〜小説『マリア様がみてる』感想 

 

 

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                         ■■第一回マリみて原作感想系■■

     
 
 
 
 
 皆様、ごきげんよう、紅い瞳です。
 
 はい、本日はアニメ「マリア様がみてる」の原作である小説版についてお話をさせて頂こうと思っています。
 ほんとこの小説を読むまでにだいぶ時間がかかってしまいましたけれど、
 いよいよ本日より感想を書けるようになりました。
 今回は小説第一巻「マリア様がみてる」についてお話させて頂きます。
 アニメ版との比較なども交えて、色々と書けたならば、と思っています。
 
 さて、まずはどうお話すれば良いでしょうか。
 そうですね、小説を読んでの第一印象をまずは述べさせて頂きましょうか。
 小説ということで文字が主体な訳ですが、正直最初読んだときには意表を突かれました。
 あ、これはアニメ版とは全然違うな、と。
 読む前は、流麗で奥行きがあって、そしてひたすら行間の彼方へ読む者を誘うかのような、
 そんな分厚い形容的文章の洗礼を受けると思っていたのです。
 けれど、読んでみると、非常にコミカルなんですね。
 淡泊、というか、ひたすら淡々とした説明的な文章が続き、
 そして時折作者の選んだお遊び要素の詰まった軽いノリの語句が挿入される。
 非常に軽快で、それでいてきっちりとリリアンの生活が活写されていて、
 そういう意味では読んでいるものの前に、はっきりとひとつの世界を示してくれます。
 とにかく、すべて言葉で説明されていて、そしてそれ以外の情報を読者が得る必要のない、
 そういう親切な、悪く言えばおせっかいなまでの文章が続いています。
 これは、私としては意外だったのです。
 ある意味、アニメ版とは決定的にかけ離れています。
 作品の真ん中にあるものが、根本的に違うのです。
 小説版は、あくまで「物語」です。
 そしてその物語が次にどういう展開をみせるかとか、
 次にこの人物はどう行動するのだろうか、そういうところに見るべきところがあるように思います。
 ですから、アニメ版に比べて圧倒的に語られている情報は多い。
 アニメ版には無いセリフやシーン、エピソードが豊富にあって、
 矢継ぎ早にそれらを繋いでいくことに、小説版は重きを置いているような気がしました。
 
 小説版の描写にはあまり情感が滲み出てきません。
 祐巳さんの不安とか、祥子様の哀しみとか、その辺りがなにかあまり見えてこないと思ったのは、
 気のせいだけでは無いと思います。
 それは、小説版がそれを重視していないからなのでしょう。
 祐巳さんの一人称と作者的視点の三人称が入り交じった独特の文体は、
 確かに祐巳さんが不安がっている事や、祥子様が哀しみを抱いている事を描いてはいるのですけれど、
 しかしその内面的なものをほとんど言葉にして示してはいません。
 祐巳さんの例がわかりやすいと思うのですけれど、
 具体的に祐巳さんの不安を象徴する表現、そしてそれを示唆するようなものは一切かかれていません。
 あるのは、「不安」という言葉を直接的に使っているものだけです。
 祐巳さんは不安だ、ということはわかっても、でも祐巳さんの不安がどのような姿なのか、
 それを想像する余地は残されていない場合が多いのです。
 祥子様に追い詰められている祐巳さんの不安感も全然伝わってこないですし、
 また柏木との事で苦しんでいる祥子様の瞳の中に、見えない涙を見つけることもできません。
 
 
 
 さて。
 まずは第一印象はこんなところでしたでしょうか。
 全体的に淡泊さがあって、すっと吸い込まれていくことが出来ないアンバランスさがあって、
 それでいて字面を追っているうちに、それなりの世界を見せられてしまう。
 ですから、読んだとき多少の不快感を受けました。
 んんー? こんな簡単でいいのかな? という感じで、
 さくさくと軽やかに先に進んでいってしまう軽快さに心地良さを感じていても、
 どこか不安を感じてしまう、そういうところがあります。
 読んでいるうちに、ふと立ち止まって考えてみよう、という気が起きないのです。
 アニメ版ではもうひたすら立ち止まって頭を抱え込んでしまうほど、
 様々な見えない情感が迫ってきていたので、つい比べてしまいます。
 ところが。
 ええ、ところがです。
 今まで述べてきたところは、お解りの通り、アニメ版が一番と仮定してみたときの感想です。
 あくまでそうであることは確かです。
 けれど、小説版はアニメ版と比べる事ができない様々な要素を持っているのもまた確かです。
 今度は、そのことについてお話させて頂きましょう。
 
 小説版の語り口。語り方。
 それはかなり情感の乏しい、かなり説明的なだけの文章になりがちで、
 悪く言えば対象年齢が下がったかのような、かなり軽薄な箇所が散見されるもの。
 けれど、それらの事は逆に物語りに不鮮明さをもたらしています。
 すべて「簡単」に説明しちゃおうという意図のもと語られていく事で、
 すべてがはっきりと読む者の前に現われてくる。
 そういう意味では鮮明なのだけれど、けれど。
 けれどその鮮明さは、それが「簡単」に表されたものだからこそ、
 それだけがすべてでは無い、ということを読む者に実は強く印象付けているのです。
 目の前にあまりにはっきりしたものがあると、その向う側になにかがあると気づいてしまうのです。
 だからその向う側にあるなにかは、その目の前に出された説明によって隠されている、
 その故に不鮮明であるのです。
 小説版の語り手、これ自体が私はもう既に登場人物の視点のひとつではないか、
 そう思っています。
 ですからその視点に祐巳の視点が混じっても違和感が無く読むことができるのです。
 おかしな言い方をすれば、作者自身登場人物達の事を理解できてはいない、
 或いは最初から理解する必要が無いのかもしれないのでしょう。
 そしてそうなることで、計り知れない程の読み手が想像できる余地が加えられているのです。
 一見なにもかも作者によって説明されているから、
 どこにも想像できる余地が残されていないように思えるのだけれど、
 けれどその作者の説明自体がすべてを説明できていないのだとしたら。
 蔦子さんがとても不可解で不思議な存在に感じられて、
 三薔薇様の姿が見えないゆえの恐怖が感じられたりしてしまいました。
 そして祐巳さんも。
 祐巳さんの一人称のような三人称が語られれば語られるほど、
 この小説版の語り手が祐巳さんと同じ立場であることがわかり、
 そしてそれが同じ立場なだけで同じ存在では無いことで、
 祐巳さんもまた誰かによって語られている存在であるということがわかります。
 そうすることで、祐巳さんもまた不鮮明な存在となり、
 そしてそれゆえ祐巳さんの語る言葉、そしてそれによって表される祥子様の姿というのが、
 それがとてつもなく私達からは遠いところにあるということを感じてしまいます。
 そして、その遠さが作者から与えられていく情報を蓄積していくことで、
 次第に近いものへと変化していけるような錯覚を覚えさせてくれます。
 そしてそれが錯覚であるゆえに、そうと知っているゆえに、
 読む者はいつでもそれぞれの登場人物像を更新することが可能になるのです。
 あー、祥子様ってこういう人なのかもしれない、
 あ、でもこの話を読むとそうとは一概に言えないなぁ、という風に。
 
 第一巻を読んでみて、私が一番気になったのはやはりアニメ版のときと同様、祥子様でした。
 祐巳さんに色々簡単に説明されてしまって、柏木の事など無かったかのように見える祥子様。
 でも当然祥子様にとっては、そもそも自分が話した以外の事も自分の中に秘めている事でしょうし、
 また祐巳さんに見せている態度だって、それがそう見えるのもまた祐巳さんの解釈にしか過ぎない。
 ある意味で、第一巻においては、祥子様という方がどういう方なのかまったく想像できません。
 予想はできても。
 あくまで作者の視点が登場人物と同格、或いは祐巳さんと同じ場所に立っている限り、
 そうなるのではないでしょうか。
 なぜならば、小説において祥子様を表すものは、祐巳さんの「簡単な言葉」しか無いのですから。
 そしてそういう言葉しか使えていない祐巳さんがどれだけ成長するのか、
 そしてそれによってどれだけの情感を文字に乗せて盛り込む事ができるのか、
 それを期待できる楽しみというのが、ひとつ大きな小説版の特徴ではないかと思います。
 
 そして。
 
 私はアニメ版よりもより祐巳さんに近い立場となって、
 リリアンの生活を生きることができるようになるのです。
 これ、重要(笑)
 
 
 それでは、これをもちまして、第一回マリみて原作感想系を終了とさせて頂きます。
 
 それでは、ごきげんよう。
 第二回でお会い致しましょう。
 
 

 

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