〜アニメ『マリア様がみてる』第4話「黄薔薇革命」感想

 

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■■マリア様公認革命■■

     
 

 

 
 
 包み込む暖かい微風に笑顔の配分を任せ、
 ただひたすらその許された微笑みをたずさえて穏やかでいられる夜。
 私はただされるがままに、優しくてとろけるような甘さに震えてしまう。
 
 こんばんわ。心地よい夢気分の紅い瞳です。
 どんなに色々な事で私の体がなにかに囚われていったとしても、
 すっとOPが始まると、すべてを私に示しそして心安まる境地に私を導いてくれるマリみて。
 私はさながら流れる水のように、ただただ流れている感覚だけを自覚していきます。
 なにかとてもぼんやりとしているのだけど、
 とてもとても確かななにかに護られているような。
 ああ、この感覚を皆様にお伝えできたならば良いのになぁと思いつつ、
 また今夜も独りその想いを深めていくので御座います。
 
 
 
 それでは、「マリア様がみてる」第四話のお話をさせて頂きましょう。
 四話もまた、私に溶け込みそして私を溶けさせてくれる感慨に満ち溢れていました。
 優しくて、どこかで互いを見つめ合う関係の糸の、新たな結ばれ方の一端の開示。
 今回は黄薔薇がメインのお話となったといって、過言ではないでしょう。
 黄薔薇は、ロサフェテイダの江利子様を筆頭に、アンブゥトンの令様、
 そしてプティスールの由乃さんから成るものです。
 そして令様と由乃さんは従姉妹同士で家も隣同士。
 黄薔薇のお話にすすむ前の導入を少し。
 どうやら、各薔薇ごとにはそれぞれの特徴のようなものがあるように見受けられます。
 それぞれの薔薇なる者は、それぞれの薔薇に見合った性質を持っているようです。
 といってもそれはまったく同じという訳でも無いので多少の違いはありますけれど。
 でも例えば白薔薇で言いますと、聖様と志摩子さんなどは似ていないようでとても似ています。
 これは他の薔薇もそうなのですけれど、個別の特性としての性質は確かに似ていないのですけれど、
 しかしそれぞれが示す他人との接し方が同じタイプだと思うのです。
 白薔薇の聖様はそっと相手に優しく近づいたかと思うとそっと巫山戯ながら離れたり、
 志摩子さんは相手の立場を考えて同じ立場に立ってあげようと近づいてそしていつのまにか離れていたり、
 つまりお二人とも相手に対するときに、ご自分のお気持ちなどをそのままお伝えにならずに、
 ひたすら相手の世界の上で踊っていたりします。
 紅薔薇の蓉子様はまだあまりよくわからないのですけれど、
 たぶん祥子様とかなり共通する「我が儘」さを持っていられると思います。
 祥子様の場合で言いますと、つまり基本的に自分中心で相手の立場で考えたりせずに、
 常に自分が相手を引っ張っていこうとするというところです。
 蓉子様の場合はそれが昇華されて、その我が儘さが理論武装され、
 ある意味で他人に対する優越性からくる「余裕」でもって、相手を導いていこうとしていると思います。
 なんとなく理屈で攻めてきますし、薔薇様達の中でも仕切るタイプに見られますし。
 
 こうして見てから、ではこれまでの三話であまり照準の当てられていなかった黄薔薇のお話をしてみます。
 まず、黄薔薇の三人に共通して見受けられるものはなんなのでしょう。
 それはたぶん、他人への興味を示さないフリをしつつ、しかし他人にとても自分を示したがっている、
 というところだと思うのです。
 おそらく薔薇の中で黄薔薇が最も本当のところでの「社交性」に欠け、
 そして最も自己顕示欲が強く、他人の「利用」の仕方が最も上手なのだと思います。
 個別にいってみましょう。
 一番情報が少ないゆえに、もっともその典型に見えました江利子様。
 悩んでいる素振りなど一切見せない達観さを示しながら、
 しかし唐突に自分はなにかを悩んでいるという事を他人に示し、
 そしてすぐに、あら人にこんな事言うんじゃなかったわごめんなさいね、という風に言う。
 すべてを自己完結できる、とても優秀な人に見えたロサフェティダが悩んでいる。
 江利子様が示したのは、そうすることによってより自分を見て貰いたいと思っている、という事なのです。
 なによりも他人を求め、そして自分を見て貰いたがっているのですね。
 なにかを隠すことによって、その隠したものをちらっと見せる事でよりそれに重みを持たせる手法。
 猫をかぶる、というよりはより確信的なのが江利子様なのだと思います。
 非常に思わせぶりな言動が上手な方なのですね。
 全部自分の中で完結させているように見えるから、一見他人との交渉は必要無いように思えるけれど、
 でもそれは他人に見せることによって初めて完結するのです。
 
 そうすると、由乃さんなどはその完結の仕方において典型なのです。
 様々な事を自らのうちで解決していながら、すっと愚痴のような形で祐巳さんに話して、
 そしてようやくその自分の想いを完成させる。
 自分に対して人様が抱いている自分の「イメージ」を隠れ蓑にして、
 隠された自分をちらりと見せて、それを生きる糧としている。
 由乃さんにとっては、自分と正反対のイメージを自分に抱かれた方が、むしろ本望。
 というより、本質的にそちらのほうがやりやすいのではないでしょうか。
 第四話で祐巳さんとお話ししていた由乃さんは、どこか楽しそうでしたし。
 令様はでは、どうでしょうか。
 由乃さんにスールの解消を告げられて動揺する令様は、
 その経緯を無意識のうちに周囲の人間に話してまわります。
 その様は未熟なれど黄薔薇の素質を持っている、というとこじつけに過ぎましょうか(笑)
 けれど、令様もまた虚勢を張って凛々しい自分を演じて、そうでない自分を示しています。
 それに、すっかり動揺して取り乱してしまったのを、他の薔薇様方に心配されるや否や、
 すぐにすっと自分ですべて解決してからお話しします、という方向に修正してしまう、
 という事もありました。
 もちろんその修正の様はぎこちなくて、形ばかりの虚勢であることは明白なのですけれど。
 そういう意味で、令様はまだまだ黄薔薇の一員としては未熟なのかもしれません。
 そして。
 由乃さんが令様とスールの関係を解消した根拠の一端は、ここにあると思います。
 私は、黄薔薇を語る上で、「儀式」の重要性を置いています。
 儀式、と言いましてもそれは色々なレベルでの事で御座いますけれど。
 儀式、或いは様式、或いは流儀とも言い換えられますが、例えば。
 例えば江利子様は、その他人への接し方に一定の様式があります。
 基本的にその「瞳」の先に、自己を示すための対象として他人を存在させ、
 そしてある一定の事実とは異なる仮面を付けた状態で、本当の事を他人に示す。
 こういった儀式めいた事を、これは本質的な部分で黄薔薇の者は行っているように思えます。
 黄薔薇は、私が思うに他の薔薇とは少し様子が違います。
 黄薔薇にとっては、他人はその人としての人格を本質的に持っていなくて、
 ゆえに他人は、自分にとって思い通りに動かすべき存在、としてその瞳には写っていて、
 だからすべては自分の描いた儀式の図面によって動いていくように感じている。
 それは例えば紅薔薇の祥子様のような、他人が自分の思い通りにならないから憤慨して、
 滅茶苦茶に自分色に染めていく、ということではないのですね。
 思い通りにならない他人は、そういう存在であると既に計算に入れられているのです。
 この祥子様の場合には同じフィールドにいる他人との差異があるという「実感」によって、
 他人にその人という自我を確かに認めているのですが、
 黄薔薇の場合はそもそも自分と他人を同じフィールで捉えていませんから、
 他人はあくまでただの対象にしか過ぎず、対象としての個別の特性しか認めてないのです。
 江利子様のあの人を目の前にしてその人を見ていない瞳、
 令様のただ自分が不快だと思う事から逃げたいと思うばかりにややヒステリックになってしまう言動、
 そして由乃さんのあの微笑。
 江利子様を頂点として、それぞれが他人の中に他人以外の事を見て、
 思い思いの儀式を行っているのです。
 そしてその儀式はしっかりと行われなければならないのです。
 令様は、そういった儀式の仕方が少々下手。
 特に、ロザリオを渡して由乃さんとスールになるくだりなどは、由乃さんからすれば駄目なのです。
 あくまであれは儀式であって、さりげなく渡されては駄目なのです。
 さりげなくなんら隠れ蓑をかぶらずにただ本当のことを言っては、それは黄薔薇失格。
 それがスールを解消した、或いは黄薔薇革命の性質の一端なのではないでしょうか。
 なんとなく宗教改革的な、教義の本質に立ち帰ろうとするものも垣間見えます。
 宗教って、結構自分と限りなく溶け合ってヒトツのものですから、
 由乃さんが黄薔薇の一員であることを、ただそういう役割であると考えているだけでなく、
 由乃さん自身の本質にも帰る、という事とそれは同義であるとも思っていることでしょう。
 
 
 
 さて、黄薔薇の特性が加わってきましたことで、たいへんに面白くなってきました。
 黄薔薇の「優しさ」とはなにか。
 これは次回以降語られるところだと思いますけれど、こうしてみるととても不思議な感慨ですね。
 白薔薇と紅薔薇に比べて、黄薔薇は優しくするというよりは優しくされる、
 誰かを救うよりは救われるほうなのではないかと思えますよね。
 黄薔薇の者達の言動は、すべて自己顕示に繋がっているように思えますし。
 けれど逆に言えば、それもまたひとつの優しさの形なのだとも思えます。
 相手をただの対象としてしか見ないからこそできる、その優しさの形。
 白薔薇と違い、相手と完全に離れきって、ただの調停者としての立場に徹する優しさ。
 ロサフェティダがアンブゥトンとプティスールの関係を心配するのは、
 それがただの対象であろうがなんであろうが問題が発生している訳で、
 そしてその問題によって自分が辛いのは確かなのだから、その問題は解消せねばならない。
 そういう自己利益を追求した結果、他人へもその恩恵がいくという、それこそ偶然の優しさ。
 それは、先日書きましたLUNOという漫画の感想でも書いたような、無償の優しさ。
 誰かが困っていて、その人を助けてあげて、その人にお礼を言われると、
 「別にあなたのためにした訳じゃないわ。自分のためにしたの」とか言う感覚。
 それは黄薔薇においては言葉通りの意味。
 それは、自分のためになることはなにかと徹底的に追及した結果の答えとして、
 それは他人に対して優しくする、というのがベストであったということなのです。
 相手に優しくすることで、最も自分にとってベストなものを頂いておきながら、
 実際相手にはなにも差し出させた気にさせない、という優しさ。
 そして、その一連の動作を実に思わせぶりに「儀式」的に行い、
 相手にその一連の動作の構図とその真意を気づかせることで、
 自分に対してなにかせねばならない、という気を起こさせるように仕向けていたりもするのです。
 無償なのに、それにも関わらず相手に対して色々なリアクションを起こさせる。
 これを転じて、相手を奮い立たせるという優しさ、と解いてみるのは如何でせうか?
 黄薔薇の優しさ、というのはそういうところにあるのかもしれません。
 
 
 
 ということで、第四話の感想を書いてみました。
 第五話は黄薔薇のお話の続きのようですので、たいへんに楽しみです。
 ここまで必死に書いてきた事とはなんの関係もなく、来週もマリみてに溶けてきます。
 ええ。
 こんな構図のお話はどうでもよろしいのです。
 ただマリみてであれ、で御座います。
 あの素晴らしいOPと共に時が流れれば、それで私は充分なのです。
 来週の私に、幸あれ。
 
 
 それでは皆様、ごきげんよう ←由乃さん風微笑で
 
 
 
 
 

 

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