+
+
+
+
+

◆◆◆ -- 2011年5月のお話 -- ◆◆◆

 

-- 110526--                    

 

         

                                ■■ アニメの季節 4 ■■

     
 
 
 
 
 前略。
 
 今回も前回に引き続き、前期アニメのまとめ感想を書かせて頂きます。
 今回は、「とある魔術の禁書目録U」「STARDRIVER 輝きのタクト」「レベルE」
 三作品について書かせて頂きます。
 
 それでは、早速。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 とある魔術の禁書目録U:
 これは結構難しい。
 正直言うと、なにがなんだかよくわからない。
 ふたつめのOPとEDが好きだなぁ、特にED。
 あの健やかな魂の広がりと言うのだろうか、それがゆっくりと深呼吸してそのままの世界にリンクしていく、
 その清々しさと、それへの希求が実現する状態。
 たぶん、この作品がやりたかったのはそれなのだろう。
 でも、それが、EDだけにしか表れていず、肝心の本編がごちゃごちゃと食べ合わせの良く無い感じに
 なってしまっている。
 
 ぶっちゃけ、戦い無しのそのままの平和が逆に失われてなくね?
 
 戦いあっての平和というか、もう当麻の傷だらけの帰還無くしては、あの平和でそのままの世界が
 成り立たなくなってるし、同時にそうしなくては得られないもの、という感じになってしまっている。
 ちょっと行ってくる。
 ただいま。
 たったこの二言で表せる、ただほんとうにそれだけの価値しか無い「戦い」なはずなのに、そして
 なによりこの作品自体が求めているものがそういうものなはずなのに。
 いつのまにか、その二言でしか無い「戦い」が、魂になって、それによってすべてが生かされてしまって
 いる。
 なんだこのぶっ飛んだ本末転倒ぶりは。
 べつに当麻に戦うなとか言ってる訳じゃ無いし、むしろ当麻は自分が大切なものを守るために戦って
 いい。
 そう、主人公上条当麻自身は、全くそれでいいのだ。
 もうマンネリ以上のなにかである、圧倒的なブレなさが彼というキャラと、そして彼によって具現化
 されている、この作品が希求し愛求しているもの、それ自体は良いのだ。
 問題なのは、作品側の方だ。
 当麻は、「帰還するために」戦ってしまっていないか?
 当麻がいる場所は、「帰る」場所なのか?
 当麻はただ、戦いのある場所に、「行く」だけなのではなかったか?
 これは、大きな違いだ。
 
 当麻の日常は、戦いか? 平和か?
 
 アホみたいに不幸(主に女難)(ほぼ自業自得)な平和を生き続ける中で、時折、あるいは
 しょっちゅう巻き込まれる洒落にならない戦いに、ちょっと参加する。
 当麻は、帰ってくるのでは無く、行ってくるだけなのだ。
 ぶっちゃけ、当麻の巻き込まれる戦いの規模が大きくなりすぎて、インフレを起こしすぎていて、
 なんというか戦いの合間に平和な毎日にちょっと一休みしに帰ってくる、みたいになってしまっているのが、
 なんだか作品側が色々と見失っているのを感じさせられる。
 だから、時折無理矢理挿入される平和エピソードが、かえって空々しい。
 これじゃあまるで、戦いが現実で、平和が非現実的な、言い換えればよくあるパターン過ぎて見てる
 こっちが情けなくなってくるような、現実は甘くないんだ的な説教話に堕落してしまっているではないか。
 現実は、物語である。
 すなわち、現実とは、どう語るかだ。
 語りの数だけ現実は存在し、その語るという事を他者に委ねた瞬間に、そこにはリアリティを失った
 現実という名の虚構しか存在しなくなる。
 上条当麻の語りとは、なんぞや?
 「リアリティ」というラベルを貼り付けた、他者の物語を上条当麻に語らせたところで、なんの説得力も
 無ければ、感慨も無い。
 現実は甘くないんだ的な、戦いあってこその平和だ的な、そういう語りは、それは彼のものでは無い。
 その語りは、作品側のものだ。
 いつから、作品側は、彼を裏切ったのだろう。
 いつから、作品側に裏切られた彼は、インデックスを裏切ったのだろう?
 ぶっちゃけ、インデックスを、ただ待つ女にしたらこの作品は終わりだ。
 この作品は、インデックスの我が儘かつ強引な暴れっぷりに当麻が振り回され、しかし当麻はその
 インデックスの求めているものの正当性をちゃんと理解している、それが肝だ。
 インデックスが、作品側の物語に支配された当麻の、その作られた話に「理解」を示して従うだけの
 ペットになってしまったら、私はもうこの作品を観ない。
 
 それは、アクセラレータとチビ御坂との関係を対比して見れば、よくわかる。
 アクセラレータ自身が語り、そして保有している物語は、現在作品側が当麻に押しつけている物語
 と形は同じだ。
 現実は甘くない的な、それだ。
 元々、アクセラレータはその物語を施設だか研究所だかの連中に押しつけられ、魂レベルでそれと
 癒着してしまった訳だが、少なくともあの「作品内世界」に於いては、それが彼自身が語る自身の
 現実物語であることには違いない。
 当麻が現在背負っている現実物語は、それは「作品内世界」に於いては彼自身が語った物語
 では無く、作品側つまり作品の作り手が彼に負わせた、作品側つまり作品の作り手自身の物語
 にしか過ぎない。
 もっと言えば、あの作品の中の世界を生きる、上条当麻という人間が失われているのだ。
 私が今あの作品の中で一番好きなのは、文句無しにアクセラレータだ。
 自分の物語として彼自身が語っているその彼の現実物語。
 アクセラレータは、その物語に否を突きつけ、それは本来自分の物語では無く、他者によって自分の
 物語とされてしまっているものだ、という自覚を持って、現在自分の現実を改めて己に即して語り直し
 ているのだ。
 こんなにエキサイティングな話は無い。
 現実? それがどうした。
 おまえらがどんな図面を敷こうが、俺の知ったことか。
 己の能力の高さに頼らず、ただ己の自覚のみでその言葉を吐くアクセラレータ。
 と同時にその言葉を紋章として振り翳し、その名に於いて己の能力をも再使用して
 己の現実再構築を手掛けていく。
 これ以上にセクシーなことは無い。
 彼は現実逃避をしているのでは無く、現実を創造しているのだ。
 もっと言えば、他者に語られた物語の中で、その中で生きることこそが現実だという愚か者ほど、
 現実逃避の極みに達している者はいない。
 現実とは、語ることである。
 そう。
 自分で。
 そして、自分で語った物語を背負うことが。
 生きる、ということだ。
 そうでないお話に、人間に、私は魅力を感じない。
 そしてだからこそ、アクセラレータを「信じて待つ」ことが出来るチビ御坂への共感率が半端無い。
 
 信じることと、期待することは、違うことだろう?
 
 チビ御坂は、アクセラレータがどんな物語を紡ぎ出そうと、アクセラレータを受け入れる。
 信じて待つって、そういうことじゃね?
 チビ御坂が求める物語を、アクセラレータが必ず紡ぎ出して、そして自分のところに絶対に「帰って」
 来てくれる、というのは、それは期待して待つ、ということだ。
 それは、アクセラレータのことを、信じているとは言えない。
 そしてチビ御坂がアクセラレータのことを信じて待つのは。
 彼女が、彼のことを好きだから。
 自分が背負っている物語が、自分で語ったものか他者の語ったものであるかを見分ける能力が
 高く、そしてまた他者の物語からの独立、そして自立する責任感があり。
 そしてなにより、自分の気持ちに徹底的に忠実にあろうとする、その彼の想いが。
 なんだか、嬉しいよね。
 どんなに他者の物語に魂レベルで支配されようと、揺さぶられ続けようと、彼は決して、諦めない。
 自分の人生を、自分が生きることを。
 自分を発見し、自分を救済し、そして。
 自分を、立って歩かせる。
 だから、他者に語られた物語を背負って、ボロボロになって帰ってきた上条さんの頭に、容赦無く囓り
 つくインデックスは輝かしい。
 そんな当麻を待つ価値なぞ、無いからね。
 ボロボロになるのが、戦うのが悪いことでは無い。
 その傷が、戦いが、自分の語った物語の中で行われたかどうか、ただそれだけ。
 それを、自分で選んだと天地神明を越えて。
 自分の魂に、本当に気持ちに対して、誓えるかどうか。
 そしてその覚悟には、誠実さが求められる。
 自分の気持ちを騙しての覚悟など、犬に喰わせろ。
 誰よりもなによりも、自分の欲望に対して忠実であれ。
 上条さんのこれからの活躍を信じてお待ちしております。 (微笑)
 ・・・うわぁ、こいつ色々期待してんなぁこれw
 
 
 
 
 STARDRIVER 輝きのタクト:
 リビドーとは、なにか。
 わからない。
 わからないものとして、その言葉を使ってみる。
 リビドー。
 自分を突き動かす、なんだかわからないモノ。
 不思議だなぁ。
 私はずっと、いろんなものがわからないと思っていたはずなのに、そのわからないという思いは、
 ずっと不可欠なものだったのではないかと、この頃思う。
 わかってはいけないものがあったから、わからないという認識が、必要だった。
 なんのために?
 そのなにかをわかってはいけない、というルール、支配、守りたいもの、なんでもいい、そういったものに
 従うために、それは、わかってはいけないものだった。
 わかりたいか、わかりたくないか、そう問われれば。
 わかりたくない、と答えが出る。
 そして。
 
 わからない人生が始まった。
 
 そして、わからない、という不安定さ自体を埋めるためにこそ、全く別のものを用意し、それを理解
 することに勤しもうとする。
 わかろうとすること、理解しようとすること、それ自体が目的になる。
 なにを、わかろうとするのか理解しようとするのか、という問いを無効にするために。
 だから、そのなにを、という問い無しに、全く別のなにかが、そのなにかの席に居座り、堂々と君臨する。
 リビドー。
 背徳的な響き。
 リビドー。
 その言葉を、貶めつつ、使用している。
 リビドー
 ああうるさい
 最初その言葉を聞いたとき、そう感じた私が確かにいる。
 リビドー
 だまれ
 リビドー
 やめろ
 リビドー
 
 わかっている
 みえている
 
 すべてはまやかし。
 リビドーを覆うリビドーが存在する。
 どうしてその覆いとしてのリビドーを必要としたのか、それだけは、隠せない。
 けれど、だから、隠されている本当のリビドーを受け入れるのでは無い。
 みえているから。
 そうだよねぇ
 タクト君の清々しさは、まったく単純に、すべてそこに帰結する。
 自分のしたいことやりたいことを達成するために必要な犠牲なりなんなりを、それをすべて計算して、
 それを背負う覚悟が成り立たないからこそ、その弱い自分を否定して、その覚悟を背負おうとするの
 は、それは実はリビドーの中に入っていない。
 タクト君にそんな計算は無いし、覚悟すらも無い。
 守るものを必要としないからこそ、守ることが出来る。
 タクト君はいつだってリビドーに忠実だ。
 なんにも考えていない。
 なんにも考えていないからこそ、結果的にわからないという真実の中を生きている。
 沢山色々な考えるからこそわからなくなる、というわからなさの中には至らない。
 私はタクト君が好きだ。
 無邪気でも無く純情でも無い。
 なにも考えないということと、なにも感じ無いということは違う。
 タクト君は、自らのリビドーを生きるために、考えることを必要としない。
 羨ましい。
 そして、それ以上に、憧れる。
 私には、守りたいものを必要とする紛い物のリビドーがある。
 そして、それ無しには、その向こうにある晴れ晴れとしたそのままのリビドーに至ることは出来無い。
 だから、守れない。
 守っては駄目だということが、わかる。
 そのままのリビドーに、そのまま至らなければ、駄目だ。
 よく、わからない、やっぱり。
 
 ひとつの理想の男性像として、タクト君はある。
 彼を目の前にした女の子と男の子が、どうするか、どうなるか。
 これはそういう作品。
 この作品は、いいえ、タクト君は、厳しい。
 というより、目の前のタクト君を見るたびに感じるたびに、自分の中に厳しい誰かが登場する。
 凜として、毅然として、真っ直ぐに。
 リビドーに向かっていく。
 それは自らを突き動かすには十分すぎる衝動で、そして充分過ぎるほどに、危険。
 燃える。
 萌える以前に、燃える。
 タクト君のスマートさは、タクト君を目にした者を、その者自身へのリビドーに誘ってくれるところにある。
 それは、タクト君にベタ惚れして、タクト君を手に入れるためにならなんでもする、ということでは無く、
 全く逆に、タクト君という鏡に照らされた自分の姿を改めて受け入れて、そこから真に自分の求める
 もののために頑張っていく、その矜恃を与えてくれるというもの。
 言い換えれば、自分が本来持っているスマートさが、タクト君のその姿に投影されるということ。
 ああ、私がなりたかったのは、こういう私なのか。
 他者のリビドーによる支配の中で、堅固とした自分の立ち位置を守る事の中にしか誇りを感じられない、
 その私を、カッコ悪いとはっきりと断罪する。
 己のリビドーに振り回されて、かえってそれだけになることで得られるものが少なくなってしまっている、
 その私に、情けないときっちりと罪状を突き付ける。
 私だって、カッコ良くなりたい!
 タクト君は、ひたすらカッコいい。
 なぜなら、最初から、はっきりと己のリビドーが見えているから。
 だから、他者のリビドーに振り回されない。
 そして、己のリビドー以外のものにも目を向けられる。
 すごいな、っておもう。
 そしてそれが、私のリビドー。
 リビドーを真に使いこなす、自由な私。
 タクト君のスマートさは、私自身が求めているもの。
 他者の虜とならずに、他者のためにも行動出来る。
 自己の虜とならずに、自己のためにも行動出来る。
 
 正直言うと、私はこの作品には言いたいことが沢山ある。
 貰ったものが多すぎて、なにがなにやら、まぁ、放映が終わってこれだけ時間が経ってしまったので、
 興奮が収まってしまったところもなきにしもあらずですけれどw、だからなんというか、なんと書いてよい
 のかよくわからないのが、正直なところ。
 うん・・
 タクト君に、救われたところが結構ある。
 自分と向き合い、自分と戦う、そういう私にとって、彼の存在は大きかった。
 そして、自分が陥りやすい状態に陥っていることを、何度となく、その銀河美少年ぶりで教えてくれた。
 ワコやスガタ君が一体どれほどタクト君によって気付かされたものがあるだろう。
 誰かのために、なにかの、ために。
 それを自らのリビドーとして信じて疑わない自分と、それを真っ向から否定する自分。
 その戦いが延々と続き、両極端な自分を行き来する。
 自己か、他者か。
 タクト君は、それをあっさりと踏み越えていく。
 まるで、最初からそれしか無かったかのように。
 どれだけ、私達が今ある当然を、それが必然だと思い込んでしまっているか、ということに。
 それが人間だ、それでいいんだという等身大的な言葉を嫌っていたかつての私は、すなわち、
 それが今自分を捉えている問題を解決しようとすることからの逃避だと、感じていたからだ。
 そして今、私が等身大の自分を受け入れている事への罪悪感は、自分が今捉えている問題を
 解決せずにそのまま放置することを正当化しているような感じがしているからだ。
 そっか。
 タクト君の、爽やかな言葉がきこえる。
 彼はそれでいいとも、どうしろとも言わない。
 ただ、そう言うだけ。
 自分で決めることなんだ。
 今ある選択肢の中からなにかを選ぶのか、それとも、今ある選択肢から選ぶのかそれ以外の選択肢
 を探すことを選ぶのか。
 可能性。
 可能性の探索とは、自らがこれが現実だと捉えた小さな世界、物語からの脱出を意味する。
 新しい、他者との出会い、関係性の構築。
 それだけで、あっさりと現実と世界は変わっていく。
 その中での自己も変わっていく。
 自分はもう変われないと思い、可能性の探索を怠るとき、人は閉塞した関係性の中に囚われる。
 そもそも、自己のために生きるのか他者のために生きるのか、なんて選択肢自体が、現在自分を
 取り巻いている他者との関係性の中から出てきたものにしか過ぎない。
 新しい関係性が生まれるたびに、その選択肢は変わっていくのだから、むしろその選択肢に悩む事
 自体が、私が既に目の前の他者と、その他者との関係に固着する自己に囚われている事を証して
 いく。
 私は変わりたい。
 ううん。
 
 もう変わった。
 変わって、新しい人達と出会い、新しい関係を築き、そして新しい世界と繋がった。
 だから
 
 その新しい自分を守るために。
 毅然として、その自分の目の前にいる新しい人達の前で、立っていたいから
 
 昔の自分を 世界を 殴りにいく。
 
 変化するとは成長すること。
 私は変化することが怖かった、なぜなら今までの他者との関係性の中に生まれた自己を元にして
 繋がった、その世界にいるしか無かったから。
 だから、その中で守りたいものを作り、そしてそれを守らなければいけないものへと昇華させ、それを
 必要とし、そして。
 しがみついた。
 そのしがみつきを正当化するためにこそ、様々な考えを巡らしたり、誇りという名の驕りを育てたり。
 そして、それが人間なんだ、それでいいんだ、なんて・・・
 それだけは、否定していたのにね、それでいいわけ無いだろ、って。
 なのに、関係性が固着して世界が固定してしまっている以上、その中で生きていく事だけが、
 「現実」になってしまっているからこそ、そこにその現実を生き抜く覚悟だなどという言葉を持ち出して
 まで生きてしまう。
 それこそ、しがみつくように。
 それは、自立とは、呼ばない。
 あの島という狭いの世界の中で、そこに適応して生きていく事に矜恃を持とうとしていたワコやスガタ君
 を、カッコイイだなんて、タクト君と出会ったらもう。
 誰も、思わない。
 タクト君と出会わなければよかったと思えてしまうくらいに、もう、圧倒的に、思わない。
 リビドー。
 なんだよ、それ。
 わかってんじゃん。
 私は、ミズノちゃんも好き。
 狭い島の中で、色々辛いことがありながらも、その中で楽しく愉快に生き抜いてきて。
 その裏にある深い絶望と、そして叶えられない本当のリビドーを隠すことにしか、現在の楽しくて
 愉快な生き方を使えていないと、うっすら感じていても。
 最後には、島を出た。
 島を出ることが出来た。
 ミズノちゃんが、楽しく生きたかったのは、それは本当のことだもの。
 ミズノちゃんは、あの島での生活を確かに幸せだって感じていた。
 でも・・それは・・・・
 そう思わなければ、生きられなかったから。
 幸せだと感じる自分を否定してしまったら、一生涯、幸せというものを得られることは無いと、知って
 いたから。
 だから、ミズノちゃんが幸せだと感じているのなら、それが幸せだというのは、この場合、嘘なんだね。
 すごいわかるよ、私。
 私は幸せだよ、って何度笑顔で言って、他者と、そしてなにより自分を騙してきたことか。
 ミズノちゃんは幸せになりたいと思う自分を必死に守り続けるために、幸せの呪文を唱え続けていた
 だけ。
 消えない幻は現実、だっけ?
 それは全くその通りなんだけど、ミズノちゃんはその幸せの呪文をどう使ったか、それが問題なのよ。
 ほんとに幸せなら、そもそもそんな呪文、いらないはず。
 彼女が島の中で感じていた、幸せそのものが、実は幸せの呪文そのものだった。
 幸せだ、私は幸せだよ、こんなに幸せなんだよ。
 それが、幸せの呪文。
 幸せの呪文を唱えなければ、幸せを感じられない。
 島を出て行くときにも、彼女はその呪文を唱える。
 なぜなら。
 幸せに、なりたいから。
 島を出て、新しい世界に出て行って、そこに幸せを描きだしたいから。
 可能性の中にしか、実はほんとの幸せってないんじゃないかなぁ。
 選択肢の存在自体を選ぶ事が可能な状況の中でしか、幸せっていうのは無いのかも。
 選択肢の無い島の中で唱える幸せの呪文と、選択肢の広がっている島の外で唱えるそれとは、
 たぶん全然違うんじゃないかな。
 彼女は、島を出ることで、初めて島の中にいたときの自分の幸せが嘘だって知り得るのだと思う。
 だって、島の中では、「幸せになるしかなかったのだから」。
 笑い続けるしか無かったのだから。
 それは、幸せじゃないよ。
 それは、笑顔じゃないよ。
 それは
 幸せと笑顔を求める、痛切な魂の叫びが顕現したもの。
 それを、ミズノちゃんが痛切に、そして鮮烈にあの世界の中で魅せてくれた。
 はぁ
 溜息。
 ミズノちゃんが、あの島の中で幸せに生き抜いてきたことは、とってもすごいこと、尊敬に値する。
 すごいよ、彼女は、ほんとうに。
 そして彼女は、自分のその誇りの使い方を、間違えなかったんだね。
 その誇りは、あくまで、本当の幸せを得るための、その新しい自分に至るために持ったもの。
 間違っても、今の嘘つきな幸せに生きられる自分にその誇りを使ったりなんか、しなかった。
 ・・・・痛い、胸が痛いよw 私散々そういうマズイ使い方しまくってきたものねぇ・・w
 うん、ミズノちゃんはタクト君と出会って、ワコと出会って、変わった。
 彼女がずっとずっと魂の奥深くで求めていた、本当のリビドーの導きによって得た、その新しい世界。
 もう、いらないんだね、それまでの幸せな自分と、呪文は。
 幸せの呪文が解けた、シリアスな彼女の姿に胸の底から共感する私がいた。
 自分を支配していたもの、そしてその仕組みを理解し向き合う勇気を持ったとき、彼女は彼女が
 辿り着いた新しい世界を生きる資格を得た。
 全然全く笑わない彼女に、とてつもなく心揺さぶられる。
 笑わないでいるのが怖い、でも、泣けなくなるのはもっと嫌。
 彼女の苦しみが、不安が、苦悩が、とても、明るい未来に、希望に繋がっているのが感じられた。
 ひたすら前向きで、笑顔で、幸せを感じて生きてきた、それまでのミズノちゃんが、絶望の中を生き抜く
 ための適応であったことを、なによりも感じる。
 よく頑張ってきたね、ミズノちゃん。
 彼女は幸せの呪文を使って、双子の姉のマリノちゃんと幸せという、そのふたつの幻を新しい世界に
 到達することで、新しい現実のものとしたんだよね。
 島にいたときの幸せとマリノちゃんも現実だし、それがミズノちゃんを支え守ってきたことも事実、
 けれどそれは、それだけのこと。
 なんのために?
 なんのために、その現実はあったのだろ?
 リビドー
 答えは、ひとつ。
 なんのために、あなたは生きてるの?
 その問い自体が、答え。
 その問いが、タクト君、銀河美少年の姿を通して、私やワコ達に返ってくる。
 そして、その答えを真摯に誠実に導き出して、それに自分のすべてを懸けられると本当に思えた
 とき、それは己のリビドーに導かれた幸せとなる。
 だよねー。
 これをやる事に自分の命、っていうか人生を懸けられるっていうのはさ、それしか選択肢が無いところ
 でそれをやっても、それは自分に対して不誠実だもん。
 だから、自分の可能性を広げて選択肢を増やす、ということはこれ、自分の人生に対する唯一の義務
 、なんじゃないかな。
 
 『やりたいことと、やるべきことが一致するとき、世界の声が聞こえる。』 by銀河美少年
 
 ほんとにやりたかった事を、今やって良い、いえ、やるべきだと。
 全身全霊、魂レベルで突き動かされ、そして、やれる、という確信を持てたとき。
 人は、成長する。
 いや、その人の世界観、世界そのものが大きく変容する。
 なんか今、私そんな感じw
 丁度一年くらい前に、結構人生的に辛いことあって、で、その辛さを乗り越えることばかり考えて
 いたけど、ほんとはその辛さは、それ以前の私の人生すべてを乗り越えるために与えられたものじゃ
 ないかって、ね。
 だから、そのとき感じた辛さだけを乗り越えようとすると、逆に今までの人生自体が孕んでいた巨大な
 辛さの中を生き抜くことで、その中での適応としての循環をしてしまう。
 つまり、これまでの人間関係とか、それに基づく自己イメージや世界観から脱出出来無い。
 私のほんとうの願いは、リビドーは、なに?
 なんのために、今私は辛さを感じているの?
 それは、私がもう辛さと感知する事すら出来なくなった、隠蔽された巨大な辛さを暴き立てるための
 ものなのじゃないの?
 笑っちゃ駄目だ、これまでの人生が培ってきた現実の中を頑張って生きちゃ、駄目だったんだ。
 その中で生きるしか無いと、その適応に囚われてしまっている自分の発見。
 この一年間で、私はその事に全霊で気付いていった。
 この作品もその一助になったよね、間違いなく、とんでもなく。
 私が今、感じている辛さは、本物だよ。
 そして、嬉しくて、ワクワクする。
 辛いと感じ、その辛さを試練と捉えて乗り越えていく事で、これまでの世界を生きられる自分に
 喜びを感じる、そういうマゾ的な辛さは、もう卒業。
 私のこの辛さは、新しい世界へと私を導いていく。
 ありがとう。
 最初のOPの清々しさと、なにかが一気に広がり飛び立っていく感覚は、最高でした。
 私もタクト君みたいに、ちょっと新しい世界へ行ってきます♪
 ・・・いや、あっちの世界とかそんなんじゃないから、や、あっちってどっち? (明日が見えない ぉぃ)
 
 
 
 
 レベルE:
 最後まで観てから言い切ろうと思っていたので、最後まで観た今はもう躊躇わない。
 駄作。
 この作品は駄作だと、私は断言する。
 理由は簡単で、この作品はアイデアだけで出来ているからだ。
 そしてそのアイデアを見せびらかしているだけだからだ。
 面白くもなんとも無い。
 アイデアそのものは面白いと言えば面白いけれど、それこそほとんど一発芸みたいなもので、
 その一発芸を数珠つなぎに繋いでいって、最後に綺麗にオチをつけた。
 ・・。
 これ、ほんとに面白いと思っているの? みなさんは。
 などと失礼なことも思わず考えてしまうほどに、この作品はひとつのアニメとして破綻していると、
 そう私は思う。
 それこそ責任を以て断言する。
 短編としては評価する、という声もよく聞くが、確かにそういうなんらかの限定を付しての評価なら
 出来無いことは無い。
 けれど、私はそうした限定を付しての評価をこの作品に与えることで、この作品に対する正当な(という
 のは言い切りすぎだが)評価から目を逸らすことをよしとしない。
 もし私が限定を付しての良い評価を与えるとするのなら、アニメで無ければ、この作品はそこそこ
 良い作品だろう、と言う。
 すなわち。
 
 アニメとしては、駄作だ。
 
 つまり、アニメ感想書きの私としては、この作品に対しては駄作と断言するのが筋であろう。
 少なくとも、私はこの作品を面白くないと感じた、その私の気持ちに忠実にありたい。
 私はこの作品を面白い、と感じ無かった。
 それは、私がいわゆる子供向けアニメを全く観ないことに通じる。
 もっと言えば、私がアニメに求めているものを、この作品はまったく有していない、ということだ。
 私がアニメに求めているのは、なんというか、「本気さ」だ。
 それは、アニメの作り手が、自分の持てる技術をきっちり披露する、という意味では無い。
 そのアニメ作品の持っているテーマなりギャグなり魅力なり、それを最大限以上に描くことに力を尽くし、
 そしてそれらのものに対して、作り手が一種の愛を持っているか、ということにある。
 私がこの作品に感じたのは、それこそ、このアニメの原作に対する尊敬と想いだけで、アニメの作り手
 自身がこの作品のテーマなりギャグなり魅力なりを、自分のものとして咀嚼し、愛と情熱を持って
 作り直す、ということが絶無、なのだ。
 私が、原作を忠実に再現したという触れ込みのアニメに価値を感じないのも、それに通じる。
 そして、私の言う「本気さ」とは、作り手が感じている、作り手自身のリアルタイムな「リアル」を、
 作品を使って全霊で表現しようとしているか、ということをも含んでいる。
 というよりむしろ、そちらがメインだ。
 私が、最近の宮崎作品に興味を感じないのも、それに通じる。
 今、ここで、この瞬間に、自分がどうしようもなく感じて考えているもの。
 どうしてもそれを作品に吹き込んで、今、描きたい。
 そういう切実さとしての「本気」を、己が自覚し、そして自分として作り出されたもの、それを私はアニメ
 を評価する際に最重要視している。
 このレベルEという作品は、確かに原作の漫画は面白いのだろう。
 しかしその面白さを作り出したのは、その原作の作者の「本気さ」が反映されたものであって、
 その「本気」から出てきたものであるからこそ、テーマなりギャグなり魅力なりが、その体温を以て
 それを読む者観る者に迫ってくるのだ。
 その作り手の「本気」さを抜きにして、ただ中身だけを移籍させて作ったものが、面白いはずは無い。
 
 げんに、面白くなかった。 (溜息)
 
 アニメは世界と繋がっている、というのが私の感じ方だ。
 ただ本人が趣味なり懐古なりで、あるいはきっとこういうのがウケるだろう楽しんで貰えるだろうという、
 そういう他者視点によるもので始まり、作者の接している世界の中で感じる自身の切実な想いから
 切り離されたものを魅せられても、私は全く、感動しない。
 アニメは、いわゆるひとつの問題意識の表れとして捉えることもある。
 今現在、なにが一体どうなって、それについて自分はどう考え、どうしたいのか。
 それはシリアスなテーマを主にした作品だけでは無く、ギャグコメディ作品などに関しても同じことだ。
 そしてこのレベルEというアニメ作品は、そうしたものから忽然と切り離されている。
 なぜ今、レベルEなのか。
 それが多くの人が抱いた感想だろうし、実際作品を観て見終わってからも、それは変わらないだろう。
 私は、如何なる必然性も、あの画面の中に見つけることは出来無かった。
 その必然性というのは、アニメ史的にとかマーケティング的にとか、そういう意味でに於いてのそれでは
 無い。
 レベルEを今作ることの必然性が、アニメの作り手自身の中に感じられない、ということだ。
 レベルEをこういう風にして表現すると意外な発見がある、こうして捉え直してみると、ああ今の時代
 に即しているな、そういうものがアニメとして作られた作品の中に、一切無い。
 あれは、漫画をそのまま映像化しただけのものにしか過ぎない。
 しかも、十年以上も前の作品を、その当時の問題意識のまま、投写しただけだ。
 それこそ、過去の名作アニメの再放送を観たかの如き感触だ。
 過去の作品を観て、今の自分のリアルの中にそれを観て感慨を得るのは、それは作り手では無く、
 あくまで視聴者の側のことにしか過ぎない。
 この作品は、あの当時のものをあの当時の感覚のままで、それを当たり前のこととして、視聴者の
 同意を作品の中で得るということなしに、やってしまっている。
 表現なりネタなり、あるいはファッションなり、その古さを「古い」という自己説明無しに、そのまま
 やってしまっている。
 なぜ、野球部のマネージャーが野暮ったいおさげの女の子なのだ。 (そこかい)
 今もしそこらでやっているアニメでそういう女の子が、ぽっといきなり登場しても、そこには説明的では
 無くともなんらかの了解がそこに発生して、それは堂々と受け入れられる。
 まぁもっとも、多くの場合、視聴者側の感度が低くて、その必然性を受け入れられずに抹殺される
 こともあるが。
 しかしこの作品の場合は、あの当時の視聴者側の了解を元にして、それが現在でも通用するかどう
 かすら確認せずに、そのまま、ぼんと、当たり前のようにして、あのマネージャーを登場させている。
 だから、劇的に、ズレる。
 「野暮ったい」という記号すらつけずに、あれが当たり前だといわんばかりに、そのまま登場させている。
 すなわち、この作品に対するツッコミが、この作品の中に存在していないのだ。
 これは、結構キツい。
 そのマネージャーのスタイルに対する、作り手の拘りがあるのなら、それはそれで受け入れ可能なのだ
 が、ああやられてしまってはねぇ。
 そういったことが色々なレベルでこの作品の中に鏤められているゆえに、私は正直、この作品に対しては
 良い評価を下すことは出来無いし、下す訳にもいかないと思ったのだった。
 つーか、純粋に面白くない。 (よくできました)
 
 
 
 
 
 という感じです。
 かなり調子が出て、調子に乗りまくって、調子が良いまま書き終わりました。
 あとは、ゆっくり休むだけです。 ←とんとんと肩を叩きながら
 
 といいつつ、実はまだあとひとつ残ってるんですよねぇ、いや、今回は書きませんけれどさすがに。
 まどマギ、です。 (溜息)
 これ、一番感想書くの難しいんですよねぇ、でもこの作品も終わっちゃいましたから、書かなくちゃ
 いけません、書きたくない、書きたくないよぅ! ←ごろごろと転がりながら
 
 というわけで、前期アニメのまとめ感想も残るところあと一回で終われそうです、やっと終わる。
 次回は今のところその更新を行う予定です、が、全く違うものを更新するかもしれません。 (どっちよ)
 
 それでは、今回はこれにて。
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 



 

-- 110522--                    

 

         

                                ■■ アニメの季節 3 ■■

     
 
 
 
 
 ごきげんよう。
 
 今日は前期アニメまとめ感想を書かせて頂きます。
 本当は三作品について書きたかったのですけれど、内容的に丁度良くまとまったので、
 今回は二作品についてのみ書いていこうと思います。
 
 ということで、挨拶もそこそこでは御座いますけれども。
 今回は、「放浪息子」「インフィニットストラトス」について語らせて頂きます。
 では。
 
 
 
 
 ◆
 
 
 放浪息子:
 
 い  や  だ 。
 
 私は千葉さんが好きです。
 今ならたぶんもう、そう言える。
 どうして、嫌って言えなかったんだろう。
 よく考えるよ、最近。
 どうして嫌って言えなかったのか、それは、嫌って言うのが怖かったから。
 千葉さんは、嫌なことはどんな事であろうと、全身全霊で拒絶する。
 そして、嫌だという自分の気持ちのままに行動して、その行動の結果の責任を全部取る。
 嫌いを嫌いと言い切り、そうする事で他人にどう思われ、どうされようとも、それを誰のせいにもしない。
 シカトされようと、おそらく虐められようと、千葉さんは自分の感性を大切にして、そのためにこそ、
 色々なものと戦っていく。
 不器用と言えば不器用だけれど、じゃあ、不器用って、なによ、という話。
 好きな事はなんでもやるちーちゃんは、たぶんとっても器用な人。
 それは、嫌いなことを嫌いと言う前に、既に他の好きな事を見つけてそっちに行っている、そういう
 意味では嫌いな事に関しては完全スルーで、そして無責任を貫き通す。
 それは嫌いなものを好きという事とは、違うから、無理が無い。
 嫌いなものなんて、嫌いって言う価値すらないんじゃなーい?
 だからちーちゃんはとっても器用で、たぶん、私は千葉さんよりも、ちーちゃんの方が本質的に、好き。
 ちーちゃんは好きなこと楽しいことだけやって生きていける、そういうハッピーな人だから、憧れる。
 
 じゃあなぜ、今、千葉さんなのか。
 
 考える。
 私は、どうしたかったのか。
 私は、ちーちゃんみたいになりたかった。
 好きなものを見つけて、好きって言って、ハッピーに愉快に生きたかった。
 それだけ。
 だから。
 きっと、嫌いなものと直面したときに、それが嫌いだという事を否定してしまった。
 私はちーちゃんになりたい、だから。
 嫌いなものを、好きだと、言わなくちゃ。
 好きなもので埋め尽くさないと、全部好きにならないと、私は。
 ハッピーになれない。
 怖かったんだろうね。
 嫌いな事に、嫌いな人に、嫌いって言って、それで、相手に嫌われることが。
 ううん、相手に嫌われた自分の事を、嫌いになってしまう私が生まれてしまうことが。
 誰かに嫌われる私の事を、私は好きになれなかった。
 私は、誰かに嫌われる私が嫌い。
 だから、私は誰かに嫌われない私が、欲しい。
 そうだよ、嫌いな私の事はスルーしていいんだ、無責任でいいんだ、そうだ、だから。
 みんなに嫌われない、好かれる、その私を好きで、その私を求め続ければいいんだ。
 それで私はちーちゃんと、同じだ。
 
 千葉さんは、みんなに嫌われる自分の事も、大嫌い。
 嫌い、嫌い、だいっきらい。
 でも。
 千葉さんは、その自分が嫌いな自分の事を、受け入れる。
 ええ、私はこういう人間なのよ、それでいいじゃない、それで、いいのよ。
 だから千葉さんは、自分を嫌う自分を。
 ちょっぴり、好きになれる。
 自分で、自分が好きになれる。
 だから自分を責め続ける事で、そうして自分を責めてみんなに好かれようとする自分をアピールする、
 だなんて事は、決してしない。
 嫌いなんだもの、しょうがないじゃない。
 無理がない。
 千葉さんの生き方は、強烈で、鮮烈で、だけど。
 無理が無い。
 嘘が無い。
 だって、私があいつらの事嫌いなのはほんとなんだもん、嫌いだから嫌いって言っただけよ、
 それであいつらが私の事を嫌うのは、それはあいつらの責任でしょ? 私が嫌いって言ったからあいつ
 らが私を嫌う? じゃあ私が嫌いと言わなければ、私はあいつらに嫌われる自分の事を嫌わなくても
 済む?
 ふ ざ け な い で 。
 私はあいつらの事、だいきらい。
 そしてあいつらの事を嫌いな私の事が、大嫌い。
 私はそれを認めるわ、ええ、そしてそれだけの事よ。
 そのふたつの感情の責任を、私は取るわ。
 だから、あいつらの事を無理に好きだと思うなんて死んでもしないし、そして同時に私は、あいつらの
 事を嫌う私のことを無理矢理好きになろうなんてしない。
 それが私だから。
 好きが好き。
 嫌いが嫌い。
 嫌いというのは、好きになるための材料でもなんでも無い。
 嫌いは直さなければいけないことでもなんでも無い。
 好きも嫌いも、等価な感情。
 もしそこに、価値の差が出るとするのなら。
 それは、好きという感情に浸るときはハッピーで、嫌いという感情に浸るときはアンハッピーだから。
 みんなハッピーがいいもん、だから、アンハッピーなことにいちいち囚われない、そうだよー、
 なにも嫌い嫌いってそんなに一生懸命に言わなくったっていいんだよー、たのしけりゃそれでいーんだよ。
 それが、ちーちゃん流。
 楽しいが、好き。
 ハッピーが、好き。
 
 私は、そうじゃなかった。
 
 ちーちゃんは、嫌いという感情を否定したりしない。
 ただ囚われないだけ。
 私は、嫌いという感情を否定する。
 怖いから。
 千葉さんは、嫌いという感情を肯定する。
 ただ囚われているだけ。
 私はちーちゃんみたく自由に楽しく生きたかった、なのにどこか間違えて、千葉さん的生き方を否定
 する形で、ちーちゃんになろうとした。
 結果。
 苦しい。
 嫌いという感情が怖くて、結果それに向き合うことも出来無いままに、ただ好きを連呼する。
 無理ありまくり、嘘ばっかり。
 「不器用な」千葉さん的生き方が、私自身を脅かす感じがして、だから私は「器用」に生きようとする。
 器用って、なに?
 それってつまり、なんでもかでも好きと強引に言えるようになる技術の事なんじゃないの?
 ばかみたいよね、それって。
 たんに嫌われるのが怖かっただけなんだ。
 たんに嫌うのが怖かっただけなんだ。
 自分の感情に責任が取れずに、ただ相手のせいにして、相手に背負わせて、それに自分を合わせた
 だけ。
 それは器用じゃなくて、卑怯というのよ。
 好きじゃ無いのに仲良くするだなんて、それこそ相手に対して失礼よ、それなのに、協調性だの和の
 精神だの空気読めだのいう大義名分を振り翳して、自分の気持ちに責任を持たずに相手に全部
 ひっかぶせて、それで相手にもそれを強要するだなんて・・
 
 あんた、一体何様よ?
 
 千葉さんの怒声が胸に広がっていく。
 なによりそれは、自分の気持ちを尊重してないってことでしょ。
 そうだなぁ、すごいなぁ・・・よし
 私の中の千葉さんの力を借りて、私は私を取り囲む世界に対してそう叫び。
 そう外に向けて叫ぶことで、その叫びを否定する私からそれを守り、外に退避させ、そして。
 改めて、外から、そうしてその叫びを他ならない私に向けて差し向ける。
 それが、千葉さん 。
 私の目の前に毅然として立ち、私を傲然と非難する勇姿。
 私を縛っているなにかから、私を解放するために、私は私の中の千葉さんを私から脱出させ、
 そして、「放浪息子」の千葉さんとしてそれは私の前に表れる。
 世界に対して、「嫌い」を言うのは。
 その世界しか見ることの出来無い、その私を嫌うため。
 どうして私は、その世界しか見えないのだろうか?
 それは、私が悪いのか?
 それとも、私にそうさせている、「なにか」のせいなのだろうか?
 千葉さんは、それに気付いていっているんだよねぇ・・
 私は何も悪くないわよ、だってそうじゃない、嫌いなものを嫌いって言うことが悪い訳が無いじゃない。
 嫌いなんでしょ? じゃあ嫌いじゃないものを見つけていけばいいのよ。
 嫌いなものを嫌いなのは、それは私のせいじゃ無いわ。
 嫌いなものを好きにならなければならない義務なんて、ありはしないわ。
 その声は、私自身の声。
 私は、好きになりたいんじゃ無い。
 好きなものと、出会いたいだけだったんじゃないのかな。
 嫌いなものを好きになれないのは、私のせいじゃ無い。
 でも、好きなものを探さずにいるのは、私の責任だ。
 なのに、嫌いなものばかりしか周りに無かったからといって、その中で生きるために適応して、「嫌い」を
 「好き」に無理矢理変えてきただけ。
 ちーちゃんは器用だよ。
 ちーちゃんは、嫌いなものが沢山ある世界の中に、好きなものを見つけていく力がとっても優れている。
 私は、嫌いなものが沢山ある世界の中で、嫌いなものを好きにみせかけていく能力に長けている。
 同じようで、全然違う。
 だったらどうすればよかったかなんて、そんなの、決まってるじゃない。
 嫌いなものしか無い世界になら、そんな世界は大嫌いと言えばいいのよ。
 嫌いなものしか無いのなら、好きなものが見つかるまで嫌い嫌いと言い続ければいいのよ。
 それは、選別という名の自己責任。
 そして選んだものを背負う覚悟。
 嫌いなものを好きと言い続けるのは、きっとそれは、いつか誰かが好きなものを与えてくれたり、
 本当に嫌いなものを好きと言えるようにしてくれると、信じて待っているから。
 それこそ、無責任で、自分を放り出しての他人任せ。
 嫌いなものを嫌いとひとつ言うたびに、ほんとはきっと、そのひとつ分だけ世界を自分のモノにしている。
 あるものはあるし、ないものは無い。
 好きなものと嫌いなものを見分ける力が、ちーちゃんはとっても優れてる。
 そして嫌いなものを好きになれない自分の世界を受け入れている。
 ちーちゃんはそして、世界をマクロとして見ずに、ミクロとしてひとつひとつ丹念に見ていける。
 世界を全体的に見ると嫌いなものが多いゆえに、「全部嫌い」というたったひとつの「世界」が生まれて
 しまい、それこそ見るものすべて嫌いという事になってしまうけれど、最初からひとつひとつ見て、
 好きか嫌いかを丁寧に自分の感情に誠実に見分けていけば。
 普通に、結構、好きなものはある。
 主人公の二鳥君と私はシンクロする。
 そして私達とちーちゃんは、基本は同じで、丹念にひとつひとつ、世界を、生活を見ていけば、
 好きなものは沢山ある。
 ちーちゃんはちゃんとひとつひとつの出会いを重ねていったからこそ、好きなものを掻き集めて作った、
 大きくて豊かでハッピーな世界を手に入れた。
 私と二鳥君は、最初から世界をばんとして捉えてしまって、そこから逆算して、あれも駄目「だろう」、
 これも駄目「じゃないか」、というかちこちな予測と予想で出来た生活しか手に入れられない。
 千葉さんは。
 ひとつひとつ出会いを重ねていった結果、結果として嫌いなものの方が多かっただけ。
 そしてだから、好きなものも、ちゃんとある。
 千葉さんは、二鳥君が好きだった。
 他の男の子とは「違う」という選別を行った結果の、好き。
 千葉さんの「好き」の威力は、だからとても強力。
 いいなぁ。
 それ。
 それだけのことじゃんか。
 
 もう、嫌だ!
 
 二鳥君のその叫びが、彼の胸の中に響いていくのを感じる。
 共感。
 嫌いなものを嫌いだとはっきりと、そして堂々と言うことで、二鳥君の中に於ける、そして、
 二鳥君にとっての「好き」の価値ががくんと跳ね上がる。
 嫌いなものに大嫌いと体を張って叫ぶことで、好きなものを大好きだと素直に言える嬉しさを獲得する。
 やばいよねぇ、私は安那ちゃんも好きなんだけどさ、んー、あっさり安那ちゃんを可愛いって言えちゃう
 二鳥君はやっぱり魅力的だよ、ていうか、自分の中の感情とちゃんと向き合えてる感じがしてさ、
 好きって言われる方もああいう言われ方が最高というか安那ちゃんにシンクロしたいうか、
 むしろあれで安那ちゃんもなにかが開けたというか、安那ちゃんの「はっきりさ」というのは、あれは
 二鳥君の「器用」さと同質のもので、いってみればはっきりと自分の気持ちの「ようなもの」を口にする
 事で、今私ちゃんと自分の気持ちをはっきり言えてるよね?言えてるんだよね?、という安心感を
 得ていただけのもので。
 つまり、根は臆病者で恥ずかしがり屋な訳、安那ちゃんも。 言い換えればツンデレ。
 だから、それと同じはったりとしての「器用」さしか無かった二鳥君が、正真正銘に自分の気持ちを
 そのまま安那ちゃんに言ったとき。
 どきっ
 色んな意味で、そう来るよね。
 器用で、変わってて、年下の男の子で、だからその子を受け入れてあげられて、世話焼きだのなんだの
 してあげられる、そういう自分を演じることが出来る愉しさに籠もっていた安那ちゃんからしたら、
 これは衝撃的な革新というか、世界の変化なわけで。
 自分がいままでその自分に籠もっていたことに気付き、そしてそれ以上に、それを越えて、対等の
 男性に好きと言われたことの、深い驚きと喜び。
 やべー
 これほんとやばいよ、みなさん。(誰)
 「はっきりさ」とか「器用さ」とか、「好きにならなくちゃいけない」とかで頭がぐるぐるで、そういうひとつの
 ミッションを達成していく事の中にしか対人関係を築けなかった安那ちゃんや二鳥君的な人からしたら、
 そういうの無しで、というか余裕でスルーしてくれて好きとか言ってくれたりしたら、それはもう。
 やばい。
 私やばい。
 千葉さん的に無表情のままほっぺただけ紅く染まってく感じだ。
 自分で書いといてひとりで身悶えしてる私ってどうなんだ一体。
 でもなんか、はー、すっきりするなぁ、最近こういう事普通に堂々と書いてんのな、私。(笑)
 
 んー、もう既に自分がなんの話したかったのかわかんなくなってるんですけど(恒例です)、
 なんというか、今私が一番したくて、そして実行中なのが千葉さん的生き方なんですよね、
 でも、それは私が千葉さんに変身するとかそういう事じゃなく、なんというかむしろ今の私を客観的に
 見ると、謙遜無しで言うけど(ぉ)私は今安那ちゃんの状態に近い。
 千葉さんの事がわかる、というより、自分の中にいる千葉さんと対面することが出来ていて、
 だから目の前にいる実際の千葉さんと、なんとなく、共感出来る。
 安那ちゃんは色々な意味でぐるぐるで小さいとこがあるけど、でもその自分のことを自覚出来ることに
 よって、自分と同じ部分を持っている人に共感出来て、それがひとつの新しい彼女の能力を生み出す
 事になってる。
 自分でいうのもなんだけど、今私は安那ちゃん的な人間の広がりを感じてる。
 昔取った杵柄というか、空気読んだり相手の気持ちを汲んだり、それでぐるぐるになっちゃうことが出来る、
 その力を、正当な形で再利用出来はじめているというか。
 安那ちゃんがもし、はったりとしての「嫌い」しか口に出来無かったら、きっと安那ちゃんはぐるぐるのまま
 で終わってたとおもう。
 でも、千葉さんとプチガチバトルしたときの安那ちゃんの「嫌い」は本物で、だからきっと安那ちゃんの
 それまでのはったり的な器用さは、その本物の嫌いを隠すのでは無く、それをむしろ援護して保護する
 形で上手く活かされてる気がする。
 うーん、だからかなぁ、だから、初めてそうなったときに、堂々と、嘘がつける気がする。
 なにも嫌いなものに、ぜんぶ嫌いだー、なんて言わなくてもいいんだよ?
 ちーちゃんだよね、それって。
 自分の中のすべての感情の責任を負ったときに、人はその自分の感情を、あくまで他人に対してのみ、
 隠して行動することが、自分によって許されるんじゃないかなぁ。
 私ねぇ、どうでもいいことには嘘つきまくりなんだけどw、ほんとに大切なことに関しては全然嘘つけなく
 てさ、色々困ってたときあったし。
 でも、それでいいんだ、嘘つかなくていいんだ、大切なことは全部言っていいんだ、自分で責任を
 持って言えばいいんだ、となったときに。
 責任ある、嘘が吐けるようになるのだと思う。
 まぁ、嘘というか、全部を言わなくても済ませられる、という事だと思うけどね。
 それはきっと、全部を言い切ることが出来た経験があってこそだと思うな。
 あの作品の中では、やっぱりちーちゃんが一番大人だよなぁ、うんうん。
 そう信じて、今の私はとにかくなんでも全力本音トークに勤しんでおります。
 ・・そしてやがて、ほどほどを学んで、読者の方をドン引きさせない文章を書けるようになれたらいいなw
 うん。
 
 放浪息子、最高。
 もうほんと、色んな語り口や切り込み方が出来て、久しぶりの超重厚な作品でした。
 その作品の奥深さ繊細さ、そしてすべてが連動して観る人をその人自身への内面へと誘っていく、
 そのことに置いてこの作品は近年稀にみる大傑作だと思います。
 好きという意味では君に届けが、共感全開という意味ではまどマギが前期一番でしたけれど、
 そういうの全部含めた以上に、それを越えて私を私に深く潜らせ、そして先に進ませてくれる作品
 としては、この作品が一番。
 別の言い方すると、何度も何度も見返す事に最大限の価値がある作品として、一番。
 これもまた、アニメです。
 というか私はこういうアニメから入ったんだよね、この世界にw 蟲師系だねこれは。
 出来れば続編を期待大。小学生編とか原作ではあるんでしょ? やろうよ、ねぇやろうよ!w
 
 
 
 
 インフィニットストラトス:
 なにが好きかって、あなた。
 そんなの、みんな好き勝手に自分のしたい事のままに活き活きとしているからじゃない。
 この作品見てるとねぇ、ほんとうにもう女の子達の自由っぷりと、自分がしたいと思うことをきっちり
 認識して、それをちゃんと達成させることにそれこそ責任を持って生きてる感じがさぁ。
 嬉しい。
 観てて、とっても、嬉しい。
 これが、矜恃って奴だよねぇ、その、人としてとか女としてとかIS操縦者としてとかの、じゃ無く、
 自分の欲望に殉じて、それを背負う覚悟を持って生きている、そういう一個の欲望者としての矜恃、
 というか。
 女の子達の一夏争奪戦も、なんというかな、血で血を洗う、女の敵は女的な、そういう感じでは
 無く、なんというのか、皆おなじ、自分の欲望を矜恃を以て全うしようとしている者同士の、そういう
 「友情」のようなものがあって。
 語弊を恐れずに言えば、女の真の敵は女では無く、あくまで男なのだと思う。
 男、というより、男的な「無欲」と全体への「奉仕」的感覚が、というか。
 そういう女の子達にかけられていく、主に男的な側からの支配的圧力こそが本当の意味での女の子
 の敵な訳で、それを認識せずに、その支配の中で限られたパイを奪い合うために、あくまでその
 支配という名のルールに従っていがみ合うからこそ、女の敵は女になってしまう訳で。
 この作品には、その支配としてのルールが、無い。
 つーか、一夏君こそが、その支配の無さそのものの具現みたいになってて。
 だから、女の子同士は敵同士では無く、あくまで健全なライバルになっている。
 ライバルと書いて友と読む、みたいな。 いや逆だろそれ。
 それは無論、獲物としての一夏wを譲り合うとかそういう意味での友では無く、同じく一夏への
 想いに忠実に生きようとする、その自分自身をきっちり肯定し保護し、自らの足で立って歩いて行く、
 そういう誇り高い者への尊敬、がある、という意味でね。
 
 責任って、なに?
 
 思うんだけどさ、私。
 支配的ルールを遵守し、その中でのみ許される「自由」って、なに?
 私はあなたを信じています、ええ、だからあなたの好きにしていいのですよ、自由にして構いません、
 勿論、最低限の「節度」を守る範囲で、のことですけれど。
 ええ、信じていますよ。
 あなたが、私の作ったルールの中で、それに従う人になってくれることを。
 ・・・。
 その限定的条件的に許された自由に課されているのが、責任?
 この作品見てると、馬鹿だとおもう。
 ほんとうに。
 ほんっっとうに。
 どんなに否定しても、私自身これまでの人生の中で目一杯それを否定してきていても。
 私はどうしようも無く、その押しつけられた責任に縛られていたのだと、気付いて。
 この作品に出てくる女の子達は、とーっても、責任を持って行動してると感じる。
 でも。
 この女の子達が負っている責任は、まったくどうして、支配的ルールに対してのものでは無い。
 あくまで。
 己の、欲望に対して、その一途な想いに対して、それを絶対に叶えるという責任、いえ、責務を
 負っている。
 それはもはや、使命感と言い換えてもいい。
 ラウラなんかわかりやすいよね、それまで軍の奴隷みたいなガチガチに囚われていながら、それは
 本当は自分の中にある欲望を達成させるための隠れ蓑にしか過ぎず、一旦だからその蓑が取れた
 瞬間に、アレですから。 いわゆる私の嫁発言は生涯忘れられないwwお腹痛いwww
 軍、もしくは尊敬する上官からの命令と、自分自身の欲望からの命令と、一体お前はどちらに従い
 たいというのだ?
 答えなぞ、初めから決まっている。
 第九話なんて、もう、これほんと最高でしょこれw
 ラウラ的やり方だって、そもそも自分の欲望に回帰し、そこから始めていくための、そのためのアプローチ
 のひとつにしか過ぎない。
 自分に命令を下すのは、自分以外にあり得ない。
 その絶対君主としての自分の存在に自覚的かつ忠実であることが、あれほどまでに素晴らしいお話
 を描き出す訳です、やーもー、拍手喝采だもの第九話。
 
 私は、私の欲望にこそ、忠実にお仕えしたい!
 
 誰かに仕えるのだとしても、それはその誰かの欲望に仕えるのでは無く、その誰かのためになりたいと、
 そう欲する自分自身の欲望に仕えている、という自覚があれば、きっとそれは幸せなことでしょう。
 たぶんそういう自覚があれば、他者に求めることも無いし、なんというか、この作品の一番の魅力は、
 女の子達が、本質的に一夏に依存したり一夏に求め過ぎて訳がわからなくなる、という事が一切
 無く、きちんと自分が仕えているのは自分の欲望だという、その「矜恃」が保たれているところだと
 思う。
 私は泥沼どろどろ展開もそりゃお好きで御座いますけれど(悪趣味)、こういうすきっとした自立的な
 お話は、それ以上に私の胸を熱く、そしてなにより青く澄ませていってくれる気がして、大好き。
 話少しズレるけど、私の好きな色って、紅(赤)と青なんだよね。
 紅はそれこそどろどろのぐじゃぐじゃのああもう訳わかんないみたいな、怨念みたいな(ぉぃ)、そういう
 イメージがあって、ある意味破壊的な攻撃性と、じっとりと血のように染み出していく欲望の顕れとして
 紅って好きなのよねぇ、なんか身につけるものとか身の回りのものとか紅なのが多いし。
 そして、同時に。
 青が好き。
 からっと晴れた、深く青を湛えた空、どこまでも光差し込む海の色。
 吸い込まれそうで、大きく、広く、受け止め受け入れてくれるような、それでいて、それだけで存在
 しているような、神様みたいにでっかい、青。
 この作品の主題は、間違いなく、青。
 そして時折紅いラインが、お洒落にこまめにちりばめられていく。
 私がこの作品に入ったのは、まさにその色使いからだったんだよね。
 青が、良い。
 気持ちの良いほどに、屹然として、矜恃に満ちている。
 紅を包む青。
 そしてなにより、青を目指して走り続ける、紅。
 ぐちゃぐちゃでどろどろの紅の輪郭を、青が深く縁取ったとき、なんだか私は、自分の欲望を背負い、
 それを的確に、そして矜恃を持って叶えていける自分になれる気がして。
 むしろ、紅こそが、そういう風に青を使うことが出来ると。
 
 とっても、たのしい。
 
 それが、この作品の女の子達による、一夏君の使用っぷりそのものなんだよね。
 とっても上手く、そして幸せに一夏君を使えているよね、あの子達は。
 まぁそういう意味では、メイン(?)ヒロインの箒が一番どろどろでぐちゃぐちゃで一夏を使うというか
 使わされている感じで、まさに紅な感じがするんだけどw、あれを真ん中に持ってこないで、ラウラとか、
 セカンド幼馴染みやセシリア、そしてなによりシャルを画面の全面に押し出してきたのは、これは
 極めて大正解というか、この作品を作った人のある意味での志の高さを感じます。
 そりゃ私だってツンデレの申し子みたいな箒は別に嫌いじゃないんだからね、なんだけどさ(ぉぃ)、
 でももしあれがほんとにツンデレ落とし(ぉぃぃw)な作品になってしまったら、これは駄作にしかならない
 し、最終回で箒を持ってきても、そういう形にしながらもそれを絶対に真ん中には持ってこない、という
 この絶妙な手綱さばきは、本当に志が高い。(二度言った)
 うん、だってこれ、ツンデレが素直になる話になるんだったら全然意味無いもの、ラウラやシャル達の
 意味が無いもの、つーかむしろ一番意味無くなるのが箒自身か。
 うん。
 まぁその辺りの話は諸説あろうだろうけれども、私は正直箒にはあまり興味が無かったので(ぇー)、
 最終回周りとかあんましちゃんと見てないし、つかこの作品のハイライトは第九話だと思うし。
 それこそ、この作品を私がどう使い、どう自覚的にこの作品から自分の欲しいものを得ていくか、
 ということだけですからね、少なくとも感想書きとしては、ね。
 なんていうか、ああして一夏君を自由に使いこなせてる子達見てるとさ、嬉しいんだよねー、
 そっかそうだよねー、人を愛する気持ちって無償なんだよねー、見返りを求めるってことは、相手の
 気持ちというか欲望を覗いてそれに仕えてしまうからなんだよねー、自分の欲望にこそ自覚的に仕え、
 そのひとつのミッションとしての愛だったなら、ブレないし、そして同時に、自分が仕えている絶対君主
 たる欲望様の望みはなんなのかを、常に覗いて確かめながら生きることになるから、全然相手のことで
 苦しんだりしないんだなぁ、って。
 そしてなにより。
 
 自分が欲しているのは、愛だけじゃない、ってことが、あっさりわかる。
 
 それが誰かへの愛への隷属、囚われから自分を解き放ち、自立的な愛を選択的に得ていく事が
 出来るのだろね。
 愛するしか無い、という中でのそれは、もうそれ、選んでないし、無責任だよね。
 一体、あんたは誰のために愛してんのさ。
 愛は無償ってさっき言ったけど、それってちょっと良い表現じゃ無いよね、愛ってその誰かのために
 与えるの?
 つか、愛って与えるものなの??
 違うよねぇ、違うよ、愛は自分のためにあるし、愛するというのも自分のため、だって。
 誰かを、なにかを愛するって、とっても気持ちいいもん♪
 それは、誰かのためになれるとか奉仕するとか、そのための愛だったら、それは偽物。
 たとえば自分の子供に対しての愛情とかさ、あなたのために愛しているのよとか、あなたのためを
 想ってどうこうとか、そうだったらそれ、明らかにおかしいじゃん?
 愛は純粋、好きって気持ち、ただそれだけ。
 好きってひとつ思えたら、ひとつぶん、幸せ。
 それこそ、加点方式だよねw、どれだけ、何回愛することが出来たか、好きって思う瞬間があったか、
 それで幸せって奴が積み上がってくと思うし、だから自分の好きって気持ちとしての愛に対する、
 その見返りとしての愛されるということを求めてしまったら、結局はそっちがメインになってしまって、
 好きって気持ち、愛という欲が正常に満たされなくなってしまう気がする。
 逆にいえば、その人のことを好きと想う気持ちと、その人のためになにかしたいという気持ち、それを
 切り離して別々の欲望として自覚したら、それはそれぞれ別個に叶えていくミッションになって、それは
 一挙両得になれるような気もします。
 好きって気持ちになれただけで儲けものなのに、その上あなた、その人のために尽くせたりも出来たら
 お買い得じゃありませんこと? (誰)
 つまりま、なにを言いたいかといいますと、自分の欲するものはいつも常に、そして決してひとつきりでは
 無い、ということ。
 そうですねぇ、イメージとしては、自分の欲望という名の絶対君主がいて、それにお仕えするのだけど、
 でも実はその絶対君主というのは複数人で構成されてて(十二国記にそんなのありましたw)、
 決してひとりの独裁にはなっていない、みたいな。
 だからぼろぼろと、いろんな欲望が出てくるし、あって当然。
 そしてそれら異種多様な欲望達を、如何に上手く叶えていくか、如何に誠実に汲み取っていくか。
 その忠実と、そして忠誠こそが、私達に唯一必要な矜恃なのかなと、私は思いました。
 ありがとうとかごめんとか、そういう他者にかける誠実な言葉も、その言葉を言った方が自分にとって
 心地良い、そういう欲望を満たすためにこそある、と考えたなら、もうそんなに考えることは無いのかも
 しれませんね。
 逆に言えば心地良くならないのなら、んなもの言う必要も義務も無い。 どこにも無い。
 そして、つまらないプライドとか誇りとか、もういらなくなるよね、必然的にそうなると。
 最近私は、そうしています。 (微笑)
 
 
 
 
 という感じで、今回は以上です。
 ふぅ、すきっとした♪w
 
 
 それでは、また次回。
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 
 
 



 

-- 110517--                    

 

         

                                    ■■ むよう! ■■

     
 
 
 
 
 あー
 えーと。
 
 まぁ、特に書くことはあったりなかったっりあるといえばあったりするので、適当につらつらと書かせて
 頂きます。
 つか、風がきもちいー。
 部屋で寝っ転がりながら、音楽かけて本読みながら、すーっと広がる風が、あったかい。
 やべー
 なんかいいぞ、この私。
 
 追記:そのあったかい私は一昨日(15日)の私で、今日の私はびしょ濡れでした。
 なにこのスコール。やめて。
 
 
 
 ということで、ええと、まずはけいおん話です。
 先日開始されたローソンのけいおんフェアに参加してきました。
 参加もなにも、朝7時にローソンにいって、フェア対象商品とけいおん団扇を商品カゴに入れて、
 レジに持っていく、という他愛の無いものです。
 手に入るのは、対象商品のお菓子と団扇です。
 失ったものは、特にありません。
 もうなにも、怖くない。
 
 
 まぁそんな訳で、ごく普通にフェアを乗り切ってきた私です、ごきげんよう。
 つか、クリアファイルの時みたく、どーせあっさり売り切れてるんじゃろ、なにも期待なんてしてないんだから、
 みたいな事をぶつくさとツンデレながら、きっかり朝7時にローソンに到着する私はなんなんだ、という
 お話なのですけれど、普通にありましたね、団扇。
 ぜんぜん普通にありましたね、唯ちゃんも澪ちゃんも、りっちゃんは当然として、むぎちゃんもあずにゃんも
 ありましたね。
 団扇が並べてある棚の周りに、如何にもな高校生くらいの子達がたむろしたり、うろうろしたり、
 はやく誰か買えよいやおぬしがいけよ、みたいなことをしていて、その後ろにぼさぼさ茶髪でジャージの
 女の子(すっぴん)が同じくどのタイミングでさりげなく団扇をゲットしようかとうろうろしており、その隣では
 もうこれ以上無いくらいのヲタクファッションに身を包んだ男性が、はやく取れよ邪魔なんだよ、という
 態度で仁王立ちしていたりして。
 
 あー
 
 なんだか色々と私の中のなにかが達観をしてしまったので、「すみません」とひと声かけて、さっと
 団扇をしめて六枚手に取り、ぱっとカゴに入れていった人がいたらそれは私です。
 つかあの子ら私が精算済ましてお店出てくときにも、まだおたおたしてました。
 なんだか、可愛かったです。
 
 
 んでまぁ、団扇ですけど、うちわ。
 唯ちゃんと澪ちゃんとりっちゃんとむぎちゃんとあずにゃんと全員集合、の全六種をゲット。
 ミッションコンプリートでした。
 ついでに対象商品のひとつにけいおんの屋台風焼きそばを選択し、それもゲットしました。
 夏フェス回でムギちゃんが食べたかったあの焼きそばらしいです、甘くて美味しかったです。
 オマケとしてキャラシールが封入されていて、私のは唯ちゃん&あずにゃんでした、いえーい。
 そして、着ボイスのダウンロードが出来るらしく、私のは澪ちゃん&むぎちゃんでした、おーれい。
 ・・・・。
 りっちゃーっん!
 りっちゃんは、いつだって元気な子。
 

 
 +
 
 それと、そのちょと前に、けいおんのキャラごとのイメージソングをコンプリートしました。
 無論、レンタルで。 お安いことはいいことです。
 一期分のは既にコンプしていたので、今回は二期分を一気に攻めてみました。
 二期分からは純ちゃんも参戦してきたので、ぼりゅーむいっぱい♪、とほくほくしていましたところ、
 よく考えたら二期分はさわちゃんというかデスデビル分が無いので、プラマイゼロなんだね、という感じで
 上手く収まりました、収まったんだよ。(色々な意味で)
 
 で、私的には今回は音的には唯ちゃんの一曲目と澪ちゃんの一曲目が好きでした。
 最初の出だしのノリの良い感じ(語彙無し)が好きです、わかりやすい人です。
 歌詞的には、むぎちゃんの二曲目が好きだったかなぁ、夜中に屋根に登って見る世界とか未来とか
 あの辺りの深いしみじみさと広がる光の感触がいいですねぇ、そして澪ちゃんの二曲目もしっとり
 少女らしい内面を抱き締める感じが、ぐっど。
 唯ちゃんの歌は基本的に全曲聴いているだけで楽しくなってくるので、存在するだけで良しです。
 あずにゃんに関しては、んー、いまいちって感じがしますけれど、てか一期のときもそうでしたけど、
 あずにゃんっぽくないというか、これはあずにゃんソングじゃなくて中の人の別キャラソング?、みたいな
 感じで、ちなみに一期分のときのはえむえむの美緒様っぽく今回の第二期分は俺妹の桐乃っぽい
 感じ、で、憂ちゃんの一曲目の出だしのぱーっと広がっていく感じは結構好きで、和ちゃんと純ちゃんに
 ついては、まぁこんな感じかというかんじで納得のいくひとしなで御座いました。
 りっちゃんは、お元気でした。
 
 
 
 ◆
 
 次−。
 えっと、読書目録というかリスト。
 
 
 雪乃紗衣 「彩雲国物語 紅梅は夜に香る」
 同 「彩雲国物語 朱にまじわれば紅」
 桜庭一樹 「赤朽葉家の伝説」
 瀬戸内寂聴 「藤壺」
 加門七海 「くぐつ小町」
 岩井志麻子 「美男の国へ」
 坂東眞砂子 「鬼神の狂乱」
 
 彩雲国がとまらないー、うあーまじアニメ版観てみたくなってきた。
 うん、基本私は主人公の秀麗みたいな頑張りっ子は好きなんだけど、同時にその自分を冷静に
 見ている自分としての誰か、が好きで、うん。
 なんで頑張っちゃうのかというと、頑張らないと自分の大切なものが守れないからで、だから頑張る
 訳だけれども、でもいつのまにか、「大切なものを守る」ということよりも「頑張る」という事に主眼が
 移ってしまって、結果、滅茶苦茶沢山のものを背負ってしまって、それも背負ってがんばったろーじゃ
 ない、って男気(?)を自分自身に魅せて踏ん張る事しか出来なくなってる、その寂しさとどうしようも
 無い感、と、それをはね除けようとする「力」への依存、みたいな。
 結局それって、自分の本当に大切なものを守ることから目が逸れちゃうんだよねぇ、というか、
 自分の大切なものを守るということの、本当の意味での困難さをなによりも実は知っているからこそ、
 それから無意識のうちに目が逸れて、それ以外のモノを際限無く背負い込んで、それに打ち込む
 自分に縋りついちゃうというか。
 んでも、なによりも誰よりもその自分の姿を自分自身がはっきりと見つめているから、そういうしがみつき
 とか依存とかじゃなく、本当に守りたいものとは関係無く、色んなものを守りたい、生きるってことは
 守りたいものが増えてくことなのよ!、って大見得切って突っ走る、それが出来ることこそが大人なんだ、
 って思って頑張ったりしちゃう。
 そりゃ確かにそういう自分が大きくなって成長した気にはなるし、実際それで色んな経験したりスキルが
 身についたりするのは事実かもだけれど。
 
 なんだかなー。
 
 「紅梅」のタンタン君の秀麗を見る目は、それは秀麗自身の目、なんだよね。
 秀麗の周りには、色々カッコいい大人達がいるし(無論子供みたいなチャーミングな大人もw)、
 それは事実なんだけど、でもじゃあそれは秀麗がいましている頑張りを続けた結果、秀麗がその
 大人のようになるか、というとこれはイコールじゃ無いとおもう。
 つまり、ずばり言うと、秀麗の周りにいる大人と、「秀麗が見ている大人」は別モノだっていう事ね。
 あの人みたいになりたいと思ってなれるのは、「あの人みたい」という風なフィルターをかけて見た、
 秀麗自身のその人像に合致した人間だけだね。
 私は秀麗が嫌いって訳じゃ無く、むしろ好きなんだけど、ていうかつまり秀麗みたいなちゃきちゃきして
 頑張りっ子な私が私の中にもいて共感するのだけれど、同時にその私が「なにか」に囚われていると
 いう事がわかる私が、その秀麗みたいな私が、本当に守りたいもの、本当に手に入れたいものを
 その私に与えてあげたいな、と思うんだよね。
 ていうか、私がそれを、欲しいというか、秀麗の頑張りは、頑張ったこと自体は無駄じゃないけど、
 その頑張りが直接その欲しいものに結びつかない、ということは、なにより秀麗的な私自身がわかる
 事だから、なのかもしれないね。
 
 と、いうことを私の中の秀麗に言うと、おもっきし頭突きされる訳でww
 
 プライドたけーんだよなー、というかどうしても素直になれないっつーか、わかってんだけどそれを誰かに
 言われると我を張っちゃうというか、その我を張るところにしか自分の存在を認められないというか、
 うわー秀麗っていうか私の中の秀麗大変だなーいうか、でもまぁ、いいさ。
 自分がそういう人間なんだ、という自覚があることは、とてもすごいことで、いいことで。
 私がこの作品にハマってるのは、なにより秀麗が自分の頑張り依存をきっちりなにより自覚していて、
 それに囚われて頑張るしかない自分自身を、それをこそまずしっかりと受け入れている、それが私は
 いいねぇこれ、と思うからなのよ。
 うん、女ってだけでああだこうだ言われるってことは、つまりそのままの秀麗が認められない、だから
 プライド以前に自尊心が低くて、いっつも誰かに認められるためにこそがんばらなくちゃいけないっていう、
 そういう頑張りが必要という「スタート」があるんだよね、これ。
 それはもう重大なハンデな訳で、まずそれを克服しなきゃいけない訳で。
 でも気付いたらそれを克服する事で手一杯に、そしていつしかそれしか出来無くなることで、
 その先を見つめることが出来無くなったり。
 だから、秀麗みたいな人に一番大切なのは、その先にあるもの、なのだろうねぇ。
 
 秀麗は、自分が周りから認められたとしたら、なにをしたい?
 
 その問いを自分の中に燦然と輝かせるためにこそ、秀麗は秀麗パパやママや、そして家人の
 静蘭に愛されて育ってきたことのぬくもりを使える。
 その辺りが絶妙なんだよねーこの作品、愛されてるんだけど愛を求めてしまう、愛を求めてしまうんだ
 けれど自前の愛を活かすことが出来る、みたいな。
 うん。
 なにを言いたかったのか本格的にわからなくなってきたけれど、私が言いたいことを読んでくれる人に
 わかって貰おうという事に頑張り過ぎて自分がなにを言いたかったのかわからなくなってきたという、
 そういう私が一番大丈夫か? (心配そうな顔で)
 
 まぁうん、この作品はほんと家族の愛が無かったら、恐ろしいほどの精神論的根性モノになっちゃい
 ますからねぇ、私も秀麗が家族の愛を感じていないままに頑張り成長していく話だったら、興味は
 持てなかったと思います。
 むしろ積極的に否定しますね、うん、だってその手の作品めっちゃ溢れてますから、最近その異常
 ぶりに人生遅まきながらやっと気付いてきたというか、今までどんだけ頑張らされて、それをそうするしか
 ないという形で内在化させられてきたんだよおい、みたいな感じで、そういうのが私のこの頃のテーマ
 なので御座いますよっと。
 
 周りに認められない事に拘り、それを認めさせようとして頑張る事で、停滞しているものはなにか。
 むしろその頑張りは、その停滞のためにあるようになってしまってはいないか。
 その頑張りと停滞を自覚することで、その先が見えてくる。
 その先を見つめることで、停滞とその頑張りが解除されていく。
 
 というまとめでした。
 ちなみに私がこの作品の中で一番好きなのは、彩雲国国王紫劉輝だったりします。
 この人が一番停滞と頑張りを解除されて時間が動き出し、その先目指して邁進してる人と思います。
 劉輝可愛いよ劉輝。
 
 
 
 
 おまけ:
 
 今期アニメに一言ずつ。
 
 銀魂’: さっちゃんはその重すぎさが最大の魅力
 日常: 私の笑いの上限が突破され
 戦乙: とても落ち着く
 C: アセットが素直に可愛い
 あの花: じんたんが萌え
 緋弾: どいてそいつ殺せない
 電波: あんまし電波じゃなくなってきた
 まりほり2: そろそろ爆発しろ
 Aチャン: トオルん。
 ゴシック: ヴィクトリカ。
 DD: 閣下と姫様、ついでに勇者
 デドマ: OPの官能オンリー
 シュタゲ: この居心地の悪さはたぶん牧瀬氏の気持ち悪さが原因
 花いろ: なんだかんだで能登
 アスロテ: これがたぶん今期で一番真面目に頑張ってる作品
 青の: 新しい一歩を踏み出す高揚感
 
 
 
 という感じで、はい。
 今回は、これまで。
 ごきげんよう、また次回お会い致しましょう。
 
 
 
 
 
 



 

-- 110511--                    

 

         

                                ■■ アニメの季節 2 ■■

     
 
 
 
 
 初夏とも言えそうなほどにちょい暑な日々が続いている今日この頃、皆様如何お過ごしですか。
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 
 すみません、またしばらく更新が滞ってしまって。
 GW中が私にしてはなかなか忙しく、現在もそれに引き続いての忙しさの中におりまして、
 なかなか落ち着いて日記を書く時間が取れませんでした。
 ということで、時間をみつけてはちょこちょこと書き足す、という作法を繰り返して、本日ようやく
 更新一回分に足りる分量を書き上げることが出来ましたので、こうしてUpさせて頂きました。
 はー、普通にこまめに更新しといた方が良かったですかねー、こうやって書き足し書き足ししちゃうから
 毎回長文過ぎるとかウザいとかおまえがウザいとかやんのかこら、みたいな展開になってしまうのです
 よねぇ、でも更新作業がめんどいので一回にまとめてUpする方が楽なのでやめられません。 (本音)
 
 
 さて、適当な前置きはさておき、今回は遅れておりました前期アニメのまとめ感想を書きました。
 その前に、アニメ「もしドラ」についての感想をば、ひとつ。
 びしっとネタバレありますので、未見の人はお気を付けを。
 
 
 ◆
 
 なんで私ら、生きてんだろ?
 んー、生きるってさ、目的? 手段?
 基本的には私は目的として生きるってことを据えてるから、なんていうか、いつもこう、うがーって
 なって色々なモノに囚われてしまったときに、そこに立ち返ればしゃんとするっていうか、もう駄目だ、
 みたいな感じにならなくて済むっていうか。
 つまり、いつでも帰って来られる場所、居場所としての生というかね、生きてればなんとかなる、
 という以前に、生きてるだけでいいんだよ、だから生きて、安心して、そこからゆっくりなんでも好きな
 事始めればいいんだよ、みたいな。
 そう、それは、始まりとしての、生の目的化、でさ。
 
 うん。
 ぶっちゃけ、だから、そこから始まる人にとっては、んにゃ、そこから始められるようになった人には、
 今度は生きるという事は、手段になっていくのだと思う。
 なんの手段、かって?
 そりゃーあなた。
 
 幸せになるための、に決まってんじゃん。
 
 幸せになるために私ら生きてる訳だから、どーでもいい人生なんて送りたくない、っていう想いが
 出来てくる。
 んで、幸せになるっていう、いっとう一番大きい目的があるからこそ、しぜんにその他のしがらみとか
 そういうものが排除されていくし、同時にそのしがらみからの脱出としての、生の目的化への逼塞から
 も、一歩歩き出せると思うなぁ。
 別の言い方をするなら、私ら誰のために生きてるかって言ったら、私ら自身以外の何者のためにも
 生きてはいない、そして私らには自分のために生きる責任がある、という感じ?
 だからさ、誰かのためとかなにかのためとかに無理矢理生きさせられたりとか、或いは自分でも気付かな
 いうちに誰かのために生きるのが当然だとか思ってしまっているときに、やーめた、そんなんやーめた、
 って感じで、ただ自分が生きている事だけに軸を映すために、生の目的化というのは行われても良い。
 ぶっちゃけ、なんもしなくていーんだよね、私ら。
 生きてれば、それでいい。
 そうして、生きる主体を自分に取り戻し、生の責任を負ったときに、じゃあその生をもっと充実させよう、
 てか私欲しいもの一杯あるし、やりたいこと一杯あるし、そっか、私、そのために、そのためだけに
 生きていいんだ、ってなったときに。
 そこに、夢を叶える手段としての生が、ぐぐーんと広がってく気がするなぁ。
 そういうの無しに、ただみんなのためにとか誰かのためにとかが先走っちゃうと、それって結局自分の生
 の責任を放り出すものとしての全体主義になっちゃうのだろうなぁ、やっぱり。
 
 人生に於ける最大の顧客は誰か。
 んなもん、ひとりしかいねーっつの。
 自分じゃん。
 自分という存在があって能力があって、じゃあそれに基づいて「社会的」に自分はなにを「しなければ
 ならないか」ということは、無く。
 自分という最大の顧客が、なにを望むのか。
 そしてその望みを叶えるためにこそ、なにをしなければならないのか。
 その「しなければならない」という言葉を、誰の、なんのために使うのか、ただそれだけが、この人生という
 壮大な物語の選択の場に於いて必要なこと。
 どんな人生を、あなたは見たいですか?
 あなたは、あなたがどんな人生を生きる姿を見てみたいですか?
 そこからすべてが、じっくりと始まっていく。
 それが自己実現って奴なんだよね。
 そして、その自分の姿を実現させるためになにをすればよいのか、という逆算が始まり、そうすることに
 より、私らは物事の本質なり真理なりを、その自分の夢や目的に沿ってみつけていくことが出来る。
 そだよねぇ、私もさ、昔は自分の力を社会のために役立てなければならない、みたいな感じだったんだ
 よねぇ、その社会を維持し発展させるための責務、みたいな、社会に対する責任みたいなさ、
 でも、それって根本からしておかしいんだよねぇ、その社会ってなによ、って話。
 
 一体、誰に言い訳してんのさ、私。
 
 人と、他者と仲良くしなければならない、和の精神。
 それが目的化された上で成り立つ社会に、その存在価値は無い。
 今の私は、自分の力を試したい、自分の全力を賭けて行ったもの作ったものが、一体どういう形で
 社会に顕れるのか。
 それを、見たい。
 つまり、社会とはすべて、そういう自分という名の最大の顧客に魅せるためにのみ、存在している。
 他者と仲良くするのは、それは他者との共同作業を円滑に運ぶためなどの配慮では無く、互いが
 全力を出し切り、それが如何に結果に反映されるか、という観点に於いてのみ、その価値がある。
 同時に、「他者と仲良くしなければならない」という目的を達成するために、コミュニケーションスキルを
 養いその中での馴れ合い的空気の中で成立させていく仕事など、なんの価値も無い。
 むしろ其処には、他者が存在していないんじゃないかなぁ。
 ぶつかり合って、喧嘩して、最高のモノを作るためにみんなが激しく衝突していく、それだけが、本当の
 意味でままならない他者を創造し、そしてその他者の前に立つ自己というものを獲得していくことに
 繋がると思う。
 配慮なんか気配りなんか、んなもん大して重要なもんじゃないし、それを重要視するような組織は
 既に組織として破綻している。
 みんな、自分の夢を叶えるために頑張ってんだよ、それの邪魔すんじゃねーよ。
 だからみなみの、頑張れーっ、っていう叫びが、私の胸を打つ。
 誰がみんなのために頑張るかっつーの、みんなひとりひとり、必死に自分の夢を叶えるために頑張って
 んだ、つかそれだけのために頑張ってんだっつーの!
 チームのために忠誠を捧げるというのは、それはすなわちそのチーム自体の存在意義を否定する
 事になる。
 私らは、社会のために、組織のために、チームのために頑張るんじゃ無い。
 私らは、自分の夢を、幸せを叶えるために、社会や組織やチームの中で頑張ってんだ。
 
 そして、だからかなぁ、その中で、自分を自分で認めることが出来ていく、という事が生まれるのかな。
 たとえば作中でもあったけど、己の失敗とかそういう経験とかを、それをどう活かしていくか、いや、
 むしろこの経験をまず絶対視して、この経験を活かせる場造り、社会造りこそを考えてみようとか、
 そういう風に考えていくことも出来る。
 誰かのために社会があるんじゃない、自分のためにこそ、社会はあるんだ。
 だったら、私のこの、どうしても駄目駄目にしか見えない経験を、それをこそ役立てるためのものとして、
 社会を見据えていけばいいんだ。
 そりゃ誰かのために社会があるって考えたら、自分の経験なんて活かせるどころかマイナスになる、
 としか捉えられないこともあるだろうけど、だったら逆転の発想よ。
 
 あなたは、どういう社会が、見てみたい?
 
 そもそもあなたのその経験は、「失敗」なの?
 それを失敗と断定している時点で、それは既に他者の価値観に支配されている社会しか見えていない。
 常に、己の最大の顧客は誰か、最大の目的はなにかを見据えれば、おのずと己の経験のそのすべて
 が、必ず有用有効なものになるとわかってくる。
 自分の経験に、無駄なものなどなにも無いし、もしあるというのならそれは既に己が他者の価値観に
 支配され、自分の望む社会なり世界を目指す生の中にいない証拠。
 失敗でもなんでも、たとえばそれを失敗として捉えたとしても、その経験は、同じく失敗した人への
 理解力を与えてくれる。
 そしてその失敗を乗り越える事が出来れば、同じく失敗した人へのアドバイスが出来る。
 充分、それで自分の経験を活かすことが出来ている。
 最高じゃね? なんでもすべてが、自分が幸せになっていくことに活かされていくっていう感覚は。
 幸せに形なんか無い、だからこそ、そこに自分を認めて受け入れていくことの有用性が活かされていく。
 はぁ
 生きてるって
 いいなぁ
 幸せを目指せるって
 幸せだなぁ
 
 涙ぐしょぐしょですよ
 感動だよ、こんちくしょー
 夕紀が精一杯生きたってさ・・・わかるもん・・
 だってさぁ・・・だってさぁ・・・・ぐすん
 みなみはさ、夕紀のために頑張ったっていうのは、それはちょっと違うよねぇ・・
 みなみは、みなみのためにひたすら頑張ったんだよ、それを、夕紀のために頑張ったよ、っていう言葉
 で表現しただけでさ、それは、みなみがみなみ自身のために一生懸命に頑張れた、その最大最高
 の幸せに・・・
 
 ありがとう、って
 
 感謝しただけなんだよね。
 誰に?
 それは誰でも無いという意味での、神様に、だよ。
 呟きみたいなものだよね、夕紀自体に感謝したって訳でも無いし、うん、ありがとうって言葉はきっと、
 全部自分のためにあるんだって思うよ、最近。
 幸せな溜息みたいなもんよ、ありがとうって、ごめんっていうのもそうかもしれないな。
 あなたは、どんな自分の姿が見たいですか?
 幸せにありがとうの溜息をつける、そんな自分が見たいからです、ごめんなさいってさりげにさらっと
 気持ちよく言える、そんな自分が見たいからです、それは誰かの御陰だからだとか自分のせいだから
 とか、そういう自分の生の責任を放り出したところから出てくるものでは決してない。
 やべーよ・・ほんと・・・だってそうなんだもん・・
 みなみが、夕紀との思い出を思い返したとき、みなみは夕紀のために頑張って、夕紀はみなみの
 ために頑張ってた?、そうじゃないよね、あれは・・
 あれは・・・あのふたりの、それぞれの笑顔は・・・互いのためなんかじゃない・・・・
 自分のために、しっかりと・・・・あんなに幸せ・・・・・笑って・・・・・
 夕紀・・・・・
 涙止まんないよ
 そのことに気付いたみなみが、大きく目を見開いて泣き崩れた瞬間。
 私の中のなにかが、終わった気がしたよ。
 なんか 救われた
 夕紀は幸せだったんだ、しっかり自分のために、体の弱い自分はみなみのためにみんなのために
 なにか出来ることをしなければいけない、というそういう薄っぺらな言葉のしたで・・・
 ちゃんと・・・
 ちゃんと・・・・・自分の幸せを・・
 なんだよ夕紀のばかやろ、しっかりばっちり、自分の見たい世界見て、生きて、幸せになってたんじゃん
 よかった・・・・・ほんとうに・・・・・・・・よかったよ・・・・っ
 たった一度しか無い、人生。
 あなたは、誰のために生きますか?
 私は、もしかしたら、誰かのために、愛するために生きています、という日に辿り着くかもしれない。
 でも、その言葉はきっと、私へのご褒美。
 私は、そうして。
 愛する人のために生きていると、幸せな溜息をつける、そんな私のためにちゃんと生きている。
 私は、私から始めたいのです。
 私が価値あるとし、必要とし、求めているものから。
 人生を始めたいのです。
 もしドラ風に言えば、そんな感じ。
 
 うん、組織論として、これはすごく面白い。
 そして同時に、「組織」、或いは「社会」を相対化するモノとしても非常に有益。
 社会に出て働くとか参画するとか、或いはなんらかの組織に所属することで自己実現を果たすとか、
 もしドラはその楽しさを描き切ることで、実は同時にそれを絶対化することを見事に否定し、阻止
 している。
 言い換えれば、プロアマ問わず、「仕事」なんて人生という壮大な物語の中の、楽しいゲームの
 うちのひとつにしか過ぎない、ということ。
 そもそもそのゲームには「好き」だからという理由でのみ参加する事に意味があって、そのゲームに
 参加しなければ生きる資格も一個の人間として認められないとか、あまつさえその中でしか幸せを
 掴むことは出来無い、なんて事が堂々言われる世界の中には、真の幸せは存在しない。
 あくまでそのゲームは、自分という最大の顧客の、最大の望みたる幸せに生きるという目的を
 果たすための手段のうちのひとつにしか過ぎないのだから。
 生活保護とかの理念ってそういうとこに本質があんのよね。
 んで、その認識を以てそのゲームに、仕事に、社会に、組織に参加することでのみ、本当の個人の
 幸せが得られてくる。
 そうでない義務とか押しつけからくるそれらのものは、全部、不幸だとはっきりと私は断言しましょう。
 あるいは、たんにひとりになるのが怖いだけでしょ?、みんなと違うことするのが嫌なだけだろ、って事。
 仕事なり社会なり組織なり、そういったモノに唯々諾々と従い「参加させられている」状態の人に
 とって、一旦それらのものから脱出し、それらを相対化し、また「ひとり」になることが、その人にとっての
 幸せへの道筋を開く、ということはアリ、というか今のこの時代にこそ、とても大切なことだと思う。
 そして、そういうものを経験した人が、その自分の経験を認め、そしてそれを活かして自分の夢を幸せ
 を掴もうとして社会にアクセスしたときに、社会に還元されるものは、とても私達の幸せな生にとって
 重要なものになっていくと思います。
 取り敢えず、私がなにを言いたかったかというと。
 夕紀の幸せな生と、みなみ達の甲子園出場に感動し、号泣した。
 原作者の岩崎夏海の本気出し過ぎて色々はみ出してる感に、共感した。
 の、二点です。 そこだけは押さえておいてください。
 テストに出ます。 (なに)
 
 
 という感じのもしドラ感想で御座いました。
 この作品こそ、なんというかアニメの本質的面白さを体現した作品ですね。
 ストーリーとか設定とかテーマとかギミックとか、そんなの関係無いところで、まさに根本から、
 はっとさせられるなにかを持っている、そういう素敵かつ偉大な作品になりました。
 まったく、これだからアニメファンはやめられんのじゃ♪
 
 
 
 はい。
 ということですっかり長くなってしまいましたので、今回の前期アニメのまとめ感想は、
 「これはゾンビですか?」「フラクタル」のふたつのみとさせて頂きます。
 
 
 
 
 ◆
 
 
 これはゾンビですか?:
 最終回にすべてが詰まっていると私は思う。
 観てると、なんかこう、感じる。
 ぐわーっと、ほっと、ふー、って。
 なにを言ってるのかというと、落ち着く、ということです。
 こう、ぐるぐるっとなって、ばしゃばしゃっとなって、地固まる、という感じです。
 ・・・。
 楽しい。
 や、こうやって訳わかんないことを言い出せるのが、楽しい。
 なんでもあり、っていうか、誰でもあり、っていうか、この作品はもう、ほんと、なんていうのかなぁ・・
 幸せ。
 あったかい。
 殺伐としたりシリアスったりバトるったりスベったりギャグったり、その個別のものがどうとかじゃ無く、
 なんかそういうの全部わしゃっと全部ぶっかけて混ぜ合わせて、はい、たんとお上がり♪
 ・・・。
 やっぱり楽しい。
 なんかこの感想を書き始める直前まで、テーマ的なことを思うさま書いてやろうと思ってたですよ、
 だけどなー、なんか違うんだ、それ違うんだ、この作品の本質を抜き出してそれを私の切り口で
 語り倒しても、なんか、違うんだ。
 だってこの作品、答えじゃ無くて、感慨、で出来てるんだもん。
 いろんなキャラが出てきてて、だけど共通するものも持ってて、でもみんな違くて。
 んで、みんながひとつになってわっしょい、みたいな事も無いままに、なんか、こう。
 みんな、ふつうにひとりひとり、幸せみつけてる。
 みんなひとりひとりの視点から、そのキャラの気持ちやらがーっとかうわーっとかほよーっとか、そういう
 感慨のままに、観てるこっちがハマって。
 幸せになっちゃう。
 滅茶苦茶やってんだけど滅茶苦茶じゃ無い、バラバラなんだけど、なんかこう、ひとつのものを通して
 なにかを確実に感じ取れる。
 最終回なんて、あれは一体なんて見事な統一感なのだろう、馬鹿やって、滅茶苦茶やって、
 なのにこう、そのひとつひとつの有様が、嬉しい。
 上手く語れない。
 けど、その語れないというこの私の口が、緩やかに楽しさと嬉しさで綻んでいくのを感じていく。
 
 不思議な作品だ。
 
 作り手の方には、統一した意識なんて無いだろうね、これは。
 計算はされてないし、計算して出来るもんじゃ無い、実はほんとは通底してるものも無いんじゃないかな
 だけど、感じる。
 作り手の意志をこそりとも感じないまま、この作品は自由自在に、その作品の命というひとつの統一
 を持って、確かに生きている。
 そう、この作品は生きてるんだねぇ。
 これゾンというひとつの存在、むしろキャラって言ってもいいよ、それが、色んな突飛な設定とか展開
 とか要素とかを取り込んでそれを表現しようとするたびに、この作品は、これゾンというキャラは、
 新しい自己を獲得していっているように見える。
 新しい自分、そしてそれは、自分という同じひとつのもの。
 まるで、一個の人生を観ているような感触。
 そう、主人公あゆむがどうこうじゃ無くて、作品そのものが一個の主人公となって描き出されている。
 時には笑ったり、時には泣いたり、時には戦ったり、時には泣いたり、その作品「らしさ」なんて殻を
 突き破って、これゾンは全力で生きまくる。
 うん、だからね、私はさ、この作品のキャラの誰かに共感するとかあんまし無いんだわ、けど、
 この作品自体のこの生命力に溢れるうごめきそのものには、とんでもなく、共感する。
 共感して、同調して、そして。
 安心、安堵する。
 ハルナが独特過ぎるリズムでボケまくったりする、その新感覚なこれゾンというキャラの「私」に私は
 共感して、その私を楽しめる。
 そして同時にハルナがきっちり自分の想いに蹴りを入れて前に突っ走る、その頑張るこれゾンという
 キャラの「私」に私は共感して、その私で頑張ってみる。
 セラさんの容赦無く凛々しいお言葉で突き抜ける、その爽快なこれゾンというキャラの「私」に私は
 共感して、その私はSに走る。
 セラさんの容赦無く凛々しいお言葉に晒される、そのゾクゾクするこれゾンというキャラの「私」に私は
 共感して、その私はMに走る。
 局面によって、これゾンというキャラは、その作品内のキャラを使って、作品自身の人格を魅せていく。
 なんか、いいよね。
 すごく、人間に幅がある。
 どんな人格でも自分でも、幸せを感じられるように頑張る、とかじゃ無く、むしろどんな人格でも自分
 でも状況に合わせてしっかり作っていける、その柔軟さと度量の大きさこそが、大きな幸せをもたらして
 いく。。
 だから、個別のキャラとしての人格に、ひとつひとつの幸せを用意してやる必要が無い。
 大元に自らの変化と複数の「自分」を抱えることが出来るなら、あとは個々の「自分」が対応して
 自然に幸せを生み出していく。
 そういうもんだよねぇ、人生って。
 おまけにこの作品は、各キャラそのものでさえ、その中に複数の自分を作り出していくんだよね。
 最終回に於けるサラスバティの華麗なる表裏共に全力な人生っぷりはいわずもがな、セラやハルナ、
 そしてなによりユーがあれだけ自分のやりたい事をやっていく、その過程でどんどんと自分を変え、
 自分を増やしていったりする。
 んで、主人公のあゆむが魔装少女で、ゾンビな訳でしょ?
 どんだけ自由自在な人生なんだ、この作品。
 
 そして、なんて前向きで、なんて自分に対して誠実な自己なんだろう。
 
 この作品を観て私が安心安堵そしてハッピーになれるのは、そりゃー私もそういう人生を目指してる
 からに他ならない。
 どんどん状況に適応して、よっしゃいっちょやってやるかっていって、拘りなくガンガンやりたい事やって、
 そして新しい自分を獲得してく、そういう自分を見てみたいからなのじゃよ。
 私なんかは、適応力自体はそこそこあるんだけど、自分自体を変えたり増やしたりしない表層だけの
 適応だからねぇ、自分を守っちゃってるっていうか逆にそれで縛りが発生して自由さが無くなっちゃって
 たりするから、ほんともう、こういう作品見せつけられると、ドキって胸がときめく。 どきどき。
 いいなぁこれ、これいいなぁ。
 そう。
 そういう風に、あゆむばりにやにさがったにやけヅラでこの作品に惚れ惚れっとしている、そういう私を
 もう既に新しく作り出すことに、私は成功してる。
 あ、出来た  ← 実感の無い人
 アニメの感想を書く、ってさ、実はこれ、アニメ見て、うわすげ、うわきたこれ、うわ、うわ、ぎゃー、
 そうやってぐるぐるになったりすかっとしたりして、どんどん変わって、どんどん増えてく自分の姿を書く、
 そういう作業の事なのじゃないかなぁ。
 いつまでも変わらない一個の自分を守って、その観点から感想を書いても、なんかそれって逆に、
 アニメに対して誠実じゃ無いなぁ、なにより自分のアニメ体験に対する真摯さに欠けるもんねぇ。
 新しいアニメと出会って、もうそれだけでだいぶ変わってる新しい自分を無視して、それまでの自分の
 ままになにかを書くのはさ、うん。
 駄目だよ、それ。
 それ、私に言ってんだからね!
 変われ、変われ、変わってく自分を受け入れろ!
 敢えてこの作品のテーマがなにかと言えば、それなんだけどさ、うん、なにせ主人公がゾンビになったり
 魔装少女になったりしながら、どんどんそれで楽しく幸せになってくんだからねぇ、もう以前の自分に
 拘る理由なんてなにひとつ無いんだもんねあゆむはさ。
 たぶん、生きづらさとかそういうのって、自分の変化を受け入れられない、そうして自分を強烈に
 縛る自分との和解が出来ていないからなのだと思う。
 逆に言えばさ。
 
 みんながさ、ふつーに魔装少女だったり吸血忍者だったりネクロマンサーだったりゾンビだったりしたら。
 
 全然もう、変わっていく自分を受け入れられるんじゃね?
 
 この作品はつまり、そういう効用ももたらしてる気がする。
 こんだけふつーじゃ無いモノがよりどりみどりな上にはちゃめちゃやってんだもん、ふつーな自分に拘る
 必要自体が自然に、そして優しく解除されるでしょ。
 なんかこれ、普通に癒される。
 自分が「特別」じゃ無くなっていく、自分を相対化していく事が可能になる、これほんと、今のこの社会
 にめっちゃ必要なことだし、既に多方面からそういう動きがあって、そういう意味ではこの作品は今の
 この時代を象徴する作品でもあるよね。
 みんなひとりひとりが特別だから、そう、ただのひとりもこの世に同じ人間は存在しない、その「ひとり」
 という自覚を受け入れたとき、他の人達も同じくその自分の「ひとり」を抱えている事を感じられ、
 そして「独り」では無くなっていく。
 つまり、みんな特別だからこそ、ひとりだけ特別、という事が無くなっていく、っていうかね。
 だから逆に、最初から特別な人なんていない、みんな同じなんだ、みたいな発想でその「みんな」の
 中に無理矢理自分を組み込もうとするときに、きっと生きづらさ的なものが発生する。
 この作品には、その生きづらさ的なものが、徹底的に解除されてる。
 魔装少女と吸血忍者とネクロマンサーとゾンビ、とあと人間。
 一体どれが特別で特別じゃねーんだよ?
 寂しさも悲しさも無く、また共通の目的を以てひとつにまとまるという欺瞞も無しに、この作品は見事な
 平和を描き出している。
 いいなぁこれ。
 これほんといいわぁ。
 これひとつ頂戴。
 最近の私の最高の褒め言葉がこれです。
 うん。
 これが欲しいから、ほんときっと、とっても欲しいから。
 だから。
 私は頑張って、人生を楽しんでいこうと思えるのであるなぁ。
 うわ
 最近私、ふつーに頑張るって言えるようになってきたゾ。
 ふふ
 ふふふふっふh(まぁ落ち着け)
 まぁうん。
 私はつまり、自分自身に対して誠実な人が好きって事なんよね、きっと。
 自分の気持ちの、自分の感情の、自分の想いと欲望に責任を持てる人が、ね。
 社会がどうだからとか常識がどうだからとか掟がどうだから、とか言って自分を否定して他者に責任を
 負わせ、それを他人にまで敷衍する、そういう無責任なものをこそぶっ飛ばして、そうしてちゃんと自分
 のままにあるがままにそういうものと戦っていける、そういう人達と一緒に暮らしていきたいなぁ。
 これゾン。
 万歳。
 
 
 
 フラクタル:
 つまりこれはどういう事かというと、フラクタルという管理システムが一体なにを表しているのかという
 ところから始まる訳であり、このフラクタルというのは、たとえば一切の労働から開放されたニート讃歌
 の表れとしてあるようでいて、その実、「支配的」なものすべての表れであったりする。
 つまり、労働讃歌だろうと非労働讃歌だろうと、それが支配的押しつけ的なものであれば、それ
 すなわちフラクタル、という事に於いて、これはそのどちらにも与さない。
 たとえば、肉体を駆使して生きない、働かないというニート、というより引き籠もり的モノ、それを
 フラクタルとして捉えた場合、そのフラクタルを否定しようという作品の趣旨になる場合、今度はその
 フラクタルの否定としての、別の「フラクタル」の発生と存続を止めることは出来無い。
 つまり、あの世界に於ける規定化された労働の「スタイル」、それからはみ出すものへの攻撃、
 そういったモノとしてのフラクタルは残るのだと思う。
 「働かない」と「働く」という事が、この作品の場合、対では無く、同じひとつのモノとして合わせて一緒に
 否定されている。
 
 ぶっちゃけこの作品の主題、というか描き出そうとしていたものは、ただ純粋に生きる、ということだけで
 あり、その自分の生のためにこそ働く、体を動かし、人とコミュニケーションを図る、ということ。
 だからその自らの生を満たす事に現在繋がっていない、初期に於ける主人公の虚ろな感じが、
 まさに「働かない」という形として表れたフラクタルを象徴している。
 「働かない」という事が、主人公クレインの生にそぐわない、言い換えれば、それが主人公の求める
 生き方、すなわち本当に求める生の形では無いということ。
 と同時に、「働かない」という形のフラクタルを否定する形で成り立っている、「働く」ということが、
 今度はクレインに覆い被さって、それを支配しようとするときに、そこにクレインにとってのフラクタルが
 発生する。
 クレインの求める生き方、純粋な生、すなわちクレインのそのままの欲望を素直に生きることに
 繋がらない、そういうモノとしての労働は、すべてクレインにとってはね除ける対象でしか無い。
 「働く」、すなわち労働というものの形が規定化され、他者によって決めつけられた形でしかそれを
 遂行出来無いモノに貶められたとき、それは自分にとって、そして人間にとっての労働の価値を失う。
 だから、引き籠もる。
 あの作品に於けるフラクタルシステムのそもそもは、そうした前時代に於ける様々な制約や因習、
 そういったものによって歪められたシステムとしての労働からの脱出、すなわち脱中心化を図るところ
 から始まったと思われる。
 ガチガチに「働く」という形が決められ、様々な無意味なものに縛られて、そうしてただストレスを
 消費していくだけの労働、そのシステムの中心に据えられ、そして当の本人もそのシステムの中で
 生きることが正しいと、それしかないと思い込むしか無い、まさにそこからの脱出を図るための、
 装置としてのフラクタル。
 労働からの解放、では無く、システム化してしまった労働という名の呪縛からの解放。
 それはつまり、決して労働そのものの否定では無かったはず。
 ところがそれが、いつのまにか、中心から脱出した先で今度は「働かない」というシステム、
 フラクタルというシステムそのものの中心に捉えられてしまった。
 
 だから。
 今度はそこから、また脱出する。
 
 それがこの作品の趣旨。
 だから、あの反乱軍(名前忘れた)の人達のような、現行のフラクタルシステムのアンチとしての、
 アナクロな生き方をクレインが否定したのは、それは当然のことである。
 それでは今度はそのアナクロな生き方の中心に据えられ、縛られてしまうだけだからだ。
 クレインは、ただ生きたい。
 自分の素直な欲望のままに。
 フラクタルだろうがアナクロだろうが、自分以外のなにかに支配される生き方こそを、クレインは
 否定する。
 好きが好き。
 これが、クレインが辿り着いた、自分の求める生き方の本質。
 好きなものを好きなだけ、それをやり切るためにこそ、自分は生きて、戦い、そして。
 働く。
 嫌なものはやらない、つらいことも苦しいことも、それが自分の好きと繋がらないのであれば、
 それと敢然と戦う勇気を。
 そして逆に、好きと繋がるものにこそ、すべてを注ぎ込む。
 そして、クレインはそれを守る、それがクレインという一個の人間の、使命。
 それが、クレインという存在の責任を、クレイン自らが負うという決意。
 クレインは働く、自分が必要だと思う、その想いのままに。
 それは他者によってシステム化された労働とは、全く違うものになっていく。
 自分で美味しいご飯を作るのは、それが食べたいから、それを食べて欲しい人がいるからで、
 そうしてご飯は自分の手で作らねばならないとか、そういうものはフラクタルの管理に任せるべきだとか、
 そういうモノとは全く切り離されたもの。
 クレインが自分で食事を作る理由は、クレインがそうしたいから、というただそれだけの理由。
 
 好きだから。
 大好きが、大好き。
 
 労働の動機付けを、そうして自分の中に取り戻していく、それがこのフラクタルという作品の目指した
 もの。
 労働にしろなんにしろそうしたものがすべて自分の中から始まっていくことで、なにが本当に必要で、
 必要でないかを見極める力を養うことに繋がっていく。
 一体どれほど、必要で無いものを求め、そして不当にそれを背負わされているのか、現代社会に
 於ける圧倒的な生きづらさの本質のひとつを、この作品はものすごいフェイントをかけた後に、
 あっさりとまざまざと描き出している。
 ラストで、フラクタル漬けだった人々、すなわち労働初心者が、農作業中に爪に土が入ってどうしよう
 とぼやいたのを、そんな事で畑仕事が勤まるかとどやした者をこそ、しっかり教えてやんなさいよ!、と
 叱りつける風景。
 先行するひとつのシステム化された労働のイメージを敷衍し他者に押しつける、それが社会の習い
 だと、その社会の中で働くことだという、そういう支配的な「フラクタル」がそこに発生していることをこそ、
 この作品はしっかりと叱り付け、戒める。
 私達は、社会や誰かのために働いてるんじゃないわ、自分のために働いているのよ。
 そうして自分のために働くための場所として社会があるのに、その社会を独り占めにしてる馬鹿共が
 いる訳よ、なに勘違いしてつけあがってんだかね、まったく。
 労働者は、既存の因習としての労働のシステムを守るために働いている訳では無い、あくまで労働者
 自身が自分を生きるためにこそ働いている、その労働を阻害するものが社会にあってはならない。
 そう、この作品は主張している。
 そしてこの作品は、幸せに生きるための労働を実現出来る、そんな社会の再創造を求めている。
 
 『クレイン、私もクレインのことが好き。
  出会ったときから、ずっと好きだった。
   私、今、幸せ♪』
 
 そういう風に、元気いっぱいに言える、そんな社会を創っていきたいものです。 (微笑)
 
 
 
 
 と、今回はここまで。
 読んでくださった皆様、お疲れ様でした。
 そして私もな。 (疲)
 
 ということで、また次回お会い致しましょう。
 次回は・・・・まだなにを更新するか決めておりませぬ、なるようになれ。(にげるなよ)
 
 では、ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

Back