〜アニメ『マリア様がみてる』第6話「ロサ・カニーナ」感想

 

-- 040212 --                    

 

         
     

 

■■マリア様のくれた歓び■■

     
 

 

 
 
 どうしてもわからなかった事が、どうしようもなくわかって。

 それだけは欲しくて絶対に手に入れたかった物が、当たり前のように目の前に与えられて。

 私はそれがとても嬉しくて、だから今こうして日記を書いています。
 
 
 
 
 
 
 ごきげんよう、紅い瞳です。
 マリア様がみてる、第六話みました。
 正直、などと前置きするまでもなく、私はこのお話をみて泣いてしまいました。
 ただ嬉しくて嬉しくて、私はもう自分がなにを思えばよいのかすらわからない、
 そういう気持ちです。
 その気持ちを誰かに伝えたいとか、このお話の素晴らしさを示したいとか、
 そういうことは一切なくて、ただただ、私が求めていた物が得られた歓び、
 その歓びが自然とこの日記を私に書かせています。
 私がずっとずっと多くの人達と触れあいお話をさせて頂きながら得てきた物、
 そして本を読んで考えてみたりしてみたこと、それらからは決して得ることができなかったその物。
 私に様々な世界や、その世界に対する問いの構築の仕方、
 或いはそれらすべてを引っくるめた哲学の一端を示してくれた人達の考え方・感じ方も、
 それは決して私に不必要なものでは無かったのですけれど、
 けれどそれらは私にとって、最も必要なものとはなり得ていませんでした。
 私が一番に求めていた物、
 それは私が今まで楽しみながらも一生懸命追求してきた事の中には無かった。
 その事自体は別に私はどうでもよくて、それはいつか得られることだろうとも思っていたことですし、
 またそれと同時にそれは一生得られる物では無い、という思いもあって、
 それは切実ながらもとてもゆとりのある不足感なのでした。
 でも確かなのは、たとえ今まで私がしてきたことがそれと結びつかない事だったとしても、
 それは間違いなくその物を求めての事だった、ということです。
 
 少々前置きが過ぎました。
 お話を始めさせて頂きます。
 白薔薇のお話だった訳です。
 紅薔薇のお話でもあった訳です。
 そして、今までのお話の中ではっきりとその「優しさ」の実体を顕わした初めてのお話でした。
 そして、姉妹という二人の人間の関係のお話でもありました。
 たくさんの色々な要素が含まれた中で、その優しさという名で表せるその彩りは、
 最大級の輪郭の深さと、そして一線を越えてそれはなによりも圧倒的な存在感をもって顕われました。
 優しいのです。
 これだけで言っても、もう充分なのです。
 優しくて、優しいのです。
 そしてそれが私の求めていた、そう、私が最も求めていた物なのです。
 それはなんというのでしょうか。
 優しい、ということを徹底的にその本質までを解き明かして見ること、
 そういうものであるのだけれど、そういう意味で概念なのだけれども、
 でもそれだけじゃない。
 その解明された優しさの本質という、そういうただの羅列された文字としてのコトバ、
 それを実際に口にしてみたら、それは世界を象っている「言葉」として実体を得た、というのでしょうか。
 もうそこに「優しさ」という物体があるのは揺るぎのない事で、
 だからその優しさは、どのような言葉で飾られようとも、それ自体は変わらない物になっていて。
 綺麗にメイクしても、その素顔は変わらないのと同じで、
 確かにそこにその「優しさ」は存在したんです。
 もう絶対に、カタチを変える事の無い優しさ。
 それが今回のお話にはあったんです。
 
 なぜその人と姉妹になったのか。
 志摩子さんは考える訳です。
 そしてそれは考えるまでも無く、理由など無いことで。
 理由無き理由があった、という訳なのです。
 聖様の事を愛している、からでもいいです。
 そして志摩子さんはその聖様の妹。
 志摩子さんはでも、聖様の妹であって聖様の妹では無いんですね。
 志摩子さんは志摩子さん。
 聖様の妹だから、志摩子さんがなにかをする訳でなく、
 また聖様のためになにかをする訳でもない。
 志摩子さんは志摩子さんだから、志摩子さんがすることをする。
 聖様の妹、という化粧が志摩子さんに施されても、志摩子さんの素顔は変わらない。
 それはつまり、聖様の妹だから志摩子さんは聖様を愛しているわけではない、
 志摩子さんは聖様を愛しているから聖様を愛しているということ。
 志摩子さん=聖様の妹、志摩子さん=聖様を愛している、
 よって聖様の妹=聖様を愛している、という図式は合っているようで合ってはいません。
 志摩子さんが聖様を愛している理由は、志摩子さんがただ志摩子さんだから、というだけ。
 ですから、志摩子さんはただ其処に居るだけで聖様を愛する理由になるのです。
 それはとても、重要なことです。
 たぶん、マリみての優しさという物を感じる上で、とてもとても大切なことです。
 ただ貴方が其処にいるだけで、貴方はなにをする事もできる。
 貴方はただ其処で貴方でいるだけで、貴方は誰かに見つめていて貰える。
 どんなに言葉を紡いでみて、自分が誰かのなにかでいようとしてみても、
 それはある意味で筋違い。
 たとえそれがもてはやされる事であろうとも、そんなことは関係がない。
 愛は等しく平等に、愛を受ける資格などどこにもなく。
 ただ空の上でマリア様が私達をみている。
 愛し愛される理由を理詰めで本質的に問いただして構築してみても、
 それはただ素顔の上に綴られていく仮面のコトバでしかないんです。
 誰かに優しくし優しくされるのに、理由はいらなくその大義名分もいらない。
 ただ私と貴方が此処と其処にいるだけで、それでもう充分なのです。
 
 志摩子さんは、そして聖様の妹になったのであって、ロサギガンティアの妹になった訳ではないのです。
 これは色々な意味で重要です。
 聖様の妹になって、そうしたらたまたま聖様はロサギガンティアで。
 志摩子さん=聖様の妹、聖様=ロサギガンティア、
 ゆえに志摩子さん=ロサギガンティアの妹、とはならないのです。
 だからそもそも志摩子さんはロサギガンティアを継ぐ理などないのだし、
 それを当然とする世間は、ただの無責任であって無知なのです。
 けれど。
 そこに、そこに私が涙した歓びの優しさ、というものが混じり込んでくるのです。
 志摩子さんは確かにロサギガンティアの妹では無いのだけれど、
 しかし聖様がロサギガンティアであることは確かで、
 そして志摩子さんの中にも、確かに聖様がロサギガンティアである、という意識はあります。
 その意識は、ロサギガンティアという飾り物も含めて、それ全体が聖様である、というイメージです。
 聖様とロサギガンティア、というのは確かに別物なのだけれど、
 でも聖様は確かにロサギガンティアという存在に直面しているのです。
 それは聖様を中心とするひとつの聖様の世界。
 それを見る志摩子さんには、だからどうしようもなくロサギガンティアも聖様なのです。
 素顔であろうとも仮面であろうとも、その仮面をかぶっている聖様、というのは確かに居る。
 ですから、志摩子さんが見る視線のうちから、ロサギガンティアという仮面が無くなることは無い。
 そして志摩子さんは、聖様が見ているロサギガンティアを自分も見ないわけにはいかないんです。
 むしろ、見たいんです、志摩子さんは。
 それは聖様を心配するあまり、聖様の想いに応えたいからなのです。
 その心配に、その優しさに理由などいりません。
 志摩子さんがロサギガンティアの妹であるのかどうかとは、関係の無い優しさ。
 志摩子さんは志摩子さんだから。
 志摩子さんはただただ聖様のことを気遣われているから。
 自分が此処に居て良い理由を紡がんとするコトバを投げ出して、
 一足飛びに聖様へと想いを馳せる。
 だから自分もロサギガンティアになる。
 それで、本当に充分なのです。
 志摩子さんが聖様を愛するのには、それで良いのです。
 志摩子さんは、聖様の妹なのですから。
 
 そしていよいよ聖様。
 白薔薇の真髄、確かに拝見致しました。
 志摩子さんの優しさに向けた、最高級の優しさの返礼。
 いえ、それは返礼などというリアクションではなくて、既に常に聖様を取り巻いている風。
 すっと近づき甘く囁いて、ふっと優しく離れていく抱擁。
 祐巳さんに施した慈愛の様態は、志摩子さんには示す必要も無いほどより完成されていて。
 あきらかに目に見える儀式的な祐巳さんに対する抱擁、
 そのわかりやすさとわざとらしさを遥かに越えた、その志摩子さんに対する当然の抱擁。
 聖様は、志摩子さんから常に離れている。
 離れてそれが、完全なる抱擁空間を形成しているのです。
 志摩子さんが自分に向けている優しさの意味、
 そしてその優しさにどうしたら最高の形で命を与えられるのか、
 聖様はどうしようもないほど確かに心得ていらっしゃいます。
 志摩子さんが聖様に対して抱いている配慮、
 それに対して聖様は一切のノータッチを示します。
 完全に離れきり、すべてを志摩子さんの判断に任せる。
 それは志摩子さんの配慮が、ロザギガンティアである聖様に向けた優しさで、
 そしてその優しさは聖様が志摩子さんになにかを求めた結果それに応えた優しさ、ではないから。
 志摩子さんは志摩子さんだから、聖様に対して当然の優しさを示しただけ。
 志摩子さんは本当は聖様のためを思って、聖様のためにもロサギガンティアになることにしたのだけれど、
 しかしそれを聖様がそう自分に求めていたから、という理由で決めた事にしたくなかったから。
 聖様のせいにしたくなかったから。
 自分の責任にしたかったから。
 聖様は、だから自分はなにも強制しなかったわよ、と最後の最後に志摩子さんにそっと囁いてあげた。
 なんという、聖様の愛。
 ロサギガンティアになったら、最後まで自分で責任持ちなさいよ、といった聖様。
 なんという、聖様の優しさでしょうか。
 涙が、流れました。
 誰のせいにもしたくない、そしてどんな「理由」のせいにもしたくない志摩子さんのその優しさに、
 聖様は確かに命をお与えになり、そして確かにそこに存在させたのです。
 志摩子さんがそれでも誰かのせいにしたいそのもうひとつの想いにさえも、聖様は応えます。
 志摩子さんから離れてばかりいる聖様を批判する祐巳さんを、
 自分はなにもしないけど、貴方がなにをしても止めないわ、
 と言ってこっそり志摩子さんに近づくように差し向けたり、
 すべてが終わった後、すっと志摩子さんに近づいて心から志摩子さんのその身を抱きしめてあげる聖様。
 なにかに所属することは足枷でしかない、という志摩子さんに向ける聖様の優しさ。
 志摩子さんはただ自分が自分であるというだけで、それがすべての動機に代わり得る人。
 コトバという理由の足枷から自由になりたいのです。
 志摩子さんのその優しさを、それを受け取る理由が聖様にあるから聖様はそれを受け取る権利がある、
 とは想って欲しくないのです。
 志摩子さんはただ聖様を愛しているから、それだけの事なんです。
 なにもかも、聖様の仰る通り簡単なことなのです。
 でも人の間にコトバという枷がある限り、
 それは簡単であって簡単という素顔を晒す事は出来ないんです。
 愛し愛される理由があって然るべし、というコトバの連鎖で出来ていく仮面を被ってこそのヒト。
 その仮面を被ることは、相手に知って欲しい素顔を隠すことでより素顔を強調する仮面であると同時に、
 その仮面自体にも相手に尊重されたい命があるのです。
 志摩子さんは、聖様の「ために」色々頑張ったことを聖様に知られたくは無いと思い張りながら、
 それでいてその事を聖様に知って貰いたいとも思っていて、
 でもだからこそ尚更その聖様に知られたくない思いを強く示したがっている。
 聖様は、そういう志摩子さんを空の上からちゃんと見ています。
 簡単なことを難しくしてしまう優しさに喘ぐ志摩子さんを、聖様はみてる。
 そしてその難しさに対して、その志摩子さんの知られたく無い優しさの中にある辛さを、
 すっと近づいて暖かく優しく抱きしめて差し上げる。
 お疲れ志摩子、と冷たく甘く囁きながら。
 愛する志摩子さんを抱きしめる、聖様の絶対的な優しさ。
 そこには仮面も素顔も無い、仮面と素顔で出来た二人の人の優しさで満ち溢れていました。
 そしてその優しさの存在は疑うべくもないもの。
 どんなコトバで飾られようとも、変化しない愛。
 私は此処に、その優しさの実体を見つけました。
 
 
 
 ◆◆◆◆
 
 という感じで戯言以外のなにものでも無い意味不明な文の書き殴りになりました。
 よし、もうこれでこれ以下の文章を書く恐れは無くなったゾ。
 まぁうん、一行ずつ他の行と文意の関連付けとかしないで読んで、
 というか眺めて頂ければ嬉しいです。
 自分でたぶん明日読み返してもさっぱりぷーな文でしょーけど、気にしない気にしない。
 言い訳はしません解説もしません。
 書いてあること自体はそんなめんどーな事は書いてないです、たぶん。
 めんどーじゃないけど、わかるかなー、って感じではあるけれども。
 真意が伝わるかどうか、っていう意味じゃなくて、その真意がどういう「感じ」なのかっていうか。
 コトバじゃ表せないことは世の中には一杯あるのよ、
 と、堂々と見栄っ張りな言い訳をかましたところで今日は終わり。
 
 
 白薔薇万歳 (さりげなく)
 
 
 
 

 

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