 ・・・。
 ええと、駄目神様のましろたんも頑張ってくださいな。 (押され気味ですよ)
 
 
 
 という感じで、今日はここまで。
 お疲れ様でした。
 
 ひゃー疲れたー。 (あれ?やる気は?)
 
 
 
 
 
 
 

 

Back