〜2003年3月の過去ログ〜

 

 

 

 3月30日   羊のうたが聴こえる
 
 
 
 
 
 
 言葉にする前に、涙が零れてしまう。
 激情が風情をなぎ倒し、怒濤の如く視界を席巻していく。
 其れは、詠み人知らずのうた。
 未来に残ることを、己の存在を示し叫ぶことをいたずらに拒否し、
 そして無明のうちに魂を無くし、
 そして、透き通った屍と共に、儚く消え去るを旨とする羊。
 慟哭の少女。
 少年は、結果、きっかけでしかなかった。
 何故歌う何故歌うなぜうたう。
 ふと掴んだ一抹の悲劇と狂気。
 幸せなど、あるものか。
 否、そんなものは世界の何処にも無く、
 言葉が作り出せし、素晴らしき幻想でしかない。
 みえるか、それが。
 見えはしない。
 歌。
 あるのは、恐らくそれだけだろう。
 賢しらに、言葉を紡ぐな。
 蒼く澄み切って、恒久に覆い被さってくる息苦しき空を見ろ。
 穏やかに血をほと走らせる桜を見ろ。
 冷たく優しくもっとも命を蝕む病院のベッドを見ろ。
 そして、忌まわしき英霊に囚われた、世界という名の家を見ろ。
 なんだ、これは。
 なんだ、これは。
 なんだ、これは。
 私の居場所なんか、無いじゃないか。
 叫ぶ叫ぶ叫ぶ阿鼻叫喚。
 だが、答えはどこにもなく、ただ去りゆくばかりの少女の声音が響くばかり。
 綺麗? 美しい? 素晴らしい?
 そのどれもが間違っているし、正解だ。
 でも、その言葉を選択した時点で、私の居場所は既に無い。
 あの姉弟も、あの笑わない女も、他人も、肉親も、血も!
 なにもかも、あまりにもあまりにもあまりにもっ!!
 近すぎるんだ、私に。
 否、違う。
 違う違うそんなんじゃない。
 なんだ、なんだか落ち着いてしまったじゃないか。
 いやに、視界が明瞭です。
 こんなんじゃ、ダメなのに・・・。
 
 (4分後)
 
 違う。
 言葉だ。
 言葉の魔術だ。
 全部そうだ。
 言葉と絵の織りなす、異相だ。
 黒くて青くて白くて紅くて透明で。
 否!
 なんで、僕たちは生きてるのだろう。
 誰もそんなこと、口にしはすれど考えちゃいない。
 年齢なんて関係ない。性別なんて関係ない。背景とする知識権力も関係ない。
 でも、この、問いに意味は無い。
 問いに答えることが問題じゃない。
 想えば、良い。
 心に咲く枯死寸前の花びらの如くに唱えれば良い。
 呪文。お経。そんな感じ。
 血を吸うことが問題じゃないんだ。
 父親との愛憎が問題じゃないんだ。
 否定否定否定否定。
 巫山戯るな。
 お前になにがわかる。
 わかりなどしない。
 いや、わかりすぎるからわからないのだ。
 私の受けた感動の大きさがっっっっ!!!
 「一生残る感動もある。」
 コミックスに挟まっていた、OVA化の宣伝チラシに書いてあった文言。
 今はそれで、充分なのかも知れない。
 違う。
 今なんて瞬間はない。
 読んでいるときと想っているときと書いているときは全然違う。
 今、なんて言うな。
 
 (1分後)
 
 人間じゃんか。
 みんな人間じゃんか。
 私は、嬉しい。
 嬉しい。
 嘘が、無い。
 否。
 嘘を付いていることを前提にした、大嘘つきの人間が居る。
 嘘の自白。
 自白。
 嘘が真実。嘘をついている人間が真実。嘘の人間が語る言葉が真実。
 嘘って、なに。
 言葉を吐く事で、己の言葉で物語を語る事で、
 私はますます、羊のうたから離れていく。
 でも、嘘だから。嘘なんだよ、みんな。
 羊のうたは、大嘘の物語。
 だから、例えようもない迫真性を持っている。
 だから、リアルなんて言葉を、言っちゃダメだ(自戒)
 言えば、嘘に、なる。
 
 (32分後)
 
 この作品を読んで、
 一粒の涙でも流せたことを、私は誇りに思う。
 その涙に、如何様な意義を見出せるかは、これからの私次第である。
 しかし、それはあくまで副産的なものでしかないことも、
 私はよく自覚している。
 そして、私は「羊のうた」をこよなく愛することが出来そうな気がした。
 
 
 
 
 ・・・・・・・・・
 
 
 
 はい。「羊のうた」全7巻を読み終わって、まだ間もないうちに書いた感想です。
 私の頭の中に浮かんできた言葉を、ほぼ修飾すること無しに書きました。
 ですので、当然文の前後の脈絡は御座いませんので、そのつもりでお読みください。
 つまり、もう一度読み返してみてください。
 きっと、紅い瞳がどんなに狂っているかがよくわかるでしょう。
 いや、でも、みんな結構こんなもんでしょ? ← 一緒にするな
 当然、これだけ読んでもなにがなにやらでしょうし、
 ですから、感想はまたすぐに何日か後に書きます。
 今予定しているのは、違った視点からの総合的な作品の感想をいくつか、
 それと各巻ごとの感想、というか考察、などをやろうということです。
 一応、総合的な感想はネタバレ無し、
 各巻感想はネタバレ有りでいこうと想っていますが、両方ともネタバレで突っ走るかも知れませんので、
 取り敢えず、みなさん「羊のうた」を読んでくださいネ ←宣伝
 立ち読みとかでも良いので。私も最初そうでしたし(笑)。
 
 あ。
 ひとつ言い忘れましたが。
 これからしばらくの間は、「羊のうた」ファンサイトっぽい感じになりますので、よろしく(ぇ)
 
 
 
 
 

 

 

 3月28日   魔法遣いに大切なことは?
 
 
 
 
 
 
 今日はたくさんお話ししたいことがあります。
 順をおって、ゆっくりと話していきますね。
 まず、びっくり、というか、とても嬉しい情報を手に入れましたので、ご報告します。
 アニメ「灰羽連盟」が、関西テレビで4月26日より放映開始決定、なのだそうです。
 いち灰羽ファンとして、なによりも嬉しいことで御座います。
 これで、本放送のときに地域間格差で涙を飲まれたでありましょう、
 多くのファンの方が喜びの涙で満たされることでしょう。
 関西の灰羽ファンは、必ず観ましょう。
 というか、見なさい ←命令形
 それで、当サイトでもそれにあやかって、という訳ではなく、実際は灰羽連盟のDVD4巻が
 発売されたことを記念して、「灰羽連盟」の鑑賞会を行います
 開催日時は明日29日午後11時より、場所は当サイトのチャットルームにて。
 お時間おありの方は、ぜひご出席してくださいませ。
 灰羽に、幸あれ。
 お知らせ話題をもうひとつ。
 ルシフェルさんより、エヴァSS「切れない絆 中編その3」を頂きました。
 これは既に頂いております、「切れない絆 前編その1〜中編その2」の続編にあたります。
 当サイトの頂き物という名の至宝を展示してある、工房之至宝にて、ぜひ皆様ご覧くださいませ。
 ルシフェルさん、毎度かような素晴らしきものを贈って頂き、誠にありがとう御座いました。
 次の話題に移りましょう。
 「羊のうた 5・6巻」(冬目景 著)をようやく購入致しました
 これを見つけるまでかなり苦労しましたが、
 心ある親切な漫画嫌いの友人が、売っている店を教えてくださいまして、
 なんとか購入できた次第です。
 なんで漫画嫌いの友人がその店を知っていたのかは多いに謎ですが、良しとしましょう。
 とにかく、これで全巻揃いましたので、いよいよ近日より公式に「羊のうた」に狂わせて頂きます
 ツッコミは、却下の方向でお願い致します。
 それにしても、限定版の7巻。千砂のフィギュアが付いて(当然割高)ましたが、あれはどうかと。
 私は無論買いません。
 さて。
 今日はサッカー日本代表×ウルグアイ戦がありました
 もちろん、サッカー狂いである私は、プロ野球の開幕戦なぞ見るわけがありません。
 が、遅刻しまして。というか、今日この試合があるっていうのをすっかり忘れてまして。
 ウルグアイ2点目の直後に、ようやくテレビのスイッチを入れることを思い出しましたのです。 
 ファンにあるまじき愚挙で御座いますが、それでもサッカーは面白いのですから良いのです。
 良いんです!(慈英風に)
 実際、今日の試合は素晴らしく、そして心躍るものがありました。
 日本代表が誇る中盤カルテット。
 それほど機能しているようにはみえませんでしたけれど、しかし、あの4人がフィールドに立っていると、
 とても壮観でした。
 もちろん、私の中田英寿様が一番輝いていたのは、言うまでもないことではありますけれど
 ツッコミは、却下の方向でお願い致します。
 まじめに言うと、日本の左サイドはかなり使えるようになりましたね。
 もうちょっと、右サイドに大きく振ったりと、サイドチェンジを交えればより効果的な攻撃ができたかと、
 私は愚考致します。
 初登場の黒部選手は、かなりの大器かもしれません。
 サッカーの話題は、ここまでです。
 最後に、アニメ「魔法遣いに大切なこと」最終回の感想をお話ししようと思います
 終わってしまいましたね。
 思えば、この作品と私の関係はちょっぴり不思議なモノがありました。
 放映開始当時、私はこの作品を誉めました。
 しかし話数を重ねるに連れ、だんだんと作品に対する私の評価は低下し、
 感想等でも、あまり気の入ったことを書かなくなってしまいました。
 けれど、私はこの作品に対して、結局の処最後まで「駄作」のレッテルを貼ることが出来ませんでした。
 それは、なぜか。
 正確に言い表すことは出来そうにありませんが、ひとつ言えることは、
 作品に対する評価は、あくまで個人的なモノであるということを、この作品を鑑賞して、
 強く感じさせられたからなのだ、ということだと思います。
 一個の物語が好きか嫌いか。
 それは、その作品を評価することとは違うのです。
 例え嫌いであろうと、その作品が元来持っている素質、
 そして私達視聴者の目を通すことで生まれてくる、様々な事共。
 これらがなんたるかを見極めることは、別に個人的にこの作品が好きでなくとも出来ることなのです。
 私は、はっきり言って、この「魔法遣いに大切なこと」という作品は好きではありません。
 どうして? と問われると答えに窮しますので、答えません。
 逆に言うと、好きか嫌いかは問題ではないのです。
 たまには、嫌いなものの感想も書いてみる。
 これは、やっぱりひとつの勉強なのではないかなぁ、と思います。
 感想だって、色々なことを経験して、そしてそれを自分のモノにできれば、
 もっともっと良い感想が書けるはずなのです。
 そういう意味で、この「魔法遣いに大切なこと」という作品は、大変に勉強になりました。
 最後にこの言葉を残して、感想を終わろうと思います。
 
 「魔法遣いに大切なことは?」
 ・・・・・
 過去と未来の、そして今の自分に誰よりも自信を持つことです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 3月26日   一定化されないジンクス
 
 
 
 
 
 
 ・・・・なんかいいよね〜これ・・・う〜ん、いい〜(トリップ中)
 
 ・・って、おわっ! もうカメラ回ってるの? うわわ、とんだ失礼をば致しました。
 いや〜、最近「羊のうた」の妄想中心の生活送ってるもので、
 すっかり現実と妄想の区別がつかなくなっちゃってるんですよ。いや〜参ったなあはは〜。
 ・・・・・・・・
 いえ、大丈夫ですから。まだ大丈夫ですから、そんな目で私を見ないでください。
 さて(話題変更)。
 本を買いました。
 「羊のうた 7巻」(冬目景 著)ですうわわまた羊が(重症)
 先日散々探し回って、結局1〜4巻までしか見つけられなかったこの作品ですが、
 今日新刊のコーナー見たら、2列ブチ抜きで7巻が山積みになっていまして。
 ああ、7巻って新刊だったのね〜、と感嘆しつつも買ってまいりましたのであります。
 てか、気づかないもんかね、普通。
 それにしても、未だに5・6巻は見つかりません。
 本屋さん、7巻そんなに気合い入れて売る気があるんなら、他の巻も便乗して出せば良いのに。
 商売下手ですね
 さらに、今日は本も借りて参りました。
 「岡山女」(岩井志麻子 著)。
 ずばり、岩井志麻子なんです。
 好きなんですよね〜この人の作品。
 なんていうんですか? 何回も使ったコトある表現ですけど、
 日本の土俗的村社会的恐怖、或いはムラからマチへ移行する人々の中で渦巻く、
 恐ろしく暗い情念、そういったものを、実に禍々しくかつそれでいて淡々と物語を登場人物によって
 独白させる、そういった作品を書く人なのです。
 有名な作品に、「ぼっけぇ、きょうてぇ」というのがあります。
 これは日本ホラー小説大賞とってますね。
 この作品も良かったですし、あと「夜啼きの森」っていう作品もありますね。
 こんな感じです →
 この人の作品は、日本人にしかわからない、日本人のためのホラーだと思います ←感想
 それで、この借りてきた「岡山女」もなんか今までのテイストを充分に含んだ作品っぽいです。
 っぽい、と思うだけで、まだ読んではいないんですけどねこれがまた ←いつものことです
 
 ◆◆◆
 
 「ブギーポップ・スタッカート ジンクスショップへようこそ」(上遠野浩平 著)、読了。
 
 このブギーポップシリーズは、大変に面白いです。
 どう面白いの? と言われますと、実は巧く説明できなかったりします。
 ストーリーが面白いのかというと、そうでもなく、
 深いテーマが奥深くにあるかというと、ライトノベルらしく結構淡泊だったり。
 一見すると、大した作品じゃないんです ←問題発言
 ただ、ね。
 もの凄く、「想像力」を掻き立てられるんです。このシリーズを読むと。
 ええもう凄いですよ。どんどんとですね、考えが沸き起こってくるんですよね。
 まったく作品とは関係なく、自分にとって長らく問題だった事に決定的な示唆を与えてくれたり、とか、
 或いは、まったく新しい価値体系の一端を、あっという間に自分の中に構築できてしまったり、とか。
 とにかく、作品そのもの自体が面白い、というか、
 その中に魔術的に埋め込まれている哲学的命題の因子、それが大変に面白いんですよ。
 ちなみに、私は、霧間凪、という因子に強く影響を受けましたんですけどね(告白)。
 で。
 そういう意味において、今回のこの作品は、実は私的には期待ハズレだったんです(ぉ)。
 色々と、今回は物語が動きます。
 今まで謎だった巨大なる組織の中心の正体が、おぼろげながら明かされ、
 またその煽りを喰って、様々な新キャラクターが続々と登場しては、無惨にあっという間に散っていく。
 基本的に、次作への繋ぎ、或いはもっと単純に総集編的な意味合い(総集されてないけど)が強い、
 そんな感じでした。
 ですので、私個人としては、特に見るべきモノがなかったかなぁ、と。
 ブギーポップというのは、簡単に言うと、今の人類の中で、ちょっぴり「進化(或いは退化)」してしまって、
 不思議な力を得た能力者(MPLSと作品内では呼称)と、それを狩りとって今の人類の存続を願う
 超巨大組織「統和機構」、そしてこのどちら如何を問わず、「世界自体」の敵となるべきものを、
 ひたすら倒していく死神「ブギーポップ」の三つ巴の戦い、が延々と繰り返されている、そういう作品です。
 今回の作品も、その例に漏れずまさに三つ巴の戦いがなされています。
 或いは、今回はその戦いのモデルケース、とでも言えるような、ほんとに戦い中心のお話しだったような
 気がします。
 そのため、各キャラクターの行動及び行動様式にややご都合主義的な面が垣間見られ、
 なんとなく、だら〜っとした感じがしてしまうのです。
 あんまり、ピンとくるセリフもありませんでしたし。
 まぁ、タイトルのジンクスって言う言葉が効いてるゆえの結果かもしれませんけどね。
 ご都合主義っていうのも、実は例のカレ(ネタバレにつき本名は明かせません 笑)が見ることができる
 という「運命」の流れによるものだからなんですよね。
 だから、作品の作り、としては巧い。
 でも、趣味としては好きじゃない。
 そういう感じでした。
 
 ごめんなさい。これ以上書けません(諸事情により おい)
 
 ◆◆◆
 
 BBSにて、この日記を読んでくださっている方はどれくらいいらっしゃいますのん?
 というアンケートを行っていますので、読んでくださっている方は是非一言お願いしますと書いたのですが、
 BBSがまた壊れました。
 なんでこう、ピンポイントでいい時狙って壊れるかな、キミ。
 こうなってしまうと、1.2日は回復しない(レンタル元のサーバも壊れてます)ようですので、
 皆様には大変ご迷惑をおかけすることになりますが、しばしお待ちくださいませ。
 レスも直り次第致しますので。
 ご用件の方は、メールか、もしくはチャットに一言残しておいてくださっても結構です。
 
 
 
 
 

 

 

 3月24日   アカイリズム
 
 
 
 
 
 
 ハンニバル〜 ←挨拶
 挨拶としてこれはどうかと思う、今日この頃。
 紅い瞳は健在です。
 さて。
 最近また少し日記を書くという行為が、手につかなくなる有様を露呈しつつありますが、
 そこはそれ、季節の変わり目であるため紅い瞳の体内リズムになにかしらの変調があったと思ってクダサイ。
 というか、そう仮定してクダサイ。
 なんで「ください」と打つとカタカナになるのかわかりませんが、「ハンニバル」はちょっぴり期待はずれでした。
 もっともっと狂ってくださらなくては ← to ハンニバル=レクター博士
 気づけばそこにお岩さん。
 と言うわけで借りてきました、「嗤う伊右衛門」(京極夏彦 著)。
 「ブギーポップ・スタッカート ジンクス・ショップへようこそ」(上遠野浩平 著)を読み終わってから
 読みますけどねあははー ←まだ読んでない奴
 もしかしたら、本を手元に置いても一向に読み終われない無間地獄にはまっているのかもしれませんね。
 本が・・本がっーーー(なんだよ)
 もうひとつついでに気づけばそこに「FBI心理分析官2」(ロバート=K=レスラー 著)。
 要は、ハンニバルです。それ以上でも、それ以下でもなく。借りてきても読まない可能性が高く
 くっはー。
 
 (間)
 
 念願の「羊のうた」(冬目景 著)を購入。
 でもね、全7巻なんですけど、1〜4巻までしか見つけられなかったの。
 結構探したんですよ? タンスの引出しから縁の下までこまめに探したんですけどね、売ってないの。
 こんなの、犯罪です(マテ)。
 でもまぁ、とりあえずあるぶんだけでも、ゆるゆると堪能しながら読みますから、いいんですけどね。
 7巻まで買い揃えたら、感想を書きます。
 今なにか言えることといったら、
 いいネ!
 これだけですので、あしからず。
 あれー、目の前に羊がいっぴき〜にひき〜。
 
 ◆◆◆
 
 戯さんより頂いた絵を、工房之至宝に展示させて頂きました。
 
 ◆◆◆
 
 始まりは、疑問。
 でも、疑問が出発ではない。
 出発点は、常に自分の中にある。
 正義とかなんだとか、色々あるが、
 しかしそれは果たして、アナタに一致することなのか?
 自分の中にあるものを、戒めるものはなにか?
 それは、本当に戒めがんじがらめに自分の奥底に封印すべきものなのか?
 アナタは、もしかしたら決定的に闘うべき相手を見間違えているのかもしれない。
 倒すべきは、本当は正義という名の見えない枷なのかもしれない。
 闘うべき相手は、もはや悪じゃないんじゃないかな。
 
 闘うとか、争うとか、本質的に嫌いなんだ。
 理屈なんかどうでもいいし、仮に理屈があったとしても、
 それは結局のところ、あとから付け加えたものでしかないんだ。
 私の気持ちを正統化出来ない理屈など、最初からいらない。
 同じように、私の気持ちを誇らしげに説明する理屈など、既に必要ない。
 要は、好き、か、嫌い、か。
 自分と対峙している者を見てみなよ。
 なんで、あの人はあんな目をして、私を観ると思う?
 あの人に、敵意なんかない。
 あの人に、害意なんてない。
 あの人に、殺意なんてない。
 あの人に、悪意なんてない。
 私は、あの人と仲良くなりたいの。
 世界中のすべての人類があの人を誹謗しようと、
 全宇宙の生命体が、あの人を神の冒涜者であると叫ぼうと、
 私の尊敬する偉大なる先駆者が、あの人に罪人のレッテルを貼ろうと、
 それは、私のあの人に対する闘志に火を付けるに足る、十二分の理屈にはなるだろうけれど、
 だけど、あの人の前に立った時点で、私はあの人と同化しあの人を理解する。
 怨敵を目の前にして、私の心にひとつの想いが灯される。
 闘うべき相手は、見つめ合った時点で、もはや倒すべき忌むべき悪ではなくなっているのではないかと。
 
 
 う〜ん・・・微妙。
 
 
 
 

 

 

 3月21日   クール=ウォー
 
 
 
 
 
 
 えっと。
 当然の如く「魔法遣いに大切なこと」が録画されていなかったので、軽くヘコみました。
 戦争の影響が、こんなところにも。
 でもね、今日は別に戦争の話とか、そういうのはしません。
 語ってみたいことではありますけど、でも言わないんです。
 めんどーそういう方が、良いような気がしましたので。
 黙して語らず、無言のまま見つめるのも大事かと。 ←基本的に言い訳です
 
 ◆◆◆
 
 「鉄鼠の檻」(京極夏彦 著)、読了。
 私の好きな小説家の作品です。
 ジャンルは「一応」ミステリーです。推理小説って感じで。
 でも、私はまっっったくミステリとして読んだことはなく、トリックとかそういうところは、
 基本的に気を入れて読んでません。というか読み飛ばします(笑)
 だから、犯人が誰かとか、まったく興味なくて。
 この京極夏彦という人の書く作品は、私が思うにミステリの体裁をとった、普通の小説です。
 普通の小説、といってしまうとアレですけれど、それしか適当な表現が思いつきません。
 そして、いずれの作品においても、その主題となっているのは「妖怪」。
 妖怪、といっても別にファンタジーな世界が描かれるわけではありません。
 否、そもそも、ファンタジーという幻想を見事に取り込んだ現実が、実に巧妙に描かれている、
 そう言った方が懸命かも知れません。
 ですから、妖怪は出てくるけれど出てこないし、作品世界に確かに妖怪は存在するけれど、存在しない。
 こういう表現はあんまり好きじゃないんですけれど、人の心に巣くう悪しき心の表出として、妖怪は
 確固として描かれているのです(そんな単純じゃないですけど。 だから嫌なんだこういう表現)。
 で、このあたりの描写というか、もうくどいくらいのうんちくの大量列挙によって語られるその妖怪の正体、
 それを主人公である中禅寺敦彦、通称京極堂に延々と語らせて作品を完成させてしまう。
 またもう一人の主人公である関口(ドラえもんでいうところの、のび太役。京極堂がドラえもん役)の、
 これまたくどいくらいに細かく、また念入りに語られるその鬱気味の心情の吐露。
 その他にも登場する相当面白いキャラクタ達が織りなす会話。
 殺人現場、という舞台で演じられるドラマ自体よりも、なんの気はなしに語られる、
 各キャラの哲学(?)を象徴するセリフ(というか言葉)が、とても考えさせられます。
 京極作品は、分量的に相当多いですし、また含有されている情報量も滅茶苦茶多いです。
 ですから、ただ読むだけでも相当気力と体力が必要ですし、また専門的な情報(うんちく)を、
 理解しようとするのにも忙殺されます。
 しかし、一番頭を使わなければならないのは、やっぱり各キャラの考え方に、でしょう。
 特に主人公京極堂の世界の捉え方には、何度もはっとさせられましたし(他に榎木津というぶっ飛び
 キャラがいますが、このキャラのセリフも素晴らしいです)、またもっとも頭を使いました。
 でまぁ、結局この人の作品を読み終わった後には、必ず「疲れた〜」の一言が出ちゃうんですけどね(笑)
 あ、で。
 肝心の鉄鼠の檻についてですが。この作品読むのはもはや3回目だったりします(笑)。
 これはまぁ、箱根にある、とある禅寺を舞台にした殺人事件のお話しです。
 でまぁ、禅寺ということで、禅のお話しが中心にあります。というかまさに禅一色(笑)。
 それほど突っ込んだ内容じゃないので、書いてあること自体を理解するのは簡単ですから安心を(笑)
 でも、その禅、という現象の裏、というか共に流れているもう一つの現象。
 つまり「鉄鼠」という妖怪という名の現象の方を理解するには、結構頭を使います。
 そしてタイトル通りに、それに「檻」というキーワードがつくことによって、さらに「面白い」ことになります。
 なに言ってるのかもはやわからなくなってきましたが、無視して続けます(いつものことです)。
 それでなにが言いたかったのかな。
 ああそうです。ええそうです。自分で言ってる言葉に翻弄されて訳わかんなくなってきました。
 あああ、私はなにをー。
 
 みなさん、京極夏彦はオススメですよ〜 ←逃避
 
 追記:京極作品を読むのならば、まずは「姑獲鳥の夏」から読むことをお薦め致します。
     これが記念すべきシリーズ(シリーズ名はなんていうんだろ?)第一作ですので。
     おまけとして、作品リスト挙げてみました。
 
    ・「姑獲鳥の夏 (うぶめのなつ)」
    ・魍魎の匣 (もうりょうのはこ)」
    ・「狂骨の夢 (きょうこつのゆめ)」
    ・「鉄鼠の檻 (てっそのおり)」
    ・「絡新婦の理 (じょろうぐものことわり)」
    ・「塗仏の宴 宴の支度 (ぬりぼとけのうたげ うたげのしたく)」
    ・塗仏の宴 宴の始末 (ぬりぼとけのうたげ うたげのしまつ)」
 
    以上でひとつのシリーズになっております(以下続刊)。
    このほかにもこのシリーズの外伝などやまったく別の話を描いた作品なども手掛けておりますので、
    見つけたら読んでみたらよいでしょう。
    と、無責任なこと言ってみたり(笑)
    ちなみに私はどの作品も好きですが、第二作の魍魎の匣」と第五作の「絡新婦の理」
    気に入っているはずです。たぶん(曖昧)。
 
 ◆◆◆
 
 戯さんから、サイトのキリ番踏んだ記念として、絵なぞ頂いてしまいました。
 「灰羽連盟」のレキさんですっ、どうぞ! →
  こちらでしばらく展示しておいてから、改めて後に工房之至宝に安置させて頂きます。
 戯さん、クールな絵をありがとう御座いました♪(感謝)
 
 ◆◆◆
 
 さぁ〜て。
 次はブギーポップ読むぞ〜。お〜 ←虚ろな目で
 
 
 
 
 
 

 

 

 3月18日   花と犬の魂と
 
 
 
 
 
 
 私は、何者なのだろうか?
 孤独な宙に投げ出された自分を、かたくなにも意固地に受け入れてくれた者に忠義を尽くす者だろうか。
 それとも、ただあるがままに、生きる欲求だけを其の内にはびこらせているだけの者だろうか。
 そんなことを微睡みながら、夢の中で考えていた。
 どうにもならない風の中で、それでも此処が安息の地と信じて、ずっとあの人に侍ってきた。
 あの人の敵は、私と私の世界の敵。
 あの人の言葉が、私の子守歌。
 そして、私の行進曲。
 終わり近き灰色の街を眺めながら、私はずっとあの人と共に歩んできた。
 だが。
 まったくの突然と偶然のうちに、私の目の前に彼女は居た。
 私の中に狼が居る、と彼女は言った。
 実にこともなげに、彼女は言った。
 誰にも従うことのない、穢れ無き孤高の魂が私の内にあるのだと、彼女はそう言った。
 孤独の淵より生まれし犬は、孤独の高みへと向う狼となれ。
 それが、その言葉が、私を狂わせた。
 気づいたときには走り出し、そして目前にははや、死が迫っていた。
 私は、なにも考えてはいけなかったんだろうか。
 私は、一体何者であっただろうか。
 
 私の名は、ブルーと云う・・・・・・。
 
 
 「WOLF'S RAIN」第9話の感想であるようで、内容とはあまり関係がありません。
 この作品に出てくるセリフって、相当練り込まれているなぁ、と思う今日この頃。
 カッコイイとは、こういうことさ ←作品が違います
 
 ◆◆◆
 
 ええと、御免なさい、出戻りです。また帰って来ちゃいました。
 ほんと、ごめんなさい。
 
 ◆◆◆
 
 「陰陽師 龍笛ノ巻」(夢枕獏 著)、読了。
 このシリーズは、日本語の美しい流れが素晴らしく、大好き。幽玄って感じ。
 物語構成は実に淡泊で、でもそれでいて、「飽きる」という概念を一切成立させ得ない、
 広大な懐を有している作品だと思う。
 ほんとに、京極夏彦の作品もそうだけど、鬼とか百鬼夜行とか、そういうものの持つ意味っていうのが、
 実によくわかる、傑作品です。紅い瞳的にオススメの逸品であります。
 
 ◆◆◆
 
 BBSが長期に渡って行方知れずとなっておりますが、探さないでください。
 いずれお腹が空いたら帰ってくると思いますので。・・・・・たぶん。
 
 ◆◆◆
 
 紅い瞳がサイト上で最もみなさんに観て貰いたくて、かつ最も感想が欲しいのは、
 入り口に掲げてあるセリフだったりします。
 あれに、紅い瞳の75%ほどが含まれていると言っても過言ではありません。
 ・・・・・日記はなんのために・・・・・(汗) ←知らんよ
 
 
 
 
 
 

 

 

 3月16日   やる気のないサイト
 
 
 
 
 
 
 あれについて説明せねばなりますまい。
 みたまんまですが、やる気ありません。
 言語道断で、というか問答無用でやる気ありません。
 「やる気の定義は?」とか、そんなことをやる気もありません。
 ぶっちゃけ、来た! って思ったんですよ。これだ、みたいな。
 なんですか、あれ。
 初めて観たときは、ほんとに驚きましたよ。
 いくつかのサイトに貼ってあったので、なんだろうって入ってみたら、あれですよ。
 なんですか、あのWebリングの説明は。
 たった3行な上に、説明する気まったく無しですよ。
 その上、説明せずにお休みなさいですか。
 ていうか、管理者は誰ですか?
 
 実に素晴らしい。
 いずれ私もWebリングに当サイトを登録して、あわよくば訪問者数増を狙おうかと
 思っていた矢先の、この運命的な出会いですよ。
 Webリングの機能をまったく有してはいませんが、それはそれで。
 もうね、私の言いたいことをかなりの割合で表現してくれちゃっている、と思っていいです。
 ほんと、あんな感じですよ。まさに。
 バナーの文字のあのほんとに気の抜けたような字体と、やるせなさ気な猫のシルエット。
 そしてトップ絵の枕抱えて惰眠を貪る、目覚めたら絶対に「どうでもいいっしょ・・」とか言いそうな女の子。
 そしてそして、極めつけはあのリング説明のやる気のなさが200%伝わってくる名文・・・・・。
 
 ああっ、これは私のためにあるWebリングなんですね! と、
 思わず天に向って叫んでしまいたくなるほどのシンクロぶりです。
 でまぁ、衝動的に貼っちゃったワケです。
 ほとんどなにも考えてませんでした。
 でも、私はもの凄く気に入っています。
 ええ、ええ、この出会いを神様に感謝しております。
 神様ありがとう。
 
 
 
 当「魔術師の工房」は、「やる気の無いサイトリング」に登録されております。たぶん。
    
     
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 3月14日    風のながれる魔法
 
 
 
 
 
 
 「魔法遣いに大切なこと」第10話を観ました。
 
 久しぶりに、私の好きな肌触りでした。
 物語に、さらーっとした風の流れのようなものがあり、
 そして、そこにさりげなく「魔法」というエッセンスが加えられている、ちょっぴり変わったお味。
 なかなかに、美味でした。
 基本的に今回のお話は、魔法じゃ解決できないこともある、ということを簡潔に描いたお話でした。
 魔法で対症療法は出来ても、物事の根本的治療はできない。
 誰かがなにかに苦しみ助けを求めて来て、それに応ずることは出来ても、
 助けを求める事さえ出来ない、本当に救いが必要な人には、どうしてあげることも出来ない。
 そういうことを、象徴的に語っていた、そう言う風に言い換えることも出来ますでしょう。
 だったら魔法って、なんですか?
 しかし最後にユメはそう問います。
 人のためを想って、そしてせいいっぱい心を込めて魔法を遣っても、それが意味がなかったなんて。
 ユメは魔法を遣って純粋に人助けがしたい、そんな純粋で優しい女の子。
 でも純粋であるが故に、どうしたら人のためになることをしてあげられるのか、そこがまだよくわかっていない。
 優しさのカタチはひとつじゃないし、その選択を間違えば、大変なことにもなる。
 確かに人のためになりたい、という想いは素晴らしいけれど、
 でも、それは簡単に達成できる想いではないのです。逆に、非常に難しいのです。
 時には、その想いが相手に対して甚大な苦痛を与えてしまうこともある。
 ユメの先生である小山田は、そのあたりのことをユメに教えようとある意味必死なのです。
 それを受けて、ユメをして「それって寂しい」と言わしめたのです。
 そう。寂しいんです。
 でも、私はその寂しいって想う感性があるのって、なんだかステキだなぁ、って思います。
 もちろん、ユメの言ったようにたんに親切なコトしたいのにそれがうまくできない事のもどかしさの表現、
 としての「寂しさ」ではなくて、それもあるけれど、上記のように優しさがときには害にもなる、
 ということを感じながら、でもそれでもめげずに魔法を遣い続けている自分を観ての「寂しい」(長)、
 という感性。
 ユメの考え方には、基本的に足りないところがあると思うんですよね。
 人間全てが、笑顔で挨拶交わして、笑顔で自分の苦しみを説明できて、
 そして笑顔で助けてくれてありがとう、と言えるわけではない。そうではない人はごくふつうに居る。
 そういう認識が、「今」のユメには欠けているのです。
 そしてそういう世界観で今まで生きてきたユメだからこそ、そういう人達と自分の関係を観て、
 「寂しい」と評したんですよね。
 それもまた、やっぱりいい感性だよねー、なんて思っちゃいます。
 とか言いつつ、誰かを助けるときってのは、それが自分勝手な願望だと充分わかりきった上で、
 有無を言わせず行動に出る、ってパターンが多いでしょうけどね。
 というか、そういうのも好き。
 
 
 今の私にゃ、なんでもオッケー! どんと来いや! (マテ)
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 3月12日    月の囁き
 
 
 
 
 
 
 うつむき加減の宵闇に 黒く熟れた雨だれの音が木霊する
 
 
 憂う事無き暗黒に いつから私は月を観た?
 月さえ見れば涼しいと云うことに なぜ私は気づいてしまったの?
 そんなもの さざめく夜のどよめきに 勝てるはずがないものを
 
 ふとしたキチガイから 孤独な雑踏のうちに其の身を委ねた
 素肌を照らす太陽は既に無く
 燃え上がる奈落(アピス)の誘惑に 決して抗することも無く
 私は虚ろに飛び出した
 人外の叫びの木霊する 熱き微風に悶えながら
 
 鬱々と走り続ける空間
 続く喧騒の中 静寂が舞い降りていた
 軋む世界 
 そして 影無き永遠の沈黙
 空々しく 景色が消えていく
 
 薄汚さと矮小さが織りなす瓦礫道を往くうちに 私はとある影と邂逅す
 世界に対するが如き 真っ白な服を纏いながら
 その淫らな影は 冷酷な大地に伏していた
 夢も希望も絶望からも億光年離れた異人共は
 顔も観ずにすれ違う
 
 内なる叫びと引き換えに 影は影の道を往く
 生存能力を研ぎ澄まし 残存世界を後にして
 すべてのうちに 虚なる存在を確信して
 流れゆく時間と血潮に夢を乗せ 私は私の月を観照す
 月に照らされた塔の上に 一人たたずむ影が問う
 舞い降りる生涯とその帰結と帰還のうちに 私が住処(すむ)べき居所を
 私の観るべき夢の後先を
 そして いつまでも満天のうちに星は現れない
 今日もまた 私は此処に居続ける
 私は私の声を聴く
 
 それはそう 月の囁き・・・
 
 
 ◆◆◆
 
 
 やっぱり、「私」というものを表現するには、こういった手法が最も適切なのだと、
 改めて思います。
 今回のこの文章は上手い下手は別として、
 私のうちにある想いを、できるだけ形を壊さずにうまく著わせています。
 無論、それは当然他者に対して理解して貰うための加工を、一切加えてはいないものであって、
 読む立場の人にしてみれば、甚だ意味不明な文章であると思います。
 しかし、私はそれでいいのではないか、と最近は考えているのです。
 私がしたいのは、私を観て貰うこと。
 素のままの自分を。
 もちろん、せいいっぱいのお洒落をキメ込んだ私を観て貰いたいときもあるし、
 また実際そういう文章もよく書いてきました(そこ。どこが? とか言わない)。
 でも、それは「私のお洒落の仕方」を観て貰っただけで、私自身を見せていることにはならない。
 裸の私も観て頂きたいのです(誤解必定)
 技術的に厳密な詩として確立された手法を以て、私の心の内に蠢いているものを著そうとするならば、
 それは結局その「詩」という形式に合うように製造された、いわば模造品のようなものでしかない。
 あるいは、正しい日本語と語彙の羅列(文法)、
 及び筋道立てられた論理によって綴られた、誰もが読めるテキストで書き著そうとすれば、
 それもまた「誰かに読んで貰うため」に、余計なエッセンスが入った別物になってしまう。
 私は別に、そういう風にして読んで貰いたいわけではないし、
 またそういう画一的で一般的な評価のされかたは、あんまり面白くないと感じます。
 なにかの作品があって、これはどういうことなのかなー? と、観た人それぞれが自由に想像を
 巡らせて、理解して頂ければ、それこそが本望なんです。
 当然、私が意図した作品の意義なんてお構いなしで、
 どんどん妄想を巡らせて、適当にケチでも入れてくだされば、
 それで自分がなにかを創れたんだな、って思えます。というか、嬉しいです。
 だから、私は私を著すのに、私独自の手法を以てなにかを表現していきたいと思っているのです。
 
 
 
 とかいいつつ、
 
 ほんとは、たんに綺麗な文が書けないだけなんですが。
 
 
 誰か文章の書き方教えてYO! ←結局それかい
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 3月11日    お疲れモードにつき
 
 
 
 
 
 
 圧倒的な鼻詰まりでなかなか寝付けず、少し寝入ったかと思えばクシャミで覚醒。
 結局昨夜は2時間しか眠れなかった上に、なんだか日中はやる事なす事すべてうまくいかなくて、
 すっかりお疲れモードにつき、本日の日記は箇条書きでいかせて頂きます。
 
 
 ・・・・・・・
 
 
 ・「WOLF'S RAIN」第8話を観たというのは、お約束でして。
 
 ・なぜだか抜群に音楽が良かったと思えたのは、幻聴気のせいでしょうか? 
 
 ・ちなみに私が好きなのは、黒目が紅いキャラでして、白目まで紅いのは論外デス。 ←こだわり
 
 ・というか、全13話でも終われるような気がします。これ以上話をひっぱれないような。
 
 ・個人的に、トオボエが好きだったりします。
 
 ・実は今回は割と期待ハズレ。あのハナビトのおばあさんの苦しみとか悲しみとか、
  あるいはもう少し哲学っぽい示唆に富んだ会話が欲しかったんですが、素通りで終わっちゃいました。
  というか、おばあさん枯れただけのような(汗)。
 
 ・感想はここまで。
 
 ・3月15日より新アドレスに引っ越します、というのは入り口ページをご覧になられた方には、
  周知の事実では御座いますけれども、念のため。
 
 ・なにを書こうか、と考えているうちに、ネタというものはどんどん消えていくもので。
 
 ・花粉を倒したいです。
 
 ・最近、本人がまったく意識していない部分を褒められます。妙に褒められます。なにかあるんですか?
 
 
 以上です。今日はこれにておやすみなさ〜い。
 
 
 
 
 
 

 

 

 3月9日    魔法と消える少女と
 
 
 
 
 
 
 「魔法遣いに大切なこと」第6話をようやく観ました。
 あんまりストーリーがしっかりしていなかったので、すっきりとしないものが。
 あの少女は座敷わらしだと推定されますが(反論不可)、ユメのあの寝癖に目をつけるとはなかなか。
 それにしても、古崎参事官が一番マトモな人間に見えるのは私だけでしょうか?
 相変わらずユメは公務員たる自覚ゼロのようだけど、その点はいいのカナ参事官?
 久しぶりに清涼感溢れるカットの連続だったのはOK。猫も出たし。
 でもなー、なんだか最近物足りないですねー。
 なんかこう、もうちょっとさぁ・・・・ぶつぶつ。
 
 ・・・・・・・
 
 一日ひとネタというノリが好きなのですけど、最近なぜかネタが大量繁殖を遂げてしまい、
 もう大変です。マメに出していかないと、アブナイです。
 日記に入りきらなかった分は、BBSなどに散らかしておきます。
 というか、BBSが閑古鳥気味なので、ばっくあっぷをお願い致す。
 
 ◆◆◆◆
 
 明日はブギーポップの新作発売日だあね。もう買うしか。
 などと言っているから、どんどん読む本が堪っていくわけで。
 なぜか、最近読書欲と本を手元に置いておきたいという欲求が分離しちゃってます。
 色々借りてきたり買ってきたりしても全然読む気が・・・へ、ヘルプミー!(自業自得)
 
 ◆◆◆◆
 
 キーボードのKが衰弱してきました。
 
 
 
 
 
 

 

 

 3月7日    命のあるべき場所
 
 
 
 
 
 
 「ベルセルク 19.20.21巻」(三浦建太郎)読了。
 
 相変わらず凄まじい。
 言葉も世界も、なにもかもが完全にその「ベルセルク」という法則によって動いている。
 これをしてファンタジーと言わなければ、なんというのだろうか。
 紅い瞳的殿堂入りコミックのひとつであるこの作品は、実際私の中ではかなり大きな存在である。
 あまりに完成された世界観に彩られながら、確実にその存在感を保ちながら躍動するストーリー。
 決して怯むことなく、克明に描ききったその残酷かつ真実極まる描写の数々。
 そしてなによりも、その作品世界を生き抜きながら紡がれていく、キャラ達の言葉の渦。
 それはもう、哲学である。生きた哲学である。
 あらゆる世界に生じる出来事に対面し遭遇し、あらゆる立場であらゆる思考法を以て生き抜いていく。
 あらゆる概念が登場し、あらゆる人々がその概念に飲み込まれ、そして生きていく。
 私はこの作品に、人間の魂を見た。
 
 ・・・・・・・・・
 
 このベルセルク、という作品を語るのは、私にとっては大変に難しい作業です。
 なぜなら、あまりにこの作品は多くのものを含んでいるために、なにかしらひとつの言葉によって、
 その作品のもつ精神性を言い表すということは、実質不可能だからです。
 ですから、この作品を全て語り尽くすには膨大な労力と時間がかかります。
 私の今の状態では、到底そんなハードなことはできませんしする気もありません。
 てか、ダルいし(死)
 だから、今回はそのいくつかあるであろう、
 作品に内包されるテーマのひとつについて、私なりに書いていこうと思っています。
 ちなみに、この「ベルセルク」という作品は、漫画好きならば(漫画好きならずとも)一度は読んで
 頂きたいほどの名作です。
 が。
 かなーり描写がキツいです。特に残酷なのはダメ、という人にはオススメできません、と
 あらかじめ言っておきます。念のため。
 
 ・・・・・・・・・
 
 たぶん、命、のお話なんだと思います。
 命ってなんなんだろうなぁーって。
 命って、考えてみると実体はないんですよね。命っていう存在がある訳じゃなくて、概念がある、みたいな。
 実際、私達がこうやって生きているときに、命があるから生きてるんだなんて意識したりはしません。
 むしろ、生きているから生きているんだと(なんか強引)。
 だから、「命は大切にしよう!」とかいうフレーズを聴くと、なんだか違和感を覚えてしまう。
 大事なのは、命なのかな、と。
 もちろん、生きているってことは大事なことだけれども、でも、それって命が大切って事とは別個の事
 なんじゃないかな、って思うんです。
 大事なのは、生きてるってことです。
 で、そこで問題なんですが。
 「生きてる」って言葉がありますが、それって必ず主語がありますよね?
 私が生きてる。あの人が生きてる。とかいう風に。
 つまり、生きているって言葉は誰かの事を必ず指しているんですよねこの場合。
 だからあるいは、その特定の誰かが生きているって事が重要なのではないか、と思うんです。
 例えば、ですが。
 自分の恋人がどこかで事故に巻き込まれたりしたら、大慌てで駆けつけますが、
 赤の他人が事故ったというニュースを見ても駆けつけたりはしない、って事だと思うんです。
 鯨を食べるのは野蛮だけど、豚や牛、或いは植物を食べるのは野蛮じゃないって事も同じ事。
 結局、「命」そのものが大事なんじゃなくて、「誰」の命かって事が重要なのだと。
 そういう事なんでしょう。
 大事、という言葉があります。
 なにかを尊重し大切にする、ってことですが、別になにか一つのことだけを大切にする、
 という意味ではありません。
 あくまで、優先度で最上位に位置するもの(或いは相対的に上位のもの)を指す言葉です。
 見ず知らずの人でも、事故で怪我して可哀想だなと思いはすれど、
 自分の今日の予定をキャンセルしてまでお見舞いに行くほどそれは大事じゃない。
 命は大切だけど、人が生きていくためにはなにかの命を奪わなければ生きていけない、
 だから豚や牛の命よりは、「自分」の命の方が大事。
 そういう事なのだと思います。
 で。
 ベルセルク、っていうのはそういう事をある意味で突き詰めて言っている作品ではないか、
 と思います。
 主人公ガッツは様々なものを追い求めて旅をしています。
 そして、その行く手を阻むものは全力を以て倒します。というか、殺します。
 殺される相手にどんな事情があろうとも、どんなドラマを経てガッツとの対戦の場に臨んだのか、とか、
 そんなことはガッツにはなんの関係もない。
 否。戦いには関係がない。
 作中、ガッツに殺される側のキャラにも、それ相応の物語が用意されています。
 いわゆる「敵役」に配される使徒、という名の怪物達の物語の、なんと悲しい事でしょうか。
 しかし、ガッツは容赦なく殺します。次々と殺していきます。
 使徒ばかりでなく、ガッツの邪魔をするものはすべて同じ運命。
 なぜこう簡単に殺戮できるのか。ガッツのみだけでなく、この作品世界においては、 
 ほんとに人の命は虫けら以下に扱われています。もうガンガン死んでいきます。
 今回読んだ19〜21巻では、熱心な神父が登場して、大量の魔女狩りを行います。
 邪教徒と名の付く者には、無慈悲な鉄槌を、ということでここでも大量殺戮が行われます。
 皆、命、というものが大切だとはまったく思ってはいないし、「殺す」ということになんのためらいもない。
 それはガッツ然り、神にすべてを捧げる敬虔(狂信に非ず)なモズグス神父もまた然り。
 自分の目に映る人以外の命、また自らの崇める神に祈らない邪教徒の命は、まさに虫けら以下。
 そこには、安易な平等主義とか平和主義とか、ましてや人権尊重など、
 そういうのはまったく姿を見せることはなく(というよりはあまりに無力)、実に冷徹です。
 けれど、その冷徹な命の扱い方ですけれど、しかしそこで逆に考えさせられるわけです。
 なんで、命って大事なんだろう、と。
 それを読み解くに、19〜21巻ではちょうどよいキャラが出てくる訳なんです。
 難民窟に住まう娼婦のニーナとルカ。
 とにかく過酷な状況に目をつぶって、ひたすら耐えるか逃げ出すかの二者択一の行動様式を
 持つニーナと、いついかなるときにも他人を守る心を持てるゆとりを失わないルカ。
 この二人の対比もさることながら、二人をそれぞれガッツの生き様と対比してみると、
 とてもとてもよくわかります。命、あるいは生きているということの意味が。
 一番印象的だった、ルカがニーナに宛てたセリフがあります。

 ルカ 「いっそのこと臆病者なら臆病者の意地ってのを見せてごらんよ!
    〜中略〜立派におっかながって見してみな! 
     案外あんたみたいのが、一番しぶとく生き残るのかもよ。」
 
 この言葉って。
 最高の自己存在の証明の言葉ですよね。
 臆病者だろうと、仲間を売って自分だけ逃げ延びようとしたとしても、
 それならそれでいいから、とにかくそれを徹底してやってみな。
 その言葉の中には、一切の常識とか義務とか、はたまた他者への思いやりとか、
 そういうものがない奴は人間じゃないという画一的な道徳観念への呪詛も同時に込められている、
 と思うんです。
 そういう言葉をはかせるために、彼女らの役どころを難民窟の娼婦、というどん底に設定したのでしょう。
 ルカっていうのは、そういう意味で異色な聖母的存在でもあるんですよね(このあたりをモズグス神父と
 比べてみると、色々と面白いです。モズグスのまともさなどに 笑)。
 どんなに酷い奴だって、それはそこに居るというだけで大切なことなんだ、ということを認めてあげる存在、
 という感じが、このルカってキャラなんでしょうけどね(ある意味で灰羽連盟のレキに似ています)
 ニーナはそういうルカの姿を浮き彫りにするかのように、どんどん自分を「生きる」っていう方向に持って
 いけるようになるんです。
 こういう考え方って結構好きなんですよね私。
 なにげに、当サイトの入り口ページに掲げてある、ちっこいセリフにリンクしてますし(偶然ですけど 笑)。
 話が逸れました。
 この両者(ガッツ・モズグスとニーナ・ルカ)の行動(あるいは哲学)において、命の扱い方は違うように
 見えて、根本的には同じなんですよね。
 誰の命が大切か。そしてどうやってその命を守るか。
 命を奪う側と奪われる側の哲学。
 結局の所、ベルセルクっていうのはそのあたりのことを見事に描いた作品なのではないかな、
 と思いました。
 
 かなり長くなってしまいましたが、本日はこれにて終了です。
 ベルセルクについては、またいずれ語る日も来るでしょう・・・・・・たぶん ←お約束
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 3月5日    ごった煮というか、渦巻
 
 
 
 
 
 
 えっと。
 なんだか色々あります。
 現在私の周りは、情報過多です。
 とにかく、いっぱいです。
 いちいち整理して受け入れるのも面倒なので、ひとつにまとめてコンパクト仕様っていうのが良いかと。
 というか、自動的にそうなりました。
 要するに、久しぶりに本を借りてきました、と単にそれだけのことでして。
 ただそれが、こう、なにかにハマりつつあるときに借りてきたものだから、訳がわからなくなっているのであって。
 とりあえず、なにが一番言いたいのかというと、
 なんでブックオフには、「羊のうた」(冬目景 著)が置いてないのかと。
 そう言う訳なのであります。
 なにがなんだか。
 
 ・・・・・・・・
 
 「鉄鼠の檻」(京極夏彦 著)
 「ルー=ガルー 忌避すべき狼」(京極夏彦 著)
 「陰陽師  龍笛ノ巻」(夢枕獏 著)
 「ベルセルク 19・20・21巻」(三浦健太郎 著)
 を借りてきました。
 ベルセルクで頭はじけて啓蒙されて京極夏彦にどっぷりハマって泥沼化したところを陰陽師で浄化、と。
 うわぁ・・・・楽しみだなぁ・・・(トリップ中)
 
 帰ってこれるだろうか、私(現実に)。
 
 
 

 

 

 3月4日    花の洞穴
 
 
 
 
 
 
 今居る此処が、楽園。
 貴方と二人、此処にいるだけで、私は幸せ。
 春風が何処に流れていこうとも、私の心は変わらない。
 例え、この身が滅びようとも・・・・。
 薄れゆく愛しき君を負いながら、いと高き者はかつての花園を目指して飛行する。
 いかなるものも、その狭隘なる世界に生きる者の行く手を、阻むことは叶わない。
 それは、楽園の担い手たる、花の娘とて同じ事・・・・・。
 
 地に広がる凄艶なる樹海を歩む狼たち。
 その内に奥深く息づく本能に其の身を委ね、四匹の獣は各個の思考の矛先を研ぎ澄ます。
 目指すは、楽園。
 目指すは、出会い。
 目指すは、少女。
 
 黄昏の庭にこぼれる水面の上に、その少女はあっさりと其の身を待機させていた。
 楽園の中での少女との出会い。
 すべての目的があっさりと複合成就し、祝福された過去へのバージンロードを往く狼たち。
 だが、その先に待っていたものは空洞だった。
 すべては樹木の中へ。すべては虚無の中へ。
 そして崩壊の序曲を奏でる中、花の娘は少年達を洞穴へと導いていった。
 出口があるのかないのか、狼たちにはわからない、永遠の花の洞穴へと・・・・・・。
 
 ・・・・・・・・
 
 「WOLF'S RAIN」第7話を観た。
 素晴らしい、と言うしか適当な形容詞を口から発することは出来ないような、
 まさにそんなような感じだった。
 主要4キャラが楽園を目指していく途中、花の娘チェザの存在を本能で嗅ぎつけ、
 そしてそれぞれが、そのときにまったく違う反応を示していた点の描き方には感嘆した。
 本能とはなにか。
 本能は本能なのだ。目的地に到達したい。夢にまでみた存在に出逢いたい。女の子を見たい。
 あの森の中で4匹の人の形をした狼(なんでキャラが狼なのか、このあたりよくわかる)は、
 そんなことを考えていた。
 そもそも、彼らは楽園を目指していたのじゃなかったのか。
 決して楽園というものに、固定化されたイメージがある訳じゃない。
 人(狼)によって、楽園のその姿は大いに違うはずだ。
 だが、彼らは行動を共にした。
 目的を共にしたわけではないけれど、なにかを目指すということにおいて、彼らは一致した。
 なぜなら、彼らは狼だから。
 なぜか、私の中ではそう言う風にうまく落ち着いてしまった。
 この物語は、ひどく抽象的なのだ。
 
 P.S
    割とハマってきたこの作品の宣伝の意味合いも含めて(含有率90%超)、
    公式サイトを紹介しておきます。
    ストーリー等はこちらで御確認を。 →
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 3月3日    新しきは古きへと
 
 
 
 
 
 
 最近、
 花*花マギー審司冬目景が始まりそうな予感がする。
 まったく脈絡のないこれら三つのモノだけど、実際それぞれに関連は無かったりする。
 でも、紅い瞳の脳内でミックスされると、やっぱり別々だったりする。
 はよ本題に入れって。
 
  ◆
 
 花*花は、ご存じアニメ「魔法遣いに大切なこと」のオープニングテーマを歌っている人達だが、
 なぜだか彼女らの曲が、私の心を捕らえて放さないのである。
 というか、実際泣いたね、曲を聴いて。
 うそぉん☆ って感じだけど、なんか感動した。
 私の中では、花*花なる名前は今までまったく固有性を持っていなかったのに、である。
 ほんというと、私の中ではkiroroとかそこいらへんとまったく混同されていた。
 別のグループだったのねって感じで今更(酷い話だ)。
 だが、今回私が借りてきたミニアルバム「コモリウタ」のスペックと来たら、どうよ。
 「魔法遣い」のopは勿論、他の収録曲の個性豊かなこと。
 謳い文句である、癒し。
 なんだかよくわからないけれど、まさにその通りだった。
 言葉は不要(逃)。
 
 次に、マギー審司である。
 これは説明自体不要実に笑える。
 久しぶりにコント(?)観て笑えた。
 なんだってああうまくハズすかね。
 マジックのネタをばらして(しかもその時の表情が憎ったらしいったらない 笑)、とにかくハズす。
 まっすぐに正攻法でぶつかってこない、というそのハズしっぷりには、もの凄い技巧性を感じた。
 これからも、どんどん画面に出てきて欲しい逸材であるなぁ、と思わずぽろりと思ってしまった次第である。
 てか、まだ画面内で彼の姿を4回しか観てない私なのだけど(笑)。
 
 最後に、冬目景である。
 漫画家である。
 というよりは、それ以上のプロフィールを私は知らないし興味もない(ちなみに名前の読みも知らない)。
 冬目景である。
 私はこの人のいくつかの漫画の存在を知っている。
 「イエスタデイをうたって」「黒鉄」「羊のうた」。
 イエスタデイは恋愛物で、黒鉄は知らなくて、羊のうたは奇妙である。
 つまり、タイトルと作品の概要は知っているが(黒鉄は?)、詳しいことは全く知らない。
 要するに、全然読んだことがないのだ。
 それにも関わらず、私は今異常にこの人の作品を読んでみたいと思っている。
 特に「羊のうた」を。
 なぜだかはわからない。
 否。
 私にはわかっているが、しかしそれを他者に向って表現する気がないだけだ。
 この、なんともしがたい「気持ち」が私のうちにあるだけで、今は満足している。
 というわけなので、早速図書館に書籍購入リクエストのカードを提出して、
 そして「漫画だからダメ」と却下されても、何度でも喰い下がってこようと思う(買えって)。
 
 P.S
   羊のうたがOVA化されるようです。 →
   なんだか、ワクワクするねぇ(漫画読んでないけど)
 
 
 
 
 
 

 

 

 3月2日    灰羽の往く街
 
 
 
 
 
 
 さらさらと、適度な透明度を保ったまま、あの雲は私達の空を流れていった。
 小さな小さな石ころ達が、からからと回る車輪をあの街へと軽快に運んでくれる。
 中空に浮かぶ、あまりに穏やかな太陽の微笑みを背に、私の羽は灰色に輝いていく。
 レキが、クゥが、ネムが、カナが、ヒカリが其処に居る。
 そしてオールドホームのたたずまいが、私を最高の気分にさせる。
 空には星、丘には風、そして世界には優しさが満ちあふれている。
 こんなのってないよ。
 なんで、なんで。
 こんなに私、幸せでいいのかな?
 
  ・・・・・・・・・
 
 消えてしまった。
 もうなにもかも。
 あの子のすべてが、私の前から消えてしまった。
 取り残されたあの子の残影を追うたびに、私は必ずあの瞬間に立ち戻る。
 森の空に光が放たれ、黒きカラスが舞い落ちたあの日。
 私達には、ほんとになにもなかったんだよ。
 なにもないって思っていたんだよ。
 みんなが笑い、みんなで楽しみ、そしてそれが永久(とこしえ)に続き、
 終わりなんて無いって、すっかりと思い込んでいたんだ。
 でも。
 でも、あの子は消えた。
 みんなが幸せに踊り狂う中で、独り消えていったんだ。
 あの子はみんなが永遠を信じている中で、独り考えていたんだよ。
 私達には、壁の外があるんだって。
 押し包まれて、守られた楽園の外に広がる世界にも、幸せの欠片はあるんだって。
 それがいったいあの子に、どれだけの快感を与えたのか、
 そして、あの子がほんとに幸せな気分で消えられたのか、
 もう・・・もう、私達にはそれを知ることすら出来ないんだよ。
 だから私達には、私達の想いをあの子に伝えることはできない。
 あの子にしてあげられるコトはなにもなくて、
 私達は私達の悲しみに囚われた葬送を、孤独に執り行うしかない。
 古(いにしえ)より伝わる、掟という名の儀式を行う事しか、出来ないんだ。
 だって。
 だって、あの子は消えちゃったんだから。
 だって、あの子に永遠が終わったことを告げることさえ、出来ないんだから。
 
 クゥ、どうして消えちゃったの・・・・・・・・
 
 
 
 昨夜灰羽連盟の鑑賞会が当サイトで行われました。
 今回は第5話から第7話を鑑賞致しました訳ですが、
 久しぶりにこの灰羽連盟という作品をみて、感動もあらたに一新された感が大変に強いです。
 なんて素晴らしい描写力なんだろうか。なんて存在感のある演出力なのだろうか。
 初めて灰羽連盟を観たときは、あまり全体の整合性を感じられずに、割と穴の多い作品である、
 と思った事もありましたがしかし、しかし今は逆にもの凄くしっくり来ています。
 それは一度作品を最後まで観たから、というのが大きな割合を占めているのは当然でしょう。
 一度観て、内容をよく咀嚼して、それで改めてもう一度この灰羽連盟という作品を鑑賞してみると、
 実に、実に様々なことに気づけます。
 一回目でわからなかったところもわかるようになり、或いはあらたな発見があったり。
 私は、今回の鑑賞会で割と主観的に鑑賞して(つまり感情移入)みたことで、
 割と「ラッカ」という灰羽の内面的な事への理解が、かなり進みました。
 その理解したコトの基本的な部分が、上記した詩的な文章なのです。
 幸せの享受から一転幸せの崩壊へ。
 他者から与えられた無条件の幸福、そして他者が去ることによって残される圧倒的な喪失感。
 このあたりの入れ替わりによって生じるラッカの心境。
 そういうことを、今日は書いてみました。
 
 
 P.S
    昨夜の鑑賞会に来てくださった方々に、厚く御礼申し上げます。
 
 
 
 
 
 

 

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