〜2003年7月の過去ログ〜

 

 

 

 ■030726  TEXHNOLYZE : 13
 
 
 
 
 
 
 「運命とか宿命とかを、そう簡単に受け入れられる人間の方が稀ではありませんか?」
 
 「・・それはガベの言葉ではなく、君達の言葉だ。」
 

                        〜大西とガベの長老の会話より〜

 
 
 前回のお話を見逃してしまったので、
 私の中における話のリズムが乱れ、それの整調に少々手間取りましたが、いきます。
 
 櫟士が正式に大西の事務所に配属されたようで。
 ぎこちなさとか、初々しさとか、そういった組織に配属されたての新米さんの素振りなど無論皆無、
 櫟士は櫟士のままで、ただ彼のまわりだけが推移していきます。
 でも、確かに自分の前には、今自らが入らんとする組織が待ち受けているという事実は受け止めていて、
 櫟士は櫟士なりに動揺しているようです。
 つまり、組織にいるべきか、否か。
 櫟士は孤独には強いが、組織の中じゃ弱そうだ、と評する人物が作中にでてきたように、
 櫟士自身それを感じているのかもしれず、それゆえ、盲目的に従順さを示しているのです。
 それは、組織に入ろうとしようとしている、現在の自分の状況に対する彼なりの戸惑い。
 しかし、そんな櫟士に「組織内」の人間として大西は語りかける。
 彼の言葉はまさに組織という共同体の中で、どう生きるか、
 或いは、そのことのこの世界に生きていく上での絶対的必要性を櫟士に諭した、とも言えます。
 そのいわば「説得」としての大西の言葉は、短かったけれども実に明快で、
 そして大西らしさに輝いていて、とても美しい言葉でした。
 組織に所属している限り、そこで存在すると言うことには必然的に義務が発生する。
 そのこと、櫟士は大西の言葉としてしっかり理解したことでしょうし、
 また、彼が大西に「惹かれた」理由もその言葉を大西の言葉で説明して欲しかったところにある、
 という風にも読みとれます。
 
 さて、話は変わりまして。
 蘭です。
 蘭はつまりは巫女、あるいは巫女見習いってことらしいですね。
 彼女の託宣という名の「未来」に、その共同体としての進路を預けるガベ。
 ガベの女には必ずこの未来を視るという能力を持つ者が生まれ、
 そして代々彼女らはガベの行く末、つまり運命とか宿命を担ってきた。
 それは言い換えれば、組織、或いは共同体内部における、
 最も最大の義務を背負う「存在者」(なにものにも代わり得ないモノの意)なのです。
 蘭の語る言葉によって、すべてが決まる。
 それはその共同体に所属するすべての者達のすべてを引き受けなければならない、ということ。
 ガベの巫女というものは、もちろん何者にも代わりは勤まらない。
 蘭以外にこの「義務」を負うことはできないし、そしてこれが長老の言う運命、というものなのです。
 自分の意志、というものは無にされすべてが他者のためへと変換されていく自我。
 いいえ。
 それは、自分の意志ひとつで、他者をどうにでも出来てしまうという、無上の「影響力」、
 というふうに、蘭自身は受け取っているはずです。もちろん前者の方の要素もあるでしょうけど。
 そして、蘭はその事に苦悩しているのです。
 
 で、なにが言いたいのかと言いますと。
 今回のお話で出てきた「義務」と「運命・宿命」。
 これって、ほぼ同じ意味として使われているのです。
 蘭の宿命は、その共同体に生きるための絶対的必要性を帯びた義務そのものなのです。
 蘭は、巫女であるからこそ、ガベに生きられる。
 逆に言えば、巫女としての義務を果たせなければ、蘭の居場所はガベにはない。
 これって、思いっきり現在の櫟士の状況の一歩先の事ですよね。櫟士の未来というか。
 つまり、櫟士がオルガノの中で生きていけば、
 大西の言うとおり、櫟士は組織の一員として仲間のことを考え、
 そして自らの思い通りの行動を制限される、という義務を負わされるようになる。
 蘭とは重さが違いますが、しかし同じ事であることには変わりはありません。
 蘭は、櫟士の未来に自分の今を視たのです。
 
 共同体に入るということで生じる、義務や宿命。
 それをどう解釈するか、でその人の生き方在り方が決まるとき。
 そのとき、やはり人々にはどの世界で生きるのかの選択権があるのです。
 そしてそのことは、このテクノライズではより顕著に示されています。
 共同体に所属するが故に徐々に義務や宿命を「理解」しながら受け入れていくのか、
 それとも宿命を受け入れる事でしか、共同体に所属することを許されない道をゆくか。
 流9洲は割合自由だけれども、ガベではそうもいかない。
 蘭はがんじがらめに宿命に縛られ、もはや蘭その人の人生はガベにはない。
 少なくとも、流9洲の人間である大西にはそう見えたはずです。
 ただそれは、どっちが良い悪い、というものではないでしょう。
 流9洲は流9洲、ガベはガベ。
 彼らの外側から観て、彼らを批判しても、その言葉は彼らには通じない。
 なぜならば、彼らには彼らの理屈に則って、そうしているからです。
 それを異なる理屈や法則あるいは価値観で語れば、おかしいと思うのは確か。
 でも、逆に言えば異なる理屈で導き出された批判が、彼らに届くはずもないのです。
 彼らの元に届くのは、彼らの理屈によって導き出された言葉のみ。
 だから、彼らの宿命観というか思想を批判するには、まず彼らの理屈を知らなければならない。
 そういった意味で、大西はガベの人間達が「共有」する理屈を理解してはいないんですね。
 大西は、たんに自分たち流9洲の人間の理屈という言葉でしか、ガベの長老と接する事ができなかった。
 そのあたりの大きなすれ違いが、結局のところオルガノとガベの断絶を建設しちゃったんです。
 
 蘭と櫟士の二人の今後の展開、がもっとも個人的に気になります。
 それぞれがどういう方向に向かうのか。
 そして、現在の状態であるキャラの生き様を感じて楽しむ、という意味において、
 大西とガベの長老、特に大西には注目です(なにげに紅い瞳は大西が好きです)
 もちろん、ガベの人間の宿命というものの考え方にも興味が尽きないところではあります。
 
 それでは、本日はこれにて終わります。
 読み返すまでもなく、書いているうちから自分がなに書いてるのかまったくわからない文章でしたが。
 
 
 いいのか、これで(汗)。
 
 
 
 
 
 

 

 

 ■030722  宴で舞う踊り■
 
 
 
 
 
 
 しずしずと、ふわふわと、大胆に不確かに、真っ直ぐ妖艶に踊り狂う。
 
 天の定めた虚空の下で、刃交えて生き交う心達。
 皆、あわよくば幸福をと願い、しきたり混じりの自由にその身を委ねていく。
 責任ある自由とは、人倫とは、人の世の定めとは。
 そして、人であることの証とは。
 多くの人間がそれらを規定する概念を造り出し、
 そして多くの者を強引にその念に収束させてきた。
 中心点には、なにもないことはすべからく広く知られた事実であるのに、
 しばしばその事実を喧伝する者は、除外されてきた。
 隠蔽工作としての、道徳。
 しかし、その道徳の系譜をうち破らんがため、多くの者がその身を捧げてきた歴史。
 正道往く者にはわからない、孤独で陰惨で悪魔のような道無き獣道。
 その道を往く者達は、自分たちが虚空の元で生きていることを誰よりも知っている。
 そしてなおかつ、自分たちが巨大な何者かによって収束されていることも、良く知っている。
 自分たちが、天の元に与えられた、純粋無垢の魂を汚さずには生きられないことも既知の事。
 人として生まれ、人として生きられない彼らは、
 なおそれでも人として生きる事に悩み、真剣に考察と反駁を続けている。
 これで本当に良いのか。私の居る場所はここで良いのかと永久に問い、そして叫び続ける。
 私たちは羊の皮をかぶった狼なんかじゃ無い、牙を持った羊なんだと。
 私たちも人間なのだ、と。
 人はこういうだろう。
 そのうち、彼らも大人しく収束される日がくるだろう、と。
 共同体の成員としての義務を果たし、共同体からの恩恵を享受する。
 それは誉れだったり金銭だったり生き甲斐だったりする。
 いかんともしがたい現実を受け入れない限り、貴方は一人前にはなれない、と。
 当たり前の事だ。
 だがそして、その言葉にはなんの意味も無い。
 なぜなら、何者かに「収束」されるべきか否か、それが彼らの問題なのだから。
 たったひとつの価値観に彩られ、またそれによって葬られた共同体に、
 いかなる「主体」も見出せないのなら、その巨大で小さき世界に、彼らの生きる意味は、皆無なのだ。
 人とは。
 人とは、生まれただけで、それだけで人だ。
 人は二度生まれる、という人がかつていた。
 でも、そんなことはない。
 人は何度でも生まれる。生まれ変わる。
 世界を、もっと広く、もっと注意深く見てみ給え。
 目の前にある社会に、道徳律に、自分の鼓動を共鳴させたくばするがいい。
 だが、それに共鳴させることができないからといって、自らの鼓動を邪なものと聴くのはよすがいい。
 共鳴するものが現れるまで、貴方は貴方の笛を吹くがいい。
 吹いて吹いて、それが不協和音であっても、それが自分にとって耐えられなくなるまで吹くがいい。
 あり合わせの楽譜に沿わない音に、周囲の者は軽蔑の眼差しを手向けるであろう。
 貴方がもし、貴方の目の前に当然のようにあつらえられた楽譜に満ち足りているのなら、
 貴方はその汚らわしい不協和音をすぐに止めなさい。
 貴方がその楽譜を演奏しているうちには、貴方は楽譜通りに笛を吹く「義務」がある。
 不協和音は「罪」で、それはなんら進歩を促すもの足り得ない。
 だがしかし。
 貴方がもし、それとは違う楽譜を見つけたとしたら。
 或いは、今までの音符の羅列に、新たなる可能性を秘めた調べを付け加えることができたならば。
 それはもう、貴方の「音」だ。
 そして、その音を昇華して、ひとつの「音楽」を創り上げてご覧なさい。
 そうしたら、誰憚ることなく、盛大に不協和音を吹き鳴らしておやりなさい。
 それはもはや不協和音であって、不協和音ではない。
 周囲に響く音曲の中に、まったく別の音曲が誕生したのですから。
 元々その場で演奏していたものが、こういうでしょう。
 「ここは音楽が支配する世界。君がここで醜い音を出す資格はない。」
 貴方は、これにこう答えても宜しい。
 「私のこれも音楽なんだ。君のとはまったく違うけどネ♪」、と。
 古来、心ある人々と心ない人々は、それぞれ我が音楽を習熟させてきた。
 世界の大多数を占める、世界最大規模のオーケストラの確立に耽る人々。
 そして、そのオーケストラは一人で演奏するにはまったく向かない形態であることに気づいた人々。
 万人が唯一の音楽に共鳴するがゆえに、唯一の音楽があるわけではない。
 唯一の音楽があって然るべし、と思うがゆえに唯一の音楽は生成された。
 だからゆえに、その音楽はすべての人に共鳴されないかぎり、まったく中身は空っぽのままだ。
 今、どれほどこの巨大なオーケストラに聴き惚れている人がいようか。
 否。もうすでに、この音楽は死んでいる。
 かつては生きていた時代もあろうが、しかしもはやその命運は断たれたに等しい。
 さらに否。生きていた時代があったと、錯覚しているだけに過ぎない。
 なぜならば。
 その音楽の中心点が、まったくの虚であり、空であるからだ。
 そして、そこには個の思想がまったくないからだ。
 全体があって、全体の一員としての個があって、全体として死んでいく自分がいるだけ。
 本当に、そういったものの本質に気づくことなく、それでも一生を主体的に終えられる人も多かろう。
 そして、そういった人たちは、決して自分たちとは違う人たちを認めようとはしない。
 原理的に世界に唯一無二の存在であるはずの自分を動かすものは、
 これまた世界に唯一無二のモノである、ということを無視する。無視できてしまう。
 だが、世界をひとつのもので律することなど、決して出来はしないし出来てもいない。
 仮に、というより現に世界を覆うひとつに限りなく近い調べはある。
 だが、それは覆っているだけで、世界そのものではない。
 その覆っているものの下に、無数の音楽が犇めいているのだ。
 坂口安吾は、堕落しろ、といった。
 世界を覆う正しき純粋な領域から、世界の底に蠢く悪しき不純な領域への墜落。
 堕落しろ、堕落しろ。
 目の前に広がっている「当たり前」の世界から、転がり落ちよ。
 不協和音を吹き鳴らし、地獄への行軍歌(マーチ)を歌え。
 世界を覆う単一の「道徳」とやらの下で蠢く「悪徳」を享受せよ。
 私達はそこに「人間」を発見する。
 そして、私たち人間の生きる場所は、実はそこにしかない。
 物事を、すべて「自分」というものに還元しなくては、すべては無いに等しい。
 責任ある自由? 人倫? 人の世の定め?
 そんでもって、人としての証?
 そんなものは、在って無きが如くもの。
 在ると思えば在るし、無いと思えば無いし、在ると思っても無くて、無いと思っても在るときもある。
 その中で、自分が在ると考えたものに沿いながら、私たちは生きていく。
 堕落とは、自分の否定していることを生きよ、ということではない。
 自分以外が否定していることにも生きよ、ということだ。
 そして、それが本当に自分も否定すべき事なのか、を体得する。
 そこから、少なくとも「私」というものは始まるのだと思う。
 
 ・・・・。
 
 でもね。
 私はね、もっともっとも〜っと、おおらかでいいんだと思う。
 極端な話、すっごいマジメな話して、まっとう過ぎる説教なんかくれたりする人や、
 これが正いんだ! っていう押しつけに満ち満ちた人、こういう人たちはじゃあ否定されるべき人なのかと。
 それでね、前も書いたと思うけど色々なことに「未決定」な事柄を残していいんだと思う。
 「なにもしない、をしよう」って感じで。
 自分の考えた理屈を生き抜くって、そりゃー凄く美しいかもしれないけれど、
 でもネ、やっぱりそれって疲れるっていうか、嫌なんよ。
 純粋な怠け者としては(爆死)。
 だから、怠け者なら怠け者として徹底的に生きるとか、そういうのもジツはヤな訳で。
 マジメになったって良いっしょ。理不尽なことしたって、良いっしょ。
 私はそういう意味でね、いい加減精神っていうのが大好きなわけ。
 坂口安吾については、いずれ論じたいとは思う(95%くらいの率で忘れてると思う 死)けど、
 彼はそこらへんで、やっぱちょっとキッツイ方向行っちゃったんだよね。
 もちろん、上にガーっと書いた思考が基本的にはあると思うし、
 あるからこそ私はこうして生きていられるんだと思う。
 だけどさ、でもそのために生きてるわけじゃないんだよね。
 いや、少なくとも私はね。
 ほとんど、生きてるってことそのものには何も考えてやしない。
 当然、生きる意味、なんて言葉ほど私に無縁なものはなかったりする。
 でも、それでなんにも困らなく、その上結構楽しかったらそれで充分なんじゃん?
 幸福とかいうのは、そういうものなのじゃないかと思う。
 なにかでっかい幸福を得るために生きてるんじゃなくて、私たちはもう常に幸福を感じてて、
 そしてその小さい幸福を紡ぎながら生きてるのじゃないかなって。
 その小さな幸福の音色っていうのは、そしてやっぱり色んなところにおっこちてるんだ。
 そう。
 私たちが創り上げた音楽の、さらにその外側にその音色は響いているのかもしれないのです。
 幸福を感じるのは、こうこうこういう理屈の条件みたした「結果」としてある、というより、
 なんかいいな、と思えた瞬間それを適当に幸福って名付けただけなんですよね。
 話を飛躍させると共同体の中でその成員として受け取る幸福ってのは、前者なんです。
 つかまぁ、ここまで言っておいて両方ありなんですけど(死)。
 まぁ、どっちでもよいや。
 でね、ええとね、やっぱさ、色々なところで適当で寛容なんよ。
 人に優しく、自分に甘く、みたいな。
 そして、ふらふらとまったく別の事柄の間を踊りまくってるんです。
 ジツにいい加減に(笑)。
 でも、それで良いのだと思うし、また私がやりたい事なんだと思う。
 たぶん(爆)
 
 
 
 
 
 最後に。
 
 ひとつの音楽の中で、それとは異なる音楽を演奏し続ける強靱さとしなやかさ。
 そして、たっぷりの茶目っ気を貴方が持てるよう、私は心から応援申し上げる。
 この世界のすべての存在者に、この言葉を贈る。
 
 
 あー、なんでこんな文章書いてるんだろなー、私、と。 ←それは違う
 
 
 
 
 

 

 

 ■030717  TEXHNOLYZE : 12 について
 
 
 
 
 
 
 ちょっと、泣いちゃいました。
 
 単刀直入に言いますと、テクノライズの12話、録画し忘れちゃいました。
 ・・・・。
 
 (泣)。
 
 
 なんかもう、色々と状況説明しようとか思ってましたけれども、
 頭の中が涙で一杯で、そんなのできないやい。
 なんにもやる気無くなっちゃった ←ダメ人間
 ・・・出直してきます。人生を(ぉ)
 
 P.S: もしテクノライズの12話見ていらっしゃった方、
     ぜひBBSにあらすじと感想を書いていってください。
     お願い、お頼み申し上げます(土下座)。
     チャットで、観れなかった紅い瞳を小馬鹿にしながら自慢げに感想をお披露目してくださっても、
     一向に結構ですから。
     いや、むしろそうしてやってください(ぇ)。
 
 
 
 
 
 

 

 

 ■030715  アニメ日和 〜平静乱舞編〜
 
 
 
 
 
 
 そろそろ、夏だなぁと言っても差し支えない時候となって参りました。
 紅い瞳です。皆様、こんばんわ。
 
 さて、本日の日記で御座いますが、前回、といっても少し間が空いてしまいましたが、
 それの続きを書こうかと思います。
 前のお話では、アニメというものの私の受け取り方の一面をご説明申し上げました。
 本当は、このとき私が見ているアニメの小話でもしようかと思っていましたのですが、
 なぜか心境が変わってしまい、あのような始末になってしまいました。
 ですので今回は、そのアニメの小話などをお披露目させて頂こうか、とそう思っております。
 
 なんとな〜く、こういうのを書くのにためらいがあって、今まで書くに書けなかったんですけれど、
 このたび心境の変化がありまして、書く決心がつきました。
 心境変わりすぎですよね。ははは(乾いた笑い)
 
 それでは、私が最近観ているアニメのちょっとした感想、寸評、
 あるいは皆様にあてた作品の紹介文を独断と偏見に満ちた文章でお送り致します。
 かなり長うなってしまうと思いますが。
 
 
 でははじめにどのアニメのお話をしましょうかと、少々考えてみました結果、
 この作品のお話から始めようと思います。
 ◆「十二国記」◆
 素晴らしい構成力、そして確固とした人間像の捉え方で、
 その壮大な物語の土台を堅実に、そして雄大に支えている、まさに名作です。
 かなり人気のある、特に中高生から絶大な支持を得ている作品でもあります。
 私にしては珍しく(?)、その人気に異議を唱えません。充分その人気に耐えうる作品だと思います。
 なにしろ、作品の完成度、という点においては、
 現在放映されているアニメの中では1・2を争うほどの出来です。
 「深い」哲学の掘り下げはありません。
 主人公中嶋陽子が、自らの体験を元にして、自分だけの道筋を築いていくだけです。
 でもその築き上げられていく思想に根付く「実感」の重みは、千金に値する凄みと確実さを持っています。
 単純です。しかし、決して「短絡的ではないもの」が、そこには描かれています。
 なにも出来ない「平凡」という名の底辺に依拠していた女の子が、
 ある日突然、中華風なファンタジー的異世界に連れて行かれてしまう。
 そこで彼女は数々の艱難辛苦(今までの従順なだけだった彼女からしたら地獄)を乗り越え、
 そしてあるとき自分にはその世界の国のひとつの王の資格があることが判明して・・・。
 はっきりいって、紅い瞳が皆様に「オススメ」するアニメをひとつ挙げよ、と言われましたら、
 まずこの作品を挙げます。
 というか、学校などの教材にぜひ使ってください! NHKで放映されてるし!(ぉ)
 最後に、最近観たアニメで語られるセリフのうちで、
 最も「そうだよね!」と心から叫んだセリフを引用して終わります。
 『善意でなくても良かったんだ。あたしを助けてくれたことに変わりはない。
 裏切られたっていいんだ。
 私が相手を信じる事と、相手が私を裏切る事とはなんの関係もなかったんだ。
 そうだ。私はひとりだ。だから、私の事は私が決めるっ! 私は誰も優しくしてくれなくても、
 どんなに裏切られたって、誰も信じない卑怯者にはならないっ!
 世界も他人も関係ない! 私は優しくしたいからするんだ。信じたいから信じるんだ!』
 
 次のアニメのお話に移りましょう。
 ファンタジーつながり、ということで、この作品でいってみましょう。
 ◆「スクラップド・プリンセス」◆
 これ、最初観たときはなんとなくぼ〜っと観ていて、特に印象を持たなくて視聴を中断。
 ところが、少し経ってからなにげなしにチャンネルを回していたところ、再びこの作品に邂逅。
 今度は逃がさんぞと言ったかどうかは存じませんが、私の心に鬼気迫るなにかを発射してきまして。
 さっそく、そこから熱にうなされたように視聴を継続しております(確か7話くらいからでした)。
 とにかく、熱とは言いませんが、静かな暖かさに包まれるストーリーです。
 16歳になったら世界を滅ぼす者となると予言されたとある国の王女様パシフィカ。
 彼女は生まれてすぐに捨てられ(”廃棄王女=スクラップド・プリンセス”)、一組の夫婦に拾われる。
 そこで夫婦の娘ラクウェル、息子シャノンとともに健やかに育てられ、
 パシフィカ・ラクウェル・シャノンは旅に出て・・・。
 散々幸せのうちで育てられ、わがまま一杯で甘ったれで世間知らずに育ったパシフィカ。
 過酷な現実の中で、ただ「守られているだけ」の彼女。
 しかし、逆にその純真さは貴重で、そして希望なのです。
 誰のか?
 甘ったれなパシフィカを見て憤慨するしかできなかった人、以外のすべてにとってのです。
 どんな状況でも自分を見失わず、自分を探す必要がない。
 常に自分を生きている、とても素晴らしくも美しい女の子。
 彼女の周囲の人間が迷いに陥るとき、彼女は自分の頭で考えつつほがらかに笑顔の答えをだすんです。
 見ていて、実に清々しいのです。
 そう。彼女は脳天気でもないし、短絡的でもない。
 話が進むにつれ、廃棄王女の存在理由というものがわかってきて、
 またラクウェルとシャノンにも廃棄王女を守護するという役目が出てきて、複雑になっていきますが、
 私がすっかり感じ入ったのは、パシフィカの世界の見方です。
 廃棄王女として、世界を救うか滅ぼすかの力があって、そしてそれが差し迫ったものになってきて、
 でもそれでも家族の中で幸せに暮らした世界を知る「パシフィカ」のイメージを決して捨て去ることなく、
 しかしなおそれを維持しつつ現状の世界の事についても「廃棄王女」として、
 まっさらな解答を出していくんです。(第14話)
 見ていて、ある意味で感動致しました。
 ああ、これが人間なんだなぁ。どっちか一方を捨て去ることなんか出来ないよなぁと。
 そして、そういう「希望」という名の目的を達成するべく、ラクウェルとシャノンが動き回る。
 「絵」として、最高に美しいです。惚れ惚れします。
 惚れ惚れついでに言わせて頂きますと、この作品は「演技」面においてズバ抜けています。
 それは声優の声の演技もさることながら(特にパシフィカ役は凄い)、
 キャラの表情などの演出的な描き方にも深みというか、隠された神業を見る気が致しました。
 なにげに、隠れ名作だと紅い瞳は思いました(笑)。
 あと、OP、特にEDはもう・・・溶けます(笑)。
 あ、最後に。
 公式サイトのstoryの各話のところに、話ごとについてのコラムが載ってます。
 読んでて「おっ」って思ったり「え?」って思うところがあって、結構面白いです。
 文体は、昔私が使っていたような(最終兵器彼女の感想とかで)書き方を、
 そのまま進化させたようなカンジで、かなり勉強になりました。
 
 旅つながり、ということでは、この作品は外せないでしょう。
 もう終わった作品ですが、一応書いてみました。
 ◆「キノの旅」◆
 この作品は、「難易度」というオカシナ観点を用いて点数をつけるとしたら、最難関に値すると思います。
 私は結局ラスト数話しか観ていないからというのもありますが、
 しかし、それを差し引いても難解さは残ります。
 しかもその難解さは哲学的に作品の提出するテーマだけでなく、
 その他のいかなる心理描写においても、「安易」な感情移入はほぼ不可能というほどの徹底ぶり。
 それはなぜかと考えて見ますと、それはおそらくすべてが主人公キノに集約され、
 そしてキノ自身がなにものも語ることを拒否しているところに、その根拠があるようです。
 この物語は、主人公キノが喋るバイク・エルメスに乗って色々な国を旅するお話です。
 どの国も、とある「テーマ」によって法則化されています。
 つまり、とある国の住人にその人自身の「個性」はまったくの皆無で、
 あくまでその国の法則に沿って造られた人格があるだけ、なのです。
 不条理といえばまさにそうで、さらにそこでキノは心安まり心荒ぶる「不条理」な事件に遭遇するのです。
 でも、キノはそのたびにほとんどなにも言わない。
 ただじっと、見ているだけなのです。
 おそらく、これは私たち自身がキノにならなければならない、ということなのでしょう。
 キノが見ている世界、つまりキノ自身を一旦カッコに入れて鑑賞してみるんです。
 そうすると、そこにはお見事なほどに「童話」の世界が広がっています。
 童話の世界にモラルはない。
 そう。当たり前のことですが、童話というひとつの世界を、
 外の別の世界の法則(モラル)に当てはめて考えてみようとするから、混乱するのです。
 童話の世界には、童話の世界の法則を身にまとって入る必要がある。
 じゃないと、結局のところこの作品は「面白かった」「つまらなかった」という印象しか持てないと思います。
 それで、まぁ、私は「よくわからなかった」という結論しかでなかった訳なんですが・・・(笑)
 あー、小説版読みたいなー。
 
 さて、次はどの話にいきましょうか、と悩む間もなく、
 この作品の名前が筆頭に挙がりましたので、そのままいってみましょう。
 ◆「ウルトラマニアック」◆
 クールでカッコイイ女の子・亜由と、ボケボケでのんびり屋の女の子で、
 でも実は魔法王国から留学してきた魔女っ娘の仁菜が織りなす、
 ハチャメチャ、というより滅茶苦茶な学園ラブストーリー。
 この作品、素直に面白いと思いました。
 具体的にどこがと言われると、なかなか難しいものがあります。
 全体的な雰囲気、あの落ち込んだ時とかに見るとなんだか異様に(?)元気づけられてしまうテンション。
 毎回ヘンな事件やヘンな人物が達が入れ替わり立ち替わり現れては、ひと騒動起こして、
 それでなんだか水戸黄門の印籠のノリみたいに、失敗まみれ(!)の魔法で一挙解決。
 よく考えたら、全部自分たちがやらかした失敗事のフォローだったり、些細な人助けだったり、
 魔法魔法言っている割には、全然スケールの大きさを感じなくて、非常に小さくまとまっちゃっている。
 でも、逆にそのあたりが私に良い印象を与えてくれたのかもしれません。
 非常に生活に密着している、という意味に親近感が沸くんですよね。
 それにやっぱり、女の子達が可愛いっていうのもあるでしょう。
 あんまり心理的内面描写とかはないけれど(というかほとんど)、でもその反面、
 ビジュアル的な部分でそれを表現しているような気がします。
 といっても、別にキメの細かいほどの表情の演出などがあるわけではありません。
 例えるならば、能の仮面です。
 つまり、彼女たちの可愛い笑顔や、怒った顔や、泣いている顔、
 そういったものが綺麗に記号化されているんだと思います。
 複雑な心理描写を、単純な感情を表す面で表している、ということです。
 もっと簡単に言ってしまうと、ビジュアルで全部OKっていうことなんでしょう、私的に(爆)。
 
 ビジュアル、という点においてはもっとも世評が高いのではないでしょうか。
 特に、そのスジの方々には(爆)
 ◆「ガンダムSEED」◆
 正直に申し上げまして、私はガンダムというものに偏見を持っていました。
 それはまさに謂われ無きもので、なんの根拠もないものです。
 ソフトな言い方に代えれば、食わず嫌いだったのです。
 しかし、食べてビックリ。
 意外に美味しいでは御座いませんか。
 とはいえ、この作品も前半はほとんど見ていないので、やや応用の利かない嫌いがありますが、
 しかし局部的観たものをかき集めて、ひとつの私としての感想は持つことが出来ました。
 この作品は戦争を描いた作品です。
 けれども、戦争の「リアリティ」を追求するというものではなく、
 むしろ「どうやったら戦争を止められるか」という理念的なものが掲げられたものなのです。
 ですから、戦争における細部に渡る描写にはやや迫力に欠けるところがあります。
 が、フレイの父親が撃墜されたときの民間人としてのフレイの絶望ぶりの描き方は非常に圧巻でしたし、
 親友同士であったキラとアスランが互いの友を殺された事によって戦うくだりなど、
 実に戦争というものが生み出す「負」の遺産の描写に優れているところだと思います。
 つまり。
 この作品において、物語の「主人公」は常に弱者であり、戦争の被害者なのであるということです。
 そしてその被害者たる自分が、だんだんと自分の生きる「空間」であるところの社会の要請によって、
 加害者たる戦争当事者へとなっていってしまうのです。
 キラしかり、フレイしかり、そしてアスランもまた然り。
 さらにいえば、真からの加害者など存在しないのです。
 皆、戦争自体が目的ではないからです。
 なんらかの欲望のために、なんらかの強迫のために、なんらかの要請のために戦争を行い参加する。
 その結果、人は加害者となっていくのです。
 ならば、戦争を止めたいという欲望が強迫が要請が、戦争を止めることも出来る。
 人々の中に「終戦」の二文字が芽生えれば、これ以上の加害者も被害者も生み出さない。
 戦いそのものを止めることは出来ない。
 なぜなら、戦いは目的のための手段でしかないのだから。
 友を殺され、友の復讐のために戦争をする人もいるのです。
 だから、戦争を止めるには友の復讐をしたいと云う欲望を、なにものかに変換しなければならない。
 そしてそうするためには、どうしなければいけないのか。
 それはまず、今現在自分が囚われている「状況」から脱却することです。
 キラの場合で言うならば、トールの死の受容、そしていわゆる軍組織という「社会」からの脱出です。
 キラの駆るガンダム「フリーダム」の名前宜しく、まさに自由の獲得。
 そういった一連のキラの行動、これはまさしく「戦争を終わらせたい」という欲望を、
 素直に叶えられる事が出来る唯一無二の「自己」の確立に他なりません。
 SEEDは、自分探しの物語とも言えるでしょう。簡単に言うと。
 
 そろそろ書き疲れてきましたので、
 割と簡略にいってみようと思います。
 ◆「エアマスター」◆
 もはや解説不能、と最初からさじを投げてもバチは当たりません、
 と大見得きっても、なんら恥じることが無くて済んでしまいそうな作品です(意味不明)。
 簡単なストーリーは、新体操選手崩れの女子高生がストリートファイトして回る、
 という、ほんと簡略化したらこれで全部説明したことになっちゃうから、この作品は恐ろしい。
 基本的にギャグモノです。
 みぞおちあたりに笑いのツボがある人より、心臓近辺になにかこみ上げるモノがある人向きのギャグです。
 私はですから、毎週火曜日の深夜は爆笑しております(爆)。
 よく、「考えるな、感じろ!」というフレーズを聴きますが、
 エアマスターには、感じる必要すらないです。ほっといても笑えますから。というか、笑え(命令形)。
 とにかく、バトルあり笑いあり笑いあり、そして笑いあり。思い出したようにバトルあり。
 作者の呼吸と言いますのでしょうか、ほんとに笑いながらこの人は生きてるだなぁ、
 とそこはかとなく羨ましく思ってしまいます。
 っって、ほんとに説明不要でしたネ。
 最後に、キーワードを。
 「サキヤマカオリ」。これです。これは忘れてはなりません。最高神ですから(なんのこっちゃ)。
 
 まぁ、やっぱりこの作品についてもちょっぴり書いておかなければいけないなぁ、と思います。
 当サイトでもおなじみのアニメです。
 ◆「TEXHNOLYZE」◆
 毎週番組の感想を日記で書いているので、あまり詳しいことは書きません。
 ストーリーは無いに等しいほど、ある意味で無定型です。
 暴力の満ちあふれた街で、人々が現実を生き来るべき未来を待っている、
 そんな様子を延々とつづっただけ、とも言える作品です。
 でも、そうであるゆえに、この作品はあらゆる視聴者の視線に耐えられる柔軟性と奥深さ、
 それらをじっくりと蓄えた、いわば名作を越えた傑作の域に達しているのです。
 ちなみに、今期のアニメ作品の中で、もっとも私が高い評価を与えている作品です。
 ただし、万人にオススメできる、とは口が裂けてもいえる代物ではございません。
 おそらく、このような作品に素晴らしさを見出せない人は多いと思われます。
 ですから、そういう意味では、面白いという保証はできません。
 しかし、冒険するつもりでなら観てみたい、と言う人には大変なイキオイでオススメ致します。
 貴方も、お一ついかがですか?
 
 うー、やっと最後ー。
 これで寝られるぞ〜(マテ)
 ◆「なるたる 〜骸なる星・珠たる子〜」◆
 健康的というより、健やかに生きている女の子が、
 さらに素朴に純真に天真爛漫に生きた結果、ちょっぴりだけ不思議な出来事にに出会っちゃった、
 そういうお話です(第一話を見る限り)。
 最初にみたとき、これだ!、と思いました。夏のアニメは、と。
 子供っぽい子供、といったら語弊がありましょうが、
 しかし、余計な羞恥心やら見栄やらそういうものをカラリと脱ぎ捨てている子が描かれているのを見て、
 それ以上の表現が浮かばない自分の語彙のなさが情けないですが仕方ないので。
 ともかく、とても懐かしい気持ちに浸らせてくれると同時に、
 制作者の妙技にもため息をついたりしてしまうのです。
 まだまだ第一話ということで、物語がどうなっていくのかはわかりません。
 私は、主人公の女の子の独自性が、徹底的に描かれ尽くすことを願います。
 もちろん、そうではないパターンであるほうに1.5倍ほど期待しておりますけれど(笑)
 
 
 
 うーわー、ようやく終わったよぅ。
 もうなにもしたくないよぅ。
 ていうか、寝ます(ばたり)
 
 
 
 
 
 ・・・寝る前に、明日今書いた日記を読み返す時の覚悟を決めておかねば(おい)
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 ■030711  アニメ日和
 
 
 
 
 
 
 なんつーか、もう。
 
 ここ最近日記を書くということに快感と依存性を感じなくなってしまっており、
 誰も「禁日記」なんか目指してないのになんでやねん、てなことを思うことしばしばで、
 やめたくないことはやめてしまい、やめたいことはやめられないという地獄ぶりを発揮し、
 しかし、そんな人間の性(サガ)に哀愁を感じつつ責任を押しつけることによって、
 堂々としばらくの間日記サボりライフを満喫していたわけで、
 こんなくだらない自己正当化に励んでいるあたり、紅い瞳の底が知れるようでもあるけれど、
 特にその事自体には、私自身は不満を持ってはおらず、
 日々鬱々としていると見せかけて、嬉々としてサボり人生に前向きに生くるのである。
 
 こうやって、ヒトは堕落していくので御座います ←お前だけだろ
 
 さて。
 うぉーみんぐあっぷはこれくらいにしておきまして。
 今日はアニメのお話なぞ、してみましょうかと。
 アニメですよ、そこの紳士淑女の皆様がた。
 あらアニメだなんてお子ちゃまねとかオタクちっくでキモいとかそういう感慨を抱く未熟さは疾うに突破し、
 日々是れアニメなり、の精神を謳歌し始めてはや幾星霜。
 「アニメを鑑賞する」という事柄そのものについて、そして或いはそれを基盤としつつ尚それ以外の
 事に派生しうる事柄についての私の見識及び態度の成長ぶりには目を覆う見張るばかり。
 カンタンに言っちゃえば、アニメは私に多くのものを教えてくれました、まる、って感じです。
 実際。
 アニメだろうがドラマだろうが映画だろうがスポーツだろうが学問だろうが恋愛だろうが。
 そういった勉強精神(ってのが適切な表現かと)を抱くことが出来る、という点に関しては皆同じ。
 アニメなんぞ低レベルなどと宣われる高貴なる方々のお戯れ事(ほんと戯れですネ)にも耳を傾けつつ、
 しかしそれは違うでしょと言う真摯なる反発をも兼ね備えた出発点から、
 既に反発という次元が意味がないもの、というよりむしろそれ自体がアニメが内包するものへの冒涜だ、
 そういう事に気づいたんです。
 アニメはアニメっしょ。そもそも他のものと比較するってことはヘンなわけで。
 アニメはアニメとして鑑賞・評価すれば良いわけで、アニメは素晴らしい=アニメが一番なんて図式が
 なりたたないのと同義で、アニメの価値それ自体は相対的であるわけはないんです。
 というか、つまり、素直にアニメを楽しんでりゃいいんです。
 いや、別にそれは後ろ向きなことじゃなく、いわゆる政治性というか一般性とかいう呪縛から、
 アニメを解放せよということ。まぁ、それはアニメだけのことじゃないけれど。
 
 で。
 まぁ、「素直」っていうキーワードが出てきましたが。私の脳内に。
 これは、人様の言うことに従順に従うとか、ソッチの意味じゃないですよ。
 いや、ある意味でそうかもしれないけれど、自分の心に従順であれ、ということです。素直ってのは。
 自分が良いと思ったモノならば、それの「世間的」意味を考えるのじゃなく、
 まず自分はそれからなにを感じ取ったのか、そういうのを第一に持ってくるのです。
 それと、このときにもうひとつ言えることがあります。
 つか、その境地に至れるようになったのはネット始めてからなんですが。
 ええと。なにかって言いますと、自分の中にある「たったひとつ」の価値観だけで、
 物事に美醜の差を設けないようにすること。あくまで、自然体で。
 どういうことかって言うと、私の場合を例に取り上げてみますと、私はアニメが好きなのですが、
 とりわけ思想的というか哲学的なアニメが好きなんです。
 というよりは、「そういう風な見地で見やすいアニメ」ってことなんですが、たとえば最近で言うと、
 「テクノライズ」がその王道です。
 私がアニメに興味を抱き始めたのも、そういうアニメからですし、さらにいうとそういうアニメにこそ、
 アニメとしての価値或いは「美」を感じていたのです。
 ですから、私のアニメの鑑賞基準は如何に思索的であるか(或いは思索できる余地を充分に残して
 いるかどうか)という事にのみあったのです。
 
 ところが。
 そういうアニメの評価基準においては、まったくレベルの低いものであるにも関わらず、
 どうしようもなく「面白い」作品というのが色々でてきたのです。
 まぁ、当然なんでしょうけどね。
 逆に言えば、今までそういう作品をさかしらに無視していただけ。
 私の中に一定の価値基準があっても、それはそれでよいのだけれど、
 それだけだと楽しいのに楽しめない、という不可思議な現象が生じてくるわけです。
 だってさ、「エアマスター」なんかをテクノライズを鑑賞してる時の「瞳」でみたら、
 それこそ正視できないはず。
 でも、エアマスターの素晴らしさは、経験によって熟知してる。
 つまり、こういうことっすね。経験は法則に先立つと。帰納法って感じ?
 ま、そんな嘘くさい話はどうでもよくて、実際楽しみ方にレパートリーを増やせば良いわけ。
 エアマスターみてガハハーっと笑ったその笑いは、決して不謹慎じゃない。
 或いは、極端な話、アニメの美少女や美少年に恋しちゃったって良い訳。私はしてないけど。
 萌えって言葉があるけれど、それを批判するヘンな人達もいるけど(ほんとヘンな事言ってると思う)、
 萌えって感覚、それはそれでいいと思う。
 逆に素晴らしい事だと思うよ。
 なのに、二次元の人間に入れ込むなんて不健全とか、なんとか言う。
 そういう発想の方が不健全だと思う。むしろ貧しい。
 だから、本人がそれが良いと思うならそれは良いモノな訳だし。
 まぁ、そういうのを否定したいという評価基準もアリな訳だけれども。
 でも、それが世間的にみて奇異な事だからと言って排除するっていうのは、差別に他ならない。
 世界は美しいんです。
 あらゆるところに「美」は満ち満ちているんです。
 道ばたの吹きだまりでゴミ袋が風に弄ばれる様をみて、
 美しさを感じても良いんです!(「アメリカン・ビューティ−」みたく)
 
 って、私は一体なんの話をしているのだ。
 
 確か、今日は最近観ているアニメの感想をちょっぴり書いちゃおうかな☆、
 って非常に軽いノリで書き始めたつもりだったような気がするんだけれども。
 どういうことカナー? ←小首をかしげながら
 
 
 
 
 

 

 

 ■030707  TEXHNOLYZE : 11
 
 
 
 
 
 
 仮面の意味が、わかりました。
 
 大西は前回重傷を負ったのですが、どうやら死ぬほどではなかったようで、
 のほほんとベッドで今後を見据えた余生を送っているようです。
 で、櫟士は櫟士で浮遊してます。
 大西という居場所を失ってしまったカレ。
 たぶん、あそこが賭けボクシングをしていて、テクノライズされた以降のカレの居場所だったはず。
 それを唐突な出来事、で失ってしまったがゆえの放浪。
 結果カレのカレたる純真で神秘的な暴虐性に満ちたベールは脱がされ、
 素肌と素顔を晒した、なにもわからない純朴で未熟で、そして可能性に満ちあふれた、
 出発点に立つカレのスガタが現れました。
 櫟士は、櫟士に戻ったのです。
 おそらく、賭けボクシングをしながら、それを誇りとも当然とも思わずただそれしか選択肢が無いから
 現在そこに身をおいている、そこであがいていることが存在理由だったあの頃に。
 でも、戻ってきた場所は同じようでいて、同じではないのです。
 
 自らの肉体をテクノライズされ、その衝撃のままに身と心を委ねてきたこれまでのお話。
 多くのモノを傷つけ、虐げ、そして傷つけられ、虐げられてもきた。
 そこでは、カレはカレ自身の世界を持たず、「自我」も持たず、
 ただひたすら与えられた世界を生きていた。
 いや、生きてさえもいなかったのかもしれません。
 ただ本能の為すがままに。ただ、されるがままに。
 それは生きることとしての無為ではなく、自覚無き無為でしかなかったのです。
 其処に、自分のいない世界。
 なぜ自分がそこに立っているかもわからず、なぜ殴るかもわからず、なぜ吠えるのかもわからない。
 いいえ。
 誰にも本当はそんなことはわからない。
 けれども、わからないのならわかったつもりになって、皆なにかをしているのです。
 それが、自覚するということ。
 正解でないことを確信しながら、何者かの答えを出して進んでいく。
 櫟士には、それが無かったのです。
 無いからこそ、ハタからみてカレの行動原理は不明に見えたのです。
 少なくとも、私の濁った瞳にはそのように映りました。
 
 櫟士は、なにもわからないから殴っていた。
 そのことに気づいたのですね、おそらく。
 自分が今まで何者も「嘘の果実」たる世界を創って来なかったことに。
 俺はどうすれば良い? という問いはつまり、どう嘘の世界を築き上げれば良い? というコトです。
 真実無き世では、嘘が真実。
 嘘を受容することにより、櫟士は自分の未熟という名のスタート地点に立てたことに気づいたのでしょう。
 なにも、自分がわからないってことにも。
 逆に言えば、この先自分がどうすれば良いか、ということに興味を持ちだしたのでもある。
 
 そして、その先に櫟士が見ていたモノがわかるはずの蘭が、今此処にいる運命。
 思わず、カレは訊いてしまうのです。
 「お前には、わかるんじゃないか?」
 蘭、答へて曰く。
 「私には見えるけど、視たくない。・・・・もう、なにも、みたくない・・。」
 瞳を引きつらせる、櫟士。
 
 世界の未来が見える蘭。
 カノジョがみた未来は、必ずしも可能性のひとつにしか過ぎず、
 別の未来に世界が遭遇する可能性は充分残されています。
 にも関わらず。
 あまりに、世界は蘭の「視た」世界そのままに、その未来を迎えている。
 蘭が創り出した、たったひとつの可能性でしかないハズの世界にしかなれない、この世界。
 自らが往くべき、世界の探求。そして、創造。
 世界は探しつつ、ジツはヒトビトが創り上げて往くモノ。
 その先に未来がある。
 だからこそ、未来は残酷でも美しいのに。
 なのに、誰も世界を創ろうとはしない。
 
 「・・・なにも・・なにも、変わらない・・・」 by 蘭
 
 自分の世界と未来を創るのに、他人(ヒト)の瞳を借りてはいけない。
 そんなことをしたら、またなにも変わらない、醜い未来ができてしまう。
 カノジョはカレにそう言いたかったのだと、思います。
 そして、蘭はだから仮面をつけるのです。
 自分を世界から隠すのじゃなく、世界を自分から隠すために。
 変わらない未来なんて、もうみたくない。
 蘭が仮面をつけたとき、世界はまたひとつ貧しくなる。
 決まり切った未来しか、残されていないのですから。
 蘭の仮面の意味。そんなところなのでしょうか。
 
 というか、そういう風に意味を限定してみると、そういう辻褄の符合が発生するわけで。
 とりあえず、そう視たんだから良いの。
 良いって言え! ←誰に言ってる誰に
 
 
 ・・・。
 なにはともあれ、テクノライズって良いね♪
 
 
 
 
 

 

 

 ■030703  10000回転の証
 
 
 
 
 
 
 冗談ではないんですね?
 夢ではないんですね?
 そうです。
 別に0から10000にイキナリなった訳じゃあないんです。
 じっくりコトコト時間をかけて、ようやく得た数字なのです。
 10000ヒット。嬉しいです。純粋に。
 私がなによりもだれよりもアレよりも嬉しいのです。喜んでいるのです。
 いや、だって。
 目標でしたから。
 目標でしたんです。一万ヒットに到達するのが。
 てかね、一種の夢と言いますか。
 あーあーあー。ちっちゃい夢だなおい、なんて言わないでください。
 いいんです。ちっちゃくても大事な事なんです。
 自分がね、目標としてた数字を取れたんですよ。
 今まで0点だったのが、100点取れるようになったのと同じ事です。
 同じ事なんです。反論不可。
 で。
 そうなんですよ。
 ええ、頭の中あんまりマトモじゃない状態です、今。
 なにをどう思う様に書いて差し上げようかと頭をひねりつつ1回転半してみても、
 特に面白いことが浮かんでこないという試練。
 つまり、紅い瞳は嬉しいことに遭遇するとまるでダメになる法則。
 なんてことはこの際永遠にどうでもよろしい。
 いいですか?
 これは記念すべきことです。記念です。キネン。
 というか、強引に記念化させます。
 この嬉しさを表現するために、自らを鼓舞してなんとかしてみる。
 いいじゃないですか、わざとらしくて。
 素直に粛々とさりげなくお祝いだなんて、そんなの嫌。
 そんなのは私が許しても私が許しません。
 もう、不自然なくらいに叫んで、不自然なくらいに狂って、
 不自然なくらいに泡ふいて、不自然なくらいにこの日の事を忘れてしまう。
 おー、これで生きましょう。
 工房っ子は、宵越しのお祝い事はしないんです。
 嘘です。
 今日もお祝い明日もお祝い忘れるまでお祝い。この精神です。
 毎日お祝いやってたら、お祝いのありがたみがなくなっちゃうんじゃない?っていう、
 素朴な疑問もありかと思われますけれども、このたびは却下。
 しばらく、お祝いムードで逝ってみます。ええ。
 
 まぁ、少し落ち着きなさい、紅い瞳。
 なにを言いたいのか、私はよくわかってるから。うんうん。
 ほんとに嬉しいんでしょ? 堪らないくらいに。
 しかも嬉しいっていったって、たんに数字が5ケタになった景観に酔ってる訳じゃないんでしょ?
 わかってるよ。
 みんなと一緒にここまで来れたのが嬉しいんでしょ?
 自分も閉鎖せずにサボりながらでも、ここまで更新し続けられたことが嬉しいんでしょ?
 ほんとはこんなにサイトが続くとも、人が来てくれるとも思ってなくて、驚いてもいるんでしょ?
 複雑、なのかな?
 いやー、それは単純っていうんだよ。
 やっぱり方向としては嬉しがってるんだから。
 その驚きを自分のモノにしないまま、大事に抱えてこれからもサイトを楽しめれば、さ。
 それで良いんじゃないの?
 つまりね。
 ここでヘンに悟って、10000ヒットを獲得したサイト管理人の責任とか自覚とかさ、
 そういうのを抱かないで、今まで通りにフニャフニャでいこうって、感じで。
 まぁそんなこと心配するまでもないことだけどね。
 よーするにさ、1万ヒットはあって無きが如しってことさ。
 5ケタに到達した。その事実をどれだけ大いに喜ばしく受け入れようとも、
 でもそれは一瞬だけのこと。
 どうしてもね、気負っちゃうんですよ、実は。ほっとくと。マジで。これでも。
 たかが1万ヒット。世の中の巨大サイトのヒット数に比べたら、井の中の蛙の細胞のひとつみたいなもん。
 でもね、紅い瞳にとっては、なかなかしんどいほど大きいものなの。
 というか、大げさに考えてしまうだけのことなんだけどね。
 大げさなんです。
 ただ、その大げさ加減の極致に、今達している訳です。
 そこはかとなく、緊張してる訳です。
 もしかしてあれ? 10000記念になんかせなあかんの? とかみたいな。
 自意識過剰も良いところです。
 私になにか期待する人などいるはずが御座いません。
 ボケすら期待されてる気配がなく、放置プレイが慣習なのですから。
 すっごく気にいってますけど、こういう環境。
 そこ、M言うな。M違う。
 自分勝手に自由気ままにやらせて頂いてるという事です。
 あ、でもさ。そう思うのっておかしいはずだよね?
 だってそもそもサイトなんていうのは、自分勝手自由気ままにやれるものなんだからさ。
 やらせていただいてるなんて感慨、フツーはおかしいわけで。
 でもねー、なんかいいんだよねー、そういう感慨。
 本来的な事としては不適当なことなのに、なんだかそういうことって無性にしたくなると言うか。
 とりあえず、誰かに感謝してみたいっていうか。
 あ、いやいや! 別に礼を失するのが目的のこの発言とちゃいますで。
 ただ、本質的なことを言っただけでして。
 つまりね。サイトはね、自分の思うところをなんのしがらみもなく、
 それこそ自由に言えるモノ。
 少なくとも私は自分のサイトをそう意識して運営してます。他の人は他の人。
 だからね、それこそくっだらないことばっかり書いたり描いたりして、
 だーれも来なくたって、それはそれで憤慨することでもない訳で。勝手にやってるだけなんだから。
 別に見て貰うためにやってるわけでもないしね。
 もちろん、本音は違うよ? 見て欲しいに決まってるから色々書くんじゃないのさ。
 でも、そんなこと普通に言ったら、次にどうなると思う?
 自分の書いたものを人様に見て頂く、見て頂くために書いている、ということになっちゃうじゃん?
 それはさー、なんか違うわけで。
 まーね、理屈ですよ。でも理屈故に、理屈はリクツで処理しなければならないわけで。
 だからね、とりあえず誰も見てくれなくても良いのさ! などと声高らかに宣言するわけ。 
 ま、そういう小細工を弄さないと得られない自由もあるからね。
 とかいって、相当しがらみに囚われてるんだけなんだけどね、これでも。特に日記とか。
 まだまだいけるんすよ、ほんとは。
 
 でね。
 そういう小細工を軽やかにキメて、ソフトにエレガントにフリーダムなサイト方針でやってきて、
 もちろんその程度の児戯を演じるのに疲れるわけはないよ。
 でもね、なんかさ、こう、やっぱりほっとするわけじゃない。
 10000ヒットしちゃったんだからさ。
 本音をぽろりとさかしらに自慢げに見せびらかしてみたくなるでしょ。
 だってさ、壱万ひっともしちゃったんだからさ。
 ええい、まわりくどい。
 要するにさ、みんなウチで遊んでくれてどうもアリガト、ってことなんよ。
 ん? だからさ。
 見たくない人は別にこんなサイト来なくても良いし、
 別に誰も来なくたって私は元気です、みたいなこと言ってるのに(実際はあんま言ってないケド)、
 なんだか知らないけれど、私の本音たんが期待してやまない事態、
 つまり日記を読んでくれる人がいて(BBS・チャットではあんまり、というか意識的に日記話題が
 避けられてる気もしますが、メールとかでたまに感想頂いたりしてまス 笑)、
 BBSやチャットで「居心地良い」といって遊んでいってくださる人たちが居て、
 なんかもう、素でとまどっちゃうような信じられないような嬉しすぎる事態なんですよね。
 ああ、こうしてみるとウブですね、私って。初心と書いてウブと読むくらいに(普通)。
 愛されることに慣れてない子って感じで、いいじゃん(誰が愛すか)
 うあ、阿呆クサ。
 そんなん、どうでもよろしい。
 つまりね、要するにさ、みんなウチで遊んでくれてどうもアリガト、ってことなんよ(それはさっき言った)。
 うがー、そろそろ書くのめんどくさくなってきたから、そこらへんはもう、察しなさい。
 それが日本人の美徳です。断固美徳です。そういうことにしておいてください。
 
 私はみなさんに、心より感謝の言葉を申し上げる!
 
 いつも魔術師の工房に来てくださって、ありがとう御座います。
 
 そんなわけです。
 わけわからんですか?
 そうですか。そうですね。そうですよね。
 
 ・・・・。
 まぁ、そこらへんは適当に。
 
 それでは、これからもよろしくお願い致します♪
 
 
 
 
 

 

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