〜アニメ『マリア様がみてる』第11話「白き花びら」感想 第2部

 

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■■マリア様がみてる白い薔薇 2■■

     
 

 

 
 
 
 
 『こんな私を救い給え。アーメン・・・アーメン・・・・・アーメン・・』
 

                                  〜第十一話の聖のセリフより〜

 
 
 
 
 以下は昨日の続き。
 
 ◆◆◆◆
 
 わかる事など。
 わからない事、など。
 わかる事がわからないという事に比べたら、すっかり霞んでしまう。
 ただすべてが純然としてありながら、すべてが例えようもなくおぼろげだとしたら。
 それが純然としてあるとわかっているから、その純然性を否定し反抗する事も無く、
 故に自らの身の置き場所は、あくまでその純然でおぼろげな体感の世界の中にしかない。
 だから聖は目をつぶる。
 ただ目の前にあるものが、確かに在るとわかっているのに、無いとしか思えない自分の瞳の思考に、
 心の底からうんざりし、そして戦慄しているから。
 忌避すべき事も、批判すべき事も何もなく、すべてが正しいと思え、なにも間違っているとは思えずに、
 それでもそれを自らに受け入れる事ができないとしたら。
 世界の中で悪い子羊となった聖は、ぐったりと項垂れながら神の裁きを待っている。
 聖にとって、なにが正しいのかはあまりにも明白で、純然としているし、ゆえに迷いなどそもそも無い。
 悩むことも無く、なにが正しいかを考え求める必要も無いのが聖。
 この世界の正しさをなによりも確信しているから、その世界に適合できない自分の罪深さを、
 誰よりも深く承知している。
 だから聖は、自分の事が許せない。
 罪とは、そういうことだ。
 自分の他に、確かに世界がある。
 純然として其処に世界があるから、聖は自分を正当化しようとする作業を一切しない。
 世界をなによりも誰よりも愛しているから、その世界が持つ世界の正当性も愛しているから、
 だから聖は、その正当性に合致することが出来ない自分を許さない。
 級友達の他愛の無い会話を楽しめず、なにげない戯れに彼女達と打ち興じる事もできないから。
 これほど楽しくて泣きたくなる事嬉しいはずの事であることが、純然として目の前に広がっているのに、
 どうしてもそれを楽しむことが出来ない聖。
 悪いのは、あくまで聖である事は間違いないのだ、聖にとっては。
 世界は決して悪くなく、そして決してその正しさに逆らう事も無いのだ。
 聖は罪人。
 なにも楽しむことができないから、自分は皆に忘れられて消えていけばいいと考えるのは、
 それ自体が聖の世界への愛に他ならない。
 自分が居ることで、この世界を楽しめている人達の邪魔をしてはいけない、
 聖はそう考えているから、自らこの世界の中で孤立していくことを願う。
 自分を犠牲にしての誰かへの愛。
 それ自体が持つ甘美さに酔うことで、かろうじて生きている聖は、
 無論その甘美さの追求こそが、なによりもこの世界に対する冒涜であるとも気づいている。
 だから、そんな私は誰からも忘れられてしまえ、と願う。
 しかしその願い自体もまた、自らの消滅が世界への贖罪になるという淫靡な甘美さを有しており、
 結局のところ、聖は永遠に世界を愛しながらの冒涜を続けて生きている。
 そしてその先に現れたのが、栞。
 栞は聖を抱きしめた。
 世界の中からやってきながら、ただ聖だけにしか見えない栞のその姿。
 愛しているこの世界にありながら、決して世界に抱かれる事の無い聖を初めて抱いてくれた人。
 聖にとって栞はだから、世界の一部でありながらとても特別な世界の姿であったのだ。
 自らが世界に受け入れられたと実感しながら、
 しかしそれは絶対に世界なのでは無いと聖は確信している。
 栞はあくまで、聖とひとつになることで世界からは切り離されている。
 自分とは確実に別個のものと認識している世界が、自分と一体化しているのならば、
 それはやっぱり世界じゃない。
 世界に受け入れられると言うことは、世界と一体化する事と同義では無い。
 だから、栞にすべてをさらけ出した聖には、退路は無い。
 聖は世界の幻にすべてを投げつけ、世界のすべてを放棄して栞とひとつになった。
 世界の中に居る事を諦めて、同じく世界の一部では無くなった栞とひとつになる。
 聖の、世界の喪失。
 そしてそれは、聖の他者の存在の喪失でもある。
 だがしかし。
 聖には、その世界や他者の喪失というのが、絶対にありえないということがなによりもわかっていた。
 温室の中でみせた、聖の憂鬱。
 どんなに栞とひとつになろうとしても、栞は絶対に自分とひとつにはなれない。
 自分とは別個である他者の存在を感じずにはいられない。
 栞に優しい言葉を与え、栞に優しくされ、そうされればされるほど栞は聖から離れていく。
 その離れていく速度を、聖に止めることは決して出来ない。
 それを聖は、すべてわかって理解している。
 すべてわかっていて、すべてよくわかっていない。
 他者というものが、どういうものであるのかを、聖はわかっていてわかっていない。
 栞を想い栞と一体化すれば、実は栞は消えてしまう。
 栞という他者が明確に世界の中で聖と別個の存在としてあって、初めて栞はそこに居ることができる。
 聖はそのことを痛いほど知っていたから、だからこそその事実を無視して栞とひとつになろうとした。
 ただひたすらに栞を求めることの無駄に快楽を見つけていたのだ。
 栞は、そんな聖に見つめられている事の意味を知っていた。
 聖もまた、栞が知っているその意味の意味を知っていた。
 聖はマリア様には勝てない事を、初めから知っていた。
 知っているからこそ、聖はマリア様の下に広がるこの世界を愛していたのだ。
 この世界は、絶対に聖を一人にはしてくれない。
 いや、ひとりにはさせないのだ。
 自分とは離れて立っている他者が、聖の外側には必ず広がっている。
 内側にもまた、他者は居る。
 聖が、栞が、たくさんの愛する人々が、そしてマリア様が聖の内に。
 聖の内側にありて、けれど決して聖とは一体化せずに聖の内側にも世界はあるのだ。
 だから、栞は聖とひとつにはならなかった。
 なにもかも知っていたから、そしてなにもかもわからなかったから聖と出逢い、愛し合い、
 でもそれでも決してひとつにはならなかった。
 ひとつになってはいけないのだ。
 聖から、世界を奪わないために。
 そして、聖から栞を奪わないために。
 蓉子と、そして先代のロサギガンティアが栞の向う側で待っていた。
 聖は、それすらもみんなみんなわかっていた。
 だから、聖も栞とはひとつにはならなかったのだ。
 ただ悲しいその記憶と願いを、胸の奥のいばらの森にしまい込みながら。
 そして。
 聖はマリア様が自分を見ている事を、改めて見つめ直す。
 神の祝福を受け取れない自分に、確かにマリア様は特別な祝福を与えてくれた。
 救いを求めた聖の願いは、叶っていたのだ。
 聖に栞の記憶を与え、そして改めて聖が受け止められる世界を聖に与えたのだ。
 そして・・・・・
 
 
 
 蓉子様と、聖様のお姉様の存在は、なによりも大切なものなのだと私は思います。
 聖様とは決してひとつにならない他人。
 あくまで聖様の外側から呼びかけて、決して聖様とは相容れない言葉を与え続けて。
 絶対に聖様と溶け合って聖様に妥協することの無い、
 それこそ聖様の神経を逆撫でにしていた蓉子様。
 でも、逆にそれは蓉子様が聖様の絶対の他人であったことの、まぎれの無い証しなのです。
 徹底的に蓉子様が蓉子様であり、そしてあくまで蓉子様として蓉子様が聖様に接し続けてきた事は、
 非常に非常に大切なことだと、私は思います。
 あのような聖様にアンブトゥンとしての自覚を求めることもまた、大切。
 蓉子様が、ある意味で聖様の苦しみを徹底的に無視して様々な事を要求するということはつまり、
 聖様に愛すべき他人の存在をもう一度取り戻させている事になるのです。
 優しさの対象としての他人。
 優しさとはなにか、なのです。
 蓉子様のそれは、まぎれも無く優しさです。
 聖様の想いを完全に無視して、自己満足のお節介を聖様に押し付け、
 聖様が自分の言う事を聞くまで徹底的に聖様にまとわりつく。
 それは祥子様などからすれば、不純な優しさといって駄目だと言われますけれど、
 しかし、聖様にとってはやがてそれはとても大切なものになってくるのです。
 身勝手な優しさを受容することすなわち、神の祝福の受容に他ならない。
 相手の身勝手さを訴追するということは、ただ自分が優しさを欲して待っているだけ。
 それは、相手が自分に優しさを抱いてくれた、そのことへの感謝の念に決定的に欠け、
 それはすなわち、逆に自分の相手に対しての優しさの欠如に他なりません。
 聖様は、世界が用意してくれた優しさを自分が楽しめないからといって拒否していた。
 聖様はだから、世界を愛していながら、本当のところは愛せてはいなかったのです。
 そもそも世界から、神様から用意された優しさというものはなんなのでしょう。
 それは、聖様にただ与えられた物だけではなく、なによりも聖様に優しさを要求してくるものだったのです。
 そして聖様に要求してくる優しさを聖様から引き出させるには、
 徹底的に聖様に与えたその優しさが、聖様に不釣り合いなもので無くてはいけなかったのです。
 おわかり頂けますでしょうか?
 蓉子様が聖様に不釣り合いな優しさを与え続けて、
 聖様は最終的に、その蓉子様の優しさを受容します。
 蓉子様の与えてくれた優しさそのものに対しての感謝ではなく、
 聖様に優しさを与えてくれた、蓉子様の優しい想いそれ自体への感謝。
 そこには、確かに蓉子様の姿がはっきりと見えてきます。
 もし蓉子様が聖様の思い通りの優しさを与え続けていたのなら、
 蓉子様は聖様とひとつになって、その姿を失っていたことでしょう。
 姿を失えば、それは聖様にとっての蓉子様の喪失、ということになってしまいます。
 聖様のお姉様、つまり先代のロサギガンティアもまた蓉子様と同じく、
 聖様を妹に選んだのは顔が良いから、と完全に聖様から離れた態度をとり続けていました。
 でも、離れてなお、すっと近づいて聖様を抱きしめる。
 まさに白薔薇ですよね。
 そう、白薔薇なのです。
 相手の存在が、純然と確かにあること。
 そしてその人に対して、如何に優しくしてあげられるのか。
 相手が自分に優しくしてくれたら、どうすれば良いのか。
 そこに、他人がちゃんと居ることを確かに感じることが出来ると言うことは、
 そこに決して自分の思い通りにならない人がいる、ということです。
 でも、その人が自分の思い通りになるかならないかが、
 自分がその人に抱く優しさの有無に関係してはいけないのです。
 関係あるというのなら、それは不純。
 なぜなら、それは結局相手からの見返りを求めている優しさに他ならないからです。
 相手に優しくしている、という事に快楽を得ることもまた、不純。
 優しさというものが不純で彩られてしまっていたのが、聖様。
 その不純さが嫌で、そして例えようもなく怖かったのでしょう。
 ただただ、あるがままの純然たる優しさを与えたい。
 なにもかもが、当たり前であることの優しさ。
 蓉子様と聖様のお姉様が、その優しさの作法があることを、聖様に示します。
 蓉子様は自らの存在を以て、お姉様は自らの作法を以て。
 蓉子様はパートナーとして、お姉様は自らの後継者として、聖様に世界の姿を見せたのです。
 今、こうして書いているうちにわかってきました。
 これが聖様の始まりなのですよね、白薔薇としての。
 聖様のお姉様と、今現在の聖様は実に似ています。
 蓉子様も蓉子様で、祐巳さんにそっくりですし(笑)。
 そして紅薔薇と白薔薇って、ほんとうに良いコンビなのだと思います。
 白薔薇にとっての、絶対的な他者としてあり続けられる紅薔薇。
 私にとっての「良い友達」のイメージに近いです。
 そして。
 白薔薇の優しさの姿。
 なにが純然たる優しさであるのかを問い続けるのが白薔薇。
 ただただ従順であることでも、ただただ反抗することでもない、
 ただひたすら考え求め続けるしかないその究極の優しさ。
 今現在の聖様のあの明るい笑顔の意味が、よくわかった気がします。
 すべてがわかってなお、解けない疑問を永遠に残し続けたその笑顔。
 私はただ、聖様を応援し続けています。
 がんばれ、がんばれ聖様。
 その悲しみを思い遣ることなく、ただただ聖様の笑顔を光り輝かせるために。
 私は聖様にとっての紅薔薇であれば、それで良いのかもしれません。
 聖様はたぶん、私のそんな「身勝手な優しさ」にも笑って応えてくださることでしょう。
 私は、聖様にとっての紅薔薇になって、
 そして誰かにとっての白薔薇となれれば、それに勝る喜びはありません。
 そう。
 究極の優しさを得る事の喜びを求めて行き着く先にあるのもまた、所詮不純な優しさでしかありません。
 でも、どうせ不純でしか無いなら求めるのをやめる、ということこそ、最大の不純にして、
 そして冒涜なのでは無いでしょうか。
 マリア様が、私達を見ているから、私達は真っ当に生きるのであるのと同時に、
 私達が真っ当に生きようとするからこそ、マリア様が私達を見ていてもくれるのです。
 栞さんは、きっとそのことを自分の最後の笑顔に託して聖様に贈ったのです。
 そして聖様は。
 だからこそ、その栞さんの優しい笑顔の根っこにある、栞さん自身の優しい「願い」もまた、
 大事に受け入れたのです。
 それは、聖様とひとつになりたかった栞さんのもうひとつの消えない願い。
 それを決して無くさないで、自分の中にちゃんととっておけたのが聖様。
 そして。
 そして、聖様は世界の中に「初めて」戻って来れたのでした。
 
 聖様の笑顔を、私はこれからもずっとずっと応援していきます。
 乱文長文、失礼致しました。
 
 
 
 
 

                          ◆ 『』内文章、アニメ「マリア様がみてる」より引用 ◆

 
 
 

 

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