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◆◆◆ -- 2011年3月のお話 -- ◆◆◆

 

-- 110318--                    

 

         

                             ■■なら私も休止するっ!■■

     
 
 
 
 
 余震が怖いので、休止します。 (挨拶)
 
 
 改めまして、ごきげんよう。
 挨拶の通りに、まどマギの放送が二週連続で休止なので余震が怖いので、
 しばらく日記を休止させて頂きます。
 正直、刀語の最終回の感想を書き始めてみたのですけれど、全然集中出来無い、
 これがまた全然集中出来無いんです、相当リラックスしてないと、やる気が無いと、無理。
 テレビで地震情報ばっかり観てたら、地震速報が出るたびにびくって反応して、部屋の電気が
 揺れてるかどうかチェックして、というか三回に一回くらいの割合で体感でもガチでやばい揺れとか、
 ほんともう、日記とか書いてらんない。
 よしんこわいまじこわい。
 
 という感じで、すっかり怯え切ってるパブロフの子犬状態の残念な私ですので、
 申し訳ありませんけれど、日記の更新はしばらくお休みさせて頂きます。
 刀語の最終回は、まぁ、その、うん、必ず書きますから。 (いずれ)
 一応まどマギの放送が二週連続で休止した事も余震もあるのですけど、ちょっと色々計画停電
 の御陰様で色々立て込んだりしていて、なかなか予定がつかなかったりする事もあったりですので、
 まぁ、時間と余裕が出来て、まどマギが休止しなかったら余震が無かったら、簡単な雑記程度は
 随時更新していくかもしれませんので、勝手ながら、よしなに。
 
 
 ていうかぶっちゃけ今、刀語の事よりもまどマギの事で頭が一杯っていうのものあるんですけどね
 おのれTBS、許さんぞ。(マテ)
 
 
 
 
 
 おまけ。
 今期アニメの簡単であっさりな評価表と、来期アニメのそのまんまな期待度表をメモ的にぽちっとな。
 

 
 今期/
 
 F: 上げていこうぜっ!
 フラクタル ・ みつどもえ2 ・ インフィニットストラトス ・ レベルE
 
 E: ならば良し
 とある魔術の禁書目録2 ・ おにいちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ
 
 D: 萌え
 GOSICK ・ ドラゴンクライシス
 
 C、間違えました、このクソ虫
 これはゾンビですか?
 
 B: 綺羅星☆
 スタードライバー輝きのタクト
 
 A: 大興奮
 放浪息子 ・ 魔法少女まどか☆マギカ
 
 S: 気絶
 君に届け2
 
 
 
 来期/
 
 F: まずはここから
 青の祓魔師 そふてにっ デッドマン・ワンダーランド STEINS,GATE
 
 E: 萌えいってみよう
 アスタロッテのおもちゃ! DOG DAYS
 
 D: 化けろ化けろ
 変ゼミ もしドラ
 
 C: べ、べつに期待してないってわけじゃないんだからねっ
 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 緋弾のアリア 戦国乙女〜桃色パラドックス〜
 
 B: 期待大
 花咲くいろは 電波女と青春男 [C]
 
 A: 本命
 日常 Aチャンネル けんぷファー fur die Liebe
 
 S: ガチ
 銀魂’ まりあ†ほりっく あらいぶ
 
 
 
 
 
 ・・・。
 たんにガチって言いたかっただけです。
 それ以上でもそれ以下でも無いです。
 はい。 (ごきげんよう)
 
 
 
 
 
 
 



 

-- 110313--                    

 

         

                            ■■自分のためのアニメ講座■■

     
 
 
 
 
 はい、ごきげんよう、紅い瞳です。
 今回は、少し色々とアニメについてお話をさせて頂こうと思います。
 
 アニメって、みなさんどういう風に捉えていましょうか。
 もっと簡単に言えば、みなさんにとって、アニメとはなにか、という事なのですけれど、勿論それは、
 人それぞれ色々ありましょう。
 ここでは、そのみなさんが現在捉えているアニメというものを、「自分のため」のものとして捉えて
 いく方法を私なりに考えたものを、紹介させて頂こうと思います。
 今ちょっとアニメに興味を持ち始めた人に、そして既にどっぷりとアニメにハマっている人に、そして、
 アニメを色々な理由で遠ざけている人に、読んで頂けたらと思っています。
 
 それでは。
 
 
 
 
 ◆
 
 まず、簡単にこういうものを書いてみました。
 
 
 - 1 -  主体性の獲得と模索・・・・哲学
 
 - 2 -  欲望と感情へのアクセスと自覚・・・・萌え
 
 - 3 -  物語の多様化・・・・社会
 
  
 
 - 4 -  正当な自己認識とより深い自己成長・・・・キャラ
 
 
 
 アニメというのは、先ほども申し上げましたように、実に様々な捉え方があると思いますし、
 その数の多さが、すなわちアニメというものの豊かさを形作っておりますので、本当のところ、
 アニメはどう捉えても全然問題が無い。
 だからこそ、より自由に、そしてなにより、自分の好きに向き合っていけるものとして、アニメは他の追随
 を許さないものがあります。
 
 私は現在、アニメを、上に挙げたような、三つの要素と二つの段階があるものとして捉えています。
 勿論、ここからまた増えていったり、統合したり差し変わったりすることもありますが、まぁ、今は
 そういうことだ、ということで。
 では、それぞれについて解説していきましょう。
 
 
 
 私の場合、そうですね、初め、アニメというものは子供が見るものだという偏見が根強かったですね。
 でもですね、丁度私はもうちょっと大人になってからもう一度一度アニメと出会う頃に、まぁ色々と
 悩んでいたり、色々な事がわからなかったりして、まぁ思想とか心理学に手を出していたのですね。
 でもなんというか、思想とか心理学にせよ、当時の私にとっては、それはあくまで受け身的に学ぶもの
 であったので、それ単体ではどうしても満足出来無い。
 私にとっては、なんというのでしょうか、誰かに答えを教えて貰いたい、というのでは無く、なんとか
 自分で理解して自分で答えを導き出して、その先に自分の世界を作っていきたいと、まぁ、そういう
 ものだったのでしょうね。
 そこで、ばん、ときたのが、アニメだったのですね。
 アニメは子供の見るものだ、という偏見があったものですから、私はアニメから「学ぶ」ものなどなにも
 無いと高をくくっておりまして、だから逆にですね、じゃあこのアニメを、「自分のもの」として語り直して
 やろうという、一種の語り願望というのでしょうか、そういうものがあった。
 ま、もっと簡単に言えば、思想なり心理学なりというのは、そういう学ぶものとしての知識を手に入れ
 無ければ語れない、めんどくさいと、ま、そういう事がすべての始まりだったんですけどね。 (笑)
 
 
 とにかく、自分で考えて、語ってみたいと、その想いが、言ってみればアニメを私が侵略していく事で
 始まった。
 でも、それでもアニメは子供の見るものだという偏見自体は捨てきれず、だから最初の頃は、わりと
 小難しい系の、色々と心理学的な思想的な要素を取り込んでいるものを、その視聴の対象と
 していましたね。
 最初に出会ったのは、「もののけ姫」で、次が「エヴァ」ですね。
 自分で考えるアニメ、つまりこれは、哲学する、ということなんですけどね、そしてそれが同時に、
 自分で考えていきたいという想いから、それが主体性の獲得に繋がっていくんです。
 「1」の要素ですね。
 で、まぁ、自分で考えていきたいと言いましても、アニメは子供の見るものだという偏見はやっぱり
 根強く(笑)、またアニメを知っていくにつれ、たとえば私があくまでそういう哲学の対象として捉えていた
 作品が、それこそオタクなどの欲望まみれな性的な眼差しで見られる事には耐えられなかったり、
 またそういうオタク基準で作られているいわゆる萌えアニメなどは、選ばなかった。
 その自分の選択の中に、主体性の模索というものも含まれていたりするのですが、同時に、それは、
 
 
 「どうして私はそうして哲学対象を選んでしまうのだろうか。」
 「それは果たして本当に主体的と言えるのだろうか」
 という疑問への到達を導き出しもする。
 
 
 それが私の場合、「2」に繋がったんですね。
 「1」に対する懐疑、というか、「1」だけで良いか、あるいは「1」を突き詰めるという事はどういう事
 なのか、ということから、私はある発見をした。
 私は、どうしてアニメを子供が見るものだといって、差別しているのだろうか。
 私は、どうしてアニメを性的な眼差しで見られる事を、嫌がるのだろうか。
 さぁ、どうしてでしょうかね?、答えはもうその問いそのものにあるんですけど。(笑)
 どうしてアニメを子供が見るものであると思っているのかは、それは簡単な話、そういう風に周りの
 人達が言っていたから、ただそれだけです。
 げんに、そうして哲学的にアニメを見始めていた私自身は、既に、わぁアニメってこんなにすごいんだ、
 わ、こんな風にも読み解けるんだ、みたいな、完全にアニメというもののクオリティに圧倒されていて、
 全然子供が見るものだなんて思っていないんですからね、まぁ、そうやって圧倒されてきゃーきゃー
 喜んでる私がまさに子供だって言うなら、話はまた別ですけれど。(笑)
 
 
 まぁ、つまりそこで、自分の中に価値基準がふたつ存在している、という事が知れる訳です。
 しかもそれは、見事なほどに矛盾している。
 で、私はその矛盾を解消しようとする、解消しようとして、これがまた、その解消方法がふたつ出てくる。
 ひとつは、いやアニメは全然子供のものじゃ無いよ、だってこんなに哲学的に考えられるんだから、
 という風にして己の哲学的解釈を深めていく方法。
 そしてもうひとつは、いやうん、わかってるわかってるから、アニメが子供の見るものだって言われているの
 はわかってるから、わかった上で、敢えて私はアニメをそうでは無いものとして捉えてみるのもいいよ、
 という方法。
 これ、同じようで、違うんですね。
 一つ目のはそうじゃないですけど、二つ目のは、これは明らかに他者の目を気にしてる訳です。
 自分がすごいと想ったものを、他者の目を気にして褒められない。
 なんなんだろう、私って。
 そういう思いが、少しずつ、堆積していく。
 
 
 そうすると、こう。
 萌え、ってなんだろな。
 
 
 そこに、行き着く。
 私は、どうしてアニメを性的な眼差しで見られる事を、嫌がるのだろうか。
 先ほどのこの問いですが、これこそ問いそのものに答えが出ている。
 答えは簡単、どうしてアニメを性的な眼差しで見られる事が嫌かって、そりゃあなた、あなた自身が
 しっかりきっちりアニメを性的な眼差しで見てもいるからじゃないですか。(笑)
 そして私はなぜか、その私のエロい(笑)視線を否定してしまうんですね。
 私はあくまでピュア(笑)な気持ちでアニメを観てるんです、哲学的に観てるんです、って一体誰に
 アピールしてるのか知りませんけれど(笑)、で、だから、アニメを性的な目で観ている輩がいると、
 それと自分が一緒にされてしまう事が嫌だし、許せないんですね。
 自分も充分エロいくせに、それはちょっと、ズルい、いえ、かなりズルい。(笑)
 
 
 で、ズルいかどうかは実はどうでもよくて、それよりもなによりも、自分が自分の欲望を認める事が
 出来無いっていうのは、これは自分にとってとてつもない発見だと私は思う訳です。
 あ、私、そういうの駄目なんだ、出来無いんだ、自分で、て。
 悲しいじゃないですか、そんなんだったら、アニメのごくごく一部しか、限定的にしか楽しめないんですよ?
 、萌え要素の無いものを、萌え無しに観て考えるだけ、そうして切り取って集めた小さなものを、
 それを、「私のアニメ」と言う、これはねぇ、残念ですよ、悲しいですよ。
 アニメの大きさ、豊穣さをちゃんと受け取れてない、勿体無い。
 
  萌えたって、いいじゃない。
 
 自分の欲望の発見と、その認証。
 それはとても恐ろしいことですけどね、それが今まで全く出来無かった人、しかも自分が出来無いと
 いう事すら認識していなかった人にはね、アニメの萌えなんていうのは、破壊力があり過ぎます。
 まぁ、破壊力というか、破廉恥力と言いますか(笑)、とてもとても、自分が今まで生きてきた世界の
 中でのエロス、つまりエロに「善悪」がある世界で生きてきた人には、まぁ、萌えなんてのはほとんど
 悪そのものですから、極悪ですから。(笑)
 しかも直接的なセックスでは無いですからね、フェチ的というか妄想的というか(笑)、まぁ萌えの
 悪口を言えばキリが無いし、自分でも悲しくなってくるのでやめますが。(笑)
 
 
 で、ここで重要なのは、破壊的だろうと破廉恥だろうと、男性にしろ女性にしろ、とにかくその自分の
 欲望と向き合う事が重要で、またかつ同時に、やはりどうして私はそういう自分の欲望を否定して
 しまうのだろうと、それこそ主体的に考えてみるのが大切なんですね。
 むしろ、自分が欲望を否定する理由を知ることで、あっさりと自分の欲望と向き合い受け入れていく
 事が出来る可能性が高い。
 私の場合は、そういう性的な欲望に関連するものが、まぁあくまで一部がですが、他者から禁止もしくは
 抑圧の対象とされて、それに支配されていた事に気付いて、だからその他者の価値観をはね除けて
 いくイメージで、自分の欲望と向き合い、またどんどんとそれを探検していきました。
 そうなってくると、あとはもう雪崩式というか芋蔓式というか(笑)、アニメはその探検の手助けをして
 くれる事にかけては天下一品ですから、実に本当に自分の欲望、性癖、いえいえ、それ以上に、
 新しい自分の感情や感覚の発見と創造に、それは繋がっていったりするんですね。
 あ、こんなのにも萌えていいんだ、あ、ていうかこれ普通にありじゃなくね?、みたいなね。(笑)
 
 
 そうしますとね、これは実は今度は、自分が萌えという言葉に見ていた欲望の種類が、実に少ない
 事にも気付ける訳です。
 エロど真ん中というかセックスに即結びつくというか、そういう性的なものに直結するものばかりを、
 全部ひとまとめにして萌えという事にして、同時に、萌えという言葉からそれ以外のものを取り去って
 しまっている。
 実際、私としましては、萌えという言葉に一番近いのは、男にしろ女にしろ、可愛い、だと普通に
 思うのですよね、いえ、思うというか実感として、ですが。
 無論、性的な意味が無いものだけでは無いですが、これも同時に、性的な意味合いが少なくとも
 意識の上では感じられない可愛さ、というものに、同時に萌えという言葉を当てはめていることも
 ありますし、またまた同時に、その萌えというのは、純粋な可愛さとも、やはり違う。
 萌えは、奥が深いです。(笑)
 自分の欲望、というか、現在表面的に浮かんでいる自分の気持ちの、そのすべてが絡んでいる、
 かなり複雑な感情なのではないかと私は思っていますし、あ、これは萌えだ、というのは、これは
 おそらくある程度は共有出来る感覚でもあると思います。
 勿論、萌えの対象そのものは千差万別人それぞれなのは言うまでも無いことですけれど。
 
 
 それで、ここで萌え談義をすることは目的では無くてですね、この場合大切なのは、そういうなんて
 いうのかな、単純な性的な欲望としてでは無い、感情のブラックボックスとしての萌えから、如何に
 そこに含まれている個別の感情を発見して、そしてそこにアクセスしていくか、ということなんですね。
 逆に言えば、萌えと同じで、実は「感情」というものがなにかひとつのものに固まってしまって、種類が
 少なく感じていたことに気付く、というか、それを解体することで数を増やすというか。
 もうここまで来ると、それらの感情はもう、他者からの抑圧とか価値観とかに晒されずに、
 安心してキャッチ出来るようになっていると思いますけどね、萌え様様です(笑)、この個別に切り分け
 られてひとつひとつ認識されていく感情というのがこれ、実はアニメというものから私達が得られる最高
 のものだと思っているんですけどね、ここでどれだけ感情を掘り起こして、それと自分を繋いでいくか、
 ということが、実は次の「3」と密接に関わってくる。
 
 
 「3」、すなわち物語の多様化、ということをひとつ挙げましたが、これはどういう事かと言いますと、
 つまり、まず、アニメの大きな魅力は、その物語の圧倒的な数です。
 今現在、週に30本とか40本とか作品が放送されている訳ですが、単純にその数だけでも多い。
 そして、なによりですね、アニメというのが、すべて0から作られている、というのが、大きい。
 ドラマやなんかと明確に違うのはそこで、0から始まるということはすなわち、そこから始めて作られた
 ものは、これまでのすべてのものとは、全く違うものだ、という事。
 アニメで描かれるのは、ひとつの世界なのですけれど、これは現実の世界とは全く違う訳ですね、
 要素としては多く現実を取り込んでいるのですが、しかしここがポイントなのですが。
 
 
  現実って、なんですか?
 
 
 今、アニメというのは基本は0から作られていて、要素として現実を取り込んでいると言いましたが、
 つまり、アニメで描かれる世界というのは、アニメを作った人が目の前に広がっているなにか、
 それらを拾い集めて作られた、ひとつの現実、なのです。
 現実というのは、人が目の前のものから「捉えたもの」です。
 そしてその捉えたもの、つまり要素を集めて構成したのが世界。
 アニメでは、目の前のものから捉えたもの、すなわち現実というものが、共有されて出来ている、
 そう、ドラマなどで描かれる「現実」というものが、全く否定される。
 ドラマは基本、みんなが共有しているだろう(それは実は幻想なのですが)「現実」肯定ですが、
 アニメは違う。
 アニメはあくまで、誰かひとり、あるいはあるひとつのチームが捉えた現実のみを肯定する。
 そしてそれは共有されているという「現実」の否定になる。
 言ってみれば、アニメで為されていることは、現実の再構成による世界の再創造。
 それが、アニメの数だけある。
 おそろしいほどに物語の数があり、それすなわち、その物語の世界の数だけ、リアリティがある。
 もっと端的に言えば、現実という名の物語が、相対化される、ということです。
 これはですね、今自分が目の前に捉えているものを、みんなが共有しているであろう「現実」という
 もので語りそれで構成される世界に支配されてしまっている、そういう人達には、とてつもない宝物を
 くれることになるんです。
 アニメは、とてつもないソフトパワーを秘めている、というよりも、むしろアニメこそソフトパワーの典型に
 して王道だと私は考えているのですが、つまり、目の前の現実という単一の世界から、その人を解き放
 つ事が出来るんですね。
 そっか、なにも今私が捉えているものだけが、世界なんかじゃ無いんだ、という感じで。
 
 
 しかもですね、今はこのソフトパワーとしてのアニメが物凄い勢いで発展してきていましてね、たとえば
 こう、今までですと、でもどうせ、そういう風に思ってるのは私だけで、だから私はこの物語の中に
 飛び込んで、その物語の中でだけ世界を感じればいいんだ、みたいなね、なんというかアニメと単一の
 現実の区分けがしっかり行われてしまっていたんですけどね、誰にもお気に入りの物語というのは
 御座いましょう?、でもそれが現実の事としては受け止めず、多くはただ、御伽噺として、お話として
 楽しむに留めてしまう。
 でも、今は、違うんですね。
 ひとつのアニメで提示された世界、いえ、世界観と申せましょうか、それをこそ共有する人達が、
 ネットを介して繋がる事で、ひとつの、そう、これが大事なことなのですが、ひとつの社会を作り始めて
 いるんですね。
 みんながひとりひとり、社会を選択出来る、世界。
 これは、すさまじい。
 物凄い、豊かさです。
 そしてきっと、それはとても正常なことなんですね。
 「2」で自分の気持ちを細分化して、ひとつひとつ認識していく事が出来た人なら、そしてその自分の
 気持ちの責任を以て、そこから生きていくという自覚を持つ事が出来た人になら、これはとても
 わかることだと思います。
 そして、「1」で自分で考えていくという主体性を獲得した人は、その新しい沢山の社会の現出を
 認めて、そして自分もそこに参加してそれを作っていくという主体性にも行き着くと思います。
 自分達の社会は自分達で作っていく、それは当たり前のようなことですが、実はその多くはそう
 出来ていない、なぜなら、そこで言われている社会というのは、既に自分が無条件で所属している
 社会を変えていく、という意味で、0からの創造では無いからですね。
 それはちょっと裏にひっくり返せば、その現在の社会を背負っていく覚悟とそれを次代に継ぐ責任感、
 という、もう全然違うものが張り付いて出来ているものだというのがわかるのです。
 私達が社会を創る理由はただひとつです、ええ、自分達の気持ちのまま、好きなこと、したいことの
 まま、そのためだけに出来ていく、むしろそれを叶えるために存在する社会、それを望むがゆえです。
 仮に既存の社会を変えていくというやり方を取るにせよ、それが裏打ちされていなければ意味が無い。
 
 

 
 この、私が挙げました、アニメというものが持っている三つの要素ですが、これは順番が特にあるわけ
 で無く、私の場合は順を追っているところもなきにしもあらずですが、実際には同時並行だったり、
 或いは繰り返したり止まったりと、そういうものだったりします。
 ただ、この三つを意識することで、ひとつの、そう、次の段階へのステップを発見することが出来ます。
 それが、「4」の正当な自己認識とより深い自己の成長、ですね。
 ええ、ここでいう自己というのは、先に言っておきますが、イコール世界です。
 なにを言っているのかと思われるかもしれませんが(笑)、私は自己の成長というのは、世界の成長
 というのと同義だと思っているのです。
 逆に言えば、世界が成長することを指して、ただ自己の成長と呼び、世界を認識することによって、
 そこに正当な自己の認識が顕れてくると、私は考えています。
 では、世界とは、なにか。
 これは、はっきり言えば。
 
 
   世界とは
 
 
    私の  好きという気持ちです
 
 
 違和感がある人には、こう言い換えて受け取って貰っても良いでしょう。
 世界とは、その人の世界観そのものである、と。
 その人が世界になにを見ているか、です。
 話を変えましょう。
 アニメというのは物語ですが、当然物語には主人公というものが存在します。
 そして、その物語の世界観は、すべて、その主人公を通して描き出されていきます。
 無論、主人公が複数いる群像劇タイプの作品に於いては、その数だけ世界が存在します。
 もうおわかりでしょうか?
 結論から言いますと、私は、キャラに着目しています。
 私は一体、どういうキャラクターが好きなんだろう、ほんとうにほんとうの、好きはどれなんだろう。
 私は天然なアホの子タイプが大好きです(笑)。
 そしてだから、私は、その子が見た世界、そしてその子が見て描いた世界が、大好きなんですね。
 その世界が好き、イコールその子が好き。
 イコール、私もその子みたいに、なりたい。
 イコール、私もそういう世界を生きてみたい。
 これが、私の言う自己成長です。
 
 実際にその子のように私がなる事が成長という訳ではありません。
 私が、その子のようになりたいと思う、そのような世界を生きたいと思う、そこに至るプロセス、
 それ自体が成長です。
 私はですね、その天然アホの子タイプと同時に、賢くて諦めの悪い頑張りっ子も好きだったんですけど
 ね、これはですね、私の感情、気持ちに深く潜っていきますとね、違うんだ、というのがわかるんです。
 このふたつのキャラへの好きは、意味が違うんです。
 私は以前は、賢さを目指して、自分のしたいと思うことを絶対に諦めずに、辛い現実の中で必死に
 頑張り続ける、そういう生き方をしていたものですから、それと同じような生き方をしているキャラに、
 そう、同調と、そして同情という意味での好き、を感じていたのです。
 でも、じゃあ。
 私は、そのキャラが好きだけど、でも、そのキャラが見ている世界そのものは、好きなのか、どうか。
 これがですねぇ、全然気付かなくて、わからなかったことなのですけどね、好きじゃなかったんですね、
 好きじゃないどころか、もう、めちゃくちゃその辛い世界に抵抗していた訳です。
 世界に、というか、現実に、でしょうかね、まぁ同じことなのですが。
 そして、その自分の見ている世界に抵抗して、その大嫌いな世界の中でも絶対に自分の
 求めているものを諦めずに戦い続ける、そういうそのキャラの生き方に共感しただけなのですよね。
 つまりですね、これとってもとっても重要なことなのですけどね、それは、その生き方そのものは、
 
 
 その生き方そのものは、私が求めているものでは無い、ってことなんですね。
 私が求めているものは、そのキャラの生き方そのものでは無く、そのキャラがそんな生き方を
 してまでも、ずっと求めていたもの、それそのもの、だったんですね。
 
 
 じゃああのキャラが、必死になって求めていたものは、私が求めていたものは、なんなのか。
 それが、天然アホの子キャラが見ている、その世界そのもの、なんです。
 天然でいられる、アホでいられる、すなわち自分の気持ちのままに心地良く幸せに生きられる、
 そういうもので彩られた世界、それを求めていたんです。
 だから、私のふたつのキャラへの好きは、その意味が根本から違うんですね。
 最初は、ほんとは逆だと思っていましたよ、むしろ天然でアホではとてもいられないこの世界だから、
 だからなんとか賢くなって諦めずに頑張れるようにならなくちゃいけないって、そういう順番だと思って
 いましたから。
 それで、いつのまにか、なぜ賢くなって諦めずに頑張ろうとしていたのかが、わからなくなっていたんです
 よね。
 というよりむしろ、賢くなり続けて諦めずに頑張り続けるという、その生き方そのものが目的になって
 しまった、それがつまり、そういうタイプのキャラへの好きになってしまっていた。
 だから、そのキャラが本当に求めていた世界では無く、そのキャラが戦いながら所属している、
 そのキャラにとっては大嫌いだったはずの世界を、生きるために好きになるという意味で肯定してしまう。
 ドラマなんかはそういう手法をよく取りますね、世界肯定のための物語、今考えると、空恐ろしい。
 ですから、はっきりいって、それはもう、好きという本物の感情とは、違います。
 なぜって、私がほんとに好きなのは、天然でアホに生きられる、そんな世界そのものなんですから。
 その私の本物の好きを誤魔化すための、紛い物の、世界肯定現実肯定としての好き。
 いえ、これもはっきり言ってしまいましょう、それは、好きでは無いどころか、嫌い、と言えるものです。
 好きと言いながら、その実物凄く嫌っているのです。
 けれど、嫌いと言ってしまうと生きられなくなってしまうので、好きと、言ってしまう、現実を世界を肯定
 してしまう。
 
 
 賢くなって諦めずに頑張ろうとしている、そのキャラはなにを感じるか。
 自分が、賢さと諦めずに頑張り続けているという、その自分を演じ続けていること、それへの怒りです。
 そして、そういった生き方でしか、自分の求めるものを手に入れる事が出来ない、つまり、そういう
 目的達成手段しか知らないからこそ、そうして頑張り続ける自分を、肯定し続ける事しか無いことの
 の、悲しみ。
 いつのまにか、その演じている自分を本当の自分だと思うしか無くなっている、いえ、そう思うために
 こそ、世界がどんどん絶望的なものに塗り替えられていく。
 そしてそれを肯定しようと、また頑張り続ける。
 幸せを求め続ける戦いを、続ける事が出来るその自分を幸せだと、そう思うしかない。
 それって、絶望ってことじゃあないでしょうか?
 世界を絶望に塗り替えたのは、勿論その自分。
 どうして、天然に、アホに生きられないのでしょうね?
 それは、世界がそうさせてくれないから、なのでしょうか?
 それは実は、自分が世界をそう捉えて、その捉えたものから世界を構成しているからなのでは?
 じゃあどうして世界をそう捉えようと思ったのでしょう。
 ええ、これはですね、実は本末転倒が起きてるんですね。
 世界をそう捉えようと思ったのは、自分の本物の好きという気持ちの責任を自分で持てなかった
 からなんです。
 世界が辛くて厳しくて、だから自分の本物の好きという気持ちを守れなかった、というのは、
 これは本末転倒甚だしい。
 その世界が辛くて厳しいものに映るのは、それは自分の本物の好きという気持ちと向き合いたく
 ないからなんです。
 その自分の気持ちが、如実に世界に反映され、世界が構成されている。
 ではどうして、自分の好きな気持ちと向き合うことが出来無いか、といえば、まず、原因だけに限定
 していえば、それは間違い無くその人の成育環境のせいでしょう。
 その事は自覚する必要がありますでしょうね。
 そして、その自覚があるからこそ、だから今現在の自分にとって必要なのはなにか、ということが見えて
 くるはず。
 簡単な話、今目に映っている世界がどうであろうと、自分の気持ちにどうにかして自分で向き合う
 事が出来れば、それでその気持ちが世界に反映されて世界が構築されていく、というのなら、
 それが一番良いことだし、当の今の自分がそれを一番求めていることなのじゃないでしょうか。
 
 
 自分の好きという気持ちが、世界に反映されて。
 それで世界が構成されて。
 その世界の中を生きる事が出来たら。
 それが、最大最高の幸せでしょう。
 
 
 だからこその、自分の気持ちをキャッチすることの大切さがあるわけです。
 自分は一体どういう人間になりたかったのか、それを目の前の現実に屈せずに、感じてみる。
 そのための安全な場所として、アニメを基にしたアニメファンのコミュニティなりネットでの繋がりが
 ある訳ですし、そういう社会に参加していなくとも、アニメ自体がひとつの世界なのですから、その
 世界に満ちている「好き」を見つめることで、その世界を好きと既に思えている、その自分の好きという
 気持ちをキャッチする事は出来るんですね。
 そして同時に、たとえば先ほどの例で言いますと、賢くなって諦めずに頑張ろうとしているキャラが、
 私は全くべつの意味で同時に好きなのですが、それは、そのキャラが、自分がそういう賢く諦めずに
 頑張ってしまうキャラを演じてまでも、その向こう側、いえ、裏側にある本当の自分の気持ちに辿り
 着こうとしている、その事にこそ私が真の共感を覚えているからなんですが、つまり、そういう風に、
 色々とごちゃごちゃになってしまっていても、なんとかそこから本当の、それこそ正当な道に辿り着こうと
 必死になっている、そういうキャラが同志としてこの世界にはいるんだ、というのは、これ、とてつもない
 助けになると思います。
 独りじゃないんだ、ってそういうことですね。
 
 
 そしてもう、そこまで来たら、あとは大変ではありますけれど、一本道です。
 自分の好きという気持ちが世界を作る、というのは紛れも無い事実です。
 それは自分の思い通りに世界が作り変えられる、という意味では勿論ありませんからね。(笑)
 無理に好きという気持ちになる必要もありませんし、むしろそれをやると火傷します、経験者談(笑)、
 そして勘違いの無いように言っておきますが、世界のすべてを好きになる必要は無い、というか、
 それはむしろ全く逆のことで、好きにならなければ世界は変わらないのでは無く、好きになった分だけ
 世界が変わる、いえ、こう言いましょう、好きになった分だけ、そこに新しい世界が出来る、そういう
 意味であって、またつまり、その新しい世界を、好きなものを集めてどんどん広げていけばいい。
 そして世界を新しく作るために好きにならなければならない、というのもやっぱり火傷します(笑)、
 あくまでなんの義務も努力も頑張りも策略も無く、素直に好きになったものだけでいい。
 それは言い換えれば、世界よりも自分の気持ちが大切、すなわち等身大、ということです。
 
 素直に好きという気持ちがあることだけが必要で、そして素直に好きという気持ちになるためには、
 いくつものプロセスを経なければなりません。
 そもそも、好きという気持ちがあるのも事実でしょうが、それと同等かそれ以上に嫌いとか辛いとか、
 そういう感情があることもまた確か。
 というかむしろ、私は一番大切なことは、まず最初に、その嫌いとか辛いとかいう感情こそを、
 真っ先にキャッチして、そしてなによりその感情を抱き締めて認めてあげることなんだと思います。
 嫌いならはっきりとそれが嫌いなのだという自分を自覚して、それを好きにならなければならないという
 あらゆる外的、或いは内的な圧力をはね除けて、嫌い一色に染まっていいし、染まらなければ
 なにも始まらない。
 泣いていいし、泣き叫んでいいし、辛いなら辛いと言っていいし、怒ってもいい。
 それが、素直な感情、そしてその感情というのは、これはひとつの欲望でもありますから、
 嫌いという欲望、辛いという欲望はちゃんと満たしてあげなくちゃいけない。
 何度も言いますけれど、嫌いとおもったら駄目だから、辛くても頑張らなくちゃいけないとか、
 好きにならなくちゃいけないとか、そういう事はむしろ良くない。
 そういう感情をちゃんと引き受けるところからすべては始まります。
 が。
 それだけです。
 嫌いなとか辛いという、紛れもない自分の感情を、本当にちゃんと受け入れることが出来たら、
 同じく紛れもない自分の感情である、好きとか楽しいという感情を発見し認証する事は難しくない。
 いえ、むしろ、嫌いとか辛いという感情は、自分がなにを本当に好きなのかを発見するために必要な
 大切な感情と言えましょう。
 なぜかと言えば、目の前の現実を嫌っているのなら、その目に映る現実以外に自分の好きがあり、
 その好きを元にした世界が欲しいと思っている証しですから、それは、目の前の現実を肯定する
 ために無理矢理嫌いなものを好きになろうとしている、その自分の欺瞞を暴くことにも繋がります。
 目の前の現実を見て、辛い、嫌いだと感じているその自分がいるのなら、それだけでその絶望的な
 世界にも、その利用価値がある。
 絶望的な世界の中で、偽物の笑顔と努力に背を向けて、泣き尽くせば、自分がなにを求めている
 のか、わかる、逆に泣き尽くす事を怖れているからこそ偽物の笑顔と努力に縋る自分に気付く。
 天然で、アホの子を観て、いいわぁと、ほんわかにやにやしながらしている、その天然でアホの子な
 視聴者の、そうしているときのその世界は、紛れも無く、幸せな世界です。
 そしてその幸せな世界を、ひとつひとつ、ゆっくり現実のものとして、自分のものとして増やしていくことを
 実践していけばいい、いえ、増えていけばいいなぁ、と思うことを自分に許せる事の実践、それその
 ものが大事。
 要は、その世界と、そしてその天然でアホな自分を認める事が大事、というより、そうすることが出来る
 のは自分だけなんだ、或いは自分だけにそうする事が許されている権利なんだ、という自覚そのものが、
 その世界の支えとなる、ということですね。
 そしてそれが、より深い自己成長へと繋がっていくのです。
 
 
 
 
 という感じでまとめてみましたが、どうでしょうか。
 上手く自分でも言えていないところもあると思いますが、まぁ、その辺りはお手柔らかにお願いします。
 アニメというのはまぁ、一言で言えば、タイトル通り、自分のためのものだと私は考えていますので、
 そういう意味ではアニメというものを評論的に語る事も、勿論悪いという訳でも無く、それもまた
 ありなのですけれど、まぁ、アニメが持っている、こういう力と言いますか、エネルギーと言いますか、
 そういうものを感じて、それを自分のために使えたりすると、それはお得だと、言うことも出来ますね。
 
 こういう言い方もあれですけれど、アニメ、殊にテレビアニメというのは、誰でも手軽に、そして
 無料で楽しめるものですから(笑)、是非、どんな形でも良いので、みなさん、手を触れてみて
 ください。
 その際に、今回こういうような事を書いていた人間がいるということを、まぁ、ちょろっと思い出して
 頂けると嬉しいです。
 もっとも、その人間の事を思い出す暇も無いくらいに、アニメに夢中になってくださっているのなら、
 それが一番ですけれども。(笑)
 
 
 
 それでは、長々とお付き合い頂きありがとう御座いました、この辺りでお開きとさせて頂きます。
 一応、次回に今回のおまけのようなものを書いてみる予定ですので、よければ、そちらもどうぞ。
 
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 
 
 



 

-- 110308--                    

 

         

                              ■■ とある少年の懺悔 ■■

     
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 青白い窓の向こうに、深くて遠いなにかが染み付いている。
 時計の音色があと二回走ったら、その窓辺の世界が紅く染まる。
 それまで、頬を伝う緩やかな風が、どこまでも流れていくのを眺めている。
 歩き出しても止まらない、もう止まらない、急ぎ足への誘いに必死に耐えている、そんな安らかな
 雲達の青い血飛沫が、次々と薄いガラスに刻み込まれている。
 この青に、僕の動かない手を突き立てたら、割れるのは、どちらだろう。
 この手、痛くないんだ。
 本当だろうか。
 訊く。
 尋ねる。
 誰か、教えてよ。
 僕は、どうしたらいい?
 どうしたら、いいんだよ。
 しんしんと垂れ込める、病室の中の、白く笑う天井の顔に、その答えは次々と描かれていく。
 読み上げたく無い。
 答えはそこにあるというのに。
 読み上げたくない。
 
  それが答えよ
 
 今日も、あの子が来る。
 僕の幼馴染みだと無言で語る、あのお節介な女の子。
 コツ、コツ、コツ・・・・・・・
 止まる
 窓の青に浮かぶ雲と同じように、その靴音が止まる。
 ああ
 雲になりたい
 どうしてあの子は、この病室のドアの前で止まるのだろう。
 どうして僕は、あの子の心の音が聴こえてしまうのだろう。
 僕にわからないと思っているのかな、僕にはなんだってわかってしまうのに。
 僕の事が、好きなんだろう?
 好きだ、って知られたくないんだろう?
 こんな私が、好きなんてとても言えないって、だから・・・
 だから、その想いをひたすら隠して、好きという言葉の代わりに、僕になにくれとなく、してくれるのだろ?
 嫌だな
 嫌だな
 そして僕の時間は止まる
 ドアの向こうの彼女の足音に合わせて、僕の心も閉じていく。
 準備は出来ているよ。
 やぁ、いらっしゃい。
 今日も来てくれたんだね、ありがとう
 
 
 
 
 + +
 
 さやかの横顔に流れる、暖かくて、なにもかもがそこに吸い込まれていきそうな、ぬくもり。
 でもほんのりと、その頬のラインの長さの分だけ、冷たさの香る、優しい距離。
 僕の手には届かない、そのさやかの細くて綺麗な髪が、僕に手を伸ばす。
 僕はただ、その彼女の体達のざわめきを無視して、さやかの言葉だけを饗応する。
 僕のために、いつもありがとう。
 ほんとうに、さやかはいい人だね。
 僕にもなにか出来たらいいのだけれど。
 でもごめんね、僕にはなにも・・
 だから僕は
 涙を零す。
 黄金のグラスに注いでも溢れてしまうほどに、それは夕陽に紅く照らされて、美しく流れていく。
 ごめんね
 ごめんね
 僕の頬を流れていくその言葉を、きっと僕の隣にいてくれるこの女の子は、僕の背に刻まれた、
 僕の真摯な悲しみを使って読み解いてくれるだろう。
 僕の夢、僕の叶わぬ夢、叶っていたはずなのに、叶い続けていくはずだったのに
 僕の腕さえ、止まらなければ。
 ごめんね
 ごめんね
 さやかは僕の黄金の涙を飲み干して、涙の代わりに笑顔を注いで僕に返してくれる。
 ありがとう
 多くは語らない
 語るのは、さやかだけでいい。
 どうか 僕の心を読んで 語ってくれよ さやか
 お願いだ
 僕の悲しいストーリーを
 そして
 どうか
 言わないで
 僕が、そのストーリーに縋りついている事を
 さやかのためにだったら、僕は、いくらでも、この悲しみに、耐えられるから。
 あの空を往く青い雲にだって、負けはしないから。
 
 
 
 ◆
 
 僕はヴァイオリン弾き、だった。
 だった・・・か
 夜の静寂が、僕の過去を羅列していく。
 黙っていると、耳がもげそうになるほどに、僕の動かない腕が疼く
 だった・・・か
 悲しみと、そして
 喜び
 そして
 絶望
 月が哭く
 僕は笑う
 悲しい顔して
 月が
 笑う
 ヴァイオリンが好きだった、上手くなりたかった、だって上手くなるとみんなが褒めてくれるんだ、
 頑張った、僕は頑張ったよ、頑張り続けて、もっと、もっと頑張り続けたくて、頑張らなくてはいけなくて、
 僕は頑張って、僕は頑張った、そして、腕に、大切な怪我を負った。
 もうヴァイオリンは、一生弾けない。
 泣き叫んだ。
 あれは確か、真っ赤な夕陽がとても綺麗な夕暮れだった。
 泣いて、転がって、暴れて、そして泣き尽くして転がり尽くして暴れ尽くして、呆然と倒れ込む。
 それなのに、仰向けに転がって、そこに見えるはずの空には、なにも無かった。
 見下ろせば、そこには、血塗れな影にしがみつく僕がいた。
 泣いて転がって暴れて倒れ込む、その僕の姿が呆然と見えていた。
 ああ 僕は 嬉しいんだな
 僕は、その僕の恐ろしい気付きを隠すためだけに、再び起き上がり、泣いて、転がって、暴れて、
 そして悲しい僕を全力で生き始めた。
 
 −− 悪魔がそして、やってくる
 
 今日も、恐ろしい魔女が、やってくる。
 病室の、あのドアの向こうからやってくる。
 僕を好きだとおもっている、優しくて残酷な女の子がやってくる。
 僕はその子に立ち向かう。
 やってやる。
 僕にはまだヴァイオリンが弾けるんだ。
 弾いてみせるよ。
 だから僕は、僕の動かない手を否定する。
 この手が、この手があるから僕は・・・っ!
 紅い斜陽の向こうに、雲が消えていく。
 
 僕は
 頑張らなくてはいけない
 
 さやかはそれをチェックしに来るんだ。
 僕を励まして、またきっとヴァイオリン弾けるよって、脅迫するんだ。
 僕を抱き締めて、ヴァイオリンが弾けなくても此処にいていいんだよ、と死刑宣告するんだ。
 窓辺に揺れる薄いカーテンが、さらさらと小さな滝のように僕の動かない手に流れ落ちる。
 僕からヴァイオリンを奪うなよ!
 僕にヴァイオリンを弾かせようとするなよ!
 さやかが僕にヴァイオリンの話をするたびに、僕はヴァイオリンを否定する。
 さやかが僕にヴァイオリンの話をしないたびに、僕はヴァイオリン無しの僕を否定する。
 僕にヴァイオリンを弾くことを求めたのは君達じゃないか、僕はもう、ヴァイオリン無しではいられないんだ、
 それなのに僕からヴァイオリンを取り上げようとするなんて、許せない。
 そうして僕は
 今も、ヴァイオリン弾きなんだ。
 ヴァイオリンを弾かなくてはいけない、腕の動かなくなったヴァイオリン弾きなんだ。
 もう嫌だ
 悲しい
 苦しい
 誰か助けてよ
 そう
 僕は
 そういう僕を、全力で生きる。
 悲しい僕を
 ヴァイオリンを弾けない、その事に苦しみ悲しむ僕を
 僕は、死力を尽くして、演じるんだ。
 そうすれば
 悪魔達は
 魔女達は
 さやかは
 僕を認めてくれる
 そんなにまでして、ヴァイオリンを弾きたいと思っているのなら、あなたを認めましょう、って。
 僕は感謝する。
 ありがとう。
 ヴァイオリンを弾けない僕を認めてくれて。
 そして
 絶望する
 ああ
 そのヴァイオリンを弾けない僕は
 またヴァイオリンを弾くと誓うからこそ、ただ認められているだけなんだ、と。
 僕は全力と死力を尽くす。
 ヴァイオリンをまた弾けるようになるために。
 でも
 絶対に
 そうはならない。
 なぜなら僕は
 全力と死力を尽くす振りをしているだけだから
 僕は
 もう嫌だ
 僕はもう
 ヴァイオリンが弾けても弾けなくても、一切関係無く
 生きたい
 僕が僕を取り戻す戦いを、僕はずっとこうして、静かに続けている。
 
 
 
  そしてそれは
 
   僕の腕が治ってしまった事で
 
     やっと  有効になれた戦いだったんだ
 
 
 
 
 きこえたんだ
 
  あの窓の向こうから
 
    僕の ただ僕が一番大好きだった
 
 
     僕のヴァイオリンのメロディーが
 
 
 
 僕はただ
 
 ヴァイオリンが弾きたかっただけなんだ
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 二度と治らないと医者に宣告されていたこの腕が、なぜか、急に治ってしまった時。
 僕は、絶望すら出来無かった。
 どうしよう。
 明日にはまた、さやかがやってくる。
 僕はどう彼女と戦ったらいいんだろう。
 窓の外をしどけなく見遣れば、そこには僕がヴァイオリンを習う前の空が、ぽっかりと落ちていた。
 手を伸ばせば届いてしまう、その青空を拾い上げて、僕は今度こそ、呆然とする。
 絶望って、なんだろう?
 この無垢な青い空を拾い上げたのは、かつて血塗れになってヴァイオリンを弾き続け、そして遂に
 動かなくなった、あの恐ろしい僕の手だった。
 この手が・・・・この手があったから・・・・・僕のあの大切な青空は、紅く染まったんじゃ無いんだ・・
 このヴァイオリンを弾く手があったからこそ、僕はヴァイオリン無しの人生を生きなくてはならなくなって
 しまったとずっと思い続けていたけれど・・・・そうして僕はこの僕の手を、動かなくなってもなお・・・
 ずっと・・・痛め続けていて・・・・
 違うんだ・・・違ったんだよ・・・・
 この手の・・・・ううん・・・・・僕のせいなんかじゃ・・・・無かったんだよ
 僕はただ、色々なことが重なって、どうしようもないままに、ヴァイオリン無しの人生に放り込まれて
 しまったんだ。
 それは、必然だったんだ。
 そして僕は、僕のこの手は・・・・・・
 僕を、そこから、救おうとしたんだ。
 この手が僕を地獄に突き落としたんじゃ無い、この手が、僕をその地獄から助けだそうとして・・・
 僕は、なにも悪くなんか、無かったんだ。
 それは・・・僕が悪いって・・・だからその僕を正すから誰か認めてよと・・・
 そう思ってしまう、その僕の性質を含めてのことだったんだ。
 僕の手は・・・・・僕は・・・・・・その僕の性質の中から抜けだそうとして、その性質の中で・・・・
 ずっと・・・ずっと戦って・・・・生き抜いてきたんだ・・
 ただただ
 いつかきっと、僕の好きなことをするために
 僕は、ヴァイオリンが好きなんだよ。
 その好きなヴァイオリンが弾けなくなった事だけが、どうしようも無く、悲しかったんだよ。
 それなのに、僕は。
 僕が、僕自身で自分を認めることが出来無いばかりに
 
 
 ああ
 僕は
 この僕の手を
 僕を救おうとしてくれた この手を
 もう一度
 誰のものでも無い
 僕だけのヴァイオリンを、僕がまた弾けるようにと、必死に生き延びてきた、この手を
 何度
 一体何度
 傷付けただろうか
 
 
   そして
 
     僕は
 
 
        その僕に
 
        その僕と
        その僕の右手に
 
 
 
        伸ばしてくれた
 
                  あの子の手を 
                              一体何度 残酷に叩き潰したのだろうか
 
 
 
 
 
 
 
 − −
 
 僕は、さやかが好き、なのだろうか?
 ふと、明日には外すことの出来る、この包帯でぐるぐる巻きの僕の手を見つめる。
 僕は、僕が嫌いなのだろうか?
 あっさりと、その答えは、僕の頭上から、まだ解いていない問題集の山のようにしてどしゃりと降ってきた。
 あんたはあんたが大嫌い、そんなの当たり前でしょ。
 じゃあ、僕のこの想いは、なんなのだろうか。
 僕は今、この僕の傷の癒えた手を、慈しみたい想いで一杯なんだ。
 もう一度ヴァイオリンを弾きたい、ううん、また弾けるんだ、って。
 そしてそれは、演技でも無ければ、嘘でも無い。
 なによりそれは、誰かに示すべき、認めて貰うべき想いでは無かった。
 窓の向こうの青は空に吸い込まれ、その空の青は、その空の重みのまま、僕の瞳に飛び込んできた。
 僕の目の前は、透き通るような、そしてどこまでも広がる、満天の青空色に染まったんだ。
 この色鮮やかで、抱き締めたら弾けてしまいそうな音色は、僕の、僕こその、ヴァイオリンの世界なんだ!
 僕は、この僕の世界が、いや、僕が好きなのだろうか?
 怒鳴りつけられた。
 あんた、次そんなこと訊いたら、引っぱたくかんね!
 じゃあ、僕は、さやかの事が嫌い?
 引っぱたかれた。
 それはあんたが、一番知ってるでしょっ?
 そう言いつつ、その白い天井は、あっさりと答えをずらずらとその真っ白な顔に刻み込んでいた。
 僕は
 それを
 今度こそ
 読んだ
 
  
  僕はさやかが大嫌い
 
  僕はさやかが大好き
 
 
 僕は僕の気持ちがわからなかった。
 いや、僕は僕の気持ちをわかりたくなかった。
 だから。
 僕は、さやかの気持ちを読んだんだ。
 僕にはさやかの気持ちが手に取るようにわかった。
 わからない事など、なにひとつ無くなっていた。
 そして、だから。
 僕は、饒舌に、しかし決して音を出さずに、さやかに攻撃を加えたんだ。
 おまえなんて、大嫌いだ!!
 さやかが僕になにくれとなくしてくれるのは、僕にまた無理矢理ヴァイオリンを弾かせようとするからだ。
 さやかが僕を好きと想うのは、さやかが僕に好きになって貰いたいからだ。
 そういうさやかの事が僕は大嫌いなんだ!!
 攻撃。
 それはまさに、攻撃だったんだよ。
 そしてね、僕の白い天井は、つまらなさそうに、いつも僕に言葉を放り投げてきていたんだよ。
 つかあんた、それ全部、あんたの事だよね?
 そう、僕は、自分の嫌なところを全部さやかに見ていたんだね。
 とっても幼稚な行いさ。
 僕は、自分の嫌いなところを責める事が出来ないから、さやかに僕と同じようなところを見つけて、
 そしてそこを責めたんだ。
 恥ずかしさと惨めさで、一杯だった。
 でも・・
  そのとき
  やっと気付いたんだ
 
  白い天井が、そんな幼稚な振る舞いをして恥ずかしさと惨めさで一杯になっている僕を
  真剣に、見つめている、ということに。
 
 僕は、いつもの僕を以て、その眼差しを饗応してみた。
 そうだよね、僕はそんな情けない事をやっていたんだね、ごめんよ、僕はだから今度こそ、
 自分で自分の嫌いなところを見つめて、直して頑張っていくよ。
 その僕の言葉が終わらないうちに、その白い天井に、たったひとつの。
 そして
 巨大な言葉が顕れ
 僕に突きつけられた
 
 
  + あんた、自分を信じる気は、無いわけ? +
 
 
 ああ
 そうだ
 そうなんだ
 僕は・・
 僕を、責めることが出来無かったんだ。
 なぜなら、僕はその僕の嫌いなところを、ずっと正しい事と信じて、そしてずっとそれに従い、
 それに縋り、それに囚われ、そしてその中で生きる事に自信を持っていたからだ。
 僕にとって、それは嫌いなところでは無く、好きであらねばならないものだったんだ。
 僕は、好きなんだよ、好きって言わなきゃいけなかったんだよ、その僕のことを。
 だから。
 僕は
 さやかに託した
 さやかの、僕が本当に、嫌いな部分に。
 僕の、本当に嫌いという気持ちを、託したんだ。
 僕の、さやかの嫌いな部分は、僕が好きにならなければならなかった、僕の嫌いな部分。
 僕にはどうしても、その僕の本当に嫌いな部分を嫌うことが出来無かった。
 でも、嫌わなくちゃ。
 嫌って、いいんだ。
 だから僕は、まずなにかを嫌う、という行為の実績を得ようとしたんだ。
 そして僕の嫌うその対象は、僕が嫌いな部分とそっくり同じものであるのが望ましい。
 だから僕は、さやかを嫌った。
 嫌うという、訓練をしたんだ。
 僕を、嫌うために。
 僕が、好きにならなければならなかった、その僕を、嫌うために。
 幼稚? 恥ずかしい?みじめ? 情けない?
 はん、そう思ってる時点で、それ、もう既にその思考自体があんたが好きにならなければならなかった
 っていう、あんたがほんとに嫌いなあんたの論理そのものじゃんか。
 突きつけられる。
 現実を。
 僕が、ちゃんと生きようとしていたという、現実を。
 幼稚でも無く、恥ずかしくも無く、みじめでも無く、情けなくも無い。
 自分の気持ちと再接続を果たすために、そのための道をひとつも飛ばすこと無く、逃げる事無く、
 着実に歩み続けている僕の姿を。
 僕は
 ただ
 僕に押しつけられた僕を、はっきりと、嫌いと言えるようになりたかった。
 そのために、頑張り続けていた。
 そして。
 それは
 僕が、本当に好きなものを、好きと言えるようになりたかったからなんだ。
 
 僕は
 僕が、好きなんだ
 ヴァイオリンを弾き続ける事でしか自分を認められない、その自分に嫌いと言えるようになりたいと、
 そう思える僕が好きなんだ。
 そしてなにより。
 ヴァイオリンを素直に、そして幸せに弾ける、その僕が大好きなんだ。
 
 
 だから僕は。
 さやかが、好き。
 だって、ほんとはさやかは僕を、みんなに認められないヴァイオリン弾きでも好きって想ってくれてるんだ。
 それはつまり、僕の気持ちだ。
 僕は、誰かの認証無しで、僕のことを好きになりたい。
 そして僕は、ヴァイオリン無しでも僕のことを好きになりたい。
 ううん、初めからその僕の事を好きだった、その僕の気持ちを取り戻したい。
 さやかの、僕を好きだって想いが、僕の、僕を好きだって想いに、僕を向き合わせてくれたんだ。
 僕を好きだと想ってくれるさやかの事が、僕は好き。
 じゃあ、僕は?
 僕は、さやかのこと、好きって想う?
 さやかを好きだと想う僕の事を、さやかは好きなのかな?
 僕はまだ・・・
 そうだと、思う。
 思ってしまう。
 さやかを見てると、僕に好きって想って貰いたいがゆえに、僕に愛して貰いたいがゆえに、
 僕に好きって気持ちを向けてる気がしてしまうんだ。
 だからそれは、今の僕の気持ちを、反映してる。
 僕はまだ、僕の事を好きだと想ってくれるからこそ、さやかを好きだとしか思えていない。
 さやかが僕を好きだと想ってくれなくなったら、きっと僕はさやかを好きだという自分の気持ちを否定して
 しまう。
 
 それじゃあまだまだ、ヴァイオリンが弾けたからこそ自分を好きだと言えた今までの僕と、おんなじだ。
 
 僕がさやかを好きなのは、さやかに、僕の事が好きという気持ちがあるからこそのもの。
 それは、うん、そうだね、そのさやかへの僕の好きという気持ちは、僕の気持ちじゃ無いんだ。
 それは、さやかの気持ちなんだ。
 その僕の気持ちは、さやかの気持ちをコピーしたものにしか過ぎないんだ。
 僕は、さやかに好きって想われたから、さやかの事を好きって思うのか?
 違うんだ。
 さやかの気持ちは、関係無い。
 でも
 僕は
 
 さやかが好きだ
 
  さやかが僕の事を好きって想ってくれるからじゃ無い
 
  さやかが
 
   僕のために 色々と 一生懸命にしてくれたこと
 
   僕は とっても   本当は嬉しかったんだ
 
   それが、さやかの僕が好きという気持ちから行われた事かどうかは関係無い
 
   僕は嬉しかった
 
 
   僕は 
 
    さやかの吸い込まれそうな横顔が好きだ
 
    さやかの頬が心地良く僕の頬に触れる距離が好きだ
 
    さやかの髪先が僕に必死に手を伸ばそうとするその色彩が好きだ
 
 
 
 
 だから
 ごめん
 今まで、ごめんな、さやか。
 そしてたぶん。
 今の君の好きと、僕の好きは
 違う。
 だから、僕は、僕のさやかが好きという気持ちを、大切にすることが出来るんだね。
 そして、さやか。
 僕を、好きって想ってくれて、ありがとね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ◆◆◆◆
 
 はい、如何でしたでしょうか。
 これは、アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の登場人物、上条恭介という少年を私なりに描いて
 みたものです。
 わかりやすく言えばSSです。
 これを書いた動機は、ウチのBBS「夢之語リ部」に投稿された、一連のまどマギのSSに、私が
 どうしようも無く触発されたからです。
 ・・・。
 触発されるにも程があるだろ、なんかあの書き込みがあったときから、ほとんどずっと時間あるときは
 なんか書いてるぞ私、だいじょうぶか私、だいじょうぶだよ、きっと。 (ひくひくしながら微笑)
 
 とまぁ、完全完璧にノリと勢いとあとなんだっけのままに書き連ねてしまったものですから、
 色々と消化不良を起こして、書いてるうちに、えっと私なに書きたかったんだっけ?、と、四回くらい
 首をひねりながらも、言葉をひねり出したりひねり出してるうちにノってきたりとかして、ええ、はい、うん。
 
 もうすこしがんばりましょう。 (はいがんばります)
 
 まぁ、ぶっちゃけて言うと、ほんとはなんていうか、まどマギの女の子達に滅茶苦茶シンクロしてしまった
 ものだから、なんていうか、彼女達に対するひとつの指針、というか回答?、違うな、なんていうか、
 彼女達が自分達で認識している自分達の事の、その向こうにほんとは彼女達の問題は隠れている、
 っていうか、彼女達の認識している問題が、必ずしも問題とは限らない、というか、つまり。
 そういうものを、別のキャラ、最初はBBSで杏子さんで私はすっかりハッスルを決めてしまったので、
 じゃあその親父さんを描いて、彼女が親父さんから継承した問題を、親父さん自身はどう受け止め、
 どう戦っていったのかを描こうとしたんですけど、ぶっちゃけなんか今回は舞台設定をしてみたくて、
 じゃあ教会か、教会?、ん?、私教会ってどんなか知らないぞ、という致命的な欠陥に気付いて、
 急遽上条君の登板が決定したという次第なので御座います。
 
 つまりまぁその、上条君が自分のなにかを解決していくプロセスを以て、私は彼女達を救いたかった
 んだよ!、だって救いたいじゃんか!、みたいな、ああもう、あんたも相当やな、っていうか、ああもう。
 そういう自分を認識する事が出来るのが、ひとつ、私にとって大切なことなのですよ。
 むしろ私を救いたい。 (ぇー)
 ていうか、救うって言うのは語弊がありますね、ただ私は私の感じるままに書いただけですので、
 ただ感じるままに書いて気持ち良くなりたかったの!(語弊ありすぎだろそれ)
 私の大切なものって、なんだろな。
 ま、そういうことです。
 まどマギ万歳! (やけっぱち)
 
 
 
 
 
 
 
 



 

-- 110305--                    

 

         

                              ■■ 狼原作本編終了 ■■

     
 
 
 
 
 数年ぶりに花粉症が発症したり、三月だというのに真冬並な寒さに震えたりで、
 自然の脅威にさらされている今日この頃の私です、ごきげんよう。
 
 
 ということで、なんか今日はやる気ありません。 ということなの?
 というか、なんかこう、刀語の感想で結構きちっと書こうとか少しだけ意識して書いてたりしたら、
 案の定その反動ですっかり今回辺りはだらけてしまって、というかだらけようそうしようという話になり、
 まぁ、ほんと、今回はだらだらと思いつくままに思いつかぬままに書いていこうと思います。
 
 さてはて、まぁ、うん。
 今日は適当になんというか、まぁ、ニュースというか、まぁアニメの話ばかりですけれど、
 そういうものにひとつずつコメントしていこうかなぁ、なぁ?、みたいなところでやっていきます、
 やっていけるかな?
 

 
 まずは、コレから。
 
 映画けいおん! 2011.12.3(sat.) ROADSHOW:
 
 ひ ゃ っ ほ ー い 。
 うん、このトップ絵の唯ちゃん達みたく、私も小さくジャンプジャンプで御座います。
 といっても、たんに劇場版の公開日が決まったヨ、というさりげなくかつ澄まし顔なお知らせなので、
 ん?澄まし顔ってなんだ?、でまぁそんなにはしゃぐ事でも無いのですけれどひゃっほーい。
 仕方ない、これはけいおんファン的には仕方ない、箸が転んでもけいおんファン的には仕方ない。
 もう色んなポーズで飛び上がりたい、というかむしろもうなんでもいいんだ、けいおんなら、
 けいおんがなにかするたびにそれを口実にしてけいおん的に盛り上がりたいのさ!
 
 というか、というかあなたすっかり「というか」というのが口癖として定番になりつつありますな、
 いやこれ口癖っていうか話の脈絡考えずに適当に思いついた端から喋るために便利なだけなんじゃ?、
 あそっかそうだね、というか、まぁそのけいおんなんですよ、言うに事欠いたらけいおんって言って
 おけばいいんです。
 けいおんで、ひゃっほーい。
 子供なのか?、私子供なのか?
 むしろアホの子? アホの子なのか?
 いいねそれ、採用、頂きます、どんどんアホの子になればいい、なるがいいさ、わはは。
 けいおんで、ひゃっほーい。
 ・・・。
 今ね、なんて書こうか考えているのね、その時間稼ぎのためにひゃっほーいとか言ってんのね、
 あ、アホなのは事実だけどね、精神年齢は永遠の五歳児ですけどね、つまりね、あ、なに書こうか
 考えがまとまったようですね、ええとね、ひゃっほーい。
 
 要するに、はしゃぎたい。
 
 はしゃぎたいっていうか、はしゃぐことが目的って訳じゃ無くて、なんかこう、けいおんがなにかやってくれる
 と、それだけで胸がむずむずーっとしてきて、その結果はしゃがざるを得なくなってくるっていうか、
 ひゃっほーいっていうか、ねぇせめてひゃっほーい以外のはしゃぎ方もしてみようよあなた、っていうか、
 ていうか。
 
 そんなに大したニュースでは無い。 (はい、落ち着きます)
 
 でも、このニュースはどう受け止めていいのか、よくわからないのだけれども。
 けいおんが受賞するのはわかるけど、唯ちゃんて。 中の人が唯ちゃん役で受賞て。
 そういう方向に凄かったっけ?、唯ちゃんて。 (どの方向?)
 
 
 次。
 
 
 侵略!イカ娘」 TVアニメ第2期決定!:
 
 ひ ゃ っ ほ ー い で ゲ ソ 。
 うん、このトップ絵のイカちゃんみたく、私もキラキラで御座います。
 といっても、たんに第二期が決まったヨ、というさりげなくかつ澄まし顔なお知らせなので、って
 今 な ん て 言 っ た ? 
 第二期?
 
 マ ジ で ? (マジです)
 
 早い、それが第一印象で御座る、え、もう?、そりゃあ第二期こいこいと第一期が終わっても
 いない頃から言ってましたけどさ私、え、もう?(二回目)
 もっとも、放送開始日は決まった訳では無いみたいですので、案外普通に1、2年後とかかも
 しれませんけれどね、うん、でもあまりに発表自体が早すぎて、少々拍子抜けっていうか、
 事の大きさ(私基準)に比べて実感がなさ過ぎるっていうか、え、もう?(三回目)
 それによっちゃんイカとかのコラボもやってるみたいだけど、なんかイカちゃんはそういうんじゃないんだよ、
 なんか違うんだよ、悪いって訳じゃないけど、そうじゃないだろー、もっと他のところでさ、力入れようよ、
 その、私もどうしたらいいのかわからないんだけどさ、たとえばさ、DVDのみ収録のエピをテレビでも
 放送するとかさ、そういうさ、ね、ほら、ね?
 ・・・・つまり、私的には、イカちゃんはまだ観足りないというか、第二期前提な感じというか、
 だからそんなのはよっちゃんイカ程度では誤魔化されんのだうはは、とかいう感じで、にも関わらず
 じゃあいざ第二期やるよとか言われたら、え、ちょっと待ってまだ心の準備が、みたいな感じで、
 つい逃げてしまって、その逃げ先にあるのがよっちゃんイカってどうよ、となるとあとはDVD収録の
 ミニイカ娘に逃げるしか無いんだけどそれはDVDのみ収録でああもうだからDVDは嫌なんだ!、
 みたいな。
 ・・・・。
 たぶん私も、イカちゃんとガチで良い勝負が出来る気がします。 (精神年齢的に)
 
 
 次。
 
 
 「夏目友人帳」 TVアニメ第三期放送決定!:
 
 ひゃっほ・・・・・・というほどでも無く、割と静かに受け入れ完了。
 そうですか、第三期ですか、わかりました、お付き合いさせて頂きます。
 そんな感じ。
 もうなんか、年季の入った夫婦水入らずな関係ですね、あうんの呼吸ですね。
 ま、でもなんか、ある意味倦怠期でもあるっていうか、たぶん今再放送かなにかで同じ内容観ても、
 あんまし観る気起きないっていうか、だから逆に新しい話、すなわち第三期を観たらどう感じるだろか、
 という事には興味あるけれど、逆にどうしても観たい今すぐみたい、という切実さは無い、というところ。
 ・・・・ちょっとあんた、随分夏目だけ反応が違うんじゃないの?、あんたほんとにこの作品好きなの?
 、ふふ、まだまだ青いな、なにもひゃっほーいとはしゃぐだけが愛では無いということなのだよひゃっほーい。
 ・・・・。
 嘘は良くないよ。 (ごめんなさい)
 
 
 次。
 
 
 
 
 「狼と香辛料」 ついに本編感動のフィナーレ!!:
 
 
 ・・・。
 うん。
 ・・・。
 まぁ、ね。
 
 ・・・・・。
 
 胸が痛い。
 というか、ずん、ってくる。
 本編終了って、原作?、原作小説のこと?
 いやいやその前に、終了って。
 
 狼って、終わるものなの? (ぷるぷる震えながら微笑)
 
 ・・・・。
 終わらない、って思ってた。
 うん、私はご存じ、アニメ版限定の狼と香辛料ファンっていうかオタクっていうか愛してるっていうか、
 そういう感じですけどさ、だからずっとずっと第三期があるって信じてて。
 そうして信じて待っている間にも、原作小説の方はひとつ、またひとつと巻を重ねていって。
 私は小説は読んでないし、だって私が好きなのはアニメだもの、まだアニメ化されて無い話を
 先に小説で読むのはやだもん、うん、小説自体には実はすごく興味あるのだけどね、まず第一に
 ネタバレ怖いっていうか、まず最初にアニメで感動を味わいたいっていうか、小説で先にそれ味
 わっちゃうとアニメのそれが無くなっちゃうしネタバレやだし、それに、もっと言うと、小説自体を読むのが
 怖いっていうか、ほら、アニメ版って結構その、心理描写というか内面描写を台詞でしないじゃない?、
 あれはさ、会話劇とはいえ、その会話の言葉の中身と、その言葉を発するキャラの内面との違いとか、
 その狭間にあるものが肝な訳で、はったり上等な訳で、だから、その内面とか心理とか、
 あと孤独の感覚とかそういうのは全く言語化されていないからこそ、それがすべて視聴者に委ねられて
 いて、だから私も自由奔放に、遠慮会釈無しに感想を綴って、それこそ自分の「狼」を深めて
 いった訳なのだけれども、それがさ。
 それが、そういう「狼」がさ、記述されるっていうか言語化されてしまうっていうのは、怖い。
 ライトノベルだし(偏見)、その辺りはきっとずらずらと語り倒してしまったりその語りが稚拙だったりする
 可能性が高いし、まぁアニメ同様その辺りを一切語らずに行間や他の描写で描き出すというのなら
 興味あるけど、まぁうん、マリみての前例もあるし、ほんと怖くって。
 正直に言うと、ほんと怖い。
 
 でもね、だからこそ、というか。
 小説が、それでも小説として、他人の手によって、いやいや、なにより狼を生み出した原作者さん
 その人の手によって続いていてくれるという事、それがね、とても大切な事だったのよ。
 私がどう思おうとどう悩もうとどうたわけであろうとどう転がろうと、それでも狼の旅は続いている、
 それが、それがなによりな事で。
 いつか私も小説が読めるような境地になれるかもしれないし、なれないままそれでも済むような境地に
 なれるかもしれないし、そういう私と狼とのおかしくて嬉しい物語が続いている事を、なによりも
 強力に、そして確かに支えていたのが。
 他ならない、原作小説が書き続けられていたことだったんよ。
 それが、終わっちゃうなんて。
 めりっ
 ヒビが入る。
 私が読もうと読まざるとも、小説が終わってしまうなんて、リアルタイムな狼が終わってしまうなんて。
 いやいやいや。
 そういう事じゃない。
 
 もっとこう、気持ち的に、こう、ぐわーって
 
 あの公式サイトのトップ絵の、あれ最終巻の表紙絵なんだけどさ、あの笑顔。
 あのホロの笑顔がさ・・・・・・もう・・・さ・・・
 なんだろ・・・私が狼と香辛料を愛してるのは・・・
 この、このホロの笑顔を求めてのことなんよ
 ホロが、あのホロが、この笑顔に到達すること、それを願ってやまず、そしてその笑顔にホロが到達する
 ためにこそ、ホロとロレンスの旅があった。
 そしてホロが・・・・・あんな・・・・・あんな心からの笑顔で・・・・
 正直に言います。
 私は、そのホロの笑顔に、その瞬間に、立ち会いたかった。
 ほんとなら、原作小説の最終巻が出た、その日のうちに読んで、ホロに出会いたかった。
 すごいよねぇ、ほんと、リアルタイムっていうか、現実の時間とそれが繋がってるっていうか・・
 だからね、これまた正直いうと、あの笑顔をトップ絵で見た瞬間に、私はこれまで原作小説を
 読んでこなかった事を、最終巻の発売までに、ホロの旅の軌跡をなぞり終える事が出来なかったことを、
 とても・・・とーっても、後悔してる。
 だって、私の中のホロは、まだアニメ第二期の終了の時点のそれで、原作でいうと、まだほんと最初の
 方の巻、ホロとロレンスの旅の道のり的にも、まだまだ始まったばかりで止まっていて。
 くやしい。
 原作が終わらずに巻を重ねていってくれている事は、確かにほんとに嬉しくて安心もしていたけれど、
 その分、私が置いていかれるという感覚もあって、焦りもあって。
 でもこれまではその焦りだけで済んでいたからまだ良かったのであって、それが、原作終了という形で、
 置いていかれるどころか、もう向こうはゴールしてしまって、レース自体が終わってしまって。
 私がレースに参加している、私が狼と共に歩んでいる旅自体に意味が無くなってしまったように
 感じられてしまって。
 今私の頭の中にあるのは、強烈なアニメ版第三期への渇望と、けれどその渇望が満たされても
 もう遅い、という、薄い、けれどどうしようもない絶望感がしみじみと広がっていて。
 
 ああ 苦しい
 もう 苦しい
 
 ぎゃー
 わっちの胸の中の狼がじたばたと転がっているんす。
 くるしくてくやしくて、ああもう、ああもう!
 正直に、すっぱりと、白状します、私は苦しい!
 なぜ、苦しい?
 うーん。
 なんだろなぁ、私ね、ほんとに狼のこと愛しているんよ、すっげー愛してる。
 だからね、たぶんね、狼のこと全部知りたくて、全部手に入れたくて、全部所有したいのよ。
 だからほら、グッズとか買い集めまくったし、そうだよねぇ、アニメのグッズをここまで堂々と買って集めて
 るのは、狼だけだものねぇ、私の狼への愛は、なんていうか、狼を全部私のものにしたい、ってとこから
 始まってるし、だからね、私さっき原作小説には正直実は興味あるっていうのもね、それは小説の
 中身についてもそうだけど、それよりも、あの原作小説の本、そう、本というモノが欲しいのね、
 むしろグッズ的な意味で、あの原作絵もアニメ絵とは別腹でかなり好みだし、ま、そういう意味では、
 小説の中身は読んでないからわからないけど、その「小説の文字」というモノ自体が欲しい、というか、
 変な意味で言えば、狼の公式言語が欲しい、みたいな?、そういうのもあるんよね。
 でもさ。
 私、なんでそんなに、「モノ」を欲しがるのだろ?
 や、その欲求そのものを否定するつもりは無いし、むしろそれはそれで推奨なのだけれどさ、
 うん、私ってば、もしかして、私の、私だけの「狼」に、それだけじゃ自信が無いのと違う?
 なんていうかね、私の「狼」、すなわち、私が解釈して感じて考えてそして書いた、その「狼と香辛料」
 への愛を、それを補強してかつリアル的に支えて貰いたいがために、グッズとかおまけに原作小説の
 言語自体もモノとして欲しがるのじゃなかろうか?
 うん、たぶんね、私が原作小説の、その中身を読まないのはさ、実は、その原作の中身、
 すなわち原作者たる支倉凍沙自身の「狼」、そして「狼と香辛料」と張り合ってるからだと思う。
 張り合うために、飲み込まれないために、公式がなんぼのもんじゃいと言うために、私は私の
 狼ワールドの枠組みを、グッズを買ったりイベントにいくとかそういう形で広げていっているんじゃないかな。
 
 それきっと、他のファンの人が書く二次小説とか感想とかにだったら、
 私には絶対に起き得ない張り合いだよね。
 まさに公式コンプレックス。
 
 私さ、じゃあその、私が感じてる今の苦しみや悔しさを解消するために、今から原作小説を買って
 読んでみる?、そんなことするの?、私。
 ぶっちゃけ、私、そうしようかとも思ったよ、ここはなんか我慢して、頑張って、小説買おうよ、読もうよ、
 みたいなノリで。
 うーん。
 それ、きっと、やったらたぶん、私。
 なにか、違ってしまう気がする。
 たぶん、私の狼への愛の、その本当の価値が、変わってしまう気がする。
 うん・・
 自信無いんだよ、私は、だから、じっとしていられないんだね。
 ぶっちゃけ、私の狼は私の狼で、支倉さんの狼は支倉さんの狼、なんだよね。
 だから私は、私の狼への愛そのままに、ただその愛のままに、グッズなりなんなりを買えばいいのだし、
 アニメ版が好きだから、ネタバレやだから小説はまだ読まない、っていうのが、それが一番良いことだと
 思うし、それはある程度私も出来てることだと思う。
 けど、たとえばさ、アニメ化されている話までの、原作小説の巻はなぜ読まないのだろ?
 読めばいいじゃん、だってあんたの狼はあんたの狼なんだろ?、なら、原作小説の狼は、原作者の
 狼としてちゃんと線引きをして読めばいいんじゃん。
 それが出来無いのは愛ゆえに、それが人間ってものだ?、とかいうな誤魔化すなよ、ぬし。
 なぜ、出来無いのか。
 それはだから、自分の狼に自信が無いから。
 はっきり言おう。
 
 ぬしの、わっちへの愛は、その程度のものなのかやっ?
 
 うん。
 たとえばロレンスがワイズと、ホロに高値を付け合って奪い合うとして、だ。
 そりゃあロレンスは、ホロがワイズに取られる訳にはいかないから、意地でも大金を積むでしょ?
 無論ワイズだって、口だけでは無いことを示すためにも、意地でも金を積み上げるでしょ?
 で。
 負けたら?
 ロレンスにしろ、ワイズにしろ、勝負すれば勝者と敗者が出るでしょ?
 じゃあ、ロレンスが負けたとして、それでロレンスはしゅんとなって、負けた以上、潔く俺は去るよ、
 などとたわけな事をぬかした日には。
 
 ホロさんの右ストレートが乱れ飛びますね。 (うんうん)
 
 ホロさんだったら、自分で勝負を煽っておきながら、間違いなく胸倉掴んで殴り倒しますよ、絶対。
 私だって殴る。
 勝負と愛は、全然別物。
 勝ち負けは、それこそ語弊を怖れずに言えば、ロレンスとワイズの、ホロへの愛の重さを量り合う
 だけの話で、愛を金に見立てただけの話で。
 ロレンスの金という名の愛が、ワイズのそれより軽かったとしたら、それが一体、どうだっていうんでしょう?
 ホロへの愛は、いつから相対的なものになったの?
 ホロへの愛は、絶対的なものでしょうに。
 うん、殴るね、ホロさんなら、ワイズよりホロへの愛が軽かったことにしょげて、自分のホロへの愛そのもの
 を否定しようとするたわけなロレンスさんを、間違い無く、殴るね。
 ていうかそもそもそれ以前に、その愛の軽重は金で計ったものにしか過ぎないし、それはたとえば、
 ホロへの想いを謳い合い、その上手さ下手さでホロへの愛の重さを比べる、というのと同じでしょ?
 ぶっちゃけ、じゃあ、もっと言えば、私がホロを綴った文章が、支倉凍砂の文章より下手だったら、
 私は支倉凍砂よりもホロを愛していない、ってことになるの?
 
 ・・・・。
 まぁ、私なら、ホロさんにぶっ飛ばされたいがために、敢えてぬけぬけとそう言うこともあり得ますが(ぉぃ)
 
 そして、逆に言えば、私が原作者よりも素晴らしい文章が書けたら、私の方が狼と香辛料を愛してる、
 って、そう言えるかい?
 笑っちゃうよね。
 でもね、私はたぶん、愛と、それとなにか、をごっちゃにしてる。
 私はね、たぶん、誰よりもなによりも、狼と香辛料のことを知っていて、理解していて、そして、
 それをなにより深く表現出来る、と言えるようになりたい、という願望を持ってて、それを私の狼への
 愛とごっちゃ、というか結びつけてしまっていると思うんだよね。
 ぶっちゃけさ、あんた、アホだよ。 (そうですね、はい)
 そもそもそれ、じゃあさ、私が誰よりもなによりも、原作者よりも、狼と香辛料のことを知っていて
 理解していてなによりそれを深く表現出来るとしたら、それが、私の狼への愛が誰よりも原作者より
 も深いって事になるの?
 いえいえ、それ以前に、そういう相対的な愛の深さ浅さと、絶対的な私自身の狼への愛は、
 関係があるの?無いの?
 
 無いわ! このたわけがっ!
 
 そしてね、絶対的なロレンスのホロへの愛があろうと無かろうと。
 ホロが、ロレンスとワイズのどちらを愛するかどうかは、全然別問題。
 そりゃ私も同じだよね。
 ロレンスも私も、ホロの気持ちを操作する事は出来無いし、ホロの選択の責任を負うべきでもない。
 それと同じで、私は狼と香辛料という作品への自分の愛の、その責任を負うだけでいい。
 ロレンスがホロに振られようが、それでロレンスのホロへの愛が無くなるというのなら、そのロレンスの
 愛は金の重さや歌の上手い下手と同じ相対的なものであることを証してしまう。
 ま、そりゃ振られるわな。(ぇー)
 そして私も、自分の苦しさや悔しさから原作小説に手を伸ばすというのなら、それはまったく、
 自分自身の狼への愛を全うすることが出来ていないことを証すんだよね。
 そりゃ振られるよ、私の中の狼に。
 それを、薄々察知しているからこそ、まぁ落ち着けと、そういう便利な心理的機能が私の中に
 発生してきて、だいぶこの頃、落ち着いて参りました。
 このニュース知ったのは一週間くらい前だけど、そのときはほんとうに、死ぬかと思った。(ちょw)
 
 まぁ、つまりね、うん、わたしゃ原作が終わろうと終わらなかろうと、それに動ずる事無く、いえいえ、
 動じながらも、ていうかむしろ動じろ(命令形)、そうしながらも、その中で改めて、私の、私だけに
 しかない狼への愛を再認識して、その愛のままにこそ、ただまた、狼と向き合っていけばいいし、
 グッズとかも買えばいいと思う。
 ・・・うん、この間、某アニメイトに行ってきたものね、ただ原作小説の最終巻の表紙絵を見るため
 だけにね、リアルなものとして確認してきたからね、まったくもう、なんだかとっても、嬉しかったよ、
 でも最終巻発売記念にグッズも新発売とかないかのぅ、という下心満載な私の夢を見事に
 打ち砕いてくれるほどになにも無かったですけどね、無かったですけどね。 (がっくり)
 
 
 って、なんかごちゃごちゃしてわかりにくくなってしまったので整理すると、んー、これまたたとえばね、
 好きな人がいて、その人の事がめっちゃ好きで、まぁ好きだからその人のために頑張ったりとか、
 プレゼントを贈ったりとかしてさ、でも、じゃあ、その人のために頑張るのは、プレゼントを贈るのはさ、
 その人に、自分の事を好き、って言って貰うためにしている事なのかね?、その人が誰かを好きという
 気持ちを操作するために、そういう事ってするのかね?
 じゃもし、そういう色んなこといっしょけんめいしたのに、あっさり振られたら、腹が立ったり、もしくは
 やってられないとかさらには裏切られたとか思うの?
 それ、おかしいですよね。
 それって、その人の自分への愛を買おうとしてるじゃん?
 自分の、その人への愛を顕すためにしてる事では、実は無いじゃん?
 その人の事好きだから、好きで好きでしょうがないから、ただその自分のその人への愛のためだけに、
 その人のためになにかしたりプレゼントしたりするのでしょう?
 いわばそれは、自分の愛の結果、みたいなもので。
 あの人の事が好きで好きで堪らないなぁ、という想いそのものが自然に具現化した、っていうか。
 
 端的にいえば
 愛ってさ
 好きな人に自分のその人への愛を認めて貰うことじゃ無くて。
 自分のその人への愛を自分で認める事、なのじゃないかな。
 
 だから好きな人がプレゼントとかもうやめてと言われても、それでその人への愛が消える訳じゃ無い
 から、だから普通にプレゼントするのはやめるだろけど、もしそれでプレゼントであろうとそれ以外の
 なにかであろうとその人へのアプローチを続けるのなら、それはきっと、その人に自分の愛を認めて
 欲しい、認めて欲しいがゆえにしている事、なんだとおもう。
 それは、ストーカーみたいなもの、だよね。
 自分でその人への愛を認めて、またその愛という感情をキャッチしてその責任を取る事が出来てない、
 だからそれらを他者に求めてしまう。
 そういうこと。
 人から好かれる人って、人を好きと想うその気持ちのままに振る舞える人なんじゃないかな、うん。
 だから私は、気持ちのままに振る舞おうとして七転八倒するツンデレさんが大好きなのよね。 (ぉぉ)
 うーん、なんか、すっごいわかるなぁ、そういうこと最近、ていうか・・・あ・・なんか頭痛くなってきた(ぇぇ)
 うわぁ、余計に話が見えなくなってきたぞ。
 
 
 つまりね、うん、まぁなんていうか、ぶっちゃけさ、訊くけどさ。
 あんたの「狼」は、終わったの?
 いいえ。
 これは完全に、いいえだよね。
 だって私の「狼」はアニメの第二期最終回までしか行ってないのだもの。
 うん、はっきり言って、その私の「狼」は、原作の最終巻の、あの笑顔に全然まだ到達していない。
 私の「狼」の旅は終わらない、っていうか、まだ全然ゴールまでは遠い、ということだね。
 うん、私はね、あの最終巻の表紙の笑顔はね、実は私の求める「狼」のゴールと同じ。
 私も、あれを目指して感想を書いている。
 私がこんなに涙が出て止まらないのはさ、ていうか私、悔しいよりもなによりも、それよりもなによりも、
 嬉しくて堪らないんだけどさ、それはね、私の「狼」のゴールが、原作の狼のゴールと同じことだったから。
 うん・・・
 前に、アニメの第二期の最終回だったかな?、そのときの感想でも書いたことなんだけど・・・
 あの笑顔ってさ・・・
 
 幸せであり続ける物語の、その主人公としてのホロの笑顔では無く。
 
  幸せであり続ける物語を綴り続ける、その書き手のホロの笑顔、なんだよね。
 
 うん・・
 幸せであり続ける物語っていうのは、第二期のサントラのタイトルなんだけどさ・・
 あのサントラの表紙のホロって・・・・とっても、悲しい表情だったんだよね
 もう・・・あれにはもう・・・・・・こう・・・・・深い・・・・なんかこう・・・・・どうしようもない同調があって
 わかる以上にわかってしまったというか・・・
 幸せであり続けるしか無いんだよね。
 笑顔でい続けるしか無いんだよね。
 幸せであり続けるために笑顔で笑い続けなければならない物語の主人公なんだよね、ホロは。
 
 
  それは     悲しいよ    
 
  とっても    とっても     とっても
 
 
 ホロはその幸せであり続ける物語を、あの悲しい顔で書き続けていた。
 それが、ホロの孤独。
 うん。
 ホロが求めていたのは、ただただ。
 幸せであり続ける物語を。
 幸せに、綴り続けたい、ということ。
 うん・・うん・・・・書いてて涙出てきたんだけど・・・・
 あの
 あの原作最終巻のホロの笑顔は
 その物語の綴り手の、笑顔。
 
 
  幸せであり続ける物語を、幸せに綴ることが出来るようになった、そのホロの笑顔。
 
 
 それが、ゴール。
 あの悲しい顔が、ほんとうの笑顔に到達したゴール。
 よかった・・・・よかったね・・・ホロ・・・・ほんとうに・・・・・
 あくまでそれは、原作者さんのホロがそのゴールに到達した、ってだけの事なんだけど、でもね、
 それが「公式」であるということは、ひとつの効果があるんだよね。
 支倉さんの、原作者の、公式のホロが幸せになれた、ということは、すなわち。
 すべての、ホロが幸せになれるんだ、というひとつの赦しとして感じることも出来るんだよ。
 勿論、あの笑顔はあくまで「結果」であって、だから、狼ファンの狼の数だけ、その結果への道のりは
 違っていいし、違ってこそのもの。
 そして、道のりは違っても、その行き着く先には、必ず。
 幸せが待っている。
 それが、「公式」というものの存在意義。
 そしてね、幸せへの道のりの数が多ければ多いほど、その幸せは、あのホロの笑顔は豊かになっていく。
 あのホロの、ほんとうに心の底から幸せに至ったあのホロの笑顔に、一体なにを詰め込むのか。
 それこそ、それこそ私達狼ファンのお仕事と申せましょう。
 私には、私の「狼」を、あの笑顔に至らせる義務があるので御座います。
 まぁもっとも、それは私の求めているものと原作者の求めたものが同じだったからそういう事になる
 だけで、公式だからその公式と同じゴールにする義務があるという意味では無いですけどねw
 つまりま、だから、私は私の「狼」に自信を持って、狼感想をこれからも書き続けていけばいいのです
 よね。
 あーもう、ほんと、私の「狼」を、ホロを、あの笑顔に至らせたい、是非至らせたいものよ♪
 
  まー、だからほんとにアニメ第三期こいこい、来なきゃ始まらないってことですけど、こいこい。
 
 
  ・・・・むしろ自分でSSでも書いてお話作っちゃう?(一理あり)
 
 
 
 
 という辺りで、えーと。
 おしまい。
 なんだこれ、どんなノリで書いたんだわたし。
 つかれーた。
 なので、おしまい。
 
 
 ごきげんよう♪  ←つくづく勝手な人
 
 
 
 
 追記:
 ちなみに「狼と香辛料」の原作小説は、今夏に外伝が一冊出るそうなので、そちらがほんとの
 最終巻という事にはなりますが、まぁ、今回出たのは本編としては最終巻、ということで、よろしくw
 
 
 
 



 

-- 110301--                    

 

         

                                    ■■ - 夢 - ■■

     
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 『でも、俺は鑢六枝の息子だぜ? あんたの父親を殺した、鑢六枝の息子だ。』
 
 
 『それがどうした! 別にそなたが殺した訳ではあるまいっ!
  鑢六枝が死んでいるというその段階で、既に虚刀流に対する私の復讐は済んでおる。
  ましてや、その六枝をそなたの手で殺しておるというのなら尚更だ!
  そうでなくとも、そなたを恨む理由は私には無い。 違うかっ? 』
 
 
 
 『どうせ俺には帰る場所も無いしな。
  姉ちゃんも死んじまったし、もしあんたが俺を雇い続けてくれるなら、それ以上の事は無い。
 
   それに、俺はあんたに惚れてるんだからな。』
 
 
 『・・・! 
      そうか、よし、では行くぞ!』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  ◆
 
 
 
 
 
 −  薄曇りの夜空が ずっと広がっている
 
 
 
 煌々と月が輝く。
 こんなにも薄雲が夜を埋めているというのに、月はまったく、さっぱりとしたものよ。
 まるでその厳つい月光を遮るようにして、私はこの小さな部屋を灯りで満たすのだけれど、
 そうするとね、部屋の四隅に蹲る闇は、こんもりと、その暗さと、その暗さを照らし出す、
 この部屋のつまらない紅い光をこそ、強調してしまうのよ。
 嫌よね、まったく。
 つまんない。
 それが人工的かどうかだなんて、全然どうでもいい話よ、天然自然な月明かりと、私が監察役として
 稼いだ金で灯したこの紅の、どっちが良くて、ましてやどちらが美しく、どちらが暖かいか、なんて、
 限り無く、どうでもいいわ。
 
 つまらないものねぇ、部屋に籠もり切り、というのも。
 
 私のこの部屋が、私の趣味で彩られているのは確かよ。
 でも、その彩りのいちいちを象る品々は、そのすべてが、私にとってはどうでもいいものなのよ。
 私が自分で選んで購ったものなどひとつも無いし、まぁ、全部あの愚か者に頼んで部屋に入れさせた
 ものばかりなのだけどね、私はそうしてひとつひとつ丁寧に運び込まれた、あの馬鹿の馬鹿みたいな
 熱の籠もった品々に、入室の許可と不許可を与え続けただけ。
 私の部屋に満ちているのは、私にそこにいて良い許可を与えられたものだけ。
 わたしはあんたを否定する。
 あんたがこれまでその存在と、制作の理由と目的を以て作られてきたことを否定する。
 あんたがこの部屋に持ち込まれるに当たって色々と押しつけられた想いを否定する。
 高価なものであろうと、希少価値があろうとも、何者かの想いが込められていようと。
 廉価なものであろうと、ありふれたものであろうとも、何者かに捨てられたものであろうと。
 
 
  わたしはすべて否定する
 
 
 そういえば、私がこの部屋に持ち込まれようとしたもので、それを拒否したものなどあったかしらね?
 まぁ、あったのよね、たぶん、でも私は覚えてないわぁ、だって、この部屋の中にあるものは、
 私の癇に障らないものだけなのだから。
 私は否定する。
 あの不愉快な女を否定する。
 だから私は、あの女をこの部屋に入れる、入れ続ける。
 それと同じように、私は私の癇に障るものを私の部屋に入れ、そして。
 無残に、破壊する。
 排除する。
 それを続ける。
 
 
 私は私の部屋を埋める品の数々の、そのほとんどのものの名を知らない。
 私は名を否定する。
 どんなものであろうとなかろうと、それらをすべて否定する。
 
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 はい、はじめましてぇ。
 私が否定姫よ。
 んー、そうねぇ、なにを話そうとしたのだっけ?
 まぁ、そうねぇ、なんでもいいのだけれど、でも、なんでもいいという訳でも無いのよねぇ。
 って、無駄な言葉いじりをする理由があるからそうしているのだろうけれど、私はその理由とやらを
 探る気が更々無いのよね。
 なんでかしら?
 面倒だから? それはあるわね、あるある、面倒なことなんてありすぎよ。
 でも、同時に、面倒であるかどうかもまた、面倒以前にどうでもいいことでもあるのよ。
 私が動くのは、私がそれに対して面倒であるかとか、やる気があるか、だとか、そういうのは全然、
 関係が無い。
 勿論誰かの命令だとか、私の目的意識のためだとか、それも関係が無いわ。
 全然無いわ。
 私は私のままに動くだけ。
 目的なんて、それが果たされようと果たされまいと、それこそどうでもいいわ。
 ええ、勿論私は目的達成のために動いてはいるのだけれど、それと実際に目的が達成されるかどうかは
 、関係が無い、って話よ。
 私が目的達成のために動くのは、目的が達成されるかされないかそれをどうでもいいと思っているから、
 と、そんなおかしなようでいて、その実当たり前のことを、言ってみたりして。
 目的が達成されるかされないかで、私が動くことなんて、まぁ、あの月が落ちてもあり得ないことよね。
 
 どうだっていいのよ。
 
 べつに、それは悲観的な訳だからでも、怠惰だからでも無いわ。
 そうね、悲観的だから怠惰だからという事でも、それでも全然構わないくらいに、ね。
 自分が動き、そして生きることに、動機はあっても無くても、それは同じ。
 逆に言えば、目的を達成するためという動機が無ければ、動けない、生きられない、という方が、
 もしかしたら悲観的かつ怠惰、と言うことは出来ると思うのよね、私。
 
 そういえば、あの陰気な馬鹿はさ。
 ああ、右衛門左衛門の事よ。
 あいつは、まぁ、陰気過ぎてなにを考えているのか知りたいと思う気持ちさえ萎えさせてくれる、
 という意味では才能豊かな奴なのだけれど、ええそうねぇ、基本的に馬鹿なのよ、大馬鹿。
 簡単に言ってしまえば、あの馬鹿は、被虐趣味なのよ。
 私に無理難題、極悪非道な命令を与えられて、それをこなす事が出来る自分に快感を感じていて、
 それを私への恩義なんかにすり替えて、一生をすり減らそうっていう、痴れ者よ。
 それで、実はその被虐的な快感もまた、あいつのなにかのすり替えなのよね。
 なにか、って?
 それはねぇ、あいつがなんらかの目的無しには生きることも動くことも出来無い、言ってみれば、
 目的依存の自分を自覚することも、自覚して自分のままに生きる事からも逃げている、という、
 あいつの現実に、あいつ自身が満たされずにいる、ということの、ね。
 あの愚か者、私がせっかくあいつを捉えていた、くだらない諸々のことを否定してあげたのに、
 今度は別の諸々のものを抱き込んで捕らえられてしまって。
 馬鹿ねぇ、鼻で笑ってしまうくらいに、たわけよねぇ。
 でも哀れとは、言わないわ。
 あいつが馬鹿でもなんでも、それを自分で選んだことの責任を、あいつは負わなければならないもの。
 いいえ、責任を負おうと負わざるともそれとは関係無く、あいつはあいつの選択の中で生きていくわ。
 
 
 というか。
 
 べつに私は、あの馬鹿のこと、嫌いな訳じゃないし。
 でも。
 嫌いじゃないから。
 
 もう、否定はしてあげなーい。
 
 あいつが私に小馬鹿にされ無茶な命令を下されるたびに、ほくそ笑んでいるのを、私は知ってるわ。
 バレてないとでも思っているのかしらね、それともこれみよがしに私にバレるようにしているのかしら。
 いずれにしろ、私はあの馬鹿の笑みを否定する。
 そして、たわけに笑い続けるあいつの人生は、もう、否定しない。
 あいつが、被虐などという下卑た趣味にしがみついて、自分自身の本当に求めているものから
 目を逸らし続ける事を選ぶというのなら、そんな下賤な腹心として、この部屋に置いてやるのも、
 それはもう、やぶさかでは無い、というところなのよ。
 私の部屋の中に収められている物に、その存在理由は必要無い。
 その物達自身が、勝手に自らの存在理由と生きる動機を求めて足掻いても、私は知らなーい。
 私は知らないし、そして私はあいつの存在が高尚であろうと下賤であろうと、そのどちらをも。
 否定する。
 あいつのために、なんかじゃあないわ。
 私のために、よ。
 私にとって、あいつは特別でもなんでも無いし、私の行動を左右するものにもならないし、
 同情や軽蔑の対象になるものでも無い。
 そして私は。
 そういう物で、私の部屋を、敷き詰めているのよ。
 私は、私を否定する。
 私を包み、捉えようとする、そのすべてを否定する。
 そして、なにより。
 
 
 私は
 
 私を   否定する
 
 
 良い自分も 悪い自分も
 
 
 自分と名のつくそのすべての私を、否定する
 
 
 なぜって?
 
 
 私はね
 
 私のために、という目的意識のために生きる私を
 
 否定するからよ
 
 
 
 
 
 ◆ ◆
 
 ええと、そうね。
 あの女、あの不愉快な女の話ね。
 あの女は嫌いよ。
 大嫌い。
 でもねぇ、だから、 あの女との戦いは好きだったのよねぇ。
 あの女は、私と同じようでいて、違うし、違うようでいて、同じ。
 今回、あの女が実は復讐という目的意識のために生きている、という事実が知れて、
 私は相当、がっかりしたわ。
 あの女はずっと、刹那的というにはあまりに地に足のついたはちゃめちゃっぷりで、確実に私を
 仕留めようとして生きてきて、それがただ、まるで呼吸をするのと同じようにしてやっている、
 というのが感じられて、私はとても気持ち良かったのよ。
 あの女が、あの女のまま、陰険に極悪に強権に、自分のままにやりたい放題全力を尽くしている、
 その結果として私とぶつかり、そしてあの女がこれまた結果として上に昇っていく、その様は本当に、
 胸がすく感じがしていたわ。
 目的が、無い。
 刹那的というにはあまりにも、自分が無い。
 だってそうでしょう?
 あの女、自分を憎んだり嫌ったりして、そのために自分を壊すためにやけっぱちになっているというに
 しては、守りは完璧だったのだもの。
 この私ですら、あの不愉快な女を蹴落とすことは中々出来無かったのだもの、憎しみの対象としての
 自分など、あの女は持っていないと、なによりあの女と最も長く戦い続けた私こそが、一番わかっていた
 と思っていたのよ。
 それが、ねぇ。
 幻滅だわ。
 復讐って、あんた、なによそれ。
 つまらないとかくだらないとか、そういう話じゃあ、無いわ。
 呆れた。
 あの女の自分の無さは、ただただ、復讐という目的のために、自分自身をもその駒とするためにあった
 だけのものだなんて。
 それってつまり、復讐心に駆られた自分という主体は、あった、ってことなのよね。
 それはあの陰気な馬鹿と同じで、ただの自分の生からの逃避、ということ。
 残念ね、ほんとうに。
 ほんとうに、残念よ。
 
 
 私はあの女の生き方を否定する。
 
 そして、だから
 
 あの女の生き方を否定する、その私そのものを否定する
 
 どうだって、同じなのよ
 
 あの女がどう生きようと
 
 
 あの女が生きていることに 変わりは無いのだもの
 
 そして、だから、残念なのよね。
 
 
 あの女のその生き方が、あの女の命取りになってしまうということが
 
 
 
 本当に 残念ね
 
 
 
 
 ねぇ、きいてる?
 ねぇ、ききなさいよ、右衛門左衛門。
 あんた、自分の命より大切なものって、ある?
 もし私が死んだら、あんたはどうするのよ?
 どうせ、命に代えても死なせない、とか言うんでしょう?
 つまり、私のために、あんたはあんたの命を捨てる訳ね?
 あんたの命より、私の命の方が大切、なのよね?
 ふーん。
 私はあんたが死んでも、誰が死んでも、それだけの話よ。
 私が死んでも、それもそれだけの話。
 私には一応、ご先祖様の大願を成就するっていう、まぁ、私の人生をかけて果たす目的があるわけ
 だけどさ、でも、私はその目的が果たされようと果たされまいと、それこそどうでもいいのよ。
 ご先祖様の願い自体は私には全然興味無いし、勿論ご先祖様自身への私の想いなんて、
 限り無く無い、に等しいと言っていいわ。
 じゃあどうして私は、私の一生をかけてその目的を果たそうとしているのか、ですって?
 だーかーらー、それ、前提から違うって言ってるでしょう?
 私は目的を果たそうと思ってやってる訳じゃ無いわ。
 私にとって、ご先祖様の大願を成就させようとするのは、私が毎日食事を摂るのと同じことよ。
 いえ、違うわね、食事は摂らなければ死んでしまうけれど、大願は叶えなくても死なないわね。
 じゃあなにと同じなのかしら。
 そうね・・
 あんたと同じかしら。
 
 わたしはあんたを否定した。
 そして
 わたしは
 私も否定した。
 
 そりゃあ私にだって、子供時代はあったわよ。
 そして私が子供の頃から、ご先祖様の大願成就という目的は、私に与えられていたわ。
 子供の私は、それこそ、その目的意識に雁字搦めだった。
 それで、一時、その目的を捨てようと思って、足掻いたときもあったわ。
 でも、長じてから、そんなこともしなくなった。
 あっはは、それは一族としての自覚が芽生えたからでも、ご先祖様への愛に目覚めたからでも無い
 わよ、あったりまえでしょう。
 私は、私を否定した。
 抜けだそうとする事も含めて、目的に雁字搦めに縛られる私そのものを否定した。
 目的に縛られる私から抜けだそうとして、目的を捨てようとする私になる?
 そして、目的を捨てようとする私から抜けだそうとして、目的を自分のものにする私になる?
 どうしようもないわよね、それ。
 自分、自分、自分。
 結局それはなにに一番縛られているか、っていうと、自分自身に、なのよ。
 取っ替え引っ替え、あるいはどんどんと重ね着するようにして、自分を積み重ねていく人生。
 どんなに変わろうと、どんなに成長しようと、それは全部同じこと。
 自分を新しく語り直そうとも、語る対象としての自分がある限り、それは実はなにも変わっていない。
 私は、自分そのものを、語りそのものを、その種類に関わらず、すべて根こそぎ否定する。
 簡単に言えば、自分を捨てる、ということになるのかしらね。
 いえ。
 もっと簡単に、私は自分というものを否定する、と言えばいいかしら。
 
 自分というものが無ければ生きられない、というのなら、それはあまりに悲観的だとは思わない?
 世の中には、それはまぁ、沢山の人間達が犇めいているのだけれど、今の時代、その人間達が
 それぞれ持っているという自分によって、生き死にを決めている者達が多いわね。
 その自分というものが、他人から与えられ押しつけられたものであろうと、自分自身で会得したもので
 あろうと、それは同じ。
 私もそうだったものね、一族の掟とか運命とか使命とか、そういうものとの関わりの中で生きていく自分が、
 そういうものとは違う関係性を得て、その中で新しい自分の数を増やしていくことは、まぁ、私の
 人生の長さ相応にあったけれど、でも、それもやっぱり同じことだったわ。
 私は、私を語ることを否定する。
 だから、私は私のままにあろうともしてみた。
 私のままに、あるがままに。
 そうするとね、面白いことに。
 私、なんて、いらなくなるのよ。
 私のままにあろうと生きようとすると、もう私なんか、いらないのよ。
 それはね、語りとしての自分では無く、その語りを背負って生きている、そういう主体としての自覚として
 の私もいらない、ということなのよ。
 だって私はただ、生きているだけなのだから。
 
 なんにも、いらないのよ、ぶっちゃけ。
 
 もっと言えば、私は、私の中だか外だかわからないけれど、確かにあるようなないような、
 そういうなにかに全てを託して、ただただ自由に生きてるだけなのよね。
 私も自分もいらない。
 逆に言えば、私と自分を必要としているなにかがあるだけで、それはこうして今長々と喋っている私とは
 なんの関係も無いし、それはむしろ、そのなにかの範疇でそのなにか自身が責任を持てばいい。
 人によっては、そのなにかを神とか仏というのだけれど、しっくりこないのよねぇ、私的には、それはやっぱり、
 なにか、でしか無いのよ、どうでもいいなにか、っていうか。
 ま、敢えて言えば、というか、せっかくだから、それは歴史、というものだ、と言ってみようかしら。
 昔は、そのなにか、というか歴史の中で生きている感覚が無くてね、そりゃあもう、壮大に足掻いた
 ものよ。
 ひとつのものへの拘りが過ぎて訳がわからなくなったり、その拘りの対象が無ければやっていけないような、
 そんなことにもなった事もあったし、さらには、そういう自分であることこそ、最も人間として素晴らしい
 ことだなんて、そんな事も思ったりしていて。
 どうでもいいのに、ほんとはそんなこと。
 なのに、そのどうでもいい諸々のことに縋らなくてはやっていけないほどに、私は弱かったのよね。
 そして同時に、私はそういった諸々のことに縋る自分を嫌悪し、その諸々のことを捨てて強くあらねば
 ならないと思わねばいられないほどに、その想いに縋らねばならないほどに、愚かだったのよね。
 私は今は、色々拘る私に、色々拘らない私に、特に拘りは無い。
 拘るつもりも捨てるつもりも無い、どちらでも、どうでもいい。
 そうするとこう、結局私は、拘ったり捨てたりする、そういう人間的な生き方が怖くて逃げてるだけ
 なんじゃないの?、という言葉も出てきたりするのだけれど、それこそ、最もどうでもいいことなのよ。
 怖いのかもしれないし、逃げているだけなのかもしれない、でもそれらも含めて、どうでもいいことだし、
 それが私の選んだ道で、現在歩いている道なら、それでいいのよ。
 私は、怖がってはいけない逃げてはいけないという私を、それこそ否定するわ。
 怖いなら怖いでいいし、逃げたいのなら逃げればいいし、なんでもいいのよ。
 そして、怖いと思わなければならないとか、逃げたいと思わなければいけないとか、そういう私も否定する。
 私らしく生きたいとか、自分のままにありたいとか、そういう私を私は否定する。
 私は、私を否定する。
 
 
 ねぇ、右衛門左衛門。
 あんたってさぁ・・・
 夢、ってある?
 まぁどうせあんたは、そんなものは必要ありません、とか辛気臭いことを言うのでしょうけれどね。
 その点では、私も同意なのだから、まぁ、あんたの愚かさも馬鹿にしたものでは無いのかもしれないわ。
 もっとも、正確にいえば、夢はあってもなくてもどちらも同じ、というのが私の考えなんだけどね。
 私の夢はね。
 この部屋を出ること、かしらね。
 正直、私が大願を成就させたら、監察なんてくっだらない仕事とっととやめて、世の中適当に歩き回って
 みたいと思うのよねぇ。
 それが、まぁ、夢と言えば夢かしら。
 あら? ならば今すぐにそうすればいい、ですって?
 あんた本当に、私の機嫌の取り方が上手くなってきたわよねぇ。
 あんたの言う通りよ、そのまま考えれば、私はご先祖様の大願なんてぶっちぎって、さっさとひとり旅に
 でも出ればいいのよね。
 でも、答えはもっと単純なのよ。
 私にとって、その私の夢は、今私がこうして適当にやっている大願成就のための生活をぶっちぎって
 まで、叶えるほどのものでは無い、だから未だにこうしている、というだけなのよ。
 そんな事言っていたらなにも出来無い、というのは、それこそ的外れ。
 だから、何度も言っているじゃない、どうだっていいのよ。
 言い換えれば、自分の夢を叶えなければならないと思う、その私を私は否定するわ。
 夢はあっても、それを叶えるために生きるかどうかは、全然別問題、ということ。
 私がどう思おうと、私のなにかは、その夢を叶えるための特別な努力を支払う気は無いようなのだもの、
 それで全然構わないのよ。
 やろうと思わなければなにも出来無い、というのは、これは実は大きな欺瞞。
 やろうと思っていない時点で、既になにもやる必要は無いのよ。
 やろうと思っていないのに、やらなければと思って努力すれば、それは自分の必要と行為の不均衡を
 引き起こす。
 釣り合わないのよ、実際。
 
 必要を基にして、やろうと思う気は必然的に起きるもの。
 そうでないのにやる気を起こそうとするのは、それは自分に囚われている証拠。
 
 あはは、思えば、あの不愉快な女との死闘は、実に面白かったわ。
 私も張り合いがあったし、そして私の知恵を絞り力を尽くし、それこそやり甲斐のある戦いだった。
 そこに無理は無かったし、そしてね、それは努力や頑張りという言葉で顕されるものでは無いの。
 楽しかったわ、ほんとうに。
 楽しいから、その楽しさのままに私は動き生きて、戦っただけ。
 端から見れば、それは物凄まじい努力と頑張りで為されたものなのだろうけれど、実際当人としては、
 そんな意識は更々無い。
 無理なんて、ひとつも無い。
 私はただ必要のままに 、そしてそこから開いた、稼働可能な欲望の連鎖のまま動いただけ。
 その連鎖をこなしていく中で、偶然か必然か、そのどちらかによって、私の目的は果たされていく。
 そして、その目的が果たされた結果、その向こうにある私の夢に必然的に到達する。
 到達しようが到達しまいが、私にはどうでもいい話で、どうでもいいからこそ、今私はこうして、
 動き、そして生きているのよね。
 あるいは、こうも言えるかもしれないわ。
 
 
  私はさぁ、目的が達成されるところも、目的が達成されないところも、
  同じくらい、観てみたい、ってね。
 
 
 あんた、きいてる?
 あんた、夢って、ある?
 夢なんて、ごくごく簡単に設定すればいいと、私は思う。
 壮大で雄大で誇大で、限り無く実現の見込みの無さそうな、そんな夢を、あっさり作ればいいのよ。
 その夢が叶うかどうかは関係無く、またその夢を叶えるために生きるかどうかも関係無い。
 夢もまた、必要のひとつなのよ。
 いつかどこかで、叶えばいいな、という当然な願望。
 むしろ、夢なんて無数に描けばいいのじゃないかしら?
 どれだけあるかもわからない夢で敷き詰められた人生って、これってなんか素敵じゃなぁい?
 なにしろ、ひとつの夢に拘ってそれに囚われなくて済むんだから。
 そしてどれだけあるかもわからないほど、どこにでもそれらは転がっているから、努力しようがしまいが、
 いつも必ずそれらの夢のどこかにあっさりと到達する。
 右を向いても左を向いても、前に一歩踏み出しても後ろに後ずさっても、そこにぎっしりと夢が敷かれて
 いれば、いつだってどこでだって、楽に楽しさを生きられるのじゃないかしら。
 夢の大小は関係無く、ただ夢の多寡が重要なのね。
 むしろ夢の大小に拘り、巨大でかつたったひとつの夢を見つめ続ければ、人はやがてそれの虜となる。
 そして、夢を叶えなければならないという想いに囚われれば囚われるほどに、夢は肥大化の一途を
 辿る。
 そしてそれは、叶えなければ意味が無いものへと成り下がり、またそれを叶えられない自分というもの
 に、その否定と肯定も含めて、ぐっと、閉じ込められる。
 夢との距離の中に感じる自分を生きることしか、出来無くなる。
 ねぇあんた。
 右衛門左衛門。
 
  あんたが夢を必要としないと言い張るのは。
 
  あんたにとっては、もう、夢があんたの目には入り切らないほどに、肥大化してしまっているからなのよ。
 
 あんたにとっては、夢は描くものでは無く、もはや現実的に叶えるものでしか無くなっているのよね。
 夢は、叶えるためのものでは無く、描くためのものなのに。
 あんたは、夢という現実に取り込まれてしまっているのよ。
 それは・・・・・・つらいことよね、正直
 あんた、私のこと、好き?
 それとも、私のために戦えるあんた自身の事が好き?
 あんたは、そのどちらでも無い。
 あんたに、好きは無い。
 夢も無い。
 あるのはただ、戦いだけ。
 戦いが好きな訳でも無い。
 戦いに縋っているだけ。
 あんた、自分がなんでそんなにがむしゃらに戦うのか、わかってる?
 私のため、なんていうのが言い訳であることは、あんた自身がよくわかってるはずよね?
 あんたはただ・・・
 肯定して欲しかっただけ。
 あんた自身を。
 私は、あんたの生を否定するものすべてを否定したのにさ、あんたは私に肯定を求めた。
 私の名を言ってご覧なさいよ。
 否定姫。
 あんたが、一番わかってないんじゃない。
 私の否定は、すべて肯定のためのもの。
 そして。
 その肯定のための私の否定はすべて。
 肯定を必要とする、その私やあんたの、生き方に縛られる自分自身の否定のため。
 私はあんたを否定する。
 私に肯定して貰おうとするあんたを否定する。
 あんたを認めることが出来るのは、あんただけよ。
 
 
 
  そして
 
 
   あんたが あんたを認めることが出来たら
 
 
   もうあんたに     あんたは必要無いわ
 
 
 
  あんたを必要としなくなった そのあんたが生きている事は
 
  もはや 肯定する必要すら無い 当たり前のことなのよ
 
 
 
 
 
 
 ◆ ◆ ◆
 
 愚かな話よねぇ。
 自分が自分を必要とするのは、それは自分を否定されるから、だなんて。
 否定されるとムキになっちゃって、自分自分って言い出しちゃうのよね。
 自分磨きに命を賭けたり、なにかや誰かのために生きねば意味が無いとか、
 みっともないったらありゃしない。
 なーにをそんなに慌てふためいて、焦っているのよ、この愚か者。
 落ち着きなさいっての、まったく。
 否定されようと肯定されようと、そもそも私達はもう生きてるんだから、自分なんていらないのにねぇ。
 他人にであろうと自分でであろうと、そもそも自分を認めるとか認めないとか、そんなの、
 そもそも自分があって、自分というものが無くては駄目だっていう前提から始まっている。
 くっだらない。
 私は最初から、原初から、否定するわ。
 
 認められようと認めようと
 私の自分を否定する。
 
 自分というものが他者との関係性の中にあり、絶対的なものでは無いということは確かだけれど、
 けれど私達の生そのものは、私達が生きているということ自体は、その他者との関係性から生まれる、
 その自分という範囲の中には、初めから含まれてなんていないのよ。
 他者との関係性の中にあるのは、自分というものだけで、私の生そのものは、その中には、無い。
 それなのに、その自分というものが無ければ、生きることが出来無いだの、生きる意味は無いだの、
 そうして必死に他者との関係の構築に心血を注ぐ事は、ええ、それこそ逆に、それ自体が実は、
 生の範疇そのものに含まれることなのよね。
 べっつにぃ、だから言ったでしょう?
 あの不愉快な女がどう足掻いても、あの辛気臭い愚か者がどれだけ馬鹿でも、私はそれらと
 敵対したり鼻で笑ったりする事はあっても、そいつらの生そのものを否定したりなんかはしないって。
 そうねぇ、私は自分というものを否定して生きているし、あの不愉快な女は、自分というものを
 肯定して生きている、ってだけの話ね。
 ま、あの女も自分の生を自分の範囲の外側に感じて、その上で生の範疇に収められている自分
 というものを肯定して生きているのだから、そういう意味では私と根本は同じなのよね。
 それこそ、生き方の違い、と言っていいのかしら。
 
 
 
 
 − − −
 
  あーあ
  今夜も月夜が眩しいわぁ、退屈ね。
  退屈だけど、でも同時に心地良いのよねぇ。
  嫌いじゃないわぁ、ただ夜空を眺めるだけというのも。
  そう、それもまた、描いた夢が敷き詰められている、その結果なのよ。
  この夜の心地良さは、私がご先祖様の大願を成就させるために奔走している事とも、
  あの不愉快な女を蹴落とすために機略を巡らす事とも、なんの関係も無くあるものなのよね。
  この月の下で光り輝く夜を肴にして聴く美酒の音色は、ただ幸せの一言に尽きるわ。
  全く逆に、その音色を心底愉しめないときは、私が自分に囚われている証拠。
  あの忌々しい奇策士に陥れられたときに、大願を叶えるための行動が上手くいかなかったときに、
  いえいえ〜、それ以前になにもせずに部屋の隅に蹲っているだけのときに、そんなときにもし健やかな
  酒の囀りがきこえないというのなら、私にはその酒を呑む資格が無い、ということ。
  目的を果たせなければ、なにかをしていなければ酒が美味くないというのなら、それはもう、ねぇ、
  それらの目的や行動無しには生きられない、生きていてはいけないという事になるわ。
  それはなんとも、情けない限りよ。
  情けないと思うからこそ、私は私を否定するのよね。
  私は酒の美しさのままに、月夜の心地良さのために、ただその幸せをほんのりと聴くだけよ。
  そしてあの女は、その情けなさを突破して、あくまで目的と行動に拘り、憤慨したり笑い転げたり
  しながら、酒を飲むのよね。
  ま、あの女も酒は好きらしいけど、あの女が楽しく酒を飲んだという話はあまり聞かないから、
  きっとあの女的に酒を飲むに値する目的と行動の結果を得られていない、ということなのかしら。
  それは、きっついことでしょうねぇ、あの女も被虐趣味なのかしら?
  私なんて、それこそ箸が転んだだけでも酒が飲めるわ♪
  でも
  嫌いじゃないわ。
  そういう生き方も。
  だから
 
    私はあの女の生き方を、否定する。
 
    存分に、否定してあげましょう。
 
 
 あの女の生そのものを、肯定するために、ね。
 
 
 
 
 私はさぁ。
 私を語るつもりは無いのよ。
 私は自分を否定する。
 自分という物語を語ることで作り出す、その自分という夢を否定する。
 でもねぇ、私は語るのよ。
 自分を、では無いわ。
 必要無いもの。
 私はねぇ。
 私の生を、語るのよ。
 おもうまま感じるままを語るのよ。
 生きているから、語る。
 私という曲を弾くのでは無く、私という楽器を弾く。
 曲目は、それこそなんでもいいのよ。
 なんなら、曲にすらなっていない、ただの音の羅列でも構わないと思うのよねぇ。
 私の好きなものを好きなだけ、私の嫌いなものを心ゆくまで。
 語る。
 語り続ける。
 私の語りは、結果。
 私が生きた、その証。
 決してそれは、自分という幻を構築するための手段では無い。
 語りは手段では無く、結果。
 勿論目的でも無いわ。
 だから私は、自分を語り創り上げることを否定する。
 それこそ、私の語りは、語り捨ててこそのものね。
 自分を語り続けねば生きられないというのなら、それはその語りに縋る自分に囚われている証拠。
 生きているからこそ、ただその結果として語り続けるだけでいい。
 美酒をひとつ口にして、旨いとひとつ鳴く。
 旨いと鳴かねば酒の美しさは存在しない、ですって?
 たわけねぇ、如何にもあの愚か者が言いそうな事よ。
 私が自分を語ろうと語らなかろうと、私が生きた証は消えないわよ、この愚か者。
 もっとも、語ることで、改竄はいくらでも出来るのだけれども。
 歴史、ってことよね、それが。
 私が生きた証が歴史、それは私の語りと関係無く存在する。
 そして、その歴史の記述自体は、いくらでも改変出来る。
 でも、ええ、そうよ。
 記述を変えることは出来ても。
 記述の中身そのものは、私の生そのものでは無い、ということね。
 私が私という人間を語ることで、私という自分の姿を変える事はいくらでも可能。
 けれど。
 私の生は、私が生きているということそのものは。
 その自分というものの範囲の、外にある。
 私の歴史をどう記述しようとも、私が生きている事とそれは、なんの関係も無いわ。
 それともなにかしら?
 その記述の通りに生きねばならないとか、その記述の通りに自分の生きてきた事が変わるとか、
 そういう風に、あんたは言うのかしら?
 
 あんたの
 その辛気臭い顔を隠すために与えた、その仮面にはなんて書いてあるのよ?
 不忍。
 それを記述したのは、私。
 そしてあんたは、その通りに生きようとしている。
 だから愚か者だっていうのよ、あんたは。
 なんにもわかっていないのよね。
 あんたはその不忍の記述が無ければ、自分を否定出来無いっていうのかしら?
 あんたはその二文字が無ければ、生きられないっていうのかしら?
 いいえ、それ以前に、あんたはその仮面に刻まれた自分を、どうして否定しないのかしら?
 あんたは、全然不忍なんかじゃ無いじゃない。
 もう、頭がおかしくなるくらいに、堪え忍ぶことを貪っているじゃない。
 不忍がきいて呆れるわよ。
 そして、私も呆れているわ。
 堪え忍ぶことを貪る事、それ自体を忍ぶことは、全然全く、してないんじゃない。
 見事に、不忍よ。
 あんた、とっくに出来てんのよ。
 いつまで、そんな辛気臭い仮面つけてる気?
 いつまで、姫様のためとか言ってる気?
 あんたの記述とあんた自身は、恐ろしいくらいに一致してる。
 それなのに、あんたはあんた自身では無く、あんたの記述ばかり見ている。
 あんたがそうやって無茶苦茶に馬鹿みたいに戦い続けるのは、そうしなければならないという、
 あんたの記述のせいじゃ無く、あんた自身の欲望のせいでしょうに。
 その記述と欲望の形が同じであることをいいことに、あんたはあんたの欲望の責任から逃れてる。
 
 
  あんたは、自分という語りに囚われているっていうのよ。
  あんたのその語りの外にある、あんた自身の生を語ることから目を逸らし続けるために、ね。
 
 
 
 あーあ、私、あんたのこと嫌いじゃなかったのにさぁ、残念よ、死んじゃって。
 あんたの欲望の話とか聞いてみたかったわよ。
 あんたはある意味見込みあったのよ?、馬鹿にされようが虚仮にされようが、素知らぬ顔で
 ずけずけと物を語ることは出来る奴だったんだから、その才能を、自分を規定するという意味での
 自分語りなんかじゃあ無く、自分の好きなものとか嫌いなものの語りに使えば、きっと面白かった
 でしょうに。
 そういうあんたとなら、旅しても良かったのよねぇ、正直。
 私の命令を受けて、それを堪え忍び実行する、そういう自分を語り作っていく事だけに執心していた、
 そんな痴れ者とはまともに話す気さえ起きなかった、というだけよ。
 ま、でも。
 あんたが痴れ者だろうが愚か者だろうが、あんたが無様に戦い続けて、結果を出したり出さなかったり
 した、そういうあんたの生きた証は、確かに受け取っておいたわ。
 あんたがその死を以て語り上げた、あんたという作品を褒めてあげることは、絶対にしてあげない
 けれど、あんたがただ生きて死んだ事には、敬意を払ってあげる。
 そして。
 あんたがどういう想いでそれをしていたのか、そのすべてを私は否定するけれど、あんたが私のために
 してくれた事、くれた物、それらそのものについて、感謝するわ。
 ありがと。
 
 
 
 
 ◆ ◆ ◆ ◆
 
 
 うーん
 要は、私は楽に生きたい、ってだけなのよ。
 大体そもそも、色々馬鹿みたいなのよね。
 馬鹿みたいなものを、敢えて馬鹿として認識しつつ、馬鹿をやる、というのは、
 まぁ時々ならそれもいいでしょうけれど、それが全部となると、本当に。
 たわけよねぇ。
 というより、まっぴらごめんよ、そんな人生。
 人生っていうのは、そりゃあ決して短くは無いけれど、でもたった一度しか無いものでもある。
 焦る必要は無い、けど同時に、後悔はしたく無いじゃない?
 たった一度しか無い人生を、目的や夢を達成する事で積み上げていく、その自分という物語を
 演じ切ることで使い捨てにするなんて、それはもう、うんざりだわ。
 私はねぇ、生きていること自体を、愉しみたいのよ。
 この私が、どう動き、どう生きて、どう感じて、どう考え、それがどういう目的を果たし、
 どういう夢に到達していくのか。
 それを、見てみたいのよ。
 どう生きるかとかどう目的を果たすのかとか、だから、それら自体には興味が無いのよ。
 言ってみれば、そうねぇ・・・
 私は、暢気に自動的でありたい、ということなのかもしれないわね。
 あの不愉快な女は、ひたすら手動的、ね。
 私というこの体と心が、どう自動的に動き生きていくのか、それを体験していきたいと私は思っている。
 そしてね、その自動的に動く私が、より自動的にそして自由に動けるようになるためにこそ、
 私はその私のためにこそ、あれこれと画策したりする。
 
 私は自動的な私に投資し、そしてその自動的な私がその資金を使いなにをするのか、それが
 楽しみで仕方が無いのよ。
 
 だから、手動的に自分を動かし、手駒のように管理し、そして徹底的にあの女自身の意志によって
 自分を御して目的を達成しようとし続ける事なんて、そうね、私には野暮な事にしか感じられない。
 ましてや、そうして自らの意志で物語を紡ぎ続けなければ生きる事が出来無いだの、
 生きている意味が無いだのと言い出すのであろうものならば。
 私はそれを否定する。
 私はあの女のその生き方を否定する。
 そして、その生き方を他者にまで敷衍しようとする言動を否定する。
 私は否定する。
 あの女が手動的に自らの意志で生きようとそれに執着するたびに、それを否定する。
 それが、あの女との戦い。
 楽しかったわぁ。
 面白かった。
 そして、だから、私は、あの女を否定する私を否定する。
 私がもし、自動的にあの女の生き方を踏襲することを選ぶのであれば、私はその道を歩くことに、
 なんの異論も無いのだもの。
 私がやがて、自分というものを否定する、その事自体を否定して、あの女のように自らの意志で
 生きていく事になるのであるのなら、それもまた、是非見てみたい私の未来よね。
 ええ、そうよ、その通り。
 
 
  私はそして、そういうあり得るかもしれない道を、自ら選択するつもりは、無い、ということよ。
 
 
 そうなったらそうなったまでの事。
 そうなったのは、きっと自動的な私がそれを必要とし、そしてそうなるために色々と努めてきた結果
 なのであろうから、私はそれを喜んで受け入れていこうと思うのよ。
 そうね、私はその自動的な私に頼りたいのね。
 信頼している、と言ってもいいのかしら。
 なんだかんだで、私はとーっても悲観的なのよ。
 自らの意志で目的を果たし自分を磨き積み重ねていく事の連続だった、かつての私の生き方から、
 なにを得てなにを失ったのかを、私は受け入れているの。
 私は私の未来を悲観する。
 それこそ、絶望的よ。
 私が、私という自分を持ってその自分を生きようとする、その私の瞳の中に、私の求めるものは、
 なにひとつ、映っていなかった。
 だから。
 私は、私を否定する。
 私は、私を捨てる。
 いえ、むしろ、その私という自分の延長線上にある自分の未来にあるはずの、その希望そのものが、
 そもそも私の望むものでは無かったがゆえに、私は絶望していた。
 だから、私は、その希望と絶望が織り成す線そのものを、否定したのね。
 その線の上にいる以上、私は。
 幸せには、なれない。
 心からの、笑顔に染まれない。
 
 やーめた、っと。
 
 良い自分だろうと、悪い自分だろうと。
 そのふたつの認証と統合の中から生まれる自分だろうと。
 それは同じひとつ、自分という物語の、線の上にある。
 その物語をどれだけ充実させようと、自分をどれだけ磨こうと受け入れようと。
 その線の上をどこまで歩いても、どう歩いても、私は、満足出来無いわ。
 その線の上から。
 解脱する。
 楽観的に笑顔を堅持し続けようとするのは、その線の上を歩くことにしがみついているから。
 私は、その線を歩くのが、嫌だったのよ。
 私は、その私の嫌だという感情、いえ、欲情の責任を取る。
 だから、悲観する。
 きっちり、悲観するわ。
 嫌なものは、きっちり嫌なのよ、だから、嫌だという想いのままに、その欲情を全うする。
 そうする覚悟が無いからこその、楽観なのでしょうよ。
 そしてその楽観的なものは、すなわち、あの女の肯定力そのものなのよね。
 だから私は、否定する。
 私の否定力は、私の意志では無く、私の欲情の、その責任を取るためのもの。
 つまりねぇ、なにが言いたいかと言うとねぇ。
 
 
  あの女は、自分の欲情から逃げていて
  私は、自分の意志から逃げている
 
 
   逃げなさいよ 逃げればいい
   逃げれば楽になれるわ
 
 
   あんたは 逃げるなら どっちがいい? 、って話よ、ぶっちゃけ。
 
  
 逃げないのも、逃げの内な訳よね、だから。
 あの女は自分の意志から逃げず、私は自分の欲情から逃げない。
 それは、あの女が自分の欲情から逃げ、私が自分の意志から逃げる事から始まっている。
 逃げていいのよ。
 いえいえー、むしろ逃げなくてどうするのよ。
 逃げるという事はとかく悪いことのように怠惰な事のように語られるものだけれども、
 そもそも、逃げるという事を悪いことのように怠惰な事のように語る事自体が、その語りへの逃避を
 顕しているのよね。
 逃げというのは、すなわち脱出という言葉に言い換えれば、もっと楽になれるわ。
 楽になるというのも、逃げと同様の手口で語られるものだけれど、それも全く同じよね。
 楽になりなさい。
 楽になってはいけないという、その自分から逃げなさい。
 脱出して、ちゃんと生を生きなさい。
 そして、覚悟しなさい。
 あんたは一体、どっちが心底。
 嫌なのか。
 意志か。
 欲情か。
 私は、自分の意志のままに築いた自分を演じ続けて、ひたすら目的を果たし続ける人生に、なんて、
 ぜーったいに覚悟を決めないわ。
 嫌よ、そんなの、真っ平御免だわ。
 だから、私は私の欲情に、自動的な自分のままに生き切る事にこそ、覚悟を決めたのよ。
 これはこれで、結構大変なのよ。
 ええ、だって私は、その大変さと向き合う覚悟が決められなかったからこそ、全く逆に、
 自分の意志のままに生き続ける人生を、少し昔まで歩んできていたのだから。
 そして。
 やっぱり、今こうして、かつて大変だと苦しいと思っていた、この自動的な道を歩いていることに、
 少しでも、大変だと、苦しいと、そして、この道を歩いていることに努力しているとか頑張っているとか、
 そういう想いと言葉を私が必要としているのなら。
 
 
  私は 今歩いているその私の道を、その道を歩く覚悟を決めている、その私を否定するわ。
 
  きっとその私の否定が
 
  私の 自動的な私の胸に 響くと 信じて
 
 
 それが
 
 
 
 
   −  夢
 
 
 
 
 
 
 私ならきっと、その夢に至れると信じているわぁ。
 だから、私はその夢を叶えるためには、ぜーったいになにもしない。
 それは全部、自動的な私にお任せよ♪
 私は、私の出来ることをするだけで、充分。
 私に出来るのは、私の否定だけ。
 否定し続けるわ、それは、決して、私の夢のためにし続けているものでは無く。
 ただただ。
 私が、生きている証、そのままの行為。
 ふふ、あの女は自分の目的を果たした後、七花君と一緒の旅をして、全国の地図を作るという、
 そんな夢を持っていたみたいだけれど、その夢は、あの女が果たそうとしている、刀集めなり復讐なり
 というその目的とは、なんの繋がりも無いのよね。
 あの女は自分の夢を叶えるために、自分の目的を果たそうとしている訳じゃ無い。
 あの不愉快な女も、ちゃんと夢と目的を切り離せていたのかもしれないわね。
 私も、そうよね。
 私の夢は、この部屋を出て旅をして回ること。
 それは、私の、というかご先祖様の大願の成就とはなんの関係も無いこと。
 あの女が自分の意志で以て自分の目的を達成したから、あの女が夢を叶える?
 馬鹿ねぇ、そんな事は絶対にあり得ないのよ。
 あの女がなにをしてもしなくても、夢は叶ったり叶わなかったりするのよ。
 と同時に、私が目的を果たすための行動は一切せずに、ただ流れに身を任せて適当にご先祖様の
 大願を成就させようとしているだけだから、私の夢は叶わずに私は死ぬ?
 愚かねぇ、そんな事は絶対にあり得ないのよ。
 私がなにをしてもしなくても、夢は叶ったり叶わなかったりするのよ。
 
 あの女が死んで
 私が生きて
 あの女の夢は叶わず
 私の夢が叶った
 
 歴史的に於いてのみ それは必然なのよ
 
 逆に言えば、歴史以外に於いては、それはすべて偶然なのよ。
 あの女が死んで、夢を叶えられなかった事で、あの女が生きていた事自体が否定される?
 そうだというのなら、私はその言説を、否定するわ。
 あの女が死ぬまで生きて、それでもう、あの女の生は肯定される。
 無駄な死というものがもし存在するとしても、それは生きる目的を果たさね意味が無い自分という
 ものの範囲の中にしか、それは無いわ。
 目的を果たそうと果たさずとも、あの女が生きた事に変わりは無いし、全くのそれは等価。
 だから私は、私という自分を否定するのよ、いい加減、わかったかしら?
 
 
 だから、私は往くわ
 
  七花君とのふたり旅、とーっても面白そうだもの♪
 
 
   私は 夢のために生きるのじゃなく
 
     夢の中で 楽しく 生きていってみるわ♪♪
 
 
 
 
  生こそ  夢 そのもの
 
 
   夢なんて 叶えるまでも無く   もうとっくに 叶っているものよ
 
 
 
    夢に拘る その自分を否定すれば、ね
 
 
 いえいえー、それ以前に
 そのひとつの夢も抱えて、今生きている夢の中を歩いていけばいいのよね。
 まーったく、この愚か者。
 右衛門左衛門。
 だーれが、あんたを置いていく、って言ったのよ。
 あんたも来るのよ。
 ま、あんたは死んじゃったから、その夢は叶えられないんだけどね。
 でも
 その夢を
 描く事は、出来るのよ。
 夢は叶えるためのもので無く、描くもの。
 夢を思い描いている、そうしている私が既に夢の中。
 それが、夢と、そして希望の物語、なのじゃないかしらね。
 語るべくは、自分では無く。
 夢。
 夢が敷き詰められ、希望に満ち溢れた人生を語る、それが生きるということそのものよ。
 だから、夢が叶えられようと叶えられなかろうと、それこそ、否定的なだけよ。
 夢が叶えられなければ生きる価値が無い、生きた意味が無いという自分を否定するわ。
 だってさぁ、夢が叶えられなければ意味が無いとか、それが出来無い自分に生きる価値が無いと
 思うからこそ、夢も希望も無くなってしまうのだと思うわよぅ。
 べつに叶えなくてもいいからこその、夢よ。
 叶えなければ意味が無いというそれは、むしろ夢でも何でも無い。
 希望もそうよねぇ、自分の望みを叶えられる状況があることが希望、という事じゃあ無いわ。
 自分がなにかを欲すること、それ自体が希望というものなのよ。
 すなわち、自分の欲望なり欲情をそのまま認めることが、もう希望がある、ということなのよね。
 
 ある意味。
 
 それが、歴史の改竄、とは言えないまでも。
 
 改変、ということは言えるかもしれないわね。
 
 夢は叶えなければ叶わなければ意味が無いとか、それこそが、夢も希望も無い話よ。
 むしろ、そういう世界観を抱いてしまっている事が、絶望的よね。
 それを改変するのが、私の目的。
 こういうことがしたい、こういうものが欲しい、そう思えるだけで薔薇色になる世界を創るための、改変。
 こういうことがしたい、こういうものが欲しい、そう思うだけでは駄目だと思い暗黒に染まる世界を
 創り替えるための、改変。
 と、私の目的、というかご先祖様の大願の中身を分析している、その私が生きている、
 それだけで、確かに少し楽しい私を、私は正直に感じるわ。
 その、少し楽しい、を受け入れるところから、すべては始まるし、そこからしか始まらない。
 なぜって?
 それこそ簡単な話よ。
 それは、私がこんなにも長々と、色々なものを否定し続けているからよ。
 否定せずにはいられない、そういう自分に、私が未だにがっちり捕らえられているからこそ、
 私はそれを否定し続けているのよね。
 その私を、そこから連れ出すのは。
 私の、楽しさ以外に、無いのよ。
 私が感じたその楽しさが、たとえほんの少しなものであろうと、沢山では無いということに絶望して
 いようとも。
 それが、私の感じた楽しさである、ということは確かなのだから。
 私はそれから始めるしか無いし、そして。
 そこから、始めなければいけないのよね。
 
 
 
  だから今が、こーんなにも楽しくなっているのだと、そうねぇ、
  そういう私なら、私は語り上げ作ることに、やぶさかじゃー無いわ♪
 
 
 
 
 それが一体どういう事なのか
 私が理解しようと理解しなかろうと、それこそ、どうでもいいことよ。
 そういう分析は、あの不愉快な女が死に際にでもやっていればいいのよ。
 
 
  まぁ
  そういう事だから
 
   あの女は私にありがとうと言う、あの女の死に際にその結論を出したみたいだけど
 
   じゃあ私は
 
 
   あの女にありがとうとは言わないわと言う、この私の生き様の中でその結論を出してみるわ。
 
 
  私はあの女に感謝されるような事はなにもしていないし
  そして
 
  あの女も、私に感謝されるような事はなにもしていないのだから
 
  そうだからこそ
  敢えて、ありがとうと言う
 
  あの女を
 
 
  最後に  否定してあげるわ。
 
 
 
  私はあの不愉快な女のこと
 
 
 
  『嫌いじゃなく、無くもなかったわ。』
 
 
 
 
 
 
 あの女の存在が、私の歴史に決定的な変化を与えたのは、どうしようもなく、事実よね、
 
 
  ってぇ、
 
 
  ちょっとぉ、待ってよぅ、七花くーん!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 と、いう、物語。
 
 
 
 物語にして、歴史。
 そして。
 
 嘘歴史。
 
  これぞ私が好き勝手に語った、夢に包まれた私の歴史。
  私の、自分。
  自分という希望。
 
 
 
 だから私は
 
   それを 否定するわ
 
 
 私はこうして長々と、そして切実に否定し続ける、その物語で創り上げた自分を、否定するわ。
 物語の中身では無く、その存在そのものを。

 
 私は肯定するわ
 私が、延々と否定を続けなくてはいけないほどに、そういう生を、歴史を生きてきた
 
 その私の
  悲しみを
 
 
 そして、その悲しみを否定しようと、必死に否定の歴史を組み上げる、その私を否定するわ。
 
 
 
 

ああ

 
 
 

悲しいわぁ

 
 
 
 
 
 

ほんとうに

 

こうして自分の歴史を眺めてみると

 
 
 
 

ほんとうに

 
 
 

頭を抱えるくらいに、悲しいわねぇ

 
 
 
 
 ほんとはただ
 悲しいから、悲しいままに、必死に語り続けていただけなのよね。
 否定という道具を使って、ただ私はその悲しみを否定しようとしていただけ。
 悲しくない、私は悲しくない、私は悲しくないと言えるためには。
 どう語れば、よいのか。
 だから嘘歴史。
 悲しいのに、それを否定して、悲しくないと言える物語を綴る私の自分。
 最後にだから、私は、その自分そのものを、否定するわ。
 私は
 悲しい
 よくよく考えれば、なんて悲しい人生なのかしら
 それなのに、自分の積み上げた物語の文脈の中では、そんなものは悲しみとは言わない、
 だなんて言って否定したりして、ほんとうに私は物語に囚われていたのよね。
 自分の悲しさを自分で認める事も許せない人生だなんて
 とっても、とーっても
 悲しいじゃない
 どうして気付かなかったのかしら
 いえいえー
 気付いていたからこその、この人生だったのよ。
 あの女が、七花君に惚れる理由が、よーくわかるわぁ。
 
 私は否定姫。
 自分の悲しみを、否定することでしか生きられない悲しい女。
 そのために自分という物語の存在そのものまで捨てようとするだなんて、ほんと、果てしないわよね。
 私は、悲しみを否定する事しか出来なかった。
 なら
 あの女は
 
 あの容赦姫は
 悲しみを無理矢理肯定する事で、悲しみを物語にし、そして。
 悲しみを、それ以外の前向きな感情の文脈で以て否定するのかしら。
 それとも・・
 
 
 それを越えて
 
 
  己の悲しみに   到達する
 
  その自分を容赦出来るのかしら
 
 
 
 
 
 
 
  あの女が最期になんと言って死ぬのか、確かにほんとうに、興味あるわぁ。
 
 
 
   夢も希望も嘘も無い話をあの女なら聞かせてくれると、私は信じているわ。
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                      ◆ 『』内文章、アニメ「刀語 第十一話 毒刀・鍍」より引用 ◆
 
 
 
 
 
 

 

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