〜2004年4月の過去ログ〜

 

 

-- 040430 --                    

 

         

                          ■■『捨て猫王女の前奏曲』■■

     
 

 

 
 
 『あいつの名前はな、俺たちの親父とお袋が付けたんだ。
  みんなに愛されますように、って願いをかけてな。』
 

                             〜 第一話のシャノン兄のセリフより〜

 
 
 
 
 
 殺すとか、殺さないとか。
 根本的に嫌なんだ。
 そしてだから、そういうことから逃げる。
 逃げて、たくさん楽しいことを思い浮かべて、ずっとずっと笑顔でいようとする。
 その背中の中にある悲しみを、絶対に自分の想いとしないための戦い。
 たとえ自分を殺そうとして向かってくるものと対峙しても、それだけは絶対にやめられない。
 やめては、いけないんだ。
 いけないし、そしてやめたくない。
 美味しい食べ物が食べたくて、楽しい音楽を聴いて、あったかいベッドでぐっすり眠って、
 友達と笑い合って、一緒に遊んで勉強して、そしてね、そしてね・・・。
 いっぱいいっぱいやりたいことがあるんだ。
 それだけは、絶対諦めちゃいけないんだ。
 
 私を殺そうと、たくさんの人達がやってくる。
 私が生きていると、その人達が生きられないから。
 私が年を重ねるごとに、その人達の生きられる年数を奪っていくから。
 だから、みんな私を殺そうとして私を憎む。
 私は、その人達の姿から決して目を離さない。
 人々の命を軽んずることなどできないから。
 人々の悲しみを知っているから。
 自分が死ねばその人達が幸せになれることを知っているから。
 私は絶対に目を離さない。
 
 
 
 
 
 -- あいつは俺が守り、そして俺が殺す -- 
 
 
 
 
 パシフィカは、笑っている。
 とても楽しそうに、そして笑える瞬間を大事に抱えながら笑っている。
 自分が死ななければ、世界を滅ぼすことをパシフィカは知っている。
 俺も、知っている。
 だから、俺はパシフィカを殺そうとする奴を殺さない。
 どんなに妹を愛していても、それを守るために誰かを殺したりしない。
 あいつは俺が守る。
 だから、あいつのせいで誰かが死ぬことになるのは許せないし、許さない。
 あいつは俺が守る。それだけだ。
 そして、俺にはそれしかできないんだ。
 
 俺はあいつの笑顔が好きだ。
 懸命に笑おうとする、パシフィカが好きだ。
 自分を殺そうとしてやってきた奴らを俺がぶちのめしたのに、それでも笑おうとする妹が好きだ。
 あいつは、自分を殺そうとしてくる奴らの悲しみを知っている。
 とても深く知っているから、だから笑う。
 同情なんて、あいつは絶対しない。
 同情して奴らの命が救えるなら、パシフィカはとっくの昔にそうしている。
 妹にとっては、既に自分の命と奴らの命が天秤にかけられているはずだ。
 あいつの同情や慰めや、ましてや謝罪など奴らにはなんの価値も無い。
 当然だろう。
 奴らはパシフィカを殺さねば死んでしまうのだから。
 俺はその事を知っている。
 知っていて、そして奴らをぶちのめしている。
 なにも考えていない訳じゃない。
 だが、なにも考えていないに等しい。
 俺があいつを守る理由なんて、無いに等しい。
 俺が世界よりあいつを取ることに、なんの選択の余地も無い。
 世界って、なんなんだ。
 
 俺には、世界というのがよくわからない。
 世界が滅びる、と言われてもぴんと来ない。
 だが、人がたくさん死ぬ、ということがどういうことかはよくわかる。
 パシフィカも、そして人だ。
 俺にはどうしても、人を生かすために人を殺す、という発想がわからない。
 パシフィカを守るために人を殺すことをしないのと同じように、
 人々を守るためにパシフィカを殺すことができない。
 だが、いずれ妹は十六になれば多くの死を引き起こす。
 パシフィカは、ただ其処に居るだけで誰かを殺さねばならないんだ。
 俺は・・・俺は・・・・。
 パシフィカを守る。
 パシフィカが世界を本当に滅ぼす存在であるとわかる日まで。
 もしその日が来たら・・・俺は・・・・パシフィカを・・・・・
 
 
 
 
 --そのときは、お兄ちゃんが私を殺してね--
 
 
 
 
 私には、やっぱり耐えられないよ。
 私のせいで誰かが死んじゃうなんてさ。
 お兄ちゃんが悩むのもわかるけどさ。
 なにが一番大切かって、きっとシャノン兄はわかってるんだよね。
 お兄ちゃんは、きっと私を殺せない。
 でも私は、それに甘えちゃいけない気がするんだ。
 私はやっぱり、最後の最後で死ななきゃいけない気がする。
 世界中の人達のためにね。
 私が生きるって、そういうことなんじゃないかなー。
 
 でもね。
 
 私、シャノン兄に言いたいことがあるんだ。
 シャノン兄が大好きだよって。
 私ね、その言葉をちゃんと言うにはやっぱり楽しく精一杯生きなくちゃいけないと思うんだ。
 たとえ、私が全世界を滅ぼすのだとしてもね。
 私はさ、お父さんとお母さんに名前を貰ったんでしょ?
 私、なんかそれだけでもう、生きていていんじゃないかなー、って思っちゃったんだ。
 そしてね、それは一番一番大事な事なんじゃないかなーって。
 それが一番じゃ無くなったときに、私は初めて死ねるんだと思う。
 お父さんとお母さん、お姉ちゃんにお兄ちゃん。
 私の家族が私を育ててくれて、そして守ってくれる。
 私は、今はそれでいいんだと思う。
 
 
 
 ・・・・・・
 
 あいつはなにもできない。
 だが、だからなにかをしなければいけない、とは思わない。
 あいつは俺が守る。
 守るのが俺の仕事だ。
 あいつが自分で自分を守ること、それだけはして欲しくないし、俺がさせない。
 あいつがあいつを守ることは、それこそが忌むべき我が儘だ。
 あいつがあいつを守るということは、あいつが自分は世界を滅ぼす、という意思表示になるからだ。
 そんな嘘を、誰があいつに言わせるものか。
 そんな汚らわしい託宣への追従を、誰があいつにさせるものか。
 あいつは、俺が守る。
 そして殺していいのは俺だけだ。
 あいつが世界を滅ぼすなんて、嘘だ。
 親父とお袋の願い、それだけが真実なんだ。
 俺はその真実の通りに生きるお前が好きなんだ。
 そして俺もお前が愛されるべき存在だと信じている。
 俺はそう信じて、パシフィカを守り続ける。
 俺がそれを信じていられるうちは、絶対にあいつを殺させやしない。
 
 いいか、パシフィカ。
 お前は、俺が守る。
 
 
 
 ◆◆◆◆
 
 本日より、「スクラップドプリンセス」の感想を始めます。
 十六歳になると、世界を滅ぼすと言われた少女パシフィカ、
 そしてパシフィカの姉兄であるラクウェル、シャノンの物語。
 自分の命と世界の命をはかりにかける。
 それが始まりです。
 とても難しいです。
 紅い瞳にとって、かなりの難問です。
 そしてその難問の姿それ自体を書き表すことも困難です。
 でも、私は書ける書けないは別にして、この作品を語りたいと思っています。
 そう思っているからこそ、こうして書き始めたのです。
 そして、これからも書き続ける決心が付きました。
 すてプリの凄さを全然うまく表現できないけれど、
 でもそれに恥じ入る事なく、全力を尽して感想を書き続けていこうと思っています。
 書きながら考え、そして考えながら書いていこうと思います。
 紅い瞳は、実はすてプリを一度観ています。
 全部の話では無くて、後半だけなのですけれど、結末は知っています。
 ですから、どうしてもそのことを念頭において書いてしまうこともありますけれど、
 あくまで私は現時点でなにが言えるか、ということについて書こうと努めます。
 そのせいで色々と不自然な箇所も出るかも知れませんけれど、
 それはそれが現在の紅い瞳がすてプリに抱いた感想のカタチであるとご判断くださいませ。
 
 
 紅い瞳、がんばります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ちなみに紅い瞳は、
 シャノン兄(注:しゃのんにぃ、とお読みください)のファンですので、よろしく (告白)
 
 
 
 

                          ◆ 『』内文章、アニメ「スクラップドプリンセス」より引用 ◆

 
 
 
 

-- 040428 --                    

 

         

                                ■■聖抄■■

     
 

 

 
 
 
 
 『貴方に会いに来たの・・・貴方に会いたかったの。・・・この気持ち、迷惑?』
 

                             〜 第十一話の聖のセリフより〜

 
 
 
 
 
 
 日差しが眩しい事に慣れること無く、それでもそれが苦痛であることに拠り所を得て。
 少しでも雲がかかってしまえば、それ自体が私の姿を霞ませる。
 もっと光を。
 もっと我が身を引き裂く陽光を。
 私を切り刻む事を誰もしなくなってしまったら、私はもう。
 
 新緑が足下から忍びより、私の行く手を阻んでいく。
 お前は此処で待っていろと私に言い、私はその言いつけ通り佇んでいる。
 ささやかな他人達が私を追い越して行く中で、それでも私はひとり立ち止まる。
 嗚呼・・・ほら、また陽が射してきた。
 また、私の体を焼き尽くしてくれる。
 私を引き留めた新緑達の燃え尽きた亡骸を踏みしめて、私はまたこの道を歩み始めた。
 ありがとう、緑色の小さな友達。
 そしてさようなら、燃え滓よ。
 
 
 
 
 心の中で、小さな声が響いている。
 走れ、走れ、走れ、と。
 私はその叫びを聞き流しながら、そして懸命に走っている。
 走らねばならないのじゃなくて、走らずにはいられないから。
 みんなが私の先を行き、私の背は陽光で押し潰され、
 だから私は走りたい。
 なにもかもを滅茶苦茶にすることができないから、ただ走る。
 走って、そして心の中に走れというその言葉だけが響くことを確認して、私は走り続ける。
 私のこの衝動で、走り潰れたい。
 我が怒りの矛先は、すべて我が身に。
 もし誰も私を罰しないのなら、私が私を罰してみせよう。
 誰も私を取り残さずに、一切の陽光が私に届かないのなら、
 私は命枯れ尽きるまで走り続けよう。
 私の目に映るのは、私の一歩先を往く私の淫らな二本の足だけ。
 走れ、走れ、そして壊れてしまえ。
 
 
 
 
 
 嗤いが、止まらない。
 
 
 
 
 
 せせら笑う私の瞳は、私の体を何度も押し留める。
 誰が走るものか。
 いや、走って差し上げよう。
 だが、この走りは方便でしかない。
 私の欲望を、貴方は知らないだろう。
 私も、私が知るまでは知らなかった。
 神に救いを求めるこの私の指先に、どんな力が込められいるのか、貴方は知っているのか?
 私も、私が私の指を見つめてみるまでは知らなかった。
 嗤いが、止まらないんだ。
 私は走りながら、なによりも凄まじく高笑いしているのだ。
 私は、私が不幸だと思っている。
 なによりも誰よりも強く思っている。
 そしてだから、誰よりも救われる資格があるのだと、神に我が身を突きだして見せているのだ。
 私の不幸さが不幸であればあるほど、私の存在価値は重きを為していく。
 私を救ってみせよ、神よ。
 私を救ってこその神だ。
 私は救われて当然なのだ。
 私がなにも神の祝福を受け取れず、しかも私に見合う祝福を敢えて求めない謙虚さに、
 神は一体どのような素晴らしき救いを与えてくださるのだろうか。
 私はそれを考えると、嗤いが止まらない。
 愚かな他人達よ、笑いさざめくがいい。
 散々悪を為せば良い。
 私を思う様痛めつければ良い。
 それだけ、私の価値は重くなるのだから。
 私が、私で居られる証しを得られるのだから。
 
 硝子細工の嘲笑の中、私は私の淫らな欲望を抱きしめる。
 それだけは絶対に譲れないと、神の名に於いて誓った。
 私程度のものを救えない、という侮辱を神に与えないために。
 私が救われれば、それだけ神の名声もあがるのだ。
 
 私は、私が生きるためならばなんでもしよう。
 私が生きているということを侮辱しないために。
 私に生を与えてくださった神を冒涜しないために。
 清い生を生きられねば命を絶つなど、冒涜以外の何者でもない。
 神は自死を禁じた。
 ならば私は、どんなに汚れても生きていこう。
 どんなに淫靡な方便を用いてでも、絶対に生き抜こう。
 
 
 
 -- 嗚呼・・悔しい --
 
 
 
 妖艶なる自らの有様に嫌悪感をもよおしながら、
 必死にその嫌悪に耐えることを美徳として生きてきた。
 自らの汚辱にまみれた体を見つめるたびに意識が遠のいても、
 懸命にみだらな我が二本足を見つめて走り続けている。
 走ることで怒りをぶつけて生きている。
 私のうちにある、激しい怒り。
 その怒りの矛先を自分にぶつけることで神に救われる権利を手に入れる。
 私は、私の怒りを決して絶やさない。
 憎悪を以て愛を得るために、私は我が怒りを浄化することをしない。
 消えない怒りがあることを、生き甲斐にしている。
 そして。
 そしてその怒りの矛先が、しっかりと神に向かっている事を私は知っている。
 私に向けた刃の反対側で、神の喉元に突きつけた黒い切っ先が輝く。
 その輝きがあることの怖ろしさを微塵も感じずに、私は薄く笑いながら我が身を切り刻んでいる。
 私は私を憎むことで、神をなによりも憎んでいる。
 だから、私は神に救いを与えて貰う、という権利を神から奪い取ろうとしている。
 私は、悪い人間だ。
 だから、私は罰せられなければならない。
 そうして、私は神に従順になることで神の命を握る事に執心した。
 私はあの空から、神の瞳を奪い取っていたのだ。
 
 
 水色に落ちぶれた空が泣いている。
 その空の敗北の涙を我が身に染み込ませて勝利の嗤いを高らかに謳う。
 私の戦利品が、かつて栄華を極めた廃墟の中で待っていた。
 大事な大事な、戦利品。
 神から勝ち取った、完璧な祝福。
 私の持ち得なかった潤いに満ちた、完全な人間がそこで私を待っていてくれた。
 
 私は勝ったのだ、マリア様に。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 『当然のように栞は其処に居た。この世界に愛された、白く輝く存在として。』
 
 
 
 
 
 
 
 嘘は、もうお終い。
 
 嘘なんてもう、いらないんだ。
 
 
 
 怒りという言葉で彩らせた私の心は溶け、
 私はふと青い空を見上げていた。
 私は、とても優しい気持ちになれた。
 私は今、あの空がなによりも愛しい。
 私は今、なによりも神を信じている。
 そしてなによりも今、私の中にある数々の方便を使用せずに空を見上げることができた。
 怒りなど、方便にしか過ぎない。
 私はただもう、この陽光に初めて暖められていた。
 そこに、確かに貴方が居るのだから。
 私は今、確かに神の御姿を拝している。
 私は今、確かに救われた。
 私は、神と争うことで神の御姿を確かに視た。
 神に勝ったという私の敗北宣言を我が耳が受け取ったことで、神の御言葉を確かに聴いた。
 汚辱にまみれることなく、あらゆる淫靡さからも解放された存在が其処に。
 私を突き動かす衝動が、ただそれだけである事を私は感じた。
 いかなる方便にも利用される事のない、ただそれだけの衝動。
 私は、ただ、愛されたかっただけなんだ。
 私は、ただ、貴方に会いたかっただけなんだ。
 私のために生きたかったのでは無い。
 貴方のために生きたかったのでも無い。
 私はただ、生きたかったんだ。
 私が生きることで誰かを傷つける事の辛さ、
 私が誰かを傷つけてしまう事で感じる私の生きづらさ。
 私は私が誰かを傷つけてしまうことが許せなくて、
 だから私は私の身を刻んだ。
 でもそれは、なんの意味もない。
 私はその許せない自分のカラダを罰する快感に、ひとりで酔いしれていただけ。
 誰かを想うことは自分で自分を思っている事だけにしか過ぎない。
 そしてなによりも、そう思っているだけにしか過ぎない、という言葉それ自体が方便なのだ。
 私はその誰かの姿を自分とひとつにしてしまっていた。
 私は誰かに私が生きることの責任を押し付けていた。
 私は誰かのために生きてるんじゃない。
 私の体は、私だけのものだ。
 そしてだから、私は誰かのために生きている、
 そして私の体は私のだけでは無いと、初めて言える。
 だからもう、嘘は要らない。
 
 
 『貴方に会いに来たの・・・貴方に会いたかったの。・・・この気持ち、迷惑?』
 
 
 私の気持ちは、受け入れられた。
 最初から、神は私を見ていてくださった。
 私は最初から知っていた。
 私はその事を知っていたということを。
 私は、私を言葉で塗り替えていた。
 神の祝福を受け入れられない自分の姿を描いて、
 そして神に挑戦した。
 その私の姿勢は私が私の最初から知っていた想いを塗り替えただけのもの。
 私はただ、神の祝福を受けたかった。
 ただ、それだけの事を私はずっと前から知っていて、ずっとずっと知らなかったのだ。
 私の心の中に確かにありながら、違う色で描き続けたためにわからなかったのだ。
 そして今。
 目の前に、私のために用意された真っ白な祝福が現われた。
 貴方に・・・会いたかった・・・・。
 私が生まれたときから私の中に宿っていた特別な涙が、生まれて初めて流れていく。
 どうしようもなく、嬉しい涙。
 嗚呼・・・其処に貴方が居て・・・・・此処に私が居る・・・。
 私はただもう、貴方を求めた。
 貴方のためでも無く、私のためでも無く、ただ貴方を愛するが故に。
 愛するが故に貴方が其処に居る訳でも無く、愛するが故に私が此処に居る訳でも無い。
 神に感謝することでこの出逢いがあった訳でも無く、出逢いがあったから神に感謝するのでも無い。
 私は、貴方を愛している。
 ただ、それだけで充分なんだ。
 私が此処に居て良い理由が誰かを愛せた事に由来する訳でもない。
 私は、ただ生きてるから此処に居るだけなんだ。
 全部・・・・全部私は知っていた・・。
 だから私は誰も愛さなかった。
 だから私は死ななかった。
 そして神の正しさも知っていた。
 清く正しい姿こそ求めるべきものだということも、ちゃんと知っていた。
 だから私はそれから逃げたのだ。
 
 
 
 だから、ただいま、マリア様。
 
 
 
 ◆◆◆◆
 
 聖様は野望家なのだと思う。
 快楽的なのだと思う。
 そしてなによりも、厳格な人だと思う。
 自分の快いものを得るためにあらゆる努力を尽し、徹底してそれを求めることに妥協をせず、
 そしてどこまでも求めることをやめなかった。
 自分の姿を言葉で書き換え、自分の在り方すら欲望を前提にして定義し、
 そしてその定義に基づき、圧倒的な推進力を以てまっしぐらに突き進んでいた。
 そのあまりの勢いに、聖様はいつしか本来の目的である欲望を見失ってしまった。
 突き進むことで様々な言葉が紡がれ、
 そしてその紡がれていく言葉の流れが、その流れに準じたまた新しい流れを作りだし、
 聖様はその流れに乗っていくことがいつのまにか目的になってしまっていた。
 乱暴な言い方をすれば、目的と手段が入れ替わってしまったのだ。
 誰かのためになりたい、という原初の想いを達成するという欲望が満たされる前に、
 でも誰かのためになりたいと思う自分の想いを遂げることは、
 それは結局は自分のためになることをしてるに過ぎないじゃないか、という問いを導き出して、
 そしてその問いに答えるという欲望を新たに生成してしまう聖様。
 そうして次々と問いが重ねられていくうちに、本来にあった純粋な欲望は姿を隠し、
 結果その欲望自体を否定する事になってしまう。
 
 難しい問題ではあるのです。
 特に、自分と他人の関係というのは。
 ただの自己満足の優しさの存在意義がどういうものであるのかは、
 実は私もまだ明確にはわかっていません。
 そもそもそれを自己満足、といってしまっていいのかすらわかりません。
 誰かのためを思って行動する、それが一体どういうことなのか。
 それは逆に自分の行動の責任を他人に押し付けてるだけじゃないのか。
 貴方のためを思って、私はこうしました、と言われたら、
 それは素直に喜べることなのか。
 或いは、それは喜んで貰えればそれで良いのか。
 基本的に、聖様の中にあるのはこういう類の苦悩だったと思っています。
 自分が居て、そして自分がなにかをするということはどういうことなのか。
 自分の中に、それを厳格に問い求め続ける声が、聖様にはあるのです。
 どこまでも徹底的に考え続け、清らかにも淫らにもなりながら、
 あらゆる手段を以て考えて続けているのです。
 問題はなにも栞さんとの関係だけにある訳では無いのです。
 すべてが問題なのです。
 徹底的に問い、求める事それ自体がなによりも強い快楽を聖様に与え、
 そしてその快楽に溺れてしまった聖様。
 でも、その溺れた快楽の中に聖様は生まれて初めて大切なものを見つけたのです。
 それは、聖様が今まですべてをかけて問い続けてきたことへの明確な答え、なのです。
 私には、その答えをうまく言葉で説明することができませんでした。
 栞さんと出逢い、そして次に逢ったときに得た、あの聖様の涙。
 私は、ほんとうはそれで充分だと思っています。
 けれど、どうしても言葉で説明したい、という欲求もまた私の内にあって、
 ですからこのような文を書いてしまったのです。
 
 聖様という人の姿から問いを抽出して、書き表わしてみたのが今回のこの文章です。
 あまり上手く書けなく、かつ肝心要の問いの姿がはっきりと現われないまま終了となってしまって、
 少し残念でしたけれども、これもまたひとつのキッカケとして、
 また別の場面でこの問いの姿を浮き彫りにしてみたいと思っています。
 ちなみにタイトルの「聖抄」というのは、上でもちょっと書きましたけれど、
 「聖様という人の姿から問いを抽出して、それを別のカタチにして書き表したもの」という意味です。
 元々「抄」という言葉は、抜き書きして書き写すという意味がありますので、
 それをちょっと転じてこのような言葉として使ってみました。
 
 それでは、色々と中途半端でしたけれども、
 皆様のうちになにか問いのようなものが生まれる事を祈りつつ、
 この文章を終了とさせて頂きます。
 
 
 
 
 ◆◆
 
 参考文献 : 紅い瞳「マリア様がみてる白い薔薇」 / 「マリア様がみてる白い薔薇 2」
 
 
 
        

                          ◆ 『』内文章、アニメ「マリア様がみてる」より引用 ◆

 
 
 
 

-- 040427 --                    

 

         
     

 

■■アンヌを見つける■■

     
 

 

 
 
 マドラックスを見たのだけれども。
 一番新しい話。もう何話になっているのかわからない。たぶん4話くらい?
 てな感じでそのあたりはどうでも良い。
 アンヌという人が出ていた。
 なんだか優しそうなお父さんを殺してた。
 首を絞めて、そしてそのあと自分も身を投げて自殺。
 なんで殺したのか、それはわからないし、わかったつもりにすらなれない。
 でも、ただ、なにかはわかった気になれた。
 誰かを愛していて。
 でもそれはなんのために愛しているのか。
 誰かのためになろうとすることと、誰かを愛することは同義ではない。
 自分の父が好きだから愛しているのか、それとも父が好きだから父のためになろうとしたのか。
 好きだから父のためになろうとしたのならば、なぜ自分は父が好きなのだろうか。
 父が好きで、だから父のためになることをすることで、
 その自分の父が好きだという気持ちを満足させることができるからか。
 その答えが出る前に、そんな自己満足をすることが父のためになっているといえるのか、
 という問いが見えてしまう。
 たとえなっていたとしても、それは自分が父を愛している故に父のためになろうとしているのでなく、
 ただ自分の気持ちを満足させるためにしたことであって、
 一体どういう意味がその満足にあると言えるのかがわからなくなってしまう。
 それならば、徹底的に父に奉仕すれば良いのか。
 なにも考えずに父に従いて、ただ父の欲望を充足させれば良いのか。
 では、父の欲望とはなにか。
 父がもし自分にお前が満足することが私の欲望だよと思っているのだとしたら、
 アンヌはどうあってもなにもできない。
 父に満足して貰いたいという想いの根拠を見出せぬうちに、
 父を満足させるにはどうしたらよいのかという問いにべったりと張り付かれ、
 そしてその問いに答えを出そうとすると。
 そう、どうにもならなくなる。
 父が好きで父のためになりたいと思って、
 でもそれは自分が父を好きだという自分の気持ちを満足させたいがための自慰行為にしか過ぎず、
 そこにどうしても父への愛を見出すことはできない。
 それならば父が好きかどうかを思い浮かべる前に、
 まず絶対的に父に従属し、ひたすら父に奉仕すれば良いのか、ということになってしまうと、
 ではそもそも自分はなんのために父に奉仕するのかがわからなくなる。
 けれど、「なんのために」と考えた時点で、そこにまた再び自分が父が好きだから、という言葉を導き、
 どうしてもまたそれはただの自己満足にしか過ぎない、という結果に逆戻りしてしまう。
 逆戻り、というよりは堂々巡り。
 そしてその堂々巡りの輪を断ち切ることができない内に、
 父の中に父の欲望というものを見つけてしまう。
 お前の笑顔がただ見たいだけなんだと、父の顔は微笑みながら言っている。
 恐ろしい言葉、だと思う。
 自分の事なんかどうでも良くて、なんとかして父のためになりたいと考えているのに、
 自分のことを第一に考えろと言われるのは。
 それは、怖い。
 自分の事こそ、最もわからないことなのに。
 自分のために笑うことが、なによりも難しい事なのに。
 こんなに自分は父の事を考えているのに、などと言う言い訳を言ってしまった時点で、
 取り返しのつかないことになってしまうことに気づく。
 嗚呼、なんだ、やっぱり父の事なんてどうでもいいんだ、ということに。
 父のためになるということは、やっぱり自己満足にしか過ぎなかったんだということに気づいてしまう。
 どうしても、そこから逃れられない。逃れられなくなってしまう。
 父のために、と父の事を考え、そうして父を思い遣る事に自分の存在の意義を見出して、
 そしてその意義が得られる事を目的として父を想う。
 ならば、父を愛してなどいないではないか。
 父という存在は、自分が此処にいるために利用するだけの意味しかないではないか。
 だから、私は、父を愛してなんていない。
 嫌いなんだ。
 
 
 
 順番が変わっている。
 すっかりとひっくり返されているアンヌが居た。
 自分が抱く、最も根本にあったものを無視したから。
 否。
 別の言葉で塗り替え、そしてそれを原因ではなく結果に位置づけたから。
 アンヌは父を愛している。
 アンヌは父を愛していない。
 どちらとも言える。
 そしてどちらか一方を選択する。
 アンヌは、父を愛していない、という言葉を選んだ。
 論理の帰結として愛の存在の無いことを証明し、そして愛無きことを選んだ。
 けれど。
 けれど、そこにマーガレットが居た。
 マーガレットは言う。
 優しいかた、なんですね、と。
 自分ではわからない、というアンヌに重ねてマーガレットは言う。
 貴方は優しい、と。
 愛が、始まりにあったのだと。
 ただふと立ち止まって、マーガレットの落とし物を彼女に渡してくれたアンヌの微笑みに、
 彼女の根本があるのだと、マーガレットははっきりと示す。
 優しい気持ちの芽生えがあるだけで、そしてそれをただ微笑みで包むことができるのなら、
 それだけでもう貴方はとても優しい人なんだ。
 その優しさは誰かから要請されたものでも、自分の意志で勝ち得た物でもない。
 ただただなにかを見てとろけてしまいそうな優しい気持ちに包まれ、
 そしてその衝動のまま誰かのために尽していた。
 少しでも僅かでも優しくなれるのなら、貴方は優しい人だ。
 アンヌさんは優しいかたです。
 でもアンヌはわからない。
 自らの優しさを別の言葉で塗り替えて覆ってしまい、
 その言葉の赴くままに愛の有無を勝手に決めてしまっていたから。
 愛が始まりであったのに、いつのまにか愛が終わりになってしまっているアンヌ。
 言葉を重ねれば重ねるほど、アンヌの笑顔に雲がかかっていく。
 そして。
 そしてマーガレットは、言います。
 
 貴方は、だから優しいんです。
 
 
 ◆◆◆◆
 
 以上、妄想終わり。
 次、適当に。
 さすがにちょっと、アニメ多すぎた。
 ちょっと調子に乗りすぎた。ごめん。
 だからいくつか見るのを打ち切る事にした。
 とりあえず、爆裂天使と忘却の旋律は切っておく。さようなら。
 とか言ってる割にはこの間ガンツとか見たのだけれどさようなら。最初から御縁がありませんでした。
 ところで羊のうたのOVAが今度ケーブルでやるらしーのだけれども。
 ・・・・やっぱりプチっと来るものがあるねって。そりゃ思うよねって話だけれども。
 だってOVA完結したのついこの間よ? ちょっとばかし早過ぎやしませんか。
 なんだよー、こっちは当分ケーブルじゃ見れないと思ったからDVD頑張って揃えたのにぃ。うきー。
 って思ったらペイパービューで放送だった。番組ごとに視聴料払うタイプ。
 なんだ、じゃ別にいいや。どーせ見れないし (なんか論点違う)
 見れる人は、この際見てみるがよろし。
 でー。
 多分、明日か明後日にアニメマリみての感想を書くつもり。
 もちろん聖様で。ロサギガンティアで。白薔薇様で。万歳で。
 そして、もしその感想がすんなり書き終われてしまうなどという奇蹟が起きたならば。
 そのときはたぶんすてぷりの感想とか書いちゃうと思う。思い切って。
 今現在ケーブルで放映していて、既に今週で5話目に入っちゃってるので、
 かなり出遅れているけれど、あ、つまり感想は1話から勿論書くということで。
 だからもし書くとなれば、週に2話分くらいの感想書いて追い上げたいところ。
 とりあえず今週は少し忙しいので、2話分感想書きは来週からになると思うけれど。
 
 まー、なんにせよ、適当で。 ←本日のオチ
 
 
 
 

-- 040425 --                    

 

         
     

 

■■日暮れ前の月■■

     
 

 

 
 
 月姫第二話の感想、いきます。
 
 
 志貴、という存在がやはり面白い事がわかりました。
 
 アルクェイドをバラバラにして殺しておきながら、
 そのアルクェイドが復活して彼の前に現われたときに対する態度が不思議でした。
 志貴は一体、アルクェイドを殺したことを覚えているのか、否か。
 二人の会話から察するに、結論としては殺したということはわかっているらしいのだけれど、
 しかしその割には志貴のセリフからはすんなりとその結論を導くことはできません。
 どうしても、志貴の言動は不自然。
 何度も自分は殺してないと言い張ったり、
 あくまでアルクェイドから逃げるときの態度が、不審者から逃げているだけというように見える点など、
 どうにも自分が彼女を殺したのだという確たる自覚を持っているようには見えないのです。
 そして最も不思議な点は、それがどうみてもフリでは無いように見受けられる点にあります。
 結局は総合的に見て、志貴は充分彼女を殺したことを意識していて、
 そして彼女の復讐に怯えている様子も窺える。
 けれど、だからそのことから逃げるために敢えてとぼけて知らないフリをしているのか、
 というと、それはどうもしっくりこないのです。
 明らかに、志貴の言動はすべて本気です。
 どちらの場合としても、完全に実感を持って言っているようにしか見えないのです。
 だから、とても不思議。
 俺は殺してなんかいない、と叫んで、
 でもアルクェイドに、でも許してあげてもいいのよ、と言われるとはっとしてしまう志貴。
 
 この圧倒的な二律背反。
 志貴は一体、どういう気持ちで復活したアルクェイドから逃げ回っていたのでしょうか。
 いえ。
 そもそも志貴は、なにかを考えて逃げていたのでしょうか。
 なにかが、溶けています。
 形を持った思考形態、それがあると言える根拠自体が志貴の中には無くて、
 なにかこう断片的な記憶や言葉や感情が溶け合って、自動的にひとつの形になってしまっているような。
 自分が今言っている言葉になんの根拠も無く、そしてだから意志も無い。
 ほとんど衝動的で瞬間的な言葉の選択の連続が自動的に行われ、
 意志的な一貫性のようなものがまるで見えない。
 それは意志的な一貫性を敢えて持たない、という意志さえも存在しない、
 まったく浮遊しているような不安定で、かつ自動的なものにみえます。
 そしてそこにひとつの思考や言動の形態を選択する根拠が無いために、
 逆に相反する形態が共存することがごく普通に行われています。
 だから志貴にとっては、ある意味で矛盾というのは無い、とも言えますのでしょうか。
 殺したけれど殺してない、だけど殺した。
 殺したという記憶と、殺して無い、という言葉が相殺されることなく語られるということは、
 志貴の中ではそれはまったく矛盾していない状態であるのでしょう。
 相反するもの同士が存在することを規制する根拠が無いために、
 どちらか一方に肩入れしてどちらかを抹消する事をしないゆえに発生する、矛盾の無い志貴の言葉。
 志貴の、お前を殺したのはなにかの間違いで、という言葉は非常に印象的です。
 彼にとっては、アルクェイドを殺したのは事実だけれど、事実では無いんですね。
 それは殺すはずが無いのだから、殺してない、という意味ではなくて、
 事実として殺してない、あれは間違いなく夢だった、という意味なのです。
 志貴は、現実の様々な事を夢として処理することに「実感」を持っています。
 それは決して夢のせいにしているのでなく、明らかに志貴にとっては夢で済んでしまう。
 夢で済んでしまう、というその事自体にそれが夢であると実感しているのです。
 
 だから、志貴にはまずアルクェイドを殺したという自覚が半分しかありません。
 無論、罪の意識という明確なものも無く、
 ただアルクェイドは自分のせいでまだ癒えていない傷をひきづっているんだな、
 その程度の想いしか持っていません。
 それは罪の意識には遠いものです。
 狙われているアルクェイドの盾になることに了承したのも、
 贖罪の意識が動機ではありません。
 自分のせいで弱っているんだから盾になる、という彼の言葉は言い訳にしか過ぎていません。
 それが動機では無いんですね。
 志貴はただ、自分の中で溶けているものに動かされているだけ。
 贖罪の意識を掲げて、自分で自分を動かしているように見せかけようとしているだけなのです。
 アルクェイドの『あなたに拒否権は無いのよ』というのは、言い得て妙です。
 志貴には最初から決めることなどできないのです。
 アルクェイドの力で押さえつけられるから、という意味だけで無く、
 志貴自身にも自身をどうにかしていく術が無い。
 せいぜい、勝手に自動的に動いていく自分の言動に理由をかぶせ、
 さも自分で動かしているかのように取り繕うのが関の山。
 それが志貴の領域なのです。
 
 そして、志貴の中で溶けているものは、志貴の外側とも溶け合っています。
 世界と連動している、志貴のカタチ。
 月姫の世界というものは、とても精巧にできています。
 それが作り物であると絶対にわからせてしまえるほどに、
 完璧に一枚絵としてすべてを結合してしまっている世界の姿があります。
 こんなの現実ではありえない、とかそういう言葉を最初から受け付けないで居られる、その有様。
 空の色も人の表情も、言葉も、なにもかもが意図的で、それが存在意義であって、
 それ以外の姿や意味をまるで考える必要の無い、完全なる創造物としてあるように見えます。
 そしてそれらはすべて、志貴に繋がっています。
 志貴の中にあるものがすべて反映し、また外にあるものが中に反映していく。
 いえ、そのような区分け自体にもはや意味が無いのかもしれません。
 志貴の中が外で、外が中。中も中で、外も外。
 夕闇迫る日暮れが嗤っているのが見えます。
 どうすることもできない自分のカラダのように、どうすることもできなく暮れていく一日。
 空の青さも黄昏の怪しさも志貴には決められないように、
 志貴が志貴を思い通りに動かすことも出来ない。
 夢と現実が錯綜し、それが錯綜というにはあまりにも完全に混じり合っていて、
 その中で志貴はあがくことも逃げ出すこともできないで、
 いえ、あがくことも逃げ出すということを選ぶ根拠(動機)さえ持っていなくて、
 ただただなにかに囚われ流されていく。
 自分の意志というのが、一体それが自分の意志であるとどうしていえるのか、
 志貴には絶対にその問いは芽生えないのです。
 なぜなら、志貴には意志というものが無いから。
 とあるものを自分の意志であると見立てて、それに流されていっているだけ。
 志貴の姿は、逆に私達のほうにこそ問わせてくれます。
 自分の意志というのが、一体それが自分の意志であるとどうしていえるのか、と。
 自分の言動というものが、それが他律的に動かされたものを説明するためでしかないとしたら。
 自分の言動を自分の意志であると主張しながら自動的に生きているうちに、夜が来ます。
 夜の訪れを、志貴は決して止めることはできません。
 それは志貴が自分の意志というものを自らが創り出すことができないということと同義。
 気づけば陽は落ち夜になり。
 陽に照らされた昼は夢になり、また逃げられない夜が来る。
 日暮れ前の月が、妖しく自嘲しているのがよく見えます。
 
 そしてそれは同時に、逆も言えます。
 自分の意志というのが、一体それが自分だけの意志であるとどうして言えるのか。
 志貴が自分の意志であると主張する意志の説明に過ぎない言葉は、
 それは志貴以外のものにも変化を与えます。
 志貴のその言葉が空の色を変え、そして人の間に流れる空気の量を決めます。
 志貴が自分の意志を説明するたびに、それに沿って世界も刻々と変わっているのです。
 勿論それは、志貴の思い通りにいく変化ではありません。
 少なくとも、どの説明がどう世界を変えるかを知ることができればコントロールはできるのでしょうけれど、
 志貴にはそれは不可能なのですよね。
 志貴は、自分のカラダさえ思い通りにすることは出来ないのですから。
 自分がどういう意志を持って現実に当たるのかを自分で決める根拠を持ち得さえしないのですから。
 それが、志貴、なのです。
 そしてそれが志貴と連動し溶け合っている月姫という「世界」なのでしょう。
 世界観、ではありませんのでそのあたりは誤解無きよう。
 様々なものと繋がっていて、ゆえに自分ではなにもできなくて、
 それなのに自分の言動がなにかしらの影響を世界に与えてもいて。
 色々な事を自分で説明してみて、
 それがただの説明であることに気づく必要もないほど自分に無自覚で、
 なにもかもが自動的に決まっていく感覚がスタンダードで、
 だからそのスタンダードさをとりあえず自分のスタンダードだと決めたつもりになってみて、
 そしてそのスタンダードは自分で決めたものではなく自動的に決まったものだから、
 自分が世界を見ることで変化していく過程で共に変化していくことも無くて、
 だから常に志貴は「普通(スタンダード)」でいられてしまう。
 そしてだから、志貴には自分が今居る現実という世界になんの実感も持てない。
 実感が持てないから、いつまでも普通でいられる。
 アルクェイドがネロと戦い始めたとき。
 志貴の態度は、やはり不自然で、そして不思議でした。
 どこかズレている驚き。
 これが現実で起きていることなんだ、という現実感を全く有していなく、
 ただその瞬間瞬間の恐怖に怯えているだけ。
 それはあの夜の空々しさにも浸みだしていました。
 まるで夢の中のような恐怖感。
 ふっと目を覚ませば、すべてが夢で終わってしまえそうな乖離感。
 それがどういう感情を以て志貴に受け入れられているのかわからない、
 むしろそこに月姫に広がる空虚感を得ているのかもしれません。
 
 
 次回。
 私が注目しているのは、志貴が次の昼をどう過ごすのか、というところにあります。
 そしてまたあの家の中にどういう風に溶け込むのか。
 アルクェイドが出てきたことで、秋葉と志貴の間の風の流れはどうなっていくのか。
 今回、志貴が一度帰ってきて女とまたでかけていった、という翡翠の報告を聞いて、
 それなのに秋葉が表情ひとつ変えなかったあたりが興味深いのです。
 
 それでは、次週、またお会い致しましょう。
 
 
 
 
 

-- 040421 --                    

 

         
     

 

■■春時々夢■■

     
 

 

 
 
 春の日差しが眩しい今日この頃。
 あわよくば夏本番行ってみようか、というほどの気温が続いていたりもしますが、
 それはそれでもうちょっと落ち着いて春を楽しもうヨ、などと思ってしまいます。
 なにせ花粉が無いんですよ?
 こんなに花粉の飛ばない春は初めてだね、うん。
 まさに我が世の春とはこのことなのです。
 今、すっごい幸せです ←安い幸せだな
 
 と、いいつつも。
 実はゴールデンウィーク目前にして、
 ちょっと早めの五月病を全力で発症中だったりもします。
 もうぐだぐだです。
 しょーじき、ネットとかやってる気力あんまりありません。
 うん、ごめん。
 やる気の有無が一番影響するのがネット活動なんて、紅い瞳らしからぬマジメさですけれども、
 どうも私はそういうタイプらしいので、それに甘んじてのらくらとやらせていただいてます。
 そのうち元気になるかもしれませんし、ならないかもしれませんし、
 むしろ大人しくしてろと言われるかも知れません。
 あー、言われたーい。
 
 
 で。
 なんかアニメとか。
 最近テレビの画面に映っている9割の映像がアニメだったりする紅い瞳なのです。
 あとの1割はニュースとか、そんな感じ。
 元々紅い瞳はテレビ見てる量自体少ないのだけれども、割合的には充分アニメだけって感じ。
 つーか、最近のバラエティ系の番組の質の低下が著しくて、
 なんだかテレビつけてもただ五月蠅いだけで嫌になっちゃうんですよね。
 ドラマは昔から好きじゃないし。
 だからアニメに逃げる訳ですけれどもねー(論理の飛躍)。
 まぁいいやどうでも。なんかほんとどうでもよいや。
 今、みてるアニメとか、この際全部言ってみるっす。
 アニメの新番組も一通り見たことですし、このあたりでケーブルの番組も含めて全部白状しまス。
 ちなみに、順位の基準は、
 無人島に流されたときに、ひとつだけ続きを見れるのならどれを選ぶか?
 、というそんな本能的な優先順位付けってところにある感じです。
 うん、適当。
 
 
  1・ 月姫 アニマックス
  2・ 愛してるぜベイベ アニマックス
  3・ スクラップド・プリンセス キッズステーション
  4・ ハンターxハンター アニマックス
  5・ MADLAX テレビ東京
  6・ MONSTER 日本テレビ
  7・ 鋼の錬金術師 TBS
  8・ 機動天使エンジェリックレイヤー アニマックス
  9・ 犬夜叉 アニマックス
 10・ 天上天下 テレビ朝日
 11・ せんせいのお時間 テレビ東京
 12・ 十二国記 教育テレビ
 13・ 恋風 テレビ朝日
 14・ 爆裂天使 テレビ朝日
 15・ 忘却の旋律 TBS
 16・ ドラゴンボールZ アニマックス
 
 
 
 
 
 
 ほんっっっっと、アニメ一杯だね。
 
 それにしても(ツッコミ無し)、アニマックス強し。
 むしろアニマックス万歳というところでしょうか。
 意外(?)なところでハンターxハンターというのがありますけれど、
 これはどういうことかといますと、
 つまり面白いということなんですねぇ〜(ムツゴロウさん風に)
 現在クラピカvsウボォが終わったところなんですけど、うん、カッコイイぞ、色々。
 エンジェリックレイヤーは以前日記でちょびっと書いたけれど、うん、その、ちょびっとの面白さがあって。
 そのちょびっとが実はでもとっても重くて、かなりキてるんです。
 特にEDが大好きになりました。
 犬夜叉ってなぜか世間的に評価低いのですけれど、私的にはなんでだろ、ってところ。
 結構面白いじゃないですか、あれ。
 なにが面白いのかと言われると言葉に詰まるのですけれど、気合いで。うん、気合いで。
 で、一時期評価してたっぽい忘却の旋律がヤバいことに。
 なんとなく気づいたら見なくなっていた、という流れに急速に傾きつつあります。
 
 
 
 
 
 えっと。
 かなり書くのが面倒になってきたので、このあたりで強制終了。
 いや、だって。
 やる気とか無いし。
 
 やる気無しついでに、少しばかりやる気を見せてみるのもやぶさかではあるまい、と思った。
 うん。
 マリみての感想書くよ。うん、書いてやる。
 主に聖様についてつらつらと。
 期限も決めちゃう。来週中にUPするって感じにしちゃう。
 ほんとだよ?
 一応聖様についてはいくつか書けそうになっている言葉があるし、動機も充分だから(聖様ファンだけに)
 だから、書きます。書いちゃいます。書いてみせます。きっと書きます。書けると思うよ、たぶん。
 なんだか少し決心がぐらついてきました ←なにもしてないのに
 
 ほんとは祥子様についても書きたかったのだけれど、
 ようく考えてみても、全然言葉が浮かんでこないので、自動的に無理。
 ですから、聖様だけはなんとか書いてみるつもりです。
 
 たぶん。
 
 
 
 
 
 
 
 おまけ:マドラックス第三話感想編
 
 やんまーに   (訳:面白かったんだけど、説明するのめんどい)
 
 
 
 

-- 040418 --                    

 

         

■■月と流れて夜を待つ■■

     
 

 

 
 
 これはまた、面白いものと出会ってしまいました。
 予想以上、というより、予想外、という言葉を当てはめるより他の無い、そんな面白さ。
 私の貧弱な予想の斜め上を行っているのならまだしも、
 私の預かり知らない風采で彩られた映像が、私の真後ろあたりからひょっこり現われるなんて。。
 私は、見た瞬間、ああこの作品は私にはわからないなぁ、と直感しました。
 私の中に用意されている言葉をそっくりそのまま当てはめて、
 それですべて丸く楽しむことが決して出来ない感覚の取得。
 ただ両手を広げて、さぁ来い、と待っていては決して私にはなにも得ることができない、
 そういうなにかしら明確な「教訓」のようなものを初っぱなから私にぶつけてきてくれました。
 おそらく、私がただなにもしないで受け取れたのは、その教訓だけだったのです。
 でも、すごい。
 その凄さがどういうものかを、頭の中に常備されている言葉で気軽に表せることができなかったのに、
 それでも其処に確かになにか凄いものが転がっているのだけはビリビリと感じてしまって。
 しかし、その感じがあるということを確かに感じている時点で、
 それはもう私にとっては言葉に換えるコトができないままではいられない欲求を私に発生させていて、
 もう既に、私の中にはいくつかの言葉が芽生え始めています。
 それは、月姫という作品を彩るには不適切な言葉もあるし、そうでないものもあります。
 でもその不適切な言葉を、私は出します。
 私の中に芽生えた不良な言葉を少しづつ月姫に溶け込ませながら、
 これから感想を書き続けていこうと思います。
 不束な私ですけれども、興味のお有りの方、どうぞお付き合いくださいませ。
 
 
 
 では。
 「真月譚 月姫」第一話感想、いきます。
 
 
 
 人が、少ないんです。
 そう、映像の中に空気が流れている部分が非常に多い。
 まずはそう感じました。
 もの凄く人口の密度が少なくて、それこそ人と出会えるのが珍しいくらいの風景が広がっていて、
 その映像のほとんどが無機的な建築物、そしてそれを取り巻く空気で成り立っています。
 そしてその珍しく出会えた人同士の間にも、なにやらとても厳かな風が逆巻いていて。
 人の絶対数自体が少なく、人と人との距離もかなりあって、
 でもそれがスタンダードな感覚が自然に広がっている様子は、なんだかとても圧巻でした。
 圧巻、というよりは既に私はその雰囲気に気圧されてしまっている感に堪えなく、
 まずこのあたりにこの作品の第一の凄みを感じています。
 遠野の家に帰ってきた志貴を取り巻く妹の秋葉との関係を、
 ただよそよそしい、などという言葉ではかたづけられないなにかが、確かに其処にはありました。
 秋葉に追従する翡翠の無機質さに、なぜか滲み出している居心地の悪いぬくもりがありました。
 琥珀の暖かい笑いの冷たさに、ますます志貴と家人との距離が開いていくコトが感じられました。
 とても、不思議です。
 なにか手を伸ばして触れようとすると、絶対にすっと避けて離れられていってしまわれそうな予感、
 それが絶えずひしめいているのです。
 まさに、反転衝動。
 今まで離れていた実家に戻って、すっかり変わってしまったような妹に出会って、
 それなのに自分自身はいままでとなにも変わりの無い感覚で一夜を過ごそうとしているのに、
 その志貴の感覚を徹底的に拒絶するあの家人、そしてあの空気に満ちた家。
 志貴はいつも通りなのに、絶対にそれとは溶け合わない家の空間。
 そこではたと気づくのです。
 志貴のその普通さが、既に今までの志貴の見ている現実とすらずれている、ということに。
 結論から言うと、志貴は自分というものをまったく感じていないのでしょう。
 そもそもとある自分の姿を自分のスタンダードだと思っているだけで、
 逆に言えばそういう決め事を自分でしただけであって、
 志貴の普通というものは、実際はまるで志貴自身には体感されていないのです。
 だから、志貴はいつでも普通なのです。
 その自分のスタンダードな姿というものをまったく自覚していないから、
 現実がたとえどのように変化しようとも、決してその自分のスタンダードな姿が変わることはないのでしょう。
 本来なら、自分にとってのスタンダードなど現実の環境次第でいくらでも変わるはずなのです。
 現実を体感している自分があって、それとともに自分の姿というものも変わっていくのですし、
 その変化が自分の普通という概念にも連動して適応されていくコトにも、気づくはずなのです。
 でも、志貴は気づかない。気づけない、といった方が良いのかもしれません。
 時々記憶を失う自分の異常さにも、
 今までとはまったく違う豪華で厳しい家に住むコトになった変化にも、まったく実感を持てないのです。
 
 その志貴の有様は、でも、決して幼いとか堪え性がないとか、そういう言葉で表せる物ではありません。
 またそれと同じく、志貴を異常者などという無意味な言葉で語ることもできそうにありません。
 月姫、という作品に流れている風は、そういう言葉を許してはくれません。
 かといって、志貴に感情移入せよ、なんていう気楽な感じにもなれません。
 ただ志貴というなにかが其処にある、ただ、それだけ。
 志貴という人が居る、でも、たぶん、駄目。
 志貴は志貴、というのもなにかおかしい。
 おそらく、志貴というものを語る事自体には意味はない、というのかもしれません。
 
 ただひたすら、私は画面を見つめていました。
 其処に見ていたのは、志貴でありました。
 志貴を見ることで、どうしても秋葉に目がいきます。
 そして実は秋葉がどうしようもなく志貴の一部として、私の瞳の中に入ってくることがわかりました。
 志貴を取り巻く冷たい環境のひとつとして、秋葉はどうしようもなく冷たく無機質に映ります。
 翡翠も琥珀も同じようにして、ほとんど喋る家具の如き冷質さを以て、画面に現われてきました。
 それはぞっとするのだけれど、その次の瞬間には嘘のように何事もなかったようになにも感じない感覚。
 志貴が時折気を失い、そして目覚めたときになにもかもが夢であるかのようなあの感覚と同じ。
 そして。
 実はそれが夢では無い事と同じく、その家人の冷たさにっぞっとした感覚も嘘では無くて。
 秋葉、翡翠、琥珀の凄み、そして美しさは紛れもなくあります。
 志貴のなんとも現実感の無い感覚のままを通してみる彼女達の姿に、
 まったくその内面の奥行きを見ることができないゆえにある、その恐ろしさ。
 ただ表層的な冷酷が、それが明らかに表層でしかない事がわかっているゆえに、
 その向うにおぞましくも濃いなにかがあるのを予感できてしまうはずなのに、
 それなのになぜか絶対にそう予感できないような流れが在る。
 絶対に秋葉の内面というのはあるはずなのに、なぜかそれが見えないばかりか、
 見ようとすることさえできない、その凄み。
 そしてその距離感。
 それは、あの作品に流れている作品の風景のせい。
 既にすべてを志貴から、そして見ている私達から引き離していっている感じが出来上がっているのです。
 そしてそれらは、全て志貴の「内面」に連動しています。
 志貴の自分の姿への無自覚さ、そして現実感の乏しさがそのまま作品の風景に浸みだしているのです。
 そうしているうちに、今度は私の瞳から志貴の姿さえ離れていきます。
 志貴もまた、あの家の付属品として映ってくるのです。
 それはぞっとする怖さ、そしてとても広大な無、という美しさがあります。
 
 そしてやがて世界は夜に。
 これを以て、すべての反転が為されます。
 完全になにもかもが離れていく感覚。
 人の内側にあるはずの言葉がすべてその影さえも失ってしまう夜の闇。
 闇に影は生まれ得ず、影無き物に隠すもの無し。
 夜の始まりにヴァイオリンを奏でる秋葉の姿は印象的でした。
 空に瞬く月の光とともに、私はその秋葉の姿の向うにはっきりと夜を見たのでした。
 
 
 
 次回。
 非常に私は楽しみです。
 特に今回ラストでのアルクェイドのあのシーンがあることで。
 あのこんにちわ、と言うアルクェイドの顔にはえもいわれない感じがありました。
 そのアルクェイドとの間にできる流れに興味があります。
 そして、作品の色彩がどうなっていくのかもみものです。
 淡い空色や緑色で綴られる昼の色彩に、見ることの出来ない夜の予感を探しているウチに、
 いつのまにか空は闇に染まっている。
 あの青空の光に、夜の闇の浸食、そして闇の化身としての感覚を受け取り、
 否応もなく夜の存在を予感するどころか確信してしまう。
 月姫は、色使いに注目です。
 
 それでは、本日はこれにて。
 
 
 

-- 040414 --                    

 

         
     

 

     ■■れーせー■■

     
 

 

 
 
 少し冷静になってみた。
 
 
 なにをやればよいのか、わかっていたことなんてなかった。
 それはいつもそうで、それは変わったりするように思えるけれど、
 ふと考えてみると変わっていない事に気づいていたり。
 でもそれが気のせいであるのかどうかは立証不明で、
 そしてその立証不明であることを証明することも出来ない。
 その上そんな証明を最初からするつもりもないことにはたと気づくのがいつものことで、
 そればっかりは私がどう言葉を操って誤魔化そうとしても誤魔化せない事だったりする。
 ううん、誤魔化せるんだけどね、ほんとは。
 例えば、れーせーじゃないときの私とか。
 
 だから、なにをやればよいのかとか、そもそもそんな問い自体私には有り得ないわけで、
 少なくともそんなことをぶつくさと問い始めた時点で、私の頭の温度は相当高まっちゃってる。
 なにをやればいいんだ、どうすればいいんだ、
 そうやって考えていけばいくほど、私にとってはそれは「へいじょうしんのけつじょ」とかいうものなのだし、
 だかられーせーなときはなんにも考えてないって事なのだし。
 といっても、なにも考えることを放棄するとか、そんなのは有り得ない事で。
 思考を欠いた個人的体験で物事を判断しても、それはそれで楽しいけれど、それだけじゃ、ね。
 せっかく言葉というものがあるんだし、それから紡ぎ出せることは一杯あるのだから、
 なにもそれを否定する必要はないし、捨てる必要も無い。
 理屈や論理なんて仰々しい名前付けて有り難がっちゃうから、それの持ってる楽しさを見失って、
 それどころかあべこべにそんな大げさなもんくだらない、陳腐だ、とか言っちゃったりする。
 それは逆にその言葉というものを見誤ってるだけだと思うんだ。
 誰かが振りかざした飾り物に踊らされて、その下にあるものまで同じように見てしまう。
 勿論その飾られた部分というのはその下にあるものと密接不可分なワケだから、
 少なくとも関係はあるわけだけれど、でもそれとこれとをごっちゃにしていいかと言う訳でも無いでしょうに。
 共有する部分はあっても、だから同じだというのは無茶だと思うよ。
 同じところはあるし、その面を拡大しその視点でモノを見て、だからAとBは同じということは出来ても、
 それが本来そういうある面を拡大しその視点でモノを見た上での同一、ということを忘れては無意味。
 そういう前提があって、だからAとBは同じといえる、と言っているに、
 AとBが同じな訳無いじゃないか馬鹿、とか言うのもヘンだし、
 その同一化をばかばかしいとかいうのは、もっとばかばかしい。
 大概の場合、そういうなにかが同じ、というときにはなんらかの前提条件があるわけなのだから、
 それをすべて差し置いて批判したりけなしたりするのは、それこそあんまり意味が無い。
 それは同一化だけのことじゃなくて、他の色々な事にも言えるだろうね。
 
 なにか馬鹿なことを言ったりやったりするのは、それが馬鹿であることをわかってやっているときもあるし、
 或いはなんらかの意味において、それは真剣に楽しんでる事が外から見て馬鹿に見えるだけの事もある。
 誰かがなにか馬鹿みたいなことをやって、それを他の人が見てあー馬鹿だなって思った瞬間、
 私はその馬鹿だなって思った人は色々と勿体ない事をしているのだと思う。
 うん。
 勿論なにかを馬鹿にしたりけなしたりすることを楽しむだけならば、別に勿体無いことなどないのだけど。
 だからなにかを馬鹿にしてる人を見て、あーこの人勿体無い事してるなぁ、って思うこともまた勿体ない。
 その人はその人でやっぱり、なにかを馬鹿にする楽しみを得てる訳なのだから、
 それを見ずして勿体無いというのでは、それはそれで充分勿体ない。
 つまり、どのようなカタチであれ、楽しめない人が損をする。
 つまらない、くだらないことこそ楽しめる人だっている。
 
 批判だろうが称賛だろうがなんでもいいのだけれど。
 私はいつもなにかを感じようとして、既に気づいたときにはなにかを感じている。
 それはそもそも、批判してやろうだとか称賛してやろうだとかいうのでは勿論無い。
 それこそ私にスタイルのようなものはほとんど無いし、無論なにも意識してない。
 ただなにかを見て、その瞬間になにかがわーっと頭の中に入ってきて、
 次の瞬間にはもう言葉が紡がれていて。
 その紡ぎ方には法則性はあんまりなくて、主義も流儀もへったくれもないし、
 もちろんプライドなんてどこへやら。
 主義も流儀もプライドもすべてただの方便と化して、
 或いは私が示したかった言葉の入れ物としてだけそれは存在して。
 私はカタチにはこだわらない。だからカタチにもこだわる。
 色々なカタチにこだわって書いてみて、その都度でベストと思ったものをひたすら書いてみる。
 それは毎度同じカタチがベストなものとして選ばれているかもしれない。
 でもそれは、私にとってはまるで私の主義や意志の介在しない偶然による連続なだけ。
 たまたま同じカタチの文章や考え方が続いただけのコト。
 涙でぐしょぐしょに泣きながら感傷的な文を書いたかと思えば、
 論理をひねくり回して偶然面白結論にたどり着けちゃった文を書いたり、
 訳のわからない表現をつかって自分自身をけむにまいてみたり、訳わからなくなったり、
 或いはざっくばらんに大雑把に馬鹿みたいなおふざけ文を書いてみたり。
 そのどれもが、私にとっては真剣で、そして冗談のようなもの。
 
 わからないことをわかるといい、
 わかることをわからないと敢えていえる感覚。
 素直って、やっぱり嘘をつかなきゃなれないよね。
 心にも無いこと、なんて表現があるけれど、それはあまり意味のない表現。
 頭の中だけでが考えた理論とか、自分の体で感じただけの純粋な経験とか、有るわけ無い。
 考えるには経験が欠かせず、経験には理論が常に先行して在る。
 言葉というものを使っている限り、なにもそれを使わないで創ることはできない。
 心さえ言葉で出来ているのだろうから、心に無い事を言葉にしてる時点でそれは心に有るワケだし、
 だからそもそも心なんてあるようで無いようなものだよ。
 なにかをわかっている、ということそれ自体すべて言葉で表わされる。
 言葉ってなにかってお話。
 
 
 
 
 と言う訳で、アニメ感想をどうするかというコトなのだけれど。
 今現在の状態は、ある意味で私にとって初めての状態。
 その、アニメを見て、わーっと頭に入ってくる作品はいくつかあれど、
 それを言葉で延々と表わしてみたい、という意欲を沸き立たせる作品がひとつもない。
 それは私がアニメの中からなにかを読みとろうとする努力をしてないだけじゃん、
 とも素でいえる訳なのだけれども、しばしまて。
 違うんだよ。違う違う。
 どっちかひとつじゃないんだよ。
 順番があるんだよ。
 いつもは、私がなんにも身構える必要も無く(といってもある程度は構えているのだけれど)
 アニメを見た瞬間にどうしようもなくなにかが飛び込んできて、
 それからどうしようもなくそこからなにかが読みとれるようになってしまうんだよね。
 で。
 今現在、こういうアニメ作品に出会えて無いって事で、これは特殊なワケで。
 今までは、すべてなんらかのカタチでわーっと見た瞬間になにかが飛び込んでくる作品ばかりだったのに。
 
 ということで、紅い瞳、腹を括りました。
 
 標的を自分で決めました。
 鳴かぬなら、殺してしまえ鳴かせてみよう、ほととぎす、という感じで自分からいきます。
 意地でもわーっと私に飛び込ませます。
 月姫」。
 これでいきます。まだ見てないけど(17日からアニマックスで放映開始)。
 自分を先入観でガッチガチに固めて、おもくそ紅い瞳流月姫を描いてやります。
 ぎったんぎったんのめちゃくちゃにしてやります。
 私が月姫ファンに滅茶苦茶にされそうですけれど、ならば本望。
 
 
 
 滅茶苦茶にされそうになったら、すてプリあたりに逃げます  ←紅い瞳流
 
 
 
 
 
 おまけ:マドラックス 第二話編
 
 マーガレット萌え。萌えって言葉が嫌ならなんでもお好きな言葉に変換なさい。
 あの天然さ。てか天然てなによというお話ですけれども。天然て言葉も適当に変換なさい。
 天然さが良い、というのは間違ってはいないけれど私にとっては大間違い。
 そもそも天然違うし。端から見れば天然だけども私からみたら天然じゃない。
 なんですかあれは。意識のズレのようにみえるまっとうさは。
 冒頭の謎の少女のセリフにあった、貴方の居る場所が幸せとか貴方は今幸せとか、
 どんなに過酷な状況でも貴方は幸せとか、なんですかあれは。うーん、涙でちゃう。
 それはつまり目の前にある現実が、自分にはどうみえているのかということで、
 或いは逆にいえば貴方にはなにが見えてようと関係が無いということでもあるわけで。
 それは同時にあんたは世界とは関係無しにひとりで生きてるのさと言われてるワケでもあるし、
 さらにどんなに自分が足掻いても、絶対に目の前の現実にたどり着くことは無いとも言ってる。
 今、の喪失って奴。
 そして幸せは自分の中だけに。世界の中の方にはだから、無いんですね。
 これってさ、怖いよね。悲しいよね。辛いよね。
 そしてそういう感情を全部世界というか目の前の今の現実のほうに置き忘れて来ちゃって、
 結局なにも「見えない」世界の中で、自分は幸せか不幸せか、それが問題だってずっと問うている。
 
 あー・・・これ、なにげに面白いんちゃう? ←浮気中
 
 
 
 
 

-- 040408 --                    

 

         
     

 

     ■■らぶらぶ■■

     
 

 

 
 
 戦わずして、勝つ! (挨拶)
 
 
 むしろ、逃げろ、って感じです。
 ごきげんよう、紅い瞳とかいうものです。
 しかしやっぱり、ごきげんようという挨拶はいいですよね。
 心なしか落ち着いて来たりだとか、なんなら上流階級気分だとか。嘘。上流嘘。
 
 さてはて。
 とにかくこの頃日記を書くといえば、是、アニメ也、という案配なのですけれども、如何ですか。
 うん、如何もなにも自然そうなっちゃうのだから仕方の無いところ。
 別に特に他にお話したいことも無く、お説教したい気分だとか、空を飛んで見たいわけでも無く。
 あ、空は飛んでみたいけど。なんならどこまでもー。
 
 ・・・・ええと。(空から舞い降りてきて)
 要するにまたアニメを適当に語ってみようかなって、さらっと思った。
 語る、なんて感じでも無く、喋りたいことだけ垂れ流し、みたく。
 アニメを愛してます、という愛にも色々ある訳ですね。大人の事情って奴です。
 うん、嘘。そんな事情知らない。まったくもって関係なし。
 要するに(2回目)書きたいものを書きたいときに書くだけのこと。
 
 と、改めて考えてみると、よーく考えてみると、最近アニメにこの上も無く埋もれていて楽しいなーって。
 そんだけでいいよなーって。いい加減でいられるよなーって思うのさー。
 ただアニメに埋もれていい加減に適当な事をぐたぐたと言ったり書いたりしてみる。
 これが出来るんなら、それでいいよねーって感じ。
 マリみて終わって、すっかりぐったりなはずなのに、そんな私を優しく包んでくれる・・・・。
 
 
 
 けっ ←言っててて馬鹿らしくなった
 
 
 
 見たアニメのちょっぴり感想いきます。
 事務的に。惰性で。いい加減に。
 
 ・MADLAX
 美しい・・・って感じ。かっこよかった。美しかったり、美しかったりした。
 とってつけたよなセリフがカンに障るけど、私のカンなぞ気にするな。ゆけ、MADRAX。
 アクションなどは特に派手さも特殊さも無く、それに見るべきところは無かったネ。
 というとじゃなにが見所かといえば、やっぱり主人公の美しさ、じゃないかな?
 なんつーか、景観として美しいというか。
 炎の中で立ってるカノジョの美しさが、「なぜ」美しいのかわからないけれど、
 そういう「なぜ」を追求しないでも観られる美しさがあったっていうか。なに言ってんだ。
 
 ・MONSTER
 あ、コレ好き。うん、好き。愛してる。
 あの緊張感にブルブルきちゃうよね。
 主人公の選択それ自体に切迫したものは無いはずなのに、
 なぜかその選択がすべてを決めてしまうものになっちゃっていて。
 大人しく院長のいいなりになってればよいものを、なんていう周囲の感覚とかけ離れていく主人公とか、
 なんだか見ていて怖くなってきたよ。
 
 ・ラグナロク
 局部的な楽しみ方はできるかなぁ。
 あのマジめな壊れ方してるマジシャンの感覚にどういうツッコミを入れられるか、とか、
 或いは逆にそのツッコミに対してどうツッコミを入れられるか、とか。
 うーん、無理(諦)
 
 ・爆裂天使
 アクション。うん、だからアクションだって。
 久しぶりに揺さぶられるようなアクション感じました。
 ロボット系のCGはちょっとアレだったけど、人間の動きは滅茶苦茶な躍動感があって、私は好きダナー。
 キャラの会話シーンもなんだか間の抜けた陰影さが入っていて、
 なんだかアクションとの時間差で自分が動かされていくというか。
 見ていて、楽しい。
 
 ・忘却の旋律
 この感覚は、あれだ。うんアレだ。うん、なんだろう。
 わかりませんわかりません。とにもかくにもわかりません。
 子供向けアニメっぽいキャラ絵に、落書き風味の背景。
 これだけですっごいギクシャク感があって堪らないのに、
 お話が。ていうかあれはお話なんですか。
 お話といえばお話なのだろうね、それは典型的な。
 モンスターと戦争して人間は負けて、その記憶を閉じ込められてモンスターに飼われて生きていて、
 人間は飼われている事自体気づかない日常を過ごしている。
 このお話自体には、なーんも意味無いんだよね。やっぱり。
 世間のノリとズレてて、優秀なのにつまはじきになっている少年の造形とかもどうでもいい。
 それよりも、そういうズレが少しづつなにかと一致していく情景、それがすごいなぁって思った。
 だってさ、あの主人公の少年、なんか瞳輝いてたよ? 
 幼馴染みの眼鏡ッコの誘惑からはっきりと目を逸らして、
 なんか自分ひとりでトコトコ横道を進んでいっちゃうのだけれど、
 それがなぜか「お話」の正道に近づいていくことで。
 そのあたりの表現というかなんというか、すごいなぁって。
 あのコがこれからただの戦士になっていくのも、壊れていくのもたぶんどっちでも私は楽しみ。
 
 
 うーん、疲れた。
 あー、そういえば十二国記の再放送も始まったのでした。
 うん、見ます。紅い瞳は絶対見ます。
 ・・・・一週間で一体いくつアニメ見ることになるんだろうなぁ・・・。
 まぁ見られるうちに見れるのなら、それが一番良いのだからいいのだけれども。
 気にしない気にしない。
 あ、そだ。
 またチャットでもアニメ話しましょーね。
 いい加減で適当で、思いついたことをその場でさらっと言ってみたり、
 あるいは考えに考え込んだ事をこの際開陳してみるだとか、
 批判だとかなんだとか、なんでもいーです。
 や、むしろなんでもいーんです。
 気楽に、そして気重に(気重・・・)
 いいたいこと言って、それでもちょっと自重してみたりだとか、
 あらやだこんなはしたないこと言えないわとか嘘っぽく思ったり思わなかったりだとか、
 こんなことも思ったけどどうだろとか、あ、それは普通か。
 とにかく。
 
 紅い瞳はこれからもアニメとらぶらぶなのです。
 
 ツッコミは不可。
 
 
 

-- 040405 --                    

 

         

                         ■■ねばーえんど あんど ごー ■■

     
 

 

 
 
 こんばんわー、紅い瞳でーす。
 昨夜は色々お疲れ様でした。
 チャットとか、お話会とか、マリみてを楽しく語る会とか、そのへんとか、もう。
 ほんとうにお疲れ様でした。
 特に紅い瞳さん。
 ええもう。実は昨日とか素で風邪ひいてましたからね。
 熱とかあるに違いないのに、敢えて計らないで知らない振りとかしてましたからね。
 風邪薬とか特に飲んでないのに、やたらハイになってたりとかしてましたからね。
 なんだかきっと、色んなコトがマズイ事になってたでしょうね。
 たぶん、頭とか。
 昨夜自分でなに喋ったかあんまし覚えてませんし。
 という感じで、慌てて先程チャットの過去ログを読み返してみたら、案の定。
 
 えーと、なに言ってのかな? こいつは ←ログを冷たい目でみながら
 
 うん、なにこれ。
 特にマリみて話題で、紅い瞳って奴がなんだか訳わかんない事言ってますよ?
 全然言ってることにまとまりがないよ?
 ていうか、基本的になに言ってんの?
 なんのためにあんなに感想を日記で書いたのか、マジでわからないよ?
 誰、ほんとにこの紅い瞳って? 誰よ、誰なんよ?
 ・・・・私か(涙)
 
 というわけで、なにが言いたいのかといいますと、
 つまりはチャットって難しいですよね、って事なんですよねー。
 自分の思ってることを正確に言い表すのは、やっぱりチャットじゃキツイくて、
 なんだか全然心にも無いことを言っちゃってたりするんですよねー。
 そもそもチャットで議論するのが間違そういう事にしておいてください。
 
 
 ところで、マリみて終わってしまいましたねー。
 感想も書き終わっちゃいましたねー。 →マリみて感想はコチラ
 すること無くなっちゃった。
 まー、マリみては私の中では終わったようで終わっていなくて、
 折を見てまた感想を書いてみたりだとか、小説版を読んでみたりだとかしますので、
 その、まだまだなのですけれどねー。
 あ、サイトのほうですけれど、一応マリみて強化月間という体裁はこれで終わりにします。
 サイトから強化月間の文字は消しましたし、チャットでの私の挨拶をごきげんように限定しないし、
 BBSで私が使うアイコンもマリみてアイコンに限定しませんし、
 白薔薇様万歳とかもそれほど言わないことにしますからね。
 でもサイトデザインはマリみてっぽいまんまなんですよね。
 いいじゃんか、別にさ(開き直り)
 
 
 
 さて、では次のお話。
 新しいアニメをいくつか見たで〜。
 見たのは、
 
 ・恋風
 ・天上天下
 ・先生のお時間
 ・愛してるぜベイベ
 
 の4本です。
 
 
 
 で、愛してるぜベイベ、紅い瞳の中で大ヒット中。
 
 
 
 ・・・・えと、まずは落ち着いて一応各作品ごとに軽く感想を。
 
 ◆恋風◆
 んー微妙。微妙微妙微妙過ぎるよ〜。
 悪いところなんてなにひとつないのに、その代わり私にぐっと訴えかけてくるものもまた無くて。
 なんかこう、私に感想書いてクレヨって感じの視線を感じられなかったデス。
 あの主人公の男のヒトの感覚はわからない事はないのだけれど、
 なんかその、あっそう、って感じであっけなく自分で言い切って終わらせたくなっちゃうところがあって。
 まーよーするに、「面白くない」って事なんかなー。
 まだ一話なのだからわからないでしょ、ってところもあるけれど、
 面白いものは一話目からガンガン面白いものもあるし。
 ということで、少なくとも私には面白さを見つけることは出来ませんでした、という残念なコトに。
 一応感想書くとしたら、「風」ってところにポイントを置けるかもしれないにゃ〜、なんてちょっぴり。
 むー、第二話で挽回してやるゾ。
 
 ◆天上天下◆
 えーと、その、頑張って。以上。
 
 ◆先生のお時間◆
 敢えて例えるならば、というより例えさせてください。
 例えるならば、わっかりやすいあずまんがって感じ。
 独特の間も無ければ、深遠なる笑いの極みも無い、ただ字面を読むだけで笑えるお話。
 私なぞは身構えていた分、ちょっぴり拍子抜けがしたくらいの軽やかさ。
 うん、私はギャグモノみるときはいっつも身構えてますからね〜。
 笑いを笑うためには気合い入れすぎてちょっとアレになった想像力が必要だと思いますから〜。
 とりあえず、楽しかった。なんとはなしに面白かった。毎週絶対見ているタイプ。
 
 ◆愛してるぜベイベ◆
 ゆずゆちゃん萌え。
 うん、これは凄い。これは面白い。これは可愛い!
 久しぶりに来ましたね〜この感じは。
 母親に逃げられて親戚んちに預けられて育てられるコトになったゆずゆちゃん5才が、
 そこの家のちょっとお馬鹿で可愛い結平くん(高三)に育てられてんだかむしろ育ててんだか、というお話。
 もうね、大好きですこのお話。
 こういうタイプのお話が好き、ということではなくて、このお話が好きなんですよ〜わかるよね?
 とにかくね、可愛いんです。
 可愛くて、可笑しくて。
 まずはあれですよね、結平くん。
 彼のさりげない普通さは彼以外には普通じゃないってコトが微妙に彼にはわかっていなくて、
 結果すこーし彼が馬鹿っぽく見える感じとか、イイ。
 学校の他の生徒とも家族ともなにかひとつズレていて、
 彼はあれなんかヘンだなぁって感じているんだけど、まぁいいかって感じで軽薄ノリでずっと来ていて。
 そしてそれでなぜか上手い具合に適合出来てて、彼は素なんだけど天然には見られてないっていうか。
 素なだけでいい加減とかな訳じゃなくてある意味とっても真面目で、そして優しくて。
 ん? なに言ってるかわかんなくなってきたぞ? ま、いいか ←いい加減
 つーかね、面白いんですよ。
 序盤の彼を中心とした感覚がもう笑えるのなんの。
 そして鈴子お姉さんが凄まじ過ぎて。
 姉 『あんたわかってるだろうけど、手ぇ出したらその首ちょんぎるからね。相手は5才だよ!』
 結 『誰も出さねぇし、そんなに飢えてねぇよ』
 姉 『つーか、飢えろ!
 結 『・・・飢えていいのかよ』
 ・・・・。
 なんだろう・・・この人は。
 勝てません絶対勝てませんこんな人に凄すぎ。
 そんなお姉さんに翻弄されながら、
 それでもなんだかくっついてくるゆずゆちゃんの前をぼけっと歩く結平くんてば、結構可愛い。
 なんにもわかってないけどまぁなんか適当についてきなよ、みたいな感じで。
 で、ゆずゆちゃんも勿論可愛いんですよね〜。
 これに関しては説明不可。
 むしろこれをこそチャットで語りたいなー。
 てか、みんな愛してるぜべいべ見ろ。
 あ、ひととよう、の歌も合ってたよね
 
 
 あ、なんだか説明すんのめんどくさくなっちゃった。
 ってことで、もう知らない。もういいや。
 うん、面白いアニメだったけど、でも持続した感想は書けそうにないねってコトさ。
 どうしよう。
 今期はマジで感想書けるアニメが無いぞ?(汗)
 あ、そうだすてプリがありました。
 ぶっちゃけ、純粋にこれだったら感想書けますよ?
 なんでかって、第一話みたら死にそうになりましたから。
 うっわ、すてぷりって一話目からこんなに凄い感じになってたんだー。
 と言う感じで、すてプリならスタンバイOKなのですけれど。
 でもなんとなく地上波以外の作品で感想書くのって抵抗あるのですよね。
 だってみんな見れないじゃん。
 というとじゃあお前はみんなが見てて、それなら感想見て貰える確率が上がるからって理由で、
 感想を書くアニメを選ぶのか、って言われると、それも違うよなーって。
 でも、それでもなんかなー・・・(悩)
 
 もうしばらく、お待ちください。
 
 
 
 

-- 040403 --                    

 

         

                         ■■マリア様はみてる、貴方を  3 ■■

     
 

 

 
 
 
 
 『また明日・・・。
  明日になれば、また大好きなお姉様に会える。
  今日の日がこんなに楽しいものだったから、たぶん明日も素晴らしい日になるに違いない。
  それが、私とお姉様の未来なんだ。
  お休みなさい、お姉様・・・・・・また、明日。』
 

                                〜 最終話の祐巳さんのセリフより〜

 
 
 
 
 ごきげんよう、皆様。
 紅い瞳です。
 アニメ『マリア様がみてる』の最終話の放映が終わってしまいました。
 私はもうなにがなにやら、といよりなにもかもが目の前に浮き出てしまったかのような、
 そんな脱力感と、そしてなにもかもが目の前に広がっている最高の充実感を感じています。
 すっかり心は涙で一杯になって、私はただ嬉しいのやら悲しいのやら、さっぱりわかりません。
 私にはこのアニメが終わってしまうことが、未だに信じられないようです。
 それはなによりも、この作品の「終わり」を強く見せつけられたがゆえの、実感の喪失なのです。
 もうマリみては終わったんだよ、と誰かに強く言われてしまって、
 そのときになって初めてその終わりに気づいて、自分の意識と現実との齟齬に困惑してしまう。
 私の中では、マリみては全然まったく終わっていないのに、それが終わってしまっていたことの驚き。
 私はその困惑と驚きのうちに、感想を書いてみました。
 なんと今夜で三夜連続更新なのですよ、ほんとびっくりですよね(笑)
 
 でも、私にはマリみてがこれで終わったのだ、という事実よりも、
 この最終話、いえ、第13話がどういうものであったのかを考えるほうが大切な事と思われました。
 そして、考えるまでもなく、この第13話は私にすべてを見せてくださいました。
 見てその瞬間に、あっという間に様々なことが私の中に飛び込んできて、
 私はもうただただ私の瞳と心を目一杯開いて、その贈り物を受け止めていました。
 受け止めても受け止めても止まらない、そのマリみてからの贈り物。
 志摩子さんのことが、なんだかとてもよくわかります。
 わかって、そしてその向う側に私の言葉が待っていて。
 マリみてから飛び込んできた志摩子さんの姿が、私の言葉と溶け合って、
 次々と文字となって私の前に広がっていきました。
 それは志摩子さんであって志摩子さんでなく、だからこそ志摩子さんでした。
 由乃さんの考えていることが、どんどんとわかっていきました。
 由乃さんが考えて考えて考え続けて、その考えを私も一緒になって考え続けて。
 その考えの過程がいつのまにか私の中に入ってきて。
 私はとても心地よくて、ただただ真っ白になって由乃さんを書き続けていました。
 楽しくて嬉しくて、そして悲しみさえも受け取っていて、いつのまにか感想が2つ書けてしまいました。
 私には、もう二度とあのふたつの感想は書けません。
 あのとき感じた、私に流れ込んできたマリみてからの贈り物のぬくもりは、
 あの日あの時間に書いたからこそ、その温かみを宿していられる。
 私が感想を書くということには、そういう部分もあります。
 私は、昨日一昨日と、確かにマリみてと共にありました。
 そして今夜は皆様に、その温かみがどんなものであったのかをお話しようと思っています。
 うまくお話出来ることを、願っています。
 
 さて、それでは長い前置きとなりましたけれど、マリみて第13話についてのお話をさせて頂きましょう。
 まずは、これを始めに言っておく必要があるでしょう。
 私は、このお話がマリみて全13話中でもっとも涙が止まらなくなるお話なのだと思いました。
 勿論、それは私個人が泣けるということですけれど。
 とにかく、とてもとても涙が出てきて堪りませんでした。
 美しくて、暖かくて、冷たくて、そしてなによりも優しくて。
 私がマリみてを通してずっと受け止め続け、そしてそれがなんであるかを考えてきた「優しさ」のカタチ。
 優しさとは、なんなのでしょうか。
 今までの感想の中で何度も問い続けたこの問いに、
 私は何度も答えを出し、そしてその答えにさらに問いを加味してきました。
 そしてその度に、何度でも、そして何回も何重にも私は優しさというものを目の当たりにしました。
 
 祐巳さんと祥子様のデート。
 これはもうまさに、優しさのカタチそのものでした。
 祐巳さんと祥子様が、試行錯誤と苦悩と絶望を繰り返しながら、
 求めていたのが、お互いへの優しさをどう示せばよいのかということ。
 祐巳さんは祥子様に、自分の想いをすべて話す、という手法を開発してそれを自分のものとしました。
 祥子様に優しさを求められ、祐巳さんも祥子様の求めに応じたい、
 ただただそれだけが延々と繰り返されることの憂鬱を、すっかりと払拭した祐巳さん。
 いいえ、それは払拭なのではありません。
 その憂鬱があっても、それでも必ずその憂鬱が、
 祥子様に相応しい優しさを祐巳さんに与えてくれることを、祐巳さんは信じることができたのです。
 そして、祥子様へ示す優しさの追求こそが祥子様との未来を創ると確信したのです。
 いいえ。
 信じるとか、そういうことなのでは無いのかもしれません。
 信じる前に、既にそれはもう祐巳さんにとって自明の事になっていたのでしょう。
 祐巳さんは、ただぱっとなにもかも飛び越えて、その未来の訪れを確信できるようになった訳では無い。
 なにかを突き詰めて考えて考えて、頭の中でひとつひとつの問いに答えを出して。
 その導き出された答え、それを徹底的にさらに見つめ続けて、
 そうしてあるとき、初めてその答えが自分の中に入ってくる瞬間。
 私は、これをこそ信仰の始まりというものだと思います。
 宗教、などという言葉は不要です。
 或いは、本当はそれをこそ宗教というのかもしれません。
 
 祐巳さんにとって自明となった、祥子様への優しさのカタチ。
 自分の想いを、そのことが祥子様にどのような影響を与えるかを考える前に、
 まず祥子様にその想いを素直に示す事。
 祥子様は、とてもとても強くて、そして美しい人。
 そしてその美しさは際立ち過ぎる余り、周囲との隔絶を建設しています。
 祥子様はその隔絶を崩して、まわりの人達と接したいとだから願っています。
 祐巳さんがそのような祥子様を考慮して、祥子様に良かれと思って色々考えること自体、
 それは祥子様と祐巳さんの間に壁を作ってしまっているのです。
 特別扱いされたくない、だけど自分は特別なのは事実なのだから、
 だから自分のほうからみんなの方に歩いていこう。
 ですから、祥子様は幼いときから周囲と同じになろうと努力してきたのです。
 祥子様にとっては、自分と祐巳さんが違うのは、だからまずそれが大前提としてあって、
 そこから、では違うのなら同じになりましょう、となり、
 自分から祐巳さんに近づいていこうとして、だから祐巳さんには祐巳さんがどういうものであるのかを、
 たくさんたくさん祥子様に示して欲しかったのですね。
 それなのに、祐巳さんはずっと祥子様は特別なのだから特別な人として扱わなくちゃと考えていたのです。
 祥子様が祐巳さんに近づこうとすれば近づこうとするほど、祐巳さんは祥子様から距離をとってしまう。
 やがて祐巳さんは、そのような自分と祥子様の関係に気が付きます。
 祥子様が、自分と同じ事をしたいのだ、ということが段々とわかってきます。
 けれど。
 そうして段々とわかって、そしていよいよすべてが理解できてそしてひとつの答えが出たとき、
 その答えが正しいのだとわかっていても、
 でもそれは祐巳さんが最初の一歩を踏み出せるかどうかとは、根本的に繋がりが無い事なのです。
 いえ、繋がりはあるのです。
 でも、その祐巳さんが導き出した答えは、決してく祐巳さんの背中を押してはくれなかったのです。
 例えるならばある物とある物が糸で繋がっているときは、
 どんなに一方の物を押しても、その動きの力はもう一方の方には伝わらないという感じでしょうか。
 祐巳さんは頭で祥子様へ示す優しさのカタチを捉えていながら、
 それなのにその優しさを発露させることがどうしても出来なかったのです。
 でも。
 それでも祐巳さんは祥子様を見つめ続けていて、
 そうしていつのまにか、その優しさのカタチが自明の事となっていたのです。
 それは、祐巳さんが祥子様を思い続けることをやめなかったから、なのだと思います。
 悩んでも苦しんでも、ときには挫けて諦めても、
 それでも常に自らの視線が帰る先に祥子様の姿があったから。
 祥子様への優しさを忘れることを、絶対にしなかったから。
 祐巳さんはついに、祥子様へ自らの優しさを示すことに成功したのです。
 
 みなひとりひとりが優しさを忘れずに。
 誰ひとりとして、相手の存在を忘れない。
 誰かを愛し、そのことを感じ続けることが、常に優しさを堅持していられるのです。
 そしてその優しさの中に生きていられる幸せ。
 志摩子さんは聖様に救われます。
 それは多くの優しさの中で培われてきた救済。
 自分ひとりが、自分だけで生きていく、そういう道を選ばなかったからこその幸福。
 由乃さんは言います。
 令ちゃんが全部悪い、と。
 誰も悪くないから、誰ひとりとして優しさを無くさないから、敢えていうこの言葉の意味、わかるでしょうか。
 優しいのが当たり前なのだから、だからもっともっと優しくならなくちゃ駄目なのよ、ということ。、
 優しさの追求をやめない、絶対にこれが優しさの終わりだよ、という事を起こさないために、
 由乃さんは令様にこの言葉を投げつけたのです。
 そして、その優しさの要求の先に確かに令様が居る。
 その令様が在ることへの最高の感謝の言葉でもあるのです。
 
 志摩子さんを待っていた聖様。
 聖様に抱きついた志摩子さんに、私はかけられる言葉がありません。
 ただもう良かったね、本当に良かったですねと心の中で囁くしかありません。
 聖様がこの先ずっと志摩子さんの前に広がっている事の、最高の歓び。
 なんという優しさでしょうか。
 志摩子さんはなにも悩んでいません。
 悩むことが無いほどに世界は歴然として其処にあって、
 なにも疑うことが出来ない景色に志摩子さんは居ます。
 でもその疑いを越えてその景色をただ受け入れる事が出来ない。
 静様の事を好きだと言った志摩子さんは、それでも静様から手を離してしまいます。
 静様の優しさ。
 それはもの凄く嬉しくて、そしてそれはあの歌によってすべて表わされている。
 マリア様が貴方にすべてをくださっているのよ、と世界の素晴らしさを示す歌声は、
 しかしそれは同時に例えようもない重さを以て志摩子さんに迫るのです。
 こんなにも素晴らしく美しい世界の中にありながら、それなのにその美しさを自分の瞳の中に宿せない。
 重いです。重くて、押し潰されそうなのだと思います。
 静様の優しさは、その素晴らしい残酷さを以て、志摩子さんに迫っています。
 志摩子さんの言葉を使い志摩子さんとひとつになることで、
 静様は志摩子さんがこの世界の中で孤独であることを強く示します。
 自分と静様は同じなんだという事に歓びの涙を流したその瞳で、
 今度は世界の中に静様を失い自分が孤独であることを思い知らされてしまいます。
 静様の優しさを受け入れてしまう事で、自分が自分だけで立たなければいけないという恐怖。
 仮面を被って必死に自分は独りであるという素顔を隠していたのに、
 その素顔を強引に表に出されてしまう。
 それはとても残酷な事です。
 仮面と素顔があって、初めてそこに志摩子さんが居るという証しを得られるのに、
 それらの関係をすべて暴かれてしまっては、志摩子さんはこの重圧の世界で生きてはいけないのです。
 素顔を隠すことで素顔を強調し、その素顔を引き立てるためにさらに仮面を強調し、
 そしてそれらはすべてそういう素顔と仮面が志摩子さんにあることを示す志摩子さんの魂の叫び。
 それなのに、その仕組みにすべて言葉を与えて表に出してしまえば、
 その仕組みになんの意味も無くなってしまうのです。
 呆然とするしか無くなった志摩子さんが其処にいます。
 そして。
 そんな志摩子さんを聖様はお救いになられるのです。
 志摩子さんの仮面と素顔の意味を理解し、なにが志摩子さんの重圧となっているのか。
  重圧に喘ぐ志摩子さんに、さらに重圧を加えたところでなんの意味もない。
 世界の中にただ志摩子さんだけが居ること、それを強調してもそれは残酷なことです。
 自分が独りであること、その自覚は非常に大切なことですけれど、
 しかしそれだけで生きることなど、できはしません。
 誰も居ない世界になど、生きる場所は無い。
 聖様は、志摩子さんを抱きしめながらこう言います。
 『私なら、ここに居るよ』、と。
 この言葉がどれほど大切なことか、私にはよくわかります。
 
 由乃さんが令様に言えた、令ちゃんが全部悪い、という言葉。
 志摩子さんが聖様に言われた、私なら、ここに居るよ、という言葉。
 自分の外側に誰かが居ることの確信。
 世界の中で、自分は確かに孤独なのだけれど、ひとつではないと感じられる歓び。
 その歓びを感じられて、初めて由乃さんは令様と共に歩くことが出来、
 そして志摩子さんの瞳に美しい世界の景色が返り咲くことが出来たのです。
 それが甘えなのだとしても、良いのでは無いでしょうか。
 私は思います。
 誰かを無視してひとりで生きる事に、なんの歓びがあるのでしょうか、と。
 甘えることすら出来ない自分に、なんの価値があるのでしょうか、と。
 自分が自分の足で歩かなければならない、という事実は確かに大切です。
 でも、だからといってそれは誰かと共に歩いていくということを否定することにはなりません。
 逆にいえば、それを否定することは誰かと生きていくことから逃げている、とも言えます。
 そして、ほんとうはその事から逃げることなど出来ないのです。
 由乃さんも志摩子さんも、そして祐巳さんもそれを強く感じています。
 誰かに甘えること、それ自体がその人と生きていくことなのだということ。
 優しさとは、どう甘えどう甘えて貰えるか、という方法の形でもあります。
 素直に甘えてみたり、少し見栄を張ってみてから甘えてみたり、
 甘えることなんて絶対にできないと言いながら、そうやって「駄々」をこねて見せる甘え。
 その甘えの連続が、祐巳さん達を包み、そして祐巳さん達をしっかりと前に進ませているのです。
 誰かに甘えられる状況を自分で作り出せるその事自体が、自立への第一歩。
 祐巳さんは祥子様に甘えることができました。
 由乃さんも令様に、志摩子さんも聖様に甘えています。
 祐巳さんは祥子様を、由乃さんは令様を、志摩子さんは聖様を決して無視しないがゆえに出来る甘え。
 ときには無視したいときもありました。いっぱいいっぱいありました。
 祥子様に、令様に、聖様に甘えることが怖くてずっと気を張ってみたりもした。
 でもそれは「駄々」であったことに気づくのです。
 いいえ。
 その駄々があってこそ、甘えることができるようになったのです。
 気を張ったり、あるいは気を遣ってみたりして、常に相手の事を考えながら、
 そうした試行錯誤に試行錯誤を重ねるうちに、ふっとそれが実感として自分の中に入ってくる日。
 ああ、こういう風に甘えればいいんだ、そしてそう甘えて良いんだ、という実感の体得。
 そしてその実感は、自分の歩いている世界、そして進む道の行く末をなによりも強く与えてくれます。
 甘えても、いいんです。そうなのです。
 今日も、明日も、明後日も、ずっとずっとお姉様を愛し続けていけるのです。
 そして、愛し続けていても良いのです。
 祐巳さんのラストのセリフが、なによりもそのことを強く顕わしています。
 其処に確かに祥子様の姿を感じることが出来るからこそ、祐巳さんには未来があるのです。
 
 
 
 
 とてもとても、優しいお話。
 甘くて、美しくて、そしてとても優しくて。
 辛いことも、苦しい事もたくさんあります。
 でもその辛さや苦しさは、決してそれだけであるものでは無いのです。
 自分がこの世界に紛れの無い独りだ、という事実は決して変わり得ぬものであっても、
 だからといってひとりで生きていかなくてはいけないなんてことは無いのです。
 いつも愛する誰かと一緒。
 そうして、その愛している人にどういう優しさを与え、そして優しさを与えて貰うのか、
 祐巳さん達はひたすらその事を考え感じながら生きています。
 そして、優しさというものが大変に難しくて重いことを知っていきます。
 自分の言動が相手に多大な影響を及ぼす事。
 ときには相手の心に踏みいってしまうこともあります。
 その事を恐れ、そして自分だけの殻に閉じこもってしまうこともあります。
 でも、それでも良いのです。
 マリア様が私達を見ていてくださるのですから。
 私達は、お互いに張り合って、そして甘えあっても良いのですから。
 マリア様が見ていてくださるから私達は生きられて、
 そして私達が生きているからこそ、マリア様は私達を見ていてくださいます。
 自分では絶対にどうにもすることも出来ない他人の姿に、
 そして逃げることの叶わないこのあまりにも歴然とした世界にマリア様をみる。
 私達はどうすることも出来ない他人や世界の中で生きているからこそ孤独。
 なにも自分とは決してひとつになることが出来ないからこそ、独り。
 でも。
 そのような他人や世界の姿があるからこそ、私達は私達を感じられます。
 自分とはひとつにならないからこそ、そこに自分以外のものが居るということでひとりじゃないのです。
 その自分以外の何者すべてにマリア様はおわします。
 私の思い通りにならなく、私と溶け合ってひとつになってはしまわないでいてくれる、絶対の存在。
 他人が、世界が、そしてマリア様が私達をみているのです。
 私には、そのなによりも重くて、そしてなによりも優しい眼差しを無視することだけは出来ません。
 祐巳さん、由乃さん、志摩子さんの表情、
 お姉様達のひとつひとつの表情をみるのが、なによりも嬉しくてたまりません。
 嬉しいから、それを無視することなどできなくて、ずっとずっと見つめてしまうのです。
 
 最終回の静様のアヴェマリア。
 そしてそれを聴いているときの志摩子さんの表情は、色々な意味で私の宝物です。
 静様の歓びの歌を改めて、今聴いています。
 涙が止まりません。
 嗚呼、なんて世界は美しいのでしょう、と。
 そして。
 志摩子さんのあの瞳を忘れることはできません。
 あの瞳があるからこそ、私は静様の歌の素晴らしさと、そして残酷さを感じられるのですから。
 世界は美しくて、そして残酷。
 
 そしてそして。
 
 祐巳さんの『お休みなさい、お姉様・・・・・・また、明日』の言葉は、
 「マリア様がみてる」全13話の結末として、もっとも嬉しい言葉なのです。
 その言葉が最後に出てこれた歓び、
 これを以て見事にマリみての優しさはその姿を至高と、そして永遠のものとしたのです。
 
 
 
 
 世界は美しくて残酷で、そしてなによりも優しい。
 
 
 
 
 終わりです。マリみてはこれで終わりなのです。
 なにも決して終わったりしない、という結末をなによりも示した終わり。
 泣きながら、この甘美さに酔いながら、
 その酔いを永遠に続けても良い優しさに震えながら、
 しめやかに、そして厳かにこの感想を完結させて頂きます。
 
 アニメ全13話各話後に書いた私の全13作の感想をお読み続けてくださった方々に、
 厚く御礼申し上げます。
 
 
 
 
 そして、
 アニメ「マリア様がみてる」に感謝を捧げます。
 永遠をありがとう。
 
 そして。
 私もその永遠の探求を、ずっとずっと続けていきたいと思います。
 優しさは終わらない、と言うために。
 
 
 
 
 
 
 それでは、ごきげんよう、マリア様。
 
 ・・・・また、明日。
 
 
 
 
 
 〜 マリア様がみてる第一期 了 〜
 
 

                          ◆ 『』内文章、アニメ「マリア様がみてる」より引用 ◆

 
 
 

-- 040402 --                    

 

         

                         ■■マリア様はみてる、貴方を  2 ■■

     
 

 

 
 
 
 
 『人生は青信号。焼き餅焼いて立ち止まってなんかいられないわ。
  GoGo由乃。行け行け由乃。』
 

                                〜 最終話の由乃さんのセリフより〜

 
 
 
 
 綺麗な青空が広がっている。
 どこまでも透き通る無意識に、興醒めしてしまう。
 激しくせき立てる動悸を弾ませ、カラダを調律する。
 落ち着けばそれで、変わらない自分が居る。
 問えば頭の中に響く答えが心地良くて、それだけで私は此処に立っていられる。
 始めの一歩をいとも簡単に踏み出せる。
 答えなんて簡単に出せるもの。
 出せる答えの数が多すぎて戸惑う事はあっても、答えが出ないなんて事は無い。
 そしてその中から選ぶ答えは、いつもと同じ答えだけ。
 なにも迷うことなどない。
 私には、令ちゃんだけじゃないのよ。
 私らしく、由乃らしく。
 誰よりもなによりも、私は私をよく知っている。
 私が、令ちゃんと離れて歩いていることを。
 離れて歩いていても、令ちゃんが必ず其処に居る事を知っているから、
 私は令ちゃんを見ないで歩ける。
 それは、令ちゃんを信頼しているから、とかじゃない。
 令ちゃんなんて、知らないんだから。
 ちさとさんと爽やかに笑い合ってる令ちゃんになんて、私は構っている暇は無いんだから。
 空がこんなに青いのだから。
 令ちゃんの事を無視できたら、それで合格。
 それで令ちゃんも帰ってくるのだし。
 
 令ちゃんから離れなくちゃ。
 私は私の足でしっかりと立たなくちゃ。
 それが私。
 私は私なのだから。
 ほら、空はあんなに青くて、綺麗で、そしてマリア様の歌声が街に満ちていて。
 私はそれだけで嬉しくて、だからその嬉しさを自分の鼓動に乗せて始めの一歩を踏みだした。
 ほらね、令ちゃん。私は独りで歩けるのだから。
 楽しくて、なんだか嬉しくて、独りで歩き回って綺麗な時間を私は過ごした。
 立ち止まってなんて居られない。
 私は私の道を往く。
 休みの日に、なにも考えずにただ買い物の出来る幸せ。
 私の動くようになったこのカラダの素晴らしさを甘受して、
 私は今を確かに生きている。
 
 
 『空はこんなに青いのに、私ったらなにしてるんだろう』
 
 
 
 なにを、考えているというのだろう。
 私は、令ちゃんの事を考えているというのに。
 私は、いつのまにか私の事を考えていた。
 私が私の事を考える事がどういうことか、もう充分わかっているくせに。
 動かなかった私のカラダに、何度問いかけをして、何度同じ答えを出したと思っているのだろう。
 私のこのカラダが此処にただ在ることそれ自体になんて、なんの意味も無い。
 私が私を楽しむことの意味を、なによりも強く知っていたはずなのに。
 あの空の意味を、知らないとは言わせない。
 私は、誰?
 私は、私じゃない。
 私は、令ちゃんと一緒に歩いている者。
 いいえ。
 令ちゃんと歩く道そのものが私なんだ。
 それを忘れたとは、言わせない。
 ちさとさんと歩く令ちゃんの事が気にならないわけがない。
 そして、それを気にしてはいけないという心懸けにしがみつくことが、馬鹿な事だってわかっている。
 令ちゃんを無視して、なにが独りなのか。
 私は令ちゃんと離れて歩いているだけで、決して違う道を歩いている訳じゃない。
 令ちゃんを無視する事に、それのどこに私の答えがあるというの?
 私が強がることに、なんの意味があるというの?
 私が令ちゃんに依存している?
 馬鹿、言わないで。
 それを依存している、というのなら私はそれでいいわ。
 依存することすらできない私という存在に、私はなんの興味も無い。
 令ちゃんを無視して、それでさも清らかに独りで生きることのどこに私のカラダが立っている場所があるの?
 令ちゃんを捨て、目の前の欲求を捨て、逃げて、それは一体なんなの。
 そんなの、全然意味がない。
 全然、強く無い!
 
 私が悪い。
 全部私が悪い。
 由乃の馬鹿!
 焼き餅を焼くことの意味を掴んで、ちゃんと使うことが出来ていない私が悪い。
 令ちゃんに焼き餅を焼くことを恐れているだけ。
 令ちゃんのことばかり考える自分を正当化しようとしている自分を、まだ肯定出来ていない。
 ただ令ちゃんの事で一杯になってしまう自分が怖くて、そこから逃げ出して。
 何とでも言えることだけれど、でもそこで何を言うのかが大事なのに。
 言葉こそ、力。
 令ちゃんと離ればなれになることが怖いのか、それとも令ちゃんとひとつになることが怖いのか。
 そのいずれから逃げているのかを決めるのは、私の言葉。
 そしてその相反するかに見えるふたつのことをひとつにしてみせるのも、言葉。
 それが私の答えだったはず。
 令ちゃんとひとつになりたくて、だから離ればなれになりたい。
 私は令ちゃんと離れて歩くことで令ちゃんのぬくもりを確信し、
 それでいながら令ちゃんとひとつになって、この世界から令ちゃんを奪い取りたいとも願っている。
 私は、その令ちゃんの世界の内からの喪失を恐れ、
 そしてそれでもその恐れから逃げずにちゃんと前を見つめている。
 そういうことで、いいのだと思う。
 なにから逃げて、なにと向き合っているのか。
 私は令ちゃんから逃げて、令ちゃんと向き合い、
 そして令ちゃんから逃げ出さずに、令ちゃんと離れて歩きたい。
 その自分の願いをすっかり忘れきって独りで歩く私は、ただの大馬鹿だったの。
 なによ、気取って服なんか買っちゃって。
 全然、全然楽しく無いのに。
 楽しくないのに、それなのに懸命に楽しもうとして、ほんと馬鹿みたい。
 独りで歩かなきゃ駄目なのよ、という言葉に踊らされて、
 自分が持っている答えの見方を忘れちゃうなんて。
 
 
 
 
 
 私は、しっかりと立ち止まった。
 
 
 
 
 
 青い信号が赤になる前に、自分の足で歩みを止めた。
 よし、大丈夫。
 私は、此処に居るわ。
 其処にはっきりと令ちゃんが居るのだから。
 私の外側に、誰よりも愛しい令ちゃんが居るのを、私はしっかりと確かめたから。
 私は、焼き餅を焼くことをいったんやめた。
 そして。
 赤い信号が青になる前に、私は再び新しく焼き餅を焼き直した。
 「令ちゃん」という言葉を使わないで、令ちゃんの存在を感じるために。
 言葉は、力。
 言えばそれがカタチとなり、世界の色を書き換えてしまう。
 令ちゃんの姿を言葉に換えて、ただそれにすがりつくだけなのならば、それは確かに意味が無い。
 だけど、それは令ちゃんの姿を見ないでもいい、ということとは絶対に違うのよ。
 祐巳さんや祥子様達と過ごしたひとときの楽しさ。
 私はあのとき決して令ちゃんの事を忘れた訳じゃない。
 私は令ちゃんという言葉を、私の力の及ばない場所に引き離した。
 私と離れたその令ちゃんのカタチは、だからより激しく鮮明に私の目の前に立っていてくれたの。
 私の意志の通りにできない、私の力の及ばないヌケガラとしての確固とした令ちゃんが其処にいる。
 私とは絶対に溶け合わない、そして絶対に私に奪われない令ちゃん。
 そう。
 私は、また元に戻れたのよ。
 あのみんなで食べたケーキの美味しかったこと・・・・。
 私を包む広い広い空の下の中で、みんなが其処に確かに居ることを感じながら、
 そしてその中のひとりに令ちゃんのカタチもあって。
 私は、ひとりじゃないけど、独りなんだって思ったわ。
 でも独りだからこそ、私は世界の中にみんなの笑顔を感じる事が出来て。
 そして。
 その笑顔を感じることが出来るからこそ、私はひとりじゃないのだって。
 とてもとても、楽しかったわ、令ちゃん。
 
 
 
 
 だから。
 
 
 
 『令ちゃんが悪い。令ちゃんが一番悪い!』
 
 
 
 
 令ちゃんが悪い。
 全部を令ちゃんのせいにして、令ちゃんを責めて、そして私の全力の焼き餅をぶつける。
 私は令ちゃんが悪いと言い、令ちゃんはごめんと私に謝る。それでいいのよ。
 私達はお互いの存在を認められるのだから。
 令ちゃんは全然悪くなくて、だから令ちゃんが悪いと言える。
 令ちゃんの内心なんか全然知らないよ、って感じで本気で怒って、
 そうやって怒れるということは、其処に確かに令ちゃんが居るって事のなによりの証しで。
 私には令ちゃんの事が全然わからなくて、私の思い通りにならなくて、
 だから、だから私とは絶対にひとつになって世界から消え去ることの無い令ちゃんが居る。
 令ちゃんは、其処に居る。
 
 令ちゃんの、馬鹿。
 
 そう言えるのが、私の一番の幸せなのかもしれないわ。
 そして。
 私は令ちゃんが全然悪くないことを知っていて、
 令ちゃんがなにを考えているのかも全部知っていて、
 そしてなによりも誰よりも令ちゃんとひとつになりたくて。
 でも私は、その願いは絶対に言葉にはしないの。
 言葉にしたらそれはカタチになって、そして私はそれにすがりついてしまうから。
 でも、それはその願いを私の中から消し去っても良いという事では、絶対無いのよ。
 令ちゃんに甘えられない私の心なんて、絶対に絶対に間違ってる。
 令ちゃんを無視しなくたって、私はちゃんと独りで歩ける。
 いいえ、違うわ。
 令ちゃんをしっかりと見つめてるからこそ、私はちゃんと独りで歩けるのよ。
 令ちゃんに怒って、甘えて、一緒に笑って。
 散々令ちゃんを罵って、そうして令ちゃんに抱きしめられて。
 令ちゃんの胸の中に、そのまま吸い込まれることが出来ない哀しさは、
 それと引き替えに令ちゃんに抱きしめて貰える歓びを私に与えてくれる。
 その歓びは、その哀しさが無ければ絶対に有り得ない。
 どっちか一方なんて、なんの意味も無いのよ。
 離れている令ちゃんに涙を流して、そして私とはひとつにならないでいてくれる令ちゃんに涙する。
 私はだから、ずっと貴方と一緒に歩いていくつもりよ、令ちゃん。
 
 GoGo由乃、行け行け由乃。
 そして愛しているわ、令ちゃん。
 
 
 
 一番一番欲しかった令ちゃんの焼いたケーキと、
 令ちゃんと共に歩けるこの道と、
 そしてなによりも私に令ちゃんをお与えくださったマリア様に、
 深く深く感謝の念を捧げます。
 アーメン。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ◆◆
 
 参考文献 : 紅い瞳マリア様と戦うと云ふ事
 
 
 
 
 

                              ・・・以下、第三部に続く

 
 

                          ◆ 『』内文章、アニメ「マリア様がみてる」より引用 ◆

 
 
 

-- 040401 --                    

 

         

                           ■■マリア様はみてる、貴方を■■

     
 

 

 
 
 
 
 『隠さなくてはならない。けれど一方では見つけて欲しいと願ってる。誰かにわかってほしいと。』
 

                                  〜 最終話の静様のセリフより〜

 
 
 
 
 恐ろしい空が、優しく待ちかまえている。
 私はただなにもできずに、それでいてなにかをしながらその空を見つめている。
 優しさの漂うささやかな光の内に居ること。
 それがどんなことなのか、考えることなんてできない。
 私の靴先から溶け出していく不安を、ただ体の中に押しとどめておくので精一杯。
 悲しいんです。
 なにも悲しいと思えない自分を感じるときに。
 なにもかも全部、悲しみに投げ出してしまえない自分が、其処に居る。
 さざめく陽光を言葉に換えて、懸命に見えない悲しみを隠してみても、
 なぜ自分がそれを隠すのか、それがわからない悲しみは止まらない。
 止まらなくて、止められなくて、それなのに涙はずっとずっと止まったまま。
 私は泣きたいんです。
 でも、泣けない。
 泣くことができなくて、そしてなによりも泣きたくなくて。
 心をさらけ出すことの恐ろしさを肌に浸み込ませて、靴先をきつく綴じ合わせる。
 恐ろしいのじゃない。
 私はただ、なにもわからなくて。
 わからないのに、なにかを少しづつ積み重ねていって。
 その積み重なっていくものに、私は自分を押し潰させていた。
 全部、全部私が悪いんです。
 そう考えながら、邪な懲罰を与え続けて、そしてそれと引き替えに私が此処に居て良い理由を得ていた。
 私はそのことは、どうでも良いと思っている。
 それが冒涜であろうとなんであろうと。
 だって、私にはそれが冒涜であるのかどうかすらわからないのだから。
 
 なにかを見つめ続けているのか、なにも見ていないのか。
 それすら、私にはわからなくて。
 わからない、ということもわからなくて。
 私のこの瞳に映っていく景色は、なんなのだろう。
 私は、お姉様が好き。
 好きだから、幸せ。
 でも、私にはその自分で築いた言葉の意味がわからない。
 もしお姉様が好きでそれが幸せの証しなのだとしたら、この瞳の中の世界はなんだというのだろう。
 静様は、いったいどういうモノなのだろう。
 わからないんです、私は。
 もし、ロサギガンティアが存在しなかったら。
 私の瞳に映る美しい景色はどうなってしまうというのだろうか。
 お姉様が居なければ、私にとってこの空の優しさというのは、やっぱりとても恐ろしいものなのだろう。
 そして、お姉様が居るこの世界はつまり、お姉様の世界でしか無いのだろう。
 私はだから、たぶんなにも見ていない。
 私の瞳の中に広がるのはただ、永遠の闇だけ。
 風に身を委ね、髪を靡かせ青空の優しさを感じながら、この瞳にはなにも・・・なにも無いのです。
 嗚呼・・・・静様の歌が聞えます・・・。
 でも・・・でも・・・静様の歌の優しさが・・・私には見えません・・・。
 こんなに・・こんなにも優しくて優しくて泣いてしまえる歌なのに・・・・。
 どんなに目を凝らしても、どこまでも広がる絶望が静様の向う側で嗤っています。
 
 私の小さな心の隅まで照らしてくださった静様の優しさ。
 簡単なものを難しいと言い、難しいものを簡単という言葉に換え続けていた私の心を、
 とても当たり前のように私に見せてくれた。
 隠さなくてはならない。けれど一方では見つけて欲しいと願ってる。
 誰かにわかってほしいと願い、そしてだからこそ隠したくて堪らない私の心。
 その仮面を被り続ける事が拠り所で、そしてそれでも素顔を誰かにわかって欲しくて堪らなくて。
 その様はあまりに浅ましくて、だから私は仮面を被ってその醜き素顔を覆い隠す。
 私は、私の醜さを許すことはできなかった。
 醜い自分を誰かに見せるなんて、もっともっと嫌だった。
 泣いている姿を見せるなど・・・。
 強がりなんかじゃないわ。
 私はただ、泣いている自分の姿を見られるのが堪らなく怖かっただけ。
 自分がなにもわからない、ということがなによりも恐ろしかった。
 泣くことも、泣けないことも、みんなみんなただ怖かった。
 その怖さが私の瞳の中を涙で埋め、そしてその涙はこの瞳を堰き止めた。
 だから、なにも見えない。
 なにもかもを感じていながら、なにもかもが見えない。
 わからないんです、なにもかも。
 わからないから、なにもかもを言葉に換えようとした。
 言葉に換えて、なにも無いはずの景色にカタチを与えようとしたのです。
 でも、出来上がり始めたその世界のカタチはあまりにもいびつで、そしてなによりも醜かったんです。
 私の中の醜さがすべて溶け出した、おぞましい光景。
 私は真面目で賢くて、優等生、なのだそうです。
 私は、もはやそれを笑う事ができません。
 私にはもはや、それは恐ろしいみなさんからの嘲笑としてしか受け取れません。
 なにが賢いというのでしょう。
 すべてを言葉に換えて、きっちりとおぞましく描ききった淫らな絵が描けることがそんなに賢いのですか?
 私は、なにもわからないんです。
 私にはこの目の前に歴然としてあるものがわからなくて、
 だから必死に偽物の世界を造り上げようとしているだけなのに。
 アヴェマリアの重さを靴先で踏みしめた大地のぬくもりと共に確かに感じていながら、
 ただのひとつもその素晴らしさを言葉に換える事さえも出来ていない私の、どこが優等生なのですか。
 私が唯一出来ることの言葉の羅列なんて、ほんとうになんの意味があるというのでしょう。
 嗚呼、ほら、空はあんなに私を嗤って・・・・・
 
 
 
 
 私は、だから空を無視している。
 私はだから、そんないやらしい空に縛られたくはなかった。
 私のいやらしさをすべて吸い込んで目一杯膨れあがった淫靡な世界になんか。
 あの空が嫌い。そして私の心も大嫌いです。
 私は空に見られたくなくて、私からも逃げ出そうとした。
 けれど逃げ出すことなど出来ないから、だから私は私の言葉で私のカラダを包み、そして仮面を被った。
 そして世界に言葉をかけて造り替え、そして世界にも仮面を被せた。
 だから、なにも見えない。
 なにも見えていないのに真摯に真っ直ぐに瞳を凝らし、それを真面目だと言われました。
 だから、私はそんな事を言う人達からは離れていきました。
 人を外側だけで判断するだなんて。
 入れ物を見て、中身までわかった気になるなんて。
 あの空を見て、私がわかるなんて。
 嘘、嘘、嘘です。
 でも、静様は全部わかっていました。
 私が描いた空が、私の中の色を使って描かれていたことを。
 そして。
 私がただなにもできずに、それでいてなにかをしながらその空を見つめているということが、
 それが同時にその空が私に対してもとてもたくさんのことを為していっている、ということを。
 たとえ私にはあの空が見えていなくても、空があると私が感じている限りそれは私に影響を与え続ける。
 と同時に、たとえ私が私の姿を空の下から見失ったとしても、私は世界に私の色を描き加え続ける。
 私はどうしたらいいのか、ほんとうにわからなくなってしまいました。
 わかっていたことだったんです。
 私が此処に居るということがどういうことかを。
 なによりも強く強くこの世界の存在を感じているから、私が此処に居るということを。
 そして私が此処に居るということを感じてしまえばしまうほど、この世界が無くなることもないということも。
 どんなに無視しても、逃れられないということを知っていたのだからわかっていて当然の事なのです。
 私は、全部を切り離して考えたかった。
 入れ物と、その中身とを別々に。
 でも、それは違ったんです。
 私が居るから世界がある、でも世界があるから私が居る。
 私は、ほんとうにどうしようもなくなりました。
 私が居て、だから世界もあるのに、なのにまだそれがどういうことなのかわからない。
 すべてがあまりにもはっきりしているのに、
 静様は私の愚かな仮面と素顔をすべて見せてくださいましたのに、
 それなのに・・・私は・・・・・私の瞳には・・・なにも・・・なにも映らないんです・・・!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 お姉様・・・・お姉様!?
 
 
 
 
 
 
 
 『どうして・・・・お姉様・・・私・・・!』
 お姉様に会いたくて会いたくて・・・。
 一瞬前まで、お姉様の姿なんて私の中に無かったのに・・・なのに・・なのに!
 もう、お姉様の元に倒れ込むしか無かった。
 私にはもう、止められなかった。
 絶対に絶対に、そして止めたくはなかった。
 気づけば涙が溢れて、私のカラダと一緒にお姉様に向かって走り出していたのです。
 誰も居ないとずっと昔思っていて、或るときからは其処には誰かだけが在って、
 それなのに今、あの誰も居なくて誰かしか無いはずの空っぽの薔薇の館にお姉様が・・・。
 私・・・私はもうなにも考えられずにお姉様に飛び込んだ。
 想いをすべて吐き出して、泣きました。
 ぜんぶ、ぜんぶを私の中から懸命に絞り出して必死になって泣いたのです。
 取り乱した醜さも、そして今まで仮面を被っていた浅ましさへの羞恥さえも頭の中から消え去って。
 いいえ。
 醜さや、浅ましさ、そういう事に対する私の悲しみさえもすべてお姉様にお見せしたのです。
 恥ずかしかった。でも、その恥ずかしさと共に在り続けた悲しみを全部投げ出したのです。
 ほんとうに、全部・・・・。
 私のカラダの事も、セカイの事も、全部全部涙で示して。
 私が愛して憎んで羨んで求めて悲しんだ事のすべてを、お姉様に。
 誰にも言えなかった、言わなかった悲しみをお姉様に。
 
 この世界が全部お姉様のものだとしたら。
 私はそれでいいのだと、初めて思いました。
 だって、私にはもうわかっていることがあるのですから。
 私が居るから世界がある、でも世界があるから私が居る。
 お姉様が居るから私が居る、でも私が居るからお姉様も居る。
 私がどんなに世界を蔑ろにしていても、私の中身は外に溶け出していて、
 そしてまたお姉様の中身もこの空の下にずっと広がっていっている。
 お姉様が世界を作っているのだとしても、お姉様が世界の持ち主なのだとしても、
 私もまた絶対にこの世界に一色を描き込んでいるのです。
 それは、ただそれだけじゃ私にとってはただの言葉にしか過ぎなかった。
 でも、でも。
 お姉様に抱かれて、私はわかってしまったのです。
 嗚呼、お姉様は空の中で私をいつも見守っていてくださるのだって。
 そして私の瞳の中に残影を示すその美しい世界の景色もまた、私の外側で輝いていて。
 マリア様が、私をみていてくださいます。
 私の瞳の中には、確かに、確かにお姉様と、涙が止まらないほどに美しい世界の姿があったのです。
 マリア様が、空の上で微笑んでいらっしゃいます。
 私の邪な絵と言葉では決して描くことも綴ることも出来ない、お姉様とあの空のぬくもり。
 私とは決してひとつにならないで、絶対に其処に居続ける純然たる存在。
 すべてがマリア様の下に広がっています。
 私はひとつだけど、独りじゃない。
 そして本当はひとつじゃなくて、独りなんです。
 私は世界を私にすることは出来なく、そしてだからこそ独り。
 でも独りだからこそ、だから其処に誰かが居る。
 世界が在って、そして・・・・お姉様が居る。
 お姉様・・・。
 
 
 『でも、その一歩が踏み出せないんです』
 
 
 お姉様は居なくなってしまう。
 お姉様が居なくなれば、この美しい世界もまた醜い私の色だけに染まってしまう。
 けれどお姉様の色は、絶対にこの空の下から消えることは本当は無い。
 マリア様が空の上で私達を見ていてくださる限り。
 でも。
 それがわかっても、どんなに泣いてみても、私の背中にはずっしりとずっと消えない重みがある。
 どうしてもおろしてしまうことのできないモノ。
 私が今まで歩いてきた道の呪い。
 私は、私を先に進ませる力を持っていないのです。
 持っていない、と言いたくて言いたくて仕方がない呪いに取憑かれているのです。
 本当に持っていないのかどうか、それを一番一番隠したくて。
 だからお姉様。
 私の事を甘やかさないで。
 私は甘えているだけなんだ、って言ってください。
 マリア様の御名の下に私を叱ってください。
 叱って励まして、そんな事を求める私をこそさらに強く前に押してください。
 それが最高の甘えなのだという恥を、私はそれでも我慢して言います。
 ・・・お姉様、まだ私お別れしたくない。
 そうしてお姉様は、私の背中をそっと、そしてなによりも強い力で押してくれました。
 お姉様と出逢えた春が、また来ると・・・。
 春の来ない冬は無い。
 お姉様と共に私がその瞳に取り戻した世界の中に、新しい色彩を見つける春。
 それは、マリア様に祝福された美しい色彩。
 その祝福があることを教えてくれたのがお姉様。
 だから、お姉様に空の下で逢えないときなど、もう二度と無いんです。
 お姉様の色彩が、この空に刻まれ続けていることを、私は知っているのですから。
 そして。
 私は愛するお姉様を、変わらずに、
 そしてたくさんの変化を新しい出逢いから受け取りながら愛していきす。
 
 
 
 『もうすぐ春が来るよ。』
 『春が来たら変わるでしょうか。』
 『うん。桜が咲く。新しい出逢いがある。』
 『私がお姉様と出逢えた春・・・』
 『そう・・・私が志摩子と出逢えた春。』
 
 
 
 ◆◆
 
 志摩子の顔が消えない。
 消える事の無いその顔が、私の瞳を打ち続ける。
 打って叩いて斬りつけて、そして止まらない涙の入り口を制作する。
 静の歌を凝視する志摩子の顔が、忘れられない。
 無表情のうちに絶望の喘ぎをあげながら、それでも自分が叫んでいる事に気づかない。
 その瞳の先に、ただただ冷血な映像を浸み込ませて呆然とする。
 悲しみで口元を歪める事に気づく前に、世界に魅入ってしまう。
 どうしようもない、ただ絶望と形容するには悲し過ぎる呆然が、そこに。
 志摩子の瞳を見たか?
 なにかを見ていながら、決して見ることの出来ぬ恐怖を。
 志摩子の瞳に映った、極彩色の闇。
 それは儚さを裏に縫い付けた潔癖なまでの暗闇。
 今、此処で死んでも、この星の最後の日に死んでも同じ事というあの瞳。
 この先が見えない、のではない。
 先も今もかつて歩んだ道さえも見えない志摩子の瞳。
 なにも見え無いながら、それなのになにかが重く重く志摩子の背にのしかかる。
 自分が此処に居て生きている事、この世界の中で生きているということの重圧。
 その見えない重圧が加われば加わるほど、志摩子の瞳は恐ろしい存在となっていく。
 静の歌を聴いて、風に身を任せ髪を靡かせているときの志摩子の顔を見たか?
 世界の歓びを聴かされ、マリア様の視線を背に受ける志摩子の瞳を見たか?
 世界はたとえようもなく美しくて、そしてたとえようもなく重い。
 そして、優しくてだからこそ恐ろしい。
 私はあのたった数分間の映像を、忘れることが出来ない。
 
 そしてそんな志摩子さんを、薔薇の館で聖様が待っていたのです・・・・
 
 
 

                              ・・・以下、第二部に続く

 
 

                          ◆ 『』内文章、アニメ「マリア様がみてる」より引用 ◆

 
 
 
 


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