〜2004年1月の過去ログ〜

 

-- 040130 --                    

 

         
     

 

■■少女の爛れた死■■

     
 

 

 
 
 『ラウーロさんも一緒なら、エルザも寂しくありませんよ。』
 

                           〜第十話のヘンリエッタのセリフより〜

 
 
 薄暗く明けた空が、あてもなく頭上を旋回している。
 静寂の中身を腐食させたその暁が、闇の帳を振り払う。
 温もりの木霊する夜の果てに広がる、終焉の朝。
 遠くて近い頭上から降り注ぐ終わりを与えられ、
 少女のその閉じ切られた瞳に映る虚空は、どこまでも白く爛れていった。
 
 
 -- エルザが死にました。フラテッロと共に。 --
 
 黒い木立の狭間を縫いながら、少女達は決める。
 エルザはラウーロさんを守って死んだ。
 それで、お終い。
 消えた少女の蒼い影を推す事無く、その消滅の在り方に一抹の憧れを抱く。
 その死への憧れという名の哀悼。
 ああ、私もそうなれればいいなぁ。
 星の下で泣いていた少女はそれで完結する。
 見えない少女は言葉巧みに葬別をこなす。
 風を燃やす少女はただ未だ歩いている。
 すべての少女が、それぞれの死の上を通過していく。
 主人のために死ねて幸せ。
 他に語る言葉は無し。
 『ジャンさんがそういうなら、そうなのでしょう。』
 
 
 ・・・・・・
 
 消えた未来。
 閉じ込められた夜の縁で、鮮血の光をその空のうちに初めて見た少女。
 星の一筋すら瞬かない漆黒に、ようやく温もりの実存を了解したエルザ。
 固まり切った自らの体に、隙間風が染み込んでいく。
 生まれて初めて夜の中に溶け出す体温に怯えながらも、
 震えながらその肌触りを噛みしめていく。
 生涯で只一度の死の感触。
  そして、その瞳はどうしようも無い涙の幻で再び固く結ばれる。
 いかなる道も残されていない末路。
 嗚呼、撃ってしまった・・・・。
 撃ってはいけないものを撃ち出してしまった。
 無いはずの涙を、この銃で・・・。
 嗚呼・・嗚呼・・・・嗚呼・・。
 この死は、限りなく穢れてしまった。
 
 
 蒼い影に飲み込まれた少女は、真の無能となった。
 無能な少女に居場所は無く、エルザの生きる動機は失われた。
 冷酷に懐かしさすら覚えていた少女でも、その蒼い影に抗す術は無かった。
 何も、無い。
 鋭く我が身に斬りつける影の復讐に、少女のその身は削られていく。
 その硬度と姿形を保ったまま、永遠に切り裂かれていく。
 前後左右すべての空間が激しく崩壊を始め、その冷たくて暖かい夜の色さえ塗り替えられていく。
 この夜が終わったとき、私も終わるのね。
 絶望のゆりかごの中で切り刻まれながら、それでも瞳を見開いて影を見つめる。
 まだだ。まだだ。まだなんだ。
 蒼い影の浸食で悉くが灰燼と帰した部屋の真ん中で、エルザは独り言を唱えている。
 ありきたりで少女に従順であった影の壁が、ボロボロと音を立てながら消えていく中で、
 エルザはただ座して、その前方のみを見据えている。
 最早その空間すら無くなった世界で、蒼い影に飲み込まれた少女は待っていた。
 それでもまだ、フラテッロの役に立てる事を願いながら。
 そしてようやく少女は、フラテッロを殺すためにその崩れ往く部屋から出ていった。
 
 もう、駄目なのよ。
 少女は薄く呟く。
 残影の染み出したその掌に銃を携えながら、その銃口をフラテッロに向ける。
 原初より叶わぬ願いを空の代わりに頭上に掲げて、ただ前のみを見つめて歩いた辛苦。
 その辛苦を快楽に変えて生き延びた罪を、断罪するときがきた。
 すべてをわかっていながら、それを敢えて無視して生き抜いた無謀。
 その果てに見たはずの希望さえ無くして、なにもかもを自らが閉ざした愚。
 嗚呼・・もう・・・ただ悲しい・・。
 なにも出来ていない事をわかっていたから、ただなにかが出来るようになりたかっただけなのに。
 たった、たったそれだけのことだったのに。
 エルザが笑う。
 涙を流す代わりに、生まれて初めて笑った。
 笑って笑って笑い抜いて、そして涙が出ない事に気が付いてしまう。
 なんで涙が出ないのよ・・・なんで・・・なんでよっ・・・!
 渇いた泣き顔で夜空に叫んでみても、ただ虚しい銃声が空を引き裂いただけだった。
 嘘みたいに薄弱な弧を描いて、ラウーロさんは倒れた。
 こうするしかなかった。
 そして、こうするしか無くしてしまったのは、私。
 ラウーロさんの馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿。
 愛するほどに殺したかっただけなのに。
 なんでラウーロさんはそんなにつまらない倒れ方しかしてくれないの?
 もっと激しく、もっと美しく、もっと優しく微笑みながら倒れて欲しかったのに。
 少女の影の範疇に溶け込むことなく、その虚ろな兄の幻影は掻き消えた。
 まったくの無駄な死。
 少女は最後にまたしても無能を晒し、そして天涯孤独となった。
 だからもう、駄目なのよ。
 すべてが不可能と化した少女の心と体が、けたたましく少女を嘲笑する。
 蒼い影の浸食の完成。
 もはや少女の居場所は、その自らの存在の中にも無くなった。
 さようなら。
 涙を流そうとして、そして涙が無い事を知りつつ泣きながらその深い呼吸と共にその引き金を引いた。
 嗚呼・・また最後に嘘を・・・。
 
 
 幸福の中に不幸せを詰め込み、少女の醜く美しい亡骸はそれに相応しい虚空へと吸い込まれていった。
 
 
 ◆◆◆◆
 
 エルザの死。
 愛するラウーロを殺しての死。
 それはとてつもなく甚大な衝撃を含んで、私の目の前に登場した。
 見知らぬ朝靄の内に広がる血溜まりの中で、ただ呆然と倒れたまま死んでいるエルザの存在。
 それはあまりにも強烈なイメージを私に示してみせた。
 醜くも美しい、その死の姿。
 そしてその死の意味。
 それは耐え難くも、それでいてはっきりとした定型を持って語られていた。
 なにもかもが不可能であると、そうとしか思えなくなった完全なる絶望に飲まれたエルザは、
 自分の今までのすべてを注いできた対象であるラウーロを道連れに死ぬ。
 けれどエルザは、最後の最後まで諦めてはいなかった。
 絶望してはいた。
 今まで、本当はなにをしてもそれはラウーロさんには認めて貰えないし、
 また自分を愛してくれる事には繋がらない、と頭ではわかっていても、
 でもそうわかっていても、でもどこかでもしかしたらうまくいくかもしれないという希望を抱いていたエルザ。
 だが前回の話において、エルザのその希望が前面にでてきてしまったことで現実と齟齬をきたし、
 そのゆえにエルザは絶対的な絶望を招いてしまった。
 だからなにをしてももうすべて無駄だ、と、実感の上でわかりきってもいた。
 しかし、エルザはその絶対的な絶望を抱きながらも尚、希望を抱く。
 ただし、その希望は理屈の上でも、そして実感の上からも存在根拠の無いものであって、
 それはもうただただエルザの執念による希望だった。
 もはや容器でしかない、中身の無い空っぽの希望。
 その中に、もう目を逸らすことの出来ない完全なる絶望を詰め込んで、
 ただ呆然と座っていたのだ。
 その虚ろな瞳で、どうにもならない世界の中でどうにかできる世界の幻影を見ながら、
 そしてエルザはラウーロを殺す。
 どうにもならないことが完全に決定してしまったのだから、
 後はもう死ぬだけ、という絶対的な絶望下にありながら、
 それでいてラウーロの死だけは自分のものにしたいと願ったエルザ。
 もはや生きているラウーロにはなにも望めないけれど、しかし死んでいくラウーロにならば。
 エルザの執念による希望の弾丸はしかし、虚しい屍をひとつ夜の狭間に落としただけだった。
 ラウーロは死してなお、エルザのものとはならなかったのだ。
 このときのエルザの顔がどんなものであったか、私は想像しただけでも震えてしまう。
 そしてその表情のまま、おそらくその表情は絶望を越えた「諦め」に満ちていただろうが、
 その裏側に自分の死だけでも自分のものにしよう、という希望を抱く。
 そして。
 引き金を引いた後に、エルザはその死さえも得ることなくすべてを完全に失った。
 
 なにも持たない少女がなにかを持とうとしてすべてを失っていく哀しみ。
 私はその愚かで哀しい生の行き着いた先に、醜くも美しい死を確かに視た。
 死ぬその瞬間まで悟る事の無かった少女。
 エルザは死んでもエルザだった。
 この少女の死に、深い哀悼の意を表す。
 
 

                          ◆ 『』内文章、アニメ「GUNSLINGER GIRL」より引用 ◆

 
 
 
 

-- 040129 --                    

 

         
     

 

■■マリア様公認革命■■

     
 

 

 
 
 包み込む暖かい微風に笑顔の配分を任せ、
 ただひたすらその許された微笑みをたずさえて穏やかでいられる夜。
 私はただされるがままに、優しくてとろけるような甘さに震えてしまう。
 
 こんばんわ。心地よい夢気分の紅い瞳です。
 どんなに色々な事で私の体がなにかに囚われていったとしても、
 すっとOPが始まると、すべてを私に示しそして心安まる境地に私を導いてくれるマリみて。
 私はさながら流れる水のように、ただただ流れている感覚だけを自覚していきます。
 なにかとてもぼんやりとしているのだけど、
 とてもとても確かななにかに護られているような。
 ああ、この感覚を皆様にお伝えできたならば良いのになぁと思いつつ、
 また今夜も独りその想いを深めていくので御座います。
 
 
 
 それでは、「マリア様がみてる」第四話のお話をさせて頂きましょう。
 四話もまた、私に溶け込みそして私を溶けさせてくれる感慨に満ち溢れていました。
 優しくて、どこかで互いを見つめ合う関係の糸の、新たな結ばれ方の一端の開示。
 今回は黄薔薇がメインのお話となったといって、過言ではないでしょう。
 黄薔薇は、ロサフェテイダの江利子様を筆頭に、アンブゥトンの令様、
 そしてプティスールの由乃さんから成るものです。
 そして令様と由乃さんは従姉妹同士で家も隣同士。
 黄薔薇のお話にすすむ前の導入を少し。
 どうやら、各薔薇ごとにはそれぞれの特徴のようなものがあるように見受けられます。
 それぞれの薔薇なる者は、それぞれの薔薇に見合った性質を持っているようです。
 といってもそれはまったく同じという訳でも無いので多少の違いはありますけれど。
 でも例えば白薔薇で言いますと、聖様と志摩子さんなどは似ていないようでとても似ています。
 これは他の薔薇もそうなのですけれど、個別の特性としての性質は確かに似ていないのですけれど、
 しかしそれぞれが示す他人との接し方が同じタイプだと思うのです。
 白薔薇の聖様はそっと相手に優しく近づいたかと思うとそっと巫山戯ながら離れたり、
 志摩子さんは相手の立場を考えて同じ立場に立ってあげようと近づいてそしていつのまにか離れていたり、
 つまりお二人とも相手に対するときに、ご自分のお気持ちなどをそのままお伝えにならずに、
 ひたすら相手の世界の上で踊っていたりします。
 紅薔薇の蓉子様はまだあまりよくわからないのですけれど、
 たぶん祥子様とかなり共通する「我が儘」さを持っていられると思います。
 祥子様の場合で言いますと、つまり基本的に自分中心で相手の立場で考えたりせずに、
 常に自分が相手を引っ張っていこうとするというところです。
 蓉子様の場合はそれが昇華されて、その我が儘さが理論武装され、
 ある意味で他人に対する優越性からくる「余裕」でもって、相手を導いていこうとしていると思います。
 なんとなく理屈で攻めてきますし、薔薇様達の中でも仕切るタイプに見られますし。
 
 こうして見てから、ではこれまでの三話であまり照準の当てられていなかった黄薔薇のお話をしてみます。
 まず、黄薔薇の三人に共通して見受けられるものはなんなのでしょう。
 それはたぶん、他人への興味を示さないフリをしつつ、しかし他人にとても自分を示したがっている、
 というところだと思うのです。
 おそらく薔薇の中で黄薔薇が最も本当のところでの「社交性」に欠け、
 そして最も自己顕示欲が強く、他人の「利用」の仕方が最も上手なのだと思います。
 個別にいってみましょう。
 一番情報が少ないゆえに、もっともその典型に見えました江利子様。
 悩んでいる素振りなど一切見せない達観さを示しながら、
 しかし唐突に自分はなにかを悩んでいるという事を他人に示し、
 そしてすぐに、あら人にこんな事言うんじゃなかったわごめんなさいね、という風に言う。
 すべてを自己完結できる、とても優秀な人に見えたロサフェティダが悩んでいる。
 江利子様が示したのは、そうすることによってより自分を見て貰いたいと思っている、という事なのです。
 なによりも他人を求め、そして自分を見て貰いたがっているのですね。
 なにかを隠すことによって、その隠したものをちらっと見せる事でよりそれに重みを持たせる手法。
 猫をかぶる、というよりはより確信的なのが江利子様なのだと思います。
 非常に思わせぶりな言動が上手な方なのですね。
 全部自分の中で完結させているように見えるから、一見他人との交渉は必要無いように思えるけれど、
 でもそれは他人に見せることによって初めて完結するのです。
 
 そうすると、由乃さんなどはその完結の仕方において典型なのです。
 様々な事を自らのうちで解決していながら、すっと愚痴のような形で祐巳さんに話して、
 そしてようやくその自分の想いを完成させる。
 自分に対して人様が抱いている自分の「イメージ」を隠れ蓑にして、
 隠された自分をちらりと見せて、それを生きる糧としている。
 由乃さんにとっては、自分と正反対のイメージを自分に抱かれた方が、むしろ本望。
 というより、本質的にそちらのほうがやりやすいのではないでしょうか。
 第四話で祐巳さんとお話ししていた由乃さんは、どこか楽しそうでしたし。
 令様はでは、どうでしょうか。
 由乃さんにスールの解消を告げられて動揺する令様は、
 その経緯を無意識のうちに周囲の人間に話してまわります。
 その様は未熟なれど黄薔薇の素質を持っている、というとこじつけに過ぎましょうか(笑)
 けれど、令様もまた虚勢を張って凛々しい自分を演じて、そうでない自分を示しています。
 それに、すっかり動揺して取り乱してしまったのを、他の薔薇様方に心配されるや否や、
 すぐにすっと自分ですべて解決してからお話しします、という方向に修正してしまう、
 という事もありました。
 もちろんその修正の様はぎこちなくて、形ばかりの虚勢であることは明白なのですけれど。
 そういう意味で、令様はまだまだ黄薔薇の一員としては未熟なのかもしれません。
 そして。
 由乃さんが令様とスールの関係を解消した根拠の一端は、ここにあると思います。
 私は、黄薔薇を語る上で、「儀式」の重要性を置いています。
 儀式、と言いましてもそれは色々なレベルでの事で御座いますけれど。
 儀式、或いは様式、或いは流儀とも言い換えられますが、例えば。
 例えば江利子様は、その他人への接し方に一定の様式があります。
 基本的にその「瞳」の先に、自己を示すための対象として他人を存在させ、
 そしてある一定の事実とは異なる仮面を付けた状態で、本当の事を他人に示す。
 こういった儀式めいた事を、これは本質的な部分で黄薔薇の者は行っているように思えます。
 黄薔薇は、私が思うに他の薔薇とは少し様子が違います。
 黄薔薇にとっては、他人はその人としての人格を本質的に持っていなくて、
 ゆえに他人は、自分にとって思い通りに動かすべき存在、としてその瞳には写っていて、
 だからすべては自分の描いた儀式の図面によって動いていくように感じている。
 それは例えば紅薔薇の祥子様のような、他人が自分の思い通りにならないから憤慨して、
 滅茶苦茶に自分色に染めていく、ということではないのですね。
 思い通りにならない他人は、そういう存在であると既に計算に入れられているのです。
 この祥子様の場合には同じフィールドにいる他人との差異があるという「実感」によって、
 他人にその人という自我を確かに認めているのですが、
 黄薔薇の場合はそもそも自分と他人を同じフィールで捉えていませんから、
 他人はあくまでただの対象にしか過ぎず、対象としての個別の特性しか認めてないのです。
 江利子様のあの人を目の前にしてその人を見ていない瞳、
 令様のただ自分が不快だと思う事から逃げたいと思うばかりにややヒステリックになってしまう言動、
 そして由乃さんのあの微笑。
 江利子様を頂点として、それぞれが他人の中に他人以外の事を見て、
 思い思いの儀式を行っているのです。
 そしてその儀式はしっかりと行われなければならないのです。
 令様は、そういった儀式の仕方が少々下手。
 特に、ロザリオを渡して由乃さんとスールになるくだりなどは、由乃さんからすれば駄目なのです。
 あくまであれは儀式であって、さりげなく渡されては駄目なのです。
 さりげなくなんら隠れ蓑をかぶらずにただ本当のことを言っては、それは黄薔薇失格。
 それがスールを解消した、或いは黄薔薇革命の性質の一端なのではないでしょうか。
 なんとなく宗教改革的な、教義の本質に立ち帰ろうとするものも垣間見えます。
 宗教って、結構自分と限りなく溶け合ってヒトツのものですから、
 由乃さんが黄薔薇の一員であることを、ただそういう役割であると考えているだけでなく、
 由乃さん自身の本質にも帰る、という事とそれは同義であるとも思っていることでしょう。
 
 
 
 さて、黄薔薇の特性が加わってきましたことで、たいへんに面白くなってきました。
 黄薔薇の「優しさ」とはなにか。
 これは次回以降語られるところだと思いますけれど、こうしてみるととても不思議な感慨ですね。
 白薔薇と紅薔薇に比べて、黄薔薇は優しくするというよりは優しくされる、
 誰かを救うよりは救われるほうなのではないかと思えますよね。
 黄薔薇の者達の言動は、すべて自己顕示に繋がっているように思えますし。
 けれど逆に言えば、それもまたひとつの優しさの形なのだとも思えます。
 相手をただの対象としてしか見ないからこそできる、その優しさの形。
 白薔薇と違い、相手と完全に離れきって、ただの調停者としての立場に徹する優しさ。
 ロサフェティダがアンブゥトンとプティスールの関係を心配するのは、
 それがただの対象であろうがなんであろうが問題が発生している訳で、
 そしてその問題によって自分が辛いのは確かなのだから、その問題は解消せねばならない。
 そういう自己利益を追求した結果、他人へもその恩恵がいくという、それこそ偶然の優しさ。
 それは、先日書きましたLUNOという漫画の感想でも書いたような、無償の優しさ。
 誰かが困っていて、その人を助けてあげて、その人にお礼を言われると、
 「別にあなたのためにした訳じゃないわ。自分のためにしたの」とか言う感覚。
 それは黄薔薇においては言葉通りの意味。
 それは、自分のためになることはなにかと徹底的に追及した結果の答えとして、
 それは他人に対して優しくする、というのがベストであったということなのです。
 相手に優しくすることで、最も自分にとってベストなものを頂いておきながら、
 実際相手にはなにも差し出させた気にさせない、という優しさ。
 そして、その一連の動作を実に思わせぶりに「儀式」的に行い、
 相手にその一連の動作の構図とその真意を気づかせることで、
 自分に対してなにかせねばならない、という気を起こさせるように仕向けていたりもするのです。
 無償なのに、それにも関わらず相手に対して色々なリアクションを起こさせる。
 これを転じて、相手を奮い立たせるという優しさ、と解いてみるのは如何でせうか?
 黄薔薇の優しさ、というのはそういうところにあるのかもしれません。
 
 
 
 ということで、第四話の感想を書いてみました。
 第五話は黄薔薇のお話の続きのようですので、たいへんに楽しみです。
 ここまで必死に書いてきた事とはなんの関係もなく、来週もマリみてに溶けてきます。
 ええ。
 こんな構図のお話はどうでもよろしいのです。
 ただマリみてであれ、で御座います。
 あの素晴らしいOPと共に時が流れれば、それで私は充分なのです。
 来週の私に、幸あれ。
 
 
 それでは皆様、ごきげんよう ←由乃さん風微笑で
 
 
 
 
 

-- 040127 --                    

 

         
     

 

■■信じなくてよいもの■■

     
 

 

 
 
 
 「おまえに俺はわからないさ。一生な」
 

                          〜「LUNO」 モルトのセリフより〜

 
 
 
 
 
 微かに風がそよぐ。
 
 世界の端から端まですっかり流れきって、やがてその動きを止める。
 止まった先に、なにが見えるか。
 自分と同じく、ただ汚れきったままの水の流れが、ただ其処にはある。
 だーれも助けてくれなくたって、あたしはここにいるんだよー。
 さりげなく傍らに居た猫に叫んでみて、そうしていつのまにか夜が降りていた。
 それがオレの、一日だったりする。
 
 なんにも見えていない事も無く、すべてが見えている事も無く。
 ただあるがままの空の下で歩いてきたら、すべてが止まっていた。
 んだよー、なんでオレばっかりこんな目に会うんだよぅ。
 神様なんて、クソ喰らえ。
 
 なんてね、言ってみたりするんだけど、ああ、クソ、むかつく。
 ほんとはなんにもムカついてないんだけど、だからムカつく。
 逃げ回って嘘付きまくって、それでも素直だなんて、あんた信じられる?
 オレは信じないし、そんな奴はヤダね。
 でもヤダけど、それがどうやらオレみたいだから、だからこうして此処に居る。
 逃げ場なんてもうどこにも無いし、嘘を付くために必要な真実も無いし。
 なんだかよくわからないうちにこーなっちゃって、だからすごくヘンなはずなんだけど、
 だけどオレは、今此処に、居る。
 
 すっとぼけたフリして、でもそれはフリというかオレにとっちゃ自然体で、
 だからあんなきったねー河で、ボケっとしながら釣りなんかしてる訳だけれども、
 本当はなにやってんだろって感じな訳で。
 自分がなにやってるかなんてそれはよくわかってるんだけど、でも実感が無いっていうか。
 とりあえず逃げろとか言われてもサ、うん。わかってるんだけど。
 オレが置かれてる状況なんざ百も承知だけどさ、でも、なんかヘンなんだよね。
 ほんと、なにやってるんだろ、あたし。
 
 黒い霧が流れてその身を押し包んで後、ようやく実感の煙が立ち上る。
 優しくてお節介な少年が眼前に訪れたゆえに、汚れていない言葉を少年に素直に晒す。
 頼むよ・・助けてくれよ。
 自分じゃどーにもならないことってあるだろう?
 だから、乞うた。
 なんの関わりも無いあの少年に、助けを。
 その願いは、なんの代償も無しに叶えられた。
 神様なんか居ない。でもだから居る。
 
 目の前の現れた少年に、すがりつく。
 すがりつきゆく中で、しっとりとあの感覚を取り戻す。
 逃げなくては。そして戦わなくては。
 自己の身を助くる責を、すべて少年に担わすべからず。
 走り出して後、果てしない夜の中に生の感情を爆発させる。
 神は確かに居た。
 居ながらにして、自分を救ってくれた。
 冷たい彫刻の空の上で、私達をただ眺めている神。
 アナタが居るから、あたしは生きているの。
 アナタが、あたしに触れ得ないあの空の彼方に居るから、
 あたしは神の存在を感じているの。
 神様が居るなんて、信じない。
 信じる必要、ないもの。
 神様が居るかどうかなんて、ほんとにどうでもよいのよ。
 あたしは感謝したり呪ったり色々したりするけれど、
 それはそれを神様にするということではないの。
 神様という具体的ななにかの存在を想定して、それに対して感謝したり呪ったりして、
 自分の境遇の幸・不幸の根拠をその存在に求めたりしたくないから。
 でも、アタシに降りかかるこの無償の愛はなに?
 どこまでも逃げても追いかけてくるこの無限の苦しみはなに?
 それは、決してあたしひとりで勝ち得たものでも負け得たものでもない。
 それは私以外のすべてのものの中から、私に与えられたモノ。
 だから、神様は居なくて、だから神様は居る。
 
 アタシとまったく関係無いところでアタシの不遇が決まり、
 アタシの努力なんかこれっぽっちもかかっていない優しさが与えられて。
 そしてアタシは、そういうのを全部引き受けて行かなくてはいけない。
 だから、全部を自分で決められるって、嘘だと思うよ。
 自分じゃどうにもできない事実に立ち向かう事は、できるようでできなかったりするし、
 だからアタシはボケっとしてた訳だし、そこでだから神様なんか居るもんかとか、
 神様の存在がある事を前提した無責任な言い逃れしてた訳だし。
 神様なんか居るけどクソ喰らえだから全部自分でやるんだみたいな感じで、
 そしてだからたぶんあたしはそこでもう既に生きてなかったんだと思う。
 けど、そこにあの子が現れて、そしてこんな馬鹿なあたしに相応しくない優しさをくれた。
 ほんとに、無償の愛って感じだった。
 それはまさに自然なことで、そしてなによりも当たり前の愛の受け渡しだったものだから。
 だから、私は目覚めた。
 ああ、生きてるんだな、って。
 神様なんて語らなくても、そこにそれは居て。
 記号化された神には用は無くて、
 アタシにはアタシの今までの不遇の中で、アタシがそれを理由にサボってきた多くのこと、
 それをアタシの不幸さに目を曇らせないで純粋に指摘してくれる神「そのもの」が必要だった。
 そして、その上でなおアタシを見つめてくれる神様。
 
 
 
 
 目を見開き、耳をそばだてて聞えるもの、汚し。
 汚し、と思う心、要らず。
 然れども、其の不要の心得、求めるべきものならず。
 煩瑣な人々との関係の中から、自らが紡ぎ出したと思われる事のみを受け入れ、
 また自らに相応しくないものを拒否する事は称賛すれど、我、其れを求めず。
 他人からの優しい無償の愛を受ける理由など、必要無い。
 代償無き愛の授受に、なにを忌避することがあるか。
 代償なんて、アタシが此処でこうして生きてるって事だけで充分でしょうに。
 そしてアタシが誰かに優しい気持ちになるときに、それと引き替えの理由なんて要らないでしょうに。
 理由なんて、適当に後で付けりゃいいのよ。
 私達は、責任とかそういう言葉に囚われすぎてる。
 だからその責任に応じて、私達の間には絶対的な溝が出来て、
 そして決定的に不平等になりつつある。
 あいつはああいう事をしたのだから、あいつはああいう風になるのがお似合いさ、とか。
 けれど、そういう言葉の繋がりがあるから神様は居るんだとも思う。
 わかりあえるような気がするんだけど、でも、わかるのはわからない事に気づいていくだけという事とか、
 そういう絶対的にどうにもならない存在が、アタシにはだから必要なんだ。
 なんで自分が優しくされてるのだか、「理屈」では全然わからないのだけれど、
 でも、それはあっていいんだと思う。
 そして、それがわからないからこそ、わかるんだよ、自分のことが。
 ああ、アタシは今こんな自分やってんだって。
 そうして、アタシは自分がなにをするべきなのか、なにをしたいのかがわかったんだ。
 アタシは神様のことなんて信じなくてもいいし、アタシの事も信じなくてもいい。
 そしてだから、神様も居るのだし、アタシも生きて此処に居るんだよね。
 だからアタシは・・・・。
 
 
 
 
 ◆◆◆◆
 
 冬目景「LUNO」、読みました。
 難しかったです。
 かなりギクシャクした作りとか、そういう風采も含めて。
 でもやっぱりなにが描かれているのか、それが一番難しかったです。
 難しいんです。
 ジータ可愛いし。
 すっごい可愛いし。
 そして哀しいし。
 哀しいし、難しいし。
 ジータが自分のなにかに気づくまでのお話だけど、まだなにに気づけたのかとか私的に未消化だし。
 紅い瞳、頭わっるいし。
 ジータのボケーっとした感覚から、すーっと冴えた感覚への移行とか凄いし。
 それでもってまたすーっとしたボケっとさが後半になって出てくるし。
 やっぱり冬目景だなぁって思うし。
 すっごい退廃的な雰囲気の中に道徳観がうっすらと漂うあたりとか、もう。
 うっすらと見せかけてしっかりだし。
 基本的に凄いし。
 紅い瞳、語彙貧弱だし。
 難しいし。
 でもやっぱりあれだなと思うし。
 神様の話が出てくる辺り、羊のうたで具現化されなかったものが出てきたような気がしたし。
 でもあんまり冬目景詳しくかかないでさらっと描いちゃったりしてたりするし。
 でもわかったし。
 神様の事とかなんかわかったし。
 等価交換とか言ってる場合じゃないし。
 言ってる場合でもある訳だし。
 等価交換における、等価とはなにかという問いのお話でもあったような訳だし。
 そうするとやっぱり無償の取引な訳だし。
 無償なんだけど、でも必ずそれを受けたり与えたりする相手が居るということにおいて取引な訳だし。
 そして取引な訳だから、少なからずとも公平なものな訳であるし。
 だから等価交換な訳だし。
 そしてだからなにが等価なのかという事になる訳だし。
 こっちは無償で貰った思っても、むこうはちゃんと貰うもの貰ってる訳だし。
 ティートはジータが好きな訳だし。
 好きだから優しく「し始めた」訳だし。
 最初から冬目さんはだからネタバラしてる訳だし。
 ちゃんと等価なんじゃよ、とか言ってるようなものだし。
 だから難しいんですけど。
 うん。
 やっぱりジータの不遇さにおける実感の無さ、
 そしてそこから少しずつ実感を得ていく過程。
 そして結局見渡してみるとジータという存在の哀しさというのが痛いほどこっちに飛び込んでくる、
 そういうこの「LUNO」の感覚は、抑えがたい感情と思考を私に与えてくれました。
 
 んで、こんどはティート視点からのモノも書いてみたいですね。
 今日はこれで終わりですけど。
 すっごい疲れたし。
 
 
 
 
 P.S : 1月31日に、いまさらでなんですけれど新年会をやろーかと思っています。
      時間が午後11時30分から、場所は星降ル海乃宴(チャットルーム)で。
      新年会ですから、適当に。
      とりあえず、みなさんが楽しめることを目標にはしたいものです。
      お暇なかたは是非お越しくださいませ。
 
 
 
 

-- 040125--                    

 

         

■■ふたりの孤独 -実写版羊のうた-■■

     
 

 

 
 
 こんなのだとは、正直意外も意外だったってゆーか。
 こんばんわ、紅い瞳です。
 
 羊のうたの実写版とか、そういうのを観てみました。
 こういう奴で御座いまする →
 で、なにかと。
 えっとね。
 
 ちょっと凄かった。
 
 簡潔にいうと、羊のうたの原作を非常にわかりやすく、かつ端的にまとめてくれた感想、
 って感じだったの。
 内容とか、だから紅い瞳のガンスリ感想みたく一度反芻して再構成した別物になっていて、
 その別物を提示して、いざ原作の方にそれと照らして理解してみてください、みたいな。
 ちゃんとしたひとつのドラマにもなっていて、そしてそれは凄くわかりやすい原作の解釈になっていて。
 もちろん、原作の解釈の一面にしか過ぎないわけだけれども、
 それは根本的な部分をきわめて精巧に抽出して練り上げたような、そういう一面であって。
 原作では一砂はあまり多くの事を語らなかったけれども、読み手に甚大な想いを抱かせてくれた。
 言葉にせずに内に秘めた様々な想いを、様々な他の事柄と絡めることで、無言の意思表示をしてた。
 で、そういう、一砂の言葉化されなかったことの主要な部分をモロに言葉にしたのが、この実写版。
 だから言葉にして表わしてしまうことで、失われた部分は多々あるわけだけれども、
 でも、その分私達に明快なひとつの「解釈」を与えてくれます。
 千砂もなんかちょっと違うけれど、かなり変わっていて。
 原作では、色々と語ってみせて、でもその語られた言葉と語られなく内に秘められたままの想い、
 それとの壮絶な葛藤に悶えていた千砂は、実写版では一転、無言と化します。
 言葉少なに語られる事そのものに葛藤は無く、むしろ内にある葛藤の末導き出された答えのみが、
 千砂の口から発せられる。
 だからこれもまた、非常に明瞭なんですね。
 二人が想っていたことは、要するにこういう事でしょ? と簡単に言ってしまいたいのなら、
 これはまさに特筆すべき出来だと思いましたし、なにより羊ファンは必見であると思いマス。
 とてもよくまとまっていて、とある面におけるこの二人の想いを感じるには非常に有意義ですし、
 私も実際観てみて、とっても勉強になりました。
 うん、観て良かった。
 
 でまぁ、またいつもと同じような事を言い始めますが。
 ネタバレっぽいので、適当に目隠しを、と久しぶりに特別に明記。
 うん。
 やっぱり羊のうたの根本にあるところのテーマがでて来る訳でして。
 例のセリフ(書くのめんどいので省略)に代表される、
 世間に人間扱いされない自分達もそれでも人間なのだ、という叫びとか、
 或いはそれを転じて、そして自分にとって自分が人間失格なら、そんな自分は殺したい、
 だからそういう道徳的な罰を自分にくだせる自分は人間として認めて欲しいし認めたい、とか、
 そんな感覚に対するひとつの回答、それがこの実写版では寄せられていたのかなぁって。
 実写版において、原作と最大に違う点のひとつに、一砂の血への衝動の激しさ、がある。
 実写版では、一砂は実際の行動はともかく、衝動に苛まれている間に視る幻覚は凄い事になってたり。
 人々を蹴散らして襲って、そして首筋に噛みついて血を吸いまくる。
 原作の方では、あくまで血を吸うだけで、複数の人々を蹴散らして襲ったりはしないし、
 また血を吸う(という幻覚の)対象も八重樫だけに限られてました。
 そして千砂が、一砂の衝動の元にあるのを言い表す際に用いた言葉は、「噛み殺したい」という願望。
 血を吸いたい、じゃないんですね。
 むしろ破壊衝動なのですよね、一砂の衝動は。
 そしてその破壊の対象は、「世間」。
 他愛無い会話を繰り返し、意味も無い笑いで彩られた日常を、一砂は破壊したい。
 それは学校生活だけの事ではなく、育ての親との暮らしのある家庭においてもそうで。
 むしろ、一砂はこの育ての親に対して愛想笑いをし続けなければならない、
 そういう事を要求してくる(と一砂は感じていた)育ての親、
 そしてそういう役を自分だけに押し付けた実の父親を恨んでいる。
 一砂は、とっても軽蔑してたんです、そういう愚かな日常を。だから壊したい。
 この一砂の想いは原作ではほとんど発露されることは無かったけれど、
 実写版では何度も思い切り描かれます。
 そしてもちろん、それは一砂の想いの一部分でしかない訳でして。
 実写版の名台詞のひとつ、「半分嘘で、半分本当です」という言葉のようにして、
 半分は確かに激烈に愚かな世間を攻撃しつつ、
 でももう半分は、実は悪いのは世間を愚かとしか見れない自分であって、世間は一切悪くなく、
 そしてそれは悪く無いどころか、自分が最も大切にしている世間様を、
 自分が壊してしまわないようにするために、敢えて世間を攻撃する「そぶり」を見せて、
 世間様を自分から遠ざけようとする。
 その半分ずつの感情は、どちらも実在して、そしてそれが実写版の特徴でもあります。
 原作だと、愚かな世間に対する攻撃、というのは一切無いんです。
 無い、というかそれを一砂が「言葉」に変えていないだけだ、という実写版による原作の解釈っていうか。
 
 んで。
 そんな感じの葛藤が一砂の上では連綿と踊っていて、ほとんど一砂の意志というのは描かれません。
 ひたすら発作と、受け入れなければならない事実に翻弄される、というか。
 ちょっと原作の一砂クンよりは頼りなさげで。それが一砂の別の面でもあるのでしょうけど。
 そしてそういう一砂の後ろ姿を見つめているのが、千砂で。
 千砂の様子を窺っていますと、これはもう単純明快、と敢えて言ってみましょう。
 結論から言えば、一砂をまた世間並みの生活ができるように戻したい、と。
 これは彼らの父における彼らに対する感情とまったく同じで。
 彼らの父がそういう想いであった、と彼の親友である一砂の育ての親が実写版で語ります。
 普通に恋をして、普通に子供を産んで。
 普通に幸せになって。
 自分らの子供にそう願い、千砂もまた一砂に対してそう願います。
 そして。
 これはもう羊のうたの大前提(?)なのでしょうけれども、
 普通になれないなら殺してしまいたい、と思う訳です。ここでは父が千砂に対して。
 でも父にはそれが出来なかった。
 そして、ようやく解決法を導き出す訳です。
 自分が死ぬことで、千砂を普通の生活に戻せると。
 なぜそういうかというと。
 普通の生活に戻る、ということはまず第一に愚かなる世間様の存在、
 或いは愚かなる他人の存在を認めなければなりません。
 が、自分が千砂と共に在る、ということで実は千砂から「他人」という存在を奪ってもいる。
 世界に自分と千砂だけ、千砂と自分だけ。
 世界にそれしか居ないということは、もちろん他人も居ないのです。
 だから、父は死んだ。千砂から離れることで、千砂に他人の存在を与えるために。
 そして、千砂もまただから一砂の元から去っていったのです。
 
 世間様を忌避し破壊するか、それとも世間様を愛す故に自ら遠ざかるか。
 その狭間で揺れる一砂は、ようやくとある方向性を導き出します。
 たぶん、この言葉が一番それをよく表わしている言葉だと思います。
 冒頭、タイトルが出る前に出る一文。
 「羊の群に紛れ込んだ狼は、さみしい牙で、己の身を裂く」。
 これ、原作で出てくる例のセリフ(今度はだすか ぇ)の改変とプラスアルファだと思いますけど。これね。
 「わたし達は羊の群に潜む狼なんかじゃない。牙を持って生まれた羊なのよ」
 これを比べてみるとわかると思いますけれど、実写版においては、この言葉はかなり弱気。
 受動的、というか。
 原作においては、自らの存在をあくまでこれも人間であると主張することから始まるのに、
 実写版のそれは、そもそも「紛れ込んだ」という要するに居場所を「間違えた」という言葉で自分を表し、
 故に自分の正統性は最初から主張せずに、そして最初から、すみません死にます、と言っちゃう。
 原作では、もし自分が自分を人間と認められないなら、そんな自分は自分で殺す、って感じなのに。
 原作ってば、どっちにおいても強気で能動的。
 そして、もちろんこの実写版の受動的で、そして「哀しい意志」もまた、
 原作では言葉に変えられなかった内に秘められた想いのひとつなのだと思います。
 んで話が逸れたけど、一砂はそんな感じでどんどん自分は消えていけばいい、って感じになります。
 そしてその先に見えたのが、千砂の姿。
 一砂は、千砂と共に其処に居れば、他に誰も必要ないとか思う。
 そういう一砂を、千砂はみた訳です。
 一砂の背中に父を、そしてなにより一砂を見つめている自分に、父の幻影を観たのです。
 このまま一砂を自分の元に引き留めていたら、一砂はほんとに世間様から離れちゃう。
 自分とふたり此処に居る事で、一砂は孤独になってしまう。
 そして一砂は、ほんとに求めているのは千砂ではなくて八重樫である、
 つまり八重樫を含む世間様という他人達の世界をどうしようも無く愛して、其処に戻りたいと思っている。
 最後に八重樫から贈られた自分の肖像画を見て涙する一砂の背を見つめた千砂は、
 そうして静かに一砂の元から去り、そして一砂は世間の元に戻ることができたのです。
 ここらへんも、原作のラストの解釈として非常に素晴らしい形でまとまっていたと思いますし、
 もちろん実写版オリジナルとしても申し分無いエンドでした。
 
 
 そして実写版羊のうたにおけるベストショットは、
 自分の肖像画を見て涙する一砂の背を見つめているときの千砂の表情。
 あの表情の意味、やっぱり羊のうたであるなぁ、という感慨でした。
 散々こねくり回して得た結論に、大いに安堵した笑顔の中に、
 それでも尚、絶対に絶対に消えない哀しみの色が在る。
 一砂を自分から引き離して他人達の世界へ戻せて嬉しいはずなのに、
 でも・・・・。
 
 でも・・私を一人にしないで。
 
 発作で倒れた千砂を介抱していた一砂が自分の血を飲ませようとするのを拒否しながら、
 それでも医者を呼びに行こうとする一砂を引き留める千砂。
 相手の血を飲むことで相手と一体化し他者を失う事を拒否しながらも、
 それでもその相手が自分の側からほんとに離れていくことをも拒否したい。
 私は、実写版は完全に一砂視点でありながら、
 これもまた千砂の物語であるなぁ、と声高らかに寝言を言いたい、
 そんな睡眠時間1時間で今まで稼働しっぱなしの紅い瞳でした。
 
 うー、もー駄目 (停止)
 
 
 
 

-- 040122--                    

 

         

■■マリア様に抱かれて■■

     
 

 

 
 
 ロサギガンティアは聖様ロサギンガンティアアンブゥトンは志摩子さんロサフェティダは江利子様ロサフェティ
 ダアンブゥトンは令様ロサフェティダアンブゥトンプティスールは由乃さんロサキネンシスは蓉子様ロサキネン
 シスアンブゥトンは祥子様ロサキネンシスアンブゥトンの獲物は祐巳さん繰り返すロサギガンティアは聖さ
 
 よっし。
 準備完了。
 
 
 
 今宵は「マリア様がみてる」第三話について、お話させて頂きましょう。
 ちなみに今回の日記のタイトルは、マリア様にだかれて、ではなくて、いだかれて、ですのでよろしく。
 それでは、さっそくいってみましょう。
 
 うーん。
 どうしようもなく体が震えてしまいました。ブルブル。
 そしてなぜかどことなく現実感が失われていくような、なんだかそういう感覚が、
 私を捉えて離しませんでした。
 幻想的という訳ではなく、ただそこにあるものをそのままの形で表わさないでいる意志、
 そういうものがアニメの映像から伝わってきた故の、「目の前」の現実からの乖離感覚。
 なんですかねー、とってもほわーっときちゃうんですよね、今回は。
 ぼけーっと画面の中を見つめているうちに、いつのまにやら物語が終わってしまったというような。
 それはつまり、なにかの「物語」がそこにある、という事を私が今回のお話から読みとらなかったから、
 あるいは、今回のお話はむしろストーリー性などどうでもよいのかもしれない、ということ。
 うん、マリみてってやっぱりそう。
 というより、私はそうみてますしそう感じてます。
 一場面一場面の美しさ、それの絶え間ない連続、これなのですね。
 その一場面一場面はストーリーという観点からすれば、なんてことはない連続にしか見えないですが、
 しかしそれぞれを各個ごとに受け取っていくと、もう。
 もう、これはたいへんです。美しすぎて。
 美しくて、優しくて。
 その私が受け取った感覚を、少し考えてみようと思います。
 
 といいますか、そんなに語ることは無い訳でして。
 聖様(ロサギガンティア=白薔薇様)の優しさ、というものがまず冒頭に出てきて。
 聖様は祐巳さんにすぐにしなだれかかるように抱きついてくるおかたですけれど、
 その仕草とともにその語られる言葉そのものにも、相手に対する抱擁性を持っています。
 抱擁とはなにか。
 優しさの発露、という事なのですけれど、
 相手に対する興味を示しながらも、そこからちょいっと離れてみたり、というそういう距離の取り方、
 あるいは距離の移動行為、それが「抱擁」の一形態だと私は思います。
 すっと近づいて、私は貴方の側にいるよと耳元で甘く囁いてみながら、
 かつその手で背中をそっと押して自分は一歩離れて、
 そして離れたところからもちゃんと貴方の事を見ているよ、という移動。
 相手の側に居ることで相手に肌のぬくもりを伝えて、
 そして相手から離れることで、相手に自分の視線の暖かさを伝えて。
 こういうようにして描いた軌跡の醸し出す空間に包まれる事をこそ、
 私はまさに「抱かれた(いだかれた)」状態のひとつってことにしています。たぶん。
 うん、そう。
 そしてその範をさっそく示してくださいましたのが、他ならぬロサ=ギガンティア。
 茶目っ気たっぷりの仕草で祐巳さんをからかいながらも、
 しかしいつのまにかすっと祐巳さんの背後に忍びより抱きつき魔と化します。
 このとき、抱きついて接近すると同時に聖様は実は抱きつきながら離れてもいるのですけどね。
 甘く囁きかけた聖様の言葉と仕草に、祐巳さんが特に恥じらう事も無いのはそのためでしょう。
 どこか確実に相手と一線を画しているのですね。
 でもそれでいて、どこか完全には絶対に離れてはいかない予感がひしひしとする。
 近くにいながらにして、どこかからすべてをちゃんと見ていてくれる視線の予感の満ちる空間。
 聖様の作る抱擁空間は、まさにそんな感じなのです。
 なにいってるか訳わからなくなってきましたけど。
 
 で、第三話のMVPは祐巳さんだよねー、って思った訳で。
 MVPがなんの略かは適当で。
 で、聖様は祐巳さんのアシスト役って感じでした。
 うん。
 今回マリア様に甘く囁かれて見つめられ抱かれたのは、祥子様。
 あー、もう、ちくしょう、いいなぁ、これ。
 色々と問題を抱えておられます祥子様の側に、すっと入っていった祐巳さん。
 祐巳さんには、一歩離れて見守るなんて芸当はできないけれど、
 でもまさに今祥子様がなにを見なにに苦しんでいるかを我が身に染み込ませてひとつになる事はできる。
 近寄れるそのギリギリの距離まで、祐巳さんは祥子様の側に向かっていく。
 祥子様と同じ立場に偶然立てた事も手伝い、
 祐巳さんは祥子様に自らの肌のぬくもりを伝えることができたのですね。
 聖様とは違う、祐巳さんの抱擁の仕方です。
 徹底的に相手と同化することで、相手と運命を共にする。
 それはつまり、相手とひとつになることで相手の孤独を癒していながら、
 それは同時に相手から、相手とは離れているという「他人」という存在を奪ってしまう事もある同化。
 誰かがすぐ側に居ないと孤独を感じてしまうけれど、
 でもすべてが自分の目の前だけのものになってしまったら、それもまた孤独。
 自分とは相容れない、つまり確固とした彼我の線引きをしてくれる存在が居ないと、
 全部が自分の中に収まってしまうということで自分の外にあるすべてを失い、孤独になってしまう。
 が、今の祥子様は側で甘く囁いてくれる人が居ない。
 というより、祥子様はそうしてくれる人を、今まさに望んでいるのです。
 祥子様にとっては、自分の外に広がる世界はただ冷たいだけで、
 だから例えば聖様などが、その世界の立場に立って暖かい視線を送ってあげたとしても、
 祥子様にとっては、そもそも今は意味が無いのです。
 祥子様には、もう既に痛いくらいに自分の外側に広がる世界はあって、
 そしてそれは冷たさという実感(男嫌いの問題とか)をもって、確かに存在しているのですから、
 自分とは相容れない、しかし確実に其処に居る世界としての他人、としての聖様の抱擁は、
 だから祥子様にとってはまさに歴然とした冷たさとしてしか感知されないのでしょう。
 聖様は祥子様のことがちゃんと好きなのですけれど、ですから抱きしめてあげることが出来ないんですね。
 聖様の「優しさ」は、祥子様には不適格で、なおかつ仇となる可能性もあるのです。
 そのあたりの事をたぶん聖様はよくご存じなのでしょう。
 そして聖様曰く、他のみなさんもきっとご存じの事なのでしょう。
 
 そうして、だからこそ聖様は祐巳さんに目星をつけたのじゃないかな、と思う訳です。
 冷たい世界の向うから、すっと祥子様の側にやってきてくれる祐巳さんなら、
 祥子様を暖めて差し上げられるのじゃないかと。
 うん、そうだよなぁ。
 そして祥子様は祐巳さんに救われるんですよねぇ。
 祥子様に見合った抱擁の流儀を従えた祐巳さんだからこそ、為し得たこと。
 祐巳さん、グッジョブ! (親指を立てながら)
 聖様、ナイスアシストです (泣きながら)
 
 
 
 
 と、こんな感じで抱擁の薔薇が咲き乱れているので御座います。
 その様は美麗にして慈愛に満ちているのです。
 皆様それぞれに他の方々の存在を泣きたくなるほどに気遣っていて、
 皆様それぞれにそれぞれの優しさの動機、抱擁の流儀をお持ちになってもいる。
 まさに抱擁博覧会の様相を呈していて、といいますか優しさの園と言いますか。
 それはどうでもよいんですけど、うん。
 聖様や志摩子さんの抱擁の流儀は、祐巳さんには出来ないし、その逆もまた然りなのです。
 ですから、祐巳さんが志摩子さん達を羨んでいるように、志摩子さんも祐巳さんを羨んでいる。
 そういった互いへの憧れ合いというものもまたひとつの華を添えていて、もううっとり。
 ひとりひとりがひとりであろうとせずに、ひとりひとりが繋がっていこうとして、
 ゆっくりと、そしてとてつもなく優しい空間を協力し合って現出させていっている。
 そして皆様の優しい関係の空の上では、マリア様が微笑んでいて。
 その中で輝くそれぞれの「薔薇」を、そうして私に魅せてくれたのが今回のお話。
 あの魅せ様が、アニメという素晴らしくそれに適した技法で顕わされたこと、とても嬉しく思います。
 と、こーなってくると小説も読みたくなる訳ですけれど、アニメはアニメ。
 アニメにはアニメにしかない凄いモノがありすぎてむしろ有り余っていて追いつかないくらいですので、
 小説は当分オアズケ。
 みなさん、そこのところよろしくです。
 特にネタバレとかネタバレとか、あとネタバレとか。
 
 うん、アニメが好きでほんとーに良かったです・・(泣きながら)
 
 
 
 
 それでは、今宵のお話はこれにてお終い。
 みなさん、ごきげんよう・・・・ぐす ←まだ泣いてる
 
 
 
 
 

-- 040119--                    

 

         

■■日和見経験主義(仮)■■

     
 

 

 
 
 灰羽連盟のサントラ「ハネノネ」を聴きながら、しずしずと日記を書いているところです。
 灰羽さいこー! ←ラッカさん風に
 
 
 ◆◆◆◆
 
 様々な事象の経験の蓄積を通して、その中から世界の法則性を築いていくのが経験主義ですが、
 しかし実際には人は事象を経験する際に、既になんらかの法則、もしくは理論によって、
 その事象を解釈しています。
 これを理論負荷性と云います。
 つまり、先入観をもたずになにかを見る、っていうこと、或いは純粋なる経験とか、
 そういうのは「ほんとうのところ」は無いのです。
 ですから、私達は経験に先行する理論によって、既にそれを見つめ解釈しているのですね。
 そしてその色の付いた眼鏡でもって見た世界、というのはどういうものなのかなぁ、
 って考えているうちに、あんまし純粋とか「ほんとうのところ」とかどうでも良くなってくるのですし、
 そして思いの外に正確に捉えられない事はたくさんあるのだなぁ、と素で気づけます。
 そうなってくると、やっぱり色々な見方とか、色々な評価の仕方とか、
 とかく多角的・多面的なアプローチを常に続けていかなきゃ、とかマジメに思ってしまいます。
 ひとつの事にこだわりすぎるのもカッコイイけど、それは執着とか盲目とかいう事にも繋がるわけで、
 だからもっとラフに、それでいて真剣に考えながらどこにも肩入れしないでのんびり愉しんでいこうよ、とか。
 でもそれもまたあり得ない事で、実際はなにかに肩入れして物事を考えていたりするんですよね。
 
 
 
 つまりなにが言いたいのかと言いますと。
 
 
 
 マリみてのキャラは等しく全部素晴らしくてそれぞれに個性があってみんな大好き、
 とか殊勝な事言ってみても、
 実際は様が一番のお気に入りだったりする訳で。
 
 さぁ、楽しんでいこうか(壊)
 
 
 ・・・・・・
 
 で、それとはまったく関係無いお話。
 「MEZZO」。
 今回のお話は、ナイストリオが人類滅ぼしちゃいかねない細菌の運び屋をさせられちゃうお話ですが、
 なんですかあれは。
 大 爆 笑
 なにがって、あなた。知りませんよそんな事は。
 とにかく、笑い転げてかかとを椅子のかどにぶつけてひぃひぃ言わされたぐらいに面白かったのです。
 以上、メゾ話題終わり。
 
 
 で、それともまったく関係無いお話。
 しろや さん(はくやさん)とこ
 もう更新が途絶えてかなりの時間が過ぎましたけれど、
 紅い瞳はちょくちょくチャットルームにお邪魔させて頂いていました。
 誰もいないんですけど、大概。
 その昔、しろやさんには色々とお世話になりまして、
 色々と楽しませて頂いたこともあり、
 まだその味を忘れられなくて、これでもかという程たまーに顔出させて貰っていたのですが、
 ここに来て、BBSに続きチャットルームも消えちゃったみたいで、なんかその、寂しい。
 うん。
 個人的にしろやさんとは是非またあの場所でお話したかったのになぁ。
 個人的にしろやさん達とのチャットタイムって私的に凄く好きだったのになぁ。
 風雅さんとかyuーkiさんとかあと何人かの人達との、あのまったり空間。
 あの雰囲気はウチじゃ出せないですからねぇ。
 そういや、あまりお会いしないけど絶対余裕で生きてる風雅師匠はともかく、
 yu-kiさんはお元気ぢゃろか?
 それに、しろやさんの描かれる絵なんかも私は好きで、また見たいなぁとか、
 もう色々と想いは尽きないのですけれど、
 でもしろやさんは時折見せるチャットログによると結構お忙しそうなので、
 あんまりチャット消えちゃったよとかサイト更新再開はいつ? とか言うのも気がひけて。
 とかなんとか、徒然なるままに書いてしまいましたが、
 どうかこの日記をしろやさんが読んでませんよーに。
 しろやさん、私なんぞ気にしないでお勤めに励んでいてください (余計なお世話)
 
 
 で、それともはやまったく関係無いお話ですが。
 今後の予定とか。
 ええ。なんだか色々書きたいことがあるとか思わせぶりな事を言いつつなにも書いてない紅い瞳ですが、
 そろそろそこらへんはっきりさせておかないと、いつまでもズルズルと行ってしまいそうですので、
 とりあえず予定でも立ててみようとか、そんな無駄な事を考えたわけで。
 と言うわけで、守られる可能性が低い事を前提とした予定表を仕上げてみました。
 
 1/20(火): 日記サボり
 1/21(水): 日記サボり
 1/22(木): 日記サボ、じゃなくてマリみて第三話感想UP
 1/23(金): 日記サボり(口実:ガンスリ十話が来週に放映延期のため)
 1/24(土): 実写版「羊のうた」感想UP
 1/25(日): 羊のうたの感想が終わらなかったときの予備日、もしくはその続編制作日
 1/26(月): 個人的に25日は地獄で紅い瞳が死んでるかも日なので、引き続き予備日
 1/27(火): 「LUNO」感想UP(26日が空けばそちらに回す)
 1/28(水): 日記サボリ
 1/29(木): マリみて第四話感想UP
 1/30(金): ガンスリ第十話感想UP
 1/31(土): 今更魔術師の工房で新年会でも (日記サボり
 
 案外普通に守られるんじゃないか、ってくらいにヌルい予定ですけど。
 しかも書きたいと言ってたもののほとんどが無かった事にされてますけど。
 いやだって、書きたいって明言したのは羊のうたとLUNOの事だけですしぃ〜。
 まぁこれだけは確かに言えるのですけどね。
 この予定表が守られるのは、それでもたぶん太字の部分だけでしょう、と。
 んで、一番最後の新年会とかいうお話ですが。
 昨年もやったような気が致しますが、要するにチャットで適当にみんな集まってお話でも、という感じ。
 ま、普段のチャットとなんら変わりませんけど、
 こういう風に日時を設定しておくとみなさん集まり易いですからねー。
 詳しい事は、おそらく1/26・27日頃に入り口ページに書きますので、よろしく。
 
 それでは、本日はこの辺りということで。
 
 
 
 

-- 040117--                    

 

         
     

 

■■ガンスリマリみて組■■

     
 

 

 
 
 今冬初の雪が降ったといいますのに、紅い瞳と来たら喜び勇んで庭かけまわるどころか、
 ぶるぶる震えて、寒い寒い雪なんて降るなっていうか雪降らせてる奴一歩前へ出ろ、とか、
 そんな心の狭い事をぶちぶち言ってたりします。
 みなさんごきげんよう (ひきつった笑顔で)
 
 さて、いよいよガンスリンガーガールが復活しましたね。
 紅い瞳ははっきりいって待望というより渇望していたくらいのこのアニメの放送再開で御座いますので、
 昨夜はすっかり張り切って感想を書き殴ってしまいました。
 ほんとうに久しぶりでしたので、少々イメージがうまいカタチで文章にして表わせませんでしたけれど、
 それでもガンスリの凄さ自体は相変わらず万全で、もう感涙もので御座いました。
 あれはすごいや、やっぱり。
 ガンスリは、いくら言葉を紡いでも表わせ足りないものがあって、
 そして私に最大限の思考を求めてきます。
 様々な事を考え、いくつかの隠喩を織り交ぜながらガンスリのイメージを少しずつ構築し、
 そしてまた考えを重ねる。
 ガンスリの感想を書くときはだから、結構な力を入れています、紅い瞳は。
 といっても、基本的に私は推敲をしないので書いたら書きっぱなしで、
 ヘンな箇所もたくさんありますけれど、でもそれでもいいんです。
 とにもかくにも、なにかを書き残してみたい、ただそれだけで充分。
 ガンスリというのは、私にとっては非常に抽象的なもので、非常に奥深い。
 ですから、まだまだ私の中に眠っている私の見ぬ言葉達を発見し、
 それをもって私のガンスリ観を表わせていけたならば良いなぁ、と思っています。
 
 と、そんなガンスリな私のお隣に、ちょこんとましますのがマリみてな私。
 「マリア様がみてる」、堂々たる存在感をもって此処に登場です。
 やー、ほんとこれはまたガンスリとは徹底的に愉しみかたの違うアニメなので御座います。
 まずアニメの始まりを目にして、ひとこと。
 うわー、なんだこれ。
 もうびっくりです。
 あまりに美しすぎて綺麗すぎて、それ以外に語る言葉が浮かばないといいますか、
 わざわざ、これはどういうことなのだろうなどと考える必要などのない、圧倒的な存在感。
 まさに、考えるな感じろ、というところなのでしょう。
 麗しきお姉様がたの、あまりに美しくも楽しいお話。
 しかもその洗練された雰囲気的な凄みだけでなく、
 登場人物ひとりひとりに奥行きがじっくりと腰を据えて用意されている、
 という事が充分に予感される、おびただしい奥ゆかしさもあるのです。
 第一、二話の時点ではその奥ゆかしさの片鱗をみせるだけにとどまっていましたが、
 逆にそのことがよりその奥ゆかしさへの期待感を高めることに、お見事なまでに成功していました。
 ですから、いずれは確実にガンスリ的な視点でも見ることになるのかと思いますし、
 そうしなくてもしっかり楽しめそうなのが、このマリみての愉しみかたなのだと思いました。
 
 まー、つまりは「ああ・・お姉様 (ため息)」とか言ってるだけのことですけれど。
 
 
 
 
 
 と、オチらしきものが微妙についたところで、最後に今日もっとも皆様にお伝えしたかったことを記します。
 っていうか、今までのは前フリです。
 もうご存じの方もいらっしゃいますこと請け合いで御座いますが、
 夢之語リ部(BBS)に、マリみてのアイコンを新しく入れさせて頂きました。
 以下のアイコンさん達です。
 
 主人公さん 祥子様 紅薔薇様 
 
 由乃さん 令様 黄薔薇様
 
 志摩子さん 白薔薇様 蔦子さん
 
 
 
 
 ・・・・。
 うわ、もう、大好きです。 (泣きながら)
 
 なんという可愛いアイコンさん達なのでしょうか。
 そしてなんて私の大好きなタイプのアイコンさん達なのでしょうか。
 なにか、その、運命みたいなものを感じます(ぇ)
 もちろん、私にこんな偉大な画力がある訳がありませんので、
 これは余所様から頂いてきたもので御座います。
 チャック様という方の眠りの園、こちらから頂きました。
 えっと、その、本当にありがとう御座いました。
 こんなにも素晴らしいアイコンを無償でお貸し頂けるなんて、ほんとのほんとにありがたい事です。
 改めまして、チャック様にはお礼申し上げます。
 と、恥ずかしがり屋の紅い瞳は眠りの園に直接お礼書き込みをしには行かなかったりしてます。
 御免なさい御免なさい。
 いつかチャック様が、この日記を読んでくださる奇跡が起きますよーに (駄目だこいつ)
 
 
 それでは、ごきげんよう♪
 
 
 
 
 

-- 040116--                    

 

         
     

 

■■蒼い影の少女■■

     
 

 

 
 
 『私の時間は、すべてラウーロさんのために使うわ。』
 

                           〜第九話のエルザのセリフより〜

 
 
 どうでもいい空に向かって、安物の塔が聳え立つ。
 脆く不完全なその立体が、寂しい日の光を街から奪っていく。
 空を見上げない少女は、その冷たい街を素通りしてひたすら塔の中を駆け上がる。
 影の中を凝視し銃を放つ少女の背後に、蒼冷めた影が忍び寄る。
 
 孤独な柵の中に鍵をかけられ、薄暗く冷たい月明かりの下で銃を磨くエルザ。
 すべてはラウーロさんのために。
 黒い風に包まれた前方空間に瞳を凝らし、その中にフラテッロの姿があることを確かめる。
 儚く揺れる隙間風すら遮断して、此処が影の中であることに安堵していく。
 闇の刃で身を刻み、溶け出ない体温を凝縮して銃に涙を注いでいく。
 ラウーロさんラウーロさんラウーロさん。
 冷たい部屋の中で、少女は一人強く泣いている。
 
 許せない笑顔を噛み殺して、絶対的にカラダを強張らせている少女。
 孤独を求め、苦行を求め、空を無視し、他人を避ける。
 畏れ多くもフラテッロにかしずくためには、せねばならぬことが無限に在る。
 常に地平線の彼方のみを見つめ続け、決してその足を地から離す事は無い。
 完全に完璧に瞳を閉ざして銃を放って見せてこその、この時間。
 そしてこの存在。
 優しい希望が射す時間の塔の中に、少女の成功は在り得ない。
 だから駄目だって言ったのに。
 どうすることも出来なくなった少女の背後で、蒼冷めた影が嗤っている。
 
 
 
 
 みすぼらしい少女。
 なにも出来なかった少女。
 フラテッロを求める事すら、出来ない無能の少女。
 愚かで例えようもなく鈍い。
 
 蒼い影の少女が生きる時間。
 見えきった終わりを見つめるあまりに、なにも出来ない少女。
 フラテッロの前に鉄壁の風が流れている事に気づかずに、
 それでもその効力の無い儀式にその身を投じ続けるエルザ。
 希望無き信条に付き従って、人を殺す。
 全力必殺完全無欠の殺人。
 塔の中を走る少女に不可能は無く、すべて難しき事も無し。
 ありきたりの影の中で銃を片手に踊り狂えば、すべては叶う。
 塔を出、そして今までとは比べものにならない影の中に居るフラテッロに、風の向うから話しかける。
 その声はしかしフラテッロには届かない。
 絶対的な影の境界線が、エルザをまたありきたりで弱小なる影の中に突き返す。
 強力な影に包まれたフラテッロの時間の中に、その少女は入れない。
 弱々しい影相手に勝利を誇っても、強力無比なあの影には敵わない。
 決定的な差異。絶望なる段差。
 実力不足。
 それでも空を見上げない少女はそう解して、すべてを捨て去りその影に挑む。
 襲い来る敵を虐殺し、屍の上で涙する少女。
 塔の中の時間だけを駆け続ける事の無意味さが少女の背中に突き刺さる。
 冷たい影の中で孤独を求め、苦行を求め、空を無視し、他人を避け続け、
 すべての努力が跳弾し少女の背を撃ち抜き、蒼いその血を無慈悲に流させる。
 影の中に出来た血溜まりはやがて、少女の蒼い影の温床となる。
 影の中に在る影。
 べったりと少女の小さくて固い背中に張り付いたその蒼い影の予感は、少女の背を強く押し出す。
 前へ、前へ。
 地平の彼方へ、ラウーロさんの中へ。
 前へ一歩踏みだし、前だけを見つめて、この地を一心不乱に這いずるのだ。
 
 フラテッロの強大な影の前に押し出された少女の瞳の先に、ひとつの塔が現れた。
 
 残虐にして粗暴。
 慇懃にして寛容。
 巧緻に組上げられた感情の礎が、塔を巨大な罠へと作り替える。
 もう一人の少女が塔の閉め切られた窓を開け放ち、塔の中には光が溢れかえる。
 優しい希望に満ち満ちた時間の訪れ。
 愚鈍なエルザを陥れる、残酷な罠。
 少女はいとも簡単に罠に嵌り、そして。
 窓の縁に備えられた、ラウーロの影へと少女を誘う架け橋は、そうしてエルザから奪われた。
 あの光さえ塔の中に射さなかったら、銃を奪われる事は無かったのに・・・。
 
 瞬刻の後、恐ろしい時間が崩れ落ちる少女に襲いかかる。
 銃をもがれた少女の背から、恐ろしい絶望の影が生え出でる。
 踏みしめるべき大地をも失ったエルザの後方空間に、蒼い闇が広がる。
 優しい窓の向うから射す希望の光を固まりすぎたその身で遮断して出来た、絶対の影。
 光さえ射さなければ、私に影なんかできなかったのに・・・。
 銃さえあれば・・・・・銃があっても・・・もう・・。
 少女の蒼い影は、やがてゆっくりと少女を闇へと引きずり込んでいく。
 この世で最強のその蒼い影に、少女は飲み込まれてしまった。
 もう少女に出来ることは、完全に何もない。
 ありきたりな弱小なる影の中でしか生きられない少女は、もうすべてが不可能。
 その瞳の先に、もうフラテッロはいない。
 
 そしてその瞳の中にはもう、涙すら、無い。
 
 
 ◆◆◆◆
 
 完全になにかをこなすということは、かなり多くのことをそれと同時に失っているということだ。
 なにかひとつのことをやり遂げるのに最低限必要な事以上の時間をその事に使い、
 そしてその時間は他の事に使うべき時間であるところのものを削ったものであり、
 ゆえに、その時間を奪われた事共に対する実感は奪われた時間の分だけ失われる。
 そうして時間を贅沢に無駄なく注ぎ込んで作られたモノは、非常に固い。
 多くのものが凝縮された分固くなり、そして固くなる事で他のものと溶け合う事が無くなり、
 周囲から切り離された単独の存在となってもしまう。
 その単独の存在はやがて、たったひとつの存在を求める事だけに執心する。
 ラウーロに受け入れて貰う、ラウーロのためになりたい、ただそれだけのことしかしない。
 そしてエルザは、そういう自分に酔いしれた。
 孤独である、という不幸感がラウーロへの愛をより高め、
 そしてなによりも自分が置かれているこの苦痛多き状態を誇りとして受け止めていく。
 彼女の生きているありきたりな影とは、要するにそういうよくある苦痛の生活のことだ。
 しかしその苦痛というのは、実はエルザにとってはどうということもない苦痛なのだ。
 耐えられないほどの苦痛を耐えて、耐え難きを耐え、という表現がある。
 エルザは耐え難き事を耐えることが出来る、という意味でだから本当はそれほどの苦痛ではないのだ。
 耐え難きを耐えられるのなら、それは耐えられる事なのだ。
 エルザは、その苦痛そのものに酔っている。
 自分はこれだけ苦しんでいるのだから、これだけ真面目にラウーロさんのために打ち込んでいるのだから、
 これは褒められて然るべき事で、また偉いことなのだ、と思って居られるから、それに耐えられる。
 逆に言えば、このような劣情を拒否することが出来ないから簡単に耐えられるのだ。
 そういった意味で、エルザは欲望に忠実だ。
 そうして得られる快感の絶大さを良く心得ている。
 悲劇のヒロインをそれらしく演じる事はしないけれど、秘かに確実に演じている事の快感。
 そしてその快感を得るためには、真面目であり続け、ラウーロへの忠誠を誓い続け、
 そして道徳的であらねばならないのだ。
 無論エルザの道徳的、というものは完全に不道徳的な動機に始まる堕落なのだが。
 しかしエルザには哀しみがある。
 エルザには自分が求めているその快感が、
 決定的にラウーロに認めて貰えるという事と反しているという事が、痛すぎるほどにわかっているからだ。
 自分だけが懸命に辛い事と向き合っていても、それは結局なににもならない。
 エルザに利用されているだけのエルザの思い通りになる現実で完璧でいられても、
 それは絶対的にラウーロとは関わり合いがない。
 なぜならば、ラウーロは他人だから。当たり前の事だが。
 エルザはエルザの儀式(方式)だけでなんとかできると思いこんでいたが、
 しかし「世間」ではそんな事は通じない。
 無数の人間達の思考を照らす大空を見ることをしないで、
 自分だけが歩く地のみを見つめて歩くエルザには、だからラウーロとの間に巨大な溝を作っている。
 エルザはその事実に気づくたびに涙している。
 だがその涙はすぐにその事実に対する激しい抗議へと変換される。
 なぜ自分の思い通りにならないのか、と。
 自分がこんなにも苦しみ必死にやっているのになぜラウーロさんは振り返ってくれないのか、と。
 そうしてまたラウーロはエルザにとって思い通りになるべき存在として、エルザに変換される。
 真面目に努力していれば「絶対に」乗り越えられる苦痛としての影として、
 エルザはすべてが無駄と気づいた後にも何度もそうして強引な変換を続けていく。
 ただただすべてから目を逸らし瞳を閉じ、そうする事で闇と化した影の中に幻を造り出して弄ぶ。
 しかしそれは影であるからこそ実体は永遠にそこには無く、
 エルザは結局のところ、その高ぶる感情を暗闇に向けて放っていくしかないのだ。
 そうして欺瞞に欺瞞を重ねた涙という感情を滅茶苦茶に流すうちに、
 いよいよエルザは多くのものを失っていく。
 失った上で、最後にその失ったものから致命的な反撃を喰らう。
 馬鹿にしきったヘンリエッタに、トドメを刺されてしまう。
 ジョゼとヘンリエッタの交歓を横目で見続けるエルザの前には、
 自分もそうなれればいいなぁ、というどうしようもない期待感が広がってしまう。
 そしてその現実にまったく即さない期待こそが、彼女に決定的な最後を与えてしまう。
 そう。
 自分が影の中に居る事を忘れて光の中に飛び出したら、死ぬしかないのだ。
 エルザは、自分が影の中に居ることに安堵し、そしてすべてが自分と同じ影の内にあることを望んだ。
 そしてそう居続けるために銃を持ち、そして堅実に任務を遂行しなければならないのだ。
 それができ無ければ、もう生きられない。
 エルザは、希望によって罠に落ちた。
 そして落ちた先には、絶望が待っていた。
 本当はなにもできない自分が其処に居て、
 本当は愚かで鈍い自分しか其処には居ない事を思い知らされて。
 
 だからさぁ。
 あのラウーロに銃を奪われて、一歩後ろにエルザがさがった時の描写なんて凄いと思う訳。
 ぐわーっと後ろに広がる闇に飲まれちゃって、
 あれなんて、まさに最強の絶望という感じだよね。
 実際あれ見て、震えました。
 ゾクゾクしちゃうよ、ほんとに。
 なんでこんなにもう・・・ガンスリってば・・・美しいんでしょう(なぜだか涙)
 そして、哀しい。
 アンジェリカやクラエスとは違った絶望のカタチで、そしてエルザの絶望は非常によくある話で。
 ほんとにありきたりな日常の中でどん底に一気に叩き落とされたような。
 あの日の光の射す中で、独りぽつんと立ちすくんでいたエルザは、やっぱり哀しい。
 なんで私だけこうなっちゃうの、という言葉なんかでてきたりしたら、ほんとにもうよくある話。
 でも良くある話かどうかはどうでもよくて、エルザの絶望はエルザの絶望。
 そしてその絶望が最強である由縁は、それが世界からもたらされた絶望ではなく、
 自分の内から出てきた絶望、ってところにあるのです。
 つまりさ、世界から無茶苦茶ヒドイ仕打ちを受けて絶望する、っていうより、
 そういうものに対する抵抗力を自分の内から失ってしまう絶望、というほうが断然怖い訳で。
 ある意味、世界から押し付けられたモノって、例えそれがどんなに耐え難きものでも耐えられる。
 それは自分の内にそれを乗り越えられるなにかがあるから。
 でもそのなにかが無くなってしまったら・・・・。
 エルザの絶望、そして哀しみ、私は一番良くわかるなぁ・・・。
 もちろん、その絶望の強大さは今までの彼女の必死のあの痛ましい努力があるから、
 よりそう見えるのでしょうね。
 そして、その努力すら出来なくなったとしたら・・・・・。
 やっぱり、私、ガンスリって哀しくて大好きです。
 画面ひとつひとつに鏤められた抽象的な部分を統合してみるのは楽しいし、
 その楽しみを充分に味わい尽くせるほどの出来でした、今回のガンスリは。
 そしてこれこそガンスリの醍醐味のひとつですよね。
 
 と、月並みにまとめたところでうまく書けなかった部分を隠蔽して、終了。
 
 終わりって言ったら終わりなの! ←久しぶりのガンスリ感想うまくいかなくて逆ギレ
 
 

                          ◆ 『』内文章、アニメ「GUNSLINGER GIRL」より引用 ◆

 
 
 
 
 

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■■マリア様、襲来■■

     
 

 

 
 
 マリア様襲来、といいますか祥子様襲来なのですけれど。
 ごきげんよう、みなさん。
 今宵はマリア様がみてる第二話について、お話させて頂きましょう。
 
 前回、学園の有名人である祥子様にスール(姉妹)宣言されてしまった祐巳さん。
 しかし憧れの祥子様が祐巳を選んだのは、別に祐巳が気に入った訳だからではなかったのです。
 祥子様が好きだからこそ、そんな形で側にいさせて貰うのは耐えられない祐巳さんは、
 思わず断ってしまいます。
 そして、今回、静かに燃える祥子様による祐巳さん捕獲作戦が開始されました。
 
 祐巳さんとスールの契りを結べないと、学園祭でシンデレラ役をやらされてしまうのでそれが嫌で、
 そしてもちろん、祐巳さんにあっさり断られた事も手伝って、
 祥子様はかなり本格的に攻勢を仕掛けます。
 祥子様の「お姉様」にしてロサ=キネンシス(紅薔薇様 覚えられました♪)こと蓉子様曰く、
 「祥子はね、根が真面目だから」だそうですから、なりふりなど構わない事想像に難くなく、
 祥子様は色々な手を使って祐巳さんに接触を図ってきます。
 さりげなく顔を見せたり、離れていったかと思うと引っ張っていったり、
 ピアノの連弾をしてみたり、劇の練習につれていったり、
 他の女性と踊っている祐巳さんを睨み付けてみたり。
 静かなる闘志というような、そういう澄ました顔をしながら策略を巡らしている冷酷な祥子様、
 今回はところせましと大活躍でした。
 自信満々に誰憚る事無く、しかし一見上はあくまで上品で、
 でも狙った獲物は逃がさない狩人の視線で祐巳さんをじりじりと追い詰めていきます。
 その様は狡猾にして大胆。
 祐巳さんが祥子様を振った、という噂を流したのも祥子様かもしれません。
 ま、そうではなくても山百合会のどなたかからの出所である事は確かでしょうけれどね(むしろ本命)。
 そして祥子様のさりげなさぶりというのは、これは常套的なことですが、
 本当のさりげなさが過分に混じったさりげなさなのですよね。
 すべてが祐巳さん捕獲のための意図的な行為で彩られているのじゃないのです。
 基本的には素の状態で接して、時折狙い澄ましたかのように祐巳さんの胸に刺さる矢を撃ち込んだり。
 大嘘つきになる資格は第一に正直者である事、という感じですね。
 祥子様はその事が生来備わっていられるおかたなのでしょう。
 まぁ、みなさんそんなものなのでしょうけれど♪
 
 それに対する哀れな子羊・祐巳さんはといいますと、
 あんまり祥子様が攻勢に出ていられる事に気づいていないご様子。
 あらあらまぁまぁ、という感じ。
 すっかり戸惑って祥子様にいいように追い詰められてしまいます。
 しかしところどころでなぜかうまくかわしていたりもするのです。
 祥子様との連弾の際にわざと間違えて離れてみたり、
 劇の稽古場からも飛び出してきたり。
 なにげに祥子様の思惑から外れた行動をとったりしています。
 といいましても、別に祐巳さんは祥子様の思惑を読んだからそうした訳でなく、
 ただ自分の気持ちに問いかけて、自分がしたいことをしてしたくないことをした結果偶然そうなった、
 そういうだけのようでした。
 祥子様が唇をお噛みになっている姿が思い浮かんでくるようで微笑ましいのですけれど、
 しかし祐巳さんもおかわいそう。
 でも私はむしろロサ=キネンシス(紅薔薇様 蓉子様)とロサ=ギガンティア(白薔薇様 聖様)、
 このお二人の立場に近いところで立って見ていました。
 祥子様と祐巳さんのバトルってたいへんに面白いわねっていうかもっとやれ、という感じです。
 嘘です。いえ、半分嘘です。
 あのお二人のお姉様がたも、楽しがって色々と姑息で狡猾な手段で茶々を入れていましたが
 それと同時にもちろんお二人への心遣いもお忘れになっている訳ではないようで、
 その辺りの案配が微妙に美しくコラボレイトされていて、私はもううっとりでした。
 特にロサ=ギガンティアこと聖様などは、その様軽やかにして華麗、
 道化にして親愛の情に溢れた先輩たるそのお振る舞いに実に際だったものを感じました。
 やっぱり私は白薔薇様がお気に入りのご様子です。
 
 そのような感じの流れでお話が進んでいくと、
 最後に祐巳さんはついに泣いてしまいます。
 あーあ、泣かせちゃったかー、と聖様あたりは軽く言ってそっと抱きしめてあげたりするのでしょうけど、
 泣きじゃくる祐巳さんのまわりには、狼狽えている一年坊と、消えない祥子様の執念のみでした。
 あー・・ほんとうにかわいそうな祐巳さん。
 けれどこれくらいならまだまだ、というところですか。
 祥子様も次回予告で過激に叱咤なされていましたが、
 別の意味でもまだまだこれからというところ。
 例えば、まだまだお姉様方のイジメはこれからとかいう意味で。
 お姉様方からすれば、些細なお遊びでかつある程度祐巳さんへの配慮もある余裕のイジメなのですが、
 しかし祐巳さんからすれば致命傷に至りかねないかなりキツイ仕打ちとなっていく可能性も御座います。
 なにしろ、お姉様方って普通にどこかぬけてますし。
 自分たちの描いた綺麗な絵図面に酔いしれてるうちに祐巳さんをどこかに置き忘れて、
 あらまぁたいへんどうしましょう?(余裕の微笑)とか言いそうですし。
 下級生のたいへんさ、重ね重ねお察し申し上げます。
 
 それで、そんな優しさに満ち溢れた(でもちょっとぬけてる)お姉様方の中にあって、
 唯一冷たい「攻撃」を祐巳さんに仕掛けてくる祥子様。
 もちろん悪意があってのことではなくて、その真面目さ故に自分の目的達成だけにしか目がいかなく、
 結果祐巳さんの「気持ち」というものへの配慮という優しさが欠落している祥子様。
 そのあたりの余裕の無さが、山百合会で祥子様が少し浮いている原因でもあるようですね。
 真面目であるということは、余裕の無さに繋がるのですね。
 そういう意味で、また別の形で少し浮いている志摩子さんは余裕はあるようですね。
 今回のお話において、志摩子さんにはMVPを差し上げます。聖様も捨てがたいですけれど。
 志摩子さんはおしとやかでお静かな方ですけれど、
 しかし自分の意見をはっきりと持ちかつはっきりと表明できるかた。
 そしてとても優しい人。
 祐巳さんが置かれている状況をちゃんと理解して、同じ位置に立って助けてあげ、
 決してお姉様方のようにからかったりはしない。
 それは真面目であるから、というよりはたんにそういうお遊びをしないだけ、という感じなのでしょう。
 だから優しいのだけれどちょっと羽目を外しすぎるお姉様方からは、少し距離を取っているのです。
 祥子様はそうではなくて、たぶんそういうこと自体おわかりにはなっていない、
 というより考えてみたことすら無いのかもしれない。
 たぶん、志摩子さんが祥子様のスールにならなかったのは、そういうところに原因があるのかもしれません。
 羽目を外しても、ちゃんと周りをみて配慮を振りまく白薔薇様とのタッグのほうが、確かに合っています。
 お互いが求め与え合うものも、なんとなく一致する感じも致しますしね。
 具体的にいうと、
 聖様がボケで、志摩子様がツッコミをそれぞれ担当し合うという事。
 
 と、こうなってきますと、一番気になるというところではもちろん祥子様がその筆頭にあります。
 真面目、という言葉で表わせるその無邪気な冷酷さ、
 そして誰よりもなにかを求めているけれどそれが得ることが出来ないせつなさ、
 そういう感覚が祥子様の周囲を囲む世界からどっと押し寄せてきます。
 祥子様の場合は、なにかを求めているという事に気づいているのかどうかさえわからないほど、
 その微笑は強靱で、ますます祥子様の存在が気にもなります。
 その祥子様の事を、実に明確に切り出して祐巳さんの前に大胆に出して説明してみせた、
 祥子様のお姉様である蓉子様の大嘘つきっぷりにもさらに興味が涌いてきます。
 蓉子さんの祥子様評はおそらく間違ってはいないのでしょうけれど、
 でも決定的に核心を意図的に省いた説明だったように思いました。そりゃそうですよね。
 ・・・紅薔薇姉妹も捨て難くなって参りました。
 
 色々と楽しいこと、興味深い事、そして美しいこと盛りだくさんのマリみてです。 
 私はすっかりハマってしまって、もうたいへん。
 大した内容もまだ書いていないのに、もうこんなに字数が重なってしまいました。
 まだ2話なのに、既に大量の要素がばらまかれていて、いくら語っても語り尽くせない感慨。
 映像的な美しさなども、まだまだまだヘタレな私の拙い言葉で表現していきたく思います、これからも。
 もちろん内容のちょっとした(本当にちょっとした)分析などもしていきたいです。
 ガンスリみたく、キャラ別の感想も書けたらいいなぁ、なんて思っています、いずれ。
 なにはともあれでも、今はマリみてを見ているだけで幸せです。ほんとです。
 あまり感想が良く書けなくてもあまりがっかりしないのです、今。ほんと。
 ほんと、珍しいです、こういうのは。
 そしてね、今回は特にこのお言葉には痺れました。
 というか、むしろ他の言葉はどうでもいいみたいな。
 
 聖様: 「祐巳ちゃん『へ』っとか『あっ』とか『えっ』が多い」
 
 
 
 なぜ私がこのセリフに反応したのか、どなたか教えてくださいませんか?
 
 
 
 
 
 それでは、今宵はこのあたりでお開きに。
 みなさん、ごきげんよう。
 
 
 

-- 040114--                    

 

         
     

 

■■ふつつかな日常■■

     
 

 

 
 
 この時期になりますと、めっきり冬眠したくなってくる私です。
 
 毎年恒例となっている年始早々の大忙し期間もなんとか切り抜けて、
 さぁその間にやりたくてもできなかったことを楽しんでやっちゃうぞぉ、とか意気込んでいましたのに、
 なんたることかこれまたいつも通りに燃え尽きていたりします。
 うわ、全然なにもしたい気がしないっす。
 本当に、損な性分です。
 やることやってご褒美に美味しいお菓子でも、とか思っていたら食欲が無かったり。
 だからいつもやりたいことは先にやってしまったり、好きなもの先に食べるようにしているのですけれど、
 やりたいことにハマっちゃってやらねばならぬ事が凄い事になってたり、大体します。
 
 こんな至らない私ですけれど、今年もよろしくお願い致します ←気分は未だお正月
 
 という感じで本日はつらつらと日記形式で。
 ひたすら書き殴り形式で。
 
 えーと、やる気無さがスタンダードを占めて無気力症候群兼燃え尽き症候群を全力で発症中ですが、
 やる気無いとか常日頃から言っている私からすればどうということもなく、
 たんになにもやらないでいい理由ができて良かった、くらいの感じで、
 実にのんびりまったり風味を楽しんでもいます。
 とか言ってるから先週のピースメーカークロガネの録画をし忘れたりもするのですが、
 これはまたケーブルでもやるので問題ないといえば問題無いわけでして、
 けれどおかげで今週のお話のノリがさっぱりになっちゃっているのはどうしたことか。
 たった一話でノリが急転直下脳天直撃クラスに変わっちゃっていて、紅い瞳、乗り遅れました。
 うう、お兄様かっこいいよぅ・・・あゆ姉綺麗だよぅ・・・・総司様最高だよぅ
 一部全然変わっていないところを余裕で見つけましたので、とりあえず今週のピースメは完了。
 MEZZOとか、むしろこっちのアニメの方がハイテンション&ハイテンポなノリはキレていて、これはまたグッド。
 色々賛否両論別れまくっている当アニメですが、紅い瞳はいたくお気に入り。
 理由はどうでも良し。このまま行って良し。紅い瞳がちゃんと見守っていてあげます。
 
 あー・・・思い出しました。
 イエスタデイをうたって読んだんでした。
 他のものを読んだり見たりしていて、そちらの感想を先に書きたいと思っていて、
 だからイエスタデイは後回しにしようと肝に固く誓って居たのですが、処置無し。
 無理でした不可能です気づいたら1巻全部読んじゃいましたしな子さんお綺麗で御座います。
 ハルたんも良し。木下さんさらに良し。
 イエスタデイ再考の日も近いです。
 でそれと一緒に買いましたLUNOのほうは未だ読んでません御免なさい御免なさい。
 うー、はやく読んでときみつさんとかとお話できたらいいなー、なんて。
 ならさっさと読め、というところですけれど、紅い瞳には色々しがらみも多う御座いまして、その、無理。
 それと実写版羊のうたを録画しちゃったりもしてまた派手な事になりましたが、これも後回し。
 そんな後手後手に回った上で放り出して逃げ出しそうな不心得者度数210%の紅い瞳。
 今はなにをしていますのかと言いますと、なにもしてません。
 うーん、鬱っぽい。
 気分というか思考というか存在というか、なんか下降してるっぽい。
 なんでだか私は知りませんけれど、そのおかげもあってチャットとかあんましする気無い、
 っていうかチャットってハイなときじゃないと出来ないって意味ですか、それは。うん、そうかも(自問自答)
 最近はなんとくチャットで風采の上がっていない紅い瞳なのです。
 しらふでできるか馬鹿、みたいなくらいになんか違うんです、最近。
 なんでやろ。
 たぶん、明日には忘れてると思うので気にしない方向で。
 チャットに出るのも忘れてるかもしれないですけど。
 
 そういえば上遠野浩平のナイトウォッチシリーズ再読中。
 始めの2冊は既に読んじゃいました。
 また、新しいモノをこの作品から得られて、嬉しい限り。
 やっぱりこの上遠野浩平ってヒトは面白いですね。
 このシリーズはこれで完結らしいですけど、続編が欲しいところ。
 
 で、そろそろココに書けるような事は全部書いたような気がふつふつと。
 あ、そうだそうだ。
 本日はこの後マリア様がみてる、とようやく再開のガンスリンガーガールの放送がありますよね。
 みなさん是非見ましょう。
 そしてもちろんわたくしめも両作品の感想を書きたいと思っていますが、
 しかしおいおい一日に2つ書くのは無理だろうと自分の中から素でダメ出しが来たので、
 マリみて感想を明日、ガンスリは明後日、という配置にしようかと思っています。
 その配置の根拠は、マリみての衝撃ですっかり心が麻痺ってる状態でガンスリを先に書けるか!、
 っていうことと、どちらかというとガンスリの方がじっくりコトコト時間をかけて書きたいタイプの感想ですので、
 後が詰まってない方が良いかな、という紅い瞳らしい微妙な心配りにあるのです。
 わかったかな? 諸君。
 
 
 では、おやすみなさい。 
 マリみてリアルタイム視聴なんて、そんな勇気ありません。
 夢になに見るかわかったものじゃないので。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 でも。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ごきげんよう (2連敗)
 
 
 
 
 

-- 040112--                    

 

         
     

 

■■君が望む永遠の夢 2■■

     
 

 

 
 
 以下は昨日の続き、っていうかなにか少し。
 たぶん、読んでもなにもわかんない。
 
 
 ◆◆◆◆
 
 特に書くこともないのだけれど、第二部に続くみたいにして昨日終わってしまったので、なにか書く。
 うん、君のぞは面白かったと思う。
 色々と。
 そしてそこらへんは一遍に省略して、最終話のお話が気に入ってしまった訳。
 マヤウルのお話とか、そのあとオコジョのハルの絵本だとか、あそこらへんで、もう。
 もう泣いちゃいました。
 遙のお話とかのあたりが一番でした。
 なんていえばいいんですかねぇ。
 昨日書くことは大体書いちゃったような心持ちなので、ほんとうに。
 といっても、やっぱり少しくらいは言い訳というか解説というかそういうのもありかな。
 うん。孤独とか、他人とか、そんな感じ。
 実際あの一人称の「私」は遙を指してる訳でも、紅い瞳を指してる訳でもないです。
 や、違うな。両方とも指してますけど、特定のなにかというわけでもなく。
 とりあえず、なんとなくの誰かさんの一人称ということにしておくとすっきりするはず。
 それで色々と書いてみたのですけれど、やっぱり行き着くところはオコジョのハルさん的世界。
 希望とかそういうの、簡単に言っちゃってるけど、ほんとはそんなに簡単じゃなくて、
 そしてとってもありがたみがあって、だからやっぱりそれは全部一から始めた上での希望であって、
 なにいってんだか自分でも素でわからなくなってきたのであって。
 
 (休憩)
 
 要するに。
 遙さん的思考というのは、可哀想ってことです。
 ハルさんも同じく。
 可哀想で、だから簡単に自分の孤独さを捨てられないって事が身にしみてわかる。
 結局世界をよーく見つめてみると、他人の中に飛び込んでいきていかなきゃいけないと思うようになるし、
 そしてそのことが最終的に目指すべき在り方だと思う。
 でもそれは。
 だからそうやって自分の過ごしてきた、自分だけの大切な時間の流れ、
 つまり私が居るという「此処」を捨てて新天地に赴くが如くの精神で生きる、
 というのとは違うのであって。
 遙もハルもマヤウルもそうだけど、みんな自分の居場所だけは変わらないのさ。
 自分が孤独だってことを、ちゃんといつまでも覚えていて、
 そしてそれは覚えているだけじゃなくて、今も常に実感しているものだったり。
 ハルなんて一番よくわかったよ。
 大事な大事な希望の光を持って、自分のその小さな足で、よいしょよいしょと丘を登る。
 かわいそーだよ、うん。
 だから、大好き。
 大きな足で、大きく自信一杯に一歩を踏み出したいと願いつつも、
 でもやっぱり遠慮がちにその小さな足でゆっくりと歩いてる。
 ハルさんは、きっと自分が可哀想で悲しくて、そして誰よりも自分が好きだと思う。
 遙も、たぶんそう。
 きっと自分の事が大好きなんだと思う。
 もの凄く嫌いで、もの凄く置き去りにしたい自分のカラダを、最後に受け入れたんだと思う。
 あの浜辺でタカユキに別れを告げたときとか。
 かわいそうとかわいいって似てるね。
 遙はかわいそうで、かわいいと思う。
 遙にとってのタカユキっていうのは、色んな意味を持ちすぎてるから。
 足が動かなくなってしまった自分に対して、色んなコトを言ってしまったから。
 きっとそのときに遙は、自分という他人を見つけたのだと思う。
 タカユキと一緒に。
 自分の動かないロクデナシのカラダを呪って、悪口を言って、傷つけて、
 殴って叩いて語りかけて、そうしているうちに、かわいそうなもうひとりの自分をみつけたのじゃないかな。
 自分がこうやっていじめている自分を、そうして好きになっていったのじゃないかな。
 遙はさ、自分を見捨てなかったんだよ。
 自分と、自分と云う他人と向き合っている「此処」を、置き去りにはしなかったんだ。
 うん。
 此処に居ることしかできなかったのじゃなくて、どうしても此処に居たかったのだろうね。
 絶対的にタカユキに置いていかれたのだとしても、遙は生きて行かなくちゃいけない。
 だって、遙には遙が永遠に居るのだから。
 
 で、まとめ。
 遙の内に遙が居て、タカユキは遙の外に居る。
 だから遙は孤独だけど、孤独じゃない。
 遙は今居る此処からタカユキの居る其処にはいかれないけど、
 でも、遙の此処にはいつも見えないタカユキが居る。
 居るって信じてるんだね。
 それが希望、だね。
 その希望は自分の外側にタカユキが居なければ始まらないし、
 自分が孤独じゃなければそれは存在しない。
 そして遙のうちに可哀想な遙がいるからこそ、此処にもタカユキが居ると信じられる。
 なぜって。
 なぜって、昔懐かしの、純粋なままの幼くそして可哀想な遙の横に居るは、誰よ?
 あの輝かしき時代のシャシンに遙と写っていたのは誰よ?
 そう、タカユキさ。
 可哀想なマヤウルの遙が此処に居るってことは、その隣には必ずタカユキがいるんだよ。
 自分の孤独を好きになれなかったら、やっぱり希望なんて無いか薄っぺら。
 可哀想な自分を愛して始めて、他人(ヒト)達の中に入っていけると思う。
 
 
 ん? まぁ、今日はそんな感じでいいんじゃん?
 
 あー、シンジの話とかもしたかったけど、それはまたいつの日にか、とかそういうことで。
 
 
 
 
 

-- 040111--                    

 

         
     

 

■■君が望む永遠の夢■■

     
 

 

 
 
 『辛い思いさせちゃってごめんね。でももう大丈夫だよ。』
  ・・・楽しい・・夢・・だった・・ありがとう・・。』
 
 

                         〜「君が望む永遠」最終話の遙のセリフ〜

 
 
 
 
 
 
 不思議なもので、私はたぶん誰かと一緒に居られる、ということが、
 当たり前な事ではない、と、随分前から知っていた。
 大好きでお互いに分かり合えて、もしかしたら愛し合っていたかもしれない人達と、
 いつまでも一緒に居られはしない、ということがごく普通の事に感じる。
 でもそれは、必ず一度そうではなかった頃が失われた結果の「普通」であった。
 
 大昔、私は誰かと共に此処に居た。
 それが永遠に続くと思っていた。
 それが無くなる、ということを想定出来なかった。
 そしてあるとき、私はそのヒトをそのヒトが此処に居ながらにして失った。
 その目に見える永遠を、この手の内から失ってしまった。
 いつまでもそのヒトと共にはいられないという現実が私を襲い、
 そしてあのヒトは私の側から去っていった。
 私だけが、そのヒトと過ごした空間の中に取り残されていた。
 あのヒトは、この世界に確かに居る。
 時折、馬鹿な顔してのんびりした時の流れを生きている私を、あのヒトは訪ねてくる。
 ひどく穏やかな笑顔の下に、氷のように冷たい体温を匿いながら、
 あのヒトは私を訪ねてくる。
 なにをしにきたのだ、と、私は思う。
 あのヒトはただ、私を訪ねて来た。
 かつての思い出話に華を咲かそうと、来た。
 今の自分がどういう事をしているかを私に話して聞かそうとして、来た。
 なにをしにきたのだ、と、私は思う。
 そんなことをしないで頂戴。
 私は、私の側にずっと居てくれないアナタなんて必要ない。
 会いたく、無いんだ。
 ジツに楽しそうに話すあのヒトの微笑みを確かに目の前に見ながら、
 けれど私には、その微笑みが遥か彼方に浮かぶ幻のように見えた。
 なにをそんなに悲しそうな顔をしているんだい?
 あのヒトはそういった。
 なにも言える訳、無いじゃないか。
 私が、私だけがまだこうして此処に居るだなんて、言える訳無いじゃない。
 あのヒトの目が、妖しく光り始める。
 嗚呼、嗚呼、その目をやめて。
 その、一番優しい想いを浮かべた視線を、私に突き刺さないで。
 あのヒトは、たぶんもうわかっている。
 今の私の寂しい境遇を知って、そしてそれをなんとかしてあげたい、ただそれだけの思いで、
 たぶんココに来てくれたのだと思う。
 なんという、屈辱。
 それを屈辱としか受け取れない、屈辱。
 私は、あのヒトを目の前にして呪い、そして・・・・確かに嫉妬した。
 
 あのヒトの目は、優しい。
 そして、優し過ぎる。
 私はその優しさに甘えて、だから永遠でいられた。
 私は、昔から、そして今でもあのヒトにはとても感謝している。
 その感謝にはでも、私の嫉妬がその裏側にしっかりと縫い付けてある。
 なんで私だけがこうなのだろう、と。
 なんで私だけがひとりじゃ生きていけないのだろう、と。
 なんで私だけがひとりなのだろう、と。
 私は、馬鹿だ。
 あのヒトが私に優しくし過ぎるから私は駄目になったのだ、と真面目に思ったりする馬鹿だ。
 それであのヒトの優しい目を睨み返していたりする、どうしようも無い馬鹿だ。
 私はそのずっしりとカラダに響く屈辱の念に強迫され、
 そしてその強迫の根拠を、またあのヒトの視線に、そしてその体温に求めた人でなし。
 私なんて、死ねばいい。
 もう・・・帰って。帰って頂戴。
 
 あのヒトの幻は、あのヒトが居なくなると消えてしまう。
 誰も居なくなった空間の中で、どうにもならない自分を呪う。
 嗚呼、また私はあのヒトを失って・・・・。
 私は、鋼鉄の如く無情なカラダを無駄に殴りつけて泣いてしまう。
 駄目だ駄目だ駄目だ。
 もう嫌。
 けれど、私はただ此処にいる。
 どうやら、そうしている事しか、私にはできないようだ。
 だから、私は此処に居る。
 此処に居ても良い根拠は、それだけ。
 でも、それだけで充分なのならば、私は生きてはいない。
 私は此処に居て、この空間に生を受けて、そしてなにかを求めている。
 あのヒトの瞳に、相応しいヒトになりたいと思った。
 でもそれは、そう思っちゃいけないんだ。
 あのヒトは、今、此処に居ないのだから。
 私の側に永遠に戻ってこないのだから。
 だから、私がなりたいのはあのヒトの幻の視線に耐えられるヒト。
 あのヒトはもう此処に居なくて、あのヒトの幻もあのヒトが私の安穏と共に連れて行ってしまったけれど、
 私はその幻だけは取り返さなくちゃいけない。
 あのヒトの代わりじゃない、私だけのあのヒトの幻。
 あのヒト達と過ごした、永遠の日々の夢。
 私はその夢を私の内に在らせたい。
 
 私は、辛い。
 たくさんたくさん、辛い思いをした。
 そしてそれが当たり前なことだとは、どうしても思わなかった。
 その辛さの根拠を誰かに求めて、だからこそなおその要求を取り下げる事に必死だった。
 私は、アナタの優しさが辛いのです。
 そしてなによりも誰よりも、アナタだけには幸せになって貰いたかったのです。
 アナタには、感謝しているのです。
 私はね、もう決めたのです。
 ひとりで、ちゃんと生きていくって。
 自分一人だけが持つ絶対の時の流れに、もう嘆くことはしたくないって。
 私は、誰も居ない空を見上げて、其処に確かになにかが浮かんでいるのを見つめてみたいと思った。
 たぶん、私はその時に気づいたんだと思う。
 誰かと一緒に居られることが、当たり前の事じゃないって。
 私は、ちっとも不幸じゃないって。
 それは誰かと比べた相対的な事ではなくて、絶対的にそう思った。
 みんな、みんな此処から出ていってしまう。
 その中で、誰かはたまに振り返ってはくれる。
 此処に帰ってきては、絶対にくれない。
 でも、それでいいんだ。
 みんなは外の世界にいっちゃったけれど、でも、私は。
 私は、この空の下でゆっくりと歩いていこうと思う。
 絶望なんて、していない。
 不幸じゃない、と言ったでしょう。
 私は、でも、あの幻を忘れない。
 あの夢を、絶対に忘れない。
 忘れないどころか、私は真昼の日の下でその夢を確かに今も見ている。
 辛いことなんて、なにも、無い。
 そして、此処に誰も居ないから、誰もが此処に居る。
 私の目に見えないヒト達が、たくさんたくさん、此処には居る。
 私はそのあまりに優しい見えないヒト達と一緒に生きていたい。
 いつの日か、その人達がこの目に映るようになったらいいなぁ。
 でも、映らなくてもやっぱりそれでもいい。
 私は、あのヒト達が確かに其処に居ると信じているのだから。
 あのヒト達のとろけるような甘く優しい微笑みのメロディが、あの空には在るのだから。
 そして私の内には。
 私の大事な此処には、あのヒト達の存在を信じたいと思える希望があるのだから。
 
 だから、ありがとう。
 だから、ごめんね。
 そして、さようなら。
 
 
 
 
 
 
 孤独ってなんだろう。
 知りませんよ、そんな事。
 なんで私だけ此処に取り残されるの?
 知りませんよ、そんな事。
 私はあんまり幸せじゃないと思うのだけど?
 知りませんよ、そんな事。
 どうして私と一緒にずっと居てくれないの?
 知りませんよ、そんな事。
 アナタは、なぜいつも私に顔を見せに戻ってくるの?
 知りませんよ、そんな事。
 アナタは、どうしてそんなに優しいの?
 知りませんよ、そんな事。
 
 アナタが其処に居るのはなぜかな?
 それは私が、此処にも居るからですよ。
 
 
 
 そうして私は、本当の宝物を見つけたのです。
 
 
 

                                      ・・・以下、第二部に続く

 
 
 
 

-- 040109--                    

 

         
     

 

■■冬目さん的お買い物■■

     
 

 

 
 
 手が冷たいので、燃やしてみたい (挨拶)
 
 少しばかり私のまわりを包んでいる諸々の要素がマリア様に見つめられて細胞分裂を過激に繰り返し、
 なんだか訳がわからないテンションが上昇しつつボケっとしていたりするなぁ、今夜は。
 私の言ってることもはやくも意味がわからなくなり始めましたが。
 さて、冬目景を買ってきました。
 漫画とかCDとか。
 「イエスタデイをうたって」の1〜3巻と「LUNO」1巻。
 LUNOは全何巻なのかは知らない。
 CDは、アニメ版DVDのサントラ「Destiny〜宿命〜」。
 うわ、こんなに漫画・アニメ関連のものを買ったのは久しぶりだぞ。
 
 というわけで、しばらく開封せずに鑑賞してみたり。
 
 イエスタデイは何度も立ち読みしているので中身はわかってるけど、
 LUNOは未読なので、さっさと読んでしまいたい衝動に駆られるも、
 そこをぐっと押さえて放置してみる試練。
 意味無し。
 耐え難いほどに意味無し。
 でもなんだか今、頭の中マリア様に占領されている状態でみるのも失礼に値するな、
 とか思い直して放置決定。
 お楽しみは後で。
 で、CDなんですけど。
 これはあれですねアニメのエンディング曲が収録されていてもう文句無し。
 まだ他の曲は聴いてないけど。
 けどエンディングはもう、スタッフさんグッジョブ!、というところまで来ている逸品ですので、
 つい調子に乗って買ってしまったのだよ、諸君。
 以前のDVD感想でも述べたのだけど、あのEDはかなり歌詞が真に迫っていて、
 よくぞここまで作品の趣旨を盛り込めたものじゃのう、というくらいに良いよ。
 聴いたことの無い羊のうたスキーは是非聴いてみれ。
 ちなみに私は、羊のうたを読むときに、花*花の「コモリウタ」っつーミニアルバムをBGMにしてた。
 あれはなぜか微妙に合うんだよね、とっても。
 
 で、まぁ、今日はそれだけなのだけど。
 なんだか寝付けなくて、ちょっと書いてみただけ。
 そんな感じ。
 あと、今年も冬目景でどんどんぶっこんでいくんで、よろしく。
 マリア様には負けません。
 
 
 
 
 
 
 
 では、ごきげんよう (負け)
 
 
 

-- 040108--                    

 

         
     

 

■■マリア様が見てる■■

     
 

 

 
 
 ロ、ロサ・・なに?
 
 
 
 振り返ればマリア様。
 気づけば其処に祥子様。
 そしてすっかりハマっちゃってる祐巳さん。
 そしてゆっくり壊れ始める紅い瞳さん。
 
 こんばんわ、みなさん。ご機嫌麗しゅう。
 私こと紅い瞳(逆)は、本日をもちましてマリア様の視線を常にその背に感じつつ、
 お姉様方の美しきお戯れに翻弄されるお可愛そうな一年生に同情を捧げつつ、
 共に訳もわからない甘美な世界を生きていくことを誓います。
 その誓いは、マリ見ての放送が終わるまで有効。
 
 改めまして。
 ごきげんよう・・じゃなくてこんばんわ。
 例の噂の巷間に流布したる「マリア様が見てる」のアニメが始まりまして、はい。
 私なんてもう、すっかり壊れてしまいましたのです。
 噂以上の素晴らしさ、そして予想以上の破壊力に、もはや抵抗の術無し。
 逃げ道も無し。
 よって私は逃げも隠れもせず、マリみてに溺れてみようと、こう思うので御座います。
 例によって、紹介してくださったときみつさんには感謝感謝で御座います。
 よくも私を引きずり込んでくれましたね。
 で、あれは一体なんなので御座いましょうかと。
 はっきりいって、紅い瞳にとって新感覚で御座いました。
 予想しておりましたのは、ただ単にお嬢様がたの華やかな生活がひたすら上品に描かれていく、
 そういうよろしい趣味で成り立つもの、そういう感じでした。
 ところがところが。
 予想外に、あれはそういう雰囲気を基盤としつつも、きっちりと面白可笑しい「ひび」を入れられています。
 私はですね、一話を見てみてとても笑いました。
 なんていうのでしょうか。
 上品なんだけどどこかしっかりとズレていて、どこか確実にピントがずれていて、
 そして自信満々に笑わせて頂けると言いますのでしょうか。
 非常に、非常に軽いユーモアが引き込まれていて、ほんとうにただの美しい夢物語、
 そういう見上げて憧れるだけのモノじゃない愉しみに満ちているので御座いますねぇ。
 彼女達お嬢様方のお嬢様っぷりにしても、よく聞いてるとヘンな事ばっかり言ってますし(笑)、
 「おひおひ、そこでそんな発言ありえないっしょ」ってセリフも一杯あって、
 でもそれでも全体的にすーっとそれが不自然ではない形にまとまっちゃってるというのでしょうか。
 笑っているうちに、すっと主人公たる祐巳さんの視線に重なって、いつのまにか目の前にお姉様方が居て。
 むしろ、これが上流というものなのだよ、って言われたらへーそうなのかーって感じで納得できちゃうような、
 気が付いたらお姉様方と一緒にふふふ、と微笑んでいたり、
 そういう、とてもとても綺麗で嘘臭くてそして確実に本気な説得を仕掛けられるような。
 
 で、すっかり訳がわからなくなってくると、すっと祥子様が祐巳の前に現れて、ごきげんよう、と。
 
 くぅー、なんて綺麗なんでしょう。
 なんて優しいこの揺さぶり。
 かつてのエアマスターにもピースメーカーにもない、この極上の親切心。
 これは人気がある訳で御座いますよね。
 とても美しくて、優しくて、そしてなにより繊細で(色々な意味で)洗練されていて、
 それを見る側に確実にその世界をお届けしてくれる行き届いた親切。
 見ていてもうラクチンでらくちんで、実に良いお時間を過ごさせて頂きました。
 とはいえ、私はロサ何々が全然覚えられなくてヘコんでいますし、
 お姉様方の関係が全然アニメ観ただけじゃわからなくてヘコんでもいますが、
 それは置いておいて(ぽいっと)、
 ええと、
 ああ、お姉様〜。
 
 ・・・・。
 えっと。イキナリ叫んでごめんなさい。
 まだお名前とか全然存じ上げなくて本当に申し訳ないので御座いますけれど、
 でも、私はお姉様達の世界に溺れましたのです。
 いいです。良いです。
 今年第一のアニメの御名を献上させて頂きます(はやっ)
 なんといいますのでしょうか。
 私もてんで未熟なものですから、どう言い表して良いのかわからないので御座いますが、
 まず第一に、白薔薇様にやられた予感。
 志摩子様にハマりの予感。
 そして、祥子様の幻影に怯えそうな予感。
 そのような感覚に捕まりましたことは、まず間違いないようで御座います。
 
 第二に、えっと、なんだっけ。
 よくわかりません。
 明確にわかったのはそれくらいです。
 とにかくそのあたりの感覚が、最初に挙げたお上品なひびの入ったお笑いの上で踊っているのです。
 今はもうただ、酔いしれているところで御座います。
 ここまで書くのに要した時間は約15分とかなりの飛ばしようで、
 20分前にマリみて第一話見終わって、そのまま書き出したらこうですよ。
 その見る直前までリアルワールドである意味死線の上をなぞって歩いていたんですけど。
 もうかまいやしない。
 てか、本日で日記執筆再開です。
 てか、マリみて崇拝開始です。
 
 
 
 
 ・・・・・。
 
 では、ごきげんよう。
 
 
 
 
 おまけ: ときみつさんから教えて頂いたナイスページをご紹介。
      http://ts.sakura.ne.jp/~act/m/about.html
      マリみて初心者にはまさにうってつけで御座いますよ♪
 
 
 
 
 

 

-- 040104 --                    

 

         
     

 

■■本年覚へ書き初め■■

     
 

 

 
 
 今現在すっかりテンパって頭ぐるぐるでドア蹴破って奇声を上げそうなほどにアレですが、
 けれどそれで何が変わる訳でもなくむしろむやみに精神が高揚していくだけの悪循環。
 せめてもう少し落ち着けないかと呪言を呻吟しようとも、なんら効果無し。
 紅い瞳、背水の陣を只今布いている真っ直中に御座います。
 されど、そんな中においてもイマイチ切迫感が無いところを見ますうちに、
 また今年も惰性航路まっしぐらなのだなぁ(詠嘆)、という想いに囚われても御座います。
 
 要するに、現実逃避するために日記を書きに参りました。
 
 とにかく本が読みたい訳です。
 私にとって本がなんたるかは説明するのも面倒なので知った事でなく、
 なにはともあれ本が読みたい。
 といいつつ京極夏彦の「陰摩羅鬼の」読了ー。
 相変わらずの能弁ぶりの言葉尽くしの快感はたまりませんし、
 その、京極はん、グッジョブ! (親指を立てながら)
 で、無性に次作が気になるわけですが、しかしねぇ。
 京極はんも宜しいどすが、しかし京極流言霊遣いによる世界の単一的な捉え方、
 それはそれで爽快なのだけれど、
 今はもうちょっと複層・瞬間的連続性(なにそれ)に満ちた本が読みたい。
 読みながら考えて感じてるうちに空の色が変わっていくような・・・。
 例えば岩井志麻子とか。
 あー、あとやっぱり外せないのは太宰治と坂口安吾で御座います。
 このお二方には最近非常にお世話になっておりますゆえ、
 またしばらくご厄介になろうかなど画策してみたりするのです。
 といいつつ太宰治「右大臣実朝」読み始めー。
 坂口作品は次はなにを読み解くかなー。
 といいますか、まずは今年はこのお二人の考えを見極め尽し、
 さらにそこに紅い瞳のテイストを上乗せした新感覚を獲得したいもので御座います。
 その周辺に織田作之助あたりもからめられたら良いのぅ。
 文学的小説読み一年生の紅い瞳、日々まったりと精進を目指すです。
 精進することを目指すンです。
 しばらくは、そういう方向で。
 あとはあれですか、上遠野浩平あたりですか。
 しずるさんがなんとか、というのと、海賊島なんとか、という2タイトル以外は全部読んだんですが、
 しかし今更ながら思うに、彼の著作の中ではナイトウォッチシリーズが一番重量があるよな感慨。
 ブギーポップシリーズの霧間凪の存在への興味が尽きないまま現在に至るも、
 なかなか次作が出ないうちに凪以外への評価が定まってきたり。
 そうすると、ブギーの質が作を追う事に低下してきているよな感触。
 などと無駄なコトに想いを馳せながら、しずるさん待ちの日々。
 予約者あと私1人だけなのに、一体何ヶ月待てば借りられるんだーくそぅ >図書館様
 上遠野たんは、しばらく放置。
 そうすると、やはりここは歴史小説に飛ぶのでありまするが、ココノトコロ当たりは無し。
 誰ぞ面白き作者は知らぬものか。
 
 やはり私には、まだまだ思考レベルが低いように思われるフシが散見されるゆえに、
 まだまだまだ本を求愛すべき態度に積極性を付与して然るべし状況。
 それと同時に常に本に飲まれて悪い意味での文学オタクになることを避け、
 かつ作品評価をするという意味での評論屋さんに私はなりたいわけではない、
 という事を認識しなければならないと思うのです。
 てっとりばやくそれを為したければ、自分にゃさっぱり理解出来ない本を読む訳です。
 あ、私、この間芥川龍之介読んでヘコみました。
 どの作品を読んだかは私の沽券に関わる事ですので絶対黙秘。黙秘で御座います。
 で、全然わっかんなかったので御座います。
 痛いね。辛いね。泣きましたね。
 そして自分がどこに居るのか、すぐにわかったあるね。
 自分が文学読みとして初心者であること、
 自分が文学という、世界の中で体系化されたハバのあるものに対する知識が皆無な事。
 自分とは離れた言霊で綴られた世界への私の認識能力が、未だ拙いのである事。
 そして、本を読むって事が私にとってどういう意味があるのか、とかね。
 娯楽品でも研究対象でもコレクションでも無いので御座います、私にとって本とは。
 Q: じゃー何なので御座いましょうね?
 A: さぁ、知りません。
 
 で、本の話なんてこのあたりでほっぽり出して漫画のお話で御座いますよ。
 やっぱり、冬目景の「イエスタデイをうたって」と「LUNO」を買いますよ。
 買って読んで考えて感じて泣いて笑って忘れたりもするけれど、私は元気です。
 冬目殿は、私が敬愛してやまないと見せかけて醒めた目で観察し申し上げている漫画家さんです。
 色々、まだまだ、そしてなかなか風情のあるモノを描いてくれている方で御座います。
 む。風情って形容で合ってる事にしておいてください。
 
 アニメの話とかは、今日はいいです。
 
 で、 オンリーワンがなんだとか。
 本を読むって事と同じよな気がするかな。
 孤独を解して、世界を識る、みたいな (なにそれ)
 他者を見る事で自分と自分の居場所を認識して、
 そうすることによって己の独自性、唯一無二性そして絶対の孤独を確信したりするわけですが、
 しかしその自分の中には必ず他者が内在していて、それがあるから世界と繋がってて、
 だから孤独ではあるのだけれども、
 それはわざわざオンリーワンなんて誇示する事じゃない実に「当たり前」な事であって、
 その内に他者を抱えた孤独であるからこそ、孤独では無いとかなんとか。
 よーするに、自分が孤独だって言うのは絶対に理解しておくべき事だけど、
 でもそれはあくまで前提としての始まりであって、
 その、孤独のまま、たったひとりの自分に酔いしれて生きてていいんだ、
 という結論という終わりにはなっちゃ駄目なんだよぅ、と言いたいのかな。
 なんでかと言いますると、それじゃ「救われ無い」からですヨ。
 孤独である自分に「満足」しちゃ、救いたくても誰も救えない。
 孤独が嫌である感覚が刹那でもあれば、それはもうそれが安住の地じゃないって証拠なのですら。
 ほら、例の灰羽連盟の感覚で御座いますよ。
 自分が孤独で、だから外にも他の人が居て、だから自分はひとりじゃなくて、
 そしてその自分以外の人達の事を識っていく、っていうのが世界を識っていくってこと、
 という事にしておきたいので御座います。
 で、他者を知ればそれは自分の理解にも繋がるし、
 そうしていくことでまた、私は誰?、というかくも有名なる問いを再び重ねられると思うのでござる。
 逆説的(そうなのかな?)に言えば、世界の中でナンバーワン目指す事の方が、
 よりその問いに答えるための材料を手に入れられると思いますですよ、わたしゃ。
 でもそこで忘れちゃいけないのが、やはりオンリーワン。
 自分らしさなんて、そうやってナンバーワン目指してるうちにだんだんと無いように思えてくるし、
 事実そんなものは無いって言えちゃうと思う。
 だけどだからこそ、オンリーワン。
 オンリーワンは終わりじゃないけれど、始まりなんだよ。
 始まりっていうのは、一回通り過ぎて終わりじゃないのよ。
 なにかが終わればまた始まって。
 無いはずの「自分」という幻想を持つことを忘れてしまったら、やっぱり生きていけなくなっちゃうと思う。
 常に原初の孤独に立ち返りつつ、世界の中に飛び込んで上へ上へと向かっていく。
 以前、孤独っぽい小説(ぇ)と歴史小説を同時に読むと良いよ、と言ってくれた人が居ました。
 歴史小説ってのは、それだけで読むと、悪いけどほんとバカっぽい。
 大義がなんだブシドーがなんだとか、確かにわかるのだけれど、
 そんなに簡単に同意できるかバカとか言う感じなのだよね。
 私、武士じゃねーし。
 概念を先頭に押し立てて、あとからそれに自分をくっつけていくっつーノリって、怖いし。
 壬生義士伝くらいだにゃ、それとは真逆にゃのは。
 だから、「逃げろ、吉村!」はやっぱり名言で御座います。
 でも、待て、と。
 私はね、やっぱりそうじゃないのさ。
 やっぱり、きらびやかでまぶしく輝いているような概念掲げて、
 それに向かって清廉に生きたいと思わなきゃ、生きられんじゃろ思うのさ。
 一番素晴らしいと思うモノを掲げて、一番それに対して真摯に取り組み、
 そしてその自分と同じような在り方をしている他の人達の中で一番になって。
 ナンバーワンになるんや。
 そして、それと同時にオンリーワンになるんや。孤独小説(だからなにそれ)も読んで。
 自ら自身をしっかりと顧みることで、上へ上へと掲げたものに向かっていける。
 坂口安吾の徹底的に堕落しきった上での、崇高なるものへの憧れとか、
 太宰治の天上なるモノからの罰を恐れながら、びくびくとそれでも生きていく敬虔さとか、
 やっぱり、色々勉強になりますのですよ。
 そしてそうやって、わからない事をわかるようにしていくんだろうなぁって。
 そして、だから頑張ったり努力したりするんだよなぁって。
 
 現実から逃避してる場合じゃないんだよなーって。
 
 
 さー、がんばろーか (涙)
 
 
 
 
 
 
 
 
 P.S という事で、しばらくの間現実逃避(日記執筆)はしません。
    余裕無いのよ、今 (某ミサトさん風)。
    たぶん今週の金曜か土曜が、私が壊れていなければ復活予定日。
    
 
 
 
 
 

 

-- 040101 --                    

 

         
     

 

■■元旦としての前書き■■

     
 

 

 
 
 あけおめ、ことよろ。
 
 
 うん。
 なんだかこの挨拶もすっかりお気に入りとなり始めたようで御座います。
 みなさんこんばんわ。
 そして改めまして(改めるのかい)、新年明けましておめでとう御座います。
 旧年中は、皆様には大変にお世話になりまして、
 私としましてはその受けた大恩を如何にしてお返し致すかを考えるに四苦八苦し、
 結論として特に気にしないでのうのうと今年も生きていくことに致しました。
 みなさん、今年もよろしくお願い致しますね♪ ←爽やかな笑顔で
 
 それでまぁ、今年の抱負とか目標ですか。
 どうしましょうかね。
 なるようになれ、ってかんじなんですけどね、今の気分。
 うん、まぁ、そんな感じです、今年も。来年も。再来年も。
 あとはそうですねぇ。
 やっぱり日記をもっとうまくかけるようになりたいっていうのがありますね。
 もっともっと言いたいことが言えるように。書けるようにね。
 具体的には、ガンスリの感想ですよね。
 あと少しで放送終了ですけれど、まだまだあのアニメはいけますので、
 ガンガン日記力を高めつつ立ち向かっていきますよ。
 ピースメーカーの後始末もしなくちゃですしね。
 とりあえずは、この2作品の感想を完結させるのが、当面の具体的な目標でしょうか。
 ガンスリの方は、いずれ鑑賞会とかもやってみたいです。
 参加者が居るようでしたらば、是非やりたいところですね。
 
 ・・・・。
 なんかここまで書いてみて、文章の稚拙さに気づきました。
 
 あれ。
 なんか調子出てないですね。
 なんかヘンですね。
 でも、まぁいいや。新年だし。
 
 で、そんな感じでアニメな訳ですが、当然新しいアニメも始まるワケでして。
 私が今楽しみにしてるのは、やっぱりこれですよね。
 1月7日放送開始の、マリア様がみてる
 これはやはり外せないところです。こういうの素で好きですし。
 また趣味的な面白さだけに止まらない発見があると嬉しさ倍増。
 それは私の見方次第でもありますので、精進しつつ頑張って視聴してみようと思っています。
 ああ、お姉様〜、とか言い出したら絶好調の証です。
 
 え、こほん。
 次ですが。
 次と言っても、またアニメですけれど。
 MEZZO」。
 1月4日から始まるのですけれど、これはなんとなーく面白い展開になりそうな雰囲気がしました。
 ですので、チョイス。まずは観てみる事にしました。
 他には特に1月から始まるアニメの中に面白そうなアニメは見つけられませんでした。
 微妙に不作な予感がポロポロと。
 
 あ、それと言い忘れていましたけれど、感想書いていないけれど視聴継続中のアニメのお話。
 「君が望む永遠」。
 コレ、最近私の中で面白いコトになってきているのですけれども。
 この間の第13話なんて、かなりのめり込めました。
 のめり込んだ、というより飲まれちゃったんですけど。
 鬱アニメ、だなんてなかなか面白いあだ名付けられてるこのアニメですけれど、
 その名の通りがくんと自分の精神を突き落としてくれる感覚は、まず確かに凄い。
 でも、それだけじゃないなー、ってあの13話の遥見て感じたなー私は。
 まだ、うまく説明できないけれども。
 次は十二国記」。
 ええと。
 なんだかもう、凄すぎますね、最近のこのアニメは。
 面白くて面白くて、その面白さが何度頂点を極めたかもわからないくらいに上り詰めていたのに、
 おいなにやってんだ頂上はまだだぞ、って後ろからガツンガツン追い上げ喰ったような感覚。
 抽象的な表現ばかりですみませんけれど、今はそれだけです。
 説明するの面倒
 
 さて、話題変わりまして、一応TOPをリニューアルしました。
 よく、わからない出来となりました。
 もう知らない。
 
 
 
 
 
 
 
 こんな我が儘でへたれな私ですけれども、
 どうか本年もよろしくお願い致します (土下座)
 
 
 
 

 

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