〜2003年5月の過去ログ〜

 

 

 

 ■030530  TEXHNOLYZE : 07
 
 
 
 
 
 
 お久しぶりです。
 
 テクノライズ第7話観ました。
 面白かったですね〜。
 どこがといわれるとわからないですけれど、えーとみんな良かったです。
 ぶっちゃけ、蘭が一番良かったかな?
 なんで主人公と一緒にいるのかわからないですけれど、
 あの二人が一緒にいるのは、なんだかとても自然な感じがしましたね。
 吉井は完全に工作員(スパイ)さんになっちゃいました。
 シンジはちょっぴり格が下がっちゃったかなぁ。もっと偉そうにしてなきゃ。
 ドク(あの女科学者)は相変わらず壊れてていいですねー。
 最初の頃分離してたかのように見えたストーリーも、ひとつにまとまってきたようで、
 見やすさはアップしました。良かった良かった。
 
 ・・・。
 ああ、もう! なんにも書けないヨ!
 
 なんか、テクノライズ観ると、頭の中がしびれるんですけど?
 どうしましょ?(知るかよ)
 
 
 
 
 
 

 

 

 ■030524  坂口安吾と冬目景とわたくしと
 
 
 
 
 
 
 ほぅ、いいのぅ。このペースは。
 
 こんばんわ、黄昏の彼方にいっちゃってる紅い瞳です。
 いっやー、なんかですねー、面白くなってきましたよー。
 今ですね、小説にハマっているのですが、これがもう凄い凄い。
 私の全知全能を傾けてたらコケちゃった、くらいに面白いのなんの。
 久しぶりに骨の有りすぎる作品、というか作家さんに会っちゃいましたねー。
 その作家の名は、坂口安吾。
 文学史などの登場人物でもあります。
 昭和初・中期に活躍する無頼派の作家。代表作は「白痴」「堕落論」
 まぁ、有名と言えば超有名人の御方でありんす。読書家なら知ってて当然の人ですね。
 当然、私は知りませんでしたが。
 いや、私、本は読めど現代以前の人の本はあまり読んだことがないんですよねー。
 夏目のぼっちゃんとかでさえ、さも当然のように私の脳の記憶野に住んでませんし。
 知るかよ〜、って感じでした。不勉強、万歳
 んで、まぁ、ひねくれものと自称しつつも案外ふつーかと思いきや素でひねくれている私は、
 代表作と一般的に言われている「白痴」「堕落論」が安吾との初遭遇ではなく、
 「桜の森の満開の下」というのが初体験で御座いました。
 しかしこれはですね、キまして。
 うわーなんじゃこりゃー、とか言って驚いたり感涙ものだったり笑ったりしちゃったわけです。
 なぜ笑ったのかは大いに疑問。
 で。
 実際驚きまして。なんて的確に私の幻想モノスキーの心の臓を貫き遊ばされるのでありましょうか、
 などと、まずはファーストインパクトを受けまして。こういうのを萌え、というのでしょうな。
 咲き乱れる桜を不気味という感性からはじまり、山という目に映る世界の支配者だった男が、
 美女の虜となり京に上って唯々諾々と凶行を重ねていく様。
 全編説話形式の、完全に創造され尽くされた淫靡で美しく幻想的で怪奇な物語。
 くっはー! もうたまりません。
 が。
 そんな程度の物語なら、確かに好きではあるけれど、凄い、という域には到達し得ません。
 それこそ、そういう趣味なモノはゴロゴロありますからネ。
 桜の木に恐れを抱き、その下を吹きながれる冷風に身震いする男。
 彼の世界における人間の絶対的孤独の象徴としてのひとつの「桜」の在り方。
 生首を使ったおままごと遊び、という陰惨なる光景を自分の世界すべてと感じ、
 他の人間はそのおままごと遊びをし続けるための材料と道具でしかない、女の意識。
 そこには、通常見慣れた世界から完全にはみ出し、かつ絶対に相容れないはずの人間が、
 ごくあたりまえのようにそこに存在し、なおかつそれが人間だよと言ってはばからない描写が延々と続く。
 そしてそのような女の存在を素直に受け入れていた男が、とある瞬間に女に鬼を感じる瞬間。
 これらいくつかの物語の中のエピソードが、正確無比に計算されてひとつの完璧な物語を作ってしまう。
 これはもう、瞠目するに値する出来です。
 他にもいくつかの安吾作品を読みましたが、次に良かったのが「夜長姫と耳男」という物語。
 次というか、同じくらい良かったんですが、これまた凄い。
 通常世界のモラルだかなんだかがあるかと思われる世界から、
 一気にアンモラルで猟奇な世界へ転落していく様は、もはや絶品。
 しかしその中でも、やはり光るのは人間肯定、というかなんというか、
 悪的感性、つまり通常世界のモラルな世界では決して受け入れられないような人間の行為が、
 実にその存在感を強く顕示しているあたりでしょう。
 別に手放しで「残虐冷酷万歳!」と声高らかに叫んでいるわけでなく、
 ただ淡々と、しかし逆にその淡泊さがそういった感性が人間内部に存在することを「当り前」の事として
 提示している、それがこの物語の本質なんじゃないかなって思いました。
 
 って、えーと。
 こんな訳わからなくてごちゃごちゃしたこと言ってる割には中身が無い文章はひとまず置いといて、
 先にいきます。
 単刀直入に、「イエスタデイをうたって」を読みました。
 例のアレです。冬目景の漫画デス。1巻だけ立ち読みってきました。
 ・・・これは、なかなか。
 いいんじゃないでしょうか。「羊のうた」のときのような「衝撃感」はありませんけれど、
 読んでいて、非常に楽しい。
 ・・・・。
 ていうか、いいじゃんコレ! ←書いてるうちにテンションUP
 なんすか、アレ。おもいっきりじゃないですか(なにが)。
 なんつーか、癒されますな。こう、お茶なんかずずーっといったときみたく。
 要はフリーター共の人生謳歌物語、というお話しでしょうけど(ぇ)、
 ジツにいいね。なんかその、羊のうたに通じるモノがあると思うんすわ。
 社会のはみ出しモンと自他共に認める主人公くんとその周囲の人達の、
 世界との距離の取り方あたりが、似ているのです。
 これは「私が読んだ」坂口安吾作品が内包するテーマのひとつとも繋がることだと思うんですけれど、
 世間一般じゃ、認められないような価値観・自己の在り方の肯定、そゆのがあると思うんですわ。
 「イエスタデイをうたって」では、もうそれが顕著で、キャラクターたちはそれこそ我が世の春とばかりに、
 実に、ジツに「楽しげ」に動き回ってるんですよね。
 つかね、まぁ、私の日頃のしゃべりを知ってる人はわかってますでしょうけど、
 こういう感覚って、私の想ってることと同じなんですよネ。
 むしろ、私が言いたいことの中核っていうか。
 中途半端とか、大人になれないこととか、自己確立できてないとか、怠け者だとか、礼儀知らずだとか、
 血を吸うとか(ぇ)、カラス連れててヘンな服着てるとか(ぉ)、生首オタクだとか(マテ)、
 もうそんなことで非難されても、その非難は私とは関係ない、そう言い切れる思考っていうか。
 それはそれで人間の一部だし、やっぱり人間肯定だと想うんです。
 よく「あんな事して、あいつは人間じゃない」とか、「あんな事は人間のできることじゃない」、とか、
 もういい加減そう言うのは止しましょう、それもみんな人間なんですヨ、ということなんじゃないかな?
 
 というか、最近私の思考と嗜好がそういう方向に向っちゃって、
 なんでもかでも、そういう視点で読んじゃうからそう想うのでしょうけれど、
 しかし、読書っていうのはなにも評論家のように厳密に読むことだけを指す訳じゃないですので、
 まぁ、ありかな〜とか思ってます。
 
 というかね、
 また、自分でなに書いてるかわからなくなってきたんですけどね
 どうにもいけない。
 なんか、これ書く前は壮大でカッチョイイ文章の構成を思い描いていたのに、これじゃサッパリですわ。
 別の意味でなんじゃーこりゃー、ですよ。
 
 
 
 はぁ。お酒でもガブ飲みして前後不覚で二日酔いしたい気分(死)
 
 
 
 
 
 

 

 

 ■030523  TEXHNOLYZE : 06
 
 
 
 
 
 
 〜(奴が)屑かどうか、君は知ってるのか? もし奴が屑だとしたら、屑にしたのは君だ〜
 
 
 
 テクノライズ第6話、観ました。
 相も変わらず、よくわからないお話しでした。
 ストーリー自体はわかるものの、作品全体の感想としてはどうにもとらえどころが無くて、
 日記に書くのは少々難儀だったりします。
 観ていて、思うところがなにもない、というか、
 それはたんに今の私の精神状態がそうとしか受け取れないだけなのか、
 それは私にはわからないけれども、少なくとも私にはなにもわかりませんでした。
 せいぜい、冒頭に挙げた大西のセリフが良いな、くらいのものです。
 ただただ、眺めていただけ、というような、なんとも漠然とし過ぎる印象。
 しかしそれは逆に、考えなければわからないということが一切無かった、
 つまりお話しに流れるテイストが、私自身の「味」とまったく一緒なのだ、ということなのかもしれません。
 あまりに自分にとって当り前すぎることなので、それを説明しようとすると、
 なんとなく嘘っぽくなってしまう気がしているのじゃないか。
 要するに、なんにもわからないということに変わりはないんですけれども。
 けれど、それは登場人物の心理とか行動様式とかに主眼を置くからそうなってしまうだけで、
 各場面における象徴的表現(というかこの作品は象徴のカタマリ)の解釈とか、
 そういう方向で考えを進めていけば、ある程度のことは書けるはずなのです。
 それが書けない、ってことはつまり私が怠け者だというだけなんですよね(笑)。
 ですから、ちょこっとだけ話を進めてみようと思います。
 
 今回のお話しで一番謎、というか着目すべきは、
 主人公が自分の手足を切り落とした石井をボコボコに殴っていたときに、
 なんで蘭が現われて、「いい子、いい子」と言ったのか、という点です。
 あのシーンは、主人公がテクノライズされた身体の力を解放することに無意識ながら成功し、
 石井の振り下ろした刀を義手で受け止めた上に、それを石井の部下の足に投げて突き刺し、
 その後今までしなかった義足からの踏み出しによる義手のストレートを石井に放つ。
 が、なにを思ったかそれは寸止めし、考え直したかのように素手の方で石井を殴り倒し、
 そのままマウントポジションからの素手のみの殴打を滅茶苦茶に放つ。
 そしてそれを観た蘭が「いい子、いい子」、といったものでした。
 文脈からすれば、主人公がせっかく使いこなせた義手で殴らずに素手で殴りなおした事を指して
 蘭はそのセリフを言った訳になるのでしょうが、それはなぜなのでしょう。
 たんに、義手に頼らない、
 つまりテクノライズという超技術に魂(この場合復讐行為)を売り渡さなかった、
 ひいては、櫟士というこの世界に於ける異質の人間の誕生(或いは復活)を祝したとも言えますか。
 いや。
 あれは果たして賞賛の言葉だったのでしょうか?
 皮肉とも言えますし。
 いや。
 そもそもあの場面において、蘭に「人格」はあったのでしょうか?
 蘭は物語世界における道化、あるいは「街の声」の象徴なのかもしれません。
 或いは・・・。
 今日はどうにも自信のない文体で書いてますが、そんな気分ですのでご容赦を。
 というか、書いているうちに執筆意欲が無くなっちゃった♪
 
 
 
 ・・・。
 全部、「レオン」が悪い!(マテ)
 
 ↑ テレビで観て完全感情移入してボロボロ泣いて、テクノを頭から締め出しちゃった私がぜ〜んぶ悪い
 
 
 
 P・S:
    「テクノライズ」のキャラで一番好きなのは誰? と誰かに聞かれた気がしたような気が
    しないでもないような気がしますので答えますと、私は蘭かな?
      
      ・・・・・・萌えとか言いませんよ、今回は。
 
 
 
 
 
 

 

 

 ■030520  動物狂いの妄想癖
 
 
 
 
 
 
 パンダ、可愛すぎ。
 
 
 「ムツゴロウと愉快な仲間達」がテレビでやっていました。
 確かだいぶ前に最終回を迎えたはずの同番組が、
 なぜかくも未練たらしく放送されているのかと思いきや、要するにパンダ。
 もうね、なんでも良いね可愛ければ。毎回最終回でも、私は許しますね。
 ムツゴロウさんこと畑正憲万歳。
 彼の著作は6割五分方読んでます。なにげに微妙なファンを演じていたりします。
 なんかですね、あれですよ、私動物大好き、ですよ。それはもう犯罪者級に。
 見ていてとろけますね、こっちまで。
 この際、ムツゴロウさん自身はどうでもよろしい。というかむしろ邪魔。
 本当にファンか? という疑問はさておき、私は本気で動物が好きです。
 私の父も無類の動物好きですので、これはもう遺伝でしょう。
 別に父に英才教育施されたわけでもないですから、DNAの為せる業、に確定です。
 そんな動物ちっくな本能に導かれ、むしろ同族愛を動物に感じているのかも知れません。
 とはいえ、一代を経て血が薄くなったというのでしょうか。
 私は父ほどの動物好きの「才能」を持ってはいませんでした。
 出会う動物すべてに好かれる父に比べ、
 私は人なつっこい動物には好かれるけれど、そうでないのには普通に避けられるという標準っぷり。
 こんな因果なことはありません。避けられるどころか、本気で嫌がられることなども、たまに。
 そんなわけで、テレビ画面のなかで動物たちと楽しく必死に戯れるムツゴロウさんの映像が流れると、
 微笑ましいほどの嫉妬心に駆られます。
 私はあれか、むしろムツゴロウに遊んで貰う方か。
 私が動物に同族愛を感じて近づこうとする時、動物は私に同族嫌悪して逃げるのか。
 
 なんだ、ならしょうがない ←涙ながらに
 
 
 ◆◆◆
 
 なにか忘れていると思ったら、十二国記観るの忘れてました。
 
 だって、同じ時間に放映されてたんですもの。
 うわー、陽子さんごめんなさ〜い(泣きじゃくりながら土下座)
 
 
 
 
 ・・・・。
 今日はまたひとつ、なにか大事なものを失ったような気がするが、気にしない事とする。
 それが、私らしさだから ←棒読み
 
 
 
 
 

 

 

 ■030518  暁なき黄昏
 
 
 
 
 
 
 遅く起きた朝は〜もう〜二度寝するしか〜ないよね〜♪
 
 現在午後の1時半です。
 今更起きて来てもいいこと無いので、本日はひきこもり決定な日曜日の昼下がり。
 こういう時につるむ奴も京都旅行と洒落込んでいて居ないことですし。
 お土産に八つ橋頼んだら「有料ね」とか宣いおってからに。奴に天誅を
 
 皆様、良い休日を。
 
 
 さて。
 ここ数週間ほどカウンターの回りが異様に良い日が続いておりましたが、
 入り口ページに親鸞の言葉を載せた日から、ぱたりと元の木阿弥に回帰。
 これはすわ宗教差別かと思うも、やはりスカラー波の仕業というのが正道だと思うのですが、
 皆様はどう思われますでしょうか?
 私は比較的どうでもよいのですけれど。
 さて。
 なにを書こうかと、寝起きの新鮮さを保った頭脳を駆使して考えるわけで御座いますが、
 そんなこと考えつくはずもなそうだ、京都行こうそして奴に天誅を
 と、このようにボケ以外のなにものでも無い状態であります。
 よって今日の日記は終わり、と行きたいところなのですがそうもいきません。
 ですので、まぁ、適当に戯言を垂れ流させて頂こうかと存じます。
 最近自分の敬語表現にまったく自信がございませんもはや造語の境地。
 それはどうにもならないのでどうでもよく、また面白いアニメを発掘してしまいました。
 ケーブルでやっているのですが、「The ビッグオー」という作品です。
 これがまたなんとも言えない情緒を有する作品で御座いまして。
 格好良い、というか英国趣味、と言いますか、そんな上流感覚に満ちあふれております。
 それは世界の造型やキャラクターの修飾語中心のやや前時代的な言い回しだけでなく、
 どこか現実とは一線を画してやや己の理想論的合理主義的感覚のみで他人に対峙する、
 という洗練された西洋的思考、
 悪く言えば自己中心的な思考を有しているキャラが多い、ということでも表れています。
 そういった、個々の世界に囚われながら生きている彼らの世界はと言いますと、
 これもなかなか面白い。
 とある時代より以前の歴史的記録及び記憶がすべて消え去ってしまった世界。
 人々は、なぜ自分達がここに居、建物や街があるのか一切わからない。
 それでも人々は過去を振り返らずに、懸命に「今」を生きている。
 歴史や、あるいは「真実」など知らなくても、人はこうして生きていける。
 なにがほんとで、なにが嘘であるのか、そんな判別はもういらない。
 目の前にあるものだけを信じていても、それはそれで充分事足りる。
 すべてを疑った上でのすべての肯定。
 しかし。
 「ここは記憶を失った街だ。だが記憶は、悪夢のようにいきなりその姿を現すことがある。」
 これがこの物語の本筋です。
 記憶(メモリー)という真実が、ある日突然自分の前に飛び出してきたら。
 その真実を拾ってしまったら、その人間はまさしくまっとうな人間に戻れるのか。
 主人公ロジャー=スミスは、巨大ロボ「ビッグオー」を駆り、その記憶を粉砕するのです。
 これって、思いっきり漫画版風の谷のナウシカに共通するものがあります。
 過去の遺産、あるいはどこかにあるかもしれない「真実」の否定。
 このあたりのことをナウシカはラスト近辺で語り始めますが、
 ビッグオーは最初からこのノリで始まっている、という違いがあり、
 果たしてビッグオー、ロジャー=スミスはどのような答えを出すのか、楽しみです。
 ・・・・。
 最初から観なかったことが悔やまれます(涙)
 
 それで。
 まだ他にお話ししたいことが書いているウチに思い起されてきたのですが、
 今日はここまで、という事に致しましょう。
 
 では、お休みなさい ←寝るなよ
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 ■030515  TEXHNOLYZE : 05
 
 
 
 
 
 
 久しぶりに相まみえたこの作品は、すごかった。
 お互いに再会を約して、それぞれ修行しながら旅をし、
 そして再び出会ったときのような、不可思議な充実感。
 なんだろう。
 より話は主流を離れ、より定型を成すことを拒み、より克明な輪郭を失っていくというのに、
 テクノライズは確かに私の目の前に存在していた。
 自由と孤独と。
 自由であると言うことは、なにものにも依らず、ただひたすら孤独である事。
 いかなる責任にも義務にも良心にも倫理にも宗教にも集団にも囚われすがることもない代わりに、
 いかなる慈悲の恩恵に預かることもない。
 絶対的な孤独。
 なにものかを求めると云うことは、つまりはそのなにものかを求めるという行為にすがるという事。
 なにものにも囚われていないつもりが、なにものかに囚われている。
 自由という名の呪縛。
 しかしこの街では、あるがままでいることは出来ない。
 なにものかに属し、なにものかを目指していかなければ、生きていけない。
 生きていく事を放棄したら、此処には居られない。
 だから、櫟士(主人公)は独りで在る事を選んだ。
 なにものも目指さない櫟士は自由の士たる資格はあれど、独りで在らなければ、自由に非ず。
 おのが身に植え付けられた、母親という名の呪縛が有る限り、彼は逃げ出すしか無い。
 なによりも自由を求めし孤高のケダモノは、今まさに囚われている。
 この街は、みんなそうなのかもしれない。
 そして、そんな街の外から、自ら降りてきた吉井が想う事。
 中途半端は、許されない。
 
 蘭が、また、観ている。
 
 
 
 
 えーと。
 つまり、面白かったです。
 も、最高です。
 よくわからなかったけれど、わからないことを愉しめるようになれて嬉しいなぁ〜、と。
 今までのアニメと同じ見方してると、痛い目見るかなにも見えないかってところカナ?
 この作品はこうこうこうであ〜る、なんて解説口調してもあまり得るところはないっていうか。
 書くより、観ろ。
 今はそんな心境です。
 日記なんて、そんなもんよ、へっ ←どことなく敗北感
 
 
 
 
 

 

 

 ■030512  始終のどよめきの中で■
 
 
 
 
 
 
 宵闇の淵より出でし深紅の想いに囚われた酷く幼き者はこう云った
 日が暮れ夜になりそしてまた朝がやって来る
 明日の来ない夜は無く涙の出ない夜もない
 幾重にも渡るこの無限の回廊を極めれば
 始まりはやがて終わりへと転化する
 我らに緊迫という名の引導を渡すために
 螺旋状の過去を顧みて突出すべき事もなく
 ひたすら 捻子を巻いてきたこの私に決して容赦する事もなく
 前方空間は今かつて無いほどの激しい息遣いでこの世界に横たわる
 然れども無垢なる愚者の進撃を誰が援護しようというものか
 無謀なる弱者の突撃をなにを以て守ろうとするのだろうか
 自分勝手な試みに如何なる者も賛同しはしない
 絶対的な虚空に魅入られて我らの夢は崩れ去る
 人の紡ぎし条理のゆえに
 己の定めた浅はかな運命(おもい)のゆえに
 我らは我らの世界に収束す
 絶え間ない鼓動に想いを馳せて
 天蓋を覆う薄汚れた褐色の空間に想いは満ちていくばかり
 猛き若人の願望も欲望も渇望も絶望も
 すべては世界の外にある
 吹き荒れし黎明の熱風も私の天蓋を燃やしはしない
 手繰れない饒舌な糸共に遅れをとって
 雪解け前の大地に蠢く,輪郭無き私の姿にすべてを託し
 私は私を諦める
 やがて示す始まりの終わり
 終わりの始まり
 古過ぎた命の始末に戸惑ううちに終末の扉はやがて開かれる
 
 すべてが始まる無への回帰へと
 
 
 
 
 
 
 ・・・・
 なんでしょうね、これ? ←自分で書いといて、こいつは
 
 
 
 
 

 

 

 ■030510  其処でエヴァが来る日■
 
 
 
 
 
 
 このタイミングでエヴァかよ!
 
 阿呆な友人とエヴァ劇場版を観た。
 私は友に輪をかけて阿呆であり、そうすると相対的に友の地位はあがるのでこれは中傷には当たらない。
 とにかくアホ二人でエヴァを観た。
 観た。
 あいかわらず、マイフレンドは「よくわからんね」の一点張りで面白くない。
 面白くないけれど、これが我が愛すべきアホの友であるからして、憎めはしない。
 というか、WOWOWで放映されたリニューアル版エヴァを贅沢にも観ておいて、その言い草はなんだ貴様。
 「テレビ版はもういいから、劇場版見せなさい(命令形)」とか言っちゃってまぁ。
 まぁどうしてくれようかしら。
 うちはWOWOW観れないの知ってかしらずか、っていうか知ってるし。
 ・・・この件はいずれ語るとして、次。
 とにかく、観た。
 キた。
 勝った。 ←なにに
 いや、なんとなくそう思ったのよ。
 ああ、もう、エヴァは消えないね、と。
 エヴァの凄さと価値を見出した私の見識は、案外間違ってなかったのね、と。
 エヴァはここにきて、まだ滅びてはいなかった。
 ここ、ってのは、散々アニメ観まくって色々思考してすっかり汚れもとい進化した今の私の状態を指すネ。
 もう語る言葉を有せず、というか、もうあんた神の領域や、というかなんというか。
 つまりまぁ、劇場版最高、と。
 作者のキャラへの愛がないとか、物語の背景の説明が不十分だとか、謎だとかわからんとか。
 ていうか、作者の意図とか、もうそんなのどうでもよいの。
 要はね、観てる人間がエヴァからなにを吸収できたのかってこと。
 一時期流行ったけど、エヴァの謎解き本とかあったよね?
 あれとかね、すっごいいいじゃん、って思うわけ。
 ああいう風にキリスト教だのカバラだのリビドーだのエディプスだのなんだの。
 そういうありとあらゆる視点・思想・趣味で作品を理解しようというエネルギーが凄い。
 そして何より凄いのは、そういう様々な受け取り側の要求を満たしてなお余り有り過ぎるエヴァなの。
 いったい貴方はいつまでそうやって輝き続ける気ですか? と小一時間ほど問いつめたい。
 というか、一生問いつめたい。
 ぶっちゃけ、「エヴァ」って作品は私の中ではかなり重要作品なわけなんよ。
 アニメを思考対象として捉えた、最初の作品なんです。
 そして、そのエヴァに対する思考は、未だ完結してないんです。
 というより、「完結しない物語」というか。そもそもアレは物語じゃないというか。
 劇場版において、阿呆な友人は「ストーリー無いからヘン」と、「否定的」感想を吐いたけど、
 そんなことないアルよ。というか、どこ観てるか、コラ。そこに座りなさい説教してやる(7時間ほど)
 いいですか、友よ。
 ストーリーはあるんですよ。そして、ちゃ〜んと描かれてます。
 ただ、誰にでもわかるような、「普遍的」(←ちょっち揶揄風味に)な表現をしてないだけなんです。
 よーく、観て、「想像力」と言う名の論理をフルに稼働させ、
 既存の、飼い慣らされたお約束常套的展開な優しい物語じゃなきゃダメ、という観念を排しなさい。
 そうすれば、そこにしっかりと「エヴァ」が描かれてるのが解るんです。
 エヴァってのは、そもそもそういったアニメに対する固定観念を徹底的に壊そうとした、
 いわば実験的作品だと思うの。
 だから、どこか「物語的」に破綻していたり、
 登場人物の扱いが「萌え」(←重要言語)を否定する方向に向おうとも、それがエヴァじゃないかなと。
 だからね、阿呆よ(おい)。
 キミがね、だからエヴァはつまらんのよ、という諦めに走って欲しくないのよ。
 私としてはね、エヴァってのはエヴァであって、そしてすんごいんだから! と言いたいわけ。
 ああああ、わかるかね? わからんよね。・・・うん、私もなんだかわからなくなってきたヨ。
 
 
 どうすれば、キミをエヴァファンに洗脳出来るのかってことが。
 
 うん、キマった。
 
 
 P.S
 たまには、「お前の文章いつもクソ長くて、読む気しない」以外のサイトの感想言ってください、友よ。
 あと、日記書いてない日に「今日のはまぁまぁだったよ」とか平気で言わないでください。
 洗脳しますよ?(マテ)
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 ■030508  進化する単純化と肥大する妄想レヴェル■
 
 
 
 
 
 
 問答無用で泣いてしまいました。
 「ムコ殿2003」で。
 そろそろ紅い瞳も新境地を開拓するときが来たようです。
 昨夜は「TEXHNOLYZE」がやっていなかったようです。
 色々な意味でほっとしてたりします。
 質問はなしの方向で。
 「エアマスター」は実に快調なようです。
 というか、エコエコアザラシは強すぎでした。
 もうあの子だけでお腹いっぱいです。
 なんだかもう贅沢すぎて食傷気味です。
 来週までにはお腹すかせておきますゆえ、ご勘弁を。
 「十二国記」はもしかしたらかなり良いのじゃないか、と思われました。
 具体的に言うと陽子さんです。
 質問はなしの方向で。
 
 ◆◆◆
 
 さて、今日はちょっとアニメの紹介をしたいと思います。
 ケーブルテレビでやっていて、ちょっと気になった作品でしたので。
 あくまで紹介ですので、ネタバレは無いように努めて書いてみました。
 
 ・「BLOOD THE LAST VAMPIRE」
  実は以前から私の脳内で話題になっていた作品。
  いずれはレンタルして見てみようかなと思っているうちに、
  ケーブルの放映のほうが先になってしまったという作品です。
  それでどんな感じのお話しかと言いますと、
  とある日本刀を持った少女が、
  人間に擬態して人を襲って生き続ける吸血鬼「翼手」という化物達を倒してまわる、というものです。
  一回通して作品を観てみて思った感想は、とてもシンプルな作品だな、と言う物です。
  この化物倒して回るという設定がこの作品のすべてであり、
  それもまさにハリウッド的明快、悪く言えば単純な世界観でもってしか、
  この「BLOOD THE LAST VAMPIRE」という作品を観ることは出来ませんでした。
  そう言う意味で、第一印象はあまりよくありませんでした。
  この作品の監督はインタビューで自作を評して「痛快B級アクションホラー」と言っておりましたが、
  まさにそうで、バトルシーンでの映像自体が売り物でありかつそれの充実が監督の目指したものである、
  そういう感じがする作品でした。
  ですから、ハリウッド映画が好きな人は、ごくすんなりとこの作品を受け入れることが出来ると思います。
  ただし。
  2回目以降、この作品を観ると、もしかしたら新しい発見ができるかもしれません。
  私も現にひとつ新しい見方を得ることが、2回目を試聴してできました。
  それは、「化物を倒すときに、主人公はなにを想っているのか」という疑問を抱くことでした。
  この疑問の答えが、これみよがしに作品の中で提示されている箇所はありません。
  唯一それを匂わせる箇所があるのですが、それはネタバレに相当するので言いません(笑)。
  少なくとも、この問いに対する答えを導き出すには視聴者が完全に「妄想」するしかありません。
  しかし逆に言うと、この作品はそういう作品なのでもあるのかもしれません。
 
 ・「怪童丸」
  こちらもケーブル作品でやっておりました。
  公式サイトはこちらです →
  この作品は、平安時代の実在の人物、源頼光とその部下である四天王による、
  酒呑童子退治の物語をモチーフとして作られたものです。
  が、内容は全然違います。まったくもって違います。
  その違いを説明するのは面倒くさいので、こちらの「作品紹介」をお読みください →
  読みましたか? 読みましたね? 読んだことを前提にしてお話しを続けますよ?(笑)
  はい。
  この作品もまた、表現的に「BLOOD THE LAST VAMPIRE」と同じく単純な作品です。
  ただ違うのは、こちらは本来なら物語を語る上で必要なものまでをも削って作られていることです。
  つまり、もの凄くいびつなのです。
  ストーリー自体を理解する上では、それほど難はないのですが、
  しかし見終わった後に、「話はわかったけれど、だからなんなんだ。」という感じが、どうしてもしてしまう。
  逆に言うと、続編やサイドストーリーなどが、もう山ほども作れてしまうし、
  またそういうものを作ってこちらがわに見せてくれないと、どうあっても不満が残る。
  でも、それは要するに「物語の行間に含まれている要素そのものが作品の本質」、
  ということをより強烈に表現しているのではないか、とも思えるのです。
  そういった意味でこの作品を捉え直してみると、結構ぞくぞくするような感情に襲われてきます。
  そう。
  この作品は、「感情」を発散しているのです。
  物語の筋立ては簡単。言ってることも簡単。
  でも、その物語が発する情念は実に奥が深く、また、いとおかし(笑)。
  愛、というか、憎、というか、そういった感情だけを表現するために、物語がある。
  桜丹姫、という登場人物がいるのですが、この人の秘める愛憎渦巻く静かなる挙措を見ていると、
  もう、それだけで充分に怖い。
  というより、画面に映っていないときの彼女の姿を「妄想」するほうが、もっと恐ろしい。
  彼女の陰謀が作品を突き抜けると、もうそこには幻想的な世界が広がってしまう。
  映像の表現も、物語の進行も、はたまた他の主人公達の扱いも、
  一様に印象が薄くなっていく。
  実際一回目見たときはそんな印象はないのですけれど、
  2回、3回と観ていくうちになんとなくそうなってくるのです。
  桜丹姫をはじめ、他の登場人物達のキャラの描かれ方自体は、一様に浅く淡泊です。
  でもそれは「キャラクター性」というものを言葉(セリフ)のみで理解しようとするから、そう見えるのです。
  この「怪童丸」という作品において、登場人物の姿を表すのに言葉そのもの自体は、
  重要ではありません。
  言葉を含む、前後の空間こそが人物をかたどっているのです。
  そして、人物の在り方によって作品の含む「情」を表しているのです。
  そういったところを、なかなか難しいですが、楽しめる作品なのじゃないかな、と思いました。
 
 両作品に共通して言えることは、結論として、何回も見て楽しむ作品じゃないかなってこと。
 時間も両方とも60分未満ですので、何回見ても苦痛にはならないでしょう。
 個人的には、上記の文章のニュアンスを見てもわかるとおり、「怪童丸」のほうが好きです(笑)
 
 以上、今日の日記を終わります(と言いつつ怪童丸を再生) ←なにげにハマってます
 
 
 
 

 

 

 ■030506  本、再び存在を顕示し始めるの儀
 
 
 
 
 
 
 モーニング娘。における卒業の概念が複雑すぎてよくわかりません。
 どうにも今回のあれはリストラにしかみえないんですが (ファンのかたごめんなさい)
 
 
 こんばんわ、紅い瞳です。 
 皆様におかれましては、いかがお過ごしのことで御座いましょうか?
 私は本を借りて読み耽る日常を、ささやかながらも過ごさせて頂いております。
 ささやかです。
 幸せとは、このような人生の隙間隙間に散りばめられた、ささやかなる夢の如きもので御座います。
 幸せなんて簡単に手に入ります。
 お金で手に入らないものは、カードで手に入れれば良いので御座います。
 要は、本人の気持ち次第、という事で御座います。某CMはあまり関係ないと思いますきっと。
 そういうご時世です。
 それはたまちゃんも引っ越ししたくなるもので御座います。
 わたくし思いまするに、多摩川から出てしまった時点で、
 たまちゃんはもはやたまちゃんたる由縁を有せず、ただの方向音痴のアザラシでしか御座いません。
 というか、移動するなら少なくとも海目指しなさいよ、海を。
 それに、さいたまに移動したのだから、やっぱりまだたまちゃんじゃないか、とか、
 そういう意見、私は認めません。暴動です。
 そんなこと仰っているから、カフーが日本に来ない、とかそういうことになるのです。
 たまちゃんは関係ないですけれど。
 
 紅い瞳は、ニシタマオを応援しております。
 
 ◆◆◆
 
 以下の本を借りてきました。
 懲りずにいっぱい借りてきました。
 さて、いったいこのうち何冊読めて感想書けるのだろうかと思うと、はや憂鬱です。
 紅い瞳は現在幸福のときを過ごしています(たぶん)。
 
 ・「鬼譚」 (夢枕獏 編著 天山出版)
  夢枕獏が撰集した色々な作家の「鬼」を主題とした作品15作が収録されています。
  主な収録作家は、坂口安吾、手塚治虫(漫画)、上田秋成、小松和彦、筒井康隆、
  田辺聖子、そして夢枕獏といったところです。
  まだ読んでいないからなんとも言えませんが、期待度は高めに設定してあります自分的に。
  ぶっちゃけ、鬼萌え好きです。
 
 ・「文学部唯野教授」 (筒井康隆 著 岩波書店)
  現在読み中。
  とある大学の教授が、大学内部における凶悪かつコミカルな政権争いを適当に生き抜くお話し。
  とにかく大学教授たちのヘタレっぷりには、とても温かい楽しさがあって良いです。
  筒井康隆は滅茶苦茶皮肉のつもりで書いているのでしょうけれど。
  あ〜、この筒井と私の受け取り方のすれ違いっぷりがたまらなく良いのです、くぅ〜(笑)。
  ちなみに勉強不足な私には、講義シーンはなかなか有意義でありました。
 
 ・「別冊歴史読本 本当にあった世にも不思議な江戸怪奇事件帳」 (新人物往来社)
  今回借りてきた中で、色々な意味で最も理解するのが難しい本です。以上。
 
 ・「続 会津士魂 1」 (早乙女貢 著 新人物往来社)
  チャットにて銀光さんからお勧め頂いた作品ってあわわ、「続」ってなによ間違えて借りてきちゃった(汗)。
  
 ・「夢童子」 (天沼春樹 著 パロル舎)
  インド・日本などの説話形式の本、みたい(まだまったく読んでません)。
  
 ・「ALICETOPIA」 (天沼春樹 文 大竹茂夫 画 パロル舎)
  アリストピア。つまり「不思議の国のアリス」のパロディーみたいな作品です。
  絵本です。
  文章の方は正直うまくありません。どうにも試行錯誤し過ぎていて、
  自然な想いが伝わってこないので読みにくい。ぶっちゃけ私の文の書き方と同じ。
  でも絵は最高です。というか大竹茂夫の絵はファンだったりします。
  だから逆に、文の補助として絵があるのではなく、絵の補助として文があるというか。
  あ、そうか。だから絵本なんですか。ほぅ(なに)。
  最終的に、一家に一冊は欲しい本です、と評価(私は買いませんけど)。
 
 ・「日本人と日本文化」 (司馬遼太郎 ドナルド=キーン 著 中公新書)
  対談集です。非常に読みやすい。
  対談形式なだけあって、話し言葉でわかりやすい半面、
  短絡的な考えもちらほら見受けられましたが、見る方がしっかりしていれば大丈夫(ぇ)。
  両者とも日本文化の特徴を挙げ、それぞれに「だから日本に萌えが好きだー!」発言してます。
  でも、ときたま対立しているところもあって面白い。
  主にキーンがこれでもかと類例を上げて自分の意見を主張してくるのに対し、
  ひたすら「あ、そういうのもあるか。面白い」と徹底して受け流す司馬の構図があったり。
  そういうとこ、なにげに司馬遼太郎、いやらしい(笑)。
  内容の感想としては、結構個人的にうんうんとうなずけるものが多かったです。
  別に日本最高、だから日本文化を大切にすることが大事だ、とかそういうのはなくて、
  純粋に日本文化の有り様の一端を静かに私に見せてくれただけでした。
  個人的に歴史に政治性を持ち込まない私としては、肩肘張らずにリラックスして読めた作品です。
 
 
  と、こんな感じです。
  多いって言っても7冊ですか。
  ・・・・
  これならまだまだいけますぜ(にやり)
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 ■030504  孤独の闇に怯えた灰羽の最後の夜
 
 
 
 
 
 
 夢が聴こえる。
 かすかな地響きを辺りに撒き散らしながら、
 黒く爛れた絵の具色の汽笛がすぐ其処に。
 ・・・・ざわざわざわざわ・・・
 にび色の薄明かりが絶望の淵に満ち溢れ、それはやがて少女の内から零れていった。
 引き裂かれたる者。
 黒き羽の少女の声音は牢獄を支配し、少女は漆黒の支配者となる。
 引き裂かれたる弱き者。
 私はただ、救いが欲しかっただけなんだ。
 出ていけだなんて、思うはずないじゃない。
 自らの救済を求めることに、誰よりも真摯であるが故に、
 誰よりも救いを求めることを畏れるようになっていく脳髄。
 石くれの体をひび割らせようとも、この醜き体が崩れ落ちようとも、
 私があの空に羽ばたけるなんて、誰が信じられようか。
 どうせ、私は独りなんだ。
 独りで孤独に孤立し世界から切り離されて、そして人知れず消えていけば、いいんだ。
 それで、いいんだ。
 もう、いいんだ。
 あの子はもう、この部屋に、居ない。
 私は消えるんだね。
 どんなにそれが理不尽であろうともどんなにそれが苦しいことであろうとも
 どんなにそれが不平等であろうともどんなにそれが不幸であろうともどんなにそれを悔やんでみようとも
 どんなにそれを呪ってみようともどんなにそれが悪いのだとしてもどんなに私が悪くないのだとしても。
 私は、独りなんだ。
 誰も、信じなければ、いいんだ。
 もういい。
 わかってる。
 ほんとのことなんて、私に罪なんか無いんだなんてこと、もうわかってる。
 ・・・だからもう、私を放っておいて。
 
 レキの事が大好き。
 だからレキを助けてあげたい。
 私は気付いてしまったのだから。
 ほんとうに救いを求めてる人は、救いなど求めたりしないってことに。
 恐ろしく、冷たく、凶悪すぎるあの絶望の色に押し潰されてるレキが、其処にいる。
 わかっちゃったんだから。
 レキが誰にも自分を助けることなんて出来ない、って思ってることが。
 自分のどうしようもない悪夢を、どうにか出来る人なんていないって思ってることが。
 だから、私にはもうレキを助けてあげることができるんだ。
 だって、ほんとはその絶望の色は、偽物なんだから。
 描かれた牢獄に囚われたレキが用いたその絵の具の配色は、間違っていたのだから。
 レキが描いて見せた絶望の夢は間違っているのだから。
 レキは、自らが造り出した禍々しき化け物に、ただ恐れおののいてしまっただけなんだから。
 絶望や苦しみに重さなんて、ない。
 レキの罪は、自らの夢に対して抱いた恐怖心が並はずれて凄く、そして的はずれだった事なんだ。
 罪に軽重なんて、ない。
 私はそのとき、魔法の書を見つけたの。
 レキのほんとうの気持ち。
 なにがあっても、希望だけは捨てられない。
 自分をこの忌まわしくも猛々しい闇の蹄鉄に踏み締められる絶界から、
 絶対に絶対に絶対に絶対に・・・・誰かが助けてくれるって・・・・。
 あの繭から生まれた女の子に、私に、自分の最後の希望を託したレキ。
 そして・・自分の希望を託す代わりに、私と一緒に居てくれて、私を守って居てくれるって言ってくれたこと。
 レキは、私を利用したんじゃない。
 レキは、レキは最初から素直に助けを求めてたんだ。
 「レキは此処で消えることを選んだ・・・。」
 違う! レキは私に救いを求めてた!
 私は鳥。
 大空に羽ばたき、すべての罪と言う名の不正を見下ろす者。
 私には、わかる。
 レキの罪が。レキの正しからざる夢の絵の姿が。
 だから、私はレキを助けてあげられる。
 暴虐の風を纏いながら、レキを消し去らんと迫る絶望の汽笛から、レキを救うことが出来る。
 だって、私にはもう、その汽笛が聞こえるんだから。
 レキが自分の夢を過剰に畏れることで、いかなるときにも孤独であろうとする、
 ということに憑かれている罪に陥っているということが、わかったんだから。
 私は、レキの鳥になるんだ。
 レキを壁に囲まれた小さな世界から、旅立たせてあげなければいけないんだ。
 
 そうして、罪なる灰にまみれた少女は救われた。
 ひとりの、優しき勇気を秘めた羽をその少女から貰った鳥が、救いの光をこの部屋に解き放つ。
 瞬間。
 七年の永きに渡り少女が支配し支配された牢獄は、その姿を美しき色に染め上げた。
 黒き少女の羽の姿も本来の正しき姿を取り戻し、そして新たな名を少女は手に入れた。
 もう、少女は、独りじゃない。
 隣には、必ず誰かが居る。
 もう、理不尽な汽笛は聴こえない。
 そして・・・・・もう、誰も少女を罪憑きだなんて呼びはしない。
 
 ・・・・・・・
 
 光が空の色を変えていく。
 またひとつの色が夜空に加わり、世界はちょっぴり豊かになった。
 大好きだったこの街を、あまりにも大切な人が今もいるあの古ぼけたホームを照らすために、
 少女の記憶は世界と、そしていまひとりの少女の心に永遠に記録された。
 
 私は、レキのこと、忘れない。
 
 
 
 ◆◆◆
 
 昨夜の灰羽鑑賞会は大変に有意義だった。
 特にカモさんとのお話しの中で、互いの灰羽論を照らし合わせることで、
 より灰羽、特に罪憑きについての考察を進めることが出来たと思う。
 そうして進めたことを論理的に書こうと思ったのだけれども、
 案の定、と言うより予想通り整理がつかなくなり、このような形式になってしまったわけである。
 でも、いつものことだから、気にしない。全然まったく気にしない。気にしてやるものか。
 というか、自分で言うのもなんだが、言いたいことは良く表現できたと思う。
 と、ここで下手に解説するようなことを書くと、折角の美文(自賛)が台無しになるのでやめておく。
 ただこれだけは言える。
 
 灰羽は、すんごいです ←正楷書体
 
 
 以上であるのである(話師風に)
 
 追記: 鑑賞会に参加してくださった方々、ありがとう御座いました。非常に楽しかったです。
      最後の鑑賞会に相応しく、灰羽話で大変に盛り上がり、
      紅い瞳は嬉し涙に溺れながらさらに泣いておりました(さらにかよ)。
      改めまして、参加者の皆様に厚く御礼申し上げます。
      それと個人的にカモさんには感謝しております。
      カモさん、また灰羽の謎に迫りましょうね(爆)。
 
 
 
 
 
 
 
 紅い瞳も、レキさんのこと、忘れない ←決めゼリフ
 
 
 
 

 

 

 ■030502  TEXHNOLYZE : 03 : 04
 
 
 
 
 
 
 淡々と書き進めていきたいと思います。
 
 今回のお話しはなぜか第3・4話連続放送。
 二話分放送というと灰羽連盟を思い出しますが、
 どういうつもりか、放送時間は30分。
 つまり一話分が15分。
 なぜ。
 こういうところでわけのわからない節約したりするから、世の中が可笑しくなるわけなのですが、
 まぁ漢字のとおり笑えることが可能ならばそれで良し、というところでしょうか。
 が、当のテクノライズはそんな私の気持ちなどこれっぱかしもお構いなしに、
 笑いなど何処吹く風で、唯我独尊の威風をたなびかせつつ、ひたすら邁進しておりますが。
 まぁ、いいでしょう。
 笑ってばかりだとアゴが緩んで醜くなりますので。
 テクノライズは私の顔にまで気を遣ってくださっているのですから、偉いものです。
 
 話が思いっきり逸れました。
 私の緩みっぱなしのアゴの話はほっといて、作品のお話しを致しましょう。
 テクノライズとは義手義足を人体に施すことです。
 というか、そういうお話しです。
 人の体をどんどん機械化させていく。
 そのためには、より人体に近い構成の機能を有するものの開発に主眼を置くのが常套であり、
 またそれが従来のことでもありました。
 しかし中には、欠損した人体の一部を修復し、元の状態に復元するためだけに、
 テクノライズの技術を適用するのを不満に思い、
 より高度な、人体が元来保有する以上の超人的能力を義手義足に備えさせてしまえ、
 そう考える先進的かつ古式豊かなマッドサイエンティスト的人物もいるのです。
 それでまぁ、それがどうとか言うわけでもないんですけどね。
 物語の本筋としては、そのテクノライズの技術、及びそれに不可欠なラフィアという花の利権を巡って、
 いくつかの武装集団が凌ぎを削っているっていうのがあるんですけれど、
 そのまさにやくざの抗争みたいなところの描写における点には、そんなに力入ってないと思うんです。
 というかそれを背景にして、「暴力」というものそのものを描きたいんじゃないかな? って感じで。
 暴力といったって、殴る蹴る殺すって言うレベルじゃなくて(もちろんそれもあるけれど)、
 価値観的に他人に対して無造作で冷血であるっていう感じです。
 そこには人間的友愛とか、そういうものが通り一辺倒にはまったくなくて、
 すべてが独自で、そしてそうであるがゆえに非常に他者の存在を無視できてしまう、
 そういう世界があるのです。
 そしてそれは別に違和感なくそこに存在させてしまう、そういうさりげなさと当然さをもって描かれてもいる。
 他者からの無条件の友愛と無償の奉仕、及び積極的相互扶助の精神で彩られた、
 灰羽連盟とはまったくの対極を成すけれども、しかし「あるがまま」の世界を描いている点では、
 まったく同じなのだと思います。
 或いは、隣人愛的世界観で司られる世界は、灰羽連盟のような狭い範囲(人種的文化的に)であって
 、より広くより多様性に満ちた世界を描こうとすればそれがテクノライズの世界になる、
 そういう風にも言えるとも思います。
 そもそも「誰もが」互いに愛し合えるというのは、ある意味で机上の空論でしかない。
 でもその空論的幻想を風化させてしまうのは惜しい。
 だから「壁」という囲いを設けた都合の良い実験室において、それを実現させよう。
 それが、あのなんとも心休まる素晴らしい灰羽連盟という作品になったとすれば、
 でもそれはやっぱり閉じられた、非常に限られた場でしか叶わないことじゃないだろうか。
 もしそれがもっと広くなったりして、もっともっと色んな人が登場してきたりしたら、ああはならないよね。
 世界のどこからともなく流れてきた、非常に多くの人々、
 あらゆる技術思想を持ち、特殊な能力を持ち、そして新たなる参入者をも受け入れる街、流9洲。
 なにものにも囚われず、なにものにも支配されず、なにものにもすがらない。
 そういう思いを抱いて集まってきた人々が、やがてそれぞれ囚われ支配されすがっていく様相。
 そこにはもはや統一された「世界観」や「道徳観」などはまったく見られなくなっているのだと思います。
 だからこその「暴力」的思想の蔓延があるのだと。
 個々の力量・人格、そして自己愛のみを信じ、そして他者は利用するか削除するかの二択、
 そういう即断的本能的精神がなければ、あの街では生きていけないんですよね。
 
 そんな感じの事をこの3・4話では描かれてたのかな。
 ま、別に灰羽連盟との対比なんかは別にどーでも良かったりするんですけどね。
 どーせ後付です。
 実際観ているときは、リアルな話だけどとっても幻想的だよな〜、って思っただけなんですよ。
 それはやっぱりあの蘭の存在が大きいんじゃないかな、と。
 あの少女が街をふわふわと徘徊してる様なんかは絵的にそうだし、
 そもそも蘭の存在自体、あの物語の本筋にどう関わってくるのかがまるで見えないって事が大きい。
 それにあと意外(?)なところであの女ドクターさん(名前わからん)の口調も不思議。
 科学者然とした、それでいて妖艶でもある話し方は、綺麗に白い医療施設の背景にマッチしていて、
 これがやくざアニメなのだということを忘れさせてしまうに充分な迫力がありました。
 うーん、やっぱりこの物語はいくつもの流れに分れちゃってるよな〜。
 その分れちゃったいくつものシーンを適当に繋ぎ合わせてみて見たときのいびつな快感、
 ていうのが、私が感じた幻想感の主因なのかな〜。
 
 まぁ、要するに、テクノライズは「暴力」を楽しむお話しっていうところでいってみましょうよ。
 間違っても、石は投げないでください。
 
 
 
 
 

 

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