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◆◆◆ -- 2011年11月のお話 -- ◆◆◆

 

-- 111124--                    

 

         

                                 ■■ アニメの秋 6 ■■

     
 
 
 
 
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 すっかり冬模様かと思いきや、あっさりと暖かさをぶり返したりしている今日この頃、
 皆様如何お過ごしでしょうか。
 
 
 さてと、今回は前期アニメのまとめ感想を終了させます。
 ふぅ、長い道のりじゃった、というか週一しか更新してなきゃそうなるのも当然ですね。
 んー、なんかこう、来期からは色々変えようかなやっぱり、ぶっちゃけそろそろ感想を書く割合を
 もっと下げていこう、というより逆に感想はよっぽど書きたくなったときだけ書くという方向性にして、
 あとは気の向いたときに、気の向いたことを書ける場として、この日記を再編成していこうかなと。
 
 うん、連続感想もええと、今年度ってたぶん私、夏目友人帳参しか書いてないんですよね?
 我が事ながら、驚きの事実です。
 アニメに対する接し方がだいぶ変わってきた、というのもありますし、たぶんそれはかなり自由化した
 という意味でもありますね。
 以前はなんか、連続感想を書くことでしかそのアニメへの愛情と思い入れを深めることが出来無い、
 んにゃ、出来無いと思い込んでいた節がありました、はい。
 今はしょーじき、んなことしなくても、好きなものは好きやねん、なんも変わらんしょおほほ、みたいな
 感じで、何というのかな、自分のアニメへの愛を信じることが出来ているような気がします。
 うん、だから、なんかこうほんとにぐっと想いを込めたモノが書きたくなったら、その時々にまた書けば
 いいし、そうね、今書いてるアンゴについてみたいな簡単なモノや、まどマギのSSみたくにね。
 それでいいんじゃないかなー、いいよね?(微笑)、という辺りで、まぁこれから進んでいこうと
 思っています。
 まぁ
 以前も全く同じことを言った気もしますが。
 言ったよ、うん、こいつは言った。
 
 
 
 はい。
 まとめ感想を始める前に、一応最近の読書リストをぽちっとな。
 
 ・京極夏彦 「豆腐小僧双六道中ふりだし 本朝妖怪盛衰録」
 ・川口弥一郎 「江戸の検屍官 闇女」
 ・菅野隆宏 「金欠の高校生がバフェットから『お金持ちになる方法』を学んだら」
 ・加藤美勝 「『小説』戦国北条記 伊豆箱根天嶮・関八州の王者」
 ・平谷美樹 「ヴァンパイア 真紅の鏡像」
 ・藤本ひとみ 「殺人の四重奏 クラシックミステリー」
 
 闇女は読了、現在は残りの作品を同時並行で読み中。
 てかあんた、豆腐小僧読むの一体何回目やねんw
 
 
 あと、けいおんフェアをまた全制覇しちまいました。
 クリアファイル全部いきました。
 着ボイスも頑張りました。
 もうなにもいうな。
 劇場で、会おう。
 
 
 
 
 では、まとめ感想に移ります。 (ぉぃ)
 ラストを飾りますのは、「日常」「まよチキ!」の二本です。
 ちなみに、バカテス2についてですが、途中で録画に失敗して、何話か観ることが出来無かったので、
 途中で強制的に打ち切ってしまいましたので、申し訳ありませんが、感想は無しとさせて頂きます。
 うん、あの作品結構面白かったから、ちょと残念でした。
 
 
 
 
 ◆
 
 
 まよチキ!:
 私は好きな、この作品。
 んー、なんていうか、そのまんまっていうか、むしろメインの近次郎とスバルの話よりも、マサムネとか
 紅羽とかとわいわいやってるノリが好きというか。
 んー、なんかチャキチャキしてるんだけど、落ち着くっていうか。 なに言ってんだ私。
 私的にはマサムネが一番好きなのですけれどね、なんつーか、この作品ってあんまし大したこと無い
 テーマを大仰にシリアスにやってるところ(スバルの葛藤とか)が、逆にある意味でのファンタジーというか、
 おまえらもっと悩むことあるだろみたいな、で、そういう悩むべき現実を見事にすっぽかして、大したこと
 無いことにシリアスを預けて、そして他のところではチャキチャキとすれ違ったり一方的に殴ったりツッコミ
 入れたりと、まぁほんと自分でなにが言いたいのかわからないのだけれど、んー。
 
 なんだろ? (きくなよ)
 
 最終回見終わってからかなり時間経ってるからアレなのかもですけど、そうね、当時は結構そのシリアス
 なところを色々分析したり想ったりしたのだけどね、今はなんつーか、私がこの作品を見続けていた理由
 はそこじゃなくて、ただこう、「男の子」と「女の子」が、それぞれの付き合いの中で、ある意味自分の
 浅いところにあるものだけでやり合っている、それで出来ているあの日常的風景がね。
 私は、純粋に好きなんだなー、て感じたのね。
 なんか私らって、己の深いところまで潜って、そんで己をちゃんと知ってはっきりと前に進んでいく中で
 しか他者と接しては「いけないのかな」、っていう疑問がね、ふつーに出てきて。
 まぁ、私自身が往々にして深い付き合い中心で捉えがちですからね、なんか色々知らなきゃわからな
 きゃいけないみたいな、で、結局色んなものを背負うことでしか自分を生きられないみたいな。
 
 いーじゃん、てきとーで。
 いーじゃん、現実なんてどーだって。
 いーじゃん、甘えて怠けて軽くていい加減で子供っぽくたって。
 
 そういうファンタジー的物語を、自分の現実の中に導入することを拒否してる自分を、なんか最近
 よく感じてねぇ。
 だから今この作品をちょっと感想書くために観返してみたら、なんか楽だなぁいうか、主人公の近次郎
 の成長物語にこの作品が全くなって無いところが、すごく胸に染み込んだというか、どのキャラも、
 ある意味での自分の業に囚われまくりながらも、それを知らず知らずのうちに肯定しながら、そのまま
 素直に生きていくことで、結果的に出来無かったものが出来ていくようになっていく。
 つまり、成長を目指して頑張る話では無いに、どんどん変わっていくそういう現実が描かれていてね、
 あー、気持ちいいいうか、成長しなきゃ考えなきゃ背負わなきゃ覚悟しなきゃという、意識的な成長
 物語にこそ私が囚われていたんだなぁ、息詰まっちゃうだろーそれ。
 この作品は、だから、観ててすごく、嬉しくなってくる。
 別に、いつまでも私達このまま変わらずに一緒だよね、っていう話にはなってない辺りが、さらに好感。
 んー、ほんと、こういう作品は私のくそ真面目に深く突っ走って「いかなければならない」という
 私自身にとって、必要なストッパーなのかもしらんね。
 ストッパーっていうか、直線的なモノを、平面的立体的にしてくれるというか。
 あー・・だから私はスバルよりマサムネの方が好きなのかなぁ。
 スバルは真面目なんだけど、自分の真面目さに囚われてる自覚が無い分、「シリアス」な自分を
 生きるだけで済んじゃってるんだけど、マサムネは自分が真面目であって真面目さにしがみついてる
 だけという事を自覚してて、馬っ鹿みたいって自分の駄目出ししながらも、どうしたらいいのかわからない
 深刻さに打ちのめされてて。
 で、そのマサムネこそが、なんか一番「軽くて浅い」付き合いを他者に求めてて、ある意味一番あの
 作品の中で救われて、そして一番私が共感出来たのも彼女なんだよねぇ。
 「軽くて浅く」付き合うことが出来るからこそ、どんどんと付き合いが広がっていくし、それが自分を
 深めて他者にもそれを求める中にしか顕れない、狭い世界の打破にも繋がっていくんですよね。
 極論すれば、当たって砕けろということなんですけどw
 まぁ、マサムネの場合私的に共感なのは、完全な当たって砕けろじゃ無くて、人事を尽くして天命を
 待つ的な、当たって砕けるまでの準備をちゃんと丹念にやって、そして最後のひと飛びに勇気を出して
 るところかなぁ。
 
 まぁ、そんな感じです。
 ひとりひとりのキャラ分析も書いてるうちにやってみたくなってきたのですけど、めんどいのでやめ。 (ぉぃ)
 んー、この作品は二期欲しいですねぇ、こういう「軽い」作品はもっと評価されていいとおもうなー。
 
 
 
 
 日常:
 ・・・。
 大  傑  作  で  あ  る 。
 ・・・・・。
 少なくとも現時点では、私はこの作品を圧倒的に今年度ナンバー1の作品だと思ってる。
 ・・・。
 や、観てるときは間違い無くそう思ってたんだけど、最終回終わってしばらく時間経って、他の作品とか
 観てる間に、あれ?日常ってそこまで面白かったっけ?今やってる作品もなかなかじゃね?、つーか、
 日常が放送される前の作品とかも結構なモノあったよね?、みたいになってきたんだけども。
 この感想を書くにあたってもっかい見直したら、死んだ。
 私、死んだ。
 日常に、殺されました。 (ぇー)
 どう観たってこれ、今年度ナンバー1だろ、っつーか大傑作だろ、おいおいこの圧倒的存在感を
 平気で忘れた私とか五回は死ぬだろ。
 でも、たぶん、もう少し経つと、また忘れるな、な?
 
 つまり、日常の面白さというのは、そういうこと。 (どゆこと?)
 
 この作品は、いわゆるひとつのベースになれる作品な感じ。
 他の作品と競合しないというかし得ないというか、この作品に拘らなくていいというか。
 私は日常好きだけど、日常オタクじゃ無い。
 ・・・いやこれは好きとかそういうことなのか?そもそも。
 言ってみれば、日常とは、私の使用言語みたいなもの。
 気付けば、日常的感性がもたげてくるというか、気付けばそこにゆっこやみおちゃんやまいちゃんが
 いるというか、大概忘れてるんだけど、観れば一瞬で思い出して笑い転げるというか。
 今更、この作品を評価するための感想とか書く気は起きない。
 けど、あの独特の間、センス、あれは私の中に澱のようにして溜まって、取れない、抜けない、足を
 洗えない。 (ぉぃww)
 あの作品を観て、まぁたぶん当時は色々得たんだろうねぇ、私達にとって日常とはなにかみたいな、
 そういう哲学的なというか抽象的なというか、まぁやったね、やりましたね私は、この作品のあり得ない
 日常っぷりこそ、私達自身が捉えている日常生活を相対化してうんたらかんたら、みたいな事。
 で、確かになにかこう元気のような幸せなようななんだろこれのような、そういうものを沢山頂いた
 気がするのね、特に最終回までの流れとかさいこーみたいな。
 
 でも。
 いまおもうと、それってなにもあの作品だけのことじゃー無い。
 
 私にとっての日常の存在感のでっかさは、そういうところには実は感じていない。
 んー、私も上手く言語化出来ないのだけどねぇ、んー。
 やっぱり、あのセンスなのかなぁ、この作品は今まで私が観てきたギャグ作品とは、全く系譜が
 違うっていうか、「日常」モノという新ジャンルを気付いたような、そんな感じがして。
 それが、私達にとっての日常生活というものの受け取り方、そして受け入れ方ともしっかり結びついて
 いたりして、まぁ結局それとも関係ある訳なのですけどね、ほんとなにが言いたかったのかわかんなく
 なってきてるんですけど。
 
 日常、万歳。
 
 うわ・・ほんとなにも言えてないじゃないかw
 んー、ほんと感想って書かないと書けなくなるものなんだねぇw
 ましてや日常クラスの作品になると、ほんっとなに語っていいのかわかんないや♪
 ということで、うん、日常万歳。(ぉぃ)
 二期は・・・うーん、あってもなくても、大丈夫です。(なにが)
 
 
 
 
 
 ということで、以上です。
 すみません、ぐだぐだ過ぎでw
 やっぱり時間が経ってしまうと、モチベーションを維持するのが大変です。
 
 それでは、今回はこの辺りで。
 あ、来週からはぼちぼちと適当な内容な更新をしたりしなかったりをしていきます。
 よしなに。
 
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 
 

 

 

-- 111117--                    

 

         

                                ■■ UN-GO小論 2 ■■

     
 
 
 
 
 
 
 
 たとえば私は、自己犠牲が嫌いだ。
 自分を犠牲にしてまで誰かを助けるという事は、自分を捨て、自分から逃げる事だと思っていた。
 私は、自己犠牲が嫌いだ。
 なぜなら、私の中には、自分を捨て、自分から逃げたいという願望が、確かに根強く、そして、
 根深く存在しているからだ。
 私は、自己犠牲が嫌いだ。
 なぜなら、私はそうして自分を捨て、自分から逃げたいという願望を正当化するようにしか、その行為
 は見えないからだ。
 それが、私にとっては、「正義」だったのだ。
 自分を捨てず、自分から逃げない、それが正義だと。
 自分を捨て自分から逃げる事を正当化するなど、許さない。
 誰もが皆そうすれば、良いと。
 そうすれば。
 誰もが、他者のためにと言って、色々なものを押しつけたり、あまつさえ己の死さえも美として押しつけて
 くるような事はしないと。
 それが、私の願い。
 私になにも押しつけてくるな。
 
 私は、自己犠牲が嫌いだ。
 私は自分を犠牲にする事で、誰かに恩を売ったり、押しつけたりする事は嫌だ。
 吐き気がする。
 なぜなら、私自身が誰かにそうされる事を嫌悪しているからだ。
 私は、そして自己犠牲が嫌いだ。
 自分を捨て合い、互いにそれを背負い合う関係なんて、絶対に嫌だ。
 誰が死ぬものか。
 誰が死なせるものか。
 
 しかし、死ねと言う。
 自分を捨てろと言う。
 誰が?
 自己犠牲を美とする人達が。
 そして。
 その人達と全く同じ私自身が。
 死ねと、捨てろと、自分に強く言い続ける。
 誰かのために、みんなのために。
 私は。
 死にたい。
 捨てたい。
 でもそれは、そうした他者からの押しつけとしてのものでは無く、またその他者を投影して出来た、
 私自身の言葉によってでは無い。
 私は、死にたい、捨てたい。
 自分から逃げたい。
 そういう、弱い人間だ。
 それはそもそも、誰かのためにとか、みんなのためにという自己犠牲とは、かなり隔たりのある、
 いや、大きく飛躍するものだ。
 自己逃避と、自己犠牲は隔絶している。
 私はただ、誰かのためだとかでは無く、純然として、死にたい。
 捨てたい、逃げたい。
 
 しかし同時に私は、誰かのためにも死にたいという、願望も備えている。
 自己逃避では無い、純然たる自己犠牲。
 自己犠牲とは、なにか。
 誰かのために、と、死にたい。
 それはそれぞれ、別のことだ。
 私は、誰かのためにしたいと思うことはいくつもあるが、しかし誰かに己の死を捧げたいと思う事は無い。
 誰かのためにまさに命懸けでやった結果、それが己の死へと繋がる事があったとしても、己の犠牲
 そのものを目的としてそれを行うことは無い。
 私は、死ぬために生きているのでは無い。
 死とは、あくまで生の結果にしか過ぎない。
 誰かのために生きる事と、誰かのために死ぬ事は、違う。
 そして。
 誰かのためだけに生き続ける事と、誰かのためにも生きる事も。
 違う。
 
 
 誰かのためだけに生き続けるというのは、完全なる自己逃避だ。
 私は、自己逃避では無い、時限的に誰かのために生きたいという願望を確かに備えている。
 私は、自分から逃げたくない。
 でも、私は自分から逃げたくもある。
 そして私は、誰かのためにも生きてみたい。
 そして。
 死にたくない。
 それらの願望をひとつひとつ受け止めて、ひとつひとつ肯定していく事こそが、おそらく本来私が
 求めているものなのだろう。
 けれど、それらの願望のどれかを否定する事で、他の願望を満たそうとするとき、大きな歪みが
 生じる。
 
 誰かのために生きたいという願望を、否定する。
 そうする事で、自分から逃げたくないという願望を満たすことが出来る。
 けれど、自分から逃げたいという願望が、今度はより強く私自身に、自己犠牲という形で、
 最初に否定された誰かのために生きたいという願望を復活させる。
 自分から逃げたくないという願望を否定するために、誰かのために生きるという願望を美化し、
 そして自分から逃げたいという願望を満たしていく。
 そこに、自己犠牲の皮を被った、自己逃避という名の、死が、賞揚されて顕現する。
 
 
 
 結城新十郎は、弱い人間だ。
 そしてその事を良く知り、自覚しているからこそ、その自分を責めている。
 俺は、弱い人間だ。
 そう自覚して、その自分から逃げずに向き合っている俺は。
 強い、人間だ。
 新十郎は、自分の弱さを受け入れる姿を示す事で、その自分が弱いままでいて良いという事は、
 受け入れを拒否してしまっていた。
 俺は、強くならねばならない。
 そのためには、俺の弱さは否定されてはならない。
 俺は、弱くていい、いや。
 弱くならねばならないんだ。
 だから俺に、勝手に期待するな、俺に押しつけるな。
 俺を強くするのは、俺だけだ。
 だから新十郎は、殊更己の弱さを、愚かさを、強調する。
 それは他者からの強さの押しつけをはね除けるための、防衛行動だった。
 自己犠牲を美化するなど、死を賞揚するなど、許さない。
 新十郎は、噛み付いた。
 反発した。
 自己犠牲など、許さない。
 きっと彼らは、泣きながら、死んでいったのだ。
 自己犠牲など、絶対に許さない。
 そんなものは、強さでもなんでも無い、弱い自分から逃げ出して死に逃げているだけだ。
 それのどこが強さだ、美だ、鼻で笑わせる。
 新十郎は、そうして自らの弱さを守るためだけに、他者を攻撃していた。
 
 その人達は、泣いてなどいなかった。
 他人のために、命を心底捨てていた。
 そんな事、信じられるか!
 なぜなら。
 新十郎自身こそが、どう足掻いても、自分にはそんな事が出来ないと思っていたからだ。
 他人のために命を捨ててまでもしたい事が、新十郎の中には無かったのだから。
 けれど新十郎は、その彼自身の最も弱いところを認めることが出来ずに、ただ他人のために命を
 捨ててまでもしたい事を、自己犠牲というモノに貶めて、否定してしまっていた。
 それは、他ならない、新十郎が自分自身の中にある、他人のためになにかしたいとおもう願望を
 否定し、そしてなにより新十郎自身がそうした願望を持っている自分から逃げ出しているという、
 その真実弱い自分の事を否認してしまっていた事になる。
 
 だから
 新十郎は気付かなかった。
 自分がもうとうに、誰かのために行動している事を
 ちゃんと、自分のしたい事のために生きているという事を
 
 人間にとって危険な因果と共にいるのは、紛れも無く、因果を自分に惹き付けることで、
 他の人間に害が及ばないようにするための事だ。
 それは、自己犠牲に他ならない。
 ただ、新十郎がその事を美化していないだけだ。
 新十郎が、ただ自分を犠牲にする事、すなわち自己逃避としての死を目的として行っている訳では
 無いというだけだ。
 とうにそうして、新十郎は、誰かのために命懸けで生きている。
 ちゃんと、誰かのために生きたいという自分の願望を、掛け値無しで満たしている。
 それは押しつけでも強制でもなんでも無い、他ならない新十郎自身の本当の欲望。
 
 美しいものを汚す。
 新十郎は、ただそれだけを行い続ける。
 他人のために生きる?
 それのなにが美しいものか。
 俺達は卑小で、醜く、弱くて、ただ足掻きながらこの大地の上を這いずっているだけだ。
 それがたまたま、他の人のためになっただけだ。
 俺はただ、そいつを守りたいという己の欲望に忠実に従っただけの、野獣だ。
 その欲望は、俺が肉欲に溺れ酒をかっくらい、賭け事に興じ、ただ自堕落に生きていく事の欲望と、
 全く等価であり、美醜卑賤の差などあるはずもないのだ。
 その野獣として焼け野原を駆け回り、そしてただそのときが来て死ぬだけだ。
 そのときがいつなのか、それは誰にもわからないし、俺自身にもわからない。
 そしてそれは、自ら求めるべきものでも無い。
 俺はただ、生きているだけだ。
 他人が自己犠牲を美として賞揚しようが、その言葉に躍らされ、或いはその言葉に支配され押さえ
 つけられ、泣きながら死んでいこうと、そんなこと、俺の知ったことか。
 あいつらは、確かに自らの欲望に基づいて誰かのために死んだのかもしれないし、或いは胸になにかを
 秘めたまま、それが暴かれること無く死んでいったのかもしれない。
 俺はそうだ、そのあいつらの胸の中に秘められたものを、あいつらに代わって暴いてやろうと思っていた。
 だが、そのために俺は、俺自身の欲望を見失いかけてしまったのだ。
 死んだあいつらがなにを想っていたのかなど、誰にもわからない。
 俺がすべきは。
 美しいものを汚すだけだ。
 そう。
 生きている奴らが、誰かのために死ぬことを美しいとする、それ自体を俺は汚すのだ。
 俺達は、生きている。
 生きているものは、等しく、醜い。
 その醜さから目を背け美に逃げ、生きる事から逃げ死の悲惨から目を背ける言葉を。
 その美しい言葉を。
 俺は、汚すだけだ。
 
 美しいものなど、死んでしまった者だけで、充分だ。
 
 俺達は、生きている。
 どんなに死者を美化し、自己犠牲の死を賞揚しようとも。
 その言葉を唱え、その言葉に殉じようとする俺達は。
 間違い無く、醜く、卑小なのだ。
 ただ死者のみが、美しい。
 その死者の美を求めて死に往こうとする、その生者はそして、等しく醜いのだ。
 
 美しいのは死者だけだ。
 そして俺達は、生きている。
 
 ああ
 だからこそ
 死を求めずに、ただ純然と欲望に塗れながら生き続ける
 その人間の生の終始こそが、真実美しいのだ。
 
 
 
 私は、自己犠牲が嫌いだ。
 私は、弱い自分が嫌いだ。
 私は、自分のためだけに生きたい。
 私は、強い自分になりたい。
 
 でも私の求めるものは、自分のためだけに生きることだけでは無い。
 強い自分だけを、求めている訳でも無い。
 私が真実嫌っていたのは、自己犠牲だけしか無い、弱い自分だけしか無いことだ。
 それは、自己犠牲と弱い自分自体の否定とは、イコールでは無い。
 成長とは、欲望の取捨選択では無いし、自分を変えることでも無い。
 成長とは、欲望の受容であり、自分を増やすことだ。
 その受容と増加があってこそ、初めて受け入れた欲望のどれを選択すれば「今」の自分の一番
 したい事を叶える事が出来るかを知る事が出来る。
 そして単一の自分で今まで処理していたものを複数の自分を以て適宜対応していく事が出来る、
 しなやかな自己へと変化する事が可能になる。
 それが、己自身の幅を広げるという事だ。
 
 私は、自分のために生きたいという願望を守るために、誰かのために生きたいという願望を否定した。
 私は、強い自分になりたいという願望を守るために、弱い自分を生きたいという願望を否定した。
 その否定された私の願望は、私の中に澱のようにして溜まっていく。
 その願いを叶えられないまま、それは歪んでいく。
 私はただ、自己犠牲を求める自分のことを、許してあげることが出来無かったのだ。
 私はただ、弱い自分を生きることを求める自分のことを、許してあげることが出来無かったのだ。
 その許されなかった自分こそが、真実涙を流して苦しんでいる。
 どうして私は自己犠牲を許せないのか。
 それは、自己犠牲を強いられたからだ。
 どうして私は弱い自分を許せないのか。
 それは、弱い自分である事を押しつけられたからだ。
 その強いられ押しつけられた、まさに幻の自分に、私は惑わされていたのだ。
 私はその幻とは関係無く、自己犠牲と弱い自分も求める私であるのに。
 それを強いて押しつける他者が悪いのか?
 そう思えば、その他者に対する攻撃の中で、私は私自身を見失い続けるだろう。
 
 その他者は、幻想だ。
 
 その幻想に惑わされなければ、知ったことかと彼我の間に一線を画せば、そもそも攻撃を以て
 自らを守る必要が無い。
 他者の姿に映し出されるのは、自分自身。
 私は、自己犠牲を賞揚し、奨励する人が嫌いだ。
 それはつまり、自己犠牲を賞揚し、奨励する事自体が嫌いで、なにより、自分がそういった行為を
 嫌っているという事だ。
 そして
 私が、自己犠牲を求めている自分の事を、その自分の事を、許すことが出来ていないということだ。
 私は、自分の弱さを肯定し、弱いままで開き直っている人が嫌いだ。
 それはつまり、自分の弱さを肯定し弱いままで開き直るという事自体が嫌いで、なにより自分が
 そういった行為を嫌っているという事だ。
 そして
 私が、自分の弱さを肯定し弱いままで開き直る事を求める自分の事を、その自分の事を、
 許すことが出来ていないということだ。
 そうして、自分を許すことが出来無いという事自体が、既に他者の浸食を受けてのものだったとしたら。
 
 
 あなたが、ほんとうに求めているものは、なに?
 
 
 新十郎も、そして私も、そのたったひとつの問いに、答えなければならない。
 いや、答え続けて生きていくのだろう。
 
 
  『美人に騙されるなんて、ほんと駄目な探偵』  byお嬢様
 
 
 自らのみる幻に惑わされながらも、人はそうして、自分を発見していくのかもしれませんね。
 発見せずとも、私達が私達自身でないことなど絶対にあり得ないのに、それすらもわからなくなって
 いる事をこそ、発見していく、と坂口安吾風にも言えましょうか。 (笑)
 
 
 
 
 
 
 

 

 

-- 111107--                    

 

         

                                 ■■ アニメの秋 5 ■■

     
 
 
 
 
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 相変わらず気温が安定しない今日この頃ですが、皆様如何お過ごしですか?
 
 
 今期アニメが面白くて堪りません。
 くぅーっ、これだからアニメファンはやめられません。 (笑)
 どれが一番とかでは無く、それぞれの面白さをそれぞれに楽しんでおります。
 
 今のところ、はがないアンゴラスエグ2フェイトゼロベントーが文句無く面白く、
 毎週楽しみで仕方が無い感じです。
 君僕たまゆらギルクラも安定して個性を発揮していて、こちらも油断出来ません。
 イカ娘2未来日記ちはやふるは波がありますけれど、こちらもぐっと来るものがあります。
 ワーキング2シーキューブはまだまだのびしろがあるように感じられますので、まだまだこれから。
 まげはそろそろ切る予定です。 (ぇぇw)
 
 と、ご覧の通り感想らしい感想も言えてないレベルに、「観て」「楽しむ」ことに全部が持っていかれて
 いる私で御座います。 ほんと感想なんてどうでもいい。 (ぉぃw)
 
 
 という感じで、今期アニメはしばらく置いておいて、前期のお片付けをします。
 はい、前期アニメのまとめ感想の続きですね。
 今回を含めて、あと2回くらいで終われそうです。
 今回は、「ダンタリアンの書架」「BLOOD-C」「青の祓魔師」の三作品についての感想を
 書かせて頂きます。
 
 それでは、早速。
 
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 ダンタリアンの書架:
 私的に、この作品の魅力は、闇に尽きるし、闇でした。
 闇。
 なんというか、この作品を観ていると、当たり前の物語のその隙間に蠢く、その様々なものが形を
 取って表れてきているように。
 上手く言えないのだけれど、たぶんこれはひとつの安息なのだとおもう。
 光り輝く、真っ直ぐに伸びている道を歩いているときの、その不安。
 ただその道を歩くことの険しさと孤独を、なぜか癒してくれる。
 この闇は、ひとつの停滞の象徴なのかもしれない。
 人は、太古の昔から変わらない。
 悪に染まり、怠惰に溺れ、強欲に支配され、そしてもがきながらもどこか溌剌とその闇の饗宴を
 生きている。
 人は変わらなければならないけれど。
 変わらないままのものもある。
 その不変の何かがある事が、人が前に進んでいかねばならないときに、その支えとなっているような。
 
 そんな 安息
 
 いつの世にも闇はある。
 人は光の中を歩きながら、常にその闇を抱いている。
 いや
 その闇に、抱き締められている。
 私には、その闇は悪として成敗するものでも無ければ、前に進むために斬り捨てる弱さとも感じられ
 ない。
 ただあるがままに。
 光と闇が溶け合い、その混ざり合った世界が、茫漠と広がっている。
 闇は、光を求め、光の中を歩く者の、半身。
 どんなときにも闇はあり、それは形を変え、有り様を変えながらも。
 それが
 闇であるということは、決して変わらない。
 うーん。
 なんか、この作品を観終えた今、私の中の色々な自分を、またひとつひとつ受け入れていけるような
 気がしてきたよ。
 楽しいとか面白いとかじゃ無く、ただ。
 良かった。
 上手く言えないなにかを、私に与えてくれた作品でした。
 第二期? 
 よろしければ、是非お願いします。 (微笑)
 
 
 
 
 BLOOD-C:
 私達は、生きている。
 私って、なに?
 私は、本当に私なのだろうか?
 私は、私という役を演じているだけなのかもしれない。
 私は、誰かの姿を観て、それを写し取り、その誰かを演じ、そして自分がその私を演じているという
 意識の無いままに、ただ生きているのかもしれない。
 私が、私を知らぬままに。
 私には、形は無い。
 ゆえに、私らしさというのは、無い。
 私がただ生き、その結果、その私の姿を誰かが観、そしてそこにイメージされる私の姿を指して、
 ただ自分と言う。
 私は、その誰かが私の生を写し取り描いた、その私のイメージを演じ生きているのかもしれない。
 私は、その私に縛られている。
 疼く
 いつのまにか、私という自分という、その役のために生きている。
 その役を忠実に演じ切ることで、自分が自分らしく生きていると感じ、そして落ち着きと安らぎを得る。
 みんなも、それを私に求めてくれている。
 嗚呼
 やさしい
 あたたかい
 しぜんに綻んでいく頬が、ゆっくりと笑顔を描き出す。
 私が私らしく生きていることの中に、私の世界が生まれ、そして私の生きる場所が出来ていく
 みんなが、受け入れてくれるの
 私も、そのみんなのために頑張って生きていきたい
 
 疼く
 
 私は鬼だ。
 人を喰う鬼だ。
 けれど人を喰う私であれば、私は人に受け入れられない。
 そんな私を、私は裂く。
 私は、人を喰ってはならない。
 いや、私は人を喰わない。
 私は、人だ。
 だから、人を喰らう鬼をこそ、喰らう。
 そういう人に、私はなりたい。
 いや
 なるんだ
 それが、私。
 そして、私はそのことを知られてはいけない。
 人は、みんなは、鬼を喰らう人の事など、人とは認めてくれはしないのだから。
 だから私は、鬼を喰らう人である私の事を、忘れる。
 私は人。
 ただの人。
 みんなと変わらない、みんなのために生きるひとりの人。
 その私に出来る事でなら、私はみんなのために生きたい。
 私に鬼を倒せる力があるのなら、私は鬼を倒してみんなを守りたい。
 鬼を、喰わずに。
 ただ鬼を斬る、そんな勇敢で、優しい人に私はなりたい。
 私は私
 私は人
 わたしは
 
 どうして、私は人を喰いたくないと思ったのだろうか?
 私は鬼だ。
 人を喰う鬼だ。
 喰えば、いいじゃないか。
 どうして私は、人を喰いたく無いのだろうか。
 私が人を喰うのと、人が牛や豚を喰うのと、なにが違うのだろう。
 私はただ、鬼では無く、人と共に生きたかった。
 私と同じ姿をしている、人と生きたかったのだ。
 私は、鬼として、ひとりで生きていくことが怖かったのでは無い。
 ただ、人と生きられなくなる事が、怖かったんだ。
 人と、関係を、繋がりを持ちたい。
 人との関係性の中に、自分を見つけていきたい。
 疼く
 人を喰らう鬼が疼く。
 私はただ、腹が減っていただけなのだ。
 腹を満たせるのなら、それは人で無くても構わなかった。
 げんに私は、鬼を喰っても生きられる。
 人と同じものを喰っても生きられる。
 疼く
 私がただ、私を騙していた事だけに、私の鬼は疼く。
 私とは、なんだろう。
 それは、鬼でも無く、人でも無い。
 
 ただ
 人と関わり、繋がる、その主体のことだ
 
 うーん。
 そうね、私にとってこの作品は刺激的で、興奮させてくれて、なにより私の中の疼きをぞくぞくと動き
 回らせてくれる、そういう作品だった。 
 でも、その疼きは、興奮は、刺激は、一体私の中のなにに繋がっているのだろうと、思っていた。
 私は、人を殺したいのだろうか?
 私に色々なものを押しつけてきたり、それを引き受けなければ私を阻害するそういう人を消したいの
 だろうか?
 みんな死ねばいいのにと、そんなことを感じていたのだろうか?
 そういう部分が、私の中には確かにあるのだろう。
 そして、それもまた、私の一部。
 血みどろの泥沼の猟奇的血の雨は、私の好物ですし。 ・・・・またそんな安易に言い切りおってw
 でも、じゃあ私は、鬼として生きたいのだろうか?
 違う、気がする。
 自分を認めてくれない受け入れてくれない人に対して、怒りや怨みを持つということそのものが、
 鬼という訳ではそもそも無い。
 認められない受け入れられないその私自身が、鬼という、他者とは特異な存在であるだけ。
 私は鬼であるという、唯一無二の私。
 つまり、他者とは違うということ。
 それは、他の人達だって同じ人は誰もいない、他者とは違うというのはみんなも抱えているものだ、
 という事実によって納得出来るような、そんなものじゃ無いし、それで納得出来るのなら、それは
 本当の意味での他者との差異、己の唯一無二性を受け入れる事が出来ていないという事を示す。
 己の唯一無二性を抱えているのはおまえだけでは無い、みんなも持っている、だから、おまえは
 ひとりじゃ無いのだ、云々。
 
 つまり、唯一無二じゃ、無い。
 
 本当に己の唯一無二性を受け入れたとき、そんな欺瞞的な納得は目の前から消えていく。
 私は、ひとり。
 そして、そのひとりである、私という鬼を受け入れたとき、初めて、その鬼こそがなにを求めているのかが
 みえてくる。
 私は、人を殺したいか?
 そうね、そう思うときもある。
 でもそれは、私が本当は人と共に生きたいと思うからこその願いだ。
 人と、繋がり、関係したい。
 それが阻まれ拒まれ、そしてなにより奪われるからこそ、殺したい、壊したいと思う。
 殺すことで、壊すことで、なにかが変わって欲しい。
 私に向き合って欲しい。
 つまり、殺したいというおもいは二次的なモノにしか過ぎない。
 私は、人との繋がりの中に、そうして人と繋がっている自分を見出す。
 そして同時に、人に拒絶されるときには、そうして人に拒絶されるという形で繋がっている、その
 関係性の中に自分を見出し、その自分に嫌悪と恐怖を見出し、そして。
 殺す。
 人を殺すことは、自分を殺すことと同義。
 自分を拒絶する人を殺すことは、拒絶される自分を殺すことと同じ。
 繋がりたい、関係したい、みんなの中で笑顔に生きている、そんな私を生きたい。
 疼く
 衝動
 それはなにものにも代え難い、欲求。
 
 現状結ばれている人との繋がりに固執するのは、それは自分が唯一無二の存在であるという事を
 引き受けられないゆえの、恐怖によるもの。
 どんな関係であろうと、それが良くない繋がり方であろうと、繋がる事自体を目的としたとき、
 人は嘘の自分を生き始め、そしてそれを他者にも敷衍する。
 ひとりは、嫌。
 そのために多くのモノを犠牲にし、最後には自分自身をも見失っていく。
 私は、人と繋がりたい。
 その繋がりの中に浮かんでくる、幸せな自分の笑顔を生きてみたい。
 その衝動を、欲求を満たす事無く、ただ目前の関係性と繋がりにしがみつき、自分が他者とは違う
 という事から目を逸らし続ける。
 それは、心が弱いからだろうか?
 自分ひとりで立って歩くことが出来無いからだろうか?
 違う、と思った。
 それは
 目前の他者との関係性と繋がり方しか、その人の世界には無いからではないだろうか?
 世界が、社会こそが、単一の関係性と繋がり方の存在しか許さないからこそ、人はそれにしがみつく
 しか無くなってしまうのではないだろうか。
 そのしがみつきは、人との繋がりから弾き出されないためには、必要なものだったのかもしれない。
 きっと、それ以外の関係性や繋がり方があり、その中に幸せな自分が得られそうだと感じたとき、
 本当は私達は、初めて、勇気を以てその新しい世界へ飛び出すことが出来るのではないだろうか。
 単一の関係性と繋がり方しか無いのに、その状態で幸せになれとか無茶振り過ぎる。
 それしか無いのに、その関係性と繋がり方に囚われるなというのは、ナンセンス過ぎる。
 
 貧しい人間関係でも、それしかなければそれにしがみつくしか無い。
 そしてその関係の中で、人は自分を騙し、傷付け、なんとかその関係から放り出されないために、
 命を削って生き続ける。
 そして、やがて体を壊し、心を病み、絶望して死ぬか殺すかを選んで滅びていく。
 疼く
 私が本当に欲するものは、なに?
 それは、新しい他者との関係性の中に生まれる自分。
 それを自覚したときに、きっと目の前に広がる無残な世界の全貌がみえてくる。
 そして。
 その中で、自分の本当に欲するものをみつけた私の眼差しこそが、隠されていた新しい世界への
 扉をみつけてくれる。
 逆に言えば。
 
 それまでの世界の中で、みんなのためだとかなんだとか言って、いつまでも自分の本当の欲求から
 目を逸らし続けている内は、きっと新しい世界への扉は開かないだろう。
 
 さらに逆に言えば、それまでの世界の中でも、自分が本当に求めているものがなにかを自覚すれば、
 いくらでも新しく繋がり直す人と再会する事は可能でしょうね。
 この作品は、そうして主人公小夜が、自分が本当に欲する、他者との関係性の中の自分を得るため
 にこそ、その本当の欲求を持っている、「私」という主体に辿り着くために、自分の疼きを辿っていく
 物語だったのだと、私は思いました。
 小夜が古き者を木っ端微塵に切り刻んで戦う様とか、なんかほんと、すっごい象徴的だなー。
 人は誰しも、ひとりが嫌。
 でもその事は、ほんとは悪いことじゃ無かったんだねぇ。
 うん、私達はただ、今の他者との関係性が嫌だからこそ、そして新しい関係性の中に生まれる自分
 を得るためにこそ、自分自身のひとりを自覚していくだけなのかもしれないね。
 それが、成長なのかしらん。
 つまり、人は、ひとりでは生きられないし、人との繋がりを求めていくこと自体は、正しいことなのね。
 その辺りの事を、小夜と父親の関係も含めて、かなり複層的描いたこの作品は、かなりの傑作と
 私は思いますですよ。
 OP・EDもゾクゾクするような、静謐なリビドーに溢れてましたし、うん、私はこの作品には高い評価を
 与えております。
 つか、色々お世話になりましたw
 
 
 
 
 青の祓魔師:
 うーん・・・
 もうちょっとどうにかならなかったのかなぁ、という感じです。
 素材も良いしテーマもなかなか深め甲斐がある。
 なのに、その捌き方が浅くて、結局上っ面を撫でて体裁だけを整えて終わらせてしまった感じで。
 燐と雪男のそれぞれに掘り下げるべきものがあったのだけれど、どっちも中途半端にやってしまった
 御陰で、結局ただの「兄弟の絆」みたいな、たんなる熱血モノになってしまったというか。
 いや・・・・絆いわれてもね、それぞれの掘り下げ方が甘いから、あんましぴんとこないっていうか、
 感動しないっつーか・・
 ある意味ふたりとも真っ当過ぎるというか、いやもっと悪魔方向にねじ切れろよとか、堕ちまくれよとか、
 で、そういうとこまで行って、初めてなにか掴むものがあるというか気付くものがあるというか。
 燐にしろ雪男にしろ、最初から仲間に受け入れられ過ぎというか、仲間ありき過ぎて、だから結局
 その仲間のためにという口実で、自分自身の内面へのダイブが浅くなってしまっている。
 
 もっとガチで迫害とかされればいいのに。 (ぉぃ)
 
 雪男の燐への想いとか、あんな綺麗なもんじゃないだろー、愛憎の渦巻きが少な過ぎるぞ−。
 なんつーか、あの兄弟の現実肯定っていうか、世界への愛って、ただ現実から世界から愛されてる
 からってだけの、揺りかご状態っていうか。
 たとえ現実から世界から愛されなくても、それでも現実のためでも世界のためでも無い、自分のために
 この現実と世界から俺は逃げない、という意味で愛って言葉を使って欲しかったですね、わたしゃ。
 
 まぁでも、確かに仲間に受け入れられて愛されてるからこそ出来る事というのがあるのは否めないし、
 その事についてしっかりと描き切ったという意味では、この作品は傑作とは言えないまでも、良作では
 あるとは思うのですけれど。
 でもだからこそ、もっとあのふたりの、あのふたり自身が持っている、現実への世界への愛が観たかった
 というのはありますねぇ。
 劇場版?
 観ませんよ。 (微笑)
 
 
 
 
 という辺りで、今回は終わりです。
 
 それでは、また次回。
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 

 

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