+
+
+
+
+

◆◆◆ -- 2012年10月のお話 -- ◆◆◆

 

-- 121027--                    

 

         

                             ■■ パターン、アニメ。 5 ■■

     
 
 
 
 
 紅い瞳です、ごきげんよう。
 
 はい。
 今回は前期アニメのまとめ感想の続きです。
 やった、結構時間の合間を縫って書けましたですぞ。
 やればできるじゃないですか、はは、ははは、もっと褒めてくれたまえよ。
 
 というかんじでサイトの更新内容がアニメの感想で一杯っていうか頭一杯な感じに仕上がっている
 今日この頃の我がサイトと我が脳内(お花畑)ですけれど、その辺りは適当に生温い目で見守って
 頂けますと助かります。
 同時にふたつ以上のことをやるのが苦手過ぎるにもほどがある私ですので、アニメ感想書き終えないと
 次に逝ける気がしないと、言いつつ先日ちゃっかりまどマギに一言みたいなことを書いているあたり、
 自分でも自分がどう出るかわかりません。
 たぶん適当なんだということだけはわかります。
 
 
 まぁうん、そのうちまた違う話というかリアル的な話を虚実取り混ぜた上にさらにもう一手間減らした
 ようなものを書いてみたり、まぁ結局またなにかアニメの感想書いたりとか、SS書いたりしたりするかも
 しれません。
 泣いたり笑ったりするかもしれません。
 よろしくおねがいします。 (微笑)
 
 
 では、本日のメインにいかせていただきましょう。
 今回は、織田信奈の野望TARITARI超訳百人一首 うた恋い。の三本でお送り致します。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 織田信奈の野望:
 正直言うと、がっかり作品。
 途中までは良かったのだけれど、後半から一気に失速してしまったような。
 うーん、なんていうか、がちゃがちゃと色々ストーリーを進めることに急ぎ足で、肝心のこの作品の
 最大の魅力である、「そのとき戦国武将はなにを感じなにを思っていたのか」というものの、リアルな
 人間感情としての描写が、どんどんと削ぎ落とされていってしまっていて。
 
 もったいない。
 
 信奈のおもいもサルの人を通しての限定的なモノになり過ぎているきらいがあり、あれだともうサルの
 人しか見えないただのツンデレみたいな感じになっちゃって、どんどん魅力が無くなってしまっていて。
 べつにそういう部分を魅せることは構わないのだけれど、それをメインにしてしまうと、あの前半の世界と
 繋がる戦国世界に羽ばたく織田信奈の、その凛然とした爽快さが無くなっちゃうのよ。
 姫武将が天下を獲る、ということを、たんなる女の子の恋の手段に変えられてしまっても、なんだかなぁ、
 というか、それは逆に色々女子を限定しすぎだろというか。
 なんというか、男子では無い、女子こその「強欲」の顕れとしての、戦国の戦いを描き続けて欲しかっ
 たし、なにより織田信長がもし女の子だったらというのは、同時に、もし女子が織田信長だったらという、
 それこそ女子側の願望を描き出すものとして、面白くすることはいくらでも出来た気がするんよ。
 
 でもなんか、どんどんスケールちっちゃくなっちゃって。
 
 天下取りが進むうちに、敵対関係とかそういう勢力図自体は増加しつつあるも、その中での信奈の
 心と野望の広がりが一本調子で広がっていないので、なんだかせせこましく感じちゃう。
 もったいない。
 素材は極めつけによいし、キャラも使い方次第でいくらでも深く作り込める。
 そして信奈自身も、母に愛されなかったことなどそう言った心情を練り込んで描かれているから、
 本当にその辺りをもっともっと深くやってやってほしい。
 第二期もあるみたいですし、その辺りもっとじっくりしっかり語って頂けると、この作品は萌え武将モノと
 してのひとつの柱になれる作品だと私は思っています。
 戦場に於ける切迫感など、リアルとは違う、しかし妙な臨場感を伴ったそれが、実に見事にあの世界
 を生きるサルの人と視聴者を繋ぎ、それがもたらす興奮度はピカイチ。
 期待しておりますぞ、サル殿♪(某義妹風に)
 
 
 
 TARITARI:
 泣いた
 泣いた
 泣いて
 涙が次々と
 うれしくて あたたかくて
 さびしくて
 うたいながら よろこびながら
 病めるときも 健やかなるときも
 ただ
 ただ
 あるがままに
 わたしが わたしであるままに
 
 わたしが わたしでないことなど ないままに
 
 ありがとう おかあさん
 
 ずっと、ずっと生きてきた。
 辛くて、苦しくて、それでもなんとかなると信じて
 戦ってきた、守ってきた、しあわせをもとめて
 もどかしいほどに、死にたいとおもうことすら出来ずに
 ただどうしようもないほどに、諦めることだけが出来ずに
 きっと 悔しかったんだよ
 おかあさんみたいに 強くないことが
 諦められなかった あきらめられなかった あきらめられなかった
 いつもおかあさんを追いかけて いつもおかあさんを追い越すために おかあさんから目を逸らして
 おかあさんといっしょに 笑えたら
 どんなに うれしいだろう
 おかあさんに素直にだきしめられるわたしがいたら どんなにあたたかいだろう
 
 ひとり雨のなか さびしさにうたれる
 ひとりぼっちはこわくない こわくない こわくない
 おかあさんに負けたくない
 でもおかあさんはいつも ひとりで先にいっちゃう
 追いかけて 追いかけて 追いついて 追いついて
 どうしたらよかったんだろう
 わたしはどうすればよかったんだろう
 
 おかあさんの気持ちが わからないことなんて 一度たりともなかった
 わかって わかって わかりすぎてしまうから
 だから 戦って 守って それで それで
 なんでおかあさんと戦ってるんだろう
 どうしておかあさんから守ってるんだろう
 ただただ
 ただただ
 おかあさんのことが だいすきだったのに
 
 おかあさんのために おかあさんみたいに素敵なうたが 歌いたいだけだったのに
 
 ・・・。
 夢ってさ。
 そうね、それってきっと、おかあさんが一番最初にくれるもんなんだって、おもう。
 おかあさんに愛されて、おかあさんにだきしめられて、おかあさんにいっぱいいっぱい、たくさんもらって。
 それがもう世界が躍り出すくらいにうれしくて、うれしくて、しあわせいっぱいな笑顔で。
 おかあさん、だーいすき♪
 そうね、それってきっと、世界が大好きってことなんだと、私は感じる。
 それが私の世界。
 おかあさんが私にくれたんだ。
 生きていきたいって、そう思える世界だけが、ずっとずっと、広がっていて。
 だから、死にたいなんて思えなかったし、思えるはずも無かった。
 私は・・この世界の中を生きていきたい、生きて、生きて、幸せでありつづけたい。
 
 だから、その笑顔で溢れる世界を、広げ続けたかった。
 深め続けたかった。
 笑顔を絶やすわけにはいかなかった。
 ちゃんと笑顔じゃなきゃ、嫌だった。
 ほんとはしあわせじゃ無いのに、我慢して笑うなんておかしいとおもった。
 笑えない自分がいる。
 そのとき、目の前の人が、笑えないのに嘘を吐いて笑っているようにみえる。
 おかあさんの嘘吐き。
 ほんとはおかあさん苦しいんでしょ、辛いんでしょ、だったら笑わないでよ。
 笑うのは、ほんとにしあわせなときだけなんだよ!
 だから・・だから・・・苦しいんだったら、辛いんだったら、ちゃんと言ってよ・・・教えてよ・・・
 わたしが・・わたしが・・・・おかあさんをほんとにしあわせにしてあげるから・・
 
 苦しいときも辛いときも、いつも必ず笑っていたおかあさん。
 嫌だった、そんなおかあさんのことが、どうして苦しいはずなのに辛いはずなのに、笑うの?
 気付けば私自身が、色々な種類の笑いに走っていた。
 愛想笑い、追従笑い、泣き笑い、誤魔化し笑い、高笑い、意味不明な笑い、嘲笑。
 苦しくて、辛くて、笑わずにはいられなかったんだ。
 おかしいよね、しあわせじゃないのに、たのしくないのに、笑ってしまうんだ。
 こわくて こわくて
 おかあさんが くれた
 しあわせなせかいが
 
 なんとかしなくちゃ なんとかしなくちゃ
 いつまでも暢気に笑っているおかあさんが許せなくて、わたしは怒ってしまう。
 みんな必死に頑張って耐えているのに、ひとりだけ笑っているおかあさんが許せなかった。
 真面目にやってよ! 笑ってるだけじゃ解決できないこともあるんだよ!
 おかあさんは笑って誤魔化してるだけじゃん!!
 そうやって、おかあさんを責め続けた。
 責めて、責めて、それでも笑い続けるお母さんと戦い続けて。
 私は、おかあさんの前では決して笑顔を見せないようにした。
 おかあさんに笑顔を見せたら、おかあさんはそれで満足して、なにもしてくれなくなるっておもったから。
 おかあさん、おかあさん、苦しいんでしょ?辛いんでしょ?、正直に言ってよ。
 おかあさんが言わないんなら、私が代わりに言うよ! 代わりに苦しくて辛い顔するよ!
 だから、おかあさんも笑うのはやめて! お願いだから!
 わたしは
 
 おかあさんと  ほんとうに 笑い合えるようになりたいんだから!
 
 そうして、おかあさんのいないところで、私は滅茶苦茶にひとりで笑い続ける。
 愛想笑い、追従笑い、泣き笑い、誤魔化し笑い、高笑い、意味不明な笑い、嘲笑。
 おかしい、おかしいよ、嫌い、みんな嫌い、だいきらいっ!
 それなのに、笑顔が止まらない。
 笑って 笑って 笑い続けて
 おかあさん
 わたし なにやってんだろう
 どうして
 笑ってるんだろう
 
 
 笑うのをやめようとしても、やめられない。
 いつでも私の中には、おかあさんの笑顔がある。
 笑顔が夢だった。
 苦しくても辛くても、それとは関係無く、笑顔はただ、笑顔だった。
 病めるときも 健やかなるときも
 わたしは 笑顔が好きだった
 だって
 だって
 しあわせだから、笑顔になるんじゃん。
 苦しいとき辛いとき、おかあさんの笑顔を思い浮かべたら、その瞬間幸せを感じるじゃん。
 なにかを誤魔化したいとき、おかあさんの笑顔を思い浮かべたら、その瞬間はほんとうにしあわせだった。
 苦しくても、いいんだ
 辛くても、いいんだ
 誤魔化しても、いいんだ
 私の苦しさを辛さを、笑顔で受け止めることが出来なかったわたしがいた。
 私の誤魔化しを、笑って受け入れることが出来なかったわたしがいた。
 おかあさんは?
 おかあさんはどうしてた?
 
 おかあさんは
 いつでも どんなときでも
 笑っていた
 
 おかあさんが笑っていたのは・・・
 笑ってくれたのは・・・・
 
 わたしに
  しあわせになってほしかったから・・・・
 
 私は、おかあさんから笑顔を受け継いだ。
 でも、その笑顔で私自身に笑ってあげることができなかった。
 おかあさんに笑ってほしくて、笑ってほしくて、でもそれは・・・
 私が、私に笑ってあげることが出来なかったから・・・その代わりにおかあさんに・・・
 そしておかあさんがほんとうに幸せに笑ってくれることで、しあわせを感じられるわたしは・・
 おかあさんのその笑顔に、甘えていた。
 ずっと ずっと おかあさんの笑顔にしがみついていた。
 私は、わたしこそをほんとうにしあわせな笑顔を見せられる、そんなわたしを育てなくちゃいけなかったんだ
 ごめんね
 ごめんね
 おかあさん  ごめんね
 
 ひとりぼっちのとき、自分でなんとかしなくちゃいけないとき、周りの人から外れたことをするとき。
 誰も責任を取ってくれない自分が決めるとき、人に蔑まれたとき自分の誇りを守るべきとき。
 わたしが、私の道を歩くとき。
 わたしは、その私を笑顔でだきしめてあげることから、逃げてた。
 こわかったんだ、ずっとずっと。
 でも
 でも
 
 私はそれでも、諦めなかったんだよ。
 おかあさん、わたし、何度も諦めかけたけど、諦めなかったんだよ。
 だって・・ おかあさんに笑顔でだきしめられた、あの世界の大切さはなによりも・・・・
 笑顔が私の夢。
 どんな笑いでも、それも全部、私の生きる力。
 おかあさんに貰った、あのしあわせを・・・
 わたしは
 私の笑顔で、私自身の力で、手にしたい。
 あの世界を、実現したい。
 それが私の夢。
 おかあさんから受け継いだ、私の大切なもの。
 笑おう
 笑いたい
 笑うよ、おかあさん
 私の 笑顔で
 
 
 『 これからは娘と、和奏と一緒に歩きたいの。
 
   その健やかなるときも 病めるときも よろこびのときも かなしみのときも
 
   そんな歌が、和奏と一緒なら作れる気がする。
 
   私にとって歌は、愛を伝える言葉だから。
 
   そして和奏は私に、大切なことを教えてくれたから。
 
   和奏に伝えたいおもいが歌になって、それを一緒に歌うことができたら
 
   そして、和奏の歌をきくことができたら
 
   わたしの人生は、百点満点です。 』
 
 
 わたし、笑えるようになったよ。
 私の笑顔を、贈ります。
 おかあさんの笑顔と一緒に、笑顔で生き続けるよ
 ありがとう
 
  おかあさん
 
 
 
 超訳百人一首 うた恋い。:
 どうして、自分の気持ちを素直に表現することって、こんなにも魂を奮わせるのでしょう?
 恋の駆け引きとか、そういう妙味は確かに面白いし、そういう知的かつ情感溢れる人とのやりとりは、
 ぞくぞくとした興奮を引き起こすのもまた確かなのだけれども。
 それだけでは足りないとおもうのはなぜだろう。
 いや、それは足りないのか、それとは違うなにかなのか、それもよくわからないけれど・・
 なんていうか、そういう駆け引きの妙味って、互いの社会的立場がどうとか現実がどうとか、そういう
 もので自分の素直な気持ちを隠すことと、繋がっているように感じる。
 
 私はこの作品は、その辺りを強く意識しているとおもう。
 互いの立場に縛られる苦しさと、そこから逃れられない自らの弱さをまざまざと描き出し、そしてそこで
 敢えて終わらせることで、かえって、その向こうにある、秘められたおもいが、より深く大きく顕れてみえる
 ように私は感じられた。
 不思議ね、なんだか私なんかはついこういう悲劇的な感じで終わらせる悲恋モノ(そうじゃないエピもあり)
 を見ると、どーしても意地でも素直に気持ち吐き出して駆け落ちでもなんでもしやがればかやろー、
 とか叫びたくなっちゃうんだけど、つかこの作品でも何回か叫んじゃったけどw、でもなんというか・・・
 あー・・・これは叫ばなくてもいいのかぁというか、まさに野暮だったなぁというか・・・
 この作品はその悲劇を美化してそれを愉しむ作品などではなく、むしろ悲恋で終わらせることで、
 なにより視聴者にこそ、すなわちこの作品内の時代とは違って、社会的立場による圧力が少ない現代
 の私達にこそ、じゃあなにをすればどうすればいいのかわかるよね、と静かに、そしてしずしずとメッセージ
 を贈っているように感じられたのよ。
 
 なんだかとっても、信じられる作品だったのよ。
 
 それはこの作品にこそ、私達が信じられていると感じられたからこそのもの。
 ぶっちゃけ、この作品内のキャラ達の悲恋をハッピーラブ(ぇ)に変えようと叫ぶ暇があるなら、観てる
 あんた達自身がハッピーラブに走りなさいよ、という感じ。
 それが出来るというか、そういうなにかこう雰囲気としてのお膳立てが、この作品の現代的な語りっぷり
 やコメディっぷりに、見事に醸し出されている。
 あのやたら現代っ子な感覚のキャラ達が、じゃあ現代こそに生まれていたら、そりゃーもう、全力で
 自分の気持ちのままに突っ走ること請け合いでしょ?
 この作品内には、自分の素直な気持ちを爆発寸前まで高める、その劇的なまでのプロセスが、
 圧倒的な筆致で描かれている。
 そしてそれが爆発出来ずに悲恋に終わらせてしまうものはただ、「時代」というリミットだけ。
 じゃあ、そのリミットが無かったら?
 今、この作品を観ている、この時代の私達があのキャラ達だったら?
 
 もう、目が回ってしまうほどの、高揚感。
 
 ドキドキしちゃう、堪らないほどに、興奮しちゃうよ。
 私はなんだか、この作品に「悲劇」の本当の受け取り方を教えられてしまったようですよw
 あのキャラ達の、素直な気持ちで生きたいというそのおもいの連なりが、ずっと長い時の中続いてきて。
 そしてそれは今の、私達に繋がっている。
 あのキャラ達のおもいの遺伝子が、私達には受け継がれている。
 すごいなぁ、この歴史観は。
 『そして後世の人達がおなじ気持ちを抱いてくれたなら、それはすばらしいことだ』 by定家
 そうだよねぇ、この国には素晴らしい文化が連綿と続いているのだものねぇ。
 ときに自らを抑圧し消去するようなモノさえ書き込まれながらも、その魂はずっとずっと。
 あー・・なんかわたし、また新境地きたぞこれwwなんかこの国に生まれてよかったwwww
 自分の素直な気持ちのままに生きられる、そんな国を作っていくのも、私のひとつの夢ですよん♪
 
 
 
 
 というかんじです。
 はー、なんかすっきり書けました! ありがとう♪
 アニメ感想を書くと調子いいな、わたしw
 
 まだ書いていない作品も結構ありますので、どしどし自分の中のなにかと触れ合わせて、色々と
 書いていけたらいいなと思っています。
 読んでくださっている方々に、感謝感謝です。
 
 
 それでは、この辺りにて。
 ごきげんよう。
 またね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 121023--                    

 

         

                          ■■ さぁて、今期のアニメは? ■■

     
 
 
 
 
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 
 
 すみません、先週は前期アニメ感想を二分割二回更新すると言っておきながら、ちょっと色々立て込
 んだり、余計なこと思いついたままに書いてしまったりして、結局出来なくて。
 
 んー、なかなかリズムよく更新できないのぅ。
 ということで、今回は取り敢えず今期開始アニメの第一話の感想と、視聴リストの決定版だけでも
 更新させて頂きます。
 ちょっと前期アニメの感想はある程度まとまった時間が取れないと書けないみたいなので。
 
 それでは、まずは今期開始アニメの第一話の感想の残りをば。
 
 
 
 マギ: 深い、深い、爽快感。
 あんまし言うこと無い。
 気持ちいい。
 アラジンの、自分の気持ちのままに素直に生きる意志に照らされて、アリババ達周囲の人間達が
 自分を省みて、そして自らの責任に於いて、それまで抑圧していた自分の素直な気持ちのために
 生きるために飛び立っていく。
 それこそ、冒険でしょう。
 こんなに冒険という名に相応しいアニメと出会ったのは初めてです。
 非常にたのしい、非常におもしろい!
 
 好きっていいなよ: むずかしい・・・
 うーん・・主人公女子に共感出来る部分と出来ない部分があるというか、共感出来るんだけど、
 じゃあ共感してそれで「おもしろいか」というと、ぶっちゃけおもしろくない。
 んー・・だからどうしても私的には共感出来ない部分がクローズアップされてきてしまうというか。
 で、共感出来る出来ない関係無しに、なんかこう深く抉るようなものがあるかというと、妙に浅いという
 か、ジメジメしたものをなんの意志も無く魅せているだけというか・・・露悪趣味とは違う、なんだろ、
 変な開き直りというか・・でもその開き直りが自分がしたくてしてるんじゃないっていう、そういうなにかに
 対する責任転嫁みたいな感じがして・・うーん・・・・どうもこう、すっと入ってこない・・うーん・・・・
 もっとこう、主人公女子に自省的なところが出てくるとおもしろいんだけどね、わたしは。
 ちなみにあの子が嫌いか好きかで言うと、好きです。 おもしろいとかかんけいねーよー。
 
 さくら荘のペットな彼女: エロい。
 ペットな彼女がエロい。
 介護が必要なレベルなほどにひとりじゃなにも出来ない世話され女子を、まぁ甲斐甲斐しく世話したい
 という願望は全世界共通だとは思いますけれど(偏見以前の問題)、でもそこじゃないんだよなー
 あの子のエロさは、なんだろなー、私は二話観てその正体がわかったんだけど、要するにこの子って
 自分の身の回りの世話とか全然出来んし、ありえんくらいに常識知らずだけど、でもきっとほんとは、
 それでもこの子ってそのまま生きられるんだよねぇ、つか、服着ろとかコンビニで金払えとかそういうのは
 あくまで周囲の側の都合による要請であって、じゃああの子ひとりしかこの世界にいないのだとしたら、
 きっとあの子はそれなりに生きていくような、それで困るようなことはなにもないような。
 もっとわかりやすくいうと、あの子って、誰にも甘えてない。
 だから甘えられるのが嬉しくて世話するのがたのしいんじゃない、私がいなくてもこの子は平気っていう
 そういう・・・・あれ?・・・これってつまり放置プレイ?・・・ぇ、やっぱり私のM属性発動? (重症)
 で(仕切り直し)、あくまでそういう周囲や社会の側がそれらの都合に彼女を合わせようとして四苦八苦、
 しかし彼女は平然、っつーか服着ろ服!、というまぁある意味正統派なツッコミが入るのよね。
 常識外れな人や行動に、常識の観点から如何にそれが常識から外れているかを指摘する、という
 ツッコミね、あの男子はなかなかおもしろいwそしてそこから彼自身が自分のなにかに気付いて成長
 していくとなると、これは結構な傑作になるかもしれませんね。
 
 ガールズ&パンツァー: ひとりで背負うには重すぎる。
 ツ ッ コ ミ 切 れ る か っ。
 ていうか突っ込んでるうちに色々わけわかんなくなってきて、やばい。
 むしろこれは突っ込んだら負けなのか?そうなのか?、ってくらいに淡々と堂々と真顔でボケ続ける
 この作品の真の恐ろしさがまるで見えないのよ。
 つーか怖いwwwわたしはこのアニメ観てていいんだろかwwwwww
 という感じで自分の中だけで消化しようとすると、消化不良というかやばい生物が生誕しそうな勢い
 を感じて、マジこわいww
 だってこの作品ってアホの一言じゃ片付け切れないほどに堂々としてるのだもの、もうボケとそれ以外の
 境目が無いんだもの、なんだかわからないうちにKO取られちゃったみたいな感覚だもの。
 あー・・・これはね、おもしろいっていうか、辛いwwwwくるしいwwwwやーこの感覚は初だわwww
 笑い過ぎてお腹痛くて辛いっていう意味じゃ無くてねwwなんかこう自分のなにかが書き換えられてく
 ような感じwwwこれはやばいwwwこれはほんとに一種の兵器ww
 ・・・まぁ、ごく一部の人間しか有効射程に入らなさそうですけども、いいんだそれで、それでいいんだw
 
 ToLOVEる ダークネス: ふつうにかわいいし。
 おー。
 なんだ、かわいいじゃん。(なに)
 女の子達がかわいーっていうか、これ、ふつうに女の子アニメとして良質だよ。
 べつに裸とかパンツとかエロとかあってもなくてもいいけど、うん、このアニメわたしは好きな。
 あの子達の姿形も仕草も掛け合いも、それだけずっと観てても飽きないなー。
 色彩としてのピンクが鮮やかというか、なんかゴージャスさとプリティさを見事に表現していて、観てるだけ
 で癒される、はー、いいねーこれ。
 特にEDはいいねぇ、可愛いっていうか微笑ましいっていうか、ん、違うか、なんだろ、こう、あー、なんか、
 ゆっくりとした愛情のようなね、そういう流れが丁寧に描き込まれたピンクに溶けていて、うーん。
 心地良い。
 
 
 
 
 という感じです。
 んじゃお次は、今期アニメの視聴リスト。 決定版。
 
 月: ・ さくら荘のペットな彼女 ・ ガールズ&パンツァー ・ となりの怪物くん
 火: ・ ヨルムンガンドPERFECT ORDER ・ 新世界より
 水: ・ 中二病でも恋がしたい! ・ めだかボックス アブノーマル
    ・ ハヤテのごとく! CAN'T TAKE MY EYES OFF YOU
 木: ・ 銀魂 ・ BTOOOM! ・ PSYCHO-PASS ・ROBOTICS;NOTES
    ・ ひだまりスケッチ×ハニカム
 金: ・ ジョジョの奇妙な冒険 ・ ToLOVEる ダークネス ・ K
 土: ・ (ソードアートオンライン)
 日: ・ マギ ・ 好きっていいなよ。 ・ (へうげもの) ・ (トータルイクリプス)
 
                              :全22作品 ()付きは前期以前よりの継続作
 
 
 色々切ったり足したりしました、うんうん。
 BTOOOM!はもう1、2回様子見て切りに転じるかもで、ROBOTICS;NOTESはひだまりと被っちゃって
 録画出来ないのでどうしようかな・・・どうにかできたら観ますw
 
 
 現時点では、私はとなりの怪物くんがベストですねぇ。
 主人公女子の淡々としかし劇的に変化していく様子とか、天然問題児男子の素直っていうか率直さ
 は興奮モノですし、アホの子はアホとして突き抜けるか突き抜けないかのギリギリのラインっぷりが実に
 芸術的。すばらしい!
 
 それに準じる形でガールズ&パンツアァー中二病でも恋がしたい!PSYCHO-PASS
 Kマギの五作品が頭ひとつ抜けている感じですね。
 萌えキャラ的に特筆すべきは、中二の中二女子のアホ可愛さが仕草ひとつひとつにみなぎっていて
 素晴らしく、またKの武士男子の心映えが見事に礼儀として顕れている爽やかさが堪りません。
 やばい萌える。
 今期は色々なポイントから攻めて愉しめる作品が揃っております。
 
 あとはヨルムンがどこまでやってくれるかですね、うん。
 
 私的には今期は今のところ、これだ!という大傑作は無いのですが、それぞれが自分の得意分野を
 極めてる感じな作品が多くて、ある意味勉強になる感じです。
 豊かだなぁという多様さでは無く、色々あるなぁという多彩さ、みたいな。 なに言っとんの?あんた。
 
 
 
 よし、今期もアニメでいけそうだ! (いってらっしゃい)
 
 
 
 ということで、今回はこの辺りにて。
 前期感想の続きは今週末・・・・・・・ごめん、もう約束果たせる自信無くなってきたので今の無し(ぉぃ)
 
 
 それでは。
 ごきげんよう。
 またね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 121018--                    

 

         

                                 ■■ まどかとほむら ■■

     
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 〜 「魔法少女まどか☆マギカ」の取り扱い方法にかえて 〜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ほむらは、まどかの支配者である。
 まどかを守り、まどかの世話をし、あまつさえまどかの間違いの責任さえ負おうとする。
 そして、まどかのためにという口実を以て、まどかを操作する。
 まどかの身を守るために、まどかが間違いを犯さないようにするために、ほむらはひたすら、まどかに
 介入し、まどかを操作し、そして支配する。
 まどかを、ほむら無しではいられないようにするために。
 
 
 ほむらが時間を巻き戻すたびに、まどかはどんどんとほむら無しではいられなくなる。
 ほむらがまどかを守り、まどかの世話をし、まどかの間違いの責任を負うたびに、まどかはほむら無し
 ではいられなくなる。
 テレビアニメ第10話に於いて、時間遡行を繰り返すほむらの世界の中で、まどかは当初に比べ、
 少しずつ気弱に、そして自信の無さを示し始めていく。
 現在の時間軸のまどかの姿は、第10話に於いてほむらが初めて出会ったまどかとは、大きくかけ離れて
 いる。
 ほむらに出会う前のまどかは、自信に溢れ、快活で、積極的だった。
 しかしほむらが時間遡行を繰り返し、何度もまどかに介入し、まどかを操作支配していくたびに、
 まどかは、生きる力を失っていく。
 
 
  すべてはまどかのために   すべてはただただ
 
    まどかのために
 
 
 
 ほむらにとってのまどかは、ペット同然である。
 まどかは、ほむらと人格が離れていない、同一の存在になりつつあった。
 まどかのために、まどかのために。
 そうして、他者に奉仕し、他者を守ることにすべてをかける生き方は、その他者から自主性と主体性
 を奪っていく。
 ほむらは、共依存者である。
 まどかを守り、まどかの世話をし、まどかの間違いの責任を負うことを生き甲斐とし、その結果、
 自分自身の本当の欲望を見失ってしまう。
 まどかの事しか見えなくなってしまう。
 あまつさえほむらは、まどかが死ぬより自分が死んだ方がましだと言う。
 自分のすべてを犠牲にしてでも、まどかを守り、まどかを救う。
 
 すべては
 ほむらの望む、まどかを手に入れるために
 
 
 
 ほむらは、まどかのようになりたかった。
 他人のために心を砕き、心を合わせ、そして自分の身を滅ぼしてまでも他人を想う、そのような
 「優しくて強い」まどかに憧れていた。
 そのことに、激しい渇望を感じたほむら。
 ああ、私も鹿目さんのようになれたら・・
 ほむらは、自分が嫌いだった。
 弱くて、なにも出来ない、ただ守られるだけの自分が嫌で、嫌で、死ぬほど嫌で。
 こんな私、いなくてもいいのに。
 死んじゃえ。
 けれど、ほむらは、まどかというもうひとりの自分を手に入れた。
 まどかのように優しくて強い自分なら、私はここにいてもいい、ううん、ここにいたい!
 
 そうして
 ほむらは、弱い自分を殺し始める。
 殺して、ひたすら消し去って、その上から優しくて強い自分を塗り重ねていく。
 
 ただただ、他人のために、まどかのために。
 他人のために頑張れるまどかのために、まどかのために。
 そのすべては、弱い自分を受け入れることが出来ないがゆえのものだった。
 弱い自分を見捨て、優しくて強い自分を手に入れるために、ほむらはまどかを利用し始める。
 まどかを守ることの出来る自分は、ここにいて良いのだと。
 そこには、まどかがどう想い、まどかがどう生きて死にたいのかということへの考えは無い。
 まどかのために、まどかのために、すべてはまどかのために。
 
 そしてほむら自身、それを繰り返すたびに
 自分がここにいて良い理由を求めていたという、当初の目的を見失っていく。
 
 
 
 ほむらはまどかを支配する。
 ほむらは、まどかを支配する自分無しではいられなくなる。
 まどか依存。
 ひたすら、弱い自分自身と向き合うことから逃げ、自分自身と向き合う事の代わりに、まどかを守る
 ことにのめり込む。
 まどか依存。
 まどかのために、まどかのために。
 自分の心と体がどんなにボロボロに傷付こうとも、まどかが傷付くよりもずっとマシ。
 まどかがキュウべえに騙されずに、普通の女の子として生きていけるようになるのならば、私はずっと、
 ずっと、まどかの代わりに魔法少女として戦っていくことにも耐えられる。
 
 その地獄の責め苦にしがみついているうちは そして
 弱い自分が、それでも自分で生きなければならないという事から、目を背けていられる。
 
 
 魔法少女という悲劇のヒロインを演じているゆえに、ほむらはそれ以上の悲劇に出演せずに済む。
 ねぇ、ほむら。
 キミは、他人のために傷付いてでも戦い続けるまどかを守りたいというけれど、じゃあ、そのまどかを
 守るために自分が死んでも構わないとまで言う、ほんとうに可哀想なその少女を救うのは、一体誰なん
 だい?
 まどかなのかい?
 キミは、まどかに自分を救って貰うために、まどかを救うのかい?
 本当に、そうなのかい?
 
 キミが、ほんとうに救いたかったのは、誰なんだい?
 
 
 
 ほむらは共依存者である。
 他人の世話焼きに没頭するあまりに、自分自身の真の欲望がわからなくなる。
 その見失ってしまった自らの欲望の幻影を、目の前の他人に投影する。
 目の前の他人を幸せにすることで、自分自身の幸せになりたいという欲望を満たした気になる。
 しかしそれで幸せになった(ようにみえる)のは他人であって、自分では無い。
 それゆえにそれはたんなる欲望のすり替えであって、自分自身の幸せになりたいという欲求は決して
 満たされることは無いままに、ひたすら絶望的なほどに欲求不満が溜まっていく。
 人を救えば救った分だけ、人を呪うことになる。
 どうしてあなたは幸せになったのに、私は幸せになれないの?
 あなたを幸せにすることの出来た、その美しくて優しい私しか、幸せを感じられないのは、どうして?
 
 そして
 その内なる言葉を、力づくでねじ伏せる。
 
 
 ほむらがまどかを救っても、まどかは救われない。
 なぜなら、まどかを救えるのは、ほんとうはまどか自身しかいないのだから。
 まどかを守り、まどかの世話をし、まどかの間違いの責任を取れるのは、まどかただひとり。
 ほむらがそれを肩代わりすることは出来ない。
 そして、ほむらがまどかのそれを肩代わりした分だけ、ほむらがほむら自身にすべきだったそれらの事が
 果たされないまま、己の魂の中に、堆く積もっていく。
 それが、魔女の呪い。
 助けて、助けてと、ほむらの中の、ほむらに見捨てられた、たくさんのほむら達の絶叫。
 ほむらはその自らの絶叫の行き着く先を、自分にでは無く、まどかにこそ向けてしまう。
 まどかが私に助けてと叫んでいるようにきこえる。
 まどかが私を絶対に助けると叫んでいるようにきこえる。
 ぜんぶ、まどか、まどか。
 すべてをまどかに投影してしまう。
 
 助けてと叫んでいるのは、ほむらなのに
 絶対に助けると叫んでいるのは、ほむらなのに
 
 
 ほむらは、助けを求めている。
 ほんとうは、自分自身にこそ、その助けを求めている。
 ねぇわたし、私を守ってよ、私の世話をしてよ、私の間違いの責任を背負ってよ。
 お願いよ、私は弱いんだって、認めてよ。
 お願いよ、私はそうやって、自分ですべきことが全然出来ていないってことを、本当の意味で、認めてよ!
 ほむらは、プライドが高い。
 自分が弱いことをどうしようもないほどに知っているゆえに、その事を認めることが出来ないほどに
 圧倒的に弱いゆえに、その自分の弱さを歪んだ形で否認する。
 私は弱い私のことが嫌い、私はその弱い私を殺す覚悟だってある、そして強くなる、だから、だから。
 
 わたしを、認めて頂戴。
 
 弱い自分を犠牲にして、強い自分だけが生き残ろうとする。
 弱い自分を否定して、強い自分だけを肯定する。
 ほむらは、プライドが高い。
 それはなにより、それほどまでに高くして隠さねばならないほどに、己の自尊心が著しく低いから。
 弱いからこそ、強くあろうとする。
 弱いままの自分を受け入れて認めることが出来ないからこそ、強い自分にしがみつく。
 ほむらにとって、魔法少女として戦い続ける強い自分が「立ち止まることと諦めること」は同義なのだ。
 強くなければここにいる価値が無いということはすなわち、弱い自分でも充分にここにいる価値があるん
 だという、そうした自尊心が無いということ。
 
 
 ほむらにとって「強い」ということは「優しい」ということに繋がっている。
 すなわち、他人のために戦えるというのが、ほむらが唯一受け入れることの出来る「強い」自分である。
 たったひとつの自分しか、受け入れることが出来ないという、事実。
 それが、ほむらの現実。
 そして
 
 
   ほむらは
   他人に まどかに
               激しく、甘えている
 
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 ほむらは共依存者である。
 他人の世話焼きに没頭するあまりに、自分自身の真の欲望がわからなくなる。
 その見失ってしまった自らの欲望の幻影を、目の前の他人に投影する。
 ほむらは、自分自身の世話焼きが出来ない。
 ほむらは、周りの人に助けて貰ったり、迷惑をかけてばかり。
 ほむらは、自立出来ていない。
 それはおそらく親子関係に起因していると思われるが、それはここでは触れないでおく。
 
 ほむらはそうした事も含めた、自分の事を認めることが出来なかった。
 なぜなら、「自立」出来ていない、「弱い」自分の存在を許すことが出来ないのだから。
 なぜ許すことが出来ないか、それはそうした自分の存在を、誰も認めてくれない、すなわち「悪」として
 自らが断罪して断定してしまっているからだ。
 深い深い、罪悪感。
 しっかりしなくちゃ、誰にも迷惑かけないように、しっかりしなくちゃ。
 そうして、極めて他者の評価、価値観の世界の中で生きている。
 ほむらの潔癖とも言えるほどの己に対する厳しさは、そうした自己の世界の喪失に由来している。
 他者の世界の中で生きるための、そのサバイバルの手段として、ほむらの共依存は強化されていく。
 誰かのために、誰かのために、誰かのために。
 そうすれば、きっと私は。
 許される。
 だれかわたしを みとめて
 弱い私でも、こうやってみんなのために強く頑張れるんだよ
 ほら、みて、私の体こんなにボロボロになっちゃったけど、わたし、あなた達のためにがんばれるよ!
 だからみとめて、だからうけいれて、だからわたしを愛して!!
 絶叫

 
 要するに
 甘えである
 
 
 
 
 ほむらは、自分で自分を甘やかすことが出来ない。
 なぜなら、弱い自分を許すことが出来ないから。
 甘えることを、自らに禁じている。
 しかしそれは、自らが自らの弱さを認め、自分が実は、どうしようもないほどに甘えることを求めている
 ことを自覚し、そうして自らの甘えを許すという、その最高の愛を自らに与えることが出来ないという事の
 隠蔽の顕れである。
 ほむらは弱い。
 ほむらは甘えたくて甘えたくて、仕方がない。
 ほんとうに、ちいさなちいさなこどものように、それはもう身も世もあらじの勢いで、叫んでいる。
 それなのに、悪魔的に甘ったれな自分のことは、ほむらを支配し、またほむらが支配している他人の 
 価値観では悪と断罪されてしまう。
 もう、弱いままではいられない、もう子供じゃ無い、と。
 ほむらはプライドが高い。
 ゆえに自らの甘えを禁じる。
 そして
 
 
 その甘えを渇望する己から伸びる指先が
 他人へ、そしてまどかへと伸びていく
 
 誰かのために、まどかのために。
 他人に認証を求める、だれかわたしを愛して、だれかわたしをだきしめて。
 どんなにプライド高く凛然とそれを隠そうとも、ほむらがやっていることはそういうことである。
 ほむらはそうして、他人を利用しているだけである。
 それはさやか曰く「隠しきれるもんじゃ無い」ものである。
 自らを愛し、自らを甘えさせることが出来ないものが、他人に共感出来ることは無い。
 
 
 ほむらには、それこそノーベル賞級の、甘えという名の素敵な才能があるのに。
 
 
 自らのとてつもない甘える気持ちを、自らが許せたとき。
 自らを愛し、自らを暖かく抱きしめてあげることができたとき。
 他人の甘える気持ちをも、初めて、許すことが出来る。
 他人を愛し、他人を抱きしめることが、初めて、その他人のためにこそ、出来る。
 それは、才能以外のなにものでも無い。
 
 
 
 
 
 何度でも言おう。
 ほむらは共依存者である。
 他人の世話焼きに没頭するあまりに、自分自身の真の欲望がわからなくなる。
 その見失ってしまった自らの欲望の幻影を、目の前の他人に投影する。
 しかしそれは、正確では無い。
 幻影でもなんでも、それを他人に投影することが出来るということは、その影の大元のものが存在する
 のだ。 
 自らの中に無いものは、投影出来ないのだ。
 ほむらはまどかに、自分自身の真の欲望を見つけていたのだ。
 まどかは、ほむらを映す鏡にしか過ぎない。
 ほむらは、まどかが幸せになる姿の中に、ほむら自身が幸せになる姿を見ていた。
 幸せになりたかったのは、ほむらだ。
 そして
 誰かのために、まどかのためになにかしたいという、その純粋な気持ちも、確かにあったのだ。
 だからこそ、ほむらはまどかを好きになったのだ。
 
 
 平和な時間を生き、暖かい家族に囲まれ、友人にも恵まれ、快活に、明るく、幸せそうな女の子。
 ほむらは、自分もそうならなければ生きられないという、歪んだ認識を以てはいたし、そうである自分の
 存在しか認めることができなかった。
 だが、ほむらがまどかに見ていたものは、それだけでは無い。
 まどかは弱い。
 まどかは甘ったれである。
 まどかはそしてなにより、自分自身を愛している。
 ほむらはまどかに、そんな自分の姿をも見ていた。
 まどかのように強くなりたい、そしてそれとは対立せずに、弱い自分でもありたい。
 ほむらが真に求めていたのは、そのふたりの自分が共存する世界。
 なにもできない甘ったれな自分を許し認めたい、そしてその上で、みんなのために頑張れる優しくて
 強い自分も、欲しい。
 弱い自分が強い自分に変わるのでは無く。
 
 自分を、弱い自分と、強い自分のふたりに増やしたい。
 
 強い自分だけしか許されない、弱い自分のままだけでいい、というのはきっと違うのだろう。
 それは結局のところ、どちらか一方を否認して成り立っているものでしか無いのだから。
 ほむらがまどかに見たものは、そうしてふたりの自分が存在し統合した、真になりたい自分の姿だったの
 だろう。
 ほむらの共依存は、それを暴き立てるためにその存在があるのだろう。
 自らが強い自分にだけしがみつき、弱い自分を否定することしか出来ないということを。
 そしてそれを自覚し、その上で、そのふたりの自分を併せ持ち、そして自らの欲望に基づきそれに見合っ
 た自分を選択しそのときどきを生きる、そんな一回り大きな次元の自我へ至るための、そのための
 ほむら自身が導き出した、最良の生きる術なのかもしれない。
 
 
 
 その気付きに至るためのプロセスを、如何にして導き出すか。
 しかしそれは、一旦棚上げされる。
 なぜか。
 それは
 まどかがいるからだ。
 
 女神様になってしまった
  ヤバイやばい、まどかがいるからだ。
 
 
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 ぶっちゃけ私は、この作品の真の主人公は、まどかだと思ってるんよ。
 ほむらはさぁ、まぁ、なんていうか、主人公かどうかはともかく、まどかを真に「自分」を生きる世界に
 向き直らせるための、そのために延々と語られてきた、ひとつの「方法論」なんだと私はおもう。
 
 ぶっちゃけ
 まどっちって、日本人っぽい。 ←語弊のある表現
 
 やばいくらいに、やばい。
 共依存を美化したものの権化そのもの。
 私が今回の文章を書いた動機のひとつは、劇場版が公開されたことにある。
 んで、子供が見て泣いて帰ったという、そういう笑い話を聞いたからなのねん。
 べつにさ、マミさんがマミられたり可愛らしい魔法少女達が血溜まr(以下中略)になって戦うのに
 びびって心の傷がとか、それはまぁそれとして論じられることもあるだろうけれど、私はどーでもいいのよ。
 
 それよりさ、私はこの作品が、たんなる自己犠牲万歳作品として、子供達に見せられるのは、
 それはさすがにやばいなーと思ったのよ。
 勿論、わたしゃアニメは自分がみて、自分で考えて感じて、どんなものであれ自分の「感想」を持つ
 ことこそ一番大切と思ってるから、子供だってそれでいいとは思っているんだけども。
 だから、これはあくまで私がまどマギを見て感じて想ったこととして捉えて欲しいのだけれども、でも同時に
 私からのメッセージとしても読んで欲しいとおもうことも、それはそれで私が感じて想ったことなのだから、
 ありだよねぇ、そしてその私のメッセージを読んで、なにをどう感じて想うかは読んだ人の自由というか。
 まぁ、それはいいや、適当によろ。
 
 
 で、なんだっけ。
 んー。
 まどかは自己犠牲万歳っつーか、まぁあれだと結局私流に言えば、自分を守り自分を世話して
 自分の間違いの責任を取るということをせず、他の魔法少女の子達を救っ(たようにみえる)て、
 はいおわり、って感じなのよ。
 まどかにはまだまだこれからの人生あるし、恋とか仕事とかあといろいろあんだろー?、そういうのなんに
 も経験せずに、それででもこれで満足とか言ってんじゃねーよ、っていうかさ。
 完全なる自己犠牲である。
 自分から逃げんな、っつー話です。
 あの子こそ、ほんとに共依存なわけで、自分が将来なにをしていきたいのかわからないとか、自分の
 やりたいことがわかんないとか、で、なんにもできない自分は駄目とか、守られてるだけとか、あれは
 まさに、ほむらちゃんそっくり。
 
 で、そういうの全部、魔法少女達を救うということに、どかんと丸投げ。
 んで、女神様に昇格。
 
 
 やばい
 やばい
 どんだけこの作品作った人、性格悪いんだよ!(褒め言葉)
 私はこの作品作った人は、ものすごーく挑戦的というか、挑発的なことをしてると思いますし、正直、
 テレビアニメのあのラストで、ほむらと、そしてまどかの物語が完結だなんて、これっぽちも思ってないと
 思います。
 まどかを自己犠牲の神にして?、んでほむらちゃんを今にも魔獣狩りで過労死しそうなワーカホリック
 にして?、それでよしとか、おもうわけねーっていうか。
 むしろ、あれは最高の皮肉というか、おまえらこれでいいの?、いいならそのままにしとくけど、自己犠牲
 最高とかってこの作品褒めるなら、はっ、俺達も作った甲斐があるもんだよ、はは。(皮肉)みたいな。
 
 私からすると、ほむらちゃんにしろまどかにしろ、そして他のキャラもすべて、共依存という概念を知って
 いなければとても造型出来ないような、そんな極めて精巧な作りになっていると思うし、その悲惨さも
 あれだけ克明に描いているわけなんだから、それをなんの解決も無しにまどっち神様にしてどーん、
 ってそりゃ絶対なにかあるって思いますよ、わたしは。
 
 
 
 ぶっちゃけ、あの作品で最も甘えているのは、まどっち当人。
 だって自分の人生生きないで、他人の人生の責任負って生きてるわけでしょ?
 自分を生きるという本当の困難から目を背け、他人の人生を生きることに逃げ込んでいる。
 逃げんな、まどか。
 そして、そのまどかを称賛して、私も俺もまどかみたいに誰かのために(以下略)とか言い出す人達が、
 まぁ、一番甘えている。
 誰も自分の未来を背負えない?
 ばか、自分しか、自分の未来を背負うことなんて出来ないのよ。
 誰も他人の未来を背負うことなんてできやしねーよ。
 それこそ、私はまどかが救うことの出来た魔法少女なんて、ひとりもいないと思ってる。
 あれで救われたと思っている魔法少女がいるのなら、それはまどかと同じように生きたいと思っている、
 そういう自分の中のうちの、たったひとりの自分だけよ。
 優しくて強い、誰かのために我が身をなげ討てる、そのように生きたいと思っている自分だけが、救われ
 る。
 つまり。
 それ以外の自分は、全く救われない。
 弱い自分、情けない自分、自分を生きたい自分、そういうのは否定されて、あぼん。
 或いは、強い自分の踏み台にされて、あぼん。
 自己犠牲万歳!
 ばか。
 やばいだろ、それは。
 
 
 神になったまどかを救うのは、誰だっつーの!
 
 
 無論。
 それはほむらや他の魔法少女達でも、私達でも無い。
 まどかを救うのは、神にまでなって自分をほったらかしにしてる、馬鹿な子供である、まどか自身。
 まどかがほむらにかけた優しくて優しくてたまらないあの言葉の数々は、まどか自身にこそかけるべき
 もの。
 そりゃあね、私も当初は、まどかはちゃんと自分を愛して自分に優しくすることがちゃんと出来ているから
 こそ、その上で他の子達のそういうものに共感して救いに走った、だからそれはそれでまどかがまどかの
 求めるもののために生きて死んだのだから、それでいいのかなぁ、とか思ってたんですけど・・・・
 
 
 なんか違う
 
 なんか 絶対違う
 
 
 だって、まどか人間じゃん。
 神様とか、死んだも同然じゃん。
 ほんとにまどかが、「人間」に共感したのであるなら、どんなことがあろうと、絶対に「自分」を捨てる
 ことなんてするはず無い。
 逆算して考えよう。
 過程はどうあれ、まどかは「自分」を捨てた。
 じゃあ、過程はどうあれ、それはやっぱり自己犠牲なんじゃないの?
 結果は、厳然としている。
 まどかは、消えた。
 自ら人間の生活を、これから沢山の人達の間で、そう、「人の間」を生きることで生まれてくる、
 その彼らとの関係性の中から生まれてくる「自分」を獲得して、ひとりの女として成長していく機会を
 失ってしまった。
 死んでしまった。
 それよりも大切なものなんて、絶対にこの世には無い。
 なのに、まどかは自分よりも他人を選んだ。
 その選んだ過程がどれだけ美化されようと、それは美化されたという隠蔽を以て、その中に隠された
 ものを暴かれるためのものになる。
 
 
 まどかには、人間の世界に帰還する義務がある。
 
 
 あとついでにほむらちゃんもさっさと魔法少女辞めなさい。
 そのまどかの帰還と、ほむらちゃんが魔法少女という「たったひとつの自己」から抜け出す過程を描き
 切って、この作品は称賛を受けるに値し、私達の希望となると私はおもう。
 そして、それが希望だと感じるのは、私がこの作品にそれを投影しているからで。
 つまり、わたしの中にこそ、自己犠牲に囚われながらも、自分自身の世界に帰還し生きていきたいという
 、そうした深い深い欲動があり、それがこの作品に希望として映し出されているということ。
 私は、その希望の物語を、自分で書いたよ、SSとして。
 
 
 
 
 で。
 
 
 私は、まどかは甘えてると思うし、まどか的自己犠牲に酔いしれる人も甘え切ってると思うし、
 そのおもいは全く変わらない。
 でも。
 同時に、私がそうして批判的な気持ちを持っていること自体が、私自身もまた、まどかやそれを称賛
 する人達と同じ気持ちを持っていて、その気持ちを持ったまさに自己犠牲的なもうひとりの私を
 攻撃し、否定しているということを、なによりも表しているとおもう。
 つまり。
 
 よーするに、わたしもまどかなわけである。 魔法少女なわけである。
 
 滅茶苦茶共感してるんですねぇ、共感してるからこそ、共感してる私を許せないんだねー。
 自己犠牲に走って、自分から逃げて自分を生きようとしない、そういう、真実最も「弱い」自分のことが
 許せないんだねぇ。
 弱い自分を許せない強い自分こそ、一番弱いのよ、ほんとうは。
 だから、弱い自分を認めて自分を生きるということは、すなわち強い自分も認めるということも自分を
 生きるということだし、それをしないのは強いという名のほんとうに「弱い」自分を見捨てているのと同じ。
 あー。
 そうじゃん。
 
 だってわたし
 まどマギみて、めっちゃ泣いてんのよ?
 さやかちゃんの全力共依存っぷりとか、杏子ちゃんの投影っぷりとか、もう死ぬほど共感してんじゃん。
 そういうのに共感してんのも、わたし。
 それも、わたしのひとつ。
 その私を否定するのは、あるがままの私を否定するのとおなじこと。
 
 不思議よね、にんげんって。
 どんなに自分の中で、弱い自分と強い自分がいがみ合っても、それは全部、その互いの自分をなによ
 りも誰よりも圧倒的に絶対的に愛しているからなんだって・・・ああ・・・胸がふつふつとこう・・・
 ほむらちゃんが共依存的にまどかを利用していても、でもまどかを愛しているがゆえのこと。
 愛しているならなにをしてもよいという事では無い、むしろだからこそ、その共依存という歪んだ愛し方
 を正したい、ほんとうにまどかを愛することの出来る方法が知りたいという、そういう、それ自体が愛
 である気付きを得られることに繋がるとおもう。
 共依存が無ければ、そんなことには気付きもしないんじゃないかなぁ。
 
 そういう意味では、あの子達の共依存を含むあらゆるあららなものは、すべて。
 あの子達の、幸せになる才能なのよ。
 
 
 
 
 個性と言ってもいいかもね。
 それは、共依存やらなにやらな自分を受け止め、受け入れるところから始まる。
 弱い自分も強い自分も、いかなる他者の価値判断を排して、愛する。
 だから私は、まどマギという作品を全く否定しない。
 否定しないどころか、大変に素晴らしい作品だとおもう。
 私は、この作品で描かれる、そう最終回でまどかが演じたような、自己犠牲的な生き方の悲惨さを、
 それを観る人達が美化せずに受け止め、そしてなによりそこから先に行くための一歩を導き出すのが、
 他ならない自己犠牲に囚われている私達自身であるという自覚が持てたのなら・・・
 
 
  それはとっても しあわせかなって  おもうよ
 
 
 泣いて、泣いて
 泣いてみようよ この作品みて。
 どれだけ自分が、自己犠牲の気持ちを持っているか、まどかを観て感じようよ。
 自己犠牲って、気持ちいいよね、晴れ晴れとするよね、そのあたたかさに興じようよ。
 私達のなかには確かに、人のために自分を犠牲にしたいという欲求はあるよ。
 だから、その欲求も満たしていこうよ。
 お腹一杯になって、もういい、食べれないよぅ、というくらいに。
 っていうか、ほんとはお腹一杯になっていないからこそ、いつまでもネチネチと狡猾に求めちゃうんだろね。
 自己犠牲に走りまくる人って、実は自分の中に自己犠牲を否定する気持ちがあるからなのかもね。
 
 まどか観て、誰かのために、なにかしてあげるのは、いいことだよ。
 自分を犠牲にしなくても、誰かのために出来ることはあるよ。
 うん、勿論、自己犠牲という名の逃避をしたいこともあるよね、じゃあそういうのは、自分が自分を
 生きることに支障が出ない範囲で、そして自分に対してオープンにやろうよ。
 これは自己犠牲で、そしてそれは自分が逃げたいからなんだって。
 美化禁止♪
 逃げたっていいんだもん、甘えたっていいんだもん、だから美化して誤魔化す必要ないんだよー。
 だって美化って要は言い訳だもの、美しく飾らないでそのまんまだと、ほんとは認められないのだよ。
 だからそのまんまを自分で許して、お腹一杯やれたらきっと。
 次の一歩に、初めて踏み出せる気がする。
 みんなそういうもんだって、わたしはおもいます。
 
 
 
 自分の弱さとかそういうのを認めると、そういう効用がありますよ、というお話。
 
 
 
 
 まー、そんな感じである。
 
 勢いに任せて書かせて頂きました。
 ありがとう。
 
 
 ということで、みんな「魔法少女まどか☆マギカ」をよろしくね♪
 まどマギのいちファンとして、そう願います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 121015--                    

 

         

                             ■■ パターン、アニメ。 4 ■■

     
 
 
 
 
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 なんだか晩秋並な寒さが広がっている今日この頃ですが、皆様如何お過ごしでしょうか。
 
 
 さて、今日もえっちらほっちらとアニメの感想を書かせて頂きます。
 
 今回は二本立てです。
 というか、二分割です。
 取り敢えず書いた分だけ早めにUpしておきたかったので、残りは週末にでもUp出来ればと思って
 おりまする。
 
 では早速。
 まずは今期開始アニメの、第一話感想の続きから。
 
 
 
 
 K: 匂い立つなんとか。
 繊細な色彩を流し込んで、そのままその中からふつふつと湧いてくるような作品。
 あんまり構えないで設定とかを作品側に任せてみると、ひとつひとつの絡みつくような濃厚な感触と、
 透明な舌触りの得も言われない展開が、なんだかこう、私の胸の奥の痛みを癒してくれるような。
 抽象的なことしか言えないけれど、抽象的にしか私は観ていないので、これでいいのだ! (うん)
 ちなみに男子に助けられて抱き留められて頬を染める男子は美味しかったです。 美味しかったです。
 あと津田さんの声が半端無く色っぽい。 女子陣もなんかこうそれぞれの艶を持っていて、あ、そっか、
 なんだかこの作品って、とっても贅沢で豪奢な飴を舐めるような味わいなのね。 (なに)
 私的には、数多い今期放送作の中でも、五指に数えたいアニメのひとつねん、いまのとこ。
 
 絶園のテンペスト: 真性中二病。
 これは笑えない。 というか、なんだろうこの観ていて気恥ずかしさすら覚えない感覚は。(ぉぃw)
 言い方悪いですけど、完全にあっちにいっちゃってる感じなので、これは耽美というよりやはり中二病
 なのだろうなぁ、てかそもそも中二病という単語はよくない思ってたけど便利だから使ってるなぁ、とか
 考えながら観てたら終わってた。(ひどい)
 内容については私はびた一文たりとも反応しないのだけれど、でもあの無人島にパンツいっちょ(誇張)
 で閉じ込められた女子が、そこから瓶になんか詰めて海に流して外界と繋がったりしてサバイバルしてく
 感じは、なんか爽快。
 あそこだけなんだかリアル。リアルというかファンタジーというか、一番共感したねw
 シリアスなことをシリアスにやる事だけが本物、というこの作品の意識が、この作品から生な感じを
 剥ぎ取っちゃってるように私は感じました。
 
 ヨルムンガンド PERFECT ORDER: 本気?
 なんかこう・・・ココさんが随分・・
 なんだろう、不思議な感じ、怖いとは感じ無かったんですけど、なんかこう今までのココさんとは違う感じ
 がして・・・本気出してきた? それとも迷ってる?
 今ちょっと忙しいから後にして、みたいにして追っ払われた感触?
 ・・・・だからしぶしぶ外出て待ってたら博士が面白くてほいほいついていっちゃったwwwなんだこれww
 ・・・・・・・・いやほんと、わたしだいじょうぶか・・?(いいえ)
 これはほんと、いよいよヨナ君がどうやってココさんと関わっていくかって感覚なんだろうねぇ、あの博士と
 ヤバイとすら言えない本気で終わってることを企んでるココさん、化け物ふたりにどうヨナ君が・・・・
 やばい・・もう言葉になんない・・・・とにかくもう、ほんと・・・・・・全力出してください、受け止めます(祈)
 
 めだかボックス アブノーマル: めだかちゃんが元気無いと。
 なんだか私までしょぼんとしちゃうw なんか下降気味ななにかを感じて、ちょっと不安。
 でも不安なんだけど、ここからどうなっていくのかっていうのは未知数なので、期待していると言えば
 期待してるし、逆にめだかちゃんが別方向に突っ走っていくのなら、一緒にお供してみたい気もするし、
 敵に回ってみても面白そうだし、うーん、なんだかちょっとおもしろくなってきたーっ! (適当)
 
 PHYCHO-PASS: 差別について。
 加害者が被害者を拉致って暴行してたら、被害者も影響受けて加害者の要素が伝染して、
 で、警察がその被害者を加害者ごと排除しようとする事に、主人公はNOと言う。
 だって彼女は被害者じゃないですか!まだなんにもしてないのに撃つなんておかしいじゃないですか!
 でもさぁ、それさ、要するにじゃあその被害者の人がやがて加害者になったら撃っていいってことだよね?
 ほっとけばあの被害者が加害者になるのは時間の問題だし、じゃあさ。
 そもそも、あの拉致暴行犯な加害者はどうなのよ?
 あの人もサイコパスだかなんだか、数値化された心理的状態を「病気」と判断されて排除されそうに
 なって、それで追い詰められて凶行に及んだわけでしょ?
 その前段階で拘束して「治療」するという措置もあって、実際そうしようとしたらその人は逃亡したって
 感じだけど、んなもん、サイコパスだかなんだかで病気とみなされる事自体が、その人の存在自体が
 否定されてるわけだし、めっちゃ差別なわけだし(既存の社会規格に適合した者のみ存在が許され、
 そうでないものはそれが治療され適合者にならない限りは存在が許されない、という差別)、実際
 ロクな扱いはされないだろし、もろ差別なわけだし。
 で、そうやって追い立てられ追い詰められて凶行に及んだ挙げ句に、撃たれて粉微塵になったわけで
 しょ?
 被害者いうならこの人こそ、最大の被害者な気がするし、それは凶行そのものの罪を裁く事とは別
 問題だよねぇ、ましてやその人にどんな性格的人格的傾向があろうと、その善し悪しを論じるなんて
 ただの他者の価値判断だし、その上その自己中な判断でその人の存在を肯定否定するなんて
 論外だと私は思う。 その辺りの問題提起がされた上で、テーマが進められると面白いけど、たんなる
 多数派で「善良」な市民達の自己中な排除の精神で加害者(被害者)を冒涜的に描く作品なら、
 まぁ、最低だね。
 この作品には今のところその辺りを直視する姿勢はあるみたいだから、非常に期待はしております。
 
 ROBOTICS;NOTES: あきちゃん可愛いよあきちゃん。
 髪型とか、うなじとか、首筋とか、鎖骨とか、足とか、膝の裏とか。
 性格? まぁ、ふつう。
 作品の内容?
 どうでもいいや。 (ぇー)
 
 リトルバスターズ!: ・・・・。
 7点。
 
 えびてん: ・・・。
 3点。 合わせて10点!(100点満点中)
 
 
 
 という感じですか。
 一応、視聴予定作品の第一話はもう全部観たですけど、感想が追いつかず−。
 残りは週末に書かせて頂きます。
 しばらくお待ちくださいませ。
 
 んで、今期視聴予定リスト。 暫定版その2。
 
 
 月: ・ さくら荘のペットな彼女 ・ ガールズ&パンツァー ・ となりの怪物くん
 火: ・ ヨルムンガンドPERFECT ORDER ・ 新世界より
 水: ・ 中二病でも恋がしたい! ・ めだかボックス アブノーマル
    ・ ハヤテのごとく! CAN'T TAKE MY EYES OFF YOU
 木: ・ 銀魂 ・ BTOOOM! ・ ROBOTICS;NOTES ・ PHYCHO-PASS
    ・ ひだまりスケッチ×ハニカム
 金: ・ ジョジョの奇妙な冒険 ・ ToLOVEる ダークネス ・ K ・ 絶園のテンペスト
 土: ・ (ソードアートオンライン) ・ リトルバスターズ
 日: ・ マギ ・ 好きっていいなよ。 ・ (へうげもの) ・ (トータルイクリプス)
 
                              :全23作品 ()付きは前期以前よりの継続作
 
 
 前回から増えたり減ったり増えたりしておりますが、まだまだ変動する予定です。
 ・・・いや増えはしないとおもいますよ、あとは切るだけ・・・たぶん・・・・・きっと・・・
 
 
 
 ということで(ぉぃ)、お次は前期アニメの感想の続きです。
 今回は戦国コレクションです。
 あと二、三作品について今週は書きたいので、それはまた週末にでも。
 
 では、どうぞ。
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 戦国コレクション:
 やるべき事、とはなんだろう。
 好きな事だけやって生きては、いけないのだろうか。
 この作品は、その、「〜してはいけないのだろうか」という問いに対して、てかそもそもそんな事問う必要
 無いんじゃないの?、誰に訊いてんのよ?あんた、あんたがそれでいいって思ったんなら、そうすれば
 いいだけの話じゃないの。
 そう、答えている。
 ただひたすらそう答えながら、自分達の好きなように生き、そして自分達が好きなように、好きな事だけ
 やって生きていくためにこそ、なにを今、そしてこれからやらなければいけないのだろうかと考え、ひたすら
 それを実践していく。
 
 簡単に言えば、この作品は、誰にも己が生きる意味を問い掛けたりなどしない。
 
 ただただ、己のまま。
 己と向き合い、己とはなにかを問い、そして、己の赴くままに生きて、生きる。
 かたっくるしい事はなにひとつ言わずに、なにも考えずに、それこそあるがままに生きていく。
 そう、その「あるがまま」ということの中には、沢山の欲望を秘め、それを叶えたいと願う、その自分自身
 の変化への希望も含まれている。
 
 異次元世界の戦国武将達(女)が、現代社会に舞い降りてきて、そこで好きなように生きていく姿を
 この作品は描いていると、私はおもう。
 その好きなようにという事の中には、嫌いなことも無論含まれているけれども、でもその嫌いなことを
 やるという事が、すべて、好きなものをやり切るために必要と各自によって判断されたものであるだけ
 だったりする。
 好きな事だけやってればいいんだよ、そう言い聞かせながら、嫌いなことも辛いことも乗り越えていける。
 そんな力があることを、この作品はなんていうのかなぁ、あっさりと、そして空高く放り投げたようにして
 描いているとわたしは思う。
 だって、この作品には善悪とか道徳とか、人の道とか、そういうものに対するメッセージや、あるいは葛藤
 なり苦悩なりというものが、一切出てこないのだから。
 
 善悪なり道徳なり、そういったものが、すべて自分の心のうちの中のものであるという、はっきりとした
 自覚があり、ゆえに、それらに従うも、それらを無視して行動するも、自分にとっては同じことだという、
 そういう意識があるようにみえる。
 言い換えれば、自らの言動の選択の責を、善悪なり道徳なりのせいにしない、ということ。
 ひたすら、ただひたすら、「己がどうしたいのか」を自らの心と魂に問い続け、その答えのリアルタイムな
 更新を以て、物語を紡いでいく。
 他人への想いも、自らの往行く末も、みなそうして変転していくなかで、しっかりとそれらを見つめて生き
 ている。
 ある意味で、アウトロー。
 そもそも、「普通」という概念が、彼女達には存在していない。
 
 言い換えれば、この作品はいわゆるセカイ系の要素から、完全に脱却している。
 
 己の持つ価値観・正義感なりを普遍化し、それが多数の他人と共有されたことで感じる自己肥大の
 感覚のままに、少数派を正義の名の元に「排除」していく。
 そういうものが、一切この作品には無い。
 正義? 普通? 常識? は? あんたなに言ってんの?
 てかなに自己中なこと言ってんのよ、あんたそれでも生きてんの?
 そうした普通なり常識なりというものを他者に敷衍し、それらを共有することで結束を図り、そしてそれら
 を遵守しないものを「自分勝手」と言って蔑む行為は、それ自体が非常に「自己中心」な行為。
 この作品に於いては、己の正義を他者に押しつけることも、それを「常識」に移入し、まさに「常識」の
 威を借りて他者にそれを敷衍するキャラは、ひとりもいない。
 そもそも、そういう構造が、まるで無い。
 溌剌と、ただただ、己のままに、己を生きる姿だけが紡がれていくゆえに、その己を生きる者同士が
 かち合う、その瞬間がなによりも清々しく、そして瑞々しい。
 
 人間の、すなわち人の「間」で生きる存在の多様性を、ここまで個々の物語として並べた作品も、
 珍しい。
 
 それはつまり、生き方の多様性、とも言えるのかもしれないね。
 
 それくらいしか、言うことないよ、わたしゃもう。
 たのしいというかうれしいというか、なんだかこの作品がテレビで放送されていたこの半年間の存在こそが、
 なによりこの作品が放送された社会に寄与するものになっていたとおもえることが、とってもしあわせ。
 いいよね、こういうアニメって。
 なんていうか、社会の複層性、すなわちあらゆる種類の人達が、その人達自身のその人達らしさの
 まま、あるがままに生きて存在している事が可能な、そんな社会の豊かさ、奥深さを描いていて、
 こういうものをじゃんじゃんもっと作っていけば、もっとずっと生きやすい、しあわせな社会の創造に繋がって
 いくかもねぇ。
 みんながみんな、「私」というアウトローである事の自覚を持てたら、いいなぁ。
 数ある萌え武将アニメの中で、この作品は完全に毛色の作品でした。
 いいね!
 ガンガンいこう、いこうよ♪
 
 
 
 以上です。
 
 残りは週末にでも。
 って何回言ってるんじゃ。
 
 
 それでは、ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 121009--                    

 

         

                             ■■ パターン、アニメ。 3 ■■

     
 
 
 
 
 紅い瞳です、ごきげんよう。
 
 なんかアニメの感想を書いていたら調子出てきたので、調子に乗ることにしました。
 この秋は、ノリノリでキメていこうとおもいます。
 どっか飛んでいこうとおもいます。
 さがさないでください。
 
 
 ということで、今日もアニメのことを書きます。
 えー、前期アニメの感想の続きを書く前に、今期開始アニメの第一話感想を、まずちらほらと。
 まだ視聴予定の半分くらいしか観てないかなー。
 ・・・どんだけあるんですか、今期
 
 
 新世界より: うーわー、ほんと神経に障る。
 とにもかくにも全編に渡る、黒板を爪で引っ掻いたような悪寒がこう、すごい。
 人の嫌がる要素をこれでもかと深く埋め込んでいる感覚は、ストーリーだけ見るとなんてことは無い
 作品だけど、どんどんと深まって、私の中から取れなくなる。
 これはもうあれだな、どこまで私の神経を逆なでした上に八つ裂きにしてくれるかだな。
 二話以降加速度的に嫌な世界を広げていってくれることに期待。
 
 となりの怪物くん: やっばい、これゾクゾクする!
 真面目、というか素っ気ない主人公の女子高生と、とにかく純粋で直情で攻撃的な男子とのやりとり、
 というかある意味滅茶苦茶歯車が合わないまま、よっつにがっぷり組み合ってもつれてどっか転がってく、
 そんな感覚が、やばい、私の胸を躍らせる!
 これはもうあれだな、細かい心理分析とか野暮だわ、とにかくわたしはこの作品の、あのふたりに翻弄
 されたくてウズウズしてる!最高!現時点でこの作品が今期で最高!やー!(なに)
 
 神様はじめました: これは。
 無い。
 ・・・ごめんなさい、どうとも言いようが無いわ、えっと、二話観て駄目なら切ります、うん。
 
 中二病でも恋がしたい!: アホだ。
 ヒロインの中二病患者がアホ過ぎてお腹痛いwwしまった、こんなに重症なのが来るとは思ってなかった
 のでマジで笑い死ぬかと思ったww
 ほんとアホはいいwアホはいいよ、自分の素敵だとおもったこと、すごいとおもったことに脇目も振らずに
 ひた走れる、それがどんなにか凄いことなのか、笑いと共に私の胸の奥に駆け抜けるこの爽やかな
 感じは、ああ、お腹痛い(ぉぃ)
 ひたむきと見せかけて、実はこの子、アッチの世界には行ってないのよね、だからどんなにファンタジー設
 定な自分を演じようとしても、やり切れてないというか、ミス続発というかwwうわアホだwwアホがおるww
 要するに、基本普通人(?)なんだけど、日常言語を意地でも中二語に翻訳して喋らずにはいられな
 いだけっていうか、ヘタレというか残念感がすごいwwツッコミはふつーに言えで終了w
 中二病をここまで軽快なコメディに組み込んできたこの作品に、わたしは拍手喝采デス!
 
 ハヤテのごとく! CAN'T TAKE MY EYES OFF YOU: ハヤテかっこよすぎ。
 というか以前のシリーズではそんな思わなかったんだけど、ハヤテとナギの親密っぷり燃え。
 というかまぁ私の方が変わったということなんでしょうねぇきっと。
 たぶん、飽きるまでは観ます。
 
 銀魂: 番組表にまで・・おまえ・・
 金魂になってるしwwだれだこれでやろうっと言い出した奴www
 まぁこれがすべてかな今のとこwwお手並み拝見でございますw
 
 BTOOOM!: うわぁ。
 よーするに、ひきこもり男子がゲーム内だけで無敵であることで天狗になっているその鼻を、実際の
 リアル殺戮ゲームに投入することでへし折るための作品でしょ?
 なんかこれでただ現実に目覚めただのリアルがどーのと言い出すだけの作品ならつまらないなぁ。
 もっとこう二話以降に違うものを魅せてくれると、視聴継続の意欲も湧くのだけれどもね。
 
 ひだまりスケッチ×ハニカム: 通常運転。
 続編は何年かぶりなんだけど、ええと、感想が持ちにくいくらいに、今まで通りですね。
 ひだまりって基本ソフトだから、やっぱりゆるゆりとか観たあとだと、物足りなくなる部分もあるけれど、
 でもそれは逆にひだまりをゆるゆり系のモードで観てるからだよねーモード切り換えないとあははー(なに)
 
 ジョジョの奇妙な冒険: どうしたらいいの。
 ごめんなさい、どう反応したいいのかわかりません。(ぉぃ)
 ただひとつ言えることは、心が折れるまでは頑張って観てみようということです。
 もう少し逝ける。(マテ)
 
 
 と、現時点で視聴したのはここまでで御座います。
 ・・・これだけでももう、随分観たよね・・・やばい・・・・HDDレコーダーさんが過労死する
 積極的に切っていきたいところですが、果たして出来るかどうか・・・・がんばります(ぇ)
 
 
 
 さて。
 では改めまして、前期感想です。
 今回は薄桜鬼 黎明録貧乏神が!の二本でお送り致します。
 
 では、どうぞ。
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 薄桜鬼 黎明録:
 特に見るべきところも無く。
 うーん。
 あんまり私は面白くなかったなぁ。
 これまでのシリーズにあった、なにかこう、うねりのようなものが無いように感じられて。
 主人公の自分を大切にする生きっぷりは私も好きだし、それと土方さん達のしている事を比較すると、
 土方さん達の子供っぷりがよく浮かび上がってきて、それはそれでよいんだけど・・・
 
 うーん 物足りない
 
 芹沢さんは土方さん達の子供っぷりを照らすもう一方の鏡ではあるんだけど、でも結局芹沢さんも
 自分がほんとうに望んでいるものはなにか、そしてそのもののために「生きる」という事が出来ないまま、
 ただそれで終わってしまっていて。
 人の命は自分の夢とやらを叶えるための道具では無いし、その道具を使い潰すことを犠牲とは絶対に
 言わない芹沢さんは立派だし、人を殺して叶える夢など己のエゴでしかないという自覚を十全に
 表して人を殺したり悪さをする彼の彼っぷりは、まぁ拍手はしないけどおかしいとは私は思わない。
 善とか大義とか夢とか人の心とか言って、人を殺すことに正当性を付与することでしか歩けない土方
 さんの無責任っぷりに比べれば、よっぽど自分の行動に責任を負っている。
 私がここでいう「人」というのは、他人はもとより、無論自分自身のことも含むよ。
 
 でも。
 じゃあ芹沢さんはそのエゴというか、その自分がやっていることに満足しているかというと、そうでもない。
 極論すれば、人を殺すために彼は生きている。
 理由もわからずに、人を殺し、人を傷付け、人をなぶる。
 自分の中の闇と向き合いながら、ただそれに対して自嘲を以てしか当たることのできない、芹沢さんの
 弱さは、共感を覚えると同時に、そこから先へ踏み出す意志と知性のない、本当の意味での獣を
 わたしは感じる。
 
 なに悲劇ぶってんだ、おっさん。
 
 惚れていた女が死んだとか自分が病気だとか、そういう「物語」に対する共感や誘われる涙はあるけれ
 ど、その「物語」のせいにして、自ら自身の生を生きる事から逃げ続けている、その真の自己責任の
 放棄に対しては、私は全く同意しないし、怒りすらも感じる。
 その自分の幼さに対してこそは、見事に土方さん達と同じように、正当化を図っている。
 彼の心にあるのは、激しい自己憐憫。
 そして彼に無いのは、その憐れな自分を救い、生き抜こうとする彼自身のおもい。
 その本来自分こそが全うすべき、どんなことになろうとどんな姿になろうと生き抜こうとする、そういう
 自分の「仕事」を、主人公にこそ仮託してしまっている。
 主人公に生きろとか言ってる暇があるんなら、てめーこそさっさと新撰組なんぞ武士なぞやめて生き
 抜けっての!
 
 私自身は、芹沢さんのような人間に対して、愛憎を持っている。
 ある意味非常に共感しているところもあるし、それが裏返って同族嫌悪的なところもあるし、
 そして彼を救ってあげたいと激しくおもう私もいるし、同時にそれこそ私自身が私を生きる「仕事」を
 彼に仮託しているんだということの気付きを得ることもある。
 私は正直、芹沢さんのこと嫌いなんだけど、その嫌いな芹沢さんのことが好きなんだ。
 好きだからこそ。
 救いたいとおもう。
 芹沢さんのことを好きとおもうのは、芹沢さんと私が同じだから。
 芹沢さんを救いたいとおもう私のおもいは、なにより、私自身を救いたいという気持ちと繋がっている。
 
 ああ
 そうだね
 芹沢さんが主人公に生きろと言ったのは・・・
 それはなにより、芹沢さん自身が、死ぬためにしか生きられない、そんな自分にこそ、生きろと言いたい
 からなんだねぇ・・
 
 でもそうして生きるために生きることが出来ない自分の弱さ、そしてそれを認めることのできないさらなる
 弱さこそが、その自分の生への気持ちを否定してしまう。
 芹沢さんは、自分のことが嫌いなんだねぇ。
 無様に生きる主人公のことが嫌いなんだねぇ。
 そうして、弱いまま死ぬために生きる自分を肯定しようとする。
 そのエゴのために生きてしまう、でも、それは芹沢さんの本当の望みじゃ無い。
 きっと
 きっともっと長く、もっとずっと長く芹沢さんが主人公と過ごすことが出来れば・・
 きっといつか、芹沢さんはその自分の本当の望みのままに、生きるようになれたかもしれないねぇ・・・
 
 悲しいよ。
 とっても。
 
 芹沢さんを殺さないでくれ、俺は死にたくないと叫び続けたあの主人公龍之介の姿と、龍之介を守る
 ために、そして土方さん達を導くために羅刹となり殺された芹沢さんの姿が、ひとつに重なってみえるよ。
 芹沢さんは、とっても生きたかったんだねぇ。
 でも、自分以外を助けることでしか、その自分の気持ちを満たすことはできなかったんだねぇ。
 そして・・その満たされたという気持ちは、本物じゃない、紛い物。
 悲しいね、とっても。
 自分のために、自分が生きる。
 それだけがただ、誰もが本当に願う祈りなんだ。
 生き切る覚悟を背負った龍之介の姿だけが、私の目の前から晴れやかに消えていく。
 消えて、それは・・きっと
 頑張ろう
 私こそが、がんばろう
 芹沢さんが嫌いで好きで、私のことが嫌いで好きな、そのわたしのために。
 わたしだって・・わたしだって・・・芹沢さんみたいに・・芹沢さん以上に、とっても弱いんだから・・・
 自分の弱さに、最近、正直に泣けるようになってきた私です。
 ああ
 きっと、わたしは芹沢さんがなにもかも放り出して泣く姿がみたくて、こんな事書いてんだろなぁ。
 ・・・・ちょっと洗面所行ってきます
 
 
 
 貧乏神が!:
 なんで人のためになにかしてやんなきゃいけないのよ!
 幸福エナジー?それが私には異常なほどある? へぇ、そうなんだ、じゃーそれはわたしのものよね。
 私のものは私がどう使おうと、それは私の勝手でしょ?
 うるっさいわねぇ、誰が他の奴のためになんか使ってあげるかってのよ。
 まぁ、諏訪野くらいになら使ってやってもいいけど、あいつには色々と世話になったし?
 はぁ? なに? やろうってんだ? ならかかってこいよ、力尽くで幸福エナジー奪ってみろってんだ!
 この、貧乏神が!
 
 はい。
 そういうことです。 (なに)
 
 簡潔に言えば、この作品は、人のためになにかすることを美徳とか、当然のことだとか言ってんじゃねーよ、
 そういう事言うからみんなツンデレになっちまうんじゃねーか!、ということを主張しているようにわたしには
 見える、みえます、みえてますよ!
 だってさぁ、そういう事するアホ一杯いるじゃん? その人が誰のためになにをしようとなにをしなかろうと、
 それはその人が決めることで、その人が責任負うことであってさ、そういうの全部ぶっちして、勝手に
 そういうのを他人が決めるのっていうのは、これは、怒っていい。
 
 わたしゃ、あらぶる市子がさ、だいすっき☆
 
 それこそあたりまえだっつの、市子が他人の幸福エナジー吸って他人を不幸にしてしまうという事に関して
 だってさ、それで他人が不幸になってしまうのが嫌だから、幸福エナジー返しますっていうのは、それも
 全部どうするかは市子の決めることだし、善悪も道徳もなんも関係無いし、仮に善悪にしろ道徳にしろ、
 それらを遵守してそれに殉じるかどうかを決めること自体は、市子がすることだし。
 わたしゃ、自ら選んでみずから責任を負って悪だの外道だのになる人は、ただ善悪だから道徳だからと
 いうだけで全部それに丸投げして自分で選ばず責任負わない人よりも、何倍も尊敬できる。
 善悪とか道徳のせいにしてんじゃねーよ。
 自分がなにをしたいか、ただそれを知り、そのために生きる。
 わたしはわたし、あなたはあなた。
 もし私が、人のために力を使いたいと、そう自らの欲望としてそれが目覚めたとき、初めてその行動が
 その人のものになり、そしてその人がその自らの行動に対して責任を負ったといえる。
 素敵じゃないですか、それこそ。
 
 市子は作品を通して、自分がなにを求め、そしてなにが自分にとって一番いいかを自分で決められる
 ようになっていく。
 市子は非常に自立的な人間だし、貧乏神の前で、そして世界のあらゆる市子から自主性を奪わんと
 するものの前で傲岸に屹立するその姿は、なによりも清々しく、生命力に溢れている。
 私は人として、市子を最大限に尊敬出来る。
 
 市子はさ、私にはこう見えるのよ。
 必死で自分の自主性、そして自己決定権を守るために、それを阻害するあらゆるものと戦いながらも、
 いつしかその戦いで手一杯になってしまい、その自分が選び決定するための、ほんとうに自分が望んで
 いたものがわからなくなってしまっていたと。
 市子のあの他者の評価の中で自分の地位を上げることに、それこそマニア的に執着していたのは
 それの現れで、そうして外的な評価で自分を武装することで自分を守り、そして戦っていた。
 でも、元々市子を攻撃し、その自己決定権を否定していたものこそが、その外的な評価基準その
 ものだったことを、市子は見失っていく。
 外的な評価基準から身を守るための戦いが、いつのまにか外的な評価基準に支配され、その中での
 地位を得ることでそれから攻撃を受けない、というものになってしまっていた。
 既に本当の意味ではだから、市子は自己決定権を失っていた。
 
 なにしろ、自分の基準を育てることが出来なくなってしまっていたのだから。
 
 それが、貧乏神紅葉とのバトルや、蘭丸達との出会いの中で、変わっていく。
 自分が本当になにを求め、なにを楽しいと感じ、嬉しいとおもうのか。
 ただその事に殉じることこそが、本当の自分をそして自己決定権を守ることに繋がっていくし、
 それが自分を成長させることなんだということを知っていく。
 極論すれば、じぶんが成長すれば、そもそも自分を守るために戦ったりしなくなるし、逆に自分が
 育っていない、もしくは育てることに集中することが出来ないからこそ、守るための戦いに身を投じて
 しまう。
 家族団らんの風景に対して嫌な気分になって攻撃的になるのも、それは自分がさびしいんだという
 自分の気持ちを受け止めて癒していく作業から目を逸らすためにしていることだったり。
 わたしゃツンデレっていうのは、そういうもんじゃないかなーって、ちょっぴりおもうのよ。
 自分と愛しく向き合えないから他者に攻撃的になる、自分に自信が無いから他者に対して高飛車に
 なる。
 攻撃は最大の防御というように、市子の攻撃力の高さは、防御力の弱さにこそ起因している。
 
 じゃあもし、市子がその自分の弱さに気付いたら。
 さびしいという気持ちを、どうしたら満たせるのかなって、真摯に考えるようになったら。
 
 わたしは市子とシンクロする。
 共感を越えて、一体感すら覚えてしまう。
 好きだなぁ、市子。
 自分の寂しさに気付いて、そしてだから友達といるときに感じる、あの嬉しさに、やっとまともに向き合える
 ようになって。
 ひとつ、ひとつ、丹念に、丁寧に、なぞるように、愛おしむように、恥ずかしがりながら、一歩ずつ。
 人肌って、あったかいのね・・
 あのよろこび、あのどうしようもない、あの・・・ぬくもり・・・
 欲しい、もっと・・
 市子の心の声が、私にはあの画面の中に響き渡っているように感じられたよ。
 こんなの・・
 こんなの・・・・・
 涙が止まらないじゃんか・・・
 こんなの
 こんなの・・
 
 人間が、他の奴らのことが、だいすきになるに、決まってんじゃん!
 
 それだけのことよ、この作品がやってることは。
 紅葉と罵り合うのも、蘭丸に叱られるのも、石蕗にキレたり恥じらったりするのも、全部。
 市子が手に入れた、そして市子が望んだ、市子の生き方そのもの。
 そのためにこそ。
 市子は自分を投入してよい。
 市子のすべてを、市子の幸福エネルギーを、市子のおもいを、魂を。
 そうしてひとつひとつ、市子を使いたいものを、人を、増やしていけばいい。
 それ以外のものに人に使うべきものなんて、1ミリたりともありゃせんよ。
 だってそれが、市子だけの市子の人生なんだもの。
 市子は、そして私は、誰かのために生きているんじゃ無い。
 市子は、そして私は、自分のために生きている。
 人生ってさ
 たった一回しか、無いんだよね。
 誰のせいにもしたくないじゃん。
 ラストに、諏訪野さんに「友達ができたよ」と葉書を送ったシーンに、私はなによりも、生きることの
 喜びを感じたよ。
 うれしいな
 とっても
 とっても
 うれしいな
 
 ありがとう  ←涙でぐしゃぐしゃになりながら
 
 
 
 
 という感じです。
 なんか泣くとすっきりしますねぇ、やっぱりw
 泣け泣けwくいっといっとけw
 
 なんだかアニメの感想を書いていると、一気に自分の中にあるものが噴出してきますね。
 そしてそれを言語化して、ずらずらと書いてみて、そうすることで、ああ、そういうことかって、自分では
 気づいていなかった自分の事が感じられて、なんというか、ひとつの体験ですね。
 結構書いてると苦しかったりするところもありますし、でもそれは書いていてすっきりするのと、同じこと
 なんじゃないかなぁと感じました。
 苦しいということは、きっとなにか意味がある、それを感じて書いていくうちに、一段深いなにかが見えて
 くるかもしれませんし、すっきりすることとはまた別次元のなにかを得られるのかもしれません。
 むぅ、やっぱり私は文章を書くことが、私の生活には必要なようですね♪ よしよし♪ (なによ)
 
 
 ということで、色々さらにノってきましたので、ペースは遅いかもしれませんけれど、アニメの感想を
 楽しく、そして想いを深めながら書かせて頂いております。
 ありがとう♪
 
 次回はまた来週になっちゃうかもねぇ、週二回更新出来るとよいのですけれど。
 
 では、今回はこの辺りにて。
 みなさんにも、よいアニメライフがあることを祈っております。
 勿論アニメ観てない人もねwアニメのところに別の言葉を当て嵌めてwナイスライフw
 
 
 ごきげんよう。
 またね♪
 
 
 
 
 P.S:
 忘れてました、読書リストです、読書の秋だけに。
 
 中島かずき 「髑髏城の七人」
 吉野万里子 「エキストラ!」
 和田はつ子 「魔神」
 夢枕獏 「陰陽師 天鼓ノ巻」
 桜庭一樹 「GOSIKs -ゴシックエス・春来る死神-」
 
 髑髏城とエキストラとゴシックを同時並行読み。 うわこれたのしー☆
 髑髏城とエキストラは妙に私にとっては読みやすい文体と語り口なので、すいすい読めてしまいます。
 ゴシックは、無論アニメから入った私がようやく原作に手を出しましたということです、というかたまたま
 図書館にあったのを見つけただけなので、他の巻にいけるかどうかは未知数というか、え、ゴシックエス
 のエスってなに? どうもちゃんと調べてないけど、これ本編じゃなくて前日譚みたいな感じの扱いが
 原作ではなってるみたいですけど、内容はアニメの第一話辺りの、つまり九城とヴィクトリカの出会い
 辺りの話が所収されていて、懐かしいというか、そういえばヴィクトリカって「しわがれ声」設定だったのよ
 ね、でもアニメのヴィクトリカ声は悠木碧でそんな感じはしなかったよねぇ、可愛かったよねぇ、あ、なんか
 またヴィクトリカのとっぱずれた歌とか聴きたくなってきたーっ!
 ・・・とまぁつまり原作は読んでるけど、ま、こんなもんかって感じかなぁわたしは、イラストもカバーや
 口絵はぞっとするくらいに美麗なんだけど、本文イラストが・・・これはいくらなんでも雑すぎなんじゃ・・・
 
 以上。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 121004--                    

 

         

                             ■■ パターン、アニメ。 2 ■■

     
 
 
 
 
 ふたたび前略の、紅い瞳です。
 
 
 台風一過でまたぞろ少し暑くなってきましたね。
 
 ということで、今期改め前期アニメの感想を今回も書かせて頂きます。
 もう理由はなんでもいいらしいです。
 
 とそのまえに、来期改め今期開始アニメの視聴リストをぽちっとな。 暫定版。
 
 
 月: ・ さくら荘のペットな彼女 ・ となりの怪物くん ・ 神様はじめました
 火: ・ うーさーのその日暮らし ・ ヨルムンガンドPERFECT ORDER ・ 新世界より
 水: ・ めだかボックス アブノーマル
 木: ・ 銀魂 ・ 中二病でも恋がしたい! ・ ROBOTICS;NOTES ・ PHYCHO-PASS
    ・ ひだまりスケッチ×ハニカム
 金: ・ K ・ 絶園のテンペスト
 土: ・ (ソードアートオンライン) ・ リトルバスターズ
 日: ・ マギ ・ 好きっていいなよ。 ・ (へうげもの) ・ (トータルイクリプス)
 
                              :全20作品 ()付きは前期以前よりの継続作
 
 
 注目は、続編組のヨルムン、めだか、ひだまりと、新作組では、となりの怪物くんと好きっていいなよ
 あたりでございます。
 
 あとは神様はじめましたがフルバっぽくなると俄然面白くなりそうですし、新世界よりがなにやら百合も
 あるとの未確認情報もあったり、中二病でも恋がしたい!は京アニですし、マギはなんか豪華っぽいの
 で、その辺りも今期にひとはな咲かせて頂けると嬉しいですね。
 
 
 改めまして、前期感想をば。
 
 今回は、氷菓ゆるゆり♪♪アクセル・ワールドの三本立てです。
 ちなみに感想の執筆順は、基本私の所での最終回の放送順もしくは私が視聴した順番です。
 たぶん。
 
 んでは。
 
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 氷菓:
 一言でいえば、ほーたろーと千反田のラブっぷりにもきゅもきゅしてた。
 ・・・。
 なんていうか、あの、こう、なんというか、ね。
 ・・・・。
 基本、ミステリ部分は読み飛ばして観ていた人なので、そういう人間関係的な、や、人間関係って
 いうかほーたろーと千反田のらぶっぷりしか観てないんだけど。
 基本、千反田の千反田っぷりがおもしろ可愛くってずっと観てたんだけど、やっぱあの子はほーたろー
 というか折木さんへの特別な感情を感じ始めてから変わったよねー。
 なんか、可愛くなくなった。 良い意味で。
 んー、可愛いという形容が当て嵌まらないというか、一歩進んで、なんか。
 カッコイイ。
 だって、あの子、ある意味完全に折木さんを手に入れてんじゃん。
 たのしそーというより、マジ入ってるというか、ガチで既成事実をコツコツと積み重ねているような。
 しかもあれ、彼氏彼女とかそういう形式ゲットじゃなくて、もう完全に出来上がっちゃってるというか、
 自然にくっついた系みたいな、あー、上手く言えないんだけど、なんていうか観てるこっちが息を飲む。
 なんか告白無しで付き合っちゃうとか以前に、もうただ延々と千反田はのべつまくなしに折木さんに
 告ってるような感じ。
 本音丸出し本気丸出しというか、好きとか愛してるとかそういう言葉をひとつも使うことなく、その上、
 自分の好意すら如何なる形で伝えることなく。
 
 出来上がっている。
 
 京アニの技術とかまぁ色々見所はあるけれども、私が一番この作品に感じたのは、このもきゅもきゅ感。
 なんでしょうね、この感覚。
 千反田が好きか嫌いかと言うと、たぶん私は好きなんだろうけど、でもなんかこー、千反田をひとりの
 人間として観ていないとこがあるっていうか、んー、なんか言い方変だけど、ひとつの「現象」として
 捉えてる節があるね、私。
 たぶん、私は折木さんっていうか、ほーたろに自分で思っているよりもずっと、私を移入してる。
 私はほーたろの立場から千反田を観ているつもりは無かったんだけど、「折木さんの周りで飛び跳ねてる
 千反田」の面白さとか、「折木さんに喰い付いてくる千反田」の痛快さとか、なんだろう。
 嬉しいんだね、やっぱり。
 自分でなんだかんだ言って笑ったり泣いたりしながらも、心の中心点にどっかりと居座っている、虚しさ
 というか空虚さみたいな、省エネ上等な私が居っぱなし。
 その私に対する私の気持ちは怒りにも似ていて、だからどうしてもその虚無的な私を潰して、笑ったり
 泣いたりする自分だけに同化しようとする。
 だから、私はあんましほーたろに感情移入「しようとしなかった」のかもしれないねぇ。
 だから、笑ったり泣いたり感情豊かに駆け回る千反田ばかり観ていたのかもしれないねぇ。
 でも。
 
 千反田の存在は、千反田という現象は、そのままの虚しいほーたろを、そして私を。
 ぐいぐいと、引っ張っていってくれた。
 
 ほーたろはほーたろのまま、気付いたら随分と変わっている。
 私もこの作品を見終えたときに、なんだかほっと、力が抜けた気がした。
 虚しさを感じている事自体に、罪の意識を感じていたわたし。
 でもその虚しい私、虚しいほーたろでも、それでいいんです。
 なんかこう、私の中にいる千反田的わたしこそが、そう私に語りかけているのを、感じて、ほっとした。
 きっと、その溜息こそが、ひとつひとつ、この作品に満ちている、たくさんの瑞々しい光とわたしを、
 繋いでくれたような気がするよ。
 感情目一杯の千反田と、虚しいほーたろのふたりが、私の中で並んで歩いている姿を感じて、
 なんだかこう、やっぱりアニメって不思議だなぁと思ったのでした。
 互いに隣を歩き合う中で、ほーたろと千反田はそれぞれ自分が求めていた、しかし足りなかったものを
 自分の力で得ていくのでしょうねぇ。
 そうやってお互いの存在が、それぞれを高め合っていくことになる、そういうものが、今のわたしの心を
 なによりも深く揺さぶってくれるのでした。 つかあのふたりははやく結婚しろ。
 
 
 
 ゆるゆり♪♪:
 私は親密な関係が好き。
 いちゃラブ好きだし、スキンシップ好きだし、ニヨニヨする触れあいは大好物。
 つかみんなもっとスキンシップしよーぜー。
 改めてゆるゆり観て思ったけど、これたぶん女子同士限定ってわけじゃーないみたいな、私の場合。
 百合自体もそれは別の次元で好きなんだけど、でもゆるゆりの場合、女子同士であることに特別の
 意味は無く、ただより親密な触れあい、身体的精神的距離的なね、そういうものがあるからこそ、
 私はこの作品を観ながら、胸を押さえているのだとおもう。
 
 やばい。死ぬ。
 
 異性同士のカップルのラブラブも好きだし、BLも好きだし、それらは恋愛とか男子同士という意味で
 より、やっぱり同じく親しく密接にいちゃいちゃしたりツンデレしたりする、そういうものが観たいからこその
 ものなんだとおもう、わたしの場合。
 甘々である。
 甘えとか甘えられとか、実は大好きである。
 我が儘大好き、ツンデレ大好き、妄想大好き、自己犠牲大好き。
 場合によってはそれらの要素は私によって嫌われるものであるけれど、それらは大概、それらが相手との
 関係性の深さに当事者自身がニヨニヨするものでは無く、そういうものがたんに作品的に美化されて
 別のものに利用されているときだったりする。
 
 私は親密な関係が好き。
 
 共依存的なものがあったとしても、なんというか、それがあると生きるのがつらいぞーという自覚があれば、
 というか、そういう自覚があってなおそうである、ということ自体が、実はとても素敵なことなのであるなぁ、
 と、最近わかってきたよ、わたし。
 ツンデレもそうよねぇ、素直になりたい正直になりたい、そうおもうことは素敵だし、それはそれで頑張って
 欲しいけれど、じゃあツンデレである自分は「駄目」なのかというと、そんなことない、それはそれで、
 とっても魅力的。
 というより、ツンデレである、ということ自体が、素直になりたいという気持ちを生み出した、まぎれもない
 素敵な母体なんだよねぇ。
 甘え甘えられの関係だって、そりゃあ色々それ自体に問題はあるのかもしれないけれど、そういう面倒
 を抱えながらも、相手のことを想い合って、そして自分のためにしっかりと生きていこうとする、それら
 全体を含めてのその子の姿が、とても私には可愛らしくみえる。
 まえは、責めるばっかりだったけどね、同族嫌悪的自己嫌悪的な?、そんな感じあったよねーわたし。
 
 なんらかの「問題」があったとしても、それ込みで生きられる姿は、とってもすごいことなのに。
 そういう「問題」って、それを「直す」ことよりも、それと「どう付き合っていくか」、ということが最重要で
 あって、むしろその「問題」を直して消してしまうことで、その「問題」と付き合う自分を無くすという事
 だったら、そういうのはもう、全然わたしは、魅力を感じないかも。
 それは「問題」と向き合わずにそれを解消しようとする事から逃げ続けるのと、同じことって私は感じる。
 
 自分の「問題」も愛することが、ほんとの自分とそして他者との親密さに繋がるって、わたしはおもう。
 
 ゆるゆりの心臓部にはあるのはまさに、全肯定的な愛なんじゃないかなー、愛。
 
 千歳の妄想&鼻血コンボも、綾乃のツンデレも、結衣のツッコミも、京子の誰もついていかない暴
 走っぷりも、ちなつの腹黒ヤンデレっぷりも、向日葵のおっぱいも、櫻子のアホの子我が儘っぷりも。
 なんだかとっても、愛されている。 (注:一部無関係なものとひとり居ない人がいます)
 
 たのしくふざけて、ぴったりくっついたりちょこっと離れたり、甲斐甲斐しく世話したり世話されたり、
 甘えたりしがみついたり、怠けたり頑張ったり、好きって言ったり好きって言えなかったり。
 なんだろうなぁ、ゆるゆりっていう作品はギャグというのがひとつ大きな要素で、それが観る者に笑顔を
 もたらしてくれるけれど、私はそれと同時に、あの子達の優しくて、そして甘々な親密っぷり自体が、
 笑顔を与えてくれているようにも感じるの。
 あの子達の他の子への気遣いが、胸の奥からほっそりと立ち上ってくる瞬間、私はとても、嬉しくなって
 しまう。
 なんだか私もその子と一緒になって、その他の子に寄り添ってしまうというか。
 語弊のある言い方だけれど、この作品に私が感じていることの大きなものは、一体感なのかもしれない。
 一体感というか、彼我の境界線が曖昧になっている感じ?、ある意味に於いて、あの子達って、
 同じものに対して、おなじように喜んだり悲しんだりしている、そして私もそこに没入する、その共感を
 伴った親しさ、ひいては同志的な感覚も、ほわほわーっとしながらも感じている。
 
 なんていうか、この作品に最も似つかわしくないのが、「コミュニケーション」という言葉な気もする。
 異なる存在である者同士が、同じ存在である「フリ」をして、なにか(マナーとか価値観とか)を継続
 して共有し、その共有の度合いで色々なもの(上下・尊卑)を決める、という欺瞞がね、この作品には
 無いように私は感じる。
 そういう意味では不思議なことだけれど、この作品に「他者」というのはいない気がするんよね−、
 そもそもみんな初めから根本のところで同じ同一の存在だから、フリなんかそもそも無いし、わざわざ
 共有するために力を尽くすことも無いから、欺瞞も発生しない。
 まぁ、完全なファンタジーなわけですけれども、だからこそ、その純粋な同一感、一体感、そしてまるで
 ふたりでひとつであるかのような親密感が、なんだろう、私を惹き付けてやまないんです。
 
 いや、違うかな、というより、この作品の子達は、仲間であるための如何なる努力もしないし、
 そのために自分を変えようとする、そういう「自分」否定を一切しないのよね。
 だって、みんな最初っから「同じ」なんだから、変えるひつよーないじゃん。
 あの子達は表面上色々な「キャラ」を持っていて、だからそこは違う存在同士なんだけど、でもその
 「キャラ」の底流にある人間としての存在そのものが全く同じ、だから違う「キャラ」同士である自分達の
 ことを変えないし、その「キャラ」もそしてその大元の自己存在についても否定しない、という事かな。
 
 ゆるゆりという作品では、なによりキャラの多様性とその存在が許されている。
 
 それはほんとの意味での、他者の存在の尊重、そして対等な関係と言えるのかもしれない。
 
 私はそういう関係性に憧れる。
 すっごい好き。
 あくまでそれはファンタジーであるけれども、でもそれは、ファンタジーとして好きなわけでは無い。
 現実の中にも、そういう対等のなにかを感じるファンタジー的な瞬間というのは、そこここに落ちている。
 たとえ一瞬でも、誰かとその時間を共有できたなら、それは幸せ。
 現実の中で、普段互いにケジメを付けて境界線を守って付き合う中で、そういう瞬間があっても
 いいし、それを夢見ることは、ああ、とっても素敵なことだと、わたしはおもうなぁ、最近。 
 というより、そういう夢を見ることを許し合うことが出来た人同士が、きっと。
 
 甘々な時間を共に過ごせるようになるんじゃないかな。
 
 まぁ、私にはそんな人いないけど。  ←小石を蹴りながら
 
 P.S: ちなみに私のメインは結衣×京子ですので、よしなに。
 あとゆるゆりは、私が格別に好きな作品である「けいおん」と「狼と香辛料に」に準ずる作品になりました。
 第三期お願いします。 やらなかったらあなたを殺して私は三期やるまで死にません。 (最悪だ)
 
 
 
 アクセル・ワールド:
 むむぅ。
 難しい。
 正直、私はこの作品から観て感じたものというのは、ぐだぐだ感だったりする。
 んー、結局主人公は成長したというよりも、成長したと思っている自分の姿を盾にして、「自分」という
 現実から逃げ続けている、という気がするのよね。
 だってあの子、全部先輩任せじゃん、自分が求めているものはなにかとか。
 それを先輩に決めて貰って、それを全うすることにすべてを賭けているだけというか、それを「強さ」と
 言っちゃってるだけというか。
 
 なんというか、無責任すぎる。
 
 先輩は先輩で、主人公君にある意味自分を投影して、ペット的に可愛がってるだけだし、
 主人公自身の幸せというか、真の成長になんて、まるっきり目を向けていないというか。
 んー、なんかあの先輩の愛というのは、ひとつの保護欲、語弊を恐れずに言えば、独善的な母親の
 支配欲、みたいな感じがするんよねぇ。
 わたしには、そう見える。
 気持ち悪い、というほどじゃないんだけど、なんかこー、すっきりしない。
 んー。
 歯切れが悪いことを自認しつつ言うけれども、んー、なんかこー、もやっとする。
 なにかこう、ロックがかけられているような感じ。
 個々の啖呵とかさ、こう、熱く来るものはあると言えばあるのだけれど、でも、なんだかこう、そっけない。
 茶番というより、えーと、君達、そこでなにやってんの?みたいな、そういう醒めた目で観ている私が
 いる。
 ラストの主人公が敵にトドメを刺すシーンだって、あれはわたし、ものっそい違和感感じたぞ。
 あれはそういうゲームだから?勝負だから?、だからトドメ刺したの?
 すごい、無責任な気がした。
 自分で感じて自分で選んで自分で決めてないっていうか、全部ゲームや状況や他人にそういう根本の
 ところを丸投げしている、そういう主人公ぶりに・・・
 
 あー やっぱりわたし 腹立つんだ
 
 なんつーか、全力で演劇をやってるようにしかみえないのよ、あの子。
 それはべつにオンラインゲームがどうとかじゃなくて、あの子が描いた「これがカッコイイという生き方」と
 いう脚本を全うすることしか頭にないし、目が向いてないし、かんっぜんに今ここにいる自分という現実
 から乖離している。
 男道みたいな?、そこをひた走ることしかしないし、そこからしか他者を見ないし、そこから外れるものは
 全部他人や先輩に丸投げ。
 そして悪役を作り出しそれを討ち、自らの正当性に熱く燃えるだけ。
 うーん。
 でも。
 それでも。
 
 んなこたーどーでもいー。
 
 と思う。
 ふつーに。
 ぶっちゃけ、確かにそういう主人公っぷりはアレなんだけれど、でも実はそうやって徹底的になにかに
 囚われていながらも、自分でも気付かないうちに現実と触れ、そして無意識のうちにそれに反応して
 いる、それはそう、まるで赤ちゃんの手に触れると無意識に掴むような、そんな無垢な瞬間がね、
 んー、なんか、あれをやられた方は、たまらんだろうなぁというのは、わかる。
 黒雪姫先輩しかり、赤の王しかり。
 私しかり。 (ぉぃ)
 だってマジ、ハルユキ君かわいいじゃん。
 先輩が彼を好きな理由は、勿論ひたすらにがむしゃらに高みを目指すハルユキ君に自分を投影して
 いるところにもあるのだろうけれど、でも同時に、そうした高みを目指す事に囚われた自分=ハルユキ
 君=先輩自身、を相対的に客観視することが出来たから、というところにもある気がするんよ。
 高みを目指すことの素晴らしさと、それに囚われることの愚かさ、それを同時にみつめたときに感じる、
 このどうしようもない、愛おしさ。
 先輩はハルユキ君を通して、自分自身に対して、頑張れと言うことが出来、そしてなにより。
 頑張らなくても、それでも私はキミを愛しているぞ、と言ってあげられる。
 たぶん、今回のシリーズ(?)はここまでで終わってしまっているんだろうなぁ、そうやってありのままの
 そのままの自分を愛することが出来た先輩こそが、改めてハルユキ君のそのままを愛することに向き合
 っていくのは、次期からなのかなぁ、次期あるか知らないけど。
 
 私は先輩側の性格だし、だからハルユキ君みたいな人みると、つい色々構ってしまいたくなるという
 厄介なタイプだけれども、でもそれは同時になにより、自分の弱さをみつめる勇気があるということでも
 あると思うんよね、自分のことなのになに言ってんだという話ですが。
 私は黒雪姫先輩が一番好きだなぁ、なんというか、あの人は自分をハルユキ君に投影して、ハルユキ
 を変えることで自分を変えた気になってそれで済ます、という事は無く、なによりも先輩自身こそが、
 ハルユキ君を愛するという他ならない自分の現体験に基づいて、自己変革の高みへと邁進している
 ように、私には感じられた。
 すっげーな、この人。
 強いだけでもなく、弱いだけでもなく、強さと弱さを受け止めていく魂の深さを感じる。
 私はそういう意味での求道者こそに、魂の底から心酔する。
 その道を歩く私を誇りにおもう。
 自分の欲望を自分で受け止め、自分でなにをするかを決め、自分で責任を取る。
 だからこそ。
 私は、その先輩に心酔するハルユキ君にも共感を覚える。
 私がハルユキ君に腹立ちを感じるのは、それこそ私の中にもハルユキ君的「弱さ」がきっちりあるからで。
 腹立ちはその存在を私に教えてくれ、だから腹を立てるだけで終わらせずに、私はその自分の「弱さ」を
 自覚し、そしてその弱さをこそ愛で、共に生きたいと願う。
 だからこそ。
 私は、ハルユキ君を愛する黒雪姫先輩に共感を覚える。
 あとハルユキ君との触れあいで、仲間の存在を獲得した赤の王に号泣したわたしもいる。
 赤の王自体はそんなに私は好きじゃないんだけど、赤の王のデレは大好き過ぎで生きてるのがつらい。
 
 そしてラストで、訣別したかつての親友フウコ(スカイレイカー)と向き合い、そして抱き合ったさっちゃんこと
 黒雪姫先輩燃え。
 
 『かえってこいフウコ!わたしにはおまえが必要だ!』
 その声に照らされた頬を伝う涙に背を押され、ひるんだように振り返るフウコ。
 『さっちゃん!』
 『フウコ!』
 フウコが振り返る、そのひとつひとつの動きと叫びに感応するかのごとくに、駆け出すさっちゃん。
 一瞬の間も逃すまいと走り寄るふたり。
 今まで離れていた自分達に怒りをぶつけるようにして、ひしと互いにしがみつく。
 声をあげて、子供のように抱き合う、フウコとさっちゃん。
 やがてふたりの体がほどけたとき。
 そこにはふたりを永遠に結ぶ、暖かい光が広がっていた。
 
 というか、百合万歳。 
 あーもう、あーもう、あーもうっ! ←悶え転げながら
 
 
 
 
 
 という感じでございます。
 あーなんか少しずつ書きたいことが書けてきましたよ!
 原動力は、萌え! 愛! それと萌え!
 よし! (なに)
 
 
 ということで、今回はここまでで御座います。
 執筆ペースが遅いのでもうちょいなんとかしたいところですが、なかなか時間取れなくて、まぁその。
 やれるところまでやってみますねん。
 最後まで書くつもりはあります、ええ、途中で投げ出したりなんかしませんよ、やだなぁ、ほんとですよ、
 その分執筆ペースが遅くなりますがと付け加えられるなら、わたしゃもう思い残すことはなにもありません。
 ・・・・なにがやりたいんだろう、わたし・・・ ←じっと掌をみつめながら
 
 
 んでは、次回また、お会い致しましょう。
 ここまで読んでくださった人、ありがとねん。
 
 
 では、ごきげんよう♪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

Back