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◆◆◆ -- 2014年1月のお話 -- ◆◆◆

 

-- 140106--                    

 

         

                                 ■■ いのちと笑顔 ■■

     
 
 
 
 
 新年あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくおねがいします。
 
 
 今年は、笑顔になりたいと思います。
 笑顔、ほんものの、笑顔。
 
 私は笑うのって、得意ですし、同時に苦手でもあります。
 面白いことがあれば笑うし、楽しいことがあれば笑います。
 面白くなくても笑うし、楽しくなくても笑います。
 嫌なことや辛いことがあったときにも、笑います。
 
 人生前向きに考えることも得意ですし、笑い飛ばすことだって出来ます。
 いちいち人に言われなくても、大概の人よりポジティブです。
 自分でもこわいくらいに、笑い続けることが出来るし、笑うことを諦めないことが出来ます。
 それは、嘘笑いのときもあるし、嘘じゃないときもある。
 
 どんなときでも、笑います。
 笑えます。
 
 笑うことしか出来ません。
 
 私は、笑わないでいるということが、大層苦手なのです。
 
 
 笑う門には福きたる、なんて言葉がありますけれど、あれは一面に於いては正しくても、
 根本的に私は間違っていると思います。
 笑って、笑って、笑い続けていると、笑うことしか出来なくなります。
 笑わないでいることが出来なくなり、笑わないでいることが苦痛になってきます。
 苦痛を感じても、笑います。
 苦痛を快楽に変えるために、自分の中にポジティブな物語を作り出し、笑います。
 笑えば笑うほど、笑うしかなくなります。
 笑っているときは、なんだかたのしい気持ちに酔えるようになるけれど、その気持ちをずっと続けて
 いかなければならなくなってしまいます。
 まるで、笑い依存症です。
 
 
 笑うということは、私にとっては、自分の居場所や存在価値を得るための、一種の戦いでした。
 コミュニケーション手段であり、自分のモチベーションを高めるための道具であり、現実から目を背ける
 ための目隠しでした。
 笑わないと、自分が自分でいられない、ここにいられない。
 自分のために、だれかのために、笑顔をみせていないと、落ち着かない。
 
 安心感の欠如。
 信頼感の欠落。
 私はただ、じぶんのままにありたかったのに。
 つらいとき、くるしいとき、だれかにそばにいてほしいとき、おもいきり、泣きたかった。
 つらい顔して、くるしい顔して、ただうずくまっていたかった。
 誰憚ることなく、つらいと、くるしいと、叫びたかった。
 それを、受け止めて欲しかった。
 そういう人と出会いたかった。
 そういう場所が欲しかった。
 
 私はきっと、そうして私が求めるものを得るためにこそ、戦い続けていたのかもしれません。
 笑って、笑って、笑い続けて、そうして笑い続けていれば、きっといつか・・
 でも、笑えば、笑うほど、笑うしかなくなっていく。
 笑うために笑えば笑うほど、自分の中の笑顔以外の自分が消えていく。
 だって、笑顔じゃなきゃ、駄目だとおもっていたから。
 だって、だって、みんな笑いなさいって、言ってたから。
 
 
 ほんとうは、笑いたくなんか、なかったのに。
 
 ほんとうは、ただ、そばにいてほしかったのに。
 
 私が笑わなくても、つらい顔していても、ただそっと、だれかにいてほしかった。
 そして・・
 
 そのだれかがそばにいてくれる、いっしょにいてくれる
 そのやすらぎのなかで、ただ、ほほえみたかった
 
 
 
 
 昨年のクリスマスに、私は魔法少女まどか☆マギカ MUSIC COLLECTIONを買いました。
 とても、とても、こころふるえる音のいとなみでした。
 そして、このパッケージに、涙が止まらなかった。
 この笑顔に、ただやさしくよりそうふたりの笑顔に、涙が止まりませんでした。
 たたかって、たたかって、なにかを掴み取ろうと。
 でもそれは、その掴み取ろうとしていたものが、ほんとうに欲しかったものじゃ無い。
 私が、この作品、魔法少女まどか☆マギカという作品を愛する理由が、よくわかります。
 私は、笑いたかった。
 それは、笑い続ける笑いでは無く。
 笑わないでいられること、それを受け止められる、そんな笑顔でした。
 
 ひとつ、ひとつ、自分の生活の中から笑顔を消していっています。
 ひとつ、ひとつ、自分の中に閉じ込められていた、たくさんの表情を浮かび上がらせています。
 誰に嫌われたって、否定されたって、構わない。
 みんなが笑っていても、じぶんがたのしくなければ、笑わない。
 そのときつらければ、つらい顔をする。
 それを日々、続けています。
 おのずと、私がほんとうに求めていた人達との関係というのが、みえてきます。
 笑うことしか許さない人達とは、距離を置きます。
 笑わないことを許してくれる人達とは、もっと一緒にいたいと思います。
 人を、変えるための努力をしなくなります。
 人を、私の求める人に、私の望む関係性にするように変えようとしなくなります。
 
 そうだなぁ、私は人に笑顔を向けるたびに、その人達の私に対する態度を変えようとしていたんだなぁ。
 嫌われないように、避けられないように。
 だから、笑う、笑うから、嫌わないで、避けないで。
 でもそれは、その人達が私を嫌い避けようとする気持ちを、操作している。
 私こそ、その人達に、私に対する笑顔を、好意を強制していたのかもしれません。
 私の笑顔は、そうした相手の気持ちの操作という、自己保身だったのかもしれません。
 
 
 そうしたことに、膨大なエネルギーを使っていました。
 だから、私自身の他の感情、表情、そして他の人達に嫌われたり避けられたりすることを、受け止める
 ことが出来なくなってしまっていたのかもしれません。
 つらくなると、苦しくなると、笑ってしまいます。
 笑って誤魔化してるわけじゃなく、ただ前向きに、前向きに。
 でもじゃあ、なんで前を向かなくちゃいけないの?
 前を向かないと、ここにいられないの?
 それはただ、こわかったからじゃないの?
 笑顔になれる、前向きになれる、希望を持てる、そんな強い自分しか、受け止められなかったのじゃ
 ないの?
 つらいとき、くるしいとき、蹲って、泣き叫んで、絶望の中をのたうち回ること。
 それをしている間に、なにも出来なくなってしまうことが、こわかったのじゃないの?
 つらいのに、くるしいのに、ほんとうはなにもしたくないのに、なにかしてなくちゃいけないという強迫に
 おそわれていたのじゃないの?
 なんでそんなに、がんばるの?
 
 なにもしない。
 それを受け止めることが、少しずつ出来るようになってきました。
 スケジュールを変更したり、あるいは取り消したりすることが出来るようになってきました。
 自分の感情、感覚、状態を元にして、少しずつ生活を設計出来るようになってきました。
 今までは、全く逆でした。
 まず先に、こうしなければならないという設計があって、それに合わせてひたすら自分を頑張らせて
 いました。
 それはすなわち、自分が主体になっていなかったということ。
 自分が、自分の人生を生きていなかったということ。
 こうしなければならないという設計から外れることを、非常に恐れていた。
 こうしなければならないという設計の、せいにしていた。
 
 少しずつ、少しずつ、自分を受け止められるようになってきました。
 みんなとは違う、私という唯一無二の存在を。
 みなひとりひとり特別の、決してひとつにはなれない存在を。
 その、孤独という、私達自身の存在そのものを。
 そして、その私という存在を守り、愛し、よりそい、ずっとそばに居続ける。
 ひとりの大人の、私が育ち始めました。
 人間という大枠で見れば、他の人達から学べること、助けられること、いっぱいあります。
 似ている者同士、わかり合うこともできます。
 
 でも、本質的には、私達は、まったく別々の、存在。
 この世界に、互いにたったひとりしかいない者同士。
 
 そのたったひとりしかいない自分の生の責任を取れるのは、自分自身しかいません。
 そして、守り、愛し、よりそい、ずっとそばに居続けることができるのも。
 
 
 昨年末にテレビで放送されていた、おおかみこどもの雨と雪という作品を見ました。
 おおかみおとこを愛し、その間に生まれた半分狼半分人間の子ども達を育てるひとりの人間のお話。
 私って、なんだろう。
 私が愛すべき、守るべきものって、なんだろう。
 改めて、気付かされました。
 どんなものにも、愛される資格がある。
 狼であろうと人間であろうと、愛しい我が子に違いは無い。
 如何なる愛の選別を迫るものにも屈しない、それと我が子の間に立ちはだかり、戦うひとりの女性。
 しなやかに、確実に、決して諦めず、おそれない。
 諦めとおそれを受け止めながら、ひとつひとつ、手探りで生き延びていく。
 大切な我が子を守るため、そして、その子達が自分自身で自分を守れるようになるために。
 気付けば、母親自身が、自身の欲望で子達を束縛しようとしている。
 気付けば、母親自身が、自身の愛で子達が自分らしく生きることを妨げようとしている。
 だから・・だから・・・
 
  『元気で・・しっかり生きて!』
 
 これは、子離れの物語。
 母親自身が、自分自身への愛に再び気付いたとき、我が子のほんとうの立派な姿に気付いていく。
 私は私、あの子はあの子。
 我が子への尊敬の念こそが、母の自分自身への帰還を促していく。
 ひとりの母の、ひとりの女性の、ひとりの存在の物語。
 母の期待通りには生きないかもしれない子への、その子自身が自分らしく生きていくことへの信頼を
 学ぶお話。
 我が子を信じられることの、なんとこころやすらぐことでしょうか。
 我が母に信頼されることの、なんと安心できることでしょうか。
 信頼とは、期待を捨てることから始まるのかもしれません。
 自らの願いを、他の誰でもない、我が子でも無い、自ら自身が背負うことへの勇気。
 その女性の、その母親の生き方を魂の奥底で感じ、涙が止まりませんでした。
 
 そしてなにより。
 狼と人間、それぞれの自分を内包するあの子達が、その自分達を受け止め、受け入れ、
 そして自らの生きる道を選択して生きていく姿に、感動しました。
 子どもの、ひとりの存在の生きる力の壮大さを、深く、深く、感じました。
 いのちの息吹を感じました。
 泣きながら
 わらいながら
 かんじました
 うれしくて、うれしくて
 よかったね、よかった、この子たちがしあわせに生きられる予感がとまらなくて
 あのひとりの女性が、あたたかく落ち着いていく姿にしあわせがとまらなくて
 よかったね、よかったね
 そう嬉し涙で一杯のわたしはもう、その私の戦いの意味に気付いている
 
 わらわなくても、いいんだよ
 
 わらえなかったんだよね、ずっと、むかし、そのむかし
 
 あの親子のしあわせに涙し、笑う私は、なによりあの親子のしあわせを求めている。
 そして、目の前のその親子達が、そのしあわせを得たことで、わがことのようによろこんでいる。
 でも
 しあわせになったのは、わたしじゃ無い
 しあわせをもとめているのは、わたし自身
 ほんとうに、ほんとうの笑顔になりたいのは、わたし。
 しあわせを、ほんとうの笑顔を求めているということは、すなわち。
 いま、そうではないということを。
 そして、かつてそのむかし、そうではなかったということを、敢然と表している。
 その私の嬉し涙は、私の悲しい涙の裏返し。
 かなしいから、わらうのよ
 ずっと、そうだったじゃない
 他人のしあわせの土俵で、踊っていただけ。
 踊りたくて、わらいたくて、しあわせを感じたくて。
 
 わたしは、こどもの笑顔が大好きです。
 しあわせそうな、あたたかく、こころやすらいだ、こどものほほえみを愛しています。
 それは、わたしが、ほほえみたかったから。
 ほほえみたくても、ほほえむことができなかったから。
 今はそれを、自覚しています。
 子ども達の笑顔を見て笑ったり嬉し泣きするときに、悲しさを感じている、ほんとうに大切な、
 今もいる私の中の小さな子ども達に、そっと寄り添います。
 悲しかったんだよね、さびしかったんだよね。
 うらやましかったんだよね、あなたも、あんな風にわらいたかったんだよね。
 がんばっちゃったんだよね、だれも助けてくれなかったから、自分でなんとかしようと、がんばったんだよね。
 たのしくないのに、つらいのに、泣きたいのに、前向きに、踏み留まって、笑い続けたんだよね。
 そうして頑張って必死に笑い続けていれば、いつかきっと・・・・あんな風に・・
 
 私の中で、よく泣き声がきこえます。
 悲しいときに悲しいと、つらいときにつらいと。
 その声を慈しみながら、その気持ちのために生きるためにこそ、私の培ってきた力と知恵を使っています。
 どうやったら、この声を守り、愛し、寄り添いながら、この社会を生き抜いていけるか。
 この声を、この気持ちを、この私が私を生きるということを守るために、生きる戦略を立てていく。
 そのためにこそ、私の力を知恵を振るえることに、誇りと興奮を覚えます。
 そしてなにより、その自分に信じられ、その自分を信じることの出来る信頼感と。
 安心を感じます。
 
 私にはまだ我が子はいませんけれど。
 けれどいつの日にか、その愛する私の子ども達を授かったときに、こうした私のプロセスを子育てに
 活かすことが出来たならば、どんなにかうれしいことでしょうか。
 子どものため、なによりその子たちを育てることで完遂されていく私のいのちのしあわせを感じられること
 のために、私は、私の願いを叶えていきたいと思います。
 
 そしてそれは、ひとりだけで、孤立して行うものじゃありません。
 助けてくれる人がいます、一緒にいてくれる人がいます。
 この国の、この社会の人達は、とても優しい。
 この国の、この社会の文化は、とてもあたたかい。
 私は、アニメと日本酒を生み出したこの社会を、それだけで深く愛しています。
 愛国心だのなんだの、そんなものを言われるまでもなく、愛しています。
 国旗国歌など不要、むしろそれらの押しつけは私のこの国と社会に対する愛への侮辱です。
 
 みな、誰もが本質的に、そのことを理解していると私は感じています。
 みなそれぞれに、好きなもの、愛するものをこの国と社会に持っています。
 ただ、それらの愛に対して、自信を持てないでいる。
 だから、国旗国歌だの愛国心だのという、なにか大きなものでそれを保障して貰おうとする。
 真になにかを愛する者には、他者の保障や認証などいらぬのです。
 年末に飲んだお酒、最高に、とろけるように美味しかったです。
 冷蔵庫から出して時間が経つにつれ、温度変化とともにほどけていく味わいのまろやかさが、まるで
 私のすべてを暖かく抱きしめてくれるかのようなものでした。
 かぐわしく、たおやかで、ほんとうにこの日本という国の文化が生み出したお酒を、ひとことで言い表す
 のならば、それは、ぬくもりです。
 私の知る限り、洋酒にはないものです。
 アニメに至っては、語る必要も無い。
 アニメを愛するアニヲタにこそ、他人にどう思われようが、その自分の愛が不動であることがわかるはず
 です。
 私なぞ、自己肯定が進んだ御陰で、今では自己紹介時に普通にアニメヲタクを名乗っているくらいです。
 
 愛国心だのなんだの、そういうものを声高に主張したり、他者に強制したりするのはすなわち、
 自分のその国への愛の気持ちに、本当は自信が無いからなのかもしれません。
 
 自信が無いからこそ、身構えて、攻撃する。
 打たれ弱いからこそ、重たい鎧で身を守る。
 
 愛は、とてもおだやかで、ゆるやかなものです。
 愛はしぜんな流れで、なにをしてもしなくてもただそこにあるものです。
 
 
 大晦日に、私はこの社会は生きづらい社会だと書きました。
 みな本質的にやさしくてあたたかくて、互いに助け合うことが出来るのに、ほんとうの意味でそういう
 自分の気持ちに自信が無いから、声高に気遣いや助け合いをすることを叫び、押しつけ、それを
 しない者を排除してしまったりする。
 それはとても、とても悲しいことです。
 自らを貶めることです。
 やさしくて、あたたかくて、互いに助け合うことが、それがしぜんにありのままに出来るようになるには、
 それとは違う感情や行動があることを認めることが出来るからです。
 やさしくなくてもいい、あたたかくなくてもいい、助け合わなくてもいい。
 それでも、あなたは、ここにいていいんだよ。
 そうして存在そのものが全肯定されたときに生まれる安心こそが、ほんとうの自信を生み出す。
 自分に信じられ、自分を信じることが出来るようになる。
 やさしくなくてもいいからこそ、安心して、やさしくすることを選択できる。
 助け合わなくてもいいからこそ、安心して、助け合うことを選ぶことができる。
 いずれの選択をしても、それを受け止め受け入れることの出来る、そんな生き道の多様性が保たれて
 いる社会こそ、ほんとうに成熟した大人の社会だとおもう。
 
 私は、信頼と安心の元で為される「選択」、そしてその選択の「責任」を背負える、
 そうした「自立」を醸成できるシステムこそ、これからのこの社会には必要なのだと感じています。
 
 
 こころの底から
 いのちの源から
 笑うことのできる
 ほほえみあうことのできる
 そんなふうに、私はこれからを生きていきたい
 
 
 じぶんの好きなもののために、好きなように生きる。
 今年も私はアニメとお酒を中心にして、目一杯生きていきたいとおもいます。
 そして、またひとつ、好きなものがみつかるといいなとおもっています。
 
 みなさまも、どうかこのすばらしき豊かな世界を味わって生きていけますように。
 
 
 あらためまして、今年もどうぞ、よろしくおねがいします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

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