〜アニメ『マリア様がみてる』第10話「いばらの森」感想 |
-- 040311 -- |
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■■マリア様のいばら■■ |
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ごきげんよう、皆様。 |
本日はマリア様がみてる、第10話についてお話させて頂きましょう。 |
実は私は聖様のファンです。 |
実もなにも常日頃あれだけ言っているのですから、今更言うことでもないのでしょうけれど、 |
あえて今日もまた、私は聖様が好きですと言います。 |
物語の中の誰々が好きなどと言いますと、とかく角が立つご時世ですけれど、 |
それをも踏まえた上で、でも誰かを好きということ自体に自信を持てている私ですから、 |
私は堂々と聖様が好きですと言わせて頂きます。 |
だって、好きなのは本当ですから。 |
アニメのキャラだからとかそういうのを好きになるのはなんだとか、 |
あともう少し細かいところでは派閥がどうのとかキャラオタとか、 |
たしかにいちいちごもっともな事で、私もそれ自体に異存はありませんけれど、 |
でもそれは結局私とは関係がありつつも、関係が無いことなのです。 |
つまり、色々と体裁もあるのですけれど、私が聖様を好きなのは変わりえぬ事実、ということです。 |
このような言い訳を縷々述べている事自体浅ましいとお思いの向きもありましょうけれど、 |
しかしこういった言い訳自体が、私には必要なのですから別に良いのです。 |
言い訳できるからこそ面白いものもある、そういうことでも良いと思います。 |
体裁を気にする事、すなわち「恥」を感じることで、 |
逆にその恥である事を愛でる際に、それが恥じらいの含まれた趣深いものとなったり。 |
まぁ、それは半分冗談なので、お気になさらず。 |
それでは、お話のほうにいってみましょう。 |
聖様のお話なのですけれど、しかしどうやら今回のお話は位置付けとしては次回の前ふりでした。 |
いつもにこやかな笑顔でいる聖様。 |
その笑顔の根本の奥深くに自らしまい込んでいる、とてもとても悲しい記憶。 |
この悲しい記憶についての詳しいお話は次回、ということでした。 |
聖様の笑顔の下に悲しみがある、という構図自体はごく普通のものなのでしょうね、 |
と思いつつも、しかしその悲しみの裏返しとして笑顔があるのか、 |
それともその笑顔はその悲しみとは別の系譜で成り立つものなのか、それはわかりません。 |
それらはすべて次回で語られる事なのでしょうから、ここでは多くは語りません。 |
と、そうなると今回のお話は聖様について語ることは叶いません。 |
むしろ聖様を囲む他の皆様の事について、私は語るしか無いでしょう。 |
聖様については、次回こそ大いに語りたいと思います。 |
今回はおあずけなのです。 |
で、今回のお話の中心として挙げたいのは祐巳さんと、そして志摩子さんです。 |
聖様が著したと思われる、そして聖様の自伝かもしれない「いばらの森」を購入したとき、 |
祥子様はこれが本当に聖様が書いたものだったらどうしよう、と思い読むのをためらっていたとき、 |
祐巳さんはもしそうだったら聖様にサインを貰っちゃいます、と陽気に祥子様に言います。 |
これを聞いた祥子様は、そういう祐巳さんを褒めるのですけれど、 |
私もおなじくさすがは祐巳さん、と思いました。 |
仮にあの小説が聖様によって書かれた聖様の過去のお話だったとして、 |
確かに祥子様のように聖様を慮ってそれを読むのをためらうのは、まず当然の反応ですよね。 |
でも、それは聖様が書いたものであり、 |
それはすなわち聖様が自分の過去を知って貰いたいという聖様の想いの発露なのでもあるし、 |
となれば、それを受け取る側はその聖様の想いを受け止め、 |
その想いを知ったよという意思表示を聖様に返して、 |
そして本を出した→すごい→サイン欲しい、という冗談が生成されていくのは、 |
とても素直な反応なのだと思います。 |
私は、この素直さっていうのは結構面白いものだと思いました。 |
たとえ聖様が苦渋の選択として本を書いたのだとしても、反応は同じです。 |
聖様の本が出た、という客観的事実を捉えて素直に「常識」的に反応する。 |
それもまた、「優しさ」のカタチ。 |
或いはこれは、白薔薇的優しさに近い感じがします。 |
なにげなく近づいてきたかと思うと、すっと離れていって。 |
あくまでその人の側に入り浸ってその人と同化することなく、 |
ただその人がその人の外に向けて発した、その対外用の想いだけを受け取って。 |
或いは、仮面をかぶって素顔を隠していて、 |
それは素顔を知って欲しいから仮面をかぶって素顔を引き立てているのだけど、 |
でもそれは同時にその仮面自体にも純粋に仮面を見て欲しいという想いも込められていて、 |
だから仮面の下に素顔があるだろうと予感しながらも、 |
あくまでその人が仮面を示そうとするのなら、その仮面を受け入れようとする態度。 |
これは特に聖様と志摩子さんを見ていると感じるところのものです。 |
そして、今回の祐巳さんの初めにおける態度はこの二人の白薔薇の感じと似ています。 |
聖様が本を出したという事は、それは本の中身という素顔を知って貰いたい、という事のための仮面。 |
それで本の中身を慮って読むのをためらうのも優しさですけれど、 |
けれど本を出した、という仮面をはっきりと聖様が示した以上、 |
その事実は受け止めるべき事でもあって、ですから素直に反応することも優しさのカタチ。 |
その事を感じた祥子様は、だから祐巳さんを褒めたのですね。 |
一方、志摩子さんもまた祐巳さんと同じく、聖様からそっと離れて微笑んでいます。 |
『志摩子は、たとえ残るなって言われても、残りたければ自分の意志で残るような子だから。』 |
聖様がいばらの森を書いたという疑いについて、 |
その事に首を突っ込んできた祐巳さんと由乃さんを居残らせたときの聖様のセリフです。 |
聖様のスールとして志摩子さんが気にならないはずは無いと思う祐巳さんと由乃さんでしたけれど、 |
勿論志摩子さんは気になっているのでしょうけれど、 |
それと残って聖様の話を聞くかどうかは別問題なのです。 |
聖様は志摩子さんになにも言わない。 |
言わない、ということは志摩子さんに知られたくないことで、 |
だから志摩子さんは聞かない。 |
それこそ本当に簡単なことですけれど、志摩子さんの聖様に対する優しさはいつもこうですし、 |
また聖様の志摩子さんに対する優しさも同じです。 |
それはつまり、お互いの「意志」という仮面をとても尊重し、また愛しているからでもあるのでしょう。 |
尊重、などという言葉を使ってしまうといらぬ語弊を与えてしまいますけれど、 |
むしろこの言葉が最も適切だと思いますので致し方ありません。 |
聖様の瞳には、常に他人が映っています。 |
その他人というのが志摩子さんだったとして、聖様は常にその志摩子さんをその視線の先から外しません。 |
それはいついかなるときも、たとえ自分が悩み苦しんでいるときでも、 |
そしてそれについて救いを求めているときでさえ、志摩子さんの存在は確固として聖様には見えています。 |
その姿が見えているということは、つまり志摩子さんは聖様の中には居ない、ということ。 |
だから聖様にとって志摩子さんは自分の思い通りにならない存在で、 |
そして思い通りにしてはいけない存在。 |
自分の思い通りにしちゃいけない、 |
自分の悩みを他人にまで伝えない、自分の苦しみを他人に植え付けない、 |
そして他人には救って貰うのではなく、あくまで自分がちゃんとするのを手伝って貰うだけ。 |
そうするためには、自分の外側に確固とした志摩子さんが居なくてはいけないのです。 |
それは志摩子さんにとっての聖様も同じ事で、それがつまり尊重するということなのです。 |
自分とは交わらない絶対的な他人の姿をみて、それが最良の優しさになる。 |
ですから、志摩子さんが聖様に優しくしようとするのならば、 |
まずこのような聖様の想いを尊重する手立てが必要なのですね。 |
そういう聖様の「仮面」の意味を解して大切にしてあげることが、聖様のためになる。 |
少なくとも、聖様はそう接してくれることを志摩子さんに望んでいます。 |
そしてそう志摩子さんに聖様が望んだとしても、志摩子さんはそうするとは限りませんし、 |
でも聖様は逆にそれでも良いのですよね。 |
聖様の思い通りに志摩子さんはなってはいけないのですから。 |
けれど、聖様の思い通りに志摩子さんはなってはいけない、というのは、 |
それ自体も聖様の願いであって、その願いを志摩子さんに叶えさせようとしている点では同じ。 |
ですから本質的に聖様の想いというのはすべからく矛盾するべき事なのですけれど、 |
でも逆にいえばそれは矛盾であることに意味があるとも言えます。 |
なぜならば、聖様の仮面というのがとても攻撃的なものだからです。 |
なんと言えば良いのでしょう。 |
自分の仮面の下にある素顔の事を知って欲しいがゆえに仮面をより誇示しながら、 |
でもその仮面自体をもよく見て欲しい、というのはある意味で嘘。 |
仮面というのは、その存在自体が素顔を隠すためにあるのですから、 |
どうしたって素顔が無ければ有り得ないものです。 |
仮面をかぶっている自分に陶酔していて、そしてその自分に自信を持ち始めていても、 |
それがはっきりと仮面であると意識している。 |
突き詰めて考えていくうちに、 |
その陶酔自体が厳格な仮面として自分の素顔に張り付いていることに気づき、 |
そうすると自分が志摩子さんに求めていた事はなんだったのかと思えてくる。 |
聖様は、結局のところ他人の存在を尊重しながらも冒涜していることにも気づいています。 |
自分が志摩子さんに求めていた願いそれ自体が仮面であることに、 |
どうしようもなく後ろめたさも感じているはずです。 |
志摩子さんに悩みも苦しみも打ち明けず、救いすらも求めないということは、 |
それはつまり本当はそうしたいと願っている自分の素顔の仮面にしか過ぎない。 |
素顔を見せずに仮面を見せ続ける事の冒涜。 |
つまり、その冒涜の打破が必要で、ですから聖様のその仮面には、 |
矛盾という棘が聖様自身によって打ち込まれています。 |
本当は仮面こそを見せるべきでは無かったはずなのに、それを見せ続けてきたこと、 |
これを決して正当としないために矛盾を打ち込む、 |
あるいは志摩子さんになにかを強制してはいけない、 |
というその「してはいけない」という聖様の強制的な願いを仮面に忍び込ませる事で、 |
素顔を少しでも見せようという聖様の必死の努力。 |
それは裏返って外の人達に対する棘となります。 |
その棘がただ痛いだけなのか、それともその棘に刺される痛みからなにかを見つけることができるのか。 |
志摩子さんは、しっかりとその聖様の仮面の棘から聖様の素顔を見つけています。 |
聖様の隠したいけど隠したくない、そしてだからこそ隠したい素顔に気づいています。 |
そしてそれが聖様にとって隠したいものである、つまりあくまで聖様が仮面を被っているから、 |
志摩子さんはその志摩子さんに「与えられた」仮面だけを見つめている、 |
という「志摩子さんの仮面」を聖様に示しています。 |
志摩子さんは聖様の素顔を仮面越しに見ていて、でも仮面が示されている以上、 |
その仮面を尊重しますという仮面を被りながら、 |
じっと聖様の素顔を見つめ続けている志摩子さんの素顔。 |
恐らく、聖様は自分の仮面を尊重してくれている志摩子さんのそれが、 |
志摩子さんの優しさでできた仮面であることに気づいているでしょう。 |
そしてそれが仮面であるからこそ、その志摩子さんの素顔はちゃんと聖様の素顔を見つめている、 |
ということもご存じなのでしょう。 |
だから尚更、自分が仮面を志摩子さんに示し続けている事に罪悪感を聖様は感じてもいて、 |
さらに仮面に棘が打ち込まれていっているのかもしれません。 |
その棘は、他の人達に様々な反応を起こさせます。 |
祐巳さんや由乃さんのように、ひたすら不思議がられて探求心の的にされたりなどや、 |
あるいは今回の祐巳さんのように、ごく自然に受け止められたり。 |
祐巳さんの今回のあの自然の反応は、志摩子さんとは実は似て非なるものです。 |
志摩子さんの離れっぷりは意図的なものですけれど、祐巳さんのは偶然なのですから。 |
本質的に聖様をその視界のうちに捉えていない、祐巳さんの中だけで出された答え、 |
それに従って祐巳さんはひたすら動いていただけ。 |
実に祐巳さんらしいです(笑)。 |
でも、聖様はそういう祐巳さんをちゃんと受け入れます。 |
由乃さんとタッグを組んで、少々不躾かもしれない質問を聖様にしても、 |
聖様はひたすらちゃんと答え、あまつさえ質問を促しさえします。 |
自分の苦悩を気遣って、自分の事で遠慮したりして欲しくない。 |
遠慮などされたら、それこそ自分の瞳の先に確固とした他人が居なくなってしまう。 |
苦悩を抱えつつも笑顔でしっかりとしている、という仮面を尊重して貰いたいがゆえに、 |
聖様は祐巳さん達の質問を受け入れるのです。 |
そして次回では、仮面の中に打ち込まれた棘の姿が明かされ、 |
そして聖様の「素顔」を垣間見ることができるのでしょうか。 |
それはわかりません。 |
次回のお話の注目点のひとつは、聖様の過去のお話が祐巳さんにされるのかどうか、ということです。 |
聖様だけの追憶としてだと、そのいばらという名の「棘」の姿がよく見えてこないかもしれません。 |
そしてそのいばらに囲まれた「素顔」こそ、聖様の本当の想いだと私は思います。 |
祐巳さんの瞳に初めて聖様のその姿が映ること、私は少し期待しています。 |
もちろん、志摩子さんにも語られることを願います。 |
だって、白薔薇万歳だもの。 |
以上で、本日のお話はお終いです。 |
長文乱筆、失礼致しました。 |
それでは、ごきげんよう。 |
P.S : 次週のお話は今度こそ聖様のお話真っ盛りです。 |
感想書くまで生きていられる自信、まったくありません。 |
だいじょうぶかなぁ・・・私 (色々な意味で) |
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