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◆◆◆ -- 2011年10月のお話 -- ◆◆◆

 

-- 111030--                    

 

         

                                 ■■ アニメの秋 4 ■■

     
 
 
 
 
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 
 
 さて今回は前期アニメのまとめ感想の続きをやらせて頂きます。
 あ、そういえば今期開始アニメで、まだラスエグ2とワーキングの感想を書いていなかったと思うのですが。
 ・・・。
 ラスエグ2 なんだかよくわかんないけど、興奮する。 
 ワーキング2 なんだかよくわかんないけど、普通。
 という辺りで、視聴継続決定で御座います。 (ぉぃ)
 
 
 はい。
 ということで、早速始めさせて頂きましょう。
 今回は、「夏目友人帳 参」「神様ドォルズ」「花咲くいろは」の三作品について感想を
 書かせて頂きます。
 
 それでは。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 夏目友人帳 参:
 他人、ってなんだろう。
 なんのためにいるのだろう。
 それとも、意味も無く、いるのだろうか。
 他人を尊重するという事は、どういうことだろう。
 
 この世界に確かに存在するのは、私だけだ。
 他人というのはすべて、その私が観ているイメージだ。
 そう。
 目の前にいるのはただ、二本足で動く肉の塊だけだ。
 それは他人では無く、ただの他者。
 肉の塊であって、それはただ、それだけだ。
 だから、それを尊重するとか配慮するとか人権だとか、そんなものはすべて、私自身がその肉の
 塊に対して勝手に押しつけて、勝手にやったりやらなかったりするだけのもの。
 他人というのは、だから、目の前の他者から、自分こそが創り上げるもの。
 だから。
 他人では無い、他者という者がいてもよい。
 いや、どれを他人にして、どれを他人にしないのかは、自分が決めてよいし、自分こそが決める事だ。
 その、責任がある。
 
 だのに、目の前の肉の塊をすべて他人として、すべて尊重しなければならない、配慮しなければ
 ならないとなったときに、その自分の選択と決定の責任は放棄される。
 ゆえに。
 ほんとうの意味での、他人が、存在しなくなる。
 なぜなら、自分で選んで、自分で決めて、その目の前の肉の塊を、他人とするということをしていない
 のだから。
 他人、すなわち、目の前の肉塊に、自分と「同じ」モノをみて、そこに自分を投影することで、
 そこにもうひとりの「自分」が顕れるもの。
 だから、その他人を、その人を大切にしたいと思うし、そうして肉塊に「人格」を与えるからこそ、
 その肉塊そのものが持っている特質、すなわち自分とは違う他者性を発見し、自分と同一であり
 ながら、自分とは違う分化した存在として、その他人は目の前に、愛しく顕れる。
 尊重したい。
 その人が、私と同じように人格を有し、そして私とは違う形でその人らしさを生きていること。
 自分とは同じ、だけど違う、違うけど、同じ。
 
 人間が、そこにいる。
 
 私達はそうやって、自分達の外に自分を創り出し、そしてその目の前の自分の中にこそ、その肉塊
 の特質、すなわち自分との差異を認めて初めて受け入れることが出来る。
 それが出来無ければ、そもそも目の前の肉塊を尊重したりするなんて、ただのオママゴトにしか過ぎ
 ない。
 無論、共感も出来無い。
 夏目は、目の前の肉塊を、ただ「尊重しなければならない」という言葉ですべて他人として、
 すべてと平等に付き合うことで、かえって他人を見失っていった。
 この作品は、その見失った他人を取り戻す、すなわち自分こそが誰を付き合うべき他人として選び、
 決定するかという、その自己責任を取り戻すための、そういう物語。
 それを自分探しの物語というのなら、そうだろう。
 付き合いたいと思った肉塊に投影した、その自分こそを新たに発見していくのであるのだから、それは
 間違いでは無い。
 逆に、ただ「尊重しなければならない」という何者かに押しつけられた言葉に支配され、そのまま
 すべての他者を他人として見た場合、その他人の中に投影される自分は、「他者はすべて尊重
 しなければならない」という言葉に支配されている、そのたった一種類の自分だけになってしまう。
 すべての他人に、同じ自分を投影してしまうがゆえに、すべての他人が同じに見える。
 だから、差異が無く、自分自身もまた、その自分の数を増やすことが出来無い。
 自己の喪失。
 自己が無いゆえに、実際他人に投影されているものは、「尊重しなければならない」という言葉自身
 だったりする。
 どんなに他人と出会っていっても、そうした自己喪失の状態でなら、一向にそこに他人の姿を認める
 ことは出来ず、ただ自分の中の「尊重しなければならない」という言葉だけが肥大化し、またそれを
 他人に投影し続けることで、その言葉だけの世界になっていく。
 
 その世界からの脱出の過程を、特にこの第三期は淡々と描いている。
 
 うーん。
 二期までは、どっちかっていうと、妖がメインの話が多かったのよねぇ。
 それってつまり、夏目が目の前の妖に自分を投影して、そして次々と自分とは違う他人をそこに
 発見し、それと同時にそれを取り込むことで新しい自分を次々と獲得していく、という感じ。
 三期は、夏目自身がメインであるものが多くて、だから次々と新しい自分を獲得していった夏目が、
 実際どう変わったか、を、それをこそ鮮烈に描き出してる感じがする。
 うん、夏目、すっごい変わった、なんていうかもう無意識に色々なことを自覚し出したというか、自分
 の問題がなんであり、それに対して今まで自分がどうしてきていたのか、ということをね、それをしみじみ
 と思い返し、そしてだからこそそれを乗り越えようとして今まで自分が必死に生きてきたんだ、ということ
 をこそなにより自覚する、その深い自己肯定のエピソードがまさに詰まったシリーズなんだなぁって、
 私は感じました。
 なんていうか、夏目が、夏目という「問題」に向き合う、自分こそがそれを解決する主治医なんだ、
 みたいな意志が感じられてね、わたしゃなんか、ほろっときたよw
 夏目がどんどんと自分に素直になっていく自分を、ちゃんと引き受けてくあたりとか、感動ものよww
 夏目は良い子、とかそんなアホな言葉じゃ無くて、夏目というひとりの人間が必死に自分と向き合って
 生きていく様が、なにより私の中の、その夏目的私を肯定してくれて。
 いい子だなんて、そんな他人事な褒め言葉で夏目を遠ざける気には、さらさらなれないよ。
 夏目は、孤独。
 それが、清々しいほどの、夏目の確かな責任感に繋がっている。
 世界に存在しているのは、自分ひとり。
 その自覚が無意識にでもはっきりとあるからこそ、その世界を変えることが出来るのは、自分だけで、
 そしてその世界が、「今」、そのままであることの責任が自分にあることへの受容に繋がっていく。
 
 だからたぶん、それがもっと順調に進んでいくと、きっと夏目は自分自身の育ってきた環境、そして
 生い立ち、すなわち親や周囲のことについても、冷静に客観的に見直していくことが出来るように
 なってくるのかもしれません。
 自分の世界がこうなってしまったその原因がどこにあったのか、一体なにからどんな影響を受けて
 いたのかを、夏目は真摯に、そして綺麗事な欺瞞で誤魔化すことなく見つめていく、そのときに
 開けていく夏目の新しい人生の輝きを、私は是非見てみたいです。
 ・・・つーか、もう来年初めから第四期なんですけど、さすがにまだ早いんですけどw
 
 
 
 
 神様ドォルズ:
 面白かったといえば面白かったのだけれど、んー。
 あまりにも中途半端というか、続きは原作で、な終わらせ方があまりに残念過ぎる。
 これは確かに原作を読みたくなるし、上手い形で原作に返しているという意味では、全くその通り
 なのだけれど、これはつまり全く逆に、この作品をテレビアニメとして観て、そして楽しんでいた人を
 完全に馬鹿にしているとも言える。
 
 私自身は面白かったから別に腹が立ったとかそういうことは無いのだけれど、でも、面白かった分だけ、
 こういう終わり方は残念過ぎるのは確かですね。
 ちゃんとテレビアニメでやって欲しかったし、ひとつの「終わり」は欲しかったよなぁ、別に綺麗な終わり方
 とかじゃ無くても全然いいんだし、これじゃ完全に原作の体験版みたいな感じだもの。
 
 まぁそれはそれとして、だ。
 なにが面白かったかというとだね、んー、なんというか、やっぱりこの作品に於ける、キャラのキレっぷりが
 ひどく個人的というか、とてもすっきりと自分のために、そして自分の意志を以て行っている、というのが
 よりはっきりと出ていて、すごく気持ち良かったところ。
 常識的というか、そういうなんか世界の論理(?)みたいなもので虚しさとか無力感とかを描いて
 したり顔で収める訳でも無く、かといって熱血青春的に突っ走ったりしてその勢いで乗り切る、
 みたいなことも無く、ただそれぞれのキャラ達が、そうね・・自分の大切なものを守るため、では無く、
 自分が大切なものを守ろうとしているという、その気持ちのためにこそ色々やっていくのが、ただ手抜き
 無く描かれていたりして。
 そう、自分の気持ちに対して真摯で、そして非常に丁寧な寄り添い方をしていてね、あ、これはいいな、
 ってかなり好感を持って私はこの作品を観ていました。
 うーん っていうか
 
 興奮した。 (ぇー)
 
 匡平のぐるぐるに絡まりながらまとまっているその情念が、どんどんと解れて迸っていくあの感じ、
 あれは抑圧されて鬱屈したものが爆発したとかじゃ無く、最初から迸るための道筋を辿り続け、
 それがやっと完了した、みたいな、そういうなんというのかな、待望のカタルシスみたいな?、そういう
 感動があった。
 阿幾もそんな感じで、この作品の凄いところはそうしてキャラ自身が自分の物語の主人公を全力で
 やり切ってるところで、だからなんていうか、匡平と日々乃の仲が、進展、というよりも、ただあまりにも
 本来的な男と女というふたりの人間が互いに互いの必要を認め、そして抱き合っていくという形で
 最後に提出されていった辺りにも、恋愛としてでは無い、なにかこう、必然的な結びつきが感じられて、
 うーん。
 面白い!
 まひるのはっちゃけっぷりも、あれは完全にまひるの内面の情動が発露されたものだし、見ていてとても
 爽快だったし、詩緒の猪突猛進振りも、猪突猛進振りという言葉では表せない彼女の繊細さそのも
 の顕れとして描かれていて、やっぱり心地良い。
 靄子もよかったねぇ、なんかこの作品のキャラって、キャラのテンプレにはそもそも当てはまらないし、
 それ以前にそういう「キャラ」というのを無視して、ひたすら自身の内面をその表に投写し続けている
 から、リアルタイムに更新されていく、ひとりの人間としてのリアルさがあって。
 彼らの内面描写というか、独白とか自分の気持ちを語るところに関しても、全く説明的で無いというか。
 整合性を付けるとか、そういうくだらないものを全部そぎ落として、純粋にキャラ自身の魂に寄り添って、
 自由自在に喋らせている。
 すなわち
 キャラが、ひとり歩きしている。
 
 ここまでずらずらと自分達で自分達のことを語りながら、それがメッセージ的にもならず、或いは
 作者の思い描く世界観のために使われる言葉にもならず、そしてテーマのために喋らされることも
 無い、そんな作品は珍しい。
 ここまで、キャラ達のためでは無い、キャラ達自身が語り創り上げていく世界が描かれていく作品は、
 ほんとうに珍しい。
 ドキドキする。
 興奮する。
 あの圧倒的な匡平の欲動に基づく力強さには、心底惚れ惚れとしてしまいます。
 なんだろう、視聴者がキャラ達に求めるなにかを、全部跳ね返して、毅然としてひとりずつ歩いていって
 くれている、この冷たくも心安らぐ感触は。
 萌えだの作り手側の論理だのを含む、一切のイデオロギーが、無い。
 キャラを縛るものが、何も無い。
 ただ人としての縛りを前にして足掻き生き続ける、そのひとりひとりの人間達の凄まじく個人的な
 物語が、ひたひたと歩き続けていく。
 ああ、いいなぁ、こういうの。
 観ているときよりも、見終わったあとに、しんしんと胸に響いてくるこの感触が、きっとこの作品との出会い
 で私が得たもののすべてなのでしょう。
 ありがとうございました。
 だから、第二期もよろしくお願いしますね。 (微笑)
 
 
 
 
 花咲くいろは:
 ぼんぼり祭がどうしたって? ああん? (ちょww)
 なんつーか、なんといいますか、なんだかなぁ、というか、なによこれ、というか・・
 なにがやりたいのかがわからないとかわかるとかどうでもいいんですよ。
 もっと純粋に問いかけます。
 
 これ、おもしろいか?
 
 私は、おもしろくないと単純に答えました。
 これ、神様ドォルズと比較するとはっきりとわかるのだけれど、この作品って、ただこの作者が持って
 いる、或いは作者がおまえらはこういうものが観たいんだろ?こういう風に社会を捉えて生きていきたい
 んだろ?っていう思い込みを、ただ具現化しただけの作品に、私は見えた。
 すっごい説明的というか、キャラの内面から迸る言葉が完全にゼロで、こういう場面になったら、
 こういう境遇でこういう歳でこういう仕事してたら、こういうことをこういう表情でこういう風に言うよね?、
 という、その作り手のたんなるイメージで形作られた言葉しか無くって。
 論理的に納得することはあったとしても、その言葉を発した人のどうしようもない魅力によっておもわず
 頷いてしまうような、そんな言葉が、欠片も無い。
 論理として、相手を説得納得させようという、ただそういう支配的な、語り手の語りしかそこには無く、
 だからキャラがそのキャラ自身の人間をまるで生きていない、それこそ本当にただの「ドラマ」に
 なってしまっている。
 つまんない。
 個々にネタ的に面白いところはいくらかあることはあったけれど、じゃあ私が真摯に、評価とかそういうの
 抜きにして、魂が揺さぶられるほどに、ひとりの人間として、楽しさを感じたかとか、興奮したか、
 といえば、うん、無い。
 全然、無い。
 
 まぁ私が書くものも往々にしてそうなりやすいからなのだけどもw、なんつーか、教導的過ぎるのよねぇ
 この作品、てかこの作品のキャラの言葉って。
 自分の経験に基づく思考から出てきた言葉って、それってさ、意味あるのは価値あるのは、それは
 自分自身にとってだけの話であって、それは他人にとってはなんの関係無いことでさ。
 それが他者の価値観によってどれだけ「貴重」とされる体験だとしても、体験者自身にとって本当に
 大切なものはそんな貴重さでは無く、その体験によって得られた自分の実感だけだと思う。
 体験経験から得られた、その実感を普遍化することなど、その価値を共有して優劣が生じることなど、
 絶対にあり得ないし、あるというのならそれほどナンセンスなことは無い。
 この作品は、あまりにも人間とはこういうもので社会とはこういうもので、その中で生きていくということは
 こういうことだ、ということを普遍化し、それを他者に押しつけ納得させようとし過ぎている。
 わたしゃ鼻かんで捨てましたけどね、この作品のそういうところは、しゃらくさいっつーか。 (マテ)
 
 なんつーか
 狭すぎる
 
 だから緒花には期待してたんですけどねぇ、そういうくだらない作品の論理をぶち破って、好き放題
 やりたい放題やって、がつんと自分で責任取ってそのまま突っ走っていって欲しかったというか。
 それが結局この作品って、おおざっぱに言えば、主人公の緒花に、やりたい放題やったら痛い目みる
 だけで責任も取らなくちゃいけないから、だからやりたい放題やっちゃ駄目なんだね、わかった、
 私大人になるよっ、て悟らせて終わらせる類の作品で終わってしまっていて。
 ラストの緒花の、これから咲こうとしてるって台詞が、私には全然魅力を感じなかったし、いったいあんた
 何をどこに咲かすの?、っていうか、狭い世界に小さい花を咲かせていくだけというか、ああもう、
 なんだかもう、そういうのをアニメでやるの、もうやめにしません?
 
 なんのための、アニメだっつーのっ! ←だんっと机を叩きながら
 
 自分の気持ちとか欲動のでっかさの責任を取らずに、世界の狭さのせいにしてせせこましく生きていく
 のが希望だというのなら、そんなものは鼻かんで捨てるだけのもの。
 自分のでっかい気持ちや欲動を、まさに目の前の自分の世界に顕現させること、そういう意味での
 自己実現としての世界の変革をこそ描くのに、アニメという表現技法以上に適しているものは無い。
 じぶんのおもいが反映されていく、その「ファンタジック」な世界こそ、実はほんとうの意味でのリアルだし。
 人間って、自分のイメージする通りにしか、ほんとは世界を捉えることは出来無いから、「現実」なんて
 いう既製の誰かに作られたイメージなんてものこそが、ほんとの意味での虚構だったり。
 その現実という名の虚構に囚われて、自分自身の世界から目を背けることこそ、まさに現実逃避に
 他ならない。 
 だから私は、この作品の主人公の緒花には全く力強さを感じないし、魅力も感じない。
 ぼんぼり祭の、なにが美しいことか。
 
 ぶっちゃけ、私はご当地アニメというものには非常に大賛成なのですけれど(ぉ)、それはそのアニメを
 通してその土地を新しく捉え直す、すなわち新しい「イメージ」を以てその土地に生きる人々、そして
 訪れる人達に主体的にその土地を楽しむ希望を与えるために、すごく重要な役割を果たすと思う
 からなのね。
 人それぞれに、その場所に、その土地に、その街に抱くイメージは違って当然という、そういう世界の
 豊かさを実際にアニメを通して承認することって、これってほんとにすごいことよ。
 それなのに、あんな感じでただ当たり前に流布している「現実」的常識的イメージを強化するだけの
 アニメにしかならなかったこのアニメは、あまりにもご当地アニメとしては失敗しすぎている。
 これじゃ新しいイメージなぞ出来ようも無い。
 ああもう、欲求不満、書いててイライラしてきたっ! ←八つ当たり
 つまりはその、私も自分のでっかい欲動をなかなか発露させられなくて、そんで色々溜まっていたのに、
 その私とおんなじよな事のまましかもそれを肯定して作品終わりやがったものですから、、イライラして
 いるということなのですけどね。
 そのイライラは、大事なことだと、私は思うです、はい。 (微笑)
 
 
 
 
 
 という辺りで、今回はこの辺りにて。
 はふぅ、最近あんまり文章書いてる時間が無くて、感想だけ載っけて終わりな淡泊な仕様ですが、
 うーん、そろそろもっとこう、違うことも書いてみたいようなまぁ無理すんなっていうか、まぁなんとか
 なるでしょ。 (投げ マテ)
 でも冗談抜きで、今期のアニメは予想外に粒揃いな作品の揃い踏みですので、その辺りも書けたら
 いいなっていうか結局アニメの話になるんじゃん。 (予定調和)
 
 ということで、また次回お会い致しましょう。
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

-- 111027--                    

 

         

                                 ■■ UN-GO小論 ■■

     
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 『人間は堕落する。聖女も英雄も。それを防ぐことは出来無い。それが救いだ。』
 
 『美しいものを美しいものとして終わらせる。俺達には縁の無い話だ。ずっと堕ちている途中なんでね。』
 
 『 永遠に僕達は孤独を浴びて 祈り続ける少女守るよ その瞳を濡らすのが最大の罪だと
  愛しさで勇気の旗を振れ 』
 
                                                                                 by テレビアニメ「UN-GO」
 
 
 最初のふたつの台詞は、これはこの台詞を言った主人公、結城新十郎が、自分だけがすべてを
 背負い、美しいものを美しいものとして終わらせるために、自らが犠牲になる、という意味では無い。
 むしろ、全く逆だ。
 最初の台詞にある通りに、堕落こそが、救いなのだ。
 美しいものを美しいものとして終わらせず、ひたすら堕ち続けることこそが、真の救済であり、
 そして、聖女でも英雄でも無い、人間そのものの発見である、ということだ。
 聖女も英雄も、堕落することを止めることは出来無い、だから、止めようとしなければ人は誰しも
 人間に還り、そして救済されるが、その堕落を止め、聖女であろうと英雄であろうとし続ける、
 そしてそれが出来無いとなれば、英雄を英雄として、聖女を聖女としたまま、美しく終わらせる事で、
 その救済の道から逸れ、人間を生きることは出来なくなる。
 
 まさに、ハラキリの精神こそ、人を生きることから、救済から遠ざけていく。
 
 聖女でなければ、英雄でなければ生きられない。
 それは、その者が、「聖女」と「英雄」にしがみついているからだ。
 聖女と英雄、そうした「美しいもの」という虚構の檻の中で生きることで、人は誰しも自分が生身の
 人間であることを忘れ、変化していく世界の中で老い、朽ちていくという現実から目を逸らすことが
 出来る。
 それが、幸せだと、それこそ、救済だと。
 皆が、その虚構を信仰し、そしてその虚構を壊すことを許さない。
 すべての人間にその虚構を強いて、そしてその虚構を崩すことを罪であると刷り込む。
 美しいものを美しいものとして終わらせることが、「情け」であると。
 そして、その「情け」のために。
 犠牲を、強いる。
 
 
 その者が、勝手に虚構に嵌り、虚構に囚われたまま死ぬのを選ぶのなら、それはその者の勝手で
 あり、自由であり、そしてその者の責任だ。
 しかし、その虚構を生きることを他者にまで強い、そしてその他者の生きる道を奪うとなるのならば、
 それは大いに問題だ。
 たとえその虚構を壊されることで、自分が困ることになったとしても、それこそ自己責任なはずである
 のに、まるで虚構を壊して他者が自分を生きることが罪であるかのように、いう。
 美しいものを美しいものとして終わらせるのは勝手だが、それがあることで犠牲になっているものが
 いるのなら、それは絶対に許せるものでは無い。
 
 第一話では、かつて英雄だった夫が、今犯罪者として告発されようとしている、その「堕落」が許せず
 にその夫を殺した妻が描かれる。
 第二話は、他人達の虚構のために、自分の生きる道が閉ざされようとしている女性が、その虚構
 から飛び出ようとして、その虚構を守ろうとする者を殺す話。
 このふたつの殺人事件は、見事に対極だ。
 
 第一話の妻は、自分が勝手に抱いた虚構の美のために、夫を殺した。
 夫自身は、たとえ自分は堕落したとしても(堕落とすら思っていなかったかもしれない)、それでも
 生きていく強さを秘めていたかもしれぬのに、妻はただ、夫では無く、英雄を選び、殺した。
 妻にとって、夫は英雄でしか無く、初めから、夫自身は存在していなかった。
 だから妻が殺したのは、夫では無く、英雄であり、英雄は殺されることで、永遠に英雄でいられる。
 
 第二話の女性は、自分の生きる道を歩くために、それを阻み、自分の虚構を押しつけてくる母を、
 殺した。
 そして、彼女達を取り巻く社会を主導する支配層は、その女性の必死の叫びを消し去り、
 その母を殺したのは別人であるとして、虚構を虚構として終わらせようとした。
 しかし、彼女は諦めかけるも、最後に毅然と立ち上がり、自分の道を歩まんとする。
 私は、歌手になりたい、歌手になるという夢は、誰かが叶えてくれるものじゃ無く、私自身が叶える
 んだ!
 たとえ殺人者として囚われようと、たとえ弾圧されようと、音声データが処分され続けようと、彼女が
 歌い続けることを止めることは誰にも出来無い。
 彼女の声が世界の中に響いていくことは、絶対に止められない。
 彼女の声は、かつて国民的アイドルグループの、欠けたるメンバーの声として使われた。
 そのメンバーはテロで死んで、そのことがそのアイドルグループを飾る物語として使われた。
 そのメンバーは、実在しない。
 その虚構の存在のために、彼女は歌うことが出来無い。
 彼女が歌えば、虚構は崩れてしまう。
 だから、その虚構が壊れることで悲しむ人のために、あなたは歌をうたうことを諦めねばならない?
 
 
 この作品は、それを、真っ向否定して、切って捨てる。
 
 
 生きよ、堕ちよ。
 救わねばならぬ。
 その虚構の、死に閉じ込められた美から、人を救い出さねばならぬ。
 しかし、人は弱い。
 弱いからこそ、虚構に縋る。
 それもまた、事実。
 主人公、結城新十郎自体も、真実を暴き、虚構を壊すことで苦しむ人達に対する優しさに
 囚われている。
 
 − 孤独 −
 
 おまえは、なにをしたいんだ?
 その自分の気持ちに素直になれ。
 自分の気持ちの、責任を取れ。
 無責任なことを続けるのは、もうやめろ。
 無責任であることを許し合う、それが思い遣りだの気遣いだのという、そんな国にしたいのか?
 孤独。
 自らの気持ちの責任を取る事が出来ないからこそ、孤独に耐えられない。
 孤独に耐えられないからこそ、虚構の美の物語に縋りつく。
 その物語を他者と共有することで、孤独から逃れ続けていく。
 ならば。
 人が孤独に耐えられず、堕ち切ることが出来無いのならば。
 その虚構の物語を、縋りつくべきものを、ただ自分の中だけに求めよ。
 希望。
 堕ちよ、生きよ。
 生きているからこそ、堕ちてもなお生きていられる自分自身にこそ、希望を見出すことが出来る。
 自分を、信じよ。
 今を生きよ。
 
 美しい結末など、誰もほんとうは望んではいない。
 欲しいものはただ、夢見る少女、夢見る少年。
 その内なる子供を守り育てることの出来る、そんな自分が欲しい。
 孤独。
 三番目の台詞は、第二話の女性がイノチガケで歌った、他ならない自分の生きる意志。
 孤独の雨に濡れながらも、諦めの涙で瞳を濡らすことは絶対に許さない。
 孤独。
 それを受け入れ、ひとりでも戦い、自分を生きていくこと。
 それを指して、人は魂の成長と呼ぶ。
 聖女から堕ちようと、英雄から堕ちようと。
 天皇が人間宣言しようと、処女が男を知ろうと、兵士が捕虜になろうと、武士が二君に仕えようと、
 四十七士が腹を切らずに生き延びようと、皆それぞれその「今」を生き、晴れ晴れと生きていく。
 その生を、美しいものを美しいまま終わらせるために、消し去ることなど、してはならない。
 いや
 言うまでもない
 それを消し去ることなど、出来はしないのだ。
 人は堕落する。
 それを止めることは出来無い。
 なぜなら。
 
 人には、生きる力があるのだから。
 
 その自らの生きる力を信じることこそ、孤独を受け入れその雨に濡れながらも生きていくことに繋がる。
 生きる力は、夥しいほどに渦巻いている。
 私は、聖女が好きか?
 私は、英雄が好きか?
 いいえ
 
 私は、人間を愛しています。
 
 英雄である夫を、夫のことを、愛することの出来無かった妻。
 きっとその妻も、そうして聖女的ななにかを誰か達に求められ続けていたのだろう。
 自らの内側にも、そうして英雄的聖女的物語が雁字搦めに広がっている。
 その鎖を断つことは、難しい。
 けれど。
 自分がそうであるのだという自覚を持ったときに、その鎖を断つためにこそ。
 生きる力と繋がるための、その準備が自分の中に出来てくる。
 
 
 
 私的には、このアニメが今この時代に放送されることを、素晴らしき僥倖だとおもう。
 個人主義?、自分のことばかり? 人との繋がりが薄れてる?
 上等じゃないの。
 もっとやれ。
 そうした孤独の蔓延こそ、真実、私達が私達自身へと還る、すなわち人間の発見を見出すためには、
 最高の、そして至るべくして至った最良の境地なのだと思う。
 みんなのためにとか、頑張れニッ○ンとか、そうした虚構を打ち破れ。
 孤独は悪いことでは無い。
 ただ、恐ろしく感じるだけだ。
 その恐ろしさと向き合えないのはただ、内なる子供が育っていないからだ。
 未熟だからこそ、ひとりではいられないだけなのだ。
 今、人との繋がりが、常軌を逸して必要だと叫ばれている。
 ひとりではいられない子供達、学生達、社会人達。
 ひとりでいることが悪とみなされる教育が続いた結果が、それだろう。
 しかし、ひとりでいることが出来無い、孤独を背負うことの出来無い者にとっては、本当は他人など
 存在していない。
 あるのはただ、自分とひとつになってくれる、そんな道具としての他者達だけだ。
 その虚構の合一感のためにこそ、みんなのためにという狂信が生まれ、そしてその信仰の名の元に、
 多くの犠牲が強いられていく。
 そして。
 
 その虚構の美による抑圧が、かつてないほどに高まっている今の時代だからこそ
 
 それをはね除ける、生きる力の渦巻きもまた、かつてないほどに膨大に高まっているのだ。
 
 
 人は変わっていく。
 変わっていくことを止めることは出来無い。
 それを止めようとしたときに、人は生を失う。
 生きよ、堕ちよ。
 生きたいのならば、堕ちよ。
 自らを縛っているものから、堕ちよ。
 堕ちることを肯定するということは、それまでの自分の世界、価値観を相対化するということだ。
 英雄である事が出来なくなったら、生きられない、というのは、紛れも無く、英雄であることが絶対で
 あるという、その価値観に縛られ、その中でしか生きられない単一の自分しかいないということだ。
 アイドルグループが解散し、その庇護者であり生活費をも出してくれていた社長も死に、これから
 どうやって生きていけばいいのかわからない、といったその女の子達の手には、ブランドモノのバッグが
 握られている。
 アイドルでなければ、今の生活が維持出来なければ、死んだも同然なのだろうか?
 そうして死んだも同然になってしまった自分を哀れんでも。
 なにも、変わらない。
 世界第二位の経済大国だったこの国が、どんどんとその地位を下げていくのは、それは悪いことなの
 だろうか?
 一番じゃなきゃ駄目ですか?
 敗けたら、死ななきゃいけないんですか?
 勝利を目指さなければ、生きてはいけないのですか?
 
 − あなたがほんとうに求めるものは、なに? −
 
 ひとつだけ絶対に答えなければいけない、その問い。
 その問いに答えたら、その答えの責任を取らねばならない。
 どうなろうと、その求めるもののために生きねばならない。
 その覚悟が持てないからこそ、答えたくないからこそ、人は虚構に走り、それを他人と共有する。
 その中での他人との競合に縋る。
 そして。
 
 敗けたのに、リベンジもせずに、のうのうと、そして堂々と自分の道を生きている、その男を。
 敗戦探偵と、人は揶揄を込めて、そう呼ぶ。
 
 うたおう
 うたいましょう
 私達の
 自分自身の 歌を
 
 
 
 
 またUN-GOで書きたいことが出てきたら、似たようなことを書かせて頂きます。
 
 あーすっきりした!
 書こうかどうか迷ってたけど、書いてよかったよかった♪w
 
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 111020--                    

 

         

                                 ■■ アニメの秋 3 ■■

     
 
 
 
 
 
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 
 前置きは無しで、早速。
 今期開始アニメの未視聴作品だった第一話について、ちらほら。
 
 
 
 ベントー: とにかく戦え!
 弁当売り場で半額弁当を取り合って大バトルを展開するという、ただそれだけの話を、ただそれだけ
 やったら、べつにこれ弁当じゃ無くてもいいよね?、という結論の出る、いたって真っ当な作品。
 無口黒タイツ先輩とか、拳フェチ(なの?)なまどかさんな人とか、そのまどかさんに百合片思いしてる
 っぽい委員長とか、まぁ色々あるのだけれど、とにかく弁当売り場が戦場だという事だけはわかったから、
 ほんと弁当全然関係無いんだけど、あとはそのままなにも考えずに楽しめればそれでいいと思うし、
 私は楽しかったです、あとまどかの人が新境地。 (微笑)
 
 まげ: 略して、まげ。
 OPの時点では全く観る気が起きなかったのだけれど、本編は見た目にそぐわず、そこそこ面白かった。
 うーん、敵にも敵の事情があるみたいな、そうやって敵の人間性も考えていくみたいな、そういうのが
 無くて、ただ主人公の少年が自分の衝動や気持ちに素直になって、そのまま生き自分のやるべき事を
 果たしていく、という意味に於いて、それを実現することを敵の人間性のせいにして諦めたりしない
 辺り、主人公自身の純粋な成長物語として、これは新鮮な感じ。そだよねー、敵には敵の事情が
 あるし心も感情もあるかもだけど、そのために自分の事情や感情を押し殺したり我慢したりするのは、
 たんなる自分からの逃避でもある訳だし、うーん、今の私にとっては、この作品は普通に面白かった
 です。まぁ今後の描き方次第では途中で切ることもありますけれど。
 
 未来日記: 最凶ヤンデレストーカー。
 とにかく初っぱなからのヤンデレストーカーぶりで登場するあの子に度肝を抜かれました。
 あまりにナチュラル過ぎてほんとに普通に笑えなくて、本気で恐怖を感じましたw
 それぞれが未来予知能力を与えられ、相手の携帯=魂を破壊しあって生き残ったものが勝ち、
 みたいなゲームなんだけど、ストーカー娘の能力が主人公の子の未来が10分刻みで全部わかる
 みたいな、もうそれゲーム関係無いじゃんwwwあんた普通にストーカーやってればいいじゃんww
 要はデスノートみたいな感じの駆け引きバトルみたいだし、結構個性的でもあってかなり面白いんだけ
 ど、あまりな正々堂々なあのストーカーってかヤンデレっぷりの威力が凄すぎて、全部そっちに持って
 いかれてるwでもこれ、どんどん駆け引きが込み入ってくると、このストーカー要素も戦略的に絡まって
 くるだろうし(一応共闘関係だし)その辺りも含めて、結構期待出来そうです。
 
 アンゴ: 生きよ、堕ちよ。
 『人間は堕落する。聖女も英雄も。それを防ぐことは出来無い。それが救いだ。』
 『美しいものを美しいものとして終わらせる。俺達には縁の無い話だ。ずっと堕ちている途中なんでね。』
 主人公のこのふたつの台詞がこの作品のスタンスを見事に表していました。
 押しつけられた、或いは自分自身で背負った理想的人間像を被り生き続けているうちは、人間は
 生きているとは言えないし、そこに居続けることで感じ続けている抑圧を解放しない限り、人は自分の
 人生を生きることは出来無いし、また人は常にその抑圧から逃れようとしている。
 つまり、聖女でも英雄でも、そういうものから自らこそが降りる、すなわち堕落することが、その人間の
 始まりであり、そしてそれが今までそういったものに囚われ苦しめられ、そして生という膨大な変化ある
 世界から逃げ続けていたその人を、救い出すということ。
 聖女や英雄からの堕落こそ、その人を真に救済する。
 美しいものを美しいものとして終わらせるということは、すなわち醜くなっても生きるということの拒否、
 すなわち虚構の美に囚われて、生身の生という美から逃げ続けることに他ならない。
 人間は、なにもしなくても堕落する、いや、なにもしなければ、堕落してくれる。
 もう聖女なんて英雄なんてやるのは嫌だ、そうしたどんどん自然に膨らんでいく自分の気持ちに従い、
 苛酷で、けれど壮大な人生を歩き始めることが出来る、そういった生きる力としての堕落は誰にも
 平等に備わっている。
 綺麗な終わりなんぞ、ほんとは誰も、望んじゃいないのさ。
 敗戦後、それまで踏ん反り返っていた将軍達が切腹もせずに縄に引かれていく姿を見たときに、
 天皇が人間宣言したときに、そこに人間の解放を見た、実に坂口安吾の作品らしさが漂う、見事な
 出来映えでした。 ブラボー!(古)
 そしてあのお嬢様が、これからどうやって生身の生を力強く生きていくのか、楽しみで御座いますw
 
 ギルクラ: どうしよう。
 空気を読んだつもりが、そもそも周囲の空気は、その空気ばかり読んで自分を出せていないことの
 そいつへの哀れみと、周囲の空気のせいにして自分自身と向き合わないそいつへの蔑みで出来て
 いて、その事には全く気付かずに、ひたすら、お前らが空気読めっていうから読んでやってるのに、
 なんなんだよ、という態度にしがみついて結局どんどん自分を見失っていく主人公っぷりが、まず
 どかんと来て。あれは形容しがたい感じよね、どうしようもないっつーか、で、この作品はその主人公
 が自分と向き合っていくための成長を重ねていく、という感じの物語になるのか、そういうの全部
 ぶっちぎってまた誰かの(空気の)ためにとかって方向に行ってしまうのか、微妙なところすぎる感じなの
 よね。
 それに目の前で傷ついた女の子を助けられずに、こんな俺でいいのかって、ああもう、それ自分の
 感覚じゃ無くて「弱い男は駄目」という他者の価値観という名の空気に支配されて出てきた言葉じゃん。
 しかも自分でも気付いていないくらいに、その支配が根強いし。
 うーん、このあまりに他者の視線によってでしか自己を規定できない主人公の有り様は、かなり不穏
 な感じだし、ある意味全く先が読めないのだけれど、それはわくわくするというより、なんだかとっても
 不安な感じ。
 あそこまで自己責任放棄しちゃってる子が、それをさらに悪化させて誰かのためにとか行っちゃうのを、
 そっか、私はアニメでもう観たくないんだなぁきっと。 なんだかとっても悲しい気持ちになってくるんだよ。
 私的には、どう見たってあの子、周りの人間の価値観によって無理矢理他人の戦いに引き摺り込ま
 れてるだけのことを、アイデンティティーだって勘違いしてあのまま行っちゃいそうなんだもの。
 作品世界の描き方とかは、すごく私の感性にフィットして、その瑞々しさ(青とか赤)にはすごく心に
 溶け入るものがあってぞくぞくするんだけどね、だからこそ・・・なんか感想書いてあの子救いたくなって
 きて、だから困るんだあんたは。 (どうしよう)
 
 
 
 
 以下、今期視聴リスト。 決定版。
 
 
 月: ・(銀魂’) ・君僕 ・イカ娘2 ・未来日記
 火: ・(ぬら孫2) ・たまゆら ・ちはやふる
 水: 
 木: ・ワーキング2 ・はがない ・アンゴ ・ギルクラ
 金: ・ラスエグ2
 土: ・シーキューブ
 日: ・フェイトゼロ ・ベントー ・まげ
 
                              :全16作品 ()付きは前期以前よりの継続作
 
 
 暫定版から、まじこいと戦パラ、それと前期継続作のピンドラを切りました。
 ワーキング2だけまだ視聴しておりませんけれど、まぁ一期が一期だっただけにたぶん観ると思います
 ので視聴決定ということに。
 
 で、今期はやはりイカ娘2を別格として、はがない・ちはやふるをメインにして私は観ていくと思います。
 それにアンゴもかなり色々といけそうですし、シーキューブなんかも拷問器具だとか私の暗い心を
 躍らせる要素も出てきて面白そうですし(ぉぃw)、フェイトゼロもライダー・キャスター両組に期待大。
 
 それと、たまゆらも楽しみ方がわかってきましたので、これからですし、未来日記も・・・ね?(なに)
 あとあまり言及しておりませんでしたけれども、ぬら孫2も万歳です。
 私はケーブルで視聴しているので、地上波放送よりも遅れての視聴ですけれど羽衣狐様萌え。(ぉ)
 反則です、色々反則です。
 
 
 という感じで、色々ある、ということしか言ってない私ですけれど、今期はこれで始めさせて頂きます。
 
 んじゃ、次は前期アニメのまとめ感想の続きをば。
 今回は、「ロウきゅーぶ!」「神様のメモ帳」「魔乳秘剣帖」の三作品についてお話させて
 頂きます。
 
 それでは。
 
 
 
 
 ◆
 
 
 ロウきゅーぶ!:
 なぜ、スポーツをするのか。
 私は、自分の選んだその種目をしたいのか、それとも。
 勝負がしたいのか。
 私の場合、私が選んだスポーツはサッカーだったけれど、もし勝負というものそのものがしたいのなら、
 別にそれはサッカーで無くてもいい。
 それは、この作品が言っているように、自分がなにを選んで、なにをしたいのかを考えたとき、
 それははっきりと見えてくる。
 私は、バスケがしたい!
 この作品のキャラは、バスケが好きで、バスケがしたくて、ボールを回して、ドリブルして、タンタンと軽快
 な音を立てて、そしてシュッと綺麗にパスが通り、ぱさっと静かな音を立てて得点が入る。
 その一瞬一瞬の楽しさが胸を弾ませ心をときめかせ、そして魂を大きく揺さぶる。
 その楽しさをどれだけ追求して、どこまでも貪欲に貪るからこそ、バスケは、スポーツはこんなにも楽しい。
 そして、チームプレイの場合、そこに他人が入ってくる。
 パスは、出し手だけで無く、受け手が必要。
 このタイミングで走り出して、その位置取りでパスを受けてくれる、だから私はあんたのそのプレイが
 好きで、あんたにパスを出すことが面白くて仕方ないのよ。
 シュートを打って、外れたとき、高く高く飛んで、リバウンドを制してくれる、君のそのプレイがあるからこそ
 、私は自分のシュートを自信を持って打てる。
 それは、味方への信頼であると同時に、なによりも自分自身のプレイに対する自信と、底知れない
 快楽をもたらしてくれるもの。
 
 だから
 このチームで、このメンバーでバスケがしたい、という言葉に
 なによりも私は、共鳴した
 
 勿論、互いの人間関係とか、下手だった子の努力を認めるとか、そういう人間性への思い入れが
 あるのもわかるし、そういうお友達関係を、バスケのコートの上でも持ち込めたら、それはすっごく
 楽しいし、私も気の合う心許せる友人達とサッカーが出来たら、それだけでなんだかとってもエキサイ
 ティング。
 そして、そうした人間関係そのものが、互いのプレイ自身への信頼へと結びついたとき、そこには
 無上の喜びが生まれる。
 だから
 
 勝ちたい!
 バスケで
 勝ちたい! とおもう心が激しく、渇望として顕れてくる。
 
 そういうの全部抜きにした、ただの勝利史上主義や、ただ自分のプレイの「評価」だけを上げるため
 の技術の向上を目指すスポ根なぞ、あまりにくだらない。
 正直、この作品の登場によって、旧来のそういった勝利上主義的スポ根的アニメは、もうその価値を
 失ったとすら思える。
 観ていて、こんなに興奮したスポーツ系アニメは、他に無い。
 なぜ、勝ちたいのか。
 それを徹底的に追求したのが、実はこの作品の真髄なのだと私は思った。
 勝ちたいから、勝つんだ?
 それなら、博打でもなんでもすればいい。
 ほんとうにそれは単純な問いで、あまりに正確な答えだった。
 要するに、勝ちたいから勝つ、勝利を目指すというのは、他ならない、「他者」より上に立ちたいという、
 そういう他者ありきでの自己認証と自己の評価付けなのだ。
 相手より上手くなりたい? 誰よりも強くなりたい? 
 それは、自分がバスケと出会って得た、一番、そして本当に自分にとって大切なものを見失っている
 ことを、なによりも示している。
 なんのために、誰のためにバスケをしてるの?
 自分のためなんじゃないの?
 勝利自体を目的とするのは、それは相手よりも上に立ちたいという、他者が無ければ成り立たない、
 そして他者無くしては自分のバスケに求めているものを得られない、そういう自己喪失そのもの。
 バスケは、ただ訳も無く、楽しい。
 その楽しさを享受するのに、勝利は「必須」なのだろうか?
 もし必須なのならば、それは、勝てなければ、バスケを楽しむことが出来無いということに他ならない。
 それは言ってみれば、自分のバスケを、その楽しみを他者に依存しているということ。
 逆にいえば、勝っても負けても楽しめる、大好きなバスケが出来て、大好きなみんながいて、
 だから楽しい、そう本当に思えるからこそ、勝利自体をも純粋に楽しむことも出来る。
 
 それこそ
 スポーツによってもたらされる、自立、ということなのだとおもう。
 
 私は、それがスポーツというものに求められている、最大のものなのだと思う。
 勝てなければ意味が無い、上手くならなければならない。
 それは、他者に勝たなければ意味が無い、他者より上手くならなければならないという事であり、
 それが根底にある、勝ちたい、上手くなりたいという気持ちは、スポーツを、バスケを使って全体を
 統一する、すなわち全体主義的な教育の結果なのだと思う。
 チームのために勝利を、チームのために上達を。
 なんのためにスポーツするの?
 それこそ、「あなたが」大好きなバスケを捨てて、誰かの大好きな「チームワーク」のためにバスケを
 やってるだけじゃない?
 なんのためにスポーツをするのか、その問いにこの作品はあっさりと当たり前のことを答える。
 自分のバスケが好きという、その気持ちのために。
 それを満たす、ただそれだけのために。
 智花の、バスケ。
 真帆の、バスケ。
 紗季の、バスケ。
 愛莉の、バスケ。
 ひなたの、バスケ。
 みんな違うバスケを持っているし、違っていいんだ。
 だからこそ、その違うバスケが集まり、そしてひとつのチームとしてその個々のバスケが出来るようになる、
 それが、それこそがチームワークということ。
 自分のバスケが出来るチーム、それが良いチームの証。
 自分の好きなプレイを活かせるからこそ、もっともっとそれを楽しみたくて、自然に上手くなりたいと
 思える。
 だから、足を引っ張るから頑張らなくちゃとかなんて、ほんとは全然思わなくていい。
 だって、みんなより下手でも、それがその子のバスケなんだから。
 下手とか上手いとか、そんなのそれこそ他者との比較による、他者の価値判断にほかならない。
 その子がその子の出来ることを目一杯楽しんでやって、そして自然に上達していけば、それでいい。
 それが出来たら・・・・その子にとって・・・
 
 バスケは、一生の宝になるよ。
 そのバスケが出来るチームの仲間が、一生の親友になるよ。
 
 わたしゃ・・・泣けて、泣けて・・ ←最近泣き入るのが唐突になってきた人w
 バスケの楽しみを教えてあげるのが指導者の役目って、よくぞいったよロリの人!(マテw)
 もしスポーツで人生を学んできました、という言葉に認証を与えるとしたら、私はただこの一点に
 尽きます。
 自分の、「好き」という気持ちのためにこそ、チームなり、社会なり、そして世界がある。
 だからこそ、本当の意味での、他者への尊重の気持ちがあり得る。
 他者もまた他者自身の「好き」という気持ちのために生きているのですからね、自分が自分の「好き」
 とそのために生きるという事を認めていれば、他者のそれも認めることが出来る。
 逆に、チームのために、社会のために、世界のために、そして他者のために自分の「好き」を抑えて
 生きるという風にしてしまうと、同時にそういう風にして生きることを、他者にも求めてしまう。
 私だってチームのために自分を抑えてやってんだから、あんたもそうするのが当然でしょ?
 それは、他者の尊重を損ない、そしてなによりそうした自分の生き方を、「チームのために」という言葉
 を利用して他者に押しつける、まさに自己中そのもの。
 自分のために生きていい、プレイしていいということ、それこそが本当の意味での他者の尊重と、
 そして真のチームワークを導き出すのだと、そして。
 なにより、自分の「好き」という気持ちの責任を取ることが出来る、そんな自立した人間を育てるために、
 もっとも大切なことなのだと、私はこの作品を観て改めて感じました。
 うん、大変良い作品をありがとでした♪
 
 
 
 
 神様のメモ帳:
 私には、第一話が最高点でした。
 うーん・・正直いって、ひどすぎる、というところです。
 私は原作を知らないからそれについてはどうも言わないですけれど、少なくとも私が観たこのアニメは
 色々と欠けているところがありました。
 うーん・・
 なんだろう、決定的になにが無いかといえば、こう、作品の語り手がこういうことをしたい、言いたい、
 描きたいというものが、主体性を以て顕れてきていないところなのよね。
 ぶっちゃけ、私なんかはキャラ萌え視点で入れば、そこからストーリー的なものはどうにでもなれるの
 だし、そういった部分の作りに関してはあまり拘りが無い。
 でもだから同時に・・この作品の一番私的にはマズイのは、キャラにこそ最も魅力が無いところ。
 うーん・・・・
 主人公の鳴海は、これ、熱血というより色んなモノを色んなモノのせいにして、ただキレて回って
 それでどうにもならなかった事に虚しさ覚えたりしてるだけで、普通に主体性ゼロというか、行動原理
 はだから逆に非常にわかりやすい。
 ぶっちゃけ、鳴海の言ってる論理や結論には毛ほども共感しないし、自分で感じて自分で答え出して
 る風に言ってるけど、私にはめっちゃ色々なモノに支配されてその支配内容を諳んじてるようにしか
 みえないっていうか・・・全然自由になれてない以前に、自分のこと自覚してないっつーか・・
 それは自分の無力さとか力の限界とか、そういうのをキレて無茶してその結果を以て知りそれを自覚
 する、という意味じゃ無くて、自分が如何にしてそういうものも含めて支配されてそれからまだ全く
 抜け出せていないか、という意味でね。
 なのに、それでよしとしてるというか、それが世界なんだみたいな、ふっざけんな、またそうやって世界の
 せいにして。
 
 なんだろう
 この作品を観てて感じる、この異様な不快感は。
 
 ある意味での、完璧主義者なんですよね、鳴海って。
 完璧に出来無いなら意味がない、俺はどうせ完璧には出来無いですよ、だからせめて俺に今できる
 ことだけやればいいだろ、いいんだそれが俺の限界なんだ、みたいな。
 鳴海から感じるのは、謙虚さでは無く、卑屈さだ。
 自分の限界を知ってそれを肯定し、そしてその狭くて小さい世界を受け入れていくのか、とおもいきや、
 もうめっちゃくちゃ鳴海はそれに対して陰湿で鬱屈した視線を漂わせている。
 おい、あんた全然肯定出来てねーじゃんか。
 自分の気持ちに素直になってねーじゃん。
 滅茶苦茶自分を抑圧してるのに、その抑圧こそに加担して、我慢して、それでもまだそれが世界
 なんだとか、あーもう、だったらそんな顔すんな!
 言いたいことがあるなら、はっきり自分の言葉で言いなさいよ!
 鳴海にしろ、アリスにしろ、四代目にしろ、無論他のキャラにしても、ほぼ全員、自分の不満を世界
 だかのせいにして抑圧して、その鬱屈したおもいを真っ正面に向かって吐き出さずに、なんか正義っぽい
 偽悪っぽいものを振り翳して自己満足に耽っているような、そういう卑屈さと、そして卑怯さを私は
 感じました。
 こんなのは嫌だと言えないから、怖いから、言わない。
 言わないで、他の誰かに嫌だと思ってることを察しさせようとする。
 鳴海に至っては、自分が自分を抑圧して我慢してることの絶対的不満を紛らわすために、
 他人にまでその抑圧と我慢を強いて、そしてそれから抜け出そうとする奴を許さずぶん殴ったり・・
 四代目もそんな感じよね。
 アリスの口上も、なんというかこう・・・イライラする(ぉーぃ)
 
 小さい。
 世界が
 小さい!
 
 自分と、自分の世界を他者に敷衍し上書きした、とても狭くて、そして単一の世界しか無い。
 全員が、世界観を共有して、そしてその狭くて小さい世界の中で、それよりも遙かに巨大で膨大な
 自己を抑圧し、そしてそれを続けることこそを生きるという事なのだと言う。
 そして
 その中で死んでしまった死者の言葉を、その愚かな世界に捧げるための情報として還元する。
 ああ
 そういうことか
 この作品に、私が激しく感じる嫌悪感の正体。
 それは、この作品が、徹底的に「個」の存在を認めず、「個の世界」の存在を許さず、たったひとつの
 人間の描く世界の中に、すべてを閉じ込め、支配することを肯定しようとしている、そのことに対する、
 なによりもこの作品の作り手自身の抑圧された不満感にある。
 他者の世界が存在しない。
 他者の「個」に対する尊重が無い。
 邪推ですけれど、もしかしたらこの作品の作り手は、それを感じているからこそ主体的にこの作品を
 作ることが出来無かったのかもしれない。
 ・・・・まぁ、そういう私の感想を作り手に敷衍して押しつけてる私がここにいる訳ですがw
 
 うーん・・
 まぁね、そういったことを、たとえばニート探偵のアリス自身こそが自覚し解き明かしていく、という風に
 なれば非常に面白かったんですけどね、そういう単一で小さくて自分と自分の世界しか無い世界
 に支配されながらも、その中からなんとか抜け出して新しい世界を見出そうという、そういう意味での
 「語り」をアリスに求めていたんですよね。
 べ、べつに私だっていつまでも支配されてるわけじゃないんだからねっ、的なまさにツンデレ探偵をねw
 でも、結局アリスはデレの無いツンで終わってるっていうか・・・・ぁ、いま思ったらそれもいいか
 あるいは、ツンのままでいるためにこそデレを発動してるというか、それで鳴海の世界を補強して
 しまってるというか・・・・あー・・昔私がツンデレ嫌いだったのは、そういう意味でだったのだろうね。
 単一な世界しか持っていない人間のそれを、一見否定してみつつ実はそれを肯定してました、
 みたいな、プレイヤー(?)にとって都合の良いだけのツンデレキャラみたいな・・・あーそれほんと嫌な。
 私は今はツンデレ好きですけど、それはあくまでツンデレキャラにちゃんと主体性があり、自分がツン
 という抑圧に支配されながらも、デレという自分の素直な気持ちを生きたい、絶対に生きるんだと、
 そのツンデレキャラ自体が壮絶に足掻き回る、そのひとりの人間としての「孤独」と「成長」がわかる、
 そういう意味で、なのです。
 
 だから・・そうですねぇ、最後のエピソードの兄妹の話も・・・
 ヤクに溺れようと逃げようと、それは兄貴の勝手であり自由であり、そして兄貴が選択しその責任を
 負うものであってさ、それは妹とはなんもかんけーないじゃん。
 ヤクで体ぼろぼろになって、警察にとっつかまって、それなりの施設にでも行ってればよい話。
 それが、兄貴にとっては、「兄貴の世界」にとっては必要なことだったんだから、それが世間的に、妹的に
 見て間違ってるように見えても、それこそ世間的妹的世界観による兄貴の支配に他ならない。
 兄貴には、ヤクに手を出してまでなんとか解決しようとしていた、その根本の「問題」があったわけで、
 それ無視して引き戻したところで、ヤク中治したところで、べつのなにかにいくだけよ。
 あのエピソードの中で、ただのひとりもその兄貴に寄り添った人間がいないなんて、恐ろしいお話。
 妹がどんなに心配してようが、その心配を元手にして妹がぶっ飛んで犯罪に巻き込まれて、挙げ句
 投身自殺未遂しようと、それは妹自身の責任であり、少なくともそれは兄貴とは関係の無い話。
 ・・ま、まぁ犯罪に巻き込んだこと自体については、一応兄貴にも責任はあるとはおもうけど、正直w
 が、むしろ、妹が兄を心配するという想いにしがみつき、そこにこそ依存し、ひとりでは生きていけないと
 いう妹自身の自立心の無さこそが大問題なわけで、その妹のために兄貴を更正させようとか、怒りに
 任せて兄貴ぶん殴るとか、どんだけひどいのかと。
 それ、むしろ妹の方がいつまで経っても成長出来無いし、救われない気がする。
 妹を救うことが出来るのは、兄貴では無く、妹自身。
 兄貴を救うことが出来るのも、妹では無く、兄貴自身。
 妹は、兄貴を救うということにしがみつく事で、自分自身が兄貴への依存に支配されていることを、
 そしてなによりそうして依存してまで解決しようとしていた、自分自身の重大な問題から目を逸らし
 続けていた。
 その、妹にこそ、寄り添う人もまた、誰ひとり、いなかった。
 薬物依存を殴り、兄貴への依存を抱き締める。
 この作品がやってることは、すべてこの作品が持っている価値観、世界観を元にして、兄貴と妹の
 それぞれの「世界」を完全に無視して、勝手に支配し、善悪を付けて片付けていただけ。
 兄貴が薬物依存する理由があるように、妹もまた兄貴依存に走る理由があったのに、それをすべて
 無視して、ただ「ヤクはいけない」「妹に心配かけるな」、「妹は良い子だから」「兄想いな妹万歳」
 (ぉぃw)という価値判断によって裁きを下している、これを指して自己中と言わずしてなんといおうか。
 
 ああ
 つまり
 この作品は、キャラに対する愛が、全く無いんだ。
 
 他者の世界によって、他者の価値判断によって与えられる救いなど存在しない。
 自分を救済出来るのは、自分の世界を唯一知る、自分だけ。
 だから、他者の世界によって完全支配されている、このキャラ達に最も必要だったのは、坂口安吾
 いうところの「堕落」だったと思います。
 この作品に於けるニートは、一見堕落しているようで、実は全くしていないままに、己を支配する
 世界の強化に手を貸してしまっている。
 自分の世界との対面無くして、堕落はあり得ない。
 自分を支配する他者の世界「からの」堕落こそ、己の救済。
 自分を支配する他者の世界「の中での」堕落こそ、己の呪縛。
 この作品のニートの人達は、ただ他者の世界に対するアンチにしか過ぎない。
 あるのはただ、他者の世界の中に於ける、その中での価値判断上の劣等感。
 自分を支配し、その中で自分達を蔑み貶める世界への憎しみと、そして。
 その世界の中での、自分達の認証を求める、その自分を支配する世界への、愛。
 自分の世界への、愛は、憎しみは、無い。
 失われた想いを、夢で見るために甦らせるとか、失われたもののためにとか・・・
 
 ふっざけんな!
 現実に、今、目の前に生きてる自分の世界に甦らせて顕現させる事から
 自分から、今から、逃げんな!
 
 ・・・。
 という感じで、毒吐きにここまで言葉を尽くせる私も、まだまだアンチなのなのだね、自覚せい。(はい)
 
 
 
 
 魔乳秘剣帖:
 どうして私がこの作品が大好きかというと、おっぱ、もとい自分に正直に生きようと思い、そのために
 色々な責任を負っていく姿を、おっぱ、もといおおらかに描いているところにあります。
 
 もうなんか
 おっぱい見飽きた辺りで、やっとその辺りがわかってきた
 見飽きたっていうか、おかしくなってきた。 (ぉぃw)
 
 むしろこの作品にはおっぱいが不可欠だったというのが、よくわかります。
 んー、なんつーか、これは萌えとも違うし、正直エロとも違うし、或いはギャグでも無いレベルに到達
 していて、実に清々しく普通におっぱいおっぱいって言ってるっていうか。
 ・・・・だいじょうぶか?私wwww
 もう色々突っ込むのにも疲れてきた辺りで、色々見えてきたということは、なによりこの作品がおっぱい
 というものを前面に押し出すことで、他の一切のものもまとめておっぱいの下では平等と、そういう
 風にしたのだとも思います。
 べつにそれはおっぱい崇拝という意味で無くねw、ごちゃごちゃいわずに、純粋に主人公千房の清々し
 さに観る者を集中させてくれる効果があった。
 ぶっちゃけ、千房の主張というか想いというのは、理屈や論理では無く、千房的に生きていけば
 自然に導き出されてくる言葉であって、それに対するいらぬ反駁などを、それこそおっぱいを使うことに
 よってさらりと横に流しているように感じるのです。
 千房の言ってることは、理想論でも何でも無い、千房が生きていることに於いて紛れも無く現実論で
 あり、千房はその自分の生を、そして世界を生きるためにこそ、剣を振るう。
 だからこれは、剣客修行的な物語ではあり得ない、千房が学んでいくのは剣術では無く、自分の
 生き方を高め、世界を深めていくために必要なものであり、これはそういう意味では千房の生と世界
 自身の成長物語であるとも言えます。
 だってー、めっちゃくちゃカッコ良かったもん、千房様♪(cv:むぎちゃんの人w)
 
 そのカッコ良さは、絵姿的な理想の姿のモノでは無く、あくまで等身大の人間が、自分の気持ちに
 正直に生きていくために頑張ることの、その圧倒的な清々しさにこそあり、その頑張りに真っ直ぐ打ち
 込んでいくことの強さをこそ、その剣に顕していくことの見事さも、この作品に溢れる「人間臭さ」を
 本当の意味で清冽に描き出している。
 なにかと「人間臭さ」というと、ねじ曲がったり陰湿だったり嫉妬深かったり弱かったりと、そういうモノに
 限定されて主張される事が多い昨今だけれども(たんにそういう風に語る人が多いだけだけども)、
 私はむしろ、そういったものによって歪められて見えなくなってしまっている、人間のほんとうの清冽さ
 こそを人間臭さと思います。
 その清冽さを理想論だのなんだのと思ってしまう、それをこそ、まさにおっぱいによって優しく包み込み、
 そしてもういいんだよそんなこと言わなくて、という、穏やかな気持ちへとこの作品は導いていく。
 
 これが、人間なんだよ。
 私達が、今まで人間らしいと思っていたモノは、ほんとうは人間らしくないモノそのものだったんだよ。
 
 人間らしさを抑圧して現れるモノが人間らしさなんて、それは大きな欺瞞。
 人間らしく、素直にそのまま生きようよ。
 でも確かに、人間にもそういう抑圧を求める弱さがある。
 それを、この作品は、おっぱいで、満たす。
 ・・・なんか今、すっごいこと言ってる気がするけど、気にしないでww
 うーん、書いてて気付いたけど、そうね、ねじ曲がり系(ぉぃw)の「人間臭さ」というのは、これは
 たぶん「アンチ」なのかもしれないね。
 そう、倫理とか道徳とか?、たんにそういう外的な価値観でトップダウンに押しつけられるモノね、
 そういうモノに対してこそ、「理想論」というレッテルを貼り、それとは反対のモノとしてのねじ曲がり系
 を編み出した、というか。
 だから、逆にいえば、倫理とか道徳とかそういう押しつけられた言葉をなぞって諳んじている訳では無い
 、自分自身の生から迸る千房様の言葉は、そもそも「理想論」のレッテルを貼って撃退する必要
 なんて無いんですよね、というか、レッテル貼りというのはなんでしていたかというと、なにかを守るために、
 なのだと思う。
 なにを守っているかというと、それは、自分自身の生と世界そのものです。
 それを押しつけられた他者の価値観としての倫理的道徳的な「理想論」から、守った。
 だから、その理想論と言葉の並びが同じであるだけの、紛れもない自分自身の生と世界そのもの
 から発せられてきた千房様の言葉は、まさに守られる側の言葉。
 「理想論」というレッテル貼りをして、私達が守っていたものこそ、千房様の言葉だったんじゃないかなぁ、
 それをレッテル貼りというアンチ的防衛行動に染まり過ぎて見えなくなってたというか、ねじ曲がり系の
 「人間臭さ」というのは、清冽系(ぇw)の「人間臭さ」を守るためにこそ生まれたもの、ということかも。
 
 そういう意味では・・・そっかぁ、こういう作品が受け入れられるのって、わかる気がするなぁ。
 「日本人らしさ」って、なにかって話にもなりますか、うん、私はこの作品は極めて日本人らしい気がする
 のよね、自分達が色々なモノに支配されて、その支配を自覚出来無いままそこで懸命に生きること
 こそを美徳として身を修めていく、ほんとうにそれに打ち込んでしまうんだけど・・・
 どこか、苦しくて、我慢出来無くて、そして、苦しくない我慢しなくていい、そういう「なにか」を実は
 なにより一番求めている。
 影房様なんか、まさに典型っつーか、めっちゃあくどい事やってたけど、それは跡継ぎ云々で鬱屈して
 いたモノに対するアンチであって、それが解けた途端、あんな気っ風の良い自由人になっちゃって、
 うわー、あのラスト近辺の影房様っぷりには惚れたわw、で、勿論より正統的(?)な典型っぷり
 なのが桜花さんで、あの堅物攻撃的キャラなんかも、おっぱい関連のことでの鬱屈を抑えるために
 こそ、あんな堅物なことやったり言ってたりするけども、根は攻撃的な訳で、で、酒飲むとその辺り
 てんで駄目になってw、きゃー酔っ払い桜花さんきたーww、だから最終的には桜花さんが素面の
 状態でどこまで自分に素直になれるか、ってところも見所だったんですよね。
 変化は少しだけど、確かにラストで変わったものね、桜花さんは
 あの天然ご主人様にはもっとはっきり文句言っていいw
 
 なんかごちゃごちゃしちゃいますけど、ある意味でこの作品は、「俗世」というものから解脱しながら、
 改めて自分の世界を高め深めて生きていく、というこれまた日本的なものに綺麗に収まってもいたよう
 な気がします。
 ただ、俗世との縁を絶つというのでは無く、俗世(の価値観)を受け付けずに、ただひたすら真っ直ぐに
 俗世とも向き合って生きていく、逃げたりしない、というこの作品は、なによりもそうした千房様の
 自己肯定によって語れているゆえに、そこには非常な謙虚さを感じられます。
 世界の周縁では無く、世界の中心で、堂々と、生きる。
 この作品には、自己肯定を促す言葉が鏤められていて、なんというかこう、非常な安心感があります。
 ・・・・・。
 おっぱいか。
 おっぱいなんだなwwwww
 
 
 
 
 という感じで、今回はここまで。
 次回またお会い致しましょう。
 
 それでは、ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

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                                 ■■ アニメの秋 2 ■■

     
 
 
 
 
 
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 
 今回は前回に引き続き、前期アニメのまとめ感想を書かせて頂きます。
 と、その前に、今期開始のアニメで第1話を視聴したアニメについて、ちょこっとずつ言及させて
 頂きます。
 
 
 イカちゃん2: 次のステージへ♪
 第一期となにも変わっていないようでばっちり変わっているのが、あとからじわじわと伝わってくる、
 そんなハイクオリティな第一話でした。
 なんというか、イカちゃんの素直で純真な面だけで無く、その情けなさが割りと前面に出されてくる事で、
 ギャグコメディ作品として、ある意味でのメジャー化が行われている気も。
 ・・・まぁ、早苗さんのアレっぷりはギャグ面が強調されてもなお、不穏さを隠し切れていないのが、
 やっぱりこの作品らしさではあるとも思いましたけどw これからも期待大です。
 
 シーキューブ: なにがなんだかわからないけれど、ちょっぴり面白い。
 ストーリーとか、ちょっとしんみりさせるようなそういうところはあんましどうでもよくて、ただいきなり女の子
 が送られてきて、家の中で大暴れしたり商店街で接待されたりとか、まぁそういうドタバタ自体が、
 その女の子の中の人の演技で非常に落ち着いたノリノリ(?)で演出されていて、面白かった。
 なんかあの子だけ浮いてるというか、あるレベルで他のキャラと全く噛み合っていないというか。
 視聴継続するかはまだ微妙なラインですけれど、これになにかプラスアルファがあればたぶん見ると
 思います。
 
 まじこい: えーと。
 学生チャンバラ合戦。
 ええと、要するに色々頑張ってましたけど、要はそういうことですよね?w
 色々カッコ良く計略練ってるっぽい、戦術やってるぽさを演出してましたけど、えーと。
 どこが?(微笑)
 まぁ、バサラの女の子版と思えばいいのだろうけど、逆にそれだけだと計略がどうのとかいちいちうるさい
 っていうか、普通に真っ向勝負で当たって砕けろでいいじゃん!、みたいな、まぁ要するに私には
 なにが面白いのかよくわからなかっただけというか、なんかこう決め台詞にしろ口上にしろ、いまひとつ
 熱く響いてこないっていうか、ちょっと私の感性とはズレてるっていうか、一応もう少しだけ見てみますw
 
 フェイトゼロ: まだこれからだと信じたい。
 基本的にこの作品の全オヤジ(プラスじーさん)が私の嫌いなタイプだし、それに理解を示して
 ついていくだけの女性陣もなんだかなー、な感じで、その人達に振り回される子達が憐れ過ぎるという
 か。
 まぁ、そういうところは置いといて(ぉ)、だって嫌いなんだもんしょうがないじゃん、だからもしそれ以外で
 私がこの作品を楽しめるとしたら、どうせなら徹底的に殺し合いなさいよどろどろのグチャグチャに
 血で血を洗う凄惨な戦いをリアルにやりなさいよ、ふふ、ふふふ、というところでしょうか。 (壊)
 この作品はやってくれると、私は信じています。 (いい加減にしなさい)
 
 君と僕。: あ、いいね。
 私的にはあの孤高タイプの双子の片割れの子とか結構好きなんですけど、あの眼鏡委員長は
 苦手だなぁというか押しつけはいかんでしょw、で、双子のもう一方とあの男の娘(違)が絡むとあら
 不思議、なんだろなーあの四人の関係は、字面だけ取り出すとただの説教アニメなんだけどw、
 じわじわっとしっかり孤高タイプと眼鏡委員長がなにを求めているのかは伝わってきて、で、そのふたりの
 やりとりの中で色々なことを、毎日を感じていくあの男の娘(違)の感慨が、あ、結構この画面に
 合うね、というか。
 時が止まってるというか、コマ送りな感じの時間の流れが結構新鮮。
 うーん、私は結構あの四人のやりとり好きな。
 
 ちはやふる: 他人の夢に乗らずに、自分の夢を叶えるということは、すなわち情熱を知るということ。
 美人女子高生が天然で本気で競技カルタにお熱な感じで、余計なこと喋ったり動かなかったら
 よいのにという無駄美人っぷりで軽く楽しませてくれているうちに、なんかこの子の完全に透き通っちゃっ
 たカルタへの意気込みに引き込まれちゃって、見ている間に何度ほうと溜息を吐いたことやら。
 子供の頃友達と打ち込んだカルタ、でも高校生になってまだハマっているのは自分だけ、それに寂しさ
 を覚えたり、友達の変わっていない部分をみつけて喜んだり、一見モラトリアム系なんだけど、でも
 この作品の本質は、とっくの昔の子供の頃に自分のやるべきもの、すなわちカルタを見つけている
 女の子が、その自分を信じてひたすら邁進出来るチャンスを窺っている、その強さにこそある。
 自分が、みえてる子。  ・・・うーん・・・・・・良い。 (微笑)
 
 たまゆら: ふーにゃんがあずにゃんという。
 正直に言うと、第二話に期待します。(ちょw)
 確かに私言った、空気アニメ好きとか期待してると、でもね、空気過ぎるだろこれww
 当たり障りがなさ過ぎてとっかかりも無く箸にも棒にもかからなくなっちゃって、どうしたらいいのこれと
 いうレベルで・・・
 えー・・残念ながら、君僕みたいな「流れ」の中の心地良さを私は感じ取れなかったなぁこれは。
 ・・・この作品を楽しめなかった自分に悔しさを覚えてる変な私がいますがw、今はその楽しめなかった
 という自分の気持ちを尊重して、次に繋げます。
 ということなので、第二話に期待します。 (やはりそうなりますかw)
 
 はがない: これだから井上麻里奈はこわい。
 大 爆 笑 。
 まさかこんなことになるとは、見る前には思いもよりませんでした、痛いwお腹が全く痛いwwww
 もうね、井上麻里奈の人が凄まじすぎるwエア友達って、なんかその単語だけでも面白いのに、
 あのタイミングで、あの口調で、あんなに堂々と取り繕ってw、しかもリアルに宣言されると物凄い
 破壊力wwwもうあの完全本気で現実以外の世界の設定を主張出来る様は最高ですw
 あくまで設定なんですよねw電波っ子じゃ無い訳で、幽霊がみえてるとかでもなく、自分で設定した
 役を忠実にガチで 自 覚 し て やってるというかw、つまり 必 死 なんですよねwww絶対に
 トモちゃん(エア友)はいて貰わなくちゃ困るんですよねwナチュラル過ぎてこわいwwその辺りのあの子の
 心境を完璧に演じ切ってる中の人たる井上麻里奈に脱帽ですw
 で、リア充は死ねてあんな全力でwもうあの三日月夜空というキャラになにか負けた気がしますよ私ww
 『なんだこのリア充は!死ねばいいのに!』ってwwwwお腹wwwやめてwww
 もうね、この作品の現時点での主題は間違い無くルサンチマンについてなのだろうけどw、他者との
 比較によってでしか自己存在を肯定したり価値付け出来無い子達が、そこから抜け出そうとしつつ、
 その手前でがっつりその恨み辛みを思い切りぶつけ合う、その素晴らしき残念っぷりの権化の一角
 として、三日月夜空は私の残念な子リストの上位にいきなり食い込みましたwこれは久々の逸材
 じゃ!ww いや、残念っていうか、ここまで全身全霊で力強く残念な事されると、もうそれ以外の
 なにかに突き抜けちゃってる気もしますがwwある意味物凄くカッコイイしwwむしろ私はそういう人こそ
 大好物なのですがw
 もう一角の星奈の残念っぷりは夜空とは別の方向性だけれども、こちらも必死さがひしひしと伝わって
 きてなかなか見込みがありますし、やー、これはほんとうに楽しいことになって参りました♪ ←大喜び
 この作品の最大の魅力は、うん、まさに自分の本音の奥の本音をガンガン「宣言」しているところ、
 なのだと思います。 うん、今一番続きが見たい作品になりました♪ あー笑った笑ったw
 
 
 
 という感じでしょうか。
 今期は、イカちゃん2、ちはやふる、はがないの三作品を中心にして、現時点では観ていこうと
 思っています。
 まだ観ていない作品と始まっていない作品もありますから、最終的にはまだわかりませんけれど。
 
 それでは、前期アニメのまとめ感想にいきましょう。
 今回は、ちょっと長くなってしまったので、「異国迷路のクロワーゼ」「ゆるゆり」の二作品のみに
 ついて語らせて頂きましょう。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 異国迷路のクロワーゼ:
 嫌い、ということはどういう事なのだろうか。
 たとえば私は、自己犠牲とかそういうの大嫌いなのだけども、じゃあなぜそれが嫌いなのかという
 詮索よりも、逆に私はそれを嫌うことによってなにが得られるのだろうか、ということを考える。
 私は、自己犠牲が大嫌いで、すぐ誰かのためっつって、すぐに自分を捨てて誰かに尽くそうとする、
 その自分の想いにしがみつく湯音のことが、だいっきらい。
 だい、だい、だいっきらいっっ!!
 ・・・あーすっきりした。
 湯音を嫌うという意志態度を示すことで、私は湯音のようにはならないし、同時に湯音という在り方
 を否定する自分を獲得出来るのだけど、それ以上に、感情として気持ちとしての、この絶対的
 嫌悪感を吐き出すことで、私はとてもすっきりする。
 だって、嫌なんだもん、自分の中にあるまさに湯音的生き方がどれだけ自分を惑わせて、そして今も
 同時に私に魔の手を伸ばし続けているのかを、湯音を見るたびに思い出されて。
 でも、私はね、それをむしろ、思い出したいの。
 思い出したくないのなら、湯音を見たいと思わないし、こんな作品とっくに切ってるし。
 つか、湯音的なものは、湯音だけじゃ無く、なにより私にもあることな訳で、他人事じゃ無い訳で。
 だから
 私は、湯音をみたい。
 湯音を見て、自分の中の湯音的な自分と真っ正面から向き合い、それに感じる自分の嫌悪感を
 しっかりと受け止めていきたい、だから、私は湯音を見たし、見続けたし、感じ続けて考え続けた。
 決して、湯音を肯定することで、自分の感じた嫌悪感から逃げ出さないように。
 
 それは、湯音というひとりの人間を否定する事ではなく。
 私という、ひとりの人間の成長を肯定するためのもの。
 
 自己犠牲なんて、だいっきらい。
 自分のしたいこと好きなこと、そして居場所が無いことの心許なさ、不安を受け止めることが出来無い、
 すなわち自分という唯一無二の存在がここにいることを受け入れることが出来無いなんて、そして
 それを美化して肯定するためのものなんて、私は絶対嫌だった。
 自分のそういったものを受け止め受け入れる事が出来た後でなら、いくらでも誰かのために頑張ったり
 する事は上等だけど、それが出来無い代わりに誰かのためにっつったって、それってむしろ、その誰かを
 利用して自分の居場所を得たり、或いは自分のしたいこと好きなものをその誰かのせいにして決めて
 いるような気がする。
 気持ち悪い。
 不誠実。
 なにより、無責任。
 それが美化されることが、私は嫌だし、そして許せない。
 女にしろ、男にしろ、それの顕れ方が優しかろうと傲慢的だろうと、私は等しくそういう人が一番嫌い。
 一見、湯音のそれは心優しく、暖かく、爽やかなものさえ感じられるけれど、でもそれは確かに、
 そういう風に感じられる感性が私の中にあるからであって、その感性を利用して、湯音がなにを
 やっているのかを見誤ることなど、私は無い。
 湯音がしている事は、他人の操作と支配。
 そしてその操作と支配を肯定し美化するためにこそ、それを心優しく、暖かく、爽やかなものであると
 感じるような、そういう感性が私には植え付けられ、また私自身もそれに磨きをかけてきた。
 
 そしてそれは
 湯音のそれを美化し、湯音を褒め、湯音を許すことで。
 湯音自身の、成長の機会を、奪うことになっていく。
 
 湯音がどれだけ他人に尽くしたところで、それは自分からの逃避にしか過ぎず、その逃避技術の向上
 を指して成長というのなら、私はもうなにも言わないし、言えない。
 そんな人間関係は、ごめんだ。
 そして、そんな「成長」を元手にすることでしか、湯音は生きていくことが出来無いようにしているのは、
 他ならない湯音の生き方を賞賛する感性そのもの。
 湯音は一生、自分を生きることが出来無いまま、美化された自己犠牲の権化として生きていく他
 なくなってしまう。
 そんなのは、嫌だ。
 絶対に、嫌!
 湯音自身には、湯音的私の中には、全くその叫びが生じ得ないほどに、湯音は、湯音的私は、
 完全にその美化された、まさに「他者の人生」に囚われ、支配されてしまっている。
 嫌。
 そんなのは、絶対に。
 そうして支配されてしまっている自分がいる事を認め、客観的に嫌だと野放図に叫べる、その自分
 を生きることこそ、嫌いだとちゃんと言える自分を受け入れることこそ。
 自分を生きるということ。
 湯音が湯音を生きるには。
 湯音自身こそが、そんな自分はもう嫌だと、叫ぶ必要がある。
 そして。
 湯音が、そして湯音的私が嫌だと叫ぶために、最も重要なことは。
 
 選択肢が、与えられること。
 
 湯音は、今までの自分の生き方、世界しか知らないし、その世界の中での生き方と、認められ方
 しか知らない。
 おまけに残酷な事に、そういう自分しか受け入れて貰えない、そういう人間関係しか持っていなかった。
 もう、誰かのためにとかなんて、言わなくてもいいんだ。
 おまえは、おまえのために生きていいんだ。
 おまえは、おまえのままで、それでOKなんだ。
 おまえは、悪くない。
 そうした認証を与えてくれる他者と、そして居場所が湯音の外に現れたとき、初めて。
 湯音は、それまでの世界と、その新しく現れた世界を選ぶことが出来る。
 今までは、たったひとつの世界しか無く、そこで生きるしか無かったからこそ。
 嫌だ、とは言えなかった。
 言ったら、思ったら、感じたら、生きていけないから。
 でも。
 もう
 嫌だと言ってもいい、そんな新しい世界が、現れた。
 選んでも、いいんだ。
 
 私はアリスお嬢様が大好き。
 自分の好きなように生きるために全力を尽くし、自分のしたいことためにならなんだってする、その
 自分に真摯で誠実な、その圧倒的な「自由」な生き方にはもう何度溜息を吐いたことでしょう。
 そして同時に、アリスお嬢様は、湯音に沢山の選択肢を与え、その身を以てもっと楽しく生きましょうよ、
 だってほらこんなに世界は面白いんだから!、と、なんの欺瞞も無く正々堂々と言い切れる、その
 清々しさが湯音に与えた影響は計り知れない。
 あの子はきっと、たとえ資産家の娘という立場を失っても、どこでも真っ直ぐに楽しく全力で生きていけ
 る気がしますね。
 そしてなにより、クロード様とじーさんこそが、湯音にそのままの湯音の存在の認証を与えてくれた。
 自分のために、生きていいんだ。
 っていうか、この国じゃみんな、堂々とそうして生きているんだ。
 湯音のおねえちゃんが、湯音を国外に出した理由が、今ははっきりとわかります。
 だって、湯音のいたあの国、日本では、湯音はずっと美化された「健気な妹」を生きることでしか、
 その存在を認証されないし、そして湯音自身がその瞳にその世界しか目の前に描き出すことが出来
 無いのですもん。
 それは、おねえちゃんがどう頑張ったって変えてあげられる事じゃ無いですものね、だっておねえちゃん
 自身こそがなにより湯音の献身の対象になってしまっていたのだから、おねえちゃんが目の前にいたら
 湯音はどうしたっておねえちゃんへの献身に縋ってしまうもの。
 誰にも、悪意は無い。
 でも、悪意のあるなしは、なんの関係も無い。
 ただひたすら、底無しに歪んでいる。
 それを、自覚しているか、どうか。
 
 この作品には、その自覚が感じられた。
 
 私はだから、この作品を観ているとき、辛くは無かった。
 なぜなら、希望があったから。
 この作品は、湯音、或いは湯音を賞賛する感性を、賛美する作品では無い。
 湯音が、ひたすら、ほんの少しずつ変わっていく、その先にあるものに至るための、作品。
 湯音は頑固だし、揺るぎないし、でもこの作品は丁寧に、そしてまずはしっかりと受け止める。
 湯音ちゃんは、そういう子よね、認めるわ。
 そうしてアリスお嬢様的に溜息を吐きながら受け入れながらも、そして、その上で。
 この作品は、この作品が目指すものを、その湯音自身にこそ提示していく。
 湯音は湯音でもいいさ、でも同時に、おまえには今のおまえだけがあるわけじゃ、もう無いんだ。
 つまりは、選択肢が与えられている。
 湯音も揺るぎない、そしてだからこそ、アリスお嬢様にしろクロード様にしろ、決して湯音に迎合したり
 せず、湯音を賞賛したりせず、そして同時に、自分自身から逃げ出したりしない。
 そして、その上で、湯音を目の前にした「今」の自分達が変わっていくことに、真摯に目を向けていく。
 クロード様がその筆頭だよね。
 そして、だからこそ、そうして湯音の周りの人達が揺るぎない自分の魂を持ちながら、ゆっくりと成長
 していく自分を受け入れていく中で、湯音が。
 揺るぎない湯音が、ゆっくりと成長し、そして変わっていく、それはほんとうに些細で、あるかないも
 わからないくらいの微細な変化だけれども。
 その衝撃は、その湯音の変化を見つけた私の魂の震えは。
 計り知れない。
 
 そっか。
 今までの古い世界を否定して、これからの新しい世界を肯定するのは、今度は逆に、新しい世界
 しか認められない、そういう選択肢の無さを発生させてしまうんだ。
 今までのおまえでも、いいんだ。
 おまえはまだ、今までの古い世界の中にいるのだから。
 その中で変わろうとしているのだから、それも、認めてやるよ。
 この作品は、湯音を徹底的に否定して、こき下ろす人は一切登場しない。
 否定されない、認めて貰える。
 だから
 人は、安心して、成長していける。
 だから私は、湯音と湯音的私に大嫌いと叫ぶけれど、湯音と湯音的私のこれまでの生き方を、
 それが湯音が生きるためには必要なものだったのだと思い、それも受け止めることが出来る。
 よく、頑張ってきたね、湯音。
 そして、だから。
 湯音の、これから先に広がる未来の、その輝かしさこそが。
 なによりも私には、暖かい。
 ・・・まぁ、最終回のあの湯音の「私もギャルリの家族になれたでしょうか」という笑顔は、まだまだ
 湯音が他者に囚われている事を示すものでしたけども、湯音ちゃんはほんと半端無いわw
 
 それと、この作品について書いておきたいことは、やはり和服の美しさですよね。
 うーん、これは「日本のものは美しい」みたいな、この作品の作り手と視聴者のナショナリズムがある
 事を自覚して、そこから脱却して、「美しいものは美しい」という境地に到達している、この圧倒的な
 凄味が、すごい。
 そしてそれがまさに、湯音の問題と明確に繋がっていて、たとえば世界中の綺麗な服の中に和服を
 一緒に並んで、さぁ、あなたが本当に一番美しいとおもうものを選んで、という、そういう選択肢が
 純粋に与えられているんですよね。
 日本に住んでるから、日本人だから、和服を選ぶみたいな、そのナショナリズムが魅せる美(私はそれ
 を美とは思わないけれど)を笑い飛ばして、たとえば湯音がヒラヒラのドレスを選んでも、それでOKみた
 いな、そういう自由なものこそ本当の美だし、美の価値だとして描いていて、湯音に着物が似合うのは
 日本人だからじゃ無く、湯音の体型と髪型がたまたまそれによく合っていただけで、だからたぶん湯音が
 もっと大人になって、髪型も変えたりして、そしてドレスアップしたりしたら、そっちのが似合うかもしれない。
 うん、だから、「今」の湯音に合っている、つまり未来には合わなくなっているかもしれないという、
 そういう刹那の美としての和服の美しさと、そしてそしてドレスの中に並んでも、ふつうに「美しいものは
 美しい」という審美眼に耐えられる、その凄味が素晴らしかったです。
 ある意味でこの作品は、湯音と和服(もしくは日本文化)という、そのふたつの自立こそを描いて
 いるとも言えますね。
 はい。
 勿論、第二期は希望で御座いますよ、うん。 よろしくお願いします。 ←湯音風に土下座
 
 
 
 
 

 ゆるゆり:

 どうしてこの作品がこんなにも私には面白く感じられるのかというと、面白いからだ。
 ・・・。
 なんでしょうね、主人公のあっかりーんを確信犯的に徹底的に除け者にしてイジり倒していく、
 そのアイディアも絶妙で、あかりちゃんはほんとうに良い子で、でも良い子なんだけど良い子過ぎて
 天然なんだけど見事なまでに普通で、その普通の部分を徹底的にイジられてるというか、だから天然
 の部分が(たとえば教室の机の中でアリを飼育してるとか)がっつりイタさを持って伝わってくるし、
 主人公なのに、人物相関図からして見事に誰とも絡んでいないという、その凄まじいキャラとしての
 薄幸っぷりっていうか、これ作った人のアグレッシブなイジりっぷりに大笑いというか、ちょw、百合アニメで
 誰とも絡まないなんてそんなの死んでるようなもんじゃないww、つかぶっちゃけちなっちゃんにキスの
 練習相手にされて使い捨てにされたとか、なにこの主人公ww
 もうなんか、間違いなくあっかりーんはイジられキャラとして、まぎれも無い主人公で、あっかりーんを
 ひたすらイジり倒すという、ほんと色々やったりやらされたりスルーされたりしたよねw、ほんとそれで一本
 作品が出来ちゃうというか。
 
 だがしかし、この作品にとっては
 そんなあっかりーんの物語など、弁当箱に入れられたパセリのようなもの。 (ひどい)
 
 この作品の基本は、全力ボケ野郎の京子と、京子に振り回されたり適当にほっといたりする、でも実は
 結構よくよく見てみると京子大好きなのがじっくり後から伝わってくる、一応ツッコミ担当の結衣のコンビ
 で出来ていて。
 そしてさらに、京子が好きなんだけど素直になれない、んだけども時々がっつり素で素直になって顔
 真っ赤にしたりするガチツンデレ綾乃と、その京子×綾乃、そして綾乃×京子の妄想で鼻血を吹きま
 くりいつか必ず失血死する千歳のコンビが、京子と結衣の関係に実に上手に編み込まれていて、
 あ、そういう意味では、好きな魔法少女モノの主人公に似ているからという理由だけで、京子に追いか
 け回され、その京子の魔の手から救ってくれたというだけで結衣先輩に恋をする最強腹黒少女ちな
 っちゃんと、千歳×綾乃の妄想でよだれを垂らすために、邪魔な京子には容赦無い千歳の妹千鶴
 とかも良い感じに絡んできてますよね。
 その他に、他のキャラとの関係とは絡まないツンツンコンビの櫻子と向日葵と、爆発友達略して爆友
 同士の西垣先生と松本生徒会長とか、それぞれ単独ながらもその関係性は結構それで妄想もとい
 味わいのある関係だったり。
 つまりなにが言いたいかと言いますとね。
 
 あかりちゃんだけ、ほんとに誰とも絡んでない、ということね。 (ほんとすごいなw)
 
 この作品の肝は、やっぱり相関関係そのもので、そのためのキャラのやりくりが絶妙なのね。
 無論、百合妄想には困らないだろし、二次作品はそれはさぞ沢山作られてるだろしw、確かにそれも
 面白いんだよね、私的には京子と結衣の関係とかすっごい面白いんだけどね、ただこの作品がそれ
 以上に面白いのは、その百合関係がすべて、ギャグコメディを基本として、そのコメディとしての関係性
 の中から百合が描き出されている、というところなのね。
 百合関係を面白可笑しく描き出している、という訳じゃ無いような感じですね。
 正直、この作品にはぶっちゃけ百合関係無くてもいいし(ぉぃw)、逆に百合はしょっちゅう忘れられて
 るし、そしてだから百合妄想を逐次投入する千歳・千鶴姉妹の可笑しさがある訳なんですよね。
 だから、百合関係を面白可笑しく描くのでは無く、百合関係を妄想して鼻血を吹く千歳の面白さ
 こそが、この作品がまず描いている「百合」なんですよね。
 で、だからこそ、その千歳の妄想が、実際は妄想じゃ無く事実でもあって(無論妄想よりずっとゆるい
 ですけどw)、京子と綾乃の関係なんかは、普通に綾乃のツンデレっぷりそのものの百合の笑いが、
 ぐっと魅力を増して描かれ出してくる。
 つまり、千歳の妄想があるからこそ、その京子と綾乃の実際の百合関係の面白さがある、ということ。
 だから、この作品を指して、私は百合作品では無く、ギャグコメディだと呼ぶのです。
 まぁ、どっちでもいいんですけどねw
 実際問題、特に結衣の京子への想いなんか、これなんか普通に笑い無しの百合ですしね、
 あくまでそれは前面には出してこないんだけど、充分妄想もとい想像可能な描き方はしていますし。
 私なんかは、京子から結衣への想いなんかを妄想して七転八倒してたりとかもしてたりww
 
 んー、なんというか、私も上手く言えないんですけどねw
 この作品って、かなり複雑というか。
 基本はギャグコメディなのよね。
 ギャグの掛け合いは、相関関係とは関係無く繰り広げられるし、だからそのギャグの掛け合いの
 関係性が、まず前面に出てくる。
 その筆頭が、あっかりーんイジりだし、そして皆さん既にお察しのことかと思いますがw、私が一番好きな
 全力ボケ野郎の歳納京子が、この作品のギャグコメを回しているんですよね。
 京子の伸び伸びとしたボケっぷりと、そして今を生きようというその楽しさ追求精神(娯楽部なんて素晴
 らしい発想ですよw)こそが、この「ゆるゆり」という作品を愉快で爽快な作品に仕上げているのも、
 これも間違い無いですし、京子物語としてもひとつ立派に完成しているように感じます。
 そして
 この作品は、そこを基盤として、そこからじっくりと設定してあった百合設定を発動可能な状態に
 ONにしておくわけでw
 表面的には、というか、誰もがなんも考えず感じずに見れば、この作品の中で描かれている百合
 は、実はちなつ→結衣を除いて、皆無なんですよね。 つかあれだけはどう見てもガチww
 綾乃→京子も、あの綾乃の「好き」は百合のそれであるよりも、ただ友達として気になるレベルとして、
 「一応」は描かれてますし、他のキャラ達の関係性にしても、どの「好き」もそういう風にして見るのが
 「まずは」自然なんですよね。
 ・・・なにこの不穏な言い方はww
 
 けども、確かに女の子同士の「そういう」感情や、ぶっちゃけ百合というものを知らない観点で見れば
 この作品はそこで終われるのですけれど、ところがどっこいですよ、そこの奥さん。 (誰w)
 百合というフィルターを通せば、或いは女の子同士の「そういう」感情があの中にはあるのだという
 前提に立てば、あの作品にはあっさりと百合の相関図が現れる訳でw
 これは妄想というレベルでは無く、ちゃんとそういう風に読み取れる描き方をしていますし、かなりその
 辺り含みというか、奥ゆかしさをちょこちょこと編み込んでもいる。
 それが、私がこの作品を圧倒的に支持する理由であり、また問答無用で前期作品の中で一番
 面白かった作品がこれであると思う理由なのです。
 たんなるギャグコメあり百合ありの混合アニメでは無く、ギャグの関係性と百合の相関図が密接に
 裏表の関係で絡み合っている、そのあまりにも巧みなやりくりそのものが、私には物凄く響いたんです
 よね。
 上手い、というより、すごい。
 「ゆるゆり」というタイトルの凄味が、はっきりと伝わってくる。
 正直、この作品を観て、そして見終わったあとに感じるのは、自分の世界というか、自分が見ている
 今の自分の世界観が、大いに刺激され、変化している、ということなんです。
 や、別にそんなね、女の子同士でもOKじゃん、百合万歳ですよね、とか、そんな 今 更 な ことは
 思いませんよww、そういう意味じゃ無くてですね、なんというか、「自分」というものの複層さ、というか、
 ギャグ関係であっさり楽しげに人と繋がりながら、その同じ人と全然別な面でも繋がっている、それが、
 この作品では二層にも三層にもなって描かれていて、そういうところがね、私のその人間関係の中に
 生じる「自分」というものの、その数だけが増えるのでは無く、そのひとつひとつの「自分」に複数の
 面が生じた、というか。
 
 なんというか、変な言い方なんですけど
 この作品って、すっごく、リアル。
 
 そのリアルさは、この作品の複層さにこそ現れている。
 べつに個別の出来事が実際にあり得そうとか、んなことはどうでもよくて、ただ色々な物語が、しかも
 多面的に繋がっている、しかもその繋がりを前面に出しては描かない、その辺りに、なんというか、
 普段一面的な見方をしがちでリアルを生きている私の感覚に、ぴしっと来たんです。
 一面的に感じられても、それはそうとしか感じられていないだけで、実際は多面的なものが、その
 一面的な感覚の下には仕舞われているという、そのリアルさに、なんだか私はとても癒された気が
 しました。
 まぁ・・・私がこんだけ訳わかんないことを書き連ねている辺り、これが百合作品というよりギャグ作品
 として捉えられている、という事が伝わってくれればと。 私ギャグ作品の感想書くの苦手ですのでw
 あと歳納京子への私のラブっぷりがもうちょい書ければと思ったんですけど、むしろSS一本いけますか、
 いけますのか? (まぁ落ち着け)
 しっかしほんと、この作品がここまで面白くなるとは、想定してなかったくらいに面白くて、うん、
 つかギャグのレベルもかなり高いんですよね、京子はもとより、あっかりーんの不遇っぷりに、
 恐怖のちなつ画伯w、そして割とベタかと思ったけどどんどん強力になっていく千歳の鼻血吹きっぷり
 とかw、感想書くためにちょこっと見直したら、またハマりこんじゃいまして・・・えへへ、大好き。 (照)
 第二期は・・・・・つか、圧倒的な存在感だけ残して、結局実際には一回も登場しなかった、
 凶悪家庭内ストーカーのあっかりーん姉は、どうなったの・・・どうなるの?第二期 (微笑)
 
 
 
 
 はい、ということで、今回はここまで。
 また次回お会い致しましょう。
 
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

-- 111006--                    

 

         

                                   ■■ アニメの秋 ■■

     
 
 
 
 
 
 秋が深まるどころか、素通りして冬にバトンタッチしてしまったかのように寒い今日この頃、
 皆様如何お過ごしですか?
 
 家の近所の公園の木なんか、もう紅葉を通り過ぎて枯れ始めてるんですけれど、なんだこれ。(笑)
 皆様も気温の変化に気をつけて、お体を大事になさってください。
 私はまだ風邪ひいてないですよ、えっへん。 ←胸を張りながら
 
 
 ということで、割と元気に頭の中に花を咲かせている私で本日もお送りさせて頂きます。
 
 今回は今期アニメの視聴リストと、前期アニメのまとめ感想を書きます。
 ではまず早速今期アニメの視聴リストから。 暫定版。
 
 
 月: ・(銀魂’) ・君と僕 ・イカ娘2 ・戦国パラダイス ・未来日記
 火: ・たまゆら ・ちはやふる
 水: 
 木: ・ワーキング2 ・僕は友達が少ない ・UN-GO ・ギルティクラウン
 金: ・(ピングドラム) ・ラストエグザイル2 
 土: ・シーキューブ ・真剣で私に恋しなさい
 日: ・(ぬらりひょんの孫2) ・フェイトゼロ ・ベントー ・ガンダムAGE
 
                              :全19作品 ()付きは前期以前よりの継続作
 
 
 今期はまだイカちゃんしか観ておりませんので、なにが残るかはわかりません。
 取り敢えず、まずは観てみないことには、うむうむ。
 
 ということで、現時点で言えることは、イカちゃん最高、の一言だけということです。
 イカちゃん万歳。 (二言目)
 
 
 そして前期アニメに関しては、ゆるゆりが終わってしまったことのこの脱力感と、日常が終わってしまった
 ことのこの喪失感がすべてを物語っています。
 ああいう日常系的なアニメはほんと終わったあとにも色々響きますね、生きてるのが辛いです。 (ぉぃ)
 ・・・。
 まぁそんなこと言いつつ既にイカちゃんで盛り上がってる私は、ほんともう、大丈夫です。 (微笑)
 
 
 
 さて、お次は前期アニメのまとめ感想に入ります。
 今回は、「うさぎドロップ」「NO.6」「STEINS;GATE」の三作品についてお話させて頂きます。
 
 
 それでは。
 
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 うさぎドロップ:
 どうもこう、気に入らない。
 なんというかこう、もっとこう、語ることを絞って、ばばんと鮮烈ななにかを残して欲しかったのだけれど、
 最後まで見終わったあとに感じるのは、小手先の、というかあの年頃の男性のごくごく社会的立場、
 或いは人生のときどきの「ステップ」に於けるちょっとした感慨を、ただぽっぽっと提出して、視聴者の
 ほっと一息的な共感を得てるだけで終わってしまっているというか。
 
 わかりやすくいえば、もっとこう、深く内面まで潜ってけ、みたいな。
 
 一体何度、だいきちあんたそれでいいの?、そんな程度のところでしたり顔のイクメンやってるだけで、
 今その瞬間のあんたは本当に魂の底から満ち足りてるの?、って画面の前でぶつぶつと呟いたこと
 でしょうか、いやそんなお前の方こそなにやってんだ、みたいな。
 だいきちは確かにキレがあって、スマートにやり切れてて、好きか大好きかと問われたら大好きなんです
 けど、でもだからこそ、その程度で終わってしまうのが、ただのスマート男子で終わってしまうのが勿体
 無いっていうか。
 うーん・・べつにさ、最終回でもあったように、子供のことだけに打ち込んでてほんとにいいのだろうか、
 いやいいのだこれで、という言葉自体は否定しないのだけれど、だったら逆に、その子供のことに打ち込
 んでる自分から学ぶことが、あの程度?、というか、着眼点はいいのだけれどね、子供と向き合う事で 
 自身の中の子供と向き合って、人間としてのさらなる成長をしていくというところは。
 でもさ、その成長というのがもうちょっとこう深くいって欲しかったというか、どーも表面的なところで
 終わってしまっている気がして・・・うーん・・・
 
 わかりやすくいえば、もっとこう、どろどろしろ。
 
 だいきちの目線が、りんに行き過ぎというか、りんを通して振り返る自分自身のことが、たんなる自分の
 「経歴」程度になってるというか、たとえば私が見たかったのは、だいきちの過去のガチな悩みとか苦しみ
 とか、たとえばあのだいきちのかーちゃんとの間に相当あったであろう葛藤とかさ、その辺りのことを
 もっと深く突き詰めてやって欲しかったんですよね、その辺りをだいきちはスマートにすいーっと表面だけ
 流して行ってしまっていて、なんというか、じゃあだいきちはそりゃああの物語上成長してる風に描かれて
 るけど、でもぶっちゃけ私にはあれ、だいきちが「俺って成長したんだなぁ」と自分で言ってるだけのように
 しかみえなくて、実際のところだいきちの成長ぶりが全く感じられなかった。
 せいぜいが、精神的な意味も含めての育児スキルをゲットして、イクメンにクラスチェンジした、程度な
 感じよね、成長っていうか、「だいきち」というデータに新しい情報が加わっただけ、というか。
 うーん・・
 
 たぶんこれ、だいきちが実は私には、あんましひとりの人間として見えてこないっていうか、むしろ、
 女性や子供視点からの理想の男性、理想の親として、そして男性から見ての付き合いやすくて
 一定の尊敬を持てる友人知人として見えてるからなのかも。
 ぶっちゃけだいきちといたら結構楽だろうし楽しいだろうし、いろんな意味でワクワクするだろし、
 だからこそ、だいきち自身の成長物語には実はなってなくて、あくまでだいきち以外の人から見た、
 その人にとって理想的な存在である「だいきち」の成長しか描かれていないように、私は感じたのかな。
 うん、だからたぶんね、この作品のだいきちが妙にあのりんママに突っかかっていく理由がわかってくる
 というかですね、ぶっちゃけりんママこそ彼女自身の成長をガチでどろどろにやってる訳で、で、そういう
 のをその他の人が見た場合はスマートじゃ無く、「子供っぽくてウザい」というか、逆にね、ほんとは
 その人自身の中にあるそういうりんママ的なものを、りんママに投影して見ちゃってるから、嫌悪感を
 もよおしてそれをだいきちに語らせてるのかなぁ、やっぱり。
 
 んでさらに、その嫌悪的なりんママこそが実は足掻きながらも、しっかりと自分の中の子供と向き合って、
 そのまんま成長目指してひたひたと生きていることに、実は脅威を感じていたり嫉妬をしていたりして、
 で、だからこそより理想的な「だいきち」的な成長を求めてしまうというかね。
 逆に私の方は、りんママの方に共感してるからこそ、「だいきち」的成長に嫌悪感を持っていたりする
 訳で、実は私も「だいきち」的成長にスマートなだけで「表面的な薄っぺらさ」を感じて、で、それは
 自分の中にあるそれの投影だったりして、んで、にも関わらずほんとはだいきちも「だいきち」的成長
 以外の成長をしているということを認めたくなかったりだったりして。
 ・・・。
 
 ですよねー?(微笑)
 
 つまりこの私はだいきちに嫉妬してるわけですね、ええ、わかります。(微笑)
 素直に見れば、私はこの作品大好きなんですけどね、ほんわかして、優しくて、暖かくて、実際大人の
 立場から見てのりんちゃんの健やかさとか、子供の立場から見てのだいきちの率直さとか、見てるだけ
 で自分のなにかが勇気づけられてくのよね。
 だけどこう、なにかこう、そういうものを絶対的に拒絶してる自分がいるというか、まぁほんと私はりんママ
 的というかすっげわかるというか、そのりんママ的視点から見ると、たとえばだいきちとかコウキママの
 繊細な心の機微とか、風景とか季節とかそういった諸々の変化の中を生きている、その感覚とは
 全く無縁で、めくらめっぽうガチガチになにかに囚われて真っ正面だけ必死に生きているりんママの感じ
 からするとね、ある意味だいきち的なスマートなラフさはある意味絶望ですらある。
 りんママは自分の道を誠実に真っ直ぐに生きようとしてるんだけど、でもそれをやってるとだいきち的な
 穏やかで繊細な世界から離れていくことになる感じにすっごい未練があって、だからすごく自分は真摯
 なことをやっているのに、なぜかすごく悪いことをしているように感じられちゃう。
 
 それってさ
 だいきちが、子育てばかりやって自分の時間が取れないことの不安と、おんなじだよね。
 
 だから、私としてはね、この作品のあの終わり方は、りんママを回収しなかった時点で、なんだかなぁ、
 な感じだったんよね。
 つか、自分だけ見捨てられちゃったみたいなね、寂しさを感じたのね、私は。
 それが、私にとってはまずこの作品を観たことの、第一等の収穫だとおもう。
 あ、寂しいんだ、やっぱり私こういう作品観ると。
 その感情が、その感覚が私のベースにあるのだと、ちゃんと受け止めて受け入れることが出来るからこそ、
 だから私は、そのベースの上で、さらにだいきち自身や、そしてだいきちママ、無論りんやコウキ達にも
 共感を覚えることが出来たのかもしれないね。
 その自分のベースの感情を否定してしまう、罪悪感みたいなものが、たぶん嫉妬を呼び込んでいる
 とも思うし、で、その嫉妬に対しても罪悪感というか否定が発生してしまうからこそ、全く逆に、
 自分の現在の在り方だけに固執してしまうということでもある。
 りんママに固執する私は、そしてりんを受け入れられないりんママは、たぶん自分の中の子供を、
 まだしっかりと受け止めることが出来ていないのかもしれませんね。
 
 だからこその、このアニメ。
 このりんちゃんの可愛さ! そしてコウキ君もかなり可愛かった!!
 子供の可愛さというのは、決して保護欲を掻き立てられるからだけじゃないのだよ、ワト○ン君。
 うん。
 第二期はこれは必須ですね、りんがもっと成長して、思春期とかの話とか、だいきちがそのときどうなる
 のかとか、是非観たいというか、観せなさい。 (命令)
 個人的には、だいきちがコウキママと結婚して、コウキが息子に、そしてりんはあくまで「かが りん」の
 ままで、でも四人で家族というそういう新しい家族形態を見てみたいですね。
 或いは、りんとりんママが親子の関係を結び直して、りんはそれまでと形は変わるかもしれないけれど、
 なんらかの形で他人以上の関係をだいきちと結んでいく、つーかそれならむしろもうだいきちとコウキママ
 も結婚しないまま今以上の関係を深めていくのでもいいや、そういう広い意味での疑似家族、や、
 もう疑似じゃ無くていいか、そういう家族像を見てみたい、見せくださいませ。 (お願い)
 
 
 
 NO.6:
 しおんとネズミの物語、というよりも、しおんにとってのネズミ、ネズミにとってのしおんの物語、という感じ。
 ぶっちゃけ、ふたりがイチャイチャしてるだけで全部終わったのは確かなのですけれど、それぞれが、
 それぞれの真に求めるものに気付き、そしてそれが、それぞれの関係を通して得られていった、という
 事である意味の方が大きかった気がする。
 それは、しおんとネズミだけじゃ無く、サフにしろしおんママにしろ、そしてイヌカシとリキガもそうで、
 それぞれがそれぞれの本当に求めているものに気付き、それを手に入れるために向き直る、そういう
 お話であったと私は思う。
 そのために必要な、すべてのしがらみを排除して戦っていく姿がそれぞれ描かれて、それはあのしおんが
 嵐の夜に窓を開けて大声で叫んだ、まさにあれをすべての始まりの号砲としていたところが、なにより
 この作品の底流にあるものをはっきりとブレさせずにいたとも思う。
 そういう意味で、それこそこの作品のストーリーとか展開とか、無茶振り過ぎる設定とか、そういうのが
 どんなにいい加減でも、実際のとこなんにも関係ないっつーか、この作品のキモというか私が感じて
 いて私が一番この作品に求めていたのは、その底流にあるパトスそのものだったから、全くどうでもいい
 と言ったら本当にどうでもよかったというか。
 そのパトスを表現するために、それこそ種々の描写があった訳で、だからその描写のひとコマを拾って
 いくだけで、実はもうこの作品はその存在意義を果たしていた。
 
 サフのしおんに対する気持ちも、あれはいわゆる恋愛感情とはちょっと違う、もっと根源的な、郷愁
 的ななにかのように感じたし、無論しおんとネズミのそれも色恋とは違うし、でもそうですね、人と人との
 関係の中で一番深いものが恋愛である、というそういうものに対する、一種のアンチテーゼがこの作品
 にはあったし、恋愛よりも深い、「親密な関係」そのものの成長を、非常に短い枠組みで描き切った
 ようにも見えました。
 
 そしてなにより、ネズミのしおんに見ているものの変化の様がこう、胸をしめつけられるような、ああ、 
 もうだからねネズミは好きなんですよ、うん、ネズミは自分のなにが大切なのかを、心の奥底では
 ずっと自覚していたのでしょうね、きっとネズミも昔はしおんみたいな子だったろうし、だけど厳しい現実を
 生き抜くにはね・・・だから、最初はそういうネズミの苦労を知らずに生きてきたしおんに怒りを覚えて
 いたけど、でもネズミの本当に大切なものは、しおんのように生きたかったという気持ちそのものだし、
 だからこそ、ネズミにとってはしおんはなによりも守らなくちゃいけない存在になったんですよね。
 しおんを守ることは、ネズミの中のしおん的だった自分を守ることと同義ですから。
 そして、しおんが変わってしまったときの、あのネズミの慟哭。 ああ・・(嘆息)
 『俺が・・俺が背負わせた・・』って、もう・・・うん・・・(涙)
 それってつまり、今のネズミ的生き方の自分を、しおん的だった昔の自分に背負わせたのは自分なんだ、
 っていう、自分の大切な自分に対する、その圧倒的に深い謝罪というか、嘆きなんですよね。
 でも。
 そこで、すべての反転が起きる。
 しおんを変えたのは、しおんに苛酷なしおんを背負わせたのは、これは・・・・ネズミじゃ無い。
 背負わせたのは、ネズミから見ての、しおんを含む世界そのものなんです。
 つまり
 ネズミが、背負わせたんじゃ無い。
 ネズミは、なにも悪く無い。
 すなわち
 
 そのままのネズミに、苛酷なネズミを背負わせたのは、ネズミじゃ無い。
 そういう生き方を強いた世界なんです。
 
 そうした自己への赦しをネズミは行えたからこそ、ネズミは自分の大切な自分を、今度こそ生きようと
 したんですね。
 あそこでネズミが、自分が全部背負わせたとかって責任おっ被るという、自分の大切なものからの
 逃避を行っていれば、ただネズミはしおんを守るだけの存在になっていたでしょう。
 自己犠牲的なね、苛酷なネズミであることの責任を取って、みたいなさ、実際最終回で途中まで
 ネズミはそうしようとしてたしさ、それは結局、自分の本当に求める、そのままの自分こそを生きる戦い
 からの逃避で。
 そして。
 しおんとは、対等じゃ無い。
 『俺は生きるぞ!』 このイヌカシの言葉こそ、自分の大切なものを見つけた者の発する言葉であって、
 しおんと共に死のうとしたときのネズミは、まだ自分の大切なものをしおんに投影して、しおんに縋り、
 肝心の投影元である、自分の中のしおん的自分を守ることをしていない。
 なんのために、苛酷なネズミが生まれたのか。
 それは本当はただ、そのままのネズミを守るためにこそ生まれたものだった。
 そのままの自分を生きられるようになる、その日が来るまで生き延びるために。
 そして、その日は、来た。
 だから私は、ネズミがしおんと別れて、ひとり旅立っていったことを承認する。
 ネズミが、しおんを守らなくても、しおん的な自分を生きる決意をしたのだから。
 そして。
 しおんが、しおんこそが、ネズミの力を借りなくても、自分のままに歩いていくあの後ろ姿に。
 感動した。
 
 私は、しおんが好きです。
 
 ・・・。
 だからネズミにあんなに共感したんですね、わかりやすいですね。(はい)
 
 
 
 
 STEINS;GATE:
 面白く無い、というつもりは無いのだけれど、じゃあ毎回続きが楽しみで仕方が無かったかというと、
 そんなことは全然無く、毎回終わるたびに、ああこれで終わってもいいや、お疲れ様でした、という、
 そういう溜息を吐くような感じがあって。
 んー・・
 ネタ的には面白いし、そういうネタの集合体をひとつひとつ楽しむという意味でなら、それは楽しいの
 だけれど、全体のストーリーとかテーマとか、その辺りがあまりにも私の感覚とはかけ離れていて、
 ぶっちゃけこれほどまでに共感を覚えない作品はかつてないレベル。
 批判するつもりは無いという以前に、これは批判とかそういうレベルじゃ無くて、なんというか、おもちゃで
 遊んでたら、そのおもちゃが勝手に演劇を初めて、まぁなんかやってるよねという感じでそれを眺めて
 いて、30分が過ぎたらはいお終い、で、また次の30分が来たらまたおもちゃで遊んで、また演劇が
 始まって。
 全然その演劇は面白くないんだよね、面白いおもちゃが、面白くない演劇をやってるというか、私に
 とってはそのおもちゃがおもちゃであるという事だけが面白かっただけ、というか。
 んー・・
 じゃあなんで私には、その演劇が面白くなかったかというと、それは私にはあの演劇が、完全に本当に
 劇を「やっている」という感じにしか見えなくて、あのキャラ達のリアルな息遣いが見えてこなくてね、
 だからなんだかなーというか、全然共感しないっていうか。
 
 どっちかっていうと、この作品はそういうことよりも、もっと単純に推理ゲームとして見たら、確かに
 それはそれとして楽しめるのかもしれないのだけど、でもこの作品は妙に「情緒」的側面を協調して
 きてるというか、情緒の押しつけがあるというか、いや大人しくゲームしてなさいよ、私的にはそれ楽しむ
 だけなんだから、みたいな感じで、うーん、だからクリスティーナとかの可愛さ(?)とかも、なんかこう、
 ぽっと出てきてぽっと終わったみたいな、なにこれ?、みたいな、すっごいちぐはぐ感があったし、
 受け身で見ていればこれもそれなりにそういうものに流されて受け入れて楽しむことが出来るのだろけど
 、主体的におもちゃ遊びをして楽しんでると、なんだかほんと次々と余計な邪魔が入ってきてめんどく
 さいという、うーん・・
 
 よくわからない作品でした。
 
 最終回で、おかりんがクリスティーナの親父さんの前で、ポーズを決めてたりしたけど、んー、あれって
 やっぱり笑うとこなのよね?私的には、おもちゃ遊びして楽しんできた私からしたら、でもあれさ、
 作品の文脈的には、割とカッコいいシーンな訳でしょ?、まぁダサカッコイイ部類だけど、少なくとも、
 あれは「ここ胸熱なとこだから」みたいな注が入ってる感じでさぁ、うわぁ。
 これはめんどくさい。
 めんどくさいっておもった。
 価値観っていうか世界観っていうか、そういうのが私とこの作品とでは滅茶苦茶離れてるっていうのが
 すっごいわかった。
 だって私にゃこの作品で、キャラ達がやってることは全部茶番にしか見えなかったもの。
 おかりんが自分の体を張って(重傷負いました)クリスティーナを守るために色々頑張ってたのも、
 あれもわかりますよ?文脈的に見て色々と感じ取れることは、でも私にはそれ自体が茶番にしか
 見えないし、そもそもですよ?
 
 根本的に、なんでおかりんはタイムリープすんの?
 
 ここ、重要だよね?
 ほっときゃいいじゃん。
 タイムマシン作っちゃったからまゆりが死ぬとか、それでごちゃごちゃ時間軸なんだかいじっちゃったから
 クリスティーナが死ぬとか(その辺りのSF的なこと全然理解してませんが ぉぃw)、それって要するに、
 自分の失敗を無かったことにする、すなわち自分の行動の責任を取れないってことにしか、私は感じ
 られなかったのよね。
 タイムリープモノに基本的に私が共感出来無いのは、それが基本というか。
 おかりんのヘタレっぷりとか可愛さっぷりを愉しむっていう意味でなら、それはいいんだけど、あのおかりん
 をすごいとか美化とかされても全然受け付けないっていうか、冗談でしょ?っていうか。
 まぁ、私にとってはこの作品はそういう作品だった、ということなだけなのですけれどね。
 もうちょっとこう、おかりんが自分自身の欲望に基づいて行動してたりしたら、色々興味持てたんです
 けどねぇ、おかりん逃げすぎ、罪悪感だとかSF設定だとか、んなのかんけーねーだろー、あんたが
 どうしたいかだろーこんちくしょう、みたいな。
 他のキャラもそうでしたしねぇ結局、クリスティーナは私的には気持ち悪さしか感じなかったし、まゆりも
 よーわからんし、鈴羽はおかりんと同じ色々他者のせいにしてばっかだし、そういう意味では、萌郁の
 絶望の中でのあがきっぷりとか、フェイリスのなんとか現実に向き合おうとするけどなかなか出来無い
 けど諦めないツンデレっぷりとか、るかのだが男だとか、そういう脇役陣の方に魅力的なキャラは
 揃っていた感じでした。
 うーん、まぁ、改めて私は舞台演劇的なアニメに対して、それ以外のなにかを求め過ぎるきらいがある、
 ということがよくわかりました。
 むぅ、感想って難しい。 (はい)
 
 
 
 
 という感じでしょうか、今回は。
 続きはまた来週辺りにUpさせて頂きます。
 
 それでは、また。
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 
 

 

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