〜アニメ『マリア様がみてる』第7話「びっくりチョコレート・前編」感想

 

-- 040219 --                    

 

         
     

 

■■マリア様のテスト■■

     
 

 

 
 
 『キミは、ごんぎつねか。』
 

                 〜第 七話の聖様のセリフより〜

 
 
 
 ごきげんよう、みなさん。紅い瞳です。
 今週のマリみて、また一段と面白いものとなっていました。
 この作品を語る事ができる幸せに感謝感謝です。
 感謝、などと簡単な言葉で表わしても詮無いことですけれど、言葉は気持ち。
 形にこだわることもまた、大切なことです。
 形にこだわらないことと同じくらいに、です。
 
 さてでは、早速第七話のお話を始めましょう。
 今回のお話はバレンタインのお話。
 祐巳さんと祥子様のお話。
 そして、優しさとはなにか、という事についての論理的な構築の過程。
 このお話はそうです、理屈で説明することができます。
 というより、なにかを説明する、という心の動きこそを描いていた、と言えます。
 祐巳さんが祥子様に対してどういう優しさを示そうとしたのか。
 祐巳さんはたえず自分がどうすればよいのか、それを考えています。
 その考え方は、ある一定の前提を設けてそれを発展させていくというもの。
 それはつまり論理的であって、理屈の上で成り立っている考えの流れ。
 様々な情報を収集しながら、その収集したものとその前提を突き合わせて法則性を導き出し、
 そしてでは自分はどうすればよいのか、そういう思考を祐巳さんは行っているのです。
 祐巳さんの視点というのは大概の場合そうであって、
 それはいつも心の中が言葉で表わされているように、いつも論理的。
 こうだからこうだ、と一生懸命考えて自分なりの小さな理論を紡ぐのが祐巳さんなのです。
 
 そしてときはバレンタイン。
 祐巳さん・祥子様姉妹にとって初めてのバレンタイン。
 チョコを贈り合う、という命題を如何に解くか、という、
 マリア様がお示しになったテストでもあります。
 それはつまり、一方的な想いの押し付け、というものに対する問い直しということでもあります。
 バレンタインというのは、愛し合っている者同士が贈り物を贈り合う、というものであると同時に、
 一方が一方に抱く「個人的」な想いを相手に押し付けて反応を見るという儀式でもあります。
 お互いが既に双方の想いを理解しあっている状況下に於いては、
 それはただお互いの想いを確認し合うものであって、
 その確認の仕方には特に形式というものは必要ありません。
 けれど、お互いの想いが了解されていない状況下に於いては、
 それは形というなにものかによってその想いが象られていなくてはならず、
 ゆえに形式は重要視されます。
 未だお互いが理解し合えていないのならば、暗黙の了解というのはあり得ないわけですし、
 ですからなにか言葉を示さなければ、相手にはなにも伝わらない。
 言葉とチョコを以て執り行われる「わかりやすい」儀式でなければ、伝わらない。
 祐巳さんはだから考えます。
 バレンタインが自分とお姉様にとって最良の日とするために、と、
 一生懸命に考えを尽します。
 なにが祥子様のためになるのか。
 バレンタインの日、アンブゥトン達はバレンタインカードを書き、
 それを校内に隠してそれを見つけた人はアンブゥトンとデートできる、というゲームが行われます。
 バレンタインを祥子様と過ごせないという哀しみが祐巳さんにはあります。
 けれどそのイベントのために祥子様は色々と忙しい。
 それならば自分はさりげなくそしてしっかりとお姉様が快適にお仕事できるように努めよう。
 自分のその哀しみは、自分もイベントに参加して祥子様のカードを見つける事で癒そう。
 祐巳さんはそのように考えます。
 ロサ=カニーナに言われた言葉を、じぶんの理論に組み込んだ祐巳さん。
 自分が楽しむことで、きっと祥子様も楽しんでくれる。
 自分が一生懸命になっていれば、それ自体が祥子様のためになる。
 どうすればよいのか、という苦悩それ自体が面白いコトじゃないの。
 チョコは渡せないけれど、ゲームを頑張ろうと。
 祥子様になにかを求める前に、自分がなにかを示せば事足りる。
 そうすればお姉様も認めてくれる。
 けれど。
 祐巳さんの明るい笑顔に満ちたその論理の帰結が祥子様に与えられたとき、
 怒りに濡れた祥子様の瞳が祐巳さんのその笑顔に逆襲したのでした。
 
 
 祥子様は、とても美しい人だと私は思います。
 とても冷たくて、そしてとても強くて。
 だからとても美しくて。
 美しい故になにもかもが明白で、そして明白である故になにかを隠している事さえも明らかで。
 その強烈な自己主張に彩られた隠匿物が輝く美しさ。
 そしてその美を冷酷に駆る躍動美。
 なんて、ヘンな言葉を言ってしまいましたけれど、そういう感じがします。
 冷酷とは真面目ということで、それはひとつの事に没入してしまい、
 周囲のものと溶け合うことのない固さ、あるいは閉鎖性の徹底さがあるということでもあります。
 けれどそれはまさにそれを飾る言葉次第であって、
 一方ではそれには周囲の余計なものに惑わされないひたむきな正しさがある、とも言えるのです。
 そしてその瞳には、あらゆるものに対して正邪を問いかける力があります。
 そしてその問いかけの視線は、論理という存在そのものに対しても向けられます。
 祐巳さんの論理は論理として正しいのか、
 そしてそれ以前にその論理の根本にある論理の前提自体が正しいと言えるのか。
 祥子様の美しい視線は、まさにそこを突くのです。
 優しさを抱くのは大切なことだけれど、その優しさの運用と、
 そしてその優しさの根拠はとても大切。
 誰かが自分に抱いてくれた優しさに惑わされることなく、
 その優しさの根拠だけを吟味し正当に評価してくれる、それが祥子様の優しさ。
 贈られたチョコを全部突き返したという祥子様を評して、ロサ=カニーナはそのようなことを仰いました。
 一方的に押し付けられた愛は、ただ迷惑なだけ。
 祐巳さんの論理は、基本的に祥子様に対して一方的に押し付けた想いの展開であって、
 しかもその想い自体の正統性、つまりそれが祥子様に相応しいかどうかの吟味はされていないのです。
 祥子様にとっては、その優しさはまさに失格なのですよね。
 祐巳さんは、結局のところ独り善がりなのです。
 それは自分さえ良ければ、という意味ではなくて、
 これなら絶対あの人が喜んでくれる、と勝手に自分で決めつけてしまっているという意味です。
 優しさとはなにか。
 それはただ誰かのためになることをしたと勝手に自分で思い込んで、
 そのことに満足するためにあるものではない。
 祐巳ちゃんのは要するに自己満足でしょ、と聖様は仰いました。
 まさにそうなのです。
 自己の美学に酔っているだけなのです。
 もちろん、祐巳さんが祥子様を想う心、そしてその想いの展開自体に間違いはなく、
 そして非常にそれは大切な事だと思います。
 でも。でも、それはあくまで祐巳さんの中で完結すべきものであって、
 それが実際の祥子様のためになることとは、根本的に無関係なのです。
 そして、祐巳さんのその優しさの受け渡し先には、絶対的に祥子様が居ないのです。
 宙に浮いて漂うだけの祐巳さんの想い。
 自分の想いを誰かに送り届けるには、まずその先にその相手が居なければなりません。
 相手を無視しての優しさは、ですから相手にとってはただ迷惑なだけ。
 相手を第一に考えてこその、「正しい」優しさ。
 自分の勝手な想いを持ち出したら、それはただ不純なだけ。
 祥子様の視線は、そう激しく責め立てているのです。
 
 
 バレンタイン。
 それは愛する人にその想いをチョコに託して贈る日。
 そしてそれは、その想いの正邪が問われるテストの日でもあるのです。
 ただ自分の中だけで練られた言葉を、相手に押し付けてもなにも伝わらない。
 勝手に祥子様の事を想定して、そして祐巳さんだけでなにもかも決めてしまう。
 そこには祥子様の居場所の無い空間がただ広がっているだけです。
 嬉しいはずがありません。
 祥子様は真面目であるからこそ、嬉しくないからこそ怒ってもいるのです。
 聖様のように、独り善がりな贈り物達にもそれなりに正統性を与えて受け止めてあげたりという、
 そういう事を一切せずに、ただひたすら真っ直ぐに自分に向けられたものを見つめるのが祥子様。
 そしてその祥子様が求めるのは、祐巳さんの想いただそれだけ。
 祐巳の想いはいったいなんなの。
 矛盾しているようでしていない、祥子様の求めるもの。
 祥子様にとっては祐巳さんに余計な配慮をされることこそが、押し付けられたもの。
 祐巳さんが祥子様には押し付けられたチョコは似合わない、と勝手に想っていること、
 それこそまさに祐巳さんの自己満足なのです。
 つまりはすべてを祐巳さんが自分で決めようとすることを、祥子様は怒っているのですね。
 祐巳さんなりの優しさの美学は、祐巳さん自身、
 そしてその祐巳さんを離れて見る事ができる聖様にとっては意味が了解されるけれども、
 しかし祥子様には通用しないのです。
 了解されない想いの交換に、意味は無い。
 祥子様の論理を無視しては、祐巳さんの論理はその根底から意味を為さなくなるのです。
 そしてそもそも祥子様は、祐巳さんに論理など求めていないのです。
 まず、前提を示しなさい。
 その前提を私に示して合格点を貰ってから、論理でもなんでも構築なさい。
 あなたは、どうしたいの?
 祥子様は、ひたすら要求します。
 祐巳さんがなにを言いたくて、なにをしたいのかを祥子様に示すことを。
 祐巳さんの優しさの前提、大元にあるその優しい言葉を祥子様は求めています。
 
 
 祥子様の求める優しさとは。
 相手の求めるものを最も上位に置いて自分を消すという、礼儀正しい愛。
 そして最も重要なのは、その相手の求めているものはなにか、という問い。
 その問いを重ねていない優しさは邪で、そして例え重ねられていたとしても、
 その優しさが相手に対して不適合であれば、その時点でその正当性を失う。
 相手への配慮とは、本質的なところで真面目に徹底されなければ意味がないし、
 そうでない配慮は相手にとってたいへん無礼な事になる。
 祥子様はずっと祐巳さんにそう伝えているような気がします。
 非常に相手を尊重するがゆえに冷徹。
 冷徹なるがゆえのその愛の強靱さ。
 祥子様の強さは冷たさに裏打ちされ、そしてその美しさはその強さに支えられています。
 その美しさは、そしてどうしようもなく祐巳さんを求めるという愛という言葉にも変換されます。
 そしてその愛が、祐巳さんに対して要求をし続けていると思います。
 それは、お堅い祥子様をお堅いからこそやわらかくしたいと言った蓉子様と通じます。
 祐巳さんの優しさの発露に不満があるからこそ、それを直すために祐巳さんに色々要求する。
 それは祥子様の優しさの一形態でもあります。
 冷たくて強くて、そして美しい祥子様の優しさ。
 それは祐巳さんにとっては、まさにテストなのです。
 
 
 
 と、なんとなく紅薔薇のカタチが見えてきたような気がしました。
 なかなかどうして、一番紅薔薇が難しいですね、やっぱり。
 蓉子様と祥子様のお話がもっと描かれると良いのですけれど、それは仕方ないですね。
 そもそも、別に紅薔薇のカタチがどうとかだけを見ている訳ではないですから。
 それにしても、聖様はいつになくピンポイントついてきました。
 ごんぎつねのたとえは本当にぴったりでした。
 さすがによくおわかりですよね。
 一番祐巳さんを知っていて、そして二番目に祥子様に興味があられるようなロサ=ギガンティア。
 こうなってきますと、いよいよ志摩子さんが祥子様の妹にならなかったのがよくわかります。
 そしてやはり、祐巳さんが祥子様の妹で合っているような気も致します。
 マリみてというのは、とても形式が重視されています。
 少なくとも私はそう感じていつも見ています。
 そしてちゃんと理屈というものを軽視しないで、ちゃんと祐巳に語らせていますし、
 また祐巳が語る事によって他の方々の心象も言葉化して捉えることができるのです。
 そしてその理屈といいますか、論理によって語られているそのもの自体への問い、
 これがひたすらに繰り返されているお話だと思うのです。
 スールの間で交わされる優しさ、それをただ描くだけでは無くて考えていくために。
 そして考えるためには言葉があり、そして言葉があるから論理があり、
 そしてまたその論理自身への問いが繰り返されていくのです。
 恋愛を描く、それは愛する人と自分の事を「考える」という愛を描いているのだと思います。
 徹底的に考えを重ねていくんです。
 愛というものを言葉で表わしていく、というのではなく、
 愛というものそのもの自体が既に言葉なのです。
 私は、そういう感じでいつもマリみてを「感じて」います。
 
 
 と、微妙にオチがつきましたところで今宵はお終いとさせて頂きます。
 御静読、ありがとう御座いました。
 
 
 
 
 

 

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