〜アニメ『マリア様がみてる』第13話「ごきげんよう、お姉さま」感想 第3部

 

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                         ■■マリア様はみてる、貴方を  3 ■■

     
 

 

 
 
 
 
 『また明日・・・。
  明日になれば、また大好きなお姉様に会える。
  今日の日がこんなに楽しいものだったから、たぶん明日も素晴らしい日になるに違いない。
  それが、私とお姉様の未来なんだ。
  お休みなさい、お姉様・・・・・・また、明日。』
 

                                〜 最終話の祐巳さんのセリフより〜

 
 
 
 
 ごきげんよう、皆様。
 紅い瞳です。
 アニメ『マリア様がみてる』の最終話の放映が終わってしまいました。
 私はもうなにがなにやら、といよりなにもかもが目の前に浮き出てしまったかのような、
 そんな脱力感と、そしてなにもかもが目の前に広がっている最高の充実感を感じています。
 すっかり心は涙で一杯になって、私はただ嬉しいのやら悲しいのやら、さっぱりわかりません。
 私にはこのアニメが終わってしまうことが、未だに信じられないようです。
 それはなによりも、この作品の「終わり」を強く見せつけられたがゆえの、実感の喪失なのです。
 もうマリみては終わったんだよ、と誰かに強く言われてしまって、
 そのときになって初めてその終わりに気づいて、自分の意識と現実との齟齬に困惑してしまう。
 私の中では、マリみては全然まったく終わっていないのに、それが終わってしまっていたことの驚き。
 私はその困惑と驚きのうちに、感想を書いてみました。
 なんと今夜で三夜連続更新なのですよ、ほんとびっくりですよね(笑)
 
 でも、私にはマリみてがこれで終わったのだ、という事実よりも、
 この最終話、いえ、第13話がどういうものであったのかを考えるほうが大切な事と思われました。
 そして、考えるまでもなく、この第13話は私にすべてを見せてくださいました。
 見てその瞬間に、あっという間に様々なことが私の中に飛び込んできて、
 私はもうただただ私の瞳と心を目一杯開いて、その贈り物を受け止めていました。
 受け止めても受け止めても止まらない、そのマリみてからの贈り物。
 志摩子さんのことが、なんだかとてもよくわかります。
 わかって、そしてその向う側に私の言葉が待っていて。
 マリみてから飛び込んできた志摩子さんの姿が、私の言葉と溶け合って、
 次々と文字となって私の前に広がっていきました。
 それは志摩子さんであって志摩子さんでなく、だからこそ志摩子さんでした。
 由乃さんの考えていることが、どんどんとわかっていきました。
 由乃さんが考えて考えて考え続けて、その考えを私も一緒になって考え続けて。
 その考えの過程がいつのまにか私の中に入ってきて。
 私はとても心地よくて、ただただ真っ白になって由乃さんを書き続けていました。
 楽しくて嬉しくて、そして悲しみさえも受け取っていて、いつのまにか感想が2つ書けてしまいました。
 私には、もう二度とあのふたつの感想は書けません。
 あのとき感じた、私に流れ込んできたマリみてからの贈り物のぬくもりは、
 あの日あの時間に書いたからこそ、その温かみを宿していられる。
 私が感想を書くということには、そういう部分もあります。
 私は、昨日一昨日と、確かにマリみてと共にありました。
 そして今夜は皆様に、その温かみがどんなものであったのかをお話しようと思っています。
 うまくお話出来ることを、願っています。
 
 さて、それでは長い前置きとなりましたけれど、マリみて第13話についてのお話をさせて頂きましょう。
 まずは、これを始めに言っておく必要があるでしょう。
 私は、このお話がマリみて全13話中でもっとも涙が止まらなくなるお話なのだと思いました。
 勿論、それは私個人が泣けるということですけれど。
 とにかく、とてもとても涙が出てきて堪りませんでした。
 美しくて、暖かくて、冷たくて、そしてなによりも優しくて。
 私がマリみてを通してずっと受け止め続け、そしてそれがなんであるかを考えてきた「優しさ」のカタチ。
 優しさとは、なんなのでしょうか。
 今までの感想の中で何度も問い続けたこの問いに、
 私は何度も答えを出し、そしてその答えにさらに問いを加味してきました。
 そしてその度に、何度でも、そして何回も何重にも私は優しさというものを目の当たりにしました。
 
 祐巳さんと祥子様のデート。
 これはもうまさに、優しさのカタチそのものでした。
 祐巳さんと祥子様が、試行錯誤と苦悩と絶望を繰り返しながら、
 求めていたのが、お互いへの優しさをどう示せばよいのかということ。
 祐巳さんは祥子様に、自分の想いをすべて話す、という手法を開発してそれを自分のものとしました。
 祥子様に優しさを求められ、祐巳さんも祥子様の求めに応じたい、
 ただただそれだけが延々と繰り返されることの憂鬱を、すっかりと払拭した祐巳さん。
 いいえ、それは払拭なのではありません。
 その憂鬱があっても、それでも必ずその憂鬱が、
 祥子様に相応しい優しさを祐巳さんに与えてくれることを、祐巳さんは信じることができたのです。
 そして、祥子様へ示す優しさの追求こそが祥子様との未来を創ると確信したのです。
 いいえ。
 信じるとか、そういうことなのでは無いのかもしれません。
 信じる前に、既にそれはもう祐巳さんにとって自明の事になっていたのでしょう。
 祐巳さんは、ただぱっとなにもかも飛び越えて、その未来の訪れを確信できるようになった訳では無い。
 なにかを突き詰めて考えて考えて、頭の中でひとつひとつの問いに答えを出して。
 その導き出された答え、それを徹底的にさらに見つめ続けて、
 そうしてあるとき、初めてその答えが自分の中に入ってくる瞬間。
 私は、これをこそ信仰の始まりというものだと思います。
 宗教、などという言葉は不要です。
 或いは、本当はそれをこそ宗教というのかもしれません。
 
 祐巳さんにとって自明となった、祥子様への優しさのカタチ。
 自分の想いを、そのことが祥子様にどのような影響を与えるかを考える前に、
 まず祥子様にその想いを素直に示す事。
 祥子様は、とてもとても強くて、そして美しい人。
 そしてその美しさは際立ち過ぎる余り、周囲との隔絶を建設しています。
 祥子様はその隔絶を崩して、まわりの人達と接したいとだから願っています。
 祐巳さんがそのような祥子様を考慮して、祥子様に良かれと思って色々考えること自体、
 それは祥子様と祐巳さんの間に壁を作ってしまっているのです。
 特別扱いされたくない、だけど自分は特別なのは事実なのだから、
 だから自分のほうからみんなの方に歩いていこう。
 ですから、祥子様は幼いときから周囲と同じになろうと努力してきたのです。
 祥子様にとっては、自分と祐巳さんが違うのは、だからまずそれが大前提としてあって、
 そこから、では違うのなら同じになりましょう、となり、
 自分から祐巳さんに近づいていこうとして、だから祐巳さんには祐巳さんがどういうものであるのかを、
 たくさんたくさん祥子様に示して欲しかったのですね。
 それなのに、祐巳さんはずっと祥子様は特別なのだから特別な人として扱わなくちゃと考えていたのです。
 祥子様が祐巳さんに近づこうとすれば近づこうとするほど、祐巳さんは祥子様から距離をとってしまう。
 やがて祐巳さんは、そのような自分と祥子様の関係に気が付きます。
 祥子様が、自分と同じ事をしたいのだ、ということが段々とわかってきます。
 けれど。
 そうして段々とわかって、そしていよいよすべてが理解できてそしてひとつの答えが出たとき、
 その答えが正しいのだとわかっていても、
 でもそれは祐巳さんが最初の一歩を踏み出せるかどうかとは、根本的に繋がりが無い事なのです。
 いえ、繋がりはあるのです。
 でも、その祐巳さんが導き出した答えは、決してく祐巳さんの背中を押してはくれなかったのです。
 例えるならばある物とある物が糸で繋がっているときは、
 どんなに一方の物を押しても、その動きの力はもう一方の方には伝わらないという感じでしょうか。
 祐巳さんは頭で祥子様へ示す優しさのカタチを捉えていながら、
 それなのにその優しさを発露させることがどうしても出来なかったのです。
 でも。
 それでも祐巳さんは祥子様を見つめ続けていて、
 そうしていつのまにか、その優しさのカタチが自明の事となっていたのです。
 それは、祐巳さんが祥子様を思い続けることをやめなかったから、なのだと思います。
 悩んでも苦しんでも、ときには挫けて諦めても、
 それでも常に自らの視線が帰る先に祥子様の姿があったから。
 祥子様への優しさを忘れることを、絶対にしなかったから。
 祐巳さんはついに、祥子様へ自らの優しさを示すことに成功したのです。
 
 みなひとりひとりが優しさを忘れずに。
 誰ひとりとして、相手の存在を忘れない。
 誰かを愛し、そのことを感じ続けることが、常に優しさを堅持していられるのです。
 そしてその優しさの中に生きていられる幸せ。
 志摩子さんは聖様に救われます。
 それは多くの優しさの中で培われてきた救済。
 自分ひとりが、自分だけで生きていく、そういう道を選ばなかったからこその幸福。
 由乃さんは言います。
 令ちゃんが全部悪い、と。
 誰も悪くないから、誰ひとりとして優しさを無くさないから、敢えていうこの言葉の意味、わかるでしょうか。
 優しいのが当たり前なのだから、だからもっともっと優しくならなくちゃ駄目なのよ、ということ。、
 優しさの追求をやめない、絶対にこれが優しさの終わりだよ、という事を起こさないために、
 由乃さんは令様にこの言葉を投げつけたのです。
 そして、その優しさの要求の先に確かに令様が居る。
 その令様が在ることへの最高の感謝の言葉でもあるのです。
 
 志摩子さんを待っていた聖様。
 聖様に抱きついた志摩子さんに、私はかけられる言葉がありません。
 ただもう良かったね、本当に良かったですねと心の中で囁くしかありません。
 聖様がこの先ずっと志摩子さんの前に広がっている事の、最高の歓び。
 なんという優しさでしょうか。
 志摩子さんはなにも悩んでいません。
 悩むことが無いほどに世界は歴然として其処にあって、
 なにも疑うことが出来ない景色に志摩子さんは居ます。
 でもその疑いを越えてその景色をただ受け入れる事が出来ない。
 静様の事を好きだと言った志摩子さんは、それでも静様から手を離してしまいます。
 静様の優しさ。
 それはもの凄く嬉しくて、そしてそれはあの歌によってすべて表わされている。
 マリア様が貴方にすべてをくださっているのよ、と世界の素晴らしさを示す歌声は、
 しかしそれは同時に例えようもない重さを以て志摩子さんに迫るのです。
 こんなにも素晴らしく美しい世界の中にありながら、それなのにその美しさを自分の瞳の中に宿せない。
 重いです。重くて、押し潰されそうなのだと思います。
 静様の優しさは、その素晴らしい残酷さを以て、志摩子さんに迫っています。
 志摩子さんの言葉を使い志摩子さんとひとつになることで、
 静様は志摩子さんがこの世界の中で孤独であることを強く示します。
 自分と静様は同じなんだという事に歓びの涙を流したその瞳で、
 今度は世界の中に静様を失い自分が孤独であることを思い知らされてしまいます。
 静様の優しさを受け入れてしまう事で、自分が自分だけで立たなければいけないという恐怖。
 仮面を被って必死に自分は独りであるという素顔を隠していたのに、
 その素顔を強引に表に出されてしまう。
 それはとても残酷な事です。
 仮面と素顔があって、初めてそこに志摩子さんが居るという証しを得られるのに、
 それらの関係をすべて暴かれてしまっては、志摩子さんはこの重圧の世界で生きてはいけないのです。
 素顔を隠すことで素顔を強調し、その素顔を引き立てるためにさらに仮面を強調し、
 そしてそれらはすべてそういう素顔と仮面が志摩子さんにあることを示す志摩子さんの魂の叫び。
 それなのに、その仕組みにすべて言葉を与えて表に出してしまえば、
 その仕組みになんの意味も無くなってしまうのです。
 呆然とするしか無くなった志摩子さんが其処にいます。
 そして。
 そんな志摩子さんを聖様はお救いになられるのです。
 志摩子さんの仮面と素顔の意味を理解し、なにが志摩子さんの重圧となっているのか。
  重圧に喘ぐ志摩子さんに、さらに重圧を加えたところでなんの意味もない。
 世界の中にただ志摩子さんだけが居ること、それを強調してもそれは残酷なことです。
 自分が独りであること、その自覚は非常に大切なことですけれど、
 しかしそれだけで生きることなど、できはしません。
 誰も居ない世界になど、生きる場所は無い。
 聖様は、志摩子さんを抱きしめながらこう言います。
 『私なら、ここに居るよ』、と。
 この言葉がどれほど大切なことか、私にはよくわかります。
 
 由乃さんが令様に言えた、令ちゃんが全部悪い、という言葉。
 志摩子さんが聖様に言われた、私なら、ここに居るよ、という言葉。
 自分の外側に誰かが居ることの確信。
 世界の中で、自分は確かに孤独なのだけれど、ひとつではないと感じられる歓び。
 その歓びを感じられて、初めて由乃さんは令様と共に歩くことが出来、
 そして志摩子さんの瞳に美しい世界の景色が返り咲くことが出来たのです。
 それが甘えなのだとしても、良いのでは無いでしょうか。
 私は思います。
 誰かを無視してひとりで生きる事に、なんの歓びがあるのでしょうか、と。
 甘えることすら出来ない自分に、なんの価値があるのでしょうか、と。
 自分が自分の足で歩かなければならない、という事実は確かに大切です。
 でも、だからといってそれは誰かと共に歩いていくということを否定することにはなりません。
 逆にいえば、それを否定することは誰かと生きていくことから逃げている、とも言えます。
 そして、ほんとうはその事から逃げることなど出来ないのです。
 由乃さんも志摩子さんも、そして祐巳さんもそれを強く感じています。
 誰かに甘えること、それ自体がその人と生きていくことなのだということ。
 優しさとは、どう甘えどう甘えて貰えるか、という方法の形でもあります。
 素直に甘えてみたり、少し見栄を張ってみてから甘えてみたり、
 甘えることなんて絶対にできないと言いながら、そうやって「駄々」をこねて見せる甘え。
 その甘えの連続が、祐巳さん達を包み、そして祐巳さん達をしっかりと前に進ませているのです。
 誰かに甘えられる状況を自分で作り出せるその事自体が、自立への第一歩。
 祐巳さんは祥子様に甘えることができました。
 由乃さんも令様に、志摩子さんも聖様に甘えています。
 祐巳さんは祥子様を、由乃さんは令様を、志摩子さんは聖様を決して無視しないがゆえに出来る甘え。
 ときには無視したいときもありました。いっぱいいっぱいありました。
 祥子様に、令様に、聖様に甘えることが怖くてずっと気を張ってみたりもした。
 でもそれは「駄々」であったことに気づくのです。
 いいえ。
 その駄々があってこそ、甘えることができるようになったのです。
 気を張ったり、あるいは気を遣ってみたりして、常に相手の事を考えながら、
 そうした試行錯誤に試行錯誤を重ねるうちに、ふっとそれが実感として自分の中に入ってくる日。
 ああ、こういう風に甘えればいいんだ、そしてそう甘えて良いんだ、という実感の体得。
 そしてその実感は、自分の歩いている世界、そして進む道の行く末をなによりも強く与えてくれます。
 甘えても、いいんです。そうなのです。
 今日も、明日も、明後日も、ずっとずっとお姉様を愛し続けていけるのです。
 そして、愛し続けていても良いのです。
 祐巳さんのラストのセリフが、なによりもそのことを強く顕わしています。
 其処に確かに祥子様の姿を感じることが出来るからこそ、祐巳さんには未来があるのです。
 
 
 
 
 とてもとても、優しいお話。
 甘くて、美しくて、そしてとても優しくて。
 辛いことも、苦しい事もたくさんあります。
 でもその辛さや苦しさは、決してそれだけであるものでは無いのです。
 自分がこの世界に紛れの無い独りだ、という事実は決して変わり得ぬものであっても、
 だからといってひとりで生きていかなくてはいけないなんてことは無いのです。
 いつも愛する誰かと一緒。
 そうして、その愛している人にどういう優しさを与え、そして優しさを与えて貰うのか、
 祐巳さん達はひたすらその事を考え感じながら生きています。
 そして、優しさというものが大変に難しくて重いことを知っていきます。
 自分の言動が相手に多大な影響を及ぼす事。
 ときには相手の心に踏みいってしまうこともあります。
 その事を恐れ、そして自分だけの殻に閉じこもってしまうこともあります。
 でも、それでも良いのです。
 マリア様が私達を見ていてくださるのですから。
 私達は、お互いに張り合って、そして甘えあっても良いのですから。
 マリア様が見ていてくださるから私達は生きられて、
 そして私達が生きているからこそ、マリア様は私達を見ていてくださいます。
 自分では絶対にどうにもすることも出来ない他人の姿に、
 そして逃げることの叶わないこのあまりにも歴然とした世界にマリア様をみる。
 私達はどうすることも出来ない他人や世界の中で生きているからこそ孤独。
 なにも自分とは決してひとつになることが出来ないからこそ、独り。
 でも。
 そのような他人や世界の姿があるからこそ、私達は私達を感じられます。
 自分とはひとつにならないからこそ、そこに自分以外のものが居るということでひとりじゃないのです。
 その自分以外の何者すべてにマリア様はおわします。
 私の思い通りにならなく、私と溶け合ってひとつになってはしまわないでいてくれる、絶対の存在。
 他人が、世界が、そしてマリア様が私達をみているのです。
 私には、そのなによりも重くて、そしてなによりも優しい眼差しを無視することだけは出来ません。
 祐巳さん、由乃さん、志摩子さんの表情、
 お姉様達のひとつひとつの表情をみるのが、なによりも嬉しくてたまりません。
 嬉しいから、それを無視することなどできなくて、ずっとずっと見つめてしまうのです。
 
 最終回の静様のアヴェマリア。
 そしてそれを聴いているときの志摩子さんの表情は、色々な意味で私の宝物です。
 静様の歓びの歌を改めて、今聴いています。
 涙が止まりません。
 嗚呼、なんて世界は美しいのでしょう、と。
 そして。
 志摩子さんのあの瞳を忘れることはできません。
 あの瞳があるからこそ、私は静様の歌の素晴らしさと、そして残酷さを感じられるのですから。
 世界は美しくて、そして残酷。
 
 そしてそして。
 
 祐巳さんの『お休みなさい、お姉様・・・・・・また、明日』の言葉は、
 「マリア様がみてる」全13話の結末として、もっとも嬉しい言葉なのです。
 その言葉が最後に出てこれた歓び、
 これを以て見事にマリみての優しさはその姿を至高と、そして永遠のものとしたのです。
 
 
 
 
 世界は美しくて残酷で、そしてなによりも優しい。
 
 
 
 
 終わりです。マリみてはこれで終わりなのです。
 なにも決して終わったりしない、という結末をなによりも示した終わり。
 泣きながら、この甘美さに酔いながら、
 その酔いを永遠に続けても良い優しさに震えながら、
 しめやかに、そして厳かにこの感想を完結させて頂きます。
 
 アニメ全13話各話後に書いた私の全13作の感想をお読み続けてくださった方々に、
 厚く御礼申し上げます。
 
 
 
 
 そして、
 アニメ「マリア様がみてる」に感謝を捧げます。
 永遠をありがとう。
 
 そして。
 私もその永遠の探求を、ずっとずっと続けていきたいと思います。
 優しさは終わらない、と言うために。
 
 
 
 
 
 
 それでは、ごきげんよう、マリア様。
 
 ・・・・また、明日。
 
 
 
 
 
 〜 マリア様がみてる第一期 了 〜
 
 

                          ◆ 『』内文章、アニメ「マリア様がみてる」より引用 ◆

 
 
 
 


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