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■■桜涙 ~壱枚目~■■ |
昨晩、私はずっと泣いていた。 |
泣くしか、なかった。 |
泣く理由が確かにあったからこそ、私は泣いた。 |
その理由をひとつひとつ思い返して、声に出してみて、泣きじゃくった。 |
その様はもはや狂っているようにしか見えなかったけれども、狂っているのは元からだ。 |
でも、自分が狂っていることをわかっているフリをして、涙を我慢するのはもうやめだ。 |
私は、泣きたいから、狂おしく泣くんだ。 |
なんで、私は此処にいるんだろう。 |
なんで、こうしているんだろう。 |
そういうことに悩んでいるということは、ほんとはどうでも良いことなんだ。 |
今目の前に映るこの人の肩を抱いてあげられたら、それがすべての答えになる生き方。 |
私が探しているのは、でも、答えじゃない。 |
私が、そう自分も生きられるのかもしれない、と思えるかどうか、それこそが重要なんだ。 |
複雑に哲学的にどんなに式を寄り合わせて、ぬくもり無き解を導き出したとしても、 |
それは決して、私に必要なものなんかじゃないんだ。 |
なんで、薫は剣心のためになろう、剣心と一緒になろうって思ったんだろう? |
そう問う事は、別に構いやしないけれど、どうしようもなく空虚なこと。 |
薫は、剣心に出会い、剣心の事がわかってしまって、そして彼を受け入れていく事に決めた。 |
この出会いが、そしてこの決定事項こそが、彼女の哲学の式であり、そしてまた解。 |
最初に問いありきの哲学は、彼女には一切無意味。 |
問いは無用。解が既に我が内にあり、ならばもはや悩む事は前進そのものに他ならない。 |
原因を模索する苦悩ではなく、素晴らしき「正しい」結果を創造するための苦悩。 |
神谷薫は、剣心のために苦しみ、剣心のために悩む。 |
だから、なぜ剣心のために苦しまなければならないのか、という問いは愚問だ。 |
それが、薫の選んだ道だから。 |
選んだ道そのものに、疑問を抱かない生き方。 |
そして、疑問を抱くべきは、選んだ道を自分がちゃんと正しく歩けているかどうか、ということにだけ。 |
それで充分だし、そしてもしかしたらそれが「生きる」ってことなのかもしれない・・・。 |
私の中で、そのことがあり得ないくらいに、無性に響いた。 |
なにかひとつの自分の生き方を決める。 |
そういったことに、私は抵抗感を覚えていた。 |
そしてその抵抗感を正当化するために、生き方を決める、ということの是非を問いだした。 |
結果、正しいことも悪しきことも存在しない、 |
そしてなによりも、喜びも悲しみもない無情な世界観を造り出していた。 |
それはよく言えば、ちょっとした「さび」であり、また「枯淡の風格」という奴である。 |
だが。 |
本当にそれでよいのか、という想いはどんなに問いを重ねても消える事はなかった。 |
坂口安吾は堕落しろ、といった。 |
エッセイ「枯淡の風格を排す」の中で、彼は私のような考え方を痛烈に批判した。 |
最初、私はそこに彼との相違点を見出した。 |
次に、私はこれは一見違うようでいて、実は根底のところでは私と同じじゃないか、 |
導き出す思想は違うけれど、でもその思想を紡ぎ出す大本の理屈は同じだな、と思った。 |
でも結局のところ、このるろうに剣心星霜編を観て、それは勘違いにしか過ぎないことに気づいた。 |
安吾は、自らの思想を理屈によって築きあげてきた訳じゃない。 |
彼の根底にあるのは、ひとつのスタイル、つまり、生き方という名の道だ。 |
道を歩むための手段として、彼の思想ができたんだ。 |
私とは、だから、やっぱり違うのだ。 |
彼の素晴らしいほどまでに深い人間洞察、そのおかげで彼の生き方が決まった訳じゃないんだ。 |
既に生きているがゆえに、そういった人間に対する洞察が出来、そしてまた思想が出来てきた。 |
そうやって、原初においてなりふり構わず一つの道を進むこと、それが彼の言う堕落、という事。 |
・・・・私は、決定的に勘違いをしていたんだ。 |
私は、薫の生き方そのものを真似したいと思ってる訳じゃない。 |
泣くほどに共感した、ただそれだけの事。 |
家に帰らず、家族のために生きることをしなかった剣心に対して、なんの疑問も抱かない彼女に、 |
ただ唯々諾々と従う精神的に自立できない女、という評もあるいはあるだろう。 |
だが、私はまったくそうは思わない。 |
確かにそういう生き方をしている人も多いだろうし、そのことについて「善悪」を論じる向きもあろう。 |
けれど、それは果たして薫のことに的確に当て嵌まることなのだろうか? |
薫は、そもそも誰のために生きてるんだ? |
薫は剣心のために生きている。 |
彼に生きる道を与えられ、彼から幸せの種である剣路を授かり、そし剣心の帰りを待っている。 |
これはすべて彼女が、なにものにも代え難い自らの強烈な意志によって決定した事であり、 |
そしてこの事は、彼女において最重要でかつ最大の「生」をかたどっている「道」なのだ。 |
だから、彼女にとってこの道を選択したこと自体は不幸でも、ましてや愚かなことでもない。 |
そしてその道を歩むことは、酷く辛くそしてとても、悲しい。 |
薫は剣心と共にいて、そして剣心と同化するという道を選び、そこに幸福を見出した。 |
私は、それで悪いことなど、なにもないんだ、という事に気づいた。 |
端から見ている人間には、ただ、彼女の生き方に悲喜こもごもを向こうに見る憧れ、 |
或いは蔑みを抱く事しかできない。 |
でも、その悲喜こもごもを含む道を生きる、ということの凄さを私は強く実感した。 |
彼女自身が感じている悲しみ・喜びそれ自体を、実感することは叶わない。 |
だから、私は彼女のような生き方をしようとは思わないし、出来るとも思わない。 |
でも、彼女がではなぜそう生きられのか、そういうことへの理解は非常に、非常に深くできた。 |
というより、私は涙を流した。 |
純粋に、嬉しかったんだと思う。。 |
私がそういうことを、実感できた、ということが。 |
薫が幸福だったか不幸だったかなんて、どうでもいい。 |
物凄まじい悲劇でもあったろうし、同時に無上の快楽に包まれてもいたろう。 |
そしてだからこそあのラストは、やっぱり複雑だ。 |
あそこに来て、はじめて薫は自分の人生に問いを投げかけたろう。 |
私の人生は、幸せであったのか、と。 |
そんなことはわかりゃしない。でも、後悔はしてないんだと思う。 |
というか、するはずがない。 |
なぜならば、彼女は彼女の道を最後まで死ぬまで歩んでいたのだから。 |
彼女は、すべての現実におきる出来事を、完璧に自分の物としていたのだから。 |
なにが起きようとも、自分の選んだ道なのだから、 |
そしてそれこそが自分の生きる世界なのだから、彼女は「責任」を以て苦難を甘受し乗り越えていく。 |
それは世界を無条件に全肯定するという逃避を旨とする私とは、違う。 |
涙が出てくるほどに、違うんだよ、紅い瞳! |
責任、ってなんだと思う? |
それはさ、「自分」の行為に対して徹底的に自信を抱く、ってことだよ。 |
自分のやってることにそういった自信、或いは誇りが持てないんじゃ、それは無責任に他ならない。 |
なにに対する無責任か。 |
他ならぬ、「自分」に対してだよ。 |
当然、じゃあ自信があればなにやっても良いのか? となる。 |
答えは、そうだ。それで良いんだ。 |
自分が正しいと思ってる限りにおいてそれは絶対的に正しいし、 |
そしてその正当性に責任を持たなきゃだめだ。 |
無論、既に自分が間違ってるのに気づいているのに、ただ保身のために自己を正当化するなんて論外。 |
でも逆に言えば、その人が行った事の元にある正当性「そのもの」に対しては、 |
誰もそれを批判したり、或いは評したりすることはできないということ。 |
それは、剣心の維新志士時代に信じていた「狂の思想」も例外ではない。 |
それを批判し評する事ができるのは、その正義を知りその正当性を「実感」している当人にのみ。 |
故に剣心の贖罪には、この自らの正義の正当性を自らが打破する事が含まれている。 |
ただ、その正義によって為された行為自体への批判や評価は妥当だ。 |
そいつの正義のために、殺されちゃたまらないからだ。 |
だから、その正義を信じて人を殺せば、当然その反動は来る。 |
しかし。 |
ここでじゃあ、無条件に反動が来たから「責任」とって贖罪します、っていうのはおかしい。 |
少なくとも、その時点で自分の正義が正しいとまだ思ってると言うのであれば、 |
「責任」などとる必要はまったくない。 |
否。 |
その反動に真っ正面から向き合って、 |
報復に来た奴を斬り倒すことこそ、責任を取ったと言える。 |
それが出来ないなら最初からしないことだし、出来ないのに殺し続けたところに剣心の罪があり、 |
そしてまた、だから、自分の言葉に自信の持てない私自身もほんとに罪深いんだと思う。 |
そういう意味では、鵜堂刃衛や斉藤一には罪は無い。 |
彼ら自身、「殺すこと」自体に自信を失っていない。 |
そしてさらに、薫だ。 |
薫もまた、なんら臆することなく自信を持って自らの道を歩んでいる。 |
自らが、歩んでいる道の正当性、これはもはや自明のことであり、 |
そしてこれはすでに否定するという事自体あり得ない、確固としたもの。 |
でも、それだって実は初めからそうだった訳ではない。 |
すくなくとも、剣心に出会うまでは薫はそんな生き方、思いもよらなかったに違いない。 |
そして、その道を歩き出してからでさえ、彼女は自分がそう生きているだなんて実感は無かったはず。 |
自信なんて、ほんとは一朝一夕に持てるもんじゃない。 |
もっといえば、自信なんて物は、実態のない影みたいな物なのかもしれない。 |
私たちは、ただがむしゃらに転んだり泣いたり苦しみながら、それでも生きていこうとする。 |
薫も、そうだった。 |
なにが正しいこと、なにが剣心のためになるかだなんて、最初からわかるわけがない。 |
わかったと思ったら、また自分の知らない剣心がそこにいる。 |
薫は、そうやっていつのまにか、自分に見えない剣心の姿を探しながら、 |
そうしながら生きてきた。 |
自分のせいで、剣心の体に新たな傷をつけてしまったりもした。 |
その傷自体が、もしかしたら見えない剣心の一部分へと加わっていってしまってはいないかと、 |
恐る恐る、泣きながらでも薫は剣心についていった。 |
そして。 |
いつかは、その自分に見えない剣心の影を、陽の当たる場所に連れてきてあげたいと願うようになる。 |
剣心の心の奥底には、今も狂気の人斬りの影が住んでいる。 |
そして剣心は、その影に怯えそして立ち向かいながら生きていくことを、やめられはしない。 |
だったら薫は、そういう剣心を守ってあげたいと思った。 |
その剣で多くの人を殺め、そしてそれよりもさらに多くの人を守ってきた剣心。 |
その剣心を守ってあげてきた人はいない。 |
その人の苦しみと、そしてその人がここに居ていいんだよという証明。 |
そういうのを誰かが与えてあげなければいけない。 |
薫はその役を買って出てた。 |
いいや、そうしたかったんだろう。心から。 |
それが薫の望んだことなのだから。 |
やがて薫は、剣心を守りたい、剣心と共にありたい、という願いを徐々に変化させていく。 |
守るのではなく、守る必要もないくらいに抱きしめて、 |
共にあるというよりも、より密着した関係を結びたい。 |
つまり、剣心になりたい、ということ。 |
剣心とひとつになりたい、ということ。 |
薫は、ある限界を感じたのだと思う。 |
守るものとして、共にあるという隔絶した「対象」としての剣心との接し方では、 |
剣心のことなどなにひとつわからないと。 |
剣心の悩みを理解するだけじゃダメなんだ。 |
自分も、剣心と同じ苦しみを、そしてそれに基づく剣心の思想を味わなければ、 |
剣心のことは「実感」できない。 |
でも、ほんとに剣心と同じ事をするなんてできない。 |
どんなに「同じ存在」になりたいと言っても、それは不可能だ。 |
全く同一の時間、全く同一の空間に同時に存在し、同じ原子によって肉体を共有することは出来ない。 |
『人生を代わることは出来ない』のだ。 |
「私」と「あの人」という互いに唯一無二の存在がある限り、 |
それはどうしようもないことで、ゆえに人は絶対的に孤独だ。 |
でも、だからこそ、薫は剣心の病を受け入れた。 |
ひとつになれないなら、ひとつになりたいと願う。 |
これは矛盾している。 |
ひとつになどなれないとわかっているのに、そうなれることを信じてひとつになることを目指す。 |
ある意味で、非常に虚無に満ちた行為だ。 |
だが。 |
確かに、薫と剣心はひとつになることはできない。 |
でも、そのことが論理的哲学的に「わかった」としても、 |
それは果たして薫の「信念」を変えることができる要因になるだろうか? |
答えはノーだ。 |
私たちは、私たちの感じている世界を生きている。 |
もちろん、私たちはひとつになれないということを充分感じながら生きることからは逃れられない。 |
冷たい孤独を感じながら、でもそれを押しのけ振り払いながら生きているのが、私たち人間だ。 |
結局はダメなんだ、と頭で想像できちゃう事があっても、 |
でも私たちはそれでも懸命に生きていく。 |
そう。 |
薫は、剣心とひとつになれると信じ、そしてそうなりたいと願っている。それで充分なのだ。 |
そして、薫は剣心の病を分けて貰った。 |
そうすることで、擬似的(薫にとっては真実に)に剣心と同化を果たした薫は強く生きられる。 |
なにか絶対確実で「正確」な目的があるから、薫は強くなれた訳ではない。 |
そういう目的が得られるに違いない、そういう確信を得られたから強くなれたのだ。 |
確信するだけなら、誰にでも出来る。 |
『こんな私』である薫にも、出来るのだ。 |
そして、それこそが「薫が剣心の妻である」ということの定義なのだ。 |
薫は、「妻」という定義を持っている。 |
そして、薫は自分の「剣心の妻」という宿命を自分のものにしている。 |
剣心の妻であるからこそ、だから尚更強くもなれる。 |
それは、かつて剣心の妻だった巴と並ぶことが初めて叶った、ということでもあるけれど、 |
しかしもはや薫にとっては巴は胸中になかったのではないか。 |
たぶん、病を受け入れた時点で、薫の中には剣心だけ、 |
そして薫の中の剣心の中にも薫だけしかいなかったはずだ。 |
だからゆえに、薫は剣心を待ち続けた。 |
剣心の中には薫だけしかいない。 |
もう、薫の知らない剣心も居ない。 |
なぜならば、薫は剣心とひとつになったのだから。 |
だから絶対に、「帰ってこない」人の帰りを待つことは無くなり、 |
そして薫は、ただ帰りを信じて待つことができるようになったのだ。 |
薫の命を賭した願いは、叶ったのだ。 |
そうして、彼女は自分の命を削りながら、絶対帰ってくるあの人を待つ、という無上の幸せを手に入れた。 |
それは燕の言うとおり、とてもとても悲しくて、せつなくて、泣き叫びたいほどの姿に映るけれど、 |
だがしかし、彼女は常に笑顔だった。 |
それは空虚な笑いではない。 |
彼女の、彼女にしか出来ない心底本当の笑顔。 |
彼女は、剣心の笑顔を見たいと願いながら、自分が笑えるようになった。 |
そして、自分がずっとずっと笑顔でいることが、実は剣心が心から笑うという事と同じことだ、 |
そういう事に自然に気づいたのだ。 |
『あなたって、どんなときでも笑えるのね』と恵がいったように、 |
そしてそのあと薫がそれに答えたように、薫の笑顔が剣心の十字傷に最も効く、 |
つまり、その笑顔は剣心の影(「薫の知らない剣心」)の部分を減らし、 |
そしてそれはつまり、薫と剣心がひとつに「なっていく」という証を得ることが出来るということだ。 |
剣心と「同じ」存在である薫が笑えば、剣心も笑ったことになる。 |
だから、薫はたとえようもないほど美しく幸せそうに笑う。 |
あの笑顔を、いびつで、ちょっと狂ったような壊れた笑いだ、 |
そう思う向きもあろう。 |
だがしかし、私はそうも思うしそうは思わない。 |
理由などない。 |
ただ、私はあれは素晴らしく最高の「創られた」笑いだと思う。 |
薫のすべてをかけて創られた、至上最高の笑顔。 |
私は、泣いた。 |
叫びたかった。 |
たぶん、それは燕と同じ理由からだったろう。 |
原作で『この二人、薫さんと緋村さん・・・。幸せになれるといいな』と願った三条燕の甘く穏やかな想い、 |
そういう想いは私自身も強い強いイメージとして持っていたし、 |
原作のラストの持つひとつの最高級の完結の仕方に、疑念を抱く気も無い。 |
それにまた、実は大層あの原作のラストに私自身「萌え」(まさにその表現が適切だ)てもいた。 |
でも、私の涙はそれだけじゃなかった。 |
それだけじゃ済まされなかった。 |
薫がこのような悲劇的な道を歩む、これこそが薫にとってはどうしようもない幸福なのだ、 |
そういうことも同時にわかってしまったのだから。 |
幸せの形はひとつじゃない、という陳腐な表現に命が宿ってしまったのだから。 |
私はあの笑顔に、燕の悲しみと、そして薫の喜びを同時にみた。 |
もの悲しく峻烈な最高の幸せを観てしまった涙。 |
その涙は、止まらない。 |
薫の笑顔は、決して止むことなく病床の上で輝いていた。 |
彼女は「さび」を感じているわけでもなく、「枯淡の風格」に溺れているわけでもない。 |
薫の中には、なにもないのじゃなく、ひとつのことがあるだけだ。 |
しかしそのひとつはとてつもなく激しく燃えに燃えて、荒れ狂っている。 |
坂口安吾は、堕落しろといった。 |
そして今、薫は堕落している。 |
まさに、これこそ堕落ということだ。 |
彼女だけの世界。彼女だけが求める道を、彼女だけが懸命に歩いている光景。 |
彼女はなにも諦めてたりしない。 |
薫はなにものにも「正邪(善悪)」を押しつけることを、恐れてなんかいやしない。 |
彼女には、諦める必要がない。信じるものがある。 |
薫は既になにが正しいのかをわかっている。なにもわからないということも全部わかっている。 |
彼女は、薫は間違いなく生きている。 |
そして立派に堕落している。 |
堕落しろ、堕落しろ。 |
想うがままに、突き進め。 |
『あなたが選んだ道です。どうぞ、自信を持って歩んでください。』 |
薫は、剣心に、そして自分自身に宛ててこう言えたのだから。 |
突き進んだ先に見えたもの。 |
それは自らの命の残り火。 |
そして、未だ帰らざる愛しき薫の「心太」。 |
薫は、ここでまたひとつ変化する。 |
自分の居場所。 |
薫は自分の居場所というものを考える。 |
薫が居るべき場所は、それは死の淵にたたずむ病床の上だけじゃない。 |
薫がいるべき場所は、剣心の帰るべき場所。 |
それは、まだ何者にもなっていなかった頃の剣心の魂、 |
そして薫の「分身」でもある「心太」の「帰る」場所の事。 |
心太とは、薫が剣心から病とともに受け取った、剣心の本当の名。 |
それは剣心の魂で、苦しみで、 |
そして「薫の知らない剣心」、つまり罪を重ねた抜刀斎という名の影を持たない剣心の姿。 |
それは、剣心というまぎれもない一個の、そしてなにものにも代えられない人間の本質。 |
剣心が剣心たる由縁、そして剣心がただそこに存在するという孤独の証。 |
それが「心太」。 |
人の本質とは苦しみだ、と誰かが言っていたような気がする。 |
人には自分とまったく同じ存在というものが無いという意味において、 |
「他者」というものを認識し、そしてそうであるがゆえに絶対的に孤独を感じる。 |
そしてそのどうしようもない孤独の苦しみというものそのものが、 |
皮肉にもその人が唯一無二(同じ者が存在しない)の存在であるという証明になるのだ。 |
だから、「心太」というものは苦しみながらそこに存在している、まさに「あの人」そのもの。 |
そして。 |
薫はその「心太」の存在を剣心に明かされ、そして薫が剣心から託された。 |
それはだから薫の「心太」。薫と剣心だけの「心太」。 |
剣心の両親と姉代わりだった人達、そして巴はもう居ない。 |
だから、それは剣心と薫だけの大事な大事な「心太」。 |
そして。 |
薫は剣心とひとつ。剣心と心太はひとつ。 |
ゆえに、剣心と心太の帰る場所は薫のみ。 |
それはつまり、薫自身がその場所ということ。 |
薫がいる場所それ自体が、既に薫が居るべき場所。心太の帰るべき場所。 |
だから、薫はここでこうして待つ必要など、もうないのだということを悟る。 |
だから、あの人を自分から迎えにいくのだ。 |
自分の命がもう残り少ない、そういうことを薫が実感していたかどうかはわからない。 |
しかし薫は飛び出した。 |
或いは「あの人」を迎えに行く、という今まで決して出来なかったことに命を賭けたのかもしれない。 |
薫は、ずっとずっと待つことだけしできない女だった。 |
剣心の苦しみをただ悲しそうな目で見つめてあげるだけ。 |
剣心の戦いについていくことを、剣心自身に拒まれ続けた薫。 |
薫は、だから剣心を信じて待つことだけしかできなかった。 |
でも。 |
あの人が帰る場所は、もう自分の居る場所だけにしかない、 |
そういうことがわかった薫には、もうなにも「待つ」ことはない。 |
迎えにいくことが、出来るんだ。あの人と出会って、たぶん初めてのお出迎え。 |
それが互いの死への迎えとなろうとも、そんなことは薫にはなんの関係もない。 |
薫は、剣心を迎えにいく。 |
そしてお帰りなさいの言葉にすべてを込めて、あの人を抱きしめてあげる。 |
それは薫にしかできない、薫が人生をかけて創り上げ、そして愛しい人から薫が受け取ったもの。 |
『剣さんがあなたを選んだわけ、よくわかるわ』。 |
薫は、笑わなければならない。 |
笑うことで、剣心を守り剣心とひとつになり、そして心太を抱きしめてあげられる。 |
もう、剣心の中にいるのは薫だけだ。 |
だから薫は、あの人を迎えにいくんだ! |
さぁ、行こう! あの人を迎えに! |
「剣心」が心よりの笑顔を見せてくれるのは、剣心が心太になったときだけ。 |
剣心は抜刀斎という罪を背負わなくてはならない存在。 |
剣心である限り「あの人」は絶対にほんとうの笑顔を見せてくれない。見せられない。 |
そして、剣心が心太になるためには、罪の象徴「十字傷」が消えなくてはならない。 |
薫は、剣心が心太になることを、そして十字の傷が消えることをずっとずっと待ってきた。 |
そして。 |
その奇跡は当たり前のように起きた。 |
薫は剣心を迎えにいき、そして剣心は心太となってその迎えを心からの笑顔と共に受け入れた。 |
それは、最高の最高の最高の! 最高の喜びと悲しみの絶頂の予感なんだっ!!。 |
薫は剣心を、剣心は薫を。 |
ただそれだけを世界に灯し、桜散る一本道を突き進んだ。 |
それは今までずっとずっとずっと! 薫が歩むことを必死に願い続けた道。 |
あの薫の顔を見よ! |
剣心の姿を、幻影ではない、ほんとうのほんとうの!剣心の姿を一本道の先に認めた時の顔を! |
薫は走った。命の残りのことなんてほんとどうでもいいんだ! |
薫はただ走った。ただ走っただけなんだ。剣心と心太を求めて。 |
両手を広げ、桜に溶けんばかりの喜びに崩れた凄まじく美しい泣き顔で駆け寄る、薫。 |
ああ・・・もう・・・涙が止まらない。 |
もう・・・・声にならない叫びをあげる衝動を閉じこめきれないっっっ!!! |
『ただいま・・・薫・・』 |
『お帰りなさい・・・心太・・・』 |
私はもう、ただ泣くだけ。 |
言葉などいらない。説明などいらない。説明はもう充分した。わかった人だけ「わかって」泣け! |
感情に溺れることの、なんと素晴らしく辛く快感なことか! |
『桜・・・いつまで残ってるかしら・・。 |
剣路と弥彦と燕ちゃん。それに恵さん、妙さんも呼んでみんなでお花見したいね。 |
そして来年も・・再来年も・・・・。その頃には、弥彦もお父さんになってるかも。ふふっ・・。』 |
桜舞う地で、薫が愛しひとつになった男性とのひととき。 |
そして薫は巨大な幸せを獲得し、そしてすべての終わりが訪れたことを悟る。 |
剣心の頬の十字の傷が消えた。 |
ようやく、終わりが来たのだ。 |
剣心の十字傷と共にずっと歩んできた人生の終焉が。 |
そして、その終わりこそ、薫が最も望んでいたこと。 |
剣心の十字の傷は消え、剣心は罪無き心太になり、そして薫と剣心の人生は終わりを迎える。 |
薫が流した、最後の涙。 |
それはまさに、薫の願いの成就への喜びと悲しみ、そして今まで生きてきたことすべての涙だった。 |
その願いの成就の意味するところのすべてを言葉に変換することなど、今の私にはとてもできない。 |
桜。 |
涙。 |
消えた十字傷。 |
そして、ちっぽけで偉大なふたつでひとつの存在者。 |
それらのものがひとつの世界として目の前に広がっている。 |
そのことの意味を「実感」できればそれで良いのだと、それがすべてなのだと、私は心底そう想った。 |
そして薫もまた、自らの流した涙を「実感」していただけ。 |
あれこそが、薫の終わり。 |
そして、薫が生きてきた人生のすべて。 |
薫が生きようと決めて薫が生きた人生。 |
薫だけの薫によって生きられた人生を、剣心とひとつになった薫が手にするという、最高の美。 |
生きるとは、そういうことなんだと思う。 |
『今まで・・・ありがとう・・・・・・さようなら・・薫』 |
薫と私の涙は、この剣心と心太の言葉があるからこそ、だからこそ止まらない。 |
~『』内文章は作品よりの引用~ |
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