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◆◆◆ -- 2012年11月のお話 -- ◆◆◆

 

-- 121129--                    

 

         

                             ■■ パターン、アニメ。 8 ■■

     
 
 
 
 
 すっかり真冬な感じで刻々と気温が下がり続けている今日この頃ですけれど(主観)、、
 みなさま如何お過ごしでしょうか? 
 私は例年通り、冬眠届けを出させて頂きます。
 
 
 はい。
 ということで、例の如く例に漏れることなく冬将軍が到来する前から敵前逃亡し始めている私です。
 あははーつめたいなー、ほらーまるで手足の先が氷のようだーあははー。
 ・・・。
 取り敢えず、素直に防寒します、体お大事にします、ええ冷え性ですから、はい。
 
 
 はい。
 ではですね、今日はそういう案配で寒い寒いとぶーたれながらも、前期アニメの感想を書かせて
 頂きますです。
 今回でやっと終わったひゃっほーい感動の最終回となります。
 うへー長かった、ていうか前期放送終了してからもう二ヶ月が経って終わろうとしてるですよ、ていうか
 よかったね12月入る前に終わって、そだねー、という楽観思考に一瞬で切り換えまして、今回は
 お送りさせて頂きますね。
 マイペース! マイペース! マイペース! ←机を叩きながら (うるさい)
 
 では最終回の今回は、じょしらくソードアート・オンライン(アインクラッド編)の二本立てで
 ございます。
 
 
 それでは、どうぞ。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 じょしらく:
 ぶっちゃけ、生活するのって、楽しいよね。
 日常というか、毎日同じことしているというのは、そう語ってしまえばそうなのかもしれないけれど、
 でもそれって、あたりまえだけど、同じことなんて、なんにもない。
 毎日、食って、寝て、遊んで、喋って。
 そう語ってしまえばそれまでだけど、それってただそう自分のしていることを分類して、同じものとして
 片付けてしまっているだけのもので、それらひとつひとつのものの、固有の楽しみというのはこれ、実は
 とてもとても複雑で、新鮮で、そして。
 
 たのしい
 
 おんなじことなんてなにも無い、というか、食べることの楽しみ、寝ることの楽しみ、遊ぶことの楽しみ、
 喋ることの楽しみを、毎日毎日、新鮮にひとつひとつ感じることが出来るしあわせを、この作品を観て
 いるととても感じるのよ。
 それはいわゆる「平凡」な日常というつまらない語りでは無く、毎日当たり前にやってる食う寝る遊ぶ、
 そして喋るということを、さぁたのしくやろーぜ!、さぁ今日はなにが出るんだ!、つまんねーこときくなよ!、
 という、そういう刺激に満ち溢れた、そういうひとつの意志としての語りであったりする。
 
 毎日を楽しくしようというそういう創意工夫の結果ではでも無く、ただ毎日、感じるままに行動し、
 感じるままに生きていく結果を、堂々と受け入れて楽しんでいく、その愉しみが、この作品には満ち溢れ
 ている。
 なんていうか、この作品はなんでもありというか、なんも悪いことなんてねーんだよという、ある意味での
 全肯定の精神も感じる。
 毒舌とか批評とか、すっごい狭い世間観とか、偏見とか差別とか、ネタとか、そういうものの善し悪しを
 いちいち論ぜずに、たのしけりゃそれでいーんだよ、という、なんというのかな、主体的な生活感がある
 ように私は感じるのよ。
 ボケにしろツッコミにしろ、おいおいこんなん放送してもいーのかよ、というギリギリなところをひょいっと
 攻めたり、ほんわか和んだり、シュールな展開に走ったり、そういうの全部そっくり含んで、それがこの
 作品の語りであり、そして「話し」なんだとおもう。
 べつに仲間内で他人の悪口言い合って、盛り上がったっていーじゃん。
 この作品に含まれている「毒」っていうのは、まさにそういう私達の日常生活に根差している、必要悪
 という意味では無い、ただ「あたりまえ」のものとして成立している。
 
 女子五人があつまって、くだらないことを喋り合って、それが話の流れるままにどんどんと飛躍したり
 閉じ籠もったりとんでもないことになっていく、そのギャグとしての壮大感はもとより、ただその女子五人が
 あつまって目的を持たずにただお喋りしていく、ということ自体の愉しみが、私にはこの作品の最大の
 魅力に思える。
 わたしにゃあそこまで見事にこじれていく話しが出来る才能は無いけれどもw、でもああやってくだらない
 ことを主義主張を持たずに話の流れるままに、無責任に喋り倒していくことは出来るし、そのたのしみも
 よく知っている。
 ぶっちゃけ、わたしはこの作品すごく好きw
 ギャグとしての面白さ云々では無い、ああして集まって、ただ話のままに脈絡あるようで無いような、
 ていうかどうしてこうなったorzみたいにすさまじく話が脱線しまくりながらもなぜか気持ちいい☆、みたいな、
 もうそういうの私もリアルでよくあるし、よくやるww
 
 あんまし私自身は他人の悪口言ったりするのは好きじゃないんだけど、でもだから逆に、あー私、
 そういう自分の「主義」に支配されて、自由に話せてないんだなー、他人の悪口を言うこと自体に
 良いも悪いも無いのにねぇ、その愉しみを楽しむことが出来てないという意味で、わたしはまだまだ、
 生活というものの可能性を充分に楽しめていないのだなぁ、ということも見えてくる。
 
 べつに他人の悪口大会で盛り上がったからって、私が他人の悪口を言わないという主義が消えて無く
 なるわけじゃないっていうか、むしろそれはそれぞれ別のこととして共存してこそ、逆に本物な気がする。
 こういう系の作品観てると、最近ますますそう思うようになってきたのよねぇ、他人の悪口だけじゃ無くて、
 たんに空気読んだり周りに合わせたり、読書の秋だからって本読んだりクリスマスだから騒いだりっていう、
 そういう事も、「なんも考えずに」たのしむことが出来てしまっても、それはむしろより健全なことなんじゃ
 ないかなぁって。
 
 ふしぎ。
 
 じょしらくっていうこの作品自体は、私はものすごーい偏狭な作品だと思うんだけどw、でもその偏狭な
 「自分」を肯定して、それも楽しんでいくことが、このじょしらくという作品自体が出来ているように私には
 感じられる。
 ていうか、そうやって偏狭な自分をたのしむことが出来る、もうひとつ次元の大きな自己の存在を感じる
 というか。
 その辺りのことが、作品内に於ける、あのご当地巡りによく顕れてる気もする。
 上手く言えないんだけど、あー、わたしらってこの世界で生きてるんだなぁっていう、楽屋での仲間内で
 のごちゃごちゃ喋りを、ただ街の中でやるだけで、なんというか、圧倒的な繋がりと広がりを感じられる。
 本音も建て前も無い、ただただ、あるがままに、私達はこう、色々やりながら生きている。
 毒を持って、健全にねw
 清濁併せ持つ、なんて便利な言葉があるけれど、あー、これってこういうことかって、今更ながら改めて、
 私なりにその言葉を理解しましたとさw
 おもしろければいいのよ、おもしろければ。 by手寅
 たのしく、おもしろく、自分で自分の生活を切り拓いていく、その姿が周囲によって用意されているもの
 と同じだったとしても、それはそれでよいってことよ。
 形式とかさ、それもたのしんじゃおうよっていう、なんていうか、この作品のラブなメッセージを感じながら、
 筆を置かせて頂きますw
 といいつつ、二期もあるとさらにおあとがよろしいかとw
 
 
 
 ソードアート・オンライン(アインクラッド編):
 少しだけ、言うには勇気がいることなのだけれど。
 ・・・。
 私は、とても家族に対して、複雑なおもいを抱いている。
 別の言い方をすると、私はとても。
 家族というものを、求めている。
 − 家族が ほしい −
 家族、家庭、そして親しい人のぬくもり。
 私は近年、そのことを自覚した。
 今まで私は、そのことを全く自覚しておらず、しかし「家族」というメタファーを投影した、現実という名の
 この世界を生きていた。
 戦いだったし、サバイバルであり、そして戦術であり、戦略だった。
 自分がなにかをしているようで、その実本当はわかっておらず、でも、そのわかっていないという事を認める
 事が出来ない、いいえ、それを認めることが出来ないということすら、認識していなかった。
 つまり、私は、真実自分に必要なものに関して、なにもわかっていないということを知らなかった。
 知らないまま、次々とその周縁にあるだけのわかっていくものを重ね続けていた。
 いつかきっと。
 なにかが変わると、信じて。
 なにを変えようとしていたのかすら、わからないままに。
 
 家族というものは、私にとっては、禁忌に近いものだった。
 決して封を開けず、けれどその封の前に立って、永遠とも言えるほどに、剛健で頑健で頑迷な、
 そんな守り人だった。
 封を開けないまま、こうして守っていれば、きっとこの封の中にあるものが、私を変えてくれると信じながら。
 私は、この封を守り続けて、しがみつき続けている私のことが嫌だったんだ、だからその私を変えたかった、
 それなのに、その私を変える方法が、この封を守り続けることだった。
 その矛盾に気付きながらも、そこから抜け出すことが出来ない。
 なぜなら、それしか生きる方法を知らなかったし、それ以外の方法を知るための方法を知らなかったし、
 なにより。
 私が、自分がどうやって生きているのかを、本当の意味で客観視することが出来なかったから。
 そのことを、私は責めていた。
 私は自分から目を逸らし続けている、目を逸らすな、もっと見ろ、もっと見つめろ。
 目を背けるな、逃げるな、怠けるな、甘えるな、人のせいにするな。
 そうして、自分と戦い続けていた。
 戦って、戦って、戦い自体が目的化して。
 どんどん、目は逸れていった。
 
 家族。
 私は、アニメを見て、家族というものの存在と直面した。
 始めの頃、正直言うと、私は家族モノだの疑似家族モノだのという作品が、好きじゃ無かった。
 ただ嫌いというほどでは無く、けれどどうしてもなにかこう、「否定したい」気持ちが私の中にはあった。
 そうじゃない、こうじゃない、嫌だ、駄目だ、見たくない。
 はずかしい。
 不思議。
 私にとって、家族というものはなぜか、「恥」を想起させるものだった。
 なにが恥ずかしいのだろう?、それがわかることもわかろうとすることも無いまま、私はアニメの中で描か
 れる「家族」と触れていった。
 気付けば。
 泣いていた。
 なに? なにこの涙は。
 最初の頃は、いいえ、近年まで私は、描かれる家族を他人事として見ていた。
 他人のお話として、その他人のために、その他人の気持ちになって、そうしてやっぱり、その他人のために
 涙を流して観ていた。
 かわいそうに、かわいそうに、そしてハッピーエンドになってよかった、よかったね。
 その私の涙は、そうして「他人のために涙を流せる私」という自己像への満足心という側面もありながら、
 しかしどうしても、その奥にある、刃よりも太く私の心臓を刺し貫く、荒縄のようななにかが私とその
 目の前に映る家族を結んでいた。
 なんで、わたしは泣いている?
 
 家族って、なんだ?
 
 ありのままのわたしを、受け止めて。
 そのままのわたしを、守って。
 ただ わたしと一緒に いて
 なんだろう、それは私の欲求するものから、常に一番遠いものだった。
 まるで、固く封をされているかのように。
 私は一体、ほんとうはなにを求めているんだろう・・・
 
 私は、ずっと昔から、こどもが好きだった。
 それこそ、私がこどもの頃から、私は自分より幼いこども達のことが好きだった。
 好きで、可愛くて、可愛くて。
 こどもの笑顔が好きで、子供が悲しむ姿が悲しくて。
 その子を、守ってあげたかった。
 その子の幸せを願わずにはいられなかった。
 こどもを不幸にする、あらゆるものを許せなかった。
 こどもを泣かせることが現実だというのなら、そんな現実変えてやる。
 怒り。
 私の子供を愛する心の奥には常に、深い怒りがあった。
 その子のために その子のために
 
 その子って、だれ?
 
 わたしは、こどもがしあわせになる物語が大好きだ。
 わたしは目の前のこどもを幸せにしてあげたい。
 こどもでも、おとなでも、幸せに生きられるようにしたい。
 そのために、強く、賢く、逞しくならなくちゃ。
 守り、戦い、戦い、守り。
 でも。
 でも。
 涙が止まらなかった。
 わたしは一体いつから、この戦いを始めたんだろう。
 
 疑問が無かった。
 おかしいとは思わなかった。
 あたりまえすぎることだったから。
 甘えては駄目。
 怠けては駄目。
 なにも言わなければ、誰もなにもしてくれない。
 一緒に寄り添ってもくれない。
 私が
 なんとか
 しなくちゃ
 ほんとうに、ほんとうに幼い頃から、私はそうだった。
 それはおよそ、子供の仕事では無かった。
 私は、おとうさんとおかあさんになるんだ。
 そう明確な言葉を持っていた訳では無かったけれど、私は私の父と母に代わって私を守り育て、
 そして私の家族を守り、そして・・・
 変えようとし続けていた。
 私はそうして、父と母を含む周囲の人達の姿から、大人のイメージを取り込み、そしてそれを否定して
 成長し続けた。
 強く、賢く、逞しく、それでいて常識や現実に囚われず、見えない闇を暴き、そして本質的な解決を
 導けるような、本当にすごい人間になるために。
 そういう人間像に憧れ、そういう人間になりたいと願い、そして。
 そういうキャラに、共感した。
 萌えて、燃えて、そして。
 
 それでも
 涙は、止まらなかった。
 
 強くて賢くて逞しくて。
 そうして諦めずに頑張り続ける、そうして生存闘争を続けるその私こそが。
 泣いていた。
 なんのために、私は強く賢く逞しくなろうとしているんだろう?
 私を守りたかったんだよね? 愛したかったんだよね?
 私が、私の親に、私こそが、私の家族になりたかったんだよね。
 それはただずっと孤独な戦い。
 そして、自分への依存。
 気付けば私は、ぼろぼろに泣きながら、泣きながら、わかってしまっていた。
 ああ
 わたしはただ
 ただ
 泣きたかっただけなんだ
 
 もうわからないって
 どうしたらいいのかわからないって
 
 おとうさん 
 おかあさん
 たすけてよ
 って
 
 今までの人生で流した分の涙の、その何倍もの涙が溢れ出した。
 わたしは、それが、そのどうしようもない、すべてを投げ出すような慟哭が、出来なかっただけなんだ。
 それが、辛くて、苦しくて、苦しくて、だから苦しみもがいて戦っていただけなんだ。
 はずかしい。
 私は、人前で泣くことが出来なかった。
 絶対に、絶対に、死んでも泣けなかった。
 恥ずかしかったから。
 私にとって、泣くということは、全世界に向けて、この現実に向けて、全面降伏することと同義だった。
 そしてその上、私は既に、この世界のこの現実に囚われて、もう抜け出せなくなっている自分のことも
 自覚していた。
 恥ずかしいというのは、この世界のこの現実の中で上手くやっていけないという、自分の姿を晒すという
 こととリンクしていた。
 私は、この世界を壊したい、けれど同時にこの世界の中でやっていけないと他の人に思われるのも
 辛かった。
 だから、ひとりで泣いた。
 その私の涙を、受け止めることが出来ないまま、他人のしあわせのためにその涙を使っていた。
 泣いて いいんだよ。
 泣いても
 いいんだよ
 それでも
 それでも
 
 いっしょに いてあげるから
 
 これが
 私のもとめる 家族
 
 強く、賢く、逞しく。
 己を生き、己を失い、それでもなにかを求めていく。
 ひとりの男と、ひとりの女。
 私の感じるままに、俺の感じるままに。
 アスナとキリト君の感情が、おもいが、魂が、吹きこぼれるようにして、その剣戟の彼方からやってくる。
 気付けば私は、私のために、わたしのままに泣いている。
 愛するままに、目の前の人へのおもいのままに、私こそが泣いている。
 普段不貞不貞しいキリト君の寝顔のあどけない可愛さの中に永遠を感じるアスナ。
 アスナの逞しく凛々しく戦う姿に頼もしさと誇らしさを感じるキリト君。
 対等な関係性。
 なんだろう、不思議、守り守られる関係では無い、ただお互いがそれぞれ自分を守り、一個の人間と
 して自立している、その互いへの「信頼」が、大きく私の胸を揺さぶってくれた。
 ドキドキする。
 私にとって、親密な関係というのは、冒険心を掻き立ててくれる。
 不思議、私がこの人を守らなくても、この人はちゃんとそこにいてくれる、その人はちゃんと私と向き合って
 くれるという、おそろしいほどなまでに、私の魂の深いところを、それはズキズキと突き刺していくの。
 私が干渉しなくてもいい、私が支配しなくてもいい。
 そうしたことに使っていたエネルギーを、自分のためにこそ、使える。
 そして・・・
 
 そうしてそのエネルギーを使って立派に育てた自分こそを
 目の前の愛する人とのこの生活に、捧げたい。
 
 家族と自立。
 家族とは、その人がその人自身のためにこそ生きる力を使い、そして成長していけるようになるための、
 そんな居場所であって欲しい。
 間違っても、家族という固く封じられ歪んだシステムそのものを維持するために、家族とその成員が
 あってはならない。
 互いを高め合い、愛し合い、そして病めるときもすこやかなるときも、共にいられる関係性。
 そのすべての原点が家族であり、そしてすべての関係性は、その「家族」のイメージが投影されたもの
 だと私は思っている。
 
 ああ
 感じるよ
 アスナの気持ち。
 森でひとりぽっちのユイと出会い、迷子なのか親とはぐれたのか、そのユイがキリト君のことをパパと言い、
 アスナのことをママと呼ぶ・・
 ああ
 どうしようもないほどに、胸が締め付けられるほどに、ユイを抱き締めたくなる。
 だいじょうぶ、だいじょうぶよ。
 ユイの中に見える、小さなアスナの姿が、鳴動する。
 ママ、ママ、ママ。
 この小さな私の姿に、涙が止まらない。
 誰かを、母を、人のぬくもりを、抱き締めてくれる手を求める、この衝動。
 ひとりぼっちの小さな女の子の姿が、アスナを通して私の胸に広がっている。
 ああ
 わたしは
 ユイのためでもアスナのためでもなく。
 小さな私のためにこそ
 泣いている ずっと泣いているわたしのためにこそ・・
 ユイの姿を見るたびに、ひとつひとつ、自分を発見していくアスナの瑞々しさ、そしてときめく私の胸。
 自分がこれまで培ってきたものを、ひとつひとつ、目の前の小さなこどもに注いでいく。
 
 私は、アスナの姿に、今の、そしてこれからの私の姿をみる。
 そして同時に・・・
 アスナに、母の姿をみる。
 そっか、私がずっと母に求めていたのは・・こういう、無条件で無償で、そして母自身が自立した上での
 愛情だったんだ・・
 アスナの笑顔が、大人の私と繋がり、そしてその私の奥にある、小さな私の涙が、アスナ自身の涙に
 繋がっていく。
 わたしは、そっか・・おかあさんを、ママを求めてるんだ・・
 不思議・・
 私は、ユイとシンクロする。
 まるでこどものように、私は家族モノのアニメを観て、慟哭する。
 ユイがアスナに抱き締められた瞬間、私の涙は涸れることを忘却する。
 同時に、アスナがユイを抱き締めてあげられた瞬間の、そのアスナのよろこびに、深く深く、共振する。
 ああ
 わたしはほんとうに・・・私を愛してるんだ・・
 小さな小さなアスナを抱き締める、そのアスナの姿にこそ、私は私の姿をみつけた。
 
 キリト君の冷静さ、剛胆さ、そして茶目っ気さ。
 それはまるで、アスナとユイの関係を大きく包み込むような、それでいて、その関係が癒着し過ぎて
 澱んでしまわないように、一服の清涼を与えるかの如き、おだやかさ。
 強く深き母たるアスナとは別軸に存在し、それでいて、その母よりも強いなにかを感じさせる安心感。
 キリト君はただ、キリト君がずっとこれまでやってきたことをやっているだけで、パパをやろうだなんて思って
 いないだろう。
 なにもわからないまま、苦悩を抱えたまま、それでも自分のために、自分の力で、そしてなにより、
 世界の中に自分の現実を切り拓いてきたキリト君の、その誰にも依存しない、誰のせいにもしない、
 その穏やかに深い鼓動だけが、キリト君を動かしている。
 キリト君の感情が、苦しみが、孤独が、戦いが、そして涙が、笑顔が、ユーモアが、圧倒的にわたしの
 胸を興奮で締め付けていく。
 自分の世界を持ち、自分の現実を生き、自分のために生きている、その男の晴れがましい姿だけが
 画面の中には端然として、広がっている。
 キリト君はそのキリト君のまま、ただユイに接し、ただユイとアスナという大切な家族と過ごす時間の
 ために、ただあっさりと生きている。
 私には、キリト君のパパらしさの無い、そのパパっぷりにこそ、なんだかこう、一番不思議な感触を受ける。
 とてもあたたかくて・・・・・とても・・熱い・・
 − キリト君の ワールドが とても  とても −
 これは私の知らない感触で、そして、ずっとずっと、私が得ることの出来なかったものだ・・
 キリト君は自信に溢れている。
 この世界で生きている、こうして生きている、その唯一無二の自分を信じて、受け入れている。
 そしてなにより・・・自分の気持ちを、おもいを、願いを、はっきりと表現する
 他の誰のでもない、キリト君の物語がそこにはある。
 その父性に、そして男性性に照らされる、その安心感が、またひとつ、私の涙によって自覚されていく
 のを私は感じている。
 
 泣いて
 泣いて
 泣いて いいんだよ
 私は家族モノアニメが大好きだ。
 親に健全に愛されるこどもの姿を愛してる。
 泣いて
 泣いて
 泣いて いいんだよ。
 私は親の、家族の愛を求めている。
 私はそれを深く深く、自覚している。
 だからもう、その私が求めているものを、他のなにかにすり替えたりすることは減りつつある。
 私は堂々と、家族モノのアニメを観る。
 私は親の愛を求めている、今も幼い私が私の中にいることを知り、自覚している。
 だから、私はもう、幼くない、今の大人の自分を生きる勇気が持てた。
 こどもの私を受け入れて、それを抱き締めながらも、今を生きていく誇りを持てた。
 
 私は自分でも気付かないうちに、他人に親の愛を求め、歪んだ関係性を結んでいたことを知った。
 そのことで、私が傷付けてしまった人もいる。
 だから
 泣いて
 泣いて
 泣いて いいんだよ
 私の中で、幼い私が泣いている。
 その私は、幸せな家族が、親子が描かれるアニメを観て。
 泣いている。
 うれしくて。
 いとしくて。
 ありがとう
 やっと 気付いてくれたんだね
 私によって受容され自覚されたその小さな私は、そうして、ただ親の愛に染められた暖かいアニメを観て、
 それで心ゆくまで満たされる。
 私に観せてくれて・・・・ううん・・・・いっしょに観てくれて・・ありがとう
 一緒に泣いてくれて・・・ありがとう、大人の、今のわたし
 観れば観るほどに、私は、私がなにをずっと、欲していたのかを知った。
 観れば観るほどに、私は、私がなにをずっと、我慢していたのかを知った。
 親子モノのアニメを観るたびに流す私の涙が、切々と、そして滔々と、私を癒していくのを感じていた。
 私が原因不明の苦しみに襲われたとき、そっと親子モノのアニメを観ると、どっと、堰を切ったかのように
 流れ出す涙を感じて、私はその私の苦しみの原因を知っていく。
 
 私は、イチャラブが好きだ。
 堂々と好きだ愛してると言える関係性が好きだ。
 互いの成長を阻害する共依存では無い、互いを高め合う相互依存の元で愛を育める、そんな
 カップルが大好きだ。
 そして正直に言おう。
 私は同性同士のカップルも好きだが、それ以上に、そして本当に好きなのは。
 
 男と、女のお話だ。
 
 そのことに私は向き合おう。
 女が男の力に媚びず甘えず、自らの力で自分の人生を切り拓く。
 男が女の感情表現任せにせず、自らの力で自分の魂を表現する。
 それが出来た上で、自分に出来ることと出来ないことの、その両方を与えたり、与えられたり。
 男は女に、自分の中の女性性をさらに高めるために学び。
 女は男に、自分の中の男性性をさらに高めるために学ぶ。
 そしてなにより、男も女も、それぞれに互いの瞳に照らされる、自分自身の性に基づくモノを見つめ、
 そして深めていく。
 男は女に出会い女を学び、そして新たな男を発見していく。
 女は男に出会い男を学び、そして新たな女を発見していく。
 考えて、感じて、ときに思い切り投げ出して。
 私は、戦う女が好きだ。
 そしてなにより、その女がその戦いにこそ真に抑圧されていた自分を解放していく姿が見たい。
 私は、感情豊かな男が好きだ。
 そしてなにより、その男がその感情のままになによりも強く羽ばたき戦っていく姿が見たい。
 対等に向き合い、助け合い、愛し合い、それぞれが自分自身と向き合い、ひとりでも生きられる自己
 を確立している、そんなひとりとひとりの出会いを、私は愛している。
 私はそういう人間の姿に、憧れている。
 
 自己完結できる、自分で自分を笑顔に出来る人。
 ずっと・・ずっと・・・
 戦いながら、考えながら、問題解決するために必死に頑張ってきた、それでも相手に共依存して、
 相手に親の愛を求めてしまう、それでも諦めずに生き続けた、そんな孤独な私が求めている人の姿は、
 まさにそういうものだった。
 
 そして。
 それがすべての、家族の基盤になると思っている。
 愛と笑顔が、家族の基。
 その愛は、自分自身を自分で愛するところから始まっている。
 自分で自分を愛する仕事を相手に決して任せない、自分で自分を愛することが出来てのち、そうした
 誇らしい自分が、相手に、パートナーに愛されるよろこび。
 そんな夫婦に、両親に愛されて育った子供は、きっと。
 一生、だいじょうぶ。
 私も、そんな家族を持ちたいと願っています。
 無論。
 ひとりの、大人の私として。
 
 そして
 私に、「愛と笑顔の物語」が、この世界にあることを教えてくれたのは。
 その存在を私に与えてくれたのは・・・
 まぎれもない・・
 わたしの
 おとうさんと おかあさん
 ありがとう
 今日も私は、このソードアートオンラインという作品を観て、涙を流せたよ。
 そして、暖かく、笑顔に抱き締めて貰っているよ。
 ありがとう
 私は、そんな私を、愛して生きていけそうです。
 
 
 『ユイはもう、システムに操られるだけのプログラムじゃ無い。
  だから、自分の望みを言葉に出来るはずだよ。
  ユイの望みは、なんだい?
 
  わたしは・・
  わたしは・・・・
 
   ずっと 一緒にいたいです
 
      パパ   ママ   』
 
 声を上げて泣く私。
 人前ではまだ駄目だけど、もう私は、堂々と、こうやって泣くことが出来るようになったよ。
 素直に、正直に、そしてなにもかもを投げ出せる勇気も。
 そうしたら、やっぱりわかっちゃったよ。
 消えていくユイに取り縋って泣く大人のアスナの涙が、親を愛するこどもであるユイの涙と同じなんだ、
 ってことが。
 そして
 笑顔。
 キリト君とアスナの笑顔、それが見たくて、ユイは・・・
 親を求める気持ち、だれかとずっと一緒にいたいという、その気持ちは、とっても、とっても。
 大切な、ものだったんだね。
 私はそれを、甘えだとかなんだかで、ずっとずっと否定して、虐げ続けてきたんだね・・・
 わたしは・・・おとうさんとおかあさんのこと・・・・・ずっとずっと・・・大好きだったのに
 おとうさんとおかあさんに・・たすけてほしかったのに
 そう言えた私を包むものは、笑顔でした。
 笑顔が好き。
 だれかの笑顔を見るのが好き、笑っている自分が好き。
 好きだから、どうしようもないほどに、素直に微笑んでいる。
 親を求めるこどもの気持ちを愛しながら、私は、いつの日にか授かる私の子こそを、笑顔で抱き締めて
 あげられるようになれたらいいな。
 そしてその前に、私は今のわたしを、大人の私こそを、しっかりしあわせに生きさせなくちゃね。
 私の中の女性性と男性性を見つめ、そして高めながら、私は深く深く、さらに成長していきたい。
 他のだれのでも無い、私のいるここ、この現実でね。
 それがきっと、私の中の、小さな私の求める願い。
 その願いを自覚した小さな私こそを、これからも私はひとつずつ、育てて生きていきたい。
 自立していて、強くて賢くて逞しくて、そしていつも一緒にいてくれる、そんな親の愛を親を含む他の人
 に求めるのでは無く、それを求めていた小さなこどもの私こそが、そうした大人としての親自身になって、
 その求めていたものを満たすために。
 こどもが大人になるって、そうやってこどもが親に求めていたものを、自分で得られるようになることだって
 私は近頃思っています。
 逆に言えば、自分以外の人(パートナー含む)にそういうものを求めているうちは、まだきっと、大人に
 成り切っていないのだと、そう感じて、私自身気を付けています。
 私に必要なものを、私がすべきことを、私の求めるもののために。
 
 愛する人と出会い、愛する家族を持って、そして、そしてね・・・
 がんばろうっと
 生きるって、人生って・・
 ほんと、壮大ですねぇ。
 やばい、なんかたのしくなってきた(ぉ)
 
 この作品にありがとうの言葉はあげないよ。
 だってキリト君のように、アスナのように生きるのは、私自身なんだから。
 ラストの病院で目覚め、そしてアスナの元へと世界の中を歩き出す、あのキリト君の・・
 熱い・・熱いなにかが私の中にも確かにあることを感じながら・・・・
 さぁ いくよ
 
 
 
 
 
 はい。
 という感じで、以上です。
 もうなんも書けないw
 というより最近書きたかったことを、全部アニメの感想を使ってまとめて書かせて頂いた感じですw
 はーたのしかったw
 
 ここまで読んでくださった人に、ありがとう。
 そして私にこうしてなにかを感じさせて書かせてくれたアニメに、ありがとう。
 
 
 ということで、今回はこの辺りにて。
 んー、しばらく日記の更新はおやすみするかもです。
 書きたいこと書き尽くしちゃったしw、寒いし、ちょと年末まで忙しめだし、寒いしw
 まぁどうしても書きたいことがあったり、なんか書かないとやばい気がするという気の小ささを自分に
 感じたら、またひょこっと書かせて頂くやもしれません。
 その際は、よしなに♪
 
 
 
 それでは、また。
 ごきげんよう、おやすみなさい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 121111--                    

 

         

                             ■■ パターン、アニメ。 7 ■■

     
 
 
 
 
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 
 
 はい、今日も今日とてアニメの感想です。
 早速いきましょう。
 
 
 今回は、恋と選挙とチョコレートこの中に1人、妹がいる!の二本でお送り致します。
 
 それでは。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 恋と選挙とチョコレート:
 社会、ってなんだろう。
 うーん、私はそれは、私達ひとりひとりが、楽しく、そしてしあわせに生きていけるようになるために、
 それぞれが知恵を出し合って、そして育んでいくものだとおもう。
 で、それの大前提のものとなるのが、人はひとりひとり全く違う存在であり、楽しさもしあわせも、人に
 よって全く違うものだ、という共通認識だと私は思っている。
 勿論、共通するものもあるし、関わり方は違っても共に楽しさやしあわせを感じることが出来るものも
 たくさんあるし、そういうものを他者と手を携えて協調してなにかを為すということも、とても有意義な
 ことだとおもう。
 
 でも。
 私はそれらのものに参加するかどうかこそは、個人の判断によるし、選択の権利があるとおもう。
 
 社会の中心と、そして主権はすべて、「個人」に属する。 
 ひとりひとりのパーソナリティが尊重され、その個人がしあわせになるにはどうしたらいいのかを、それを
 唯一知っているのはその当人自身である自覚と、そして社会の他の成員達からの認証があってこそ、
 「しあわせな社会」というものがあるとおもう。
 私は、個より大きなものは無いと思っています。
 目の前の社会をしあわせなものと感じるかどうかは、すべてそのひとりひとりの個によって違うし、その
 個の中にあるものが反映されたものが、その人の捉える社会というものだと思っています。
 だから、その社会を良くするためになにが必要なのかという事自体、そもそも人によって違う。
 だから、人がそれぞれ、社会に求めるものは、違っていい。
 ただただ、己のしあわせを実現するためにこそ社会は存在するし、誰かのしあわせの社会のイメージの
 ために生きる必要は無い。
 
 なんというか、この作品を観ていると、気持ちが落ち着くのよ。
 なにがどうしてというのは説明できないのだけれど、んー、たぶん、自分達の動機を以て、そしてそれを
 信じて選挙活動をしていく主人公の姿が、私は好きなんですよね。
 私もここまでこの社会を生きてきたけれど、おかしいなって思うことは沢山ある。
 それは政治的システムとかそういうのもあるけれど、それよりもなによりも、その「社会」というものに対する
 認識に於いて、とても「自己中」な人が多いと感じることにある。
 協調を強制すること、差別、自分の正義なり価値観なりを「常識」に寄り添わせて、その常識の名を
 使ってそれに殉じないものを排撃する。
 まるで、私達ひとりひとりの人間が、「同じ」生き方をしなければならないような、その生き方をしなけれ
 ばこの社会に生きることを認証されないような、そんな雰囲気さえもある。
 「常識」とか「普通」とか、そんなものは存在しないのに、それがあるとして、その名の元に私達を同一
 の存在に貶めようとする、そうしてひとつにならなければ「ひとり」を生きられない、そういう人達が形成
 する多数派によって支配されている。
 その人の中にある「常識」を共有出来る人達が、それを共有しない人達に押しつける、すなわち
 非常に自己中心的な、単一で貧しい社会のイメージが蔓延しているように、私には見える。
 
 ひとりひとりが違う存在であり、その存在をしあわせにするにはさらにそれぞれ分岐していく生き方が
 あるという事を認識し、互いに自分をしあわせにする作業の邪魔にならない程度に少しずつの力
 出し合ってその手助けをし合う、そういう幸福の生産場所としての機能が衰えている。
 それはまったく病的であり、しかしある意味当然の成り行きであるような気もする。
 むしろ、それが明らかになるまでこの社会はここまで「成長」することが出来たのだと捉えることが出来る。
 それまでは、それを明らかにすることが出来ないほどに、かちこちに同質に固まってしまっていたという
 感じかな?
 
 周りから排除されるからみんなと同じようになるために協調性を育てる?
 先輩後輩の礼を弁え無いと先輩に殴られるからその礼儀を育てる?
 真面目に「正しく」授業を受けている人達に悪影響与えるから、授業をサボる生徒には体罰あり?
 この間某番組を観ていて、呆れ返ってしまったんですけれどねw、もう人間をどれだけ虚仮にしてる
 んだよっていうかw
 こういうのってみんなもう、「こうあるべき」という生き方や在り方が既に「勝手に」決められて、それに
 沿わされるように強制されているっていうか、それはもう教育じゃ無くて洗脳じゃん。
 それはもう、誰かひとりのためにある社会を、すべての人に押しつけている自己中そのもの。
 おかしいねぇ、私は心の底からはっきりとおかしいねぇと言える。
 
 この作品観てると、すごくわかるのよ。
 あー、なんだ、社会を作るって、ただただ、自分をしあわせにするという人生を懸けた作業を全うする
 ことで、そしてそれを他人に任せないっていうことに尽きるんだって。
 みんなが同じじゃなきゃ駄目という事自体が、みんなと同じじゃなきゃしあわせになれない、だからみん
 な、わたしをしあわせにしてよという、自らを自らがしあわせにする自己責任の放棄だと私は感じる。
 そしてみんなと同じように生きない人を差別したり排除したりすることが、あらゆる形で正当化される。
 しあわせになれないのは、当然よ、それ。
 
 何度も言うけれど、この作品を観てると。
 ああ、そうだよね、自分をしあわせにするのは、自分を世界で一番知っている自分しかいないし、
 だからこそ、その自分を自分という「情報」に従って忠実にしあわせに導いていく責務があるんだよねって
 、そう感じる。
 この作品はそういう意味で、非常に責任感溢れる作品に私には見えました。
 ひとりひとりの人間の存在を尊重し、尊敬し、そのひとりひとりが、ひとりひとりを生きていくことの偉業を
 愛し、そうすることが出来ると、信じている。
 その勇気が、いいや、その才能が、みんなにはあるんだ。
 こういう社会に生きているからこそ、こういう社会を生きてきたからこそ、なによりその当事者である
 私達自身が、一番一番、そこでのしあわせな生き方を知ることが出来るんだ。
 なにが自分のしあわせになるのか、それは自分と向き合わなければわかることはできない。
 自己と他者の存在の差異を認識し、それでも己は自分を生きるという、その自己の確立が必要だ。
 それがみんなには出来ると信じている。
 今のこの社会の姿は、そうして自分達がしあわせになるために切り拓いてきた結果であり、同時に
 途中経過なんだ。
 みんななんだかんだで、この世界が、この社会が、このみんなひとりひとりのことが好きなんだ。
 だから、そうやって、ひとりひとりを生きようとする、そういう人達が生まれてくるし、そういう人達を理解し
 支援しようとする人も、そしてなによりもその人達の姿に自分自身のしあわせの姿をみつけて、動き出す
 人もいるんだ。
 
 私は、そんなみんなのことが、好きだ!
 
 私と違う人も、自分と同じじゃなきゃ嫌だという人も、差別する人も。
 私と一緒に愉しめた人も、私と抱き合えた人も、私を好きだと言った人も。
 みんな好きだ。
 みんなそれぞれ、しあわせの途上にいる。
 そのみんなひとりひとりと手を携え、そのみんなひとりひとりのしあわせのために生きられるように頑張って
 いきたい。
 ありがとう。
 この作品の、主人公の最後の演説に魂震えた人がいたとしたら、たぶんそれは私ですww
 あー私も絶対ああいう人に投票するなーw
 ああした、この社会に生きる私達が、唯一共有しておきたい大前提を弁えている人は、信頼できます
 ね、わたしゃ。
 あんまこういうことをここで言うのもなんだけど、今のこの社会の政治家の主張って、みんなそういう
 意味でそれぞれ形は違うけど、「自己中」なものばっかりなんだよなーっておもうのよね。
 どの「自己中」を選ぶかっていう選択肢しか無い感じ。
 まぁあんまし今は政治自体に興味無くて詳しくも無いから、そうじゃない人がいたらごめんねw
 人はひとりひとり違うもので生き方もしあわせの形も違う、そしてその育て方も違う、その事を弁えて、
 ひとつの主義や価値観を他者に強制しない、そういうことがもっともっとスタンダードになっていったら
 いいなぁ。
 
 ちなみに私は結構この作品好きだったし、主人公も好感度高し、女の子可愛いので、二期希望ww
 
 
 
 この中に1人、妹がいる!:
 私は、総合的に言うと、近親相姦は否定派である。
 総合的にというか、たんなる趣味というか。
 ぶっちゃけ、兄弟姉妹でくっつくのは、その当人同士にとって、「もったいない」と思うから。
 もったいないっていうか、いやー、もっと他に人いるだろ、たまたま目の前にいる近しい異性が兄弟姉妹
 だからってだけで、まずはもっと他の人と交流してみろよー、っていうか。
 兄弟姉妹で惹かれ合うという事には、きっとなにか特別な心理的ななにかがあって、そのことが表出
 してきたものが、ひとつの関係性の病理としてあるんじゃないかなぁ、家族の問題とか、単純に異性への
 恐怖心とかさ、互いへの想いってもしかしたらそれら他の全く違う気持ちのすり替えであって、それと向き
 合わなくちゃいけないんじゃないかなー、それからでも互いに見つめ合うのは遅くないんじゃないかなぁ、
 っていうか。
 
 っていうか、私が否定派である理由は、ただそれだけである。
 
 つか他の人と交流した上で、心理的問題解決した上でなら、べつに好きにくっつきゃいーじゃん。
 いわずもがな、逆にいえば、それら以外の近親相姦、姦っていうのもあれだな、それ以外のいかなる
 近親相愛を否定する言説には、私は反対する。
 というか、鼻で笑っちゃう(ぉぃw)
 兄弟姉妹でくっつくとかキモいとかいう生理的嫌悪感に始まり、道徳とか倫理とか(なぜ近親でくっつく
 のが非道徳的で非倫理的なのかよーわからんけど)、あと近親相姦で生まれる子には障害を持っている
 可能性が高くなるとか、なんとか。
 
 生理的嫌悪感は、論外。 私はなにも言う必要を感じない。
 道徳とか倫理とか、ほんとにそれに殉じたい人はそうすればいいけど、それを他の人に押しつけるのは
 どうなのよ。
 で、生まれてくる子が障害児の可能性が高いとかいうのは、これは基本的に近親相愛の問題とは
 別問題の話じゃん。
 ぶっちゃけじゃあ子供作らなきゃいいわけでしょ? あるいは養子貰うとか?
 つまりそうすれば近親相愛自体には問題無いというわけで、で、じゃあたとえば人間には自分の遺伝子
 を残す義務があるとかなんとかいうのは、もう一度言うけれど、そうおもう人はそうすればよいし、そう
 思わない人にそれを押しつけるのはどうなのよ。
 
 んで、さらに私はこう思うのよ。
 なんで、障害児じゃいけんの?
 これ結構重要なことなのよねぇ、障害児を産んじゃいけないってそれ、「障害」を持っている人すべて
 の存在を否定しているものだと思う。
 そもそも「障害」という言葉自体が、「正常」とされるものとの比較の上の問題であって、それは明確
 なる差別だとおもう。
 で、さらに重要なのは、障害を持って生まれてくると、この社会では「生きにくい」から駄目、という意見
 があることで。
 それ、障害児自身の問題じゃなくて、障害児が障害児としてしあわせに生きられる事が出来ない、
 そういう社会自体の問題じゃん。
 いわゆる健常者の人というのは、自分がどれだけ「優遇」されているのか、気付いてない人多いと
 おもうけど、この社会って、みんなその健常者がしあわせに生きられるように、「お金を使っている」んだ
 よね。
 健常者が快適に生きるために沢山の設備やなんなりが作られていて、んで、障害を持っている人が
 快適に生きるための設備を作るためにお金を使おうとすると、特別扱いすんなとか、なんとか。
 そりゃおかしいよ、いや健常者は既に特別扱いされてんだからさ。
 
 障害を持って生まれてくると差別されるから、障害を持って生まれてくると生きにくいから、障害を
 持って生まれてくると仲間外れにされるから。
 これはすべて、私達社会のあらゆる意味に於いてのシステムの不備によるもの。
 それは勿論近親相愛者を含むマイノリティに対しても全く同じことで、嫌「われる」から差別「される」
 から非難「される」からそういうのは駄目だ、というのはもうなんというか、明らかに「加害者」側の論理
 じゃん、より「被害者」を支配するためのさ。
 
 マイノリティを嫌って差別して非難するのは、一体誰なのよ?
 マイノリティが生きづらいのは、一体だれのせいなのよ?
 
 その事の自覚と、そして一個の人間としての責任を、この社会を構成する私達ひとりひとりが持たない
 限り、そういう実に浅ましい悲劇は続く。
 だからこそ、マイノリティ自身の自己肯定の気持ちと、それを育むことの出来る環境というのは、
 なによりも最重要。
 この作品はぶっちゃけ、こういったことに無頓着というか、どうでもいいという風格を持った作品だと
 私は思うんだけどw、てか昨今の妹モノアニメって、「近親相愛」に於ける「悲劇」というものの本質を
 きちんと見抜いて、だからもうそんな事論じないで、好きなんだからそれでいいじゃない、という感じで、
 そのまま突っ走っているのがもう、私はもう、いいな、っておもう。
 
 しょーじき、私達兄妹なのにいけないよねこんなことしちゃ、みたいな話を作っても、もうあまり意味が
 無いとおもう。
 それは結局、「自分」を生きていないっておもうし。
 それにそれって、自分達の生きづらさを、社会からの迫害だけのせいにしてるっていうか、勿論社会の
 迫害もそうだけど、それ以前に自分達自身こそはじゃあ、自分達のこと肯定出来てんのかよ、てか
 あんた達自身も社会と一緒になって自分達のこと責めてんじゃん、それもあんたらの生きづらさの原因
 のひとつにはあるんじゃねーの?
 
 この作品には一応兄妹としての葛藤みたいなものもあるし、ラストの落としどころも恋人以上の兄妹に
 なろうとか詐欺まがいな感じでしたけどw、でもそんなんどーでもいいのよね、そういうのはもうなんて
 いうか、ひとつの「形式」みたいなもので、私にはこの作品のど真ん中にある、「好き」という気持ちを
 どんどんと育んでいく精神こそが、すごくこういう系の作品の魂になってるなっておもう。
 私は兄弟姉妹で愛し合いたい人がふつーに愛し合って生きていける社会を、健全だとおもうし、
 そういう社会を望むけれど、でも同時に、この作品みたく、なんだかんだで、自分が本当に求めていた
 ものに気付くための、ひとつのプロセスとしての近親相愛というものがあってもいいなぁともおもう。
 
 つかぶっちゃけ、あんましこの作品真面目に観てなかったんで、よくわかってないんですけど(ぉぃぃww)
 
 まぁでも、私はこういう昨今の妹アニメや、あとひところ流行った「変態」アニメ(「えむえむ」などw)の
 やっているような、真面目な語り口では無い、ただノリノリな感じで、そして「当たり前」に語るそのやり方
 は、とても良いなぁとは感じています。
 こういう作品を「ファンタジー」としてでは無く、リアルとして還元出来る感覚が、これらの作品を受け入
 れる事の出来た人達の中に広がっていけば、それがひとつのスタンダードになっていけると思いますし。
 これもソフトパワーとしてのアニメの威力だと、私はおもっておりますよ。
 マイノリティに対する差別や偏見が私達の誰にもあるのは、それ自体は私はしかたのないことだと思い
 ますし(そう教育されてきてしまったのですしね)、またそれを捨てなくてもよいと感じています。
 差別や偏見をそれも自分の個性として認めた上で、差別や偏見の無い目で、マイノリティの人達が
 しあわせにあるがままに生きている姿に、「萌え」や「燃え」を感じてみる。
 共感してみる。
 私にだって、差別や偏見はあります、ていうか割と結構あるw言わないだけでww
 そしてそれは私のツンですwwwwだからそれを認めた上で、デレるわけでwww
 そうやってツンとデレを繰り返すうちに、きっと差別や偏見はあっても、それに拘りそれだけしか無い、
 ということは消えていく。
 わたしはそれでいいと思います。
 嫌いだけれど、差別しない、みたいな感じ?
 確か京極作品でそんな事言ってたキャラがいたよーなw
 
 どうか、この社会が、差別する人と差別される人の、その両方が手を取り合って生きていける社会に
 育っていきますように♪
 
 
 
 
 
 以上です、はい。
 ふはー、疲れたw
 なんかもうアニメの感想っていうか持論の展開状態になってますけどw、でもそのアニメを観て私が
 「感じて」「想った」ことのすべてが、私のいう感想ですので、これもまたひとつありだと思っています。
 言い方を変えれば、アニメをダシにしてすきほーだい言っているということです、あ、石は投げないでw
 
 
 という感じですね。
 はー、ここまで長々と続いてきました前期アニメ感想も、次でラストになりそうです。
 ここまで読んでくださった方にありがとう、そしてお疲れ様わたし。(まだはやいだろw)
 
 それでは、また。
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 追記:
 読書リストー。
 
 酒見賢一 「泣き虫弱虫諸葛孔明」
 同上 「泣き虫弱虫諸葛孔明 第弐部」
 同上 「泣き虫弱虫諸葛孔明 第参部」
 綾辻行人 「Another」
 天野頌子 「陰陽屋へようこそ」
 塚本史 「仲達」
 鹿島田真希 「黄金の猿」
 海月ルイ 「烏女」
 桜庭一樹 「ばらばら死体の夜」
 同上 「GOSICK -ゴシック-」
 
 
 酒見賢一の孔明シリーズは私のお気に入りで、第参部がようやく読めて感無量。
 その勢いで弐部と無印を借りてきてしまいました、ていうかだいぶ内容忘れとるw
 
 その第参部を読み終わり、現在は海月ルイの「烏女」を読み中。
 この人の作品はお初ですけれど、なかなか読ませる文章で引き込まれ中。
 
 基本私は本は図書館で借りて読むですけど(買うと高いし場所取るし高いしw)、こう、図書館の
 本棚に並ぶ背表紙を眺めて、これかな、あれかなとぴんと来るものを手にとって、そしてちょっと読んで
 みていけそうだと思ったものを借りる。
 これがこう、なんというか、美味しいw
 図書館の本棚がこう、宝の山に見えるような、自分の感性で自分の気に入ったものを吟味して
 選ぶという事の楽しさと、知的探求心が結びついて、なんかこう、なんかこう。
 うふふ。(なによww)
 
 そんな感じで、今回はお初な作家さん、というかその場の私の感性で選んだ本が、「陰陽屋へようこそ」
 、「仲達」、「黄金の猿」、「烏女」の四本でございます。
 あとの作品はお気に入りの作家繋がり(酒見賢一、桜庭一樹)や、アニメを見て原作に手を出した
 作品「Another」でございます。
 
 さーて、本の返却期限までに何冊読めるかな!(ぉぃw)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

-- 121104--                    

 

         

                             ■■ パターン、アニメ。 6 ■■

     
 
 
 
 
 はいはい、皆様の紅い瞳です、ごきげんよう♪
 
 もうすっかり秋を飛び越えて冬に突撃中な今日この頃ですが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 
 11月ですからねぇ、気付けばもう今年もあと2ヶ月、いやー、今年一年も早かった!
 ただ今年一年は私は非常に充実していたので、早いの意味が違うというか、このままの勢いで
 どこまでもいけそうな感じです。
 いやっほー! (だれか止めてあげて)
 
 
 ということで、今年の残りの二ヶ月をこのまま突き抜けていきたいと思います。
 えーと、今回はまた前期アニメの感想です。
 境界線上のホライゾンUココロコネクトDOGDAYS'の三本立てでお送り致します。
 
 では。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 境界線上のホライゾンU:
 人はどうして生きるのか。
 そんなの知ったこっちゃない、とそれに答えることが出来るのは、一体どういう訳だろう。
 自分が生きる理由なり意味なりを知らなくて、ではなんのために生きているのだろう?
 問わずにはいられない。
 それは論理でも理屈でも無く、ましてや答えを求めてのことですらも無い。
 
 ただただ、私はこのために生きているんだなぁと、
 そう、魂の奥底から溜息のように漏れ出てくるものが無いなんて
 そんなの つまらない!
 
 わたしは、ただそれだけな気がするのよ。
 生きる理由があるから生きるのでは無く、生きていたら自分が生きる理由に気付くというか。
 その瞬間を繰り返すことの中に、なんというか、生の衝動というものを感じられる気がする。
 わけもわからずただがむしゃらに動くだけの、それ自体にはきっと生きるということの感覚は無いような。
 ただそうしてがむしゃらに動いていた自分を、ああ、あのとき私はこういう理由で、こういう必要があって、
 がむしゃらに生きていたんだなぁと、そう自ら「語る」ことの中に、そしてその語った「世界」の中を生きる
 ことに私は生というものはあるとおもう。
 
 この作品は、ひたすら自分達を語り続けている。
 正義なり罪悪感なり、なんでもいいけれど、そういう外的(あるいはそれが内在化されたモノ)なものから
 の解放、そして自らがそれらのモノを持っていたとしても、自ら自身は決してそのモノ自体では無いという、
 その気付きの獲得。
 わたしゃこの作品のしち面倒で膨大な設定なり蘊蓄なりを理解する気は毛頭無いのだけれど、
 でもだから同時に、そうしたモノを理解してようと理解してなかろうと関係無く、私はあの物語の世界の
 中で確かに息づく、そして圧倒的に駆け抜けていく「生きる理由」を感じ取ることができた。
 感じるままに、想うままに。
 思考はいらなかったよ。
 小難しいことをさらに激しく難しく語ろうとしている、その紛れもなく自らを語り生きようとしている、
 あの登場人物達の息吹がただ、私の胸の鼓動と共振した。
 小難しくても簡単でも関係ない、ただ自らの世界を語ることの中で、自らの生きる理由を掴みだそうと
 する、そのおもいにこそ、私はなによりも共感した。
 
 たぶん、「語る」ということの人生に於ける最重要性を、かけがえのないほどに端的に示したのが、
 この作品なんだと私はおもう。
 たとえどんなに困難な状況であろうとも、困難しか無いとしかおもえない世界であろうとも、絶望しよう
 とも、世界とはこんなもんだと諦めようとも、それでもこの作品のキャラ達は、連綿と絶えることなく、
 語り続けていく。
 私には、この作品の中に生きるあの人達のすべてが、とても一個の人間として完結しているように感じた
 よ。
 完結というか、自らで自らを満たすことが出来ているというか。
 ちゃんと、自らの語りを以て、自らの生の責を負っているというか。
 その語りがどれだけ馬鹿げて滑稽であろうとも、必ずその語りのままに生きる彼らの圧倒的な生命力
 とその清々しさには、わたしはもう、もう、なんと言ったらいいのかわからない。
 
 正直、私にはあの人達がなんのために戦争してるのか、欠片もわかんないんだけど。
 でも、彼らがなんのために生きているのかは、もう言葉に出来ないほどに、わかるような気がするんよ。
 
 あー、生きてるってこんなにもたのしいんだねぇ。
 自らの語りの中で得ることの出来たものを、ただただ受け止めながら。
 自分がなにをしてなにを得たのか、きっとそれをきちんと見ることが出来る勇気こそが、それ以外の得ら
 れなかったものや失ってしまったものと向き合える、そんな自分の支えとなる真なる友なんじゃないかな。
 なーんも出来ていない、なーんも得られていない人なんて、この世にゃひとりもいやしないんよね♪
 ありがとう
 
 
 
 ココロコネクト:
 人生に、やり直しってあるんだろうか?
 私は、あるっておもう。
 ただし、これまでやってきたことしてきたことは、無くならないし、消えないけど。
 でも、自分がこれまでやってきたことやしてきたことの、その意味を変えることは出来るとおもう。
 んー。
 「自分」ってなんだろう。
 それは、これまでの自らの生きてきたことの堆積であるようでいて、その実、現在の自分がこれまでの
 自分をどう「語る」か、ということにあるんじゃないかなぁ。
 私は、これでいい、そうおもったとき、一抹の寂しさと、悲しさと、そして。
 悔しさを覚えるときがある。
 人間なんて、世界なんて、現実なんて、こんなもんさ。
 そう自分に言い聞かせて、そうした自分の語る「物語」の中で、如何に上手に生きていくかを考えること
 に色々なものを込めて、そしてそれが自分なんだ、これでいいのだとそう思ったり。
 
 でも
 ほんとうに、それでいいのだろうか?
 
 色んな悩みや苦しみや、自分でもわかってる問題行動や、自覚すらしていないマズいことも、みんな
 その自分で語った「物語」に合わせるために、都合良い言葉に書き換えてしまう。
 曰く。
 みんな、そんなもんだよ、と。
 でも、それらのもので、本当には満足していない自分がいることを、そしてそれで満足していると必死に
 言い募っている自分がいることを、知らずにはいられない。
 幸せだとおもうことでしか生きられないなら、それは不幸だよ、どうしようもないほどに。
 
 自分が「本当」はどう育ってきて、どういう環境の中を生きてきて、そしてなにを求めなにを諦めてきた
 のか。
 もし、もし私が、これまで私と付き合ってきた人達とは、違う人達、家族、風習、文化、環境の中で育っ
 てきたとしたら、一体どうなっていたんだろう。
 もしかして。
 今ある私の苦悩や考え方感じ方、ものの認識の仕方などはすべて、そういった私のこれまで生きてきた
 歴史に負うところが多いのじゃないだろうか?
 つまり。
 もし、違う育ち方をしていれば、いいや、「正しい」育ち方をしていれば・・・
 その「正しい」育ち方を、今、このときからやってみたら・・・
 
 それが、人生をやり直す、すなわち生き直すということ。
 
 私が素直になれないのは、それを私の個性として受け入れる前に、まずどうしてそうなったのかを考え
 る。
 それはきっと、素直になっては生きられないような、そんな環境を私が生きてきたからなのかもしれないし、
 その環境を生き延びるためにこそ、素直になれないツンデレな性格を「持った」のかもしれない。
 そのときは確かに、その素直になれない性格の必要性があったんだとおもう。
 でもじゃあ、今は?
 
 「正しい」というのはすなわち、自分にとってそれが本当にベストにフィットしているのか、たった一度しか
 無い人生に於いて、私はそれでよいのかという、その問いに誠実に答えられる唯一のもの。
 正解は無く、真実自分が自分のすべてに問い掛けて、責任を負えるところのもの。
 私は、自分がこれまで育ってきた、その私の「育ち方」を「正しい」と思えるか?
 その育ち方の結果顕れてきた現在の私と、それを反映したこの世界の姿を、しあわせに感じられるか?
 答えはノーだ。
 ノーで無ければ嘘だ。
 イエスと答えるならそれはきっと、「子供」のまま今を生きているということだとおもう。
 自らがどう育ち、どう生きてきて、そしてその結果がもたらしている、今の「大人」の自分の姿を自覚し、
 そして必ずある今じぶんが真実求めている自分と世界と、その自分が育てられてきた中で培われて
 きた「自分」とのズレを、まっすぐに見つめる。
 私はそれはとても、勇気のいることだとおもう。
 この作品は、それをやった。
 やっちゃった。
 
 私は素直になれなくていいの?
 いやだよ、私は素直になりたいよ。
 だから、ありがとう。
 素直になれない自分に、ありがとう。
 これまでの自分に、ありがとう。
 さようならは言わない、だってきっと、これからだって素直になれない自分が必要になるときだってある
 かもしれないんだから。
 一緒に生きよう。
 そしてね、だからね、今、私に必要なのは、素直になれる自分なんだって、正直に、しっかりと言える。
 素直な自分になれるようになるためにこそ、素直になれない自分という、これまでの自分を受け入れる。
 それも個性として受け入れる。
 すべての性格は、人格は、そのときどきの必要に応じて、その必要性にフィットしてこそ、意味がある。
 ずっと変わらぬたったひとつの生き方を貫き続けるのは、それこそ今の自らの必要に即して今を生きている
 、そういう自分という名の現実から目を逸らし続けているということ。
 それでも幸せだという言うのは、その子供の頃からの自分のまま、自分の力で自分と世界を変えること
 から逃げ続けているということ。
 それは、生きづらさを自分や世界のせいにしているのとおなじこと。
 
 自分に必要な人達との付き合いを、自分に必要な環境を、自分に必要な仕事を、自分に必要な
 居場所を、自分に必要な勉強を、自分に必要な家族を、自分に必要な生き方を、自分に必要な
 考え方と感じ方を、自分に必要な認識の仕方を。
 それをなにものも恐れずに、勇気を以て真摯にみつめれば、一体どれだけ、自分には必要では無い
 ものを得て、それを今も求め続けそれを維持することに汲々となっているかということに、気付く。
 自らが真に望んでいない人生を「生きさせられている」という、不満。
 それを無理矢理ねじ伏せ、しあわせだよと微笑むという、自己否認。
 その魂に降り積もる絶対的な不満を、あらゆる歪んだ形で、表出させていることにも、気付く。
 差別、妬み、怨み、憎しみ、殺意、それらは他者に、あるいは自らの心身に向けられる。
 そういうものが、今のこの社会には溢れている。
 自らの生に対する無責任。
 
 それは、自らのこれまでの人生を「語り直す」ことでしか、背負い直すことの出来ないもの。
 
 もう一度言うけど、私は人生にやり直しっていうのはあるとおもう。
 これまでの自分、すなわち小学生のときの自分、中学生のときの自分、もっともっと細かく分けられる
 そのときどきの自分。
 その沢山のこれまでの自分が、今の自分の中にも確かに息づいていることを感じながら、そしてそれを
 抱きしめて、そして・・・
 その、沢山の私のこの子達に、私こそが、素敵なこれからの私をプレゼントしてあげたいなって。
 あのとき、あの小さな私に笑顔をあげられなかった私、今もその小さな私は泣いている・・
 だから、今の私は、その私に優しく微笑んであげられるようになりたい、ううん、なってみせるよ!
 私はそれが、人生をやり直すということだって思うんだ。
 きっとそれはこれからの自分の人生を変えることになると思うし、それこそがこれまでの自分の人生が
 あった意味になるんじゃないかなぁ。
 そして。
 この後、自分に子供が出来たときに、きっと、今まで自分が育ってきた生き方では無いものを、
 その大切な大切な我が子に与えることが出来るようになるのかもしれないね。
 
 この作品は、この世界で唯一無二の存在である、「私」という存在と向き直るために、すべてを懸けて
 いるように私には見えたよ。
 その唯一無二の私にしか背負えないモノが、この世界にはあるんだよ。
 手探りで足掻きながら、あの子達は懸命に、今の自分を生きようとする。
 自分を見つめ、自分を知り、そして・・・
 ひとつひとつ、ほんとうのあの子達の世界が広がっていく・・・
 なんというか、前期アニメの中で、ある意味この作品がぶっちぎりの一番なんだよねぇ。
 ここまで突っ込んで徹底的にやるなんて思っても見なかったから、録画データ保存して無かったよ!w
 うん・・
 この作品に対して私が伝えたい言葉は、この際たったひとつだけです。
 
 続編をやりなさい。
 あんな中途半端なところで終わっちゃってぇ! 許さないんだからねっ!
 
 ・・・拒否は認めません。 (ぉ)
 
 
 
 DOG DAYS':
 敵とは、なんだろうか。
 なぜ、誰かと戦う必要があるのだろうか?
 私はこの作品が好きだ。
 愛している、とても、愛している。
 私は・・そうね・・・きっと私のことが、大好きなんだとおもう。
 好きで、好きで、好きだというその気持ちが、他の人の姿に映り込む。
 愛されて、愛されたくて、愛されたくて、愛されて。
 きっと私は、ほんとうに私のことが好きなんだとおもう。
 その好きな気持ちのままに、私はわたしを生きている。
 
 敵とは、なんだろうか。
 なぜ、誰かと戦う必要があるのだろうか?
 私は私が好きだし、私が他の人達のことを好きだと思えるのも、ぶっちゃけ、私と同じような姿をして、
 同じようなことを感じている、この世界の中で、最も「私」に見えるモノだからだとおもう。
 他の動物や植物や器物と比べて、人間達ははるかに私に酷似している。
 私は、私を愛するように、目の前の人達を愛している。
 心地良い、この気持ち、愛し、愛される。
 目の前の人が、私に愛されたときにみせるその笑顔に、私自身が愛された気持ちになる。
 この愛しくて暖かくて優しい気持ちが、どんどんと私自身への愛を育んでいく。
 愛されているこの感触。
 愛しているこの気持ち。
 
 敵とは、なんだろうか。
 なぜ、誰かと戦う必要があるのだろうか?
 私と同じというより、私自身である、目の前のあなた達。
 でも、少しずつ、そして大きく、私とは違っている。
 私には無いものを持っていて、私には出来ないことが出来る。
 私にはあるものを持っていなくて、私には出来ることが出来ない。
 ぞくぞくする。
 私は目の前の人達に、私自身を見ながらも、同時に、あなた達自身の姿も見えている。
 ああ、あなた達は私とは違うのね。
 でも、私と同じでもあるのね。
 うれしい。
 ああ、私もあなたのようになれるかな?
 目の前の人達の中にある、私には無いと思えるものに憧れるのは、きっと。
 それはきっと、ほんとうは、私の中にそれは本当は隠れてあるものだということに、気付いたからなのかも
 しれない。
 可能性の発見。
 私があなたのようになりたいと思えたら、それはきっと私の中にあなたを発見したということの証。
 あなたと出会うと、どきどきする。
 あなたと一緒に過ごせて、あなたと一緒に歌い合って、あなたと一緒に夜を過ごして。
 あなたは私にあるものとないものを与えてくれて、その上、私になにかを得る力をさえ与えてくれる。
 
 敵・・・敵かぁ
 誰かを敵とみなして戦うのって、なんていうか、こう、悲しいね。
 それがどんな理由での戦いであっても、私にはこう、一抹の寂しさを感じられる。
 だって、目の前にはもう、既に、欲しいモノは、あるのに。
 一体全体、それを目の前にして、どうして自分を傷付けたり、その大切なモノを壊したりするんだい?
 誰かやなにかや、そして己自身を嫌い敵とみなして戦うとき、そこには大きな間違いが発生している。
 それはきっと、自分が本当に求めるもののために、己の力を使うことが出来ていないことゆえだとおもう。
 
 私にも嫌いなものや嫌いな人や、勿論嫌いな自分もある。
 それは仕方のないことだけれど、でも同時に、それはそれだけのもので完結していると私はおもう。
 嫌い嫌い、だーいきらいっ!と思う存分叫んだら、それはそれでおしまい。
 あとはもう、自分の大好きだと思うものに、力一杯目一杯、力を出せばいいのだとおもう。
 そうしたらきっと、嫌いなものとだって、新しいそれとの付き合い方が見つかるかもしれない。
 逆にいえば、そうして自らの真の欲望のために生きることをこそ、最も実は恐れているからこそ、
 「嫌い」というおもいにしがみつき、それを必要以上に高めて、そして「戦い」に走っていってしまうの
 かもしれない。
 
 さらに逆に言えば、話を元に戻せば
 それすなわち、その「戦い」のエネルギーこそをすべて
 自らの真の欲望のために生きることに使えるようになれたら
 それはとても、しあわせなことになる
 
 この作品は、絶対的だ。
 すべての登場人物が、自らの求める想い、気持ちのままに、ただひたすらに笑顔で生きている。
 自らの生きる力の使い方が、どうしようもないほどに、自分自身にフィットしている。
 それは等身大、と言い換えてもいいのかもしれないね。
 なんという、なんという、溌剌とした清々しさ。
 しなやかで、軽やかで、親密で、あたたかい、ひとつひとつのぬくもりある触れあい。
 私もう、観ていてずっと興奮しっぱなし、あのキャラ達の、あの子達の人生のたのしみっぷりが、ああ、
 私の胸をいっぱいにして、おもいっきり揺さぶってくれる。
 ああ
 わたしもこの子達のように、生きたい!
 それは、まぎれもない、その子達のように生きられる、私自身の才能の発見。
 あの子達のように生きたいというおもいのままに生きること自体が、既にその己の才能の育成と
 イコールである。
 
 私はこの作品は、アニメという「ファンタジー」の、最大最高の魅力を、最も純粋に表現していると思う。
 この作品の有様やキャラの生き方が「非現実」であるかどうかなど、なんの意味も無く、むしろ非現実
 ということこそに、意味がある。
 なぜならそれは、極めて純粋な「おもい」の結晶なのだから。
 ああ、私はこの作品のような世界を作りたい、このキャラのような生き方をしたい、そのおもいこそが、
 自らの中に秘められていた、そのおもいを実現するための未知の力を引き出していく。
 非現実ということはすなわち、今、目の前に自分が捉えている「現実」という名の、「私」が投影された
 世界では無いということ。
 それは言い換えれば、今の「私」には無いものが、まさに非現実であり、ファンタジーであり、アニメという
 「私」にあるということだ。
 その他者としての「私」から得られるものは、とてもとても、沢山ある。
 そして、私もああ、あなた達のようになりたいという、変化を起こすことに繋がっていく。
 現実には無いからこそそれを欲する、私には無いからこそそれを求める。
 それを求めるおもいこそが、私の見ていてる現実と、そして私自身を変えていくのだ。
 私は、あなたという何者かになるのでは無い。
 私は、私という素敵な自分達になり続けていくだけなんだよ。
 だれかをなにかを好きと思えるという、その才能こそが、私と世界を変えていくのじゃないかなぁ。
 
 ぶっちゃけ、英雄王がさ、戦興行は若い子達に任せて自分は参加しない、みたいなこと言いながら、
 でも戦興行のワクワクっぷりを見ながら、大興奮して、結果おもいっきり参加していくあの感覚は、
 まさにこの作品を見ている私の感覚にドストライク。
 観てるだけじゃなくて、私も参加したい!
 私はドッグデイズというこの作品を観るたびに、どんどんと自分の生き方が変わっていくのを感じるし、
 変われば変わるほどに、もっともっと、この作品のあの子達の笑顔の素敵さが胸にきゅんきゅんする。
 もう、憧れるだけでは終われないし、終わらなかったんだよね♪
 自分の生きる力を、「正しく」使う。
 その自覚こそが、私が自分をどれだけ嫌っていて、どれだけ敵を作って、それを倒すことで生きている
 感覚を持っているのかという事に気付かせてくれた。
 そして、そのことに閉じ籠もってしまっていたことを。
 そして、閉じ籠もる必要性があったのだということも。
 だから
 改めて、今、問える。
 
 じゃあ
 今の私に、それらは、必要ですか?
 
 もう、必要では無くなっていたことに気付いたのよ。
 嫌って、戦って、しがみついて、わけのわからない無限の憎悪が渦巻き続けていた、その中を泳ぐ
 ためにこそ自分の力を使っていて、そしてその自分の泳ぎそのものが立てた波が、またその渦のひとつに
 なってしまっていて。
 必要だったんだよね、きっと。
 それしか無かったから。
 それしか無いとおもうことしかできなかったから。
 ありがとう
 ここまで私を泳ぎ連れてきてくれて、ありがとう。
 だから、もう、だいじょうぶ。
 私は、私はもう、ひとりでちゃんとやれる。
 ちゃんと、自分のほんとうに求めるもののために、生きていく勇気が持てた。
 涙ながらにこの作品を観ていた私のその涙は、いつのまにか笑顔に変わっていた。
 不思議だね、なんだかもう、この作品が私には、非現実なものには見えなくなってきていたのよ。
 私の目の前の人達の姿の中に、私には私が自分の気持ちのままに生きる姿が見えるのよ。
 笑顔が、好き。
 
 みんな、がんばってるんだね。
 
 私の目の前には、ドッグデイズの世界に優るとも劣らない、そんな壮大な現実が広がっている。
 ああ
 生きるっていいねぇ
 
 泣きながら、笑いながら、泣いて、笑って。
 私は、ドッグデイズを愛しています。
 この作品を創り上げたすべての人達に、我が最高の賛辞を贈ります。
 この作品に照らされたすべての人達の、その生きる力に、幸せな出会いのあることを祈ります。
 そして
 この作品のすべてに、拍手喝采を。
 もう、もう、すべてが最高に最高で、最高でした!!
 そして
 この作品のあの子達に、乾杯。
 
 勇者様の優しさの表現力の高さには何度胸躍らされたことでしょうか。
 それがシンクというひとりの少年の、その魂の豊かさにあることの、このときめきはなんでしょうか。
 
 姫様のどきどきするほどに真面目で、しかし同時に自分の「好き」という気持ちに身を委ねられるその
 感覚には、とても今という時間を大切にする姫様の魂を感じて共感しました。
 
 閣下の豪快かつ清冽な精神と、茶目っ気と優しさと、姫様への深い愛情、そして勇者達への深い
 人間洞察に基づく彼らへの共感を持つあの感覚に、そして自らの体や美容をも大切にする、その自己
 と他者に於ける真の「王」としての支配者の矜恃を感じました。
 
 ガウル殿下とジェノワーズの面々のノリの良さと、溌剌とそしてしなやかなその人生の瞬間をひとつひとつ
 楽しんでいる姿には、観ているこちらまで嬉しくなってきました。
 
 エクレの生真面目と見せかけてちょっと臆病なツンデレっぷりが、少しずつ、そして一気に解放されて
 堂々と生きていけるようになっていく姿には、とても清々しさを感じました。
 
 リコの可愛らしいほどなまでの律儀さと、細々とした感情に基づく表情変化と、実に素直に勇者様への
 好きという気持ちのままに尻尾を揺らすその様には、本当に生きていることの幸せを感じました。
 
 ゆっきーとお館様のしっとりとしつつ、風情と風流のあるお茶目な感覚と、芯の通った意志の強さには、
 時折なにかこう、心のやすらぎを与えられた気持ちでした。
 
 ベッキーのシンクへのドキドキな感じや、それを姫様と共有する同志的な感覚には、観ていてこう、
 とても人間としての原初的な興奮を、その親密なふたりの姿から感じ取りました。
 
 七海はまだまだ可能性のあるキャラで、まだ掘り下げが充分では無いと感じましたけれど、でも、あの
 真っ直ぐで一本気、かつ繊細に自分の感情を表現出来るその姿には、感動を覚えました。
 
 クー様も素直で、愉快で痛快で、ああきっとこの子は自分の言動のすべてを心地良く感じていて、
 そして周りの人にもそれが伝わっていると感じている、すなわち「愛されっ子」の自覚がある、とてもとても 
 幸せな子なんだろうなぁと思わせてくれる、そんな素敵な女の子でした。
 
 英雄王&魔王夫妻についてはもう言い尽くせないほどの想いがあります。
 あのふたりの登場こそが、この作品のキャラ達の生き様をリアルにしてくれたような気がします。
 そしてなによりあの夫妻の関係の奥ゆかしいエロさに脱帽です。むしろ憧れます。(ぉ)
 
 あの世界のあの子達がみな、耳を動かしたりぴんと立てたり垂らしたり、尻尾を振ったりしゅんとしたり、
 そういうありありと気持ちが見えるその感情表現が、そして勇者達に頭なでなでされて全身でよろこびを
 表すあの子達が、そうしてよろこぶあの子達の姿と、頭なでなでしている自分の姿に微笑む勇者達が。
 
 そして最終回で、勇者様を囲んで姫様達が一緒に夜を過ごす、あの瑞々しい幸福感と、あたたかくて
 それだけで笑顔から涙がこぼれてしまいそうな、そんな親しい時間の流れが、ああ。
 
 わたしの胸を、なによりも深くふかく、かけがえのない気持ちで一杯にしてくれました。
 
 
 だいすき、あなた達と出会えて、ほんとうにわたしはしあわせだよ。
 
 
 そして
 私に
 ささやかな、頭なでなでを。
 ありがとう
 よく、がんばったね。
 
 
 
 
 
 
 
 はい。
 ということで、今回はここまで。
 読んでくださった方々には感謝でございます。
 今回は少し書き方を変えてみました、というか毎回違う気もしますけれどw。
 あー、これ書きやすいなーw
 こうやって、書き方自体も色々開発していけると、それもたのしいですね。
 
 
 では、残りはまた次回ということで。
 あと、1回か2回くらいの更新ですべて完結出来るとよいなぁと夢想しておりますw
 
 それでは、また。
 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

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