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◆◆◆ -- 2011年8月のお話 -- ◆◆◆

 

-- 110828--                    

 

         

                           ■■泣き虫な友の生きる時間■■

     
 
 
 
 
 
 『 さえ神様は夏目ともう会うなって・・・
 
  どちらかが悲しいおもいをするからって・・
 
  でも、でも違うんだ夏目!
 
  あのとき、時計は壊れちゃったけど、でも確かに動いてたんだよ、夏目・・
 
  その事をぼくは覚えてて、さえ神様と会ったことも、話したことも、助けて貰ったことも・・
 
  だからぼくと夏目もきっと・・・きっと・・・・・ 』
 
 

                          〜夏目友人帳 参 ・第八話・子狐の言葉より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 雨がばしゃばしゃと降って、風がごうごう鳴って。
 足下を見つめたら、土がぐちゃぐちゃになっていて。
 座り込んだら、もう立てないかもしれないよ。
 いいの?
 いいよ、もう
 ぼくは座り込む。
 思い切り、びしょ濡れのどろどろになって、地面に座り込む。
 
 真っ黒に立ちはだかる、でっかい木達が、なぜだか、少しぼくから離れていった。
 
 どうしてだろう。
 どろどろのぐちゃぐちゃのぼくに、触りたくないのかな。
 ぼくは真っ黒になりながら、そのままずるずると、這って森の中を進んでいった。
 なんだか、雨の混じった泥って、あったかい。
 座り込んで、よかったなぁ。
 ぼく、寒くて、冷たくて、それなのに、真っ暗闇の森の中を、歩き続けていて。
 ぼくはずっとこのまま、なんにもわからないまま、ただ真っ黒な木達に向かって、歩き続けなくちゃ
 いけないのかな。
 大の字に泥の中で寝転んだぼくの顔には、びしばしと、雨が強く打ち付けていた。
 森の中を歩いていたときは、ただ冷たいとしか、感じ無かったのに。
 冷たくて、寒くて、段々、もう、どうしようも無くなっていくだけだったのに。
 このまま頑張っていれば、きっと誰かが・・・
 
 
  その日ぼくは、雨と泥の中で、這いずり回りながら、たくさん、たくさん、泣いた。
 
 
 
 
 次の日。
 かんかん照りの、真っ青な空。
 ぼくはいつもよりずっと遅く起きて、いつもとは違う方向に歩き出した。
 歩いて、歩いて、ただ森の木達の姿さえ目に映らないままに、歩いて。 
 気付いたら、いつもぼくが魚を獲っている川に辿り着いた。
 さらさらと、優しい音が、懐かしさ以外のなにかを、そっとぼくの胸に落としてくれた。
 ぼくはそれを口いっぱいに吸い込んで、どぼんと川に飛び込んだ。
 さぁ、魚をいっぱい獲るぞぉっ!
 ここは、ぼくがみつけた川。
 ぼくが、魚を獲る場所。
 美味しく口の中に溶けていく、あの味を思い出しながら、ぼくはひとつずつ魚を獲っていく。
 やったぁーっ! また一匹捕まえたぁ!
 いつもと同じ服を着て、いつもと同じ川で、いつもと同じことをしているはずなのに、ぼくは今まで
 ぼくがどんなことをしていたのかを、すっかり忘れてしまっていた。
 ああ、ぼくはきっと、今、生まれたんだ。
 なんだか知らないけれど、ぼくはこれから、毎日生まれ変わっていく気がする。
 変わらないのは、かあさまだけ。
 白い雲を見上げたときに見つかる、かあさまのあったかい尻尾の香り。
 だからぼくは、魚を獲る。
 魚を食べたい、だから、獲る。
 一匹、二匹、三匹。
 これは、ぼくんだ!
 いじわる妖怪達が、ぼくの魚を盗もうとして、ぼくは沢山怒ったんだ。
 返せー! その魚はぼくが食べるんだっっ!
 こうしてあいつらを追っ払い、ぼくはぼくの食べたいものを、守ることが出来たんだ。
 『かあさま、ぼくは強くなりました。 もうひとりでも大丈夫です。
  いまならきっと、夏目の力になれるよ。』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 夏目に会いたい。
 会いたいよ・・・
 一人前の狐になって、そうすれば、ぼくは夏目の助けを借りなくても大丈夫だし、夏目を助けても
 あげられる、だから、夏目に会いたい・・・
 会えるよね・・夏目・・・・
 ぼくはただ夏目に会いたいだけなんだ・・
 夏目・・夏目・・・
 だってぼくは、ひとりでも・・・だいじょうぶ・・・だから・・・
 夏目が、また会いに来てくれたんだ!
 ぼくはこんなに強くなった! ぼくは夏目に堂々と会えるんだ!
 夏目はぼくに会ってくれるよね!
 『夏目、気付いて!』
 なんとかして、夏目に気付いて貰おうとして、ぼくは一生懸命に頑張った。
 夏目は、夏目と一緒に住んでいる人と一緒にぼくの住む森に来た。
 ぼくは・・・寂しかったんだよ
 わかってるよ・・・夏目は、ぼくに会いに来たわけじゃないんだ・・・・
 でも・・・だから・・・・ぼくは、夏目に会いに行くんだ
 だってボクは、一人前になったんだから!
 夏目に会っても、いいんだ!!
 なのにどうして・・・
 ぼくは、夏目の隣にいるあの人のことが気になるんだろう・・・
 
 さえ神様は、もう夏目に会っちゃいけない、って言った。
 ぼくと人間は、生きる時間が違うから、って。
 だから、人間の時計を、ぼくがつけちゃいけないって。
 どうして? こんなに綺麗で、面白くって・・・
 そしてなによりこの時計、ぼくが動くと、動くんだよ?
 ぼくが頑張った分だけ、動くんだ。
 さえ神様は、おまえは人間になりたいのか?、ってぼくに言った。
 気付いたら、ぼくがなにもしてないのに、時計は勝手に動き出してた。
 ぼくがなにもしなくて、時計は動くの?
 ぼくがなにかしたから、動いたんじゃないの?
 ぼくは・・・
 ぼくは人間になりたいんじゃないよ。
 ぼくは、かあさまのような立派な狐になりたいんだ!
 だからぼくは、ひとりで生きられるように頑張って、立派になって、そうして頑張ってるぼくなら、
 また夏目に会ってもいいんだって・・・・
 どうして?
 どうしてぼくは、夏目と会っちゃいけないの?
 ぼくは、頑張ったらいけないの?
 どうして、時計をつけちゃいけないの?
 
 
 森できのこを採っていたときに、ぼくはそれをみつけたんだ。
 前に人間がつけていたのを見たことがあるから、知ってる。
 さえ神様は、それは時計だよって、教えてくれた。
 ぼくは・・・
 夏目に会いたいだけなんだ!
 
 ぼくはもう、夏目がいなければ生きていけない、そんな弱虫じゃ無いよ!
 
 
 でもぼくは、なかなか大きくならない。
 夏目みたいに、大きくなれない。
 どうして?
 真っ黒な木達が、またぼくの前に立ち塞がる。
 ぼくはそれが嫌だったから、泥の中に飛び込んだのに。
 ぼくは・・・ぼくなのに・・・
 ぼくは・・・・夏目みたいになりたかったのかなぁ・・・・
 ぼくは、夏目みたいになかなか大きくならない、そんなぼくのことが・・・・・
 人間があんなに大きいのは、この時計をつけてるからなのかな?
 ねぇ、さえ神様。
 ぼくの時間、ってなに?
 
 
 
 『かあさま・・ぼくにはわかりません・・・ぼくはずっと夏目といたいだけなのに・・・』
 
 
 
 
 ◆
 
 夏目といるために、なにか出来ることは無いかな。
 夏目は、ぼくに会いに来たんじゃ無い。
 それは、わかったよ。
 夏目は、ぼくに会いに来たんじゃ無い。
 だから
 ぼくは、夏目に会いにいく。
 そしてだから、夏目のために出来ることを探した。
 夏目は、薬草を探すためにこの森に来た。
 じゃあ、ぼくは夏目のために、それを探そう。
 その薬草をみつけて、ぼくが夏目にあげるんだ。
 そうだよ・・ぼくが薬草を見つければ、夏目はぼくに会いに来てくれる。
 ぼくが夏目に薬草を渡しにいけば、夏目は薬草を持ったぼくに会いに来てくれる。
 薬草が、夏目をぼくのところに連れてきてくれるんだ!
 だって、だって、ぼくは、夏目に会いたいんだ!!
 
 ぼくは雨にびしばしと打たれながら、泥の中を進んだ。
 びしょびしょのどろどろになりながらも、ぼくはしっかりと前に進んだ。
 夏目にあの草をあげるんだ!
 夏目に会える、夏目に会ってもいいんだ!
 夏目に会うために、あの薬草が必要なんだ。
 きっと夏目は喜んでくれる、だって夏目はあの薬草を採るために来たんだから。
 この森はぼくのよく知ってる森だもん、ぼくなら出来るよ。
 頑張ろう、がんばれ、ぼく!
 ひとつ、ひとつ、岩山をよじ登って
 雨が降って、雷が鳴って、でもぼくは登り続けた。
 そうしたら、雷が薬草のついた木の根元に落ちて、ぼくに向かって真っ直ぐに倒れてきて。
 もう駄目だ!
 そうしたら、さえ神様がぼくの身代わりになって、ぼくを助けて、消えた。
 倒れたときに、石にぶつけて、時計は割れて壊れちゃった。
 ぼくは涙を拭いて、木についた薬草を、ひとつひとつ摘んで・・・
 ぼくは・・・・ぼくは・・・・・・ぼくは・・・・・・
 
 ひとつ ひとつ
 摘んで
 
 ぼくの掌に薬草が乗るたびに
 涙がぼくの目に溜まっていく
 
 
 夏目だ・・
 
 夏目・・・・なつめ・・・・・なつめ夏目夏目ぇぇっっ!!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 ぼくね 夏目
 さえ神様の言ってたこと、ほんとはすごくよくわかってたんだ。
 夏目には、夏目の大切なことがある。
 夏目には、夏目がいるんだ。
 人間の夏目と、狐のぼくは、全然違う。
 夏目だって、ぼくと同じで、一生懸命に頑張ってるんだよね?
 夏目も、ぼくと同じで、成長してる。
 もうずっとぼくよりも大きい夏目だけど、もしかしたら、まだまだずっと大きくなるのかもしれない。
 ぼくは、それが悲しかったんだ。
 ぼくも、ぼくも夏目みたいに、夏目と一緒に大きくなりたい!
 
 でも
 ぼくと夏目は、違うんだ
 
 時間って、そういうことなんだよね?、さえ神様。
 寿命の長さが違うっていうのも、勿論そうなんだけど、でもきっとそれよりも、ぼくと夏目の、
 それぞれ自分の大切なもののためにしなければならないことの、その早さは全然、違うってことなんだ。
 ぼくには、夏目を見ている暇は、無くて、ぼくはぼくの大切なことのために、ぼくの時間の通りに、
 生きなくちゃいけないんだ。
 夏目が、夏目と一緒に暮らしているあの人と一緒に来たのは、それが夏目にとって大切なことで、
 そして、それが夏目の時間なんだ。
 ぼくにも、同じように、夏目とは違う、ぼくの大切なことと、大切な時間があったはずなんだ。
 少なくともそれは、ぼくが夏目に会うために必死になったり、夏目のために夏目のするべきことを
 代わりにやってしまうことでは、無かったんだ。
 だから、さえ神様は、ぼくに夏目と会うなって言ったんだ。
 たんに寿命の長さが違うから、お互いがそれで悲しむからっていうだけの理由でそう言ったわけじゃ
 無いんだ。
 夏目はあの人と・・・・楽しく過ごせたかな・・・
 あの人との間に、なにかよいことあったかな・・・
 夏目は、ちゃんと大人になるために頑張れてるかな
 ぼくは
 ぼくは、頑張れてるのかな
 ぼくは、結局夏目のことばかり。
 だったら
 それだったら
 会うな
 さえ神様は、そうぼくに言ったんだ
 
 うん
 
 さえ神様は
 
 ぼくと、夏目が会った
 この大切な、ふたりの時間のことを、駄目だって言ったんじゃ無いんだ。
 
 
 さえ神様は、ぼくのために消えちゃったんじゃ無いんだ。
 さえ神様は、ぼくのするべきことをぼくの代わりにやって消えたんじゃ無いんだ。
 さえ神様は、ぼくにはどうすることも出来無いピンチを、助けてくれただけなんだ。
 そのときの、ぼくとさえ神様の時間は、とっても大切で、確かなものだったんだ。
 時計なんか、いらない。
 夏目の時間にぼくが合わせる必要も、夏目がぼくの時間に合わせる必要も無い。
 ぼくと夏目
 違う時間を生きる、そのふたりが
 偶然出会った
 
 それはとっても とっても
 嬉しいことなんだよ
 
 だから
 もし会えなくても それも同じくらいに、嬉しいことなんだ
 
 夏目と会えないと、悲しい、寂しい。
 でもきっと、だから、偶然出会えたときが、溜まらなく嬉しいんだ。
 夏目と会えないことの悲しさと寂しさを、ぼくが嫌だって放り出しちゃうから、ぼくは夏目に会うために、
 色々と、そのためだけに頑張ってしまうんだ。
 ずっと夏目といたいと思って、そのためだけに頑張っちゃうんだ。
 夏目に、やっと会えたとき。
 ぼく
 嬉しくて
 怖くて
 
 ごめんなさい
 
 あのね
 
 ぼく
 いっぱい 迷惑かけちゃった
 
 ぼくは、ぼくのしなければならないことを、ちゃんとやるよ。
 そして、その邪魔にならない程度に、また夏目に会えたらいいな。
 ぼく
 さえ神様に出会えて
 夏目に出会えて
 
 このぼくの時間を生きられて
 
  とっても   うれしいよ
 
 
 夏目と手を繋いで山を下りて。
 夏目が夏目と一緒に来た人の元に帰っていくのを見送って。
 夏目が乗った電車が帰っていくのを見送って。
 手を、目一杯振って。
 かあさま。
 なんだか
 ぼく
 寂しくないどころか
 とっても
 
  誇らしかったよ
 
 だって
 夏目との時間を、とっても大切に出来たんだもん。
 後悔しないくらいに、心残りが無いくらいに、精一杯、夏目と会えたんだもん。
 もう二度と会えなくても、ぼくは今、とっても嬉しいんだ。
 夏目が、ぼくのためにお皿を一枚くれたよ。
 狐が、描いてあった。
 これ、ぼくかな?
 ありがとう
 夏目
 
 さようなら
 
 
 お皿を仕舞ったら、さぁ、川に魚を獲りにいっくぞぉーっ♪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                            ◆ 『』内文章、アニメ夏目友人帳 参」より引用 ◆
 
 
 
 



 

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                                ■■ よし、九周年! ■■

     
 
 
 
 
 
 本日、8月24日にて、当魔術師の工房はサイト開設より九周年を迎えます。
 これまでこのサイトに来てくださった方々に、深く御礼申し上げます。
 
 
 
 
 ・・・。
 あー、肩凝った。 (ぉぃ)
 
 そうなんですよねぇ、九周年なんです九周年、その数字がどれだけのものなのかとか実感する前に、
 あー九周年の挨拶の文章とかなに書こう、つか今夏目の感想とか他に書き始めを画策中の文章
 とか色々あって、ぶっちゃけそれどころじゃねーっつの、とか、そういうやさぐれ者な私がぐるぐるとくだを
 巻いていて、まぁ取り敢えず文章っていうか挨拶だけはしておこうかそうしよう、という感じで、
 まずはご挨拶、そのあとは考えてないあははー、みたいな感じです。
 
 ・・・・。
 いやマジなに書こうか悩んだ末に、なにも出てこなくてどうしようかと。
 あー、まぁね、そうね、自分のことを書こうと思っても、なんか書くことないっていうか、それは
 普段バリバリ書いて・・あ、そっか、サイトと私の関わりを書く、という方法もあるのか、って言っても
 最近サイトっていうか文章をひたすら書いてるだけだからナー、魔術師の工房っていうか、アニメの
 感想だからナー、あーあとはチャットですか?、なんだか最近チャットが楽しくてねぇ、なんでやろ?
 
 
 んー、それか、それを書かせて頂きましょうか、うん、そうしよう。
 んん−、チャットね、そうね、なんつーか、最近っていうか結構前からだけど、あんまし頑張らなくなった。
 もう色々皆さんお気づきでしょうけど、私あんまし他の人のこと考えてねーっていうか(ぇぇ)、
 自分が楽しけりゃいいっていうか、簡単に言えば、話を振ったりとかしてみんなで楽しく盛り上げよう
 みたいな、そういう努力をすぽぽーんと放り投げて、自分の好きな話を好きなだけやってるというか、
 ごめんなさいねぇまた調子乗って喋りまくっちゃってだが反省はしていない、みたいな。
 
 つまり、「場」を意識しなくなったのね。
 空気というか会話の成立というか、さっきも言いましたけど、みんなを楽しませる、という設定の
 チェックボックスをオフにしたというか、みなさんお好きにどうぞ、というか。
 
 必然、そうなると一番喋りまくってる私の紅いログで発言欄が埋め尽くされていく訳なのですけど、
 それでいーじゃんというか、それでどうするかは、それは他の人達が自分で考えて自分で決めて
 行動する問題であって、それを私がなんとかしちゃうのは、なんか違うんじゃね、という気付きを体現
 出来るようになってきておりまして。
 
 逆に言えば、私は誰にも、空気を読むことも場を成立させることも、全く求めなくなっていて。
 べつに私と競ってログの埋め合いをしたっていいし(ぇ)、全く逆に私の発言全無視して、私以外の
 人との会話だけに集中なさっても結構ですし、結果、それでログがどんどん進んでいけば、あるいは
 進んでいかなくても、それはそれで素敵なことだよね♪、と素で感じています。
 遠慮も無し、常識も関係無し、最低限のお願い事、ウチの場合は争い事と誹謗中傷・18禁関連
 はやめて欲しいな☆、というのを尊重して頂ければ、なんでもあり。
 
 だから、無理に私のハイテンションハイペースなログに合わせてなんか発言しなきゃ、とか思ったり
 しなくていいですし、どう見てもこいつアニメの話しかして無くね?、アニメ以外の話振ると、妙に
 一行辺りの文字数減ってね?、みたいな私の有様なんぞ無視して、がんがんアニメ以外の話して
 くださってもいいですし、私は私ですし、他の人は他の人。
 
 それで、いいじゃん。
 
 とそうきっぱりと自分で決めたってわけじゃ無く、気付いたらしぜんにそうなっていたというか。
 日記の文章もそうだよね、なんかもう、こんなこと書いていいんだろかみたいな、そういう自己検閲的
 なものが全然無くなって、好き放題に書きまくって、なんか気持ちいいっていうか、開放感っていうか、
 逆に今まで好き勝手に書いてるつもりだったけど、全然好きには書けてなかったっていうのがわかって
 きて、じゃあなにが書けてなかったんだろ、というと。
 
 それは、自分のこと。
 
 それを結局今まで私は、ストレートに書いてきて無かったんですよね。
 今は、メインはアニメの感想ですけれど、その中でちょくちょく自分のことを、ちゃんと自分のこととして
 書いていたりして、 まぁ結構自分でも意味不明な事も書いておりますけれど、それでいいというか。
 
 
 サイト始めて九年経って、九年分、色々ちゃんとやりたいように自然に変わってきているんだなぁと、
 そういう感慨を、私はチャットでお喋りしているときにも、日記を書き殴っているときにも、時々感じます。
 しかも、九年もこんなサイトに来てくれてる人達もいて、嬉しいというか、なんだかすごくなにかを
 悟ったような気分になります。
 
 ・・・。
 なにを、と言われても少々よくわからないのだけど、なんというか、あ、これでいいんだ、みたいな、
 あ、肩肘張ろうと張らなかろうと、なんだか行き着くべきところに行き着いた、というか、今のこのサイトと
 そして紅い瞳の有様を、すごく自然に受け止め、受け入れることが出来ているんです。
 このサイトを、こういう風なラクな感じにしたいと思っていたのは事実ですけれど、じゃあそのために
 私が頑張ってきたことって、全く逆に、みんなを楽しませよう誰かになにかを与えられる文章を書こう、
 みたいな、そういう気負いというか肩肘張りというか、そういう努力の成分で出来ていて。
 で、その成分自体は、全然私の目的、すなわちラクな風にしたいというものを達成するためには、
 全然寄与しないどころかむしろ邪魔になっていたりして。
 結局、なんも考えず、ただ私のまんまに、のらくらまったりとやり続けていたことが、そのまま私の目的を
 自然にかつ必然に叶えていくことになっているのだと、なんだかこう、肩の力がすぽーんと抜けるままに、
 今、感じています。
 というか、感じながら、今こうして書いております。

 
 まぁぶっちゃけ、私ひとりが好き放題誰もいないとこに向かって書いたり喋ったり、というそれ自体は
 目的じゃ無くて、まぁ書いてる方はまだそんな感じですけどw、やっぱりそれは受け手というか、レスが
 あるから意味があるというか、自分が発して、それを誰かが受けて返してくれる、こういうことがまったり
 行える、そういう意味での「場」として、このサイトは少しは機能しているのかな、チャットなんかで
 みなさんが発してくださった言葉に対する、私のはっちゃけたレスから、みなさんがなにかを得られている
 と良いなぁと思っています。
 安らぎとか? 愛とか? (あーはいはい)
 
 喋りたければ喋り倒せ! わたしゃいくらでも付き合ったる!
 ・・・・一番喋って、一番付き合って頂いているのが、私な訳なのですけどもw この幸せ者ww
 
 
 
 
 ◆
 
 ということで、まぁ、その、なにが言いたいのやら相変わらずよくわからない私ですけれども、
 このサイト共々、どうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。
 そして、いつもありがとね♪
 
 で、来年で十周年なんですよね。
 ・・・。
 私が十年もの長い間、ひとつのことを継続してやるなんて、誰が思っていただろうか、いや誰も思わない。
 たぶん来年もきっと、今年とおんなじよな事言って、適当にまとめるだろうことは、誰にもわかること
 だとは思いますけれど。
 いえーい。 (いい加減にしなさい)
 
 
 
 じゃ、なんかまだ色々余ってるので、プチおまけ。
 読書リスト。
 
 
 雪乃紗衣 「彩雲国物語 黎明に琥珀はきらめく」
 同上 「彩雲国物語 黒蝶は檻にとらわれる」
 京極夏彦 「冥談」
 坂東眞砂子 「身辺怪記」
 同上 「桃色浄土」
 千早茜 「魚神」
 和田竜 「小太郎の左腕」
 
 
 という感じ。
 相変わらず、彩雲国おもしろい、というかどんどん面白くなってくし、どんどん文章が上手くなって
 いきますね、この作者の人。
 十二国記の二番煎じとか普通にアホなことを思っていた、以前の私に土下座させます。
 ごめんなさい。 (土下座)
 
 
 
 という感じで、今回はこの辺りにて。
 ほんとは明日辺りに今週分の夏目感想をUpする予定でしたのだけれども、今回この九周年文を
 Upしたばかりであることと、ちょっと今色々とリアルでごたごたしていますことを鑑みて、
 夏目感想のUpはちょい遅くなります。
 早ければ、週末に、遅ければ来週までずれ込んでしまうかもしれませんけれど、お許しくださいませ。
 
 
 それでは、また。
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 

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                               ■■ 友を選ぶのは誰 ■■

     
 
 
 
 
 
 『 俺は、あの人達とは、違う。 』
 

                          〜夏目友人帳 参 ・第七話・夏目の言葉より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 俺は、どうして的場さんにあんなに怒りを覚えたのだろう。
 
 
 
 
 的場さんのしている事が、許せない。
 
 罪の無い妖怪達の血を狩り集め、強大な妖を支配するための餌にする。
 そしてそれが、人間を守るためだ、と言っている。
 もし、人間を守る方法が、それしか無かったとしたら、どうだろう。
 たぶん、的場さんはそういう事を考えた上で、ああした行動を取っているのかもしれない。
 でも、それしか人間を守る方法が無い、というのは事実では無い。
 俺も、名取さんも、そんな方法は取らずになんとかやっていけている。
 いや・・・
 もしかしたら、名取さんはともかく、俺はただたんに、まだそういった状況に追い詰められた事が無いから、
 そう思えているだけなのかもしれない。
 そう・・・考えている・・・・
 
 その俺の事が、嫌だ。
 
 
 的場さんへの怒りは、俺がこうして理屈で考えていくと、自分のしていることが否定されてしまうから、
 という理由によるものだったら、どうだろう。
 俺はたぶん、そのときに、こう対抗してしまうかもしれない。
 その理屈は、人間を守ることを絶対とする、という前提から始まってはいないか?、と。
 俺には、確かに大切な人達がいる。
 藤原夫妻に、田沼に、多軌に、学校の友人達、そして名取さんもいる。
 でも、俺にとって大切なのは、人間だけじゃ無い。
 俺が今まで会ってきた、心優しい妖怪達、苦しみながらもなんとか生きようとしていた妖達。
 今も交流の続いている、親しい妖怪達もいる。
 先生だって、あんなだけどれっきとした大妖怪だ。
 人間を守る、という前提で行動して、それを徹底するなら、俺は俺の大切なものの、半分以上を
 殺してしまうことになる。
 俺が守りたいのは、人間じゃ無い。
 俺の大切な者達だ。
 人間よりも、守りたい妖がいる。
 妖怪よりも、守りたい人がいる。
 それだけなんだ。
 なのに、的場さんは、人間という区分けに入った者そのものだけを、守ろうとしている。
 的場さんは、妖怪というだけで、すべてを滅ぼそうとしている。
 
 的場さんには、守りたいと真実おもう、そういう大切な存在は、いないのだろうか?
 
 俺は、的場さんの欺瞞を感じた。
 この人は、誰かを守りたいんじゃ無い。
 ただ自分の力を誇示したり、自分の地位を守るために、人間を守るという口実を使っているだけだ。
 的場さんがその口実で守っているのは、だから的場さんの大切な誰かでは無く、「人間」という、
 ただ区分けとしての、概念だけの、存在しないものなんだ。
 「人間」なんて、存在しない。
 存在しない「人間」というただの概念のためと言って、ただ自分を守っているだけにしか過ぎない。
 「人間」のために妖怪を使い捨てにしている、その上に、「人間」という枠組みに属す、他の人達をも
 利用して使い捨てにしている。
 いや、他の人達だけじゃ無い、自分自身をも、まるで道具のように使い、切り売りして使い捨てに・・
 「人間」を守ろうとする自分のために、自分の体を傷付けるだなんて・・・
 俺が的場さんに感じた怒りは、そこにあるのじゃないか?
 「人間」への愛なんて、「妖怪」への愛なんて、そんなのは嘘だ。
 あるのはただ、愛する人、愛する妖へのそれぞれの個別の愛だけだ。
 その個別の愛が無いから、「人間」とか「妖怪」とかそういう区分けとしての、実在してはいないものへの
 愛を持ち出したりするんだ!
 腹が立った。
 ひどく、嫌な気分だった。
 嫌で、嫌で、堪らなかった。
 どうして・・・なんだろう
 
 
 
  自分が 侵されている気がするからなのでは ないだろうか
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 的場さんの理屈に、俺の理屈で対抗した。
 そして、的場さんの理屈を論破して、勝とうとした。
 俺が目指していたのは、的場さんの改心だった。
 的場さんにも、わかって欲しかった。
 なにが、一番大切なことなのか、を。
 でもそれは・・・
 的場さんには的場さんの事情がある事がわかっていないとか、そういうこととは関係無く・・
 それは・・つまり
 
 俺が、俺に自信が無い、ってことの顕れなんじゃないか?
 
 的場さんが妖怪達にひどい仕打ちをする事を俺が許せないのは、それは俺がやっていることを、
 否定されているような気がしたからじゃないだろうか。
 俺は純粋に、俺の大切な妖怪達が傷付けられているのを見過ごせなくて、的場さんにつっかかって
 いっただろうか?
 いや、違う、俺は、俺の気持ちを、大切な者達を守りたい、その切実さな気持ちを守ろうとしたんだ。
 なにから?
 そう
 的場さんからだ。
 俺の気持ちは、的場さんの言動如何で、侵されてしまうような、そんな脆弱なものだったんだ。
 だから、つっかかった。
 的場さんに俺の気持ちを支配される前に、こちらが的場さんの考えを支配してしまおう、と。
 俺は、俺の気持ちを守ろうとしていただけなんだ。
 しかも、的場さんに怒りの矛先を向けて。
 全然純粋に、自分の信じるままに、俺の大切な者達を守ることなんか、出来ていない。
 俺は、的場さんの悪意に支配されないように、ただずっと、的場さんと戦っていただけだった。
 的場さんへの怒りは、俺の自信の無さの顕れだ。
 
 じゃあ、どうして俺は自信が持てないのだろう。
 俺は、確かに的場さんに怒りを感じた。
 もしかしたらその怒りは、俺自身にも向かってはいなかっただろうか。
 俺は・・・どこかでまだ・・・妖怪に対して嫌悪を抱いている・・
 俺はまだ・・・・人間に、みんなに受け入れられ、その中で穏やかに暮らしていくことを求めている・・・
 そのために、妖怪を、全部滅ぼしたいと思っている時がある。
 妖怪なんて、見えなければいいんだ。
 妖怪が見える俺なんて、いてはいけないんだ。
 俺は、人間なんだ。
 俺は、妖怪の姿がみえたり妖怪と仲良くするような化け物なんかじゃ無い。
 俺は、みんなと同じただの人間なんだ!
 そうして、普通の人間では無い俺を、激しく責め続ける俺がいる。
 その俺は、妖怪に対して怒りを剥き出しにし、そして、人間に対して忠節を尽くす。
 それを乱そうとする俺に対して、激しい怒りを向けている。
 だから俺は、心の何処かでいつも罪悪感を抱えている。
 妖怪と接して、大切な出会いを得、そして自分の道を生きていこうとする自分に、罪の意識を感じる。
 これで、いいのだろうか。
 俺は、とんでもない間違いをしているんじゃないだろうか、と。
 
 もしかしたら、的場さんは、自分の人間としての異質さを敢えて引き受けて、むしろその異能を使って
 こそ人間に忠誠を誓っているのかもしれない。
 自分に異能があることを否定して普通の人間であろうとする事も、自分の異能を認めそれを使い
 人間に認められようとするのも、それはどちらも同じなのではないだろうか。
 そして、より人間に認められ受け入れられようというおもいが強くなるほどに、自分の異能の使い方は
 激しく、そして徹底されていく。
 みんなに、認めて欲しい。
 自分達は確かにあなた達とは違う力を持っているけれど、その力をすべてあなた達のために捧げる。
 だから、自分達を認めて欲しい。
 受け入れて欲しい。
 それがエスカレートしていき、妖を不条理に酷使し使い捨てにし、挙げ句は自分の身さえも傷付けて・・
 そして、他の人達にもそれを強制して・・・
 的場さん達は、自分達こそが人間社会の裏側でその社会を支えているという、強烈な自負を持って
 いるのかもしれない。
 その自負は、人間社会に対する期待に通じている。
 さぁ、自分達はこれだけのことをしたんだ、力を磨き自分を傷付け多くの犠牲を払ってきた、
 だからそれに見合うものを自分達に与えろ、自分達を認めろ、自分達を受け入れろ!
 その人間への期待が、そして忠誠が裏切られたとき。
 的場さん達は、真実、化け物になってしまうのかもしれない。
 いや
 もう
 あの人達の心は既に、その化け物に支配されているのかもしれない。
 
 
 
   嫌だった
 
 
 
    怒りを越えて
 
 
 
  それが絶対的に
 
    俺は
 
 
 
 
   嫌だったんだ
 
 
 
 
 「人間」に尽くさずに、化け物扱いされるのは怖かった。
 でも、「人間」に尽くして、人間に尽くし続ける化け物になるのは、絶対に、嫌だった。
 
 
 
 俺が
 信じるべきは、その最も絶対的な嫌悪の気持ちなのだろう。
 それをほっぽり出しているからこそ、俺はあんなにも的場さんの事が気になるのだろう。
 だから
 あれほど、俺は的場さんとは違うと、思い切り自分に言い聞かせねばならなかったのだろう。
 違いをわかっていないからこそ、違いに拘っているのではないだろうか。
 俺と的場さんは、絶対的に違うんだ。
 だから、いちいち違いを意識する必要も無く、ただただ俺自身と向き合っていけばいいのに、
 俺と的場さんは違うとわざわざ叫ぶのは、それはそう言わなければ、自分と他人が違うということを、
 本当は受け入れることが出来無いからなのかもしれない。
 ああ
 先生
 俺はやっぱり 怖いんだ
 俺が 俺であるということが
 俺も、みんなと一緒でありたかったんだ
 だから、俺と的場さんが絶対的に違う存在同士なんだということを、受け止められていないし、
 俺と的場さんが違うと言ったときのそれは、実は、俺と的場さんは考えが違うから違う者同士だ、
 程度の認識にしかなれていないんだ。
 俺が違うのは、的場さんだけとじゃ無い。
 他の、すべての人々、妖達と、違うんだ。
 同じ者など、誰ひとりたりともいない。
 それは、俺だけの事では、勿論無い。
 もし仮に、俺と的場さんの考えが同じでも、俺と的場さんは絶対的に違うんだ。
 俺も的場さんも人間だけど
 違うんだ
 それが
 こわい
 
 ひとりが
 こわい
 
 だからきっと、俺は俺を責めるんだろう。
 人間か、妖怪か、どちらかを選べ、と。
 そのどちらかを選ぶことで、俺、という選択肢を排除出来る。
 人間を選べば、俺は俺と「同じ」である「人間」を手に入れられる。
 みんなと一緒になれる。
 俺を選べば、俺は、俺が俺であるということから逃れられない。
 俺が俺であるということを恐れ、ひとりを恐れ、なんとかして人間なり妖怪なりの社会に受け入れられ
 たいと望み、しかしそう望むことで俺が俺であることを忘れ、ひとりであることを忘れられるという、
 そういうことに対してこそ最大の嫌悪を感じている、そういう俺から、俺は逃げたいんだ。
 だから、人間か、妖怪か、を選ぼうとする。
 そして的場さんにつっかかる。
 
 的場さんは、俺に、妖怪に傷付けられた自分の目を見せようとした。
 的場さんも・・・・きっと、自信が無いのかもしれないな・・
 俺が的場さんにつっかかったように、的場さんも俺に攻撃せずにはいられない。
 俺は・・
 俺を、選びたい
 俺が大切におもい、俺が守りたいものを守り、想い続けて生きていきたい。
 「人間」も「妖怪」も関係無い、俺は俺だ。
 その事を、真実わかっていないからこそ、受け入れられないからこそ、俺はこんなにも揺れたんだ。
 俺こそが・・・
 その俺を、守って生きていく覚悟を持てていなかったんだ。
 俺は
 的場さんが 嫌いだ
 その自分の気持ちを感じるだけで、よかったんだ。
 的場さんを攻撃する必要も、的場さんから自分の考えを守る必要も無い。
 俺は俺
 的場さんは的場さん
 その違いを受け入れられないとき、きっとそこに、「人間」という「妖怪」という化け物が顕れるのかも
 しれない。
 いや・・・ほんとうの化け物は・・・・
 的場さんは、「人間」を守るためなら、自分の使役している妖も、他の人達さえも平気で犠牲にする。
 そして、自分さえも。
 そうだ
 「人間」を守り尽くし、そうする事で「人間」として皆と同じひとつになりたい、そういう自分のために、
 そうでは無い、自分がひとりであるという、自分自身を生きようとする自分を傷付け、犠牲にするんだ。
 
 
 嫌だ
 そんなのは
 
 絶対に 駄目だ
 
 
 その叫びは、俺の胸に届くだろうか。
 俺が的場さんをそう見たのは、確かにその的場さんと同じものが俺の胸の奥に潜んでいるからだ。
 俺が、的場さんの姿を使って、俺自身を告発したんだ。
 的場さんへの俺の怒りは、なにより、的場さんと全く同じ俺が、俺の中にいることを指し示すためにこそ、
 こんなにも強く俺の胸を揺らすんだ。
 いや、もしかしたら、俺が妖怪を滅ぼして、他の人達を巻き込み、そして自分さえも犠牲にしようと
 確かにしているからこそ、その姿が的場さんという鏡に映ったのかもしれない。
 だから、的場さんがどうこうなんじゃ、無い。
 
 
  俺は、どうして的場さんに映った俺の姿に怒りを覚えたのだろう。
 
 
 
 俺は、自分の大切な人と、妖と、生きていきたい。
 穏やかに、暖かく、優しい気持ちのままに。
 そのためにこそ、それを求めるためにこそ、俺は生きていく。
 そして、その俺の求めるものを見えなくするものこそと、俺は向き合っていく。
 どうして、穏やかになれないのだろう。
 どうして、暖かく優しい気持ちで一杯のままに、振る舞えないのだろう。
 怒り。
 それが、俺に教えてくれる。
 怒ることそのものは、なにも生み出しはしない。
 そして、怒りそのものは、俺の大切な気持ちを覆い隠してしまう、ということを。
 そして
 怒りは、その怒り自身の正体こそを、なにより俺に教えてくれる。
 なにが、本当に俺の気持ちを曇らせるのか。
 なにが、俺を不安に陥れるのか。
 感じよう
 感じていこう
 一緒に居て心安らげる、人と、妖達と一緒に
 幸せな時間を ひとつひとつ 重ねながら
 俺はそうして 生きていきたい
 それを
 見失いたくない
 ああ
 だから
 
 おもったのか
 
 
 
 『 あの人達には見えないのだろうか。
 
   仲間を守るために奔走する妖が・・・
 
   失って、心を壊してしまうほど、妖と絆を持ってしまう人の、痛みが。
 
   ただ目的のために傷付ける事を厭わないなんて。 』
 
 
 
 これが俺の不安の正体なんだ。
 あの人達のようにはなりたくない、と強くおもうことで、俺の中にあの人達と同じ自分がいることを、
 強く、そして深く否定してしまう。
 的場さん達への怒りを深めるだけなら、俺は全く逆に、その否定され姿を隠した俺自身に、
 影から強く、そして深く支配されてしまうのかもしれない。
 的場さんと同じである自分を否定するために、俺はあの人とは違うと言えば、俺はたぶん、
 的場さんと同じ自分に支配されてしまう。
 だから・・・
 俺は、的場さんへの怒りをもとにして、俺の中に確かに的場さんと同じ自分がいることを自覚し、
 その上で、俺はその俺とは違う、もうひとりの俺を守るためにこそ生きたいと、そう願う。
 
 いや
 俺は その俺を選ぶんだ
 
 俺には、名取さんや、先生や、柊達がいる。
 俺が、目的のために傷付ける事も厭わない、だなんて、絶対に思えない、そういう人や妖達が。
 俺の隣には、いる。
 その人や妖達を 目的のために傷付けたり絶対にしないと思える
 その俺が 此処に確かにいる
 だから
 
 
 俺と的場さんは
 
 違う
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                            ◆ 『』内文章、アニメ夏目友人帳 参」より引用 ◆
 
 
 
 



 

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                              ■■ アニメと遊ぼう! 4 ■■

     
 
 
 
 
 
 はい、ごきげんよう、紅い瞳です。
 
 夏が猛暑ですごい事になってますけど、今日はガチで忙しいので前置き無し。
 今日は漫画の感想と、前期アニメのまとめ感想の残りをやらして頂きます。
 んでは、早速。
 
 
 
 冬目景の「幻影博覧会」最終巻、読了。
 うーん。
 ・・・。
 微妙。
 なんというか、中途半端というか、冬目景的に好きなものを好きなだけ描いた、というより、
 好きなものを好きなだけ描こうとしたら、色々バッティングしすぎて、全部共倒れに終わりそうだったので、
 その前になんやかやと道筋付けて終わらした、という感じが。
 
 ・・・。
 うーん。
 私は冬目作品の中では、この幻影博覧会はあまり評価していない方ではあったのですけれど、
 この作品にはこの作品の魅力がそれなりにあったのは認めてもいて、その大正浪漫的な感じとか、
 色々な小道具な遊びを鏤めてあって、むしろそれがこの作品の醍醐味でしょ、と思っていたのですけど、
 えーと、これ、あんな風にお話をまとめる形で終わらせる必要あったのかしら?
 なんかこう、冬目景が色気出し過ぎて欲張りすぎて、上手くお話をまとめようとしたらロクなことが無い、
 ということを地でいったような感じがするのですけれど。
 アコニーみたくぶん投げて、作品の方が勝手にまとまってくれるに任せりゃよかったのに。 (笑)
 これ、ふつうに色々投げっぱなしの方がよくなかったですか?、これ結局あのメインふたりのわかれとか、
 古くさい黴臭いだけの、いわゆる「相手の気持ちを思い遣ってという口実を使ってたんに自分の気持ち
 を素直に言えない自分の弱さを隠すだけ」の別離というか、もーわたしゃそういうのに感動せんからね、
 さすがにそういうのにはもうじーんとかきませんよ。
 むしろ普通にイラっときたという、まぁ落ち着け私。
 
 なんかこう、冬目景なにやっとんじゃ!、あんたまた羊返りしてるんかい!、みたいな、ハツカネズミと
 アコニーで、羊から先にちゃんと進み始めてると思ったらこれかい!、みたいな。
 どうもこう、冬目景という作家はわかるようなわからないような、あー、なんかこー、胸の中がぐるぐる
 する!、なんか超久しぶりに羊読んで羊感想書きたくなってきた!!
 まぁ、うん、だからかなぁ、この作品の位置づけが私の中でいまいち混乱してるというか、羊と並んで
 羊と別の手法を使って羊と同じことをやろうとしたらどういう結果が出るのか、というその結果待ちとして
 イエスタなんかは結構楽しみなんですけどね、あれは羊と同列というか、で、ハツカネズミが羊後に
 もう一回改めて羊的なことを羊のようにやってみたら、羊よりも一歩先に踏み出していたみたいな
 感じで、そしてアコニーが羊とは違うやり方で、ハツカネズミが踏み出した一歩を継承発展させた、
 みたいな、さぁこれからどうなることやらうふふ、とか思ってたら、一番のダークホースの幻影が蓋を
 開けたら羊と同じことやってたとか、まぁ、うん、いっそ蓋を閉じて見なかったことにしようかとか思ったけど、
 それはさすがにあんまりなので、ええと。
 
 取り敢えず、最終巻で陶子さんにまたお会い出来て良かったです。 (感想)
 
 陶子さんて私が一番この作品の中で好きだとおもわれる人なんですけど、この人って、たぶんあれだ、
 羊の千砂が自分を受け入れてしぶとく貪欲に社会の中で生き抜こうとしたらこんな感じ、って人に
 私はみえて、だから好きなんだねぇ私は、あ、いま初めて気付いた。 やだちょっと恥ずかしい (なに)
 んーだからヒロインの真夜って、陶子さんとは別の形で千砂を踏襲してるというか、千砂のプライドの
 高さを頭脳明晰さに入れ替えて、あとは全部千砂をそのままコピーしたというか、結局千砂と同じこと
 やってるというか。
 結局、真夜は他者視線というか、自分の向かっているものが他者であって、自分に向かっていず、
 逆に他者に対して千砂は虚勢を張り、真夜は思い遣りを以て接した、すなわちそうすることで
 他者から自己を守ることに汲々としていたという意味で、自己に囚われてそれで終わってしまっていて。
 そういった自己に対する欺瞞を越えて、自分と向き合い自分を引き受け、公然と他者の中に歩き
 出した陶子さんとは違うなぁ、やっぱり私は真夜は可愛いけど、なんか尊敬出来無いみたいな。
 まぁ、なんだかんだで陶子さんも色々囚われてるんですけど、そこがまた魅力的というか、あと(以下略)
 
 つまりなにが言いたいかと言いますとね、私的には、あの終わり方じゃあんまりだ、というか、
 真夜に逃げっぱなしにさせんな、というか、そういうのは羊で終わりにしようよ、というか、その辺りの
 真夜の自分自身との物語の決着を付けさせず、ある意味勝ち逃げ(?)させたまま終わらせるのは
 よくないなーよくないよ冬目さん、ということなんですよね。
 あれじゃ一番本当の意味で可哀想なのは、やっぱり真夜ですよ、あんなん、あんな「身を退く女」
 的な気持ち良さで真夜というキャラの話を終わらせるなんて、真夜の抱える「自分」が可哀想
 過ぎですよ。
 まぁうん。
 自分の気持ちの責任を取れない女は、幸せにはなれんよ、と、たぶん私は言いたいのでしょう。 (微笑)
 
 
 
 という感じで、冬目景先生の次回作に期待ということで、漫画感想はこれで終わり。
 次。
 
 前期アニメのまとめ感想をラストを飾りますのは、「GOSICK−ゴシック−」
 「デッドマン・ワンダーランド」の二作品です。
 
 それでは。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 GOSICK−ゴシック−:
 自分のために生きようとしないのは、どういう事なのだろう。
 ヴィクトリカは、孤独だった。
 生まれたときから母親から隔離され、父親には道具のようにして扱われ、ずっと牢に閉じ込められ、
 ひとりで生きてきた。
 ひとり
 ヴィクトリカは、ずっとママンを求めていた。
 強烈な寂しさ、不安、そのすべてを、癒してくれる者が無いままに、どうすることも出来ずに、
 そしてその果てに、「どうすることも出来無い」現実を受け入れた。
 どう、受け入れたか。
 
 ずっとママンが、見守っていてくれているから、私はそれでも生きていける、と。
 
 ヴィクトリカは九城と出会い、そして今度はママンから九城へとその対象が変わった。
 九城がいるから、私は、ずっと、どんなになっても・・・
 ヴィクトリカにとっての、孤独とはなんだったのだろう。
 ママンのために、九城のために、死ぬ訳にはいかない。
 ヴィクトリカは、その自らの言葉の依り代として、ママンと九城からそれぞれ与えられた器物にしがみつく。
 このペンダントさえあれば、私はいつだってママンと九城と繋がっていられる。
 では、そのペンダントが無くなったら?
 だいじょうぶだ、たとえそれが無くなったとしても、私はもうそれに頼らずとも、ママンと九城と繋がって
 いけると信じている。
 
 では、ママンと九城が、いなくなってしまったら?
 
 ヴィクトリカは、他人の上に依って立つことしか出来無い。
 他人のためにという大義名分を、実際に他人に向けて発することが出来無い限り、自分ひとりでは
 動くことも、生きることさえも出来無い。
 その他人とは、ヴィクトリカ自身の中の他人に対しても、同じだ。
 ヴィクトリカは、自分の人生を他人に奪われ、あるいは売り渡したままだ。
 多くの書物を読みこなし、知恵の泉とやらを駆使して、縦横無尽に物事の本質をついて、
 様々な欺瞞を見破りながら、彼女自身のそれを見破ることが出来ぬままに、作品は終わって
 しまった。
 私は、この作品は嫌いでは無い。
 だがしかし、不満だ。
 いや、もしかしたら、不安なのやもしれない。
 どうしてこの話が、美談になるのだろう? どうしてこの結末が、幸せな第一歩を、もしくは幸せな
 ゴールへの帰着を描いたかのようになってしまうのだろう。
 ヴィクトリカは、未だあの牢獄の中にいる。
 そして、その牢獄の中で様々に描き出した他者との物語を、ひたすら演じているだけにしか
 過ぎない。
 ヴィクトリカ自身の物語は、どこにある?
 すさまじいやるせなさを感じる。
 私にはママンにしろヴィクトリカにしろ、あるいは九城にしろ、馬鹿のドミノ倒しをひとつの伝統として、
 その幸せの系譜を継承しているようにしか見えない。
 それは、ほんとうに幸せなのか?
 私には、あの牢獄の中で、幸せな物語をひとり綴り続けている、そのひとりの少女の薄暗い夢想の
 中のそれにしか見えない。
 
 ヴィクトリカは、ヴィクトリカを、生きる責任を果たしていない。
 
 なぜ、九城のために、なのだ。
 九城もまた然り。
 なぜ、ヴィクトリカのために、なのだ。
 なぜ、そのような言葉が、必要なのだ。
 どうして、自分のために生きるという、その互いの高らかな宣言を受け止め合い、共に対等に
 並んで生きていこうとしないのだ。
 ヴィクトリカのあらゆるプライドが、ただ己がひとりであるということを覆い隠すための欺瞞にしか
 みえない。
 ヴィクトリカは、己の内側に目を向けていない。
 己に絶対に不足しているもの、そして損なわれているものを、しっかりと見つめようとせずに、
 無意識のうちに否認を続けている。
 それが、彼女のプライドの高さに表れている。
 ヴィクトリカは、ママンの愛を、抱擁を求めている自分を知りながら、その欲求を満たすことを否定する
 ために、九城と出会い生きていこうとする。
 いつまでもママンに甘えている訳にはいかない、ひとりの誇り高い灰色狼として、愛する九城と共に
 生きていかねばならないのだ、と。
 それは
 逃避だ
 
 ママンへの、母の抱擁をそれでも絶対的に求めている、その自分の姿から
 
 認められないのだ、受け入れられないのだ、自分と向き合うことができないのだ。
 そして、そのママンへの激しい欲求が満たされることの無いままに、逃避的に九城を求め彷徨う
 ヴィクトリカの様は、まさにママンの代わりとしての九城を求めるそれとして私の目には映った。
 そして本人の意識では、おそらくママンへの想いの卒業の顕れとして、九城と並んでいる自分の
 姿が捉えられていたことだろう。
 それは巨大な、欺瞞だ。
 そしてその欺瞞を以て、ヴィクトリカの自立、ヴィクトリカの母との決別、そして九城というパートナーを
 得たひとりの女の素敵な花道として描かれた、あの作品のラストに、私は。
 おそらく
 絶望した
 
 ヴィクトリカのそれは、九城への依存にしか過ぎない。
 依存の対象が、ママンから九城へと移っただけで、それを以てヴィクトリカが「依存」そのものから
 脱出したと描かれた、ということは、これは永久にヴィクトリカの「依存」が解決される事は無い、
 ということに他ならないのだから。
 どうして、ヴィクトリカは、他人に、他者に依存するのだろうか。
 どうして、その依存を正当に受け止めず、欺瞞的にそれを隠蔽し正当化してしまうのだろうか。
 それは、ヴィクトリカが、自分自身を愛することが出来無いからだ。
 そしてヴィクトリカが九城を愛しているのは、九城がヴィクトリカを愛し、守り、必ず彼女の元に帰って
 きてくれるからだ。
 すなわち、九城がそうしなくなれば、ヴィクトリカは九城を捨てるか、もしくは九城を元に戻そうとして、
 それこそ必死の努力を重ねてしまうだろう。
 それは、愛か?
 ああ、それを愛だと断定する言葉を、私はこれまで多く聞いてきた。
 そしてそれが、愛するその人のためだ、という言葉で常に語られることを。
 それは、愛などでは無い。
 それはただの、支配だ。
 
 自分で自分を愛することが出来無いから、それを他人にやらせて、利用しているだけのものだ。
 
 ヴィクトリカの中には、ヴィクトリカを強烈に否定し、蔑み、罰し続ける、そのような恐ろしいヴィクトリカ
 がいる。
 自分を愛するなどあり得ない、汚辱と屈辱を当然のこととして受け入れる、人としてあまりに残虐な
 ヴィクトリカが彼女の中にはいる。
 そして、そのヴィクトリカに延々と虐げ続けられている、憐れなもうひとりの少女、ヴィクトリカがいる。
 もしかしたら、その残虐なヴィクトリカこそ、灰色狼なのかもしれない。
 そして、ヴィクトリカはその灰色狼に虐げられ、支配され続け、そして。
 それを、他者に対して、行い、そして、継承させていく。
 誇り高く、愛に満ちた存在、そして、或いは、それが、人の道として説かれ伝えられていく。
 その伝説は、継承されていく。
 ヴィクトリカも、ママンから継承したのだろう。
 そして、実の父による虐待ですら無い道具扱いを受け、さらにそれはねじ曲がり、強化されていった。
 残虐なる、誇り高い、灰色狼のヴィクトリカ。
 そのヴィクトリカに虐げられ、否定され続けたヴィクトリカは、強烈に、ママンに求める。
 私を、そのままの私を、愛して、と。
 その魂の叫びは、灰色狼のヴィクトリカこそが、己の厳格さ誇り高さを誇示しそれを以て自分を認めて
 貰おうとすればするほど、それを越えて堆く積もっていく。
 私は狼なんかじゃ無い!
 私は、私はただのヴィクトリカなんだ!
 ヴィクトリカが、灰色狼のヴィクトリカこそが、そうして絶叫し続けるただのヴィクトリカを認め、そして
 愛することをしない限り、その絶叫は消えず、そしてそれは灰色狼以外へと向けられていく。
 ママンに。
 そして、九城に。 
 
 私を、愛してくれ。
 私のそばに、ずっといてくれ。
 お願いだ、そうしてくれるのなら、私はなんだってする。
 なんだって、出来る。
 すなわち、ママンに九城に愛されずにそばにずっといて貰えなければ、ヴィクトリカはなにも出来無い。
 
 自分を、信じることも出来無い。
 そういう意味では、実のところヴィクトリカは九城のことを信じることも出来ていない。
 ヴィクトリカは、頑張っていれば必ず九城と出会える、という筋書きの台本にしがみついて、それを
 演じていただけに過ぎない。
 それは九城を信じたとは、全く言えない。
 九城との出会い無しでは、自分の存在価値すら認められない。
 自分の存在価値を求めるためにこそ、ヴィクトリカは九城を必死に求め続けていただけだ。
 その様は、私の胸を打ちながら、同時に暗澹とする気持ちにさせた。
 私の中にも、そのヴィクトリカが、ああ、いるのだ。
 誰かのために生きることの、なんと感動的なことか。
 そして、その感動によって満足を得ているのは、他ならない、残虐なる誇り高き灰色狼の私だ。
 そうだ、誰かのために、他者のために生きれば、あの惨めなもうひとりの私なんぞと向き合わなくて
 済むからだ。
 誰かのためにという崇高な想いで、惨めで憐れな自分の存在を掻き消す。
 だから
 自分を愛するということを
 自分を褒めるということを
 嫌悪するのだ
 誰かに愛されることを
 誰かに褒められることを
 渇望するのだ
 誰かに愛され誰かに褒められれば、自分の事を忘れていられる。
 あのやかましく鼻につく叫びを聞かずに済む。
 自分を愛し自分を褒めれば、自分の存在を認めてしまう。
 あのやかましく鼻につく叫びに耳を傾けなければならなくなってしまう。
 だから
 ヴィクトリカは、誰かのためにという言葉を謳いながら、自分のために生きようとはしないのだ。
 そしておそらく、ヴィクトリカはいずれは己の娘なり息子なりにも、同じことを継承させていくだろう。
 あの叫びを聞きたくなくとも、その叫びは絶対に消えることは無いのに。
 その叫びこそ。
 
 ヴィクトリカの、魂の叫びなのに。
 その叫びが求めるものをこそ満たすことが、幸せということであるのに。
 
 それは、誰かが、他人が満たしてくれることは決して無い。
 逆に、それを満たしてくれる事をその誰かに求めたとき、その誰かとは対等の関係を築くことは出来無い。
 自らで自らを認め受け入れ愛し、そうして幸せになることで、その幸せな者同士が出会ったときにこそ、
 ひとりでは決して見ることの出来無かった世界が見えてくる。
 もし、その幸せという名の自己責任を果たさずにいれば、それは誰と寄り添おうとも、それはひとりの
 世界である事と同じだ。
 自分自身の世界を、責任を、幸せを、その愛する誰かにまで敷衍し、押しつけ、そうしてふたりで
 それを共有しているような錯覚に閉じた、それはとてつもなく孤独な世界。
 それこそ、自己中極まれり、だ。
 ヴィクトリカは、そのヴィクトリカの幸せを、責任を、世界を、一緒に歩いてくれる、否、一緒にその
 たったひとつの世界で心中してくれる奴隷、そんな九城を手に入れただけだ。
 未だヴィクトリカの世界は、開いていない。
 そのヴィクトリカの隣に広がっているはずの、その九城の世界の存在を、彼女はまだ知らない。
 そして
 
 ヴィクトリカは
 自分自身を愛することが出来る、真実誇り高い灰色狼の自分を、九城に愛して貰うこともまだ無い。
 
 なぜなら、そうした自己責任を果たしている自分を、まだヴィクトリカは獲得していないのだから。
 ただただ、自分では愛せない自分を、九城に愛して貰っている、その九城に対する依存にしがみついて
 いるだけ。
 その依存から手を離すためには、どうしたらいいのだろう。
 簡単な話だ。
 ひとり
 ひとりになってみれば良いのだ。
 それは、なにより
 ひとりでも、生きられる、そんな本当に強い自分が、実はずっと叫び続けている、そのままのヴィクトリカ
 だということに気付くために。
 他の誰でも無い、自分自身こそが、その自分を愛するために。
 それが出来、そして九城にまた会えたのなら、それは幸せだろう。
 けれど
 それでもし、九城に会えなくても、それもまた、幸せであるのは間違い無い。
 九城に、誰かに会えなければ、愛されなければ幸せで無いと思うとき、それはヴィクトリカ自身が
 自分と出会えていず、自分を愛することが出来ていないということを、なにより証す。
 離れろ離れろ。
 二度と離れることは無いとか、そんな事は言っては駄目だ。
 離れていても、九城の事など完全に忘れてしまっても、たとえ九城に出会えなくても。
 ああ、私は幸せだよ。
 そう高らかに宣言出来る、そんなヴィクトリカにこそ、私は九城は相応しいと思う。
 そういう対等な関係をこそ、親密な関係だと思う。
 そして私も、そんな関係を築けるヒトを随時募集しているのであった、まる (どんなオチだよ)
 
 あと、なんだかんだでこの作品はヴィクトリカでした。
 中の人の演技が絶妙の域を突破して絶技だった感じ。
 あの悪態っぷりととっぱずれた歌いっぷりは、たぶん結構長いこと私の中に残るでしょう。
 なんだかんだで、可愛い面白さを目一杯ちりばめて楽しませてくれた、そんな素敵な作品でした。
 ありがとう。
 
 
 
 
 
 デッドマン・ワンダーランド:
 正直言うと、あまりなにも残らなかったというか、言うこと無いというか。
 んー、結構惹き付けられるものはあったといえばあったんだけど、それはなんというか、刺激的な部分に
 反応しただけというか、だからスカっと美味しく飲んだらそれでおしまい、みたいな感じで、んー。
 まぁ、もっと正直に言うとこの作品がなにをやりたかったのかとか、なにを言っているのかとか、
 そういうのが私にはよくわからなかった、というか・・・主人公のガンタの成長とか?、なんかそういうのも
 そういう「熱いお話」を熱く熱唱して?、それでノリノリで聴き入っていただけで、じゃあそのお話の
 中身そのものに同意とか共感があるかというと、全然そんなものは無くて。
 
 んー、なんていうか、この作品に限らないですけど、なんかこー、建前に対する「本音」というものが
 重視され重要視されすぎていて、だからその「本音」が正しいというか、説得力があるとか?、
 なんか私そういうのただの論理ゲームにしか見えないっていうか、んー、結局、本音なんてのは誰にでも
 あるし誰にでも言えることで、で、その本音を論理的に構築して普遍性を持たせて?、それに従って
 みんながそうだそうだと同意するとか?、あー、もう私、そういう話にすっかり全く興味が無くなって
 いるというか。
 まぁ、この作品はむしろそこまでそういう色彩は強くは無いんだけどね、分類すればそっち系の作品
 なのかな?、うん、その「本音」って、つまり自己洞察の無いただの自己欺瞞を正直に述べただけの
 ものでさ、その自己欺瞞を隠して綺麗事を言うのが建前って奴で、、その建前を取っ払った程度の
 ものでしか無い「本音」を持ち上げても、なんだかなぁ、その自己欺瞞を自ら洞察分析して、
 自分自身に深く潜っていく、その「本音の奥にあるモノ」こそが、なんていうか、人同士でぶつけあって
 語り合うことに意味がある気がするなぁ。
 
 だから、この作品のキャラ同士がいくら「本音」をぶつけ合っても、私には正直、全然響かんかった。
 「どうして自分はそういう事を言うのか」という洞察こそが、本音という名の建前が自分の中に深く
 根差していることに気付かせてくれるし、それを抜きにしてのあれやこれやの「人間ドラマ」なんて、
 それこそ手の込んだオママゴトにしか見えないや、私がテレビドラマ観ないのと同じ理由ね。
 
 
 
 
 と、いうところでしょうか。
 これで、前期アニメについてのまとめ感想は終了です。
 お疲れ様でした。
 
 んー、前期?
 前期全体については、特に今回は言うことないかな?
 前々期とその前が凄すぎたから、なんかこう久しぶりに一息つけたシーズンかな?
 割と頭使わずにまったりゆったり楽しめたり、脳みそからっぽのまま熱く萌えたりとか、うん、
 やっぱアニメはこういうのも無いとね♪
 といっても、今期も引き続いて放送している日常とか銀魂’もありましたから、一概にそれだけとは
 言えませんでしたけれども。
 ・・・・なにが言いたいんだ私、そんな無理になにか言おうとしなくてもいいんだよ? (はい)
 
 
 というところで、うん。
 今回はこれにて、おしまい。
 
 
 では、また。
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 



 

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                             ■■ 友を語りて世界を成せ ■■

     
 
 
 
 
 
 夏目友人帳参第六話の感想は、省略させて頂きます。
 次回の布石的な内容であったので、特に書くことも無く。
 第六話、第七話トータルの感想として、次週感想を改めて書かせて頂きます。
 ご了承頂けますとさいわいです。
 
 
 
 と、それだけでは少々味気ないので、ひとつ問いの提起を。
 
 
 Q: あなたは、妖怪と、人間のどちらの味方に付きますか?
 
 
 私はまず、そもそも「妖怪」と「人間」という区分自体が、そもそも問題であり、その問いをなぜ
 発するのかと問う事自体に意義がある気がします。
 どうして私は、「妖怪」と「人間」という区分けをして、そのどちらか一方に付こうとするのか。
 重要なのは、「個」ではないだろうか。
 私が、味方になりたい、守りたい、そして一緒にいたいと、そうして自らが選び取った、そういう
 個としての他者を集め、関係を構築し、ひとつのグループのようなものを作る。
 
 いってみればそれは、わたし組、のようなもので。
 
 妖怪の中にも、人間の中にも、そしてそれ以外の存在の中にも、それぞれ自分の守りたいものが
 いて、付き合いたい者がいて、ならば、味方につくべきは、その自分が守りたいもの付き合いたい者、
 ただそれだけではないのでしょうか。
 自分を中心にして、他者関係を作り、その関係をしてその人が生きる場、あるいは世界、
 そしてそれがその人にとっての向き合うべき現実となす。
 そうした「私」を主体にする事が出来ないからこそ、安易に人間に付くか妖怪に付くかという、
 そういった外的な基準によって、或いはその外的な「人間」なり「妖怪」なりの既存の組織としての
 社会に保護されたいというおもいによって、本来自分が守らなければならないものを、切り捨てて
 しまうということが起きる。
 夏目が誰を守るかだなんて、そんなもの、夏目が守りたいとおもい、夏目が付き合いたいと思った、
 夏目が助けたいとおもい、夏目がこれからもよろしくと思える、そうした夏目自身こそが選んだ者達
 以外に、いるわけも無い。
 
 夏目は、夏目組を構成し、夏目の社会を、夏目の世界を、夏目の現実を作っていけばいい。
 
 この作品は、そもそも孤児として親戚中をたらい回しにされ、既存の社会組織から受け入れを拒否
 された夏目が、なにがなんでもその社会に全面服従して、なんとしてでも受け入れて貰う、という、
 そういうお話には全くなっていない。
 もしそうなったら、私は速攻でテレビの電源を切ります。 (笑)
 夏目は、自分を受け入れてくれない社会の中で、自分こその社会を、他者関係を創り出そうと
 静かな戦いを続けているのですし、そこに、この作品の最大の魅力と、そして豊かな生命力を感じる
 のだと私は感じています。
 
 それはひとつの、旅のようなもの。
 
 夏目が一緒にいたいと思える者達と出会い、そういう人達との出会いを繋ぎ、そこに表れていく自分
 は、きっとそれまでの固着した社会の中での自分とは、大きく変わっていることを、夏目自身こそが
 なによりも感じ、それこそが孤児としての夏目の最大の癒しにして、生きる道になってもいる。
 同時にそれは、夏目を通して、本来唯一無二の存在である個、「私」という世界の孤児である、
 私達視聴者自身が、感じて、自分達が生きていくことの意味を知っていく。
 この作品は、間違っても、みんなと一緒にいて繋がっている事の安心感、集団の中に属すことの
 安心感を提供してくれる作品では無いと、私は思っています。
 
 この作品は、「人間」だの「妖怪」だの、そういう既存の区分けによって成立している社会集団から
 抜け出し、「私」という「個」に出会い、そしてその「私」を中心にして新しい他者関係を作っていくことで、
 その中に感じる新しい「自分」を得ていく、そういう作品。
 
 そうすることで、固着した、単一の「自分」という縛りから抜け出すことが出来る。
 人間とも関係し、妖怪とも関係する、それは実は、ひとつの関係性に囚われない、自由な自己を
 成すためには、とても有意義なことなのかもしれません。
 色々な他者と繋がり、色々な集団と関係し、そういう関係性の中に、その人の現実社会が
 表れる。
 だから、誰かによって語られた、くだらなく厳しいだけの、たったひとつの集団に忠誠を誓わされるだけの、
 そんな愚かな社会や世界には、ぐっばい♪ (笑)
 私も日々、そうした営みの下、生きております。
 
 
 そういった視点を以て、この作品を読み取り、また感じていけると、ひとつ面白い発見があると、
 私は考えています。
 皆様に、良い夏目体験のあらんことを。
 
 
 
 それでは、今回はこの辺りにて。
  
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 



 

-- 110808--                    

 

         

                             ■■ 自分勝手と自己中 ■■

     
 
 
 
 
 
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 
 ひゃー、あっつい、暑いですねぇ。
 私なんぞは、むしろ外歩いてるときは、服着たまま温水プールに入った気分で、
 むしろ伸び伸びと泳ぐように歩いてたりします。
 ふふ、心頭滅却すれば火もまた涼しなのだよ明智君。 ←汗だらだら流しながら
 
 んでも、実際なんか私変わってきたなぁ、考え方とか感じ方とかこの一年でかなり変わったりしたけど、
 それでなんか世界も変わってきたみたいなとこあって、なんか暑くてもそれが心地良く感じたりとか、
 あー、心理的に余裕が生まれてきたのかな?、ちょっと違う気もするけど、まぁうん、夏だ、おーれい!
 ・・・。
 こうして書くと、毎年おんなじ事言ってるように感じるから、不思議です。 (不思議でもなんでもない)
 
 
 さてと。
 で、今日はほんとは前期アニメのまとめ感想のラストを書こうと思っていたのですけれど、
 ちょと書きたいことが暴発して気付いたら書いてしまっていた事があったので、そちらを今回は
 Upさせて頂きました。
 前期アニメはまた次週ということで、すみませんけれどよろしくお願いします。
 
 
 えーまー、今回はテーマ的な話というか。
 日記のタイトル通り、「自分勝手」と「自己中」についての話を、私が視聴しているアニメの話を
 しながら、なんとなしに語れたらいいな、語れてるかな?、いいえ全然(微笑)、という感じで
 やっていこうと思います、それでいいと思います。 (微笑)
 
 
 では、ざっくばらんに。
 
 
 
 
 
 
 うさぎドロップから、まずは話し始め。
 私は主人公のだいきちの事好きだけれど、好きだからこそ、今回のだいきちは戴けない。
 それは、私がだいきちの事を好きな理由によるものです。
 なぜ私がだいきちが好きかというと、それは、彼の中のふたつの自分にしっかりと区分けがつけられて
 いたからです。
 「常識」的な「自分」と、それとは一切関係無いそのままの「自分」。
 たとえば、だいきちの母親なんかは、私が一番嫌いでかつ苦手なタイプの人なのですけれど、あの母親
 は「常識」的な「自分」が肥大して、それがもう一方の自分をも覆い隠し、それが自分のすべてと
 なってしまっている。
 そして、これが困ったことに、「常識的な自分は常識的に見て正しい」、すなわち「自分」は正しい、
 という、強烈な自己正当化と、そして常識的な自分であり続けるための努力により得た自負で以て、
 さらにそれが強化されてしまう。
 わかりやすくいえば、超自己中心的人間、ということ。
 自分が捉えている「常識」というものを自分のすべてとし、その自分を他者にまで投影して、他者が
 その常識に合っているか外れているか、で、その他者を評価したりする。
 で、常識イコール自分になってしまっているから、結局のところ、自分と違う人間のことは決して認めない
 、というまぁ超絶自己中人間が出来上がる訳で。
 
 だいきちは、その自分の母親や他の親類のおかしさを感じ取り、憤慨してりんを引き取った。
 
 だから私はだいきちが好きなんです。惚れ惚れする。 (笑)
 ところが、今回だいきちは、りんのママに憤慨してしまう。
 や、自分の娘ほったらかしにしてる事に対して、むかっとするのは、それは誰にでもある感情でしょう
 けれど、でも今回のだいきちは、それとはちょっと違う怒り方をしていて、あれ?、って思ったのです。
 正直、私はりんのママよりも、今回のだいきちの方にむかっとした。 (笑)
 
 だいきちが一番怒っていたのは、りんのママが、周りの人に迷惑をかけている自覚を持っていずに、
 まるで他人事のような無責任な態度を徹底していた事にあるのだと、私は感じました。
 そして、ひとつひとつのりんママの言動に、いちいち反応してるんですね、この辺りの反応が非常に
 「常識」的というか、だいきちの中の「常識的」自分がむくむくと反応して、で、常識的で無い、
 まさに「非常識」なりんママのいちいちの言動を断罪してしまうのですよね。
 
 しかも、だいきちは、それがあたかも、全世界的に誰もが正しいと思う断罪だと、自負して。
 
 あのだいきちの怒りは、「義憤」に近いものなのかもですね。
 全親の気持ち代表みたいな?
 そりゃ私だって、私の中の常識的自分に照らせば、りんママの言動にはイラっとくるものは沢山ありました
 よ?、でも、だからって、それが全世界的にも正しいことで、誰もがそれが正しいと思うとか、そういう
 自分と他者の境界線があらあらうふふな感じで混ざってしまうような事はしま・・・たまにしてしまう
 けども(笑)。
 だいきちは、つまり、極論すれば、りんママが自分と同じように考えない、行動しないということが、
 とっても気に食わないんですよね。
 俺は、こんなに苦労してるのに。
 俺は、りんのために仕事の配置換えしたり、幼稚園の送り迎えだとか、すげー大変なのに。
 なのにこの女は自分の仕事優先したり、あんた母親だろ? ていうかなんだその子供っぽい仕草はっ!
 だいきちのりんママへ発する言葉は、説教的、あるいは操作的に私には見える。
 自分の思う通りの反応が返ってこない事に、、イライラしっぱなし。
 常識的に母親らしくしろ、俺と同じようにしやがれ、そういうだいきちの強烈な「我が儘」さと、
 そして自分とは違う、好き勝手にやっているりんママに対する、ルサンチマン的な怒りがある。
 
 私は、確かにりんママは自分勝手な女だと思う。
 そして同時に、このときのだいきちのことを、私は自己中な男だと思う。
 
 だから、どっちかっていうと、私はりんママに共感したな。 (うんうん)
 なんかまるで勝ち誇ったように、偉そうにりんの事話したり、りんのこまごましたこととか知ってる自分の
 偉さと、それを知らないりんママを貶すような言い方とか、しかもそのたびにりんのためがどうとかすぐ
 持ち出してきて、くわーっ、むっかつく!(笑)
 正直、私はあれはりんママは怒っていい気がしましたね、だって、りんママって、だいきちとか他の親類
 達に対して、正確に言えばなんの迷惑も面倒もかけていないのですし。
 もっと言えば、りんママが迷惑かけてるのは、娘のりんただひとりに対してだけです。
 特に親類の連中は、なんも文句言う資格はねーっての、世間体がどうのとかどっちが自分勝手
 やねん!、でだいきちはその親類達に腹立てて、なのにだいきちは一方的に押しかけて、そうだよねぇ、
 あの最初にりんママに電話したときも、なに?あの態度は、勝手に電話してきた上にまるで会うのは
 当然みたいな、会えるようにセッティングしとけみたいな、しかもそれが常識だろみたいな?、あー、
 なんかほんとヤな奴だなだいきち!
 常識という大義名分としての「自己中」なフィルターをかけると、りんママにはイラっとくるけれど、
 そのフィルターを外すと、普通にだいきちにむかっとくるという。 (笑)
 
 話が逸れましたけど、で、そうやってむしろ迷惑かけてるのはだいきちの方であって。
 大体さ、りんママがりんをどうしようと、それはりんママの責任だし、そして自由であって、無論法律的
 に問題が無いなら、施設にりんを預けようとどうしようと、あるいは全部ほっぽり出して逃げようと、
 それも全部含めてりんママが決めて責任を負うこと な訳で。
 そのことに対して文句を言っていいのは、当事者たるりんだけでしょう。
 それを常識だか道徳だかなんだか知らないけど、勝手に腹立てて引き取ったのはだいきちなのよね?、
 だから、りんを拾って育てる責任は、もうだいきちにある。
 それなのに、その辺りにあったであろう様々な自分の中のふたつの自分の葛藤を、そのままりんママに
 ぶつけて、しかもりんの気持ちがどうとかそれこそりんの気も知らずに勝手に持ち出して、その正当化を
 図るのは、それは最低な行為だと思うし、自己中ここに極まれり、という感じ。
 常識の威を借るだいきちでしょ、これはカッコわるい、つかこれ、だいきちの覚悟の無さの顕れなのかな。
 
 りんママがどうこうとか関係無い、だいきちがどうするか、だけの話で、それが出来無い、自信が無い
 からこそ、りんママに怒りを向けてしまうというか、で、りんママを断罪することによって、自信の無い、
 すなわち常識とは一切関係無いもうひとつの弱い自分を切り捨てて、常識的な強い自分に縋りつき、
 またそれを強化していく中で、りんと向き合い子育てをしていこうとする。
 
 あー、これ、下手すると児童虐待にいくパターンだわ。
 
 常識的自分を堅持し続けて、それを強化して、非常識な「親」を自他共々に切り捨てる事がずっと
 出来るのなら、たぶんだいきちはだいきちの母親とそっくりの道を進むことになるだろうし、その途中で
 挫折して、常識的自分を堅持出来ず、けど常識的自分にしがみつくしか無くなると、今度は
 その常識的自分を、他ならぬ子供に投影して、厳しく当たってしまうという児童虐待のパターンになる。
 
 その辺り、おそらく一番冷静で、一番クリアに見えていたのが、実はりんママなのかもね。
 自分が一体、どれだけ「常識的」な自分に支配されて、それに苦しめられているか、そして、それでも
 なんとかもうひとつの弱い自分、彼女自身は「駄目」な自分と呼称しているもうひとりの自分を生きよう
 と必死の戦いを繰り広げている。
 そして、その戦いの中に、りんを巻き込む訳にはいかないと、極めて冷静沈着に、かつ率直に判断
 したのでしょう、実際りんママがどれだけ「常識的」な自分に縛られているかは、彼女がりんの姓を
 養い親役のだいきちと同じにしてくれと頼んだその理由からも窺われます。
 曰く、それが女の子というものだから、女の子はそうに決まっているのだから。
 極めて「常識的」というか「偏見的」決めつけ的というか、それにすっかり支配されてしまっているのです
 ね、その辺りを、だいきちの母親も全く同意見というところで見事に表現されていましたし、で、りんママ
 はその自分から脱却する、すなわち「常識的」自分を生き続けることに挫折しようとしていて、でも、
 きっと、その自分の支配からは逃れ切ることは出来無くて、子供にこそ、常識的自分を押しつけて、
 厳しく当たってしまうだろうと、たぶん、ひどく現実的未来として無意識に自覚しているのかもしれない。
 
 言い換えれば、彼女はまだ、常識的でない、弱くて「駄目」な自分を受け入れ、
 それを生きることが出来ていない。
 
 以前にも書きましたけど、子育てに唯一必要なのは、その弱い自分、すなわち常識とかそういう
 外的なものと入れ替えない、そのままの自分を自分に認めることで、同時にそれを子供に投影し、
 そうして子供をすべて丸ごと受け入れ愛することが出来るようになること。
 常識的自分に支配され、またそれを子供に投影しそれで育てると、子供は同時に「常識的」自分
 である自分のことしか自分で認められず、弱い非常識な自分を認められない、すなわち条件付きの
 愛情しか親から得られなくなることで、自分自身の中に絶対的な空虚感、疎外感を背負うことに
 なる。
 わかりやすくいえば、子供は親の「常識」に認められ愛されるために、「良い子」であることに頑張っちゃ
 うんですよね。
 それをたぶん、あのりんママは、知ってる。
 たぶん、りんママ自身が、そうだったから。
 そんなりんママがですよ?、懸命に自分自身の戦いを生き抜きながら、たぶんそういう自分を丸ごと
 愛してくれただいきちのじいちゃんの元で、いっときの安息を手に入れられたとか、涙出ます。 (泣)
 そして、その中でりんを自分の中に宿し、他の人から見たらなにを当たり前なことをと思われるような、
 そういう些細な家事とか育児のことを頑張り、仕事も頑張り、そうやって、そのままの弱い自分、
 すなわち「等身大」の世界を生きて・・・やべー・・感情移入のレベルが半端無くなってきた。 (笑)
 そうなんですよねぇ、りんママがぐちぐちとだいきちにこぼしてたのは、そりゃだいきちや他の人からみたら
 憤慨モノな愚痴ですよね、生活を昼型に変えるのは辛いとかあとなんとか色々言ってましたけど、
 それ、「親」の「常識」に照らせば信じられないくらいに最低な愚痴な訳で、そりゃだいきちはいらっと
 するでしょうけど。
 
 でもそれ。
 だいきちが、りんママも自分と同じように生きるべきだ、同じようなレベルに努力して、結果出すべきだ、
 そういう風に言ってるだけの、ただの自己中なんですよね。
 
 あれは、なによりもだいきちが、そしてあのだいきちに共感したすべての人達が、見事に自らの
 捉えている「常識」に自身が支配されている事を、証明することになる。
 うん、だいきちもまた、あのガチガチ自己中な母親に育てられた事の傷を負ってる訳なんですね。
 どんだけ他人から見て些細でちっぽけな努力だろうと、当の本人にとってはそれはとても偉大な努力。
 むしろ、常識に支配されながらも、それをはね除けて堂々と率直に、その「些細すぎる努力」を
 すごいことなんだと認めて口に出来るりんママの方が、今回のだいきちより、何倍も素敵。
 自分勝手? 上等じゃないの、ちゃんと自分の世界をしっかり生きようとしているんだから、それは
 とても大切なことじゃないの。
 自分の世界を生きることをほっぽりだして、誰かのためとか大義名分掲げてその訳のわからない世界に
 逃げ出して、それを他人にまで押しつける、そんな自己中な人とは比べものにならないくらい。
 みんながちゃんと、ひとりひとり自分の世界を生きれば、最初からなにも問題なんか起きない。
 
 もし、「甘え」というものがあるのだとしたら。
 それは、そうして自分の世界を生きずに放り出して、代わりに他者の価値観すなわち常識などに
 すがりつき、その中でしか生きようとしないことをのみ、言うのだと思う。
 
 私は、今回、あのりんママが、『それでも不思議と、りんが生まれたら可愛くて愛しく思えました。』
 と言ったとき・・・・・なんかもう・・・・潮が引いていくみたいな、すごい感動を覚えて・・
 だいきち的常識的観点からすると、『不思議と?(怒)』って感じなのでしょうけど、それこそまさに
 だいきちの想像力の欠如というか自己中過ぎの顕れよね。 ていうかガキ過ぎでしょ。 (言い過ぎ)
 仕事して、頑張って、寝込んで、頑張って、訳わかんない、常識に支配されそれから抜けだそうと、
 そのぐるぐるの中で頭でっかちの思考の渦に流され閉じ込められながらも・・・
 子供がほんとに産まれて、その子供を、可愛いと、思えるなんて・・・きっとりんママは、こんな私が
 子供を可愛いと思える訳無いって、そう思ってただろうに・・・・・・涙止まらぬよ (涙)
 不思議じゃなきゃ、なんなのよ、これを不思議と言わず、神秘といわず、なんと言うのよ
 
 そして、その不思議な不思議な子供、りんがいる。
 すっかり自己中な物語に閉じ込められている、その自覚も無くしてしまっている、実は一番ヤバイ
 状態にあっただいきちを、りんが救ってくれたんですね。
 
 『だいきちは、だいきちだよ。』
 
 そのままの、自分。
 子供って、親こその蒙を啓いてくれるもので、自分がどれだけ自分を見失っているか、どれだけ
 自分が「常識的自分」に支配され、その自分を演じ生きる事の術を網羅しただけの物語を、
 カッコつけて物々しく綴り続けているだけか、ということを。
 そしてなにより、その親自身が、どれだけ、もうひとりの自分、すなわち常識的で無い、常識的価値観
 上弱くて駄目な自分、そのままの自分を生きる事が出来なくなっているのか、ということを。
 子供こそが、教えてくれる。
 正確に言えば、自由気儘で、それこそ自分勝手な子供を見ることで、それに対して自分が感じた
 なにかが、それを教えてくれる。
 自分勝手な子供を見て、怒ったり、ほっとしたり、それはすなわち、自分の中の常識的な自分と、
 そうでない自分の関係性が実感として見えてくるということ。
 自分勝手な子供に憤り、厳しく当たり、厳しく躾けようとするとき、自分の中のもうひとりの自分が、
 呻き声を上げる。
 極論すれば、児童虐待という行為そのものが、その当事者たる親自身に、一体自分になにが起きて
 いるのかを、教えてくれる。
 だからきっと、りんによってそのままの自分を受け入れることが出来ただいきちは、遠からず、りんママに
 対して抱いていた自分の怒りがなんのためにあったのかを理解していくことでしょう。
 他ならぬ、だいきち自身が、りんママというそのままの人を否定することで、そのままの自分自身を
 否定していた、ということを。
 りんのため、って、一体なんなんだろう。
 それは、だいきちがだいきちのことを受け入れない限り、わかることでは無いのかもしれませんね。
 
 だから、私はりんママのこと好きになっちゃったんだよねー、ああいう風に自分を受け入れるための
 戦いを続けている人って、大好き♪
 なぜって、彼女とおんなじよな自分が私の中にいることを、私は受け入れてるからね。
 常識的自分から見ると、コップの水ぶっかけてやりたいくらいにイラっとくる女性ですけどね(マテ)、
 同時に私は、それ以上にそのコップの水をぶっかけようとしている私に、むかっ腹が立ってコップを投げ
 つけたくなってますから(マテマテ)、たぶん、その私のむかつきこそを理解するのが、自己成長にとって
 一番大切なことなのだと思っています。
 
 ちなみに、勘違いの無いように言っておきますけど、初対面の人に対していきなり水をぶっかけるなんて
 そんな失礼な自分は許せない、という意味じゃありませんよ?、むしろそれは常識的な自分の範疇
 な訳なので。
 自分勝手に、しかしそのままの自分を生きている、そんな人に水をかけるということは、すなわち、
 ほんとうはその人と同じように生きたい自分自身に水をぶっかけて存在を否定するのと同じ、だから
 なによりもそれに対して怒りを覚える、という意味ですから。
 それが、共感、ってやつなのでしょう。
 だから、子供を殴ってしまう親が、殴ってしまった自分に覚える罪悪感というのも、分析すると、
 暴力を振るってしまったという常識的自分のそれ以上のものがあるということに気付けると、それは
 意味があることになるのですね。
 
 『いったいぜんたい、俺がりんを育ててるのか、俺がりんに育てられてるのか、
  ちょいちょいわからなくなる。』
 
 そうだねぇ、きっと、だいきちの中の、そのままの自分、もうひとりのだいきちという「子供」が、
 だいきちを育ててくれるのだと思いますね。
 うん、うん♪
 
 
 
 で、次は異国迷路のクロワーゼのお話ね。 
 うーん、至言だなぁ。
 『日本人は、みんなでひとつなのさ。 俺達とひとつの事をしてないと不安なんだよ。』
 湯音の病理(?)をひとことで言い当てております、まったくもってその通りでございます。
 湯音の話聞いてると、ワーカホリック怖いわぁとしか思わんものw、勤労さを褒め称えるというか、
 まさに勤労根性を炙り出すというか、だってこれ、湯音に対する褒め言葉って、湯音の仕事の結果に
 対してだけで、湯音そのものへの賞賛になんか、かすりもしないもの。
 自分を捨てて、自分を見失って、一生懸命に仕事して、完璧に仕上げて。
 そりゃ良い仕事出来るわな、でも、そこに湯音の人間性はゼロだし、湯音の意志がまるで感じられ
 無い。
 
 と、ちょっと回りくどい言い方になってしまいましたけど、つまりね、湯音は要するに自分が無くて、
 自分でなにがやりたいのか、なにが好きなのかもわからなくなっていて、自由の意味さえもわからない。
 まさに、仕事の奴隷なわけね。
 この場合は仕事だけど、もっと広い意味で言えば、湯音は他者の奴隷な訳。
 他者に自分がすべきこととしたいことと自分が生きる世界の選択をおっかぶせて、その他者の指図に
 沿って全うに生きる事にだけ生き甲斐を感じているという、まぁ、完全にこれヤバイ状態な訳ですけど。
 
 完全に、主体性を失っているし、その自覚も無い。
 
 自分の人生を、「他者」、或いは「世間」なり「常識」なりに任せてしまっている。
 だから、これは自己責任を果たすことを放り出しているとも言える。
 なら、自由がわからないのも当然な訳で。
 他者から与えられた使命なり役割なり義務なりを全うすることで、それを「自己責任を果たす」ことだと
 しているから、湯音は絶対にその事に気付かない。
 湯音がだからどんなに懸命に頑張ろうと、クロードの言いつけに従ったり、他者を思い遣ったりして
 行動しても、それは「そうしなければならない」という他者的な規範なりなんなりにただ従っただけの
 事で、だからそういう湯音は、実に簡単にその規範に従順に忠実に従った結果と、なによりそれを
 選んだ自分の責任を、他者にこそ押しつけて返す。
 主体性が無い。
 無責任。
 自分の判断基準を捨ててるから、右から左に流れてそのたびに右往左往する。
 物事の本質を受け止められない。
 他者のため、誰かのために頑張りたい、役に立ちたい、頑張れない私は駄目、役に立てない私は
 此処にいちゃいけない。
 
 ああもう、甘ったれるな! (まぁ落ち着け)
 
 自分の気持ちを相手に重ねちゃいけないのかな、的なことを湯音言ってましたけど、はい、それは
 全然全く、いけません。 (微笑)
 それは自分の気持ちなり感情なりを相手の内面に押しつけて、そしてそれを勝手に読み取って、
 相手の気持ちだとしてしまう事ですから。
 しかもそうして読み取った気持ちを、今度は自分の内面に上書きしちゃう訳ですから、あらあらうふふ
 ですよ、
 私達は、他者の気持ちを知ることは絶対に出来無い。
 ただ勝手に想像して、妄想して、勝手にそうだと決めつけるだけのことです。
 日本人は相手の気持ちを読んで察するのが上手とか言いますけど、あほ、んなわけあるかい、
 ただたんにそういう幻想を共有して千年くらいコトコト煮込んでどっぷりはまり込んじゃってるだけの話よ。
 湯音がやってる事は、他者の気持ちを勝手に想像して、あたかもそれが現実に存在しているものの
 如くに扱い、そしてそれを勝手に忖度して、それに合わせて「空気を読んで」行動する。
 
 その勝手に想像して組み上げた他者の気持ちの集合体を、私達は「世間」と呼ぶ。
 
 世間なんてのは、すなわち幻想です。
 存在しない。
 あるのはただ、そういうものがあると思い込み、そしてその思い込みの中で延々と生活を積み上げていく
 、そういう人達がいるだけのこと。
 自分と他者の境界線が滅茶苦茶に破綻している。
 この作品は、それが日本人なんだ、と提示してみせている。
 みんなで、ひとつ。
 気持ちは、ひとつ。
 その気持ちとやらは、ただの自分自身の気持ち。
 なら、その自分の気持ちを捨ててしまえ。
 捨てて、空にして、みんなでひとつの気持ち(=世間)をそこに入れて満たせば・・
 みんな、ほんとうにひとつになれる。
 だから
 私は正しい
 私はみんな みんなは私だから
 私が思うことは みんなも思っている
 みんなが思っていることは 私も思っている
 
 つまりそれは、みんなという名の、自己中心、ということ。
 
 みんなと繋がっているという感覚は、世界が果てしなく広く感じられるかもしれないけれど、
 それは実際にはもの凄く世界が狭まってしまっている。
 なにせ、からっぽの自分だけの世界なんですから。
 他者なんてもう、影も形もありゃしない。
 みんなのためみんなのためと言って、そうやって自己認証を得るための道具に、他者は成り果てて
 しまっているのですから。
 
 だから、というか、だからこそ、湯音が主体性を獲得し、自己責任を果たす必要性を真実感じ取り、
 そして自らの世界を切り拓いていくお話になっていく事が、この作品に、少なくとも私からは求め
 られていることです。 (笑)
 作品的には、実は結構まだ微妙なとこなのですよねぇ、日本の美術芸術とかの美しさ素敵さを、
 実に丁寧にそしてナンセンスなナショナリズムを持ち出さずにフェアに描いているのは、とてもとても素敵な
 ことだし有意義な事なのですけれど、同時に湯音、ひいては日本人の病的な思考形式も、同列に
 して描いてしまうのは、あっぶないなぁ、というか、これ、ほんとクロード様にかかってると言いますかw、
 どれだけクロード様が湯音に駄目出しして、湯音に自分自身と向き合わせて、そしてしっかりと
 ひとりの人間として自立させていく方になっていけば、しぜんと日本人の思考形式を尊ぼうとする
 必要性が無くなり、純然たる美しい日本の着物をまとった、毅然としたひとりの湯音の姿が見られる
 ようになるかもしれませんね。
 日本人の歪んだ思考形式と日本文化の美を同列にして流すと、ほら、あの着物を纏った卑屈な
 土下座少女が表れてしまう訳ですしw、やっぱりあの土下座があんなに攻撃的なのは、やっぱりその
 辺りに対する作り手の強烈なアイロニーなのかも・・・・・・・だといいんですけどねw
 
 うん、是非に少しずつ、湯音には、みんなのためとか世間とか、そういう幻想としての他者を越えて、
 パリの人達と出会っていって欲しいものです。
 パリの人は用心深いが、一度知り合ったらとても親しくなるみたいな、あー、それですよねぇ、
 それが幻想の他者を描いてみんなニコニコの日本人の怖い笑顔wとは、根本的に異なるとこ
 なんですよねぇ。
 そりゃみんなニコニコなら寂しくないし、だからその「ニコニコなみんな」のために頑張っちゃいますもんね、
 でもそれ、結局つまり、そういうみんなニコニコという幻想に抱き締められていたい、甘ったれで、
 そしてそういう自分ひとりしかいない、自己中な狭い世界しか無いってことなんですよね。
 親密な関係って、なんだろね。
 私はそれを、誰かのためにという自己中から手を離し、自分勝手を許し合える間柄、と解く。
 
 なんかこう、だから実は最初から私、湯音にかなり感情移入してたりするんですよねww
 湯音がひとつずつ、自分から逃げずに真実他者と出会っていくことで、世界がほんとうに広がっていく
 ことの嬉しさとか、もうあれですね、ノーベル賞です。 (座布団一枚取り上げてやって)
 
 
 
 
 という感じで御座いました。
 むー、もうちょっと深いとこまで突き詰めて書きたかったのですけど、これ珍しく一気に一日で書いたので、
 えーと、集中切れました、今日はこれ以上なんも出んよ!
 
 ということで、まぁ今日お話したよな事は、昨今の私のマイテーマのうちにひとつですから、他の文章
 でも似たよなことをつらつらと書いていくと思いますので、その際はよしなに♪
 
 
 それでは、ごきげんよう、またね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 

-- 110804--                    

 

         

                                 ■■ 好きを呼ぶ友 ■■

     
 
 
 
 
 
 『 ああ・・こんな風に話を聞いて、それでも一緒にいようとしてくれる人達がいる。 』
 

                          〜夏目友人帳 参 ・第五話・夏目の言葉より〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その日私は妖怪を見た。
 泣いていたの、ずっと。
 ずっと、ずっと、訳がわからなくなるくらい、泣いていた。
 泣いて、泣いて、まるで泣くことが仕事であるみたいに、一生懸命に泣いていた。
 泣けば、きっと、おじいちゃんは。
 おじいちゃんが生き返ると思っていたのかな、それとも、おじいちゃんのために泣いていたのかな。
 おじいちゃんの代わりに、泣いていたのかもしれない。
 
 なんで泣いているのか、全然わからなくなって、真っ黒な、明かりのひとつもついていない部屋の中に
 閉じ込められたような気がして。
 そこから逃げ出したいのに、一歩も動かない。
 座り込んで、足が畳に溶けてしまったみたいで。
 怖くなって。
 叫んだ。
 泣いていた。
 嫌 嫌 暗い 嫌!
 訳もわからずに蹲り、前にも増して泣き崩れた。
 泣いて、泣いて。
 なにがあっても無くても、泣いて。
 無いから、泣いて。
 あるから、泣いて。
 逃げ出したいのに、逃げ出せない。
 もう、おじいちゃんが死んだから泣いているのか、私がここから逃げられないから泣いているのか、
 なにもかも、わからなくなって。
 なにもかも、わからなくなっちゃえ。
 でもそれで、なにもかもがわからなくなるなんて事は無くて、ああ、おじいちゃんは死んじゃったんだな、
 っていう言葉がずんと胸に響いて、そうするとね、今度はおじいちゃんがいなくなった世界を、これから
 生きていくことになる自分のことが、とてもとても辛くなって。
 どうしておじいちゃん、死んじゃったの。
 死なないで、私を置いていかないで!
 
 そう思った途端、今度は全然逆方向から涙が流れてきて。
 おじいちゃん・・おじいちゃん・・・・苦しかった? 辛かった?
 おじいちゃん・・・・妖怪は・・・見れたの・・・?
 それとも・・・あんなに見たかった妖怪を、一回も見ることが出来無いまま・・・・・
 
 どんどん 涙が止まらなくなっていく
 
 そして泣きながら私はその部屋を出て、おじいちゃんが遺した妖怪に関する本が堆く積まれた部屋に
 辿り着いた。
 おじいちゃんは、いつか私に言ってた。
 ある陣を書くと、その中に立った妖怪の姿を見ることが出来る、って。
 探した。
 探して、探して、涙を振り絞って、探した。
 涙が尽きてしまう前に、はやく、見つけなくちゃ。
 涙が尽きてしまったら、この気持ちが無くなってしまうんじゃないかって、思って。
 この気持ちが無くなってしまったら、私はおじいちゃんのことを・・・・
 途端に
 手が止まった。
 どうして
 私は、おじいちゃんのことを忘れてしまいたくなった。
 もしかして、私がおじいちゃんの遺志を継いで、妖怪を見ようとすることは、おじいちゃんが、妖怪の
 姿を見ること無く死んでしまったということを、認めてしまうようで。
 私がこんなに辛くて、悲しんでいるのは、それは・・・私が、おじいちゃんが妖怪を見ることが出来ずに、
 そのまま死んでしまったと思っているから・・・
 訳がわからなかった。
 そう思った途端、今度はまた猛然と、本を投げ飛ばす勢いで、掴んでは開いて置き、開いては置き、
 おじいちゃんの遺した陣の図を再び探し始めていた。
 探さなきゃ、泣かなくちゃ、嫌、嫌、真っ黒は嫌!
 なにかをせずにはいられなかったの。
 泣いて、泣きながら探して、探しながら、泣いて。
 なんなのよ、いったい。
 端から見たら、気が狂ってしまったように見えたかもしれない。
 確か父と母に一回止められて、それでも止まらない私を、しばらくそっとしておいた方が良いと思ったのか、
 私はそのまま、泣きながら本を探すままにされていた気がする。
 あのとき私は、父と母にだけは抱き締められたく無かった。
 おじいちゃんの事を理解しようとせず、妖怪のことを見たいとあんなに願っていたおじいちゃんと
 向き合わずにいた、お父さんとお母さんなんて。
 嫌い
 だいっきらい!
 
 おじいちゃん
 おじいちゃん・・・
 誰かに抱き締められたかった。
 寂しかった
 怖くて 悲しくて
 誰かに 傍にいて欲しかった
 けど お父さんとお母さんは嫌だったの
 おじいちゃんとちゃんと話せて、一緒に暮らしていたのは、私だけだったのだもの。
 私はおじいちゃんと一緒にいる!
 お父さんとお母さんの事が、嫌いだった。
 真っ黒
 なにが真っ黒なのか、全然わからないままに、それはぐるんぐるんに私を引きずり回していた。
 そんな私の手を引いて、蔵の中に夢の世界を見せてくれたのが、祖父だった。
 いつも寂しそうにしながら、それなのに、自分の世界を手に入れていた人。
 おじいちゃんは、いつも、妖怪を見たい、一度でいいから見てみたいと、本当に、愛おしそうに
 呟いていた。
 私は、そんなおじいちゃんが大好きだった。
 そんなになにかを好きで、堪らなくて、そしてそれをただの一度も諦めたことが無い人なんて、
 私の周りには祖父しかいなかったし、私は祖父しか知らなかった。
 私は・・・おじいちゃんに、そんなに可愛がられた覚えは無い
 おじいちゃんは、なによりも、どんなものよりも、妖怪を愛していた。
 勿論、孫の私よりも。
 でも、嫌じゃなかった。
 私は、おじいちゃんに可愛がられたいとか、甘えたいとか思ったことは全然無くて、ただ私にとっては、
 おじいちゃんは陽炎のように、ぽっかりと私の目の前に浮かんだ夢だった。
 私は、なにかを一途に愛する人が、大好きだったのよ。
 私も
 おじいちゃんみたいに、なにかを目一杯、好きになりたい。
 そして私も、同じように、妖怪のことが好きになっていた。
 
 
 
 おじいちゃんは・・・
 妖怪に、会いたかったの?
 おじいちゃん・・・・ずっと・・・・寂しかった?
 あの頃の私は・・・・たぶん・・寂しかった 
 なんでだろう、私、お父さんとお母さんに愛されてる、って確かに思ってたのに、愛されてるだけって
 感じがしていたの。
 一体お父さんとお母さんは、私のなにを愛してるんだろうって。
 どうして、お父さんとお母さんは、おじいちゃんと口をきかないの?
 おじいちゃんが、周りから見たら変わってる人だから?
 だから、話をしないの?
 じゃあ、私は?
 私は、周りから見ても、お父さんとお母さんから見ても、変じゃないから、ちゃんと話を聞いてくれるの?
 
 じゃあもし、私が変になったら、周りからおかしいって思われるような人になったら、話してくれなくなるの?
 
 泣きじゃくりながら、おじいちゃんの遺した陣を探しているとき、その事で頭が一杯になっていた。
 私が変じゃないから? 普通だから? 妖怪を見たいだなんて言わなかったから?
 だからお父さんとお母さんは私のことを、愛してくれたの?
 じゃあ、私は妖怪を見たいって言っちゃいけないの?
 私がおじいちゃんと過ごした時間は、とても大切なものだったのに。
 私もおじいちゃんと同じく、妖怪のことを見てみたいなって、思ったのに。
 好きなものが、見つかったのに。
 絶対に、陣を見つけてやる、って思ったの。
 お父さんとお母さんなんて、だいっきらい!!!
 
 こんなに 寂しいのに
 
 
 
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 私ね、夏目くん。
 おじいちゃんが死んだとき、ほんとはお父さんとお母さんに、一緒にいて欲しかったのよ。
 そう
 いて欲しかったのは、おじいちゃんのことを理解していて、おじいちゃんを受け入れていて、そして、
 おじいちゃんが大好きだった、そんなお父さんとお母さんに、だったのよ。
 私の隣にいたのは、そういうお父さんとお母さんじゃ無かった。
 いるのに、いない。
 私・・・だから・・・
 きっと、妖怪に会いたくなったのだと、うん、あのとき本当の意味でおもったのだと思うわ。
 それまでは、おじいちゃんがいてくれたから気付かなかったけれど、私は、私が好きだと、大好きだと
 思っているもの、それこそ夢の宝物が一杯詰まっている蔵に、一緒に入ってくれる人を、
 ずっと、ずっと求めていたのよ。
 
 それが私の場合、妖怪だったのよ。
 
 妖怪が好きだから、妖怪を見てみたい。
 その私の想いを、認めて受け入れて、喜んでくれる、そういう人が欲しい。
 そう
 それが、おじいちゃんが亡くなってから、妖怪自身にそれを求めるようになったのよ。
 
 『見えるっていうのは、出会ってしまう、っていうことでもあるのね』
 
 妖怪に会いたくなっていた。
 会って、どんなに私が妖怪のことを好きなのかを、聞いて貰いたかった。
 そんな事は、他の誰に言っても聞いて貰えることでは無かったし、それに、なにより、
 妖怪の事を好きと言っているのだから、当の妖怪がその話を拒否する訳が無いだろうって。
 きっと、一緒に聞いてくれるだろう・・って・・・
 それはつまり、見返りを期待していた、ってことなんだと、今は思うの。
 むしろ逆に、私の話を聞いて貰うために、その相手の事を好きと言ってるだけに、いつのまにか
 なってしまっていたのかもしれない。
 私はそれで一度、とても、とても怖いおもいをした。
 妖怪に会って、妖怪に私の話を聞いて貰いたい、ただその一心で、祖父から受け継いだ陣を
 描いて、その中に顕れた妖怪に呪われた。
 そう・・見るってことは、ほんとうに、出会うということと同じなのよ・・・・
 おじいちゃんは、妖怪の姿を、死ぬまでただの一度も見ることが出来無かった。
 つまり、妖怪に会うことは出来無かったのね。
 でも・・・
 私は気付いたのよ・・・・
 
 おじいちゃんは、全然寂しくなかったんじゃないか、って。
 そして、妖怪に会って話を聞いて貰いたいとも、思っていなかったんじゃないか、って。
 
 おじいちゃんは、妖怪が好きで堪らなかった。
 いつも妖怪の名前を、とても大事に大切に読み上げていたわ。
 それは、好きだ、好きだよ、という、愛の告白のようで、隣でそれを聞いている私が
 嬉しくなってしまうような、それは静かな情熱に満たされていた言葉だったわ。
 そして、おじいちゃんはそれで充分だったのよ。
 おじいちゃんはきっと、妖怪が好きだという、その自分の気持ちを、とても大切にすることが
 出来ていたんだわ。
 それは、妖怪を見ることが出来無い、妖怪に出会えないという事で、消え去ってしまうような、
 そんな程度のものじゃ無かった。
 そう・・・
 私は・・・・・だから、おじいちゃんが好きだったのね
 妖怪が見えようと見えなかろうと、妖怪に会えようと会えなかろうと、おじいちゃんは変わらず妖怪の
 ことが大好き。
 ああ・・だから・・・・
 
 
  だから   おじいちゃんは  妖怪達に、こんなにも愛されていたのね。
 
 
 夏目くんが、おじいちゃんを慕い懐かしみ、偲んでやってきてくれた妖怪達の話をしてくれたとき。
 私は・・・・私・・・
 涙がね・・・・・私の胸の中に、暖かく染み込んでいくのを感じたの
 おじいちゃん・・・・・・・おじいちゃん・・・・・っ
 もしおじいちゃんが、妖怪達に会うために、そのためだけに妖怪の事を好きと言い、妖怪に会うために
 色々と研究なりなんなりをし続けていただけなら、きっと、妖怪達はおじいちゃんのことを好きになんか
 ならなかったのよね。
 それは・・・
 かつての私の、お父さんとお母さんに対するおもいと、同じだ。
 私は、おじいちゃんのことを好きになった妖怪達の気持ちに、深く繋がった。
 おじいちゃんは妖怪の事が好きで、妖怪もおじいちゃんの事が好き。
 その好きは、お互いが会わなければならない、という呪縛から解き放たれている。
 きっと妖怪達こそ、そのことを深く理解しているがゆえに、私が助けを求めたときに、陣の上に立って
 くれなかったんだと思う。
 あのときおじいちゃんを慕う妖怪達が、私にその姿を見せてくれなかったのは・・・・
 
 
 私の
 妖怪を好きだという その私の気持ちを
 とても 
 とても
 大切に想ってくれたからだった
 
 
  『さらば 慎一郎の孫 元気でな 』
 
 
 
 
 
 
 
 
 妖怪達は、まるっきり妖怪を見ることが出来無いおじいちゃんが、それでも自分達のことを
 好きと言ってくれるのが、嬉しくて堪らなかったのよ。
 姿を見せずとも、姿無しでも、なにも無くても。
 好きと、言ってくれる。
 大事そうに大切そうに、書物を絵本のように楽しく読みながら、妖怪達の名前をなぞっては、
 溜息を吐く。
 それを、そのおじいちゃんの目の前で、楽しげに見つめる妖怪達。
 ああ
 妖怪達も、寂しくなんか、無かったのね。
 こんなに近くにいるのに、姿を見て貰えないことを悲しがって、なんとかして自分の姿をおじいちゃんに
 見せつけよう知らしめよう、だなんてことは、きっと一度も無かったはず。
 妖怪達の存在、そのものを、丸ごと、好きって、おじいちゃんは言い続けていたのよ?
 だから
 妖怪達も、おじいちゃんに自分の姿を見せようだなんて事に力を使わずに、ただただ、おじいちゃんへの
 好きという気持ちに、浸れることが出来たのだとおもう。
 それはとても
 暖かくて、優しくて、愛おしい光景
 おじいちゃんが死ぬ、その瞬間まで、妖怪達は自分達の姿を見せること無く、ただおじいちゃんが好き
 という気持ちを生きることが出来た。
 おじいちゃんもまた、最後の最期まで、姿の見えない妖怪達への、大好きという気持ちにこそ、
 抱き締められていたんだとおもう。
 寂しくないどころじゃないわ、それは・・・・もう・・・・
 ほんとうに・・もう・・・・・なにより・・・・・私こそが・・・・・一番・・・・・・
 
 ありがとう
 ありがとう・・ほんとうに・・・・ありがとう・・・・
 私は、本当は、お父さんとお母さんに愛されるために、色々頑張ってしまっていて、その頑張りを
 見て愛して貰うことだけしか、いつのまにか出来無くなっていたのかもしれない。
 お父さんとお母さんに、ずっと、普通の子だよって、おかしな子じゃないよ、だから、愛しているよって、
 そう言われるためにこそ、ずっと普通の子でおかしくない子を演じ続けていた。
 それが・・寂しさ・・・私の寂しさだったのね
 そしてだから、お父さんとお母さんのことが、昔、あんなに嫌いだったのよ
 そんな努力をしなければ愛してくれないなんて・・・でもそうするしかない状況しか無いなんて・・・
 そんな中で、私はおじいちゃんと出会った。
 無条件で、なにかを誰かを愛することの出来る人に。
 そして・・・私が一番求めていたのは・・・・・
 
 
  私のために 
  私に好きと言って貰うために
  なにかをしたり頑張ったりする
 
  そういうことを、絶対にすることの無い そんな存在、だったのよ。
 
 
 私は妖怪が好きだった。
 それはきっと、私にその姿を見せることが無いからだった。
 だから・・・陣を描き、そこに立った妖怪達の姿を見て喜んでいた私は、本当に私が求めるものとは
 出会えていない、そんな私を癒すだけの私でしか無かった。
 私が本当に出会いたかったのは、私にはその姿が見えない存在。
 そしてそれでも、私がその存在のことを好きと言える、その私の気持ち。
 その私にこそ、私は出会いたかったのかもしれない。
 おじいちゃんを慕う妖怪達の想いが、私の胸に流れ込んでくる。
 姿が見えなくても
 妖怪達は、おじいちゃんに会いに来てくれた
 ううん
 おじいちゃんが好きという、その自分達の気持ちを大切にして、会いに来た
 こんなに
 こんなに・・・・
 
  こんなに嬉しいことなんて、ないわ
 
 
 涙が愛おしく溢れてくる
 好きよ
 私も
 
 大好き
 
 
 
 
   『 ほ ん と う に あ り が と う 
 
       お じ い ち ゃ ん に 会 い に 来 て く れ て 
 
                                       あ り が と う 』
 
 
 
 
  ありがとう
 
   私と一緒に おじいちゃんの死を悼んでくれて
 
    
 
 
 
 そうして、私がほんとうに求めていた私に出会えたとき。
 陣の中に、会いたかった妖怪が顕れてくれた。
 私を呪うためで無く。
 私への想いがあることを、ただ伝えるために。
 ありがとう。
 充分過ぎるほどよ。
 そして
 私は、もう出会っているの。
 私が、ほんとうに求めていた私こそが。
 なによりも、誰よりも、求めていた人達と。
 
 私の 話をそのまま聞いてくれる人達と
 私を そのまま受け止めてくれる人達と
 
  信じて くれる人達と
 
 
  そしてなにより 深く共感出来る人達と
 
 
 
 ありがとう
 夏目くん、田沼くん
 
 『 ねぇ、よかったら聞かせてくれない?
  夏目くんが出会ってきた、妖怪達のこと。 』
 
 
 そして
  ありがとう
 
  おじいちゃんを慕ってくれた妖怪達
 
 
 この出会いを、大切にするわ
 
 
 
 
  そして猫ちゃんと出会えたことも
 
  猫ちゃーん、好き好きっ大好きーっ! もふもふもふ〜♪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                            ◆ 『』内文章、アニメ夏目友人帳 参」より引用 ◆
 
 
 
 
 
 



 

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                              ■■ アニメと遊ぼう! 3 ■■

     
 
 
 
 
 
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 
 ふー、なんだかすっかり天候不順な夏っぷりですが、皆様如何お過ごしでしょうか。
 私はやっと例年並に夏バテが始まりました。
 なんか、落ち着く。 ←畳の上でごろごろしながら
 
 
 ということで、もう八月に入りましたけれども、今日も今日とて、アニメのお話をやらせて頂きましょう。
 ええと、前期アニメのまとめ感想の続きです。
 
 今回は、「戦国乙女 〜桃色パラドックス〜」「電波女と青春男」「緋弾のアリア」
 三作品について書かせて頂きます。
 
 では、早速。
 
 
 
 
 ◆
 
 
 戦国乙女 〜桃色パラドックス〜:
 なんでこんなにゆったりするんでしょうね、この作品見てると。
 なんかこう、色んなことが、どーでもいいっていうか、なにこんなくだらないことで、あーでもないこーでも
 ないとか、ケチつけたりなんだりしてたんだろう、みたいな。
 こだわりが、さらりと消えるというか。
 
 この作品は歴史モノだけど、簡単にいえば「歴史」という物語を、こう語らねばならない、こうでなけれ
 ばならないという、そういう一切のモノから、まさに歴史そのものを解放してくれる作品で。
 大体、この作品観てて、史実がどーのとか、気になる? 気にしたら負け以下のなにかになると
 思わない?
 んー、だからこれは実在の歴史とは一切関係ありません、という注付きで観るものでも、実は無いと
 思うんですよ。
 
 これが、ずばり歴史そのものなんでないの?
 
 歴史ってのはさぁ、物語な訳ですよ。
 ぶっちゃけていえば、私達ひとりひとりが、世界をどう語りたいか、ということであって、それはそもそも
 共有しなければならない物語である必要なんて、欠片も無いもので、もしあるのだとしたら、
 それは歴史では無く、政治、というものな気がする。
 人それぞれに、世界観としての歴史があり、そしてその歴史は物語であるゆえに、べつにその物語を
 継承して今の自分の時代もそのように生きるとか、そんなことも関係無い訳で。
 もっともっとぶっちゃければ、歴史っていうのは物語と言ったけれど、物語には登場人物がいる訳で、
 その登場人物に萌えたり燃えたり、そういう想いを馳せるという意味で、歴史にはその存在意義が、
 あくまでその人自身にある気がする。
 
 大体、歴史だか史実だか、んなもんが事実とか真実だとか、証明不可能だっつーの。(ぁ)
 
 要するに、史実だとか真実だとか、そういうひとつのものを、自分だけで無く、他の人達にも押しつけ、
 そして共有することでしか自らの世界観を持つことが出来無い、そういう人の弱さこそが、歴史という
 物語の幅を狭めてしまうというか。
 事実だから真実だから史実だから?、だからそれが「正しい」?
 そしてその正しい「物語」にはみんなが従うべきなんだ、って?
 馬っ鹿じゃねーの?(ぉぃ)
 誰がどういう世界観歴史観を持とうと、それは全然自由勝手な話だし、逆になんでひとつの歴史観
 とか世界観持たなきゃいけないっつーの。
 歴史を楽しんで、なにが悪い。
 だから、私はむしろね、歴史なんてのは、如何に私達ひとりひとりが、武将名だの逸話だの、その当時
 の文化のそれぞれの名前だの特徴だのを、そういうのを覚えて、そしてそれを如何に自分流の歴史
 という物語として「語るか」、そのストーリーテリングの能力そのものを育てることにだけ、唯一意味が
 あるというか、だからむしろその人のストーリーとしての歴史に必要の無い歴史的要素は、んなもん
 別に覚えなくていいというか。
 歴史とは、自分自身が、ひとりひとりでそれぞれ著述していくものです。
 別に、戦国武将全員が女の子だって、いいじゃん。
 実際問題、なんの問題があるっていうの?
 歴史から学ぶとかなんとかいうけど、それって、そもそも武将が萌えキャラ化したら学べないことなの?
 むしろそっちの方が本質から離れているっていうか、や、むしろあれですね、その歴史から学ぶとか
 なんとかいうのは、それは「語り」としての歴史とは関係無い、「政治」の話な気がしますし、そんな政治
 なんぞ、みんながみんな学ぶ必要は無い気がするし。
 
 だから逆に、「語り」としての歴史というのは、人にとって、誰にとってもすごく大切なものだとおもう。
 
 自分で自分の世界を語り、そして時間軸を遡って歴史を描き、縦横無尽に楽しく面白い世界を 
 語る。
 語りとしての歴史は、そうですねぇ、これはもう過去のことである必要も無いんですよね。
 なんていうか、この作品が一番示しているのはそれというか、現代の女子高生が、女だらけの戦国
 時代に飛んで、なんだか適当にやったり本気出したり、まさに現代女子の感覚で色々楽しんで、
 生きてさ。
 時代考証がどうの、その時代の人達の感覚は現代と違うとか、それ、一体なんの関係がある?
 「語り」としての歴史にとっては、そんなものは、ある一部の人達のリアル燃え(?)をみんなが共有
 すべきものだ、といって押しつけられてるものにしか過ぎない。
 私も、時代考証とかその時代ごとの人々の感覚の違いとか、そういうの好きよ?、でもあくまでそれは
 それだけの話であって、それで歴史というモノすべてを語っては駄目だ、という批判を、私はそっくり
 そのままそういうモノに拘り、時代考証がなって無い現代人の感覚で語ることを否定する人達に、
 言って返して差し上げたい。
 同じだっつーの、どっちにしろ、どれかひとつだけ、になってしまうことがおかしい、ってわたしゃ言ってる
 ですよ。
 歴史をどう語るかどう描くは、それは人それぞれ、人は人、自分は自分ですよ。
 だから私は、この作品みたいに好き放題に自由にやりまくってる作品に拍手喝采ですし、同時に
 時代考証を徹底的にして、その時代の人の感覚(というのもほんとかどうか証明不能ですが)を見事
 に描き出した作品に興奮したりもするのです。
 
 この作品の最大の魅力は、「歴史的要素」を実に巧みに取り入れ、そして綺麗に咀嚼して面白く
 描き出した上で、そこにさらりとした実に単純明快な人間模様を登場人物に演じさせているところ
 だと、私は感じました。
 そして、その中に、ヒデヨシという、なんというのかな、主体としての「私」が存在してるんですよね。
 「私」の感覚、感性、そしてなにより責任を通して、歴史という物語に飛び込み、その主人公として
 生きる様。
 この、なんと清々しいことよ。
 歴史というのは、過去の出来事じゃ無いんですよ。
 現代の私達が、「今」、物語としてそれと向き合っている現在そのものの話なんですよね。
 歴史体験というのは、まさに自分が過去に飛んで過去の人達の感覚に囚われたり相手に合わせたり
 とかする、そういう無責任では無く、今まさに現在自分がそれと向き合っている、その体験そのものを
 いうのです。
 歴史体験というのは、物語を著述しそれを読み、そしてそれについて自分がなにを感じ、なにを思った
 か、それがすべてです。
 人は、過去には飛べないし、過去に生きることも出来無いのですから。
 だから私は、歴史の要素を掻き集めて、あくまで現代人、というか「私」という主体の感覚で物語に
 して描くことこそが、歴史ということの本質なのだと思います。
 だから懐古的に歴史を規範にするとか、それを絶対とするとか、アホかと。
 歴史を主体としての「私」無しに、絶対的傍観者として歴史を捉えることなど、不可能。
 歴史を学び、歴史を語り、そうして私達は、一体、どうするのか。
 自分で語った歴史だからこそ、そこに責任が生じる訳でして、それを史実だのなんだのを持ち出して、
 傍観者みたく自分で語ることを放棄したそれには、私はずばり、なんの魅力も感じないし、それ以上に。
 なんの重みも感じません。
 
 ・・・・。
 おかしいな、今日はこんなこと書くつもり無かったんですけどね、あれ? どうしてこうなった? (微笑)
 つか、相変わらずこういう系の作品の前だとムキになっちゃう癖は如何なものか。
 ・・・如何もなにも、それが私なんですがw
 でもそれで肝心のこの作品自体の語りのことを話せてないことは、充分問題だw
 でも・・その話っていっても・・・・萌えと燃え以外にあとなにかあったっけ?(ぉぃwww)
 私的には、ヒデヨシの正直な可愛さとか、ノブナガ様の惚れ惚れするほどの男前ぶりとか、あけりんの
 大変に明快な愛憎っぷりとか、とくにゃんのいじましい腹黒ぶりとかが、かなりストライクに入っていたり
 するのですけれどね、その辺りどう表現していいのかわからなくて、たぶんこうなった。 (結論)
 これ、さりげに続編見たいんですけどねぇ、キャラとか一新してほとんど別モノとかでもいいので、
 なんかこう、この語り口はすごく気に入りましたので、是非。
 
 
 
 
 
 電波女と青春男:
 夢って、なんだろう。
 夢か・・
 それはたぶん、私はなんのために生きているんだろうと、そう自身に問うことの中から生まれて来る
 ものじゃないかな。
 私の夢は、少なくとも今現在は、私が私を生き、自由に生きられるようになることです。
 そして、私の時間世界を生きることです。
 んー、なんつーか、私にとって、私というのはあまりに不自由で、あまりに多くのものに縛られていて、
 そして、それがそういうものだと、それが生きるということで、それが世界というものなのだ、だから
 それを受け入れて、その中で懸命に生き、そして上手く幸せに生きていくことこそが、人として大切な
 ことで、それが出来るようになることが「大人」になることなのだ、っつー感じになっていて。
 そういう、世界観? 人生観? そういうものに縛られていて、おまけにそれが「縛り」であることにも
 気付いていないっていうか。
 それは、私にとてつも無い欺瞞があるからゆえのもの。
 その欺瞞とは、なにか。
 それは。
 
 自分を、受け入れられない。
 
 そのことを隠すためにこそ、自分を受け入れられない自分の方を肯定して前提とするからこそ、
 自分を否定して、そしてその代わりにその自分を否定する自分こそを受け入れてくれる「厳しい」社会
 なり世界なりに沿って生きようとし、それを人生の目標ないしは目的、つまり、夢、としてしまう。
 色々ありますよねぇ、立派な大人的な、教養とか資産とか心の豊かさ(?)とか。
 あと立派な子育てとか人格的強さとか、よく考えるとよくわからんものも結構w
 その夢を達成するためにこそ、それから逆算したものとして、「こういうものである」というカチコチに
 固まった社会なり世界が、私の目の前に設定的に広がっている。
 言い換えれば、その厳しく自らを束縛し、また律してもくれる外的な世界を創造したのは、他でも
 無い。
 
 自分から逃げた、私自身。
 
 厳しい世界観を持つ者ほど、自分から逃げている。
 自分を許せないからこそ、他人を許せない。
 秒速が、遅い。
 一歩の距離を進むのに、ものすごーく、時間がかかる。
 他の人と比べて、ものすごく、偉大なほどに、遅い。
 ひとり。
 孤独。
 それが怖くて、嫌だから、そんなスピードの遅い自分から逃げ出して、「みんなと同じスピード」を持つ、
 そんな自分を目指し、そういう自分になるために、無理矢理自分を変えようとしてしまう。
 それは、狂おしいほどの努力と頑張り。
 そしてだからこそ、他の人もそうであるべきだとして、それを他人まで敷衍して求めてしまう。
 苦しい。
 カチコチだ。
 それは、弱いとか間違いとかじゃ無く、ただただ自分を追い詰め、自らを死に追いやる、恐ろしい攻撃
 なのだと思う。
 死への衝動的な? タナトスとかそんなだっけ?
 だから。
 私は、そんな自分を否定し殺そうとする自分に、屈しなかったのだと思う。
 狂おしいほどに自分を否定して秒速を上げようとしていた私にとって、足手まといどころか、絶対的な
 誅滅すべきだったそれは。
 生きたい。
 この世で最も尊い、衝動だった。
 その生の衝動と、自らの意志が合致したとき、そこに、生きている夢が顕れるのだと思う。
 その人の、人生としての夢が。
 
 自分を許し、自分を受け止め、受け入れる。
 孤独を、恐れない。
 そうする事で、本当に自分が叶えるべき夢が見分けられるようになる。
 自分の秒速を、生きる。
 うーん。
 そのために、というか、生きるためにこそ、私は生きるスピードを落としているのかなぁ、なんというか、
 最近如何に自分の努力なり頑張りのそのほとんどが、自分の秒速を上げ、自分を変えようとする
 ために使われているかというのを感じるのよねぇ。
 だから、その自己殺害とも言えるその努力なり頑張り、すなわち自分を否定して受け入れを拒否する
 という意味での自分を「変える」ということを、一切放棄していたりする。
 そのまんま。
 自分を、信じてみる。
 それは、必ず自分は変わってくれる、という意味でのそれでは無く、変わろうが変わるまいが、好きに
 やってみてくれたまえ、という意味での、それ、信じるということ。
 そして私は、その信じた私に、ついていく。
 あー、そっか。
 わかった。
 それだ。
 
 変わるべきは、自分を受け入れることの出来無い、自分を信じることの出来無い、私の方だったんだ。
 
 秒速の遅い自分を信じて、その自分についていくということは、つまり、私が今まで信奉し、縋りついて
 もいた、ハイスピードな世界との決別、のみならず、その世界のスピードと対決し、スロースピードの私の
 味方になってその私を守る側につく、ということだ。
 それ、ものすごい変化なんですけど。
 そして、その変化を恐れていたからこそ、私は私を否定していたんだろうね。
 変化を恐れ、変わらなくても済む自分に変えるためにこそ、自分を否定し、そしてその否定を
 続ける自分にしがみついた。
 だから。
 その自分を変えようとする事を、やめる。
 そのための努力を、一切放棄する。
 ただ自分を信じるだけでいい。
 そして、その自分を信じるだけの私は、どうしても、勝手に変わっていく。
 信じている自分についていくためにこそ、頑張れるようになる。
 その頑張った分だけ、たぶん、がっつり変わっている。
 そして。
 そうして私に信じられた私は、ゆっくりと、自分の秒速世界を生きる、その歩みを進めていく。
 なぜって、もう、自分を否定する自分と戦ったり、信じて貰うためにその力を無駄に使わなくて済む
 ようになるのだから。
 逆に、そういう無駄に使われていたエネルギーが膨大だったがゆえの、歩むべき世界の停滞だったの
 かもしれないですよね。
 
 諦める、ってなんだろう。
 秒速の遅い自分を否定して、秒速の早い自分に変える努力をし続ける。
 それをし続けて、やり続けて、それで自分の目的に辿り着き、夢を叶えることなど、あり得ない。
 だから、諦める、諦めた、という。
 自分を受け入れず、自分を信じず、ただ自分に失望していくだけの自己満足。
 そうだねぇ・・私は諦めるためにこそ、むしろ努力し続けていただけなのかもしれませんねぇ・・
 もっと言えば、私は死ぬためにこそ、その死までの生を充実(しているようにみえるように)させるために
 こそ、ずっと頑張り、その努力の才能を高めてきただけなのかも。
 諦める。
 嫌な言葉ね。
 私は・・・・
 諦めたけど、諦めてない。
 私は、自分の秒速を否定して、無理矢理秒速の早い自分を求める事なんて、さっぱり捨てた。
 それを諦めたというのなら、そうだろう。
 それなら私は、そんな私を諦めたと、すっぱり言おう。
 でも、だから。
 私は、秒速の遅い自分を受け入れ、その自分を信じるために力を尽くそう。
 その秒速により再構築されていく世界を生きることを、絶対にやめない。
 そして、その生きる世界の中で、自分が目指す夢を。
 絶対に、諦めない。
 どんなに時間がかかっても、どんなに周り道をしても、構わない。
 どこまでも秒速の遅い自分をこそ信じて、そしてその自分を信じる私が変わっていくことを、恐れない。
 孤独も、孤立も、恥も、外聞も、気にしない。
 そして、夢も。
 夢を叶えるために、私は如何なることも、秒速の遅い私に押しつけるつもりは無い。
 その自分のためになら、夢さえも捨てる。
 逆に言えば、夢を捨てる必要がその自分にあったということで、それはもう実は、それを生きるべき
 夢では無くなっていたということなのだから。
 私は、意地でも是が非でも夢を絶対に「叶えなければならない」という私を、信奉しない。
 もうそんな、カチコチに厳しく固まった自分にしがみつくのは、御免だから。
 だから私は。
 
 『 どいつもこいつも、見る目が無い。
   あれは認知出来無いほどの秒速だが、進んでいける人間だというのに。
 
   いいか? 人は誰も、目前の超能力に目覚めようと歩み寄っている。
   伸ばした指先より数センチ先、日常の延長線上にあるのだ。
   それを捉える事が、超能力の芽生える兆しになる。
   なれる者はほとんどいない。
   誰もが近づくだけだ。
   稀に超能力に辿り着く秒速が優れている者もいるが、目前の数センチが遠すぎて、
   諦める者が圧倒的に多い。
 
   流子は秒速が遅い。
   一般の半分以下だ。
   丸一日かけても誰にも伝わらないくらいの秒速だ。
   しかし
   あいつは諦めていない
   遅咲きの超能力を開花させる可能性は充分にある。 』
 
  『 べた褒めだな。 』
 
  『 正当に評価しただけだ。 』
 
 この作品が提出した、この言葉を、受け入れる。
 んにゃ、なによりも、正当に受け取る。
 つーか、むっちゃ共感した。 感動した!
 この作品の登場人物達の正しさを、びんびんに感じたもんね。
 その辺りの話、丹羽君とエリオの関係とかも、実に丁寧でしっかりしてた。。
 この作品に煌めく、爽快な青と清々しい白の流れが、ああ、なんかこう、私を深く励ましてくれました。
 気持ちよかった!
 興奮した!! (まぁ落ち着け)
 
 
 
 
 
 緋弾のアリア:
 面白くなかったわけでは無いのですけれど、どこがどうでこうでと語りたいほどのものがあるでなし。
 私的にはヤンデレが頂点でしたかね、あとはだだーっと、まぁ、流れのままに観ていたというか、
 まぁいいんじゃないの?、的な。
 んー、これはストーリーやらなにやらの巧拙には、その作品の見所は無い、という感じはしましたか。
 女の子が特別可愛いって感じでも無いし、主人公がどうこうとかいうのもあんまし結局は無かったん
 だよねー、でも視聴打ち切りという気にもならなくて。
 不思議と、観てました。
 なんだろね。
 わかんないや。
 んー。
 色々カッコつけたり勿体ぶったりしてたんですよね、この作品は、まぁわかりやすいというか、中高生的
 なノリというか中二病的というか、でもそれがなんかこー、見守ってあげられるというか、なにかこう、
 一歩暖かみのある距離というかタメというか?、なんかそういうのがあって、うんうん、頑張ってるね、
 頑張って!、って、そういう風に作品の頑張ってカッコつけてる様を応援出来るというか、おばちゃんが
 若いアイドルの初々しさに可愛さを感じる的な、ええと、なに言ってんだ私は。 (わかりません)
 
 だから女の子達のなんだかよくわからない必死振り(あれは未だにあんまし共感出来無いのだけど)と、
 んで、最初はなんか嫌だと思ってた主人公のやらしいかっこつけっぷりも、なんだか許容可能になって
 いたというかむしろ病み付きになってきたというか、うん。
 そういう私を、私は嫌いじゃないよ。 (微笑)
 
 
 
 
 
 というところでしょうか、今回は。
 なんかかなりいい加減でしたけど・・・まぁ、いいですか。 (OK)
 他にお話ししたいことは・・・・・・・無いですね。 (微笑)
 
 という感じで、おしまい。
 たぶん、次回の雑日記回で、まとめ感想は終われると思います。
 あと残っているのは、ゴシックとデドマだけ、のはずですので。
 前期は少なかったなぁ、今期に継続してる作品結構あったのね。
 ・・・。
 つまり、今期終了後が大変だ、ということですね、今期多すぎださすがに orz
 もうなんか、視聴継続決定したとはいえ、ちらほら切ってもいいレベルに飽きてきた作品が早くも
 出てきておりますので・・・とか言いつつなんだかんだ観てしまうのが今夏の紅い瞳クオリティ。 (溜息)
 
 
 んでは、また。
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 
 

 

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